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津波てんでんこ

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  世の中には「哀しい教訓」や「非情な教え」というものがある。ギルガメッシュ、イソップ物語、今昔物語、説教節、アンデルセン(58夜)の童話、シャンソン、数々の事件や出来事、戦争の記録、ブルース、ドキュメンタリー映像などには、そうした教訓や教えが少なくない。トルストイ(580夜)の『戦争と平和』やシオラン(23夜)のアフォリズムなど、ほとんどがそういう文章で埋まっている。悲劇と教訓はどんなときにもメビウスの帯でできているのだ。
 今夜の言葉の「津波てんでんこ」もそのひとつだ。ただし、これは歌でも文学でもない。昔からの東北三陸に伝わってきた方言による村の教えであって、人々の記憶に残った言葉だ。思わず発せられ、じりじりと広まっていった。
 「てんでんこ」は「てんでに」とか「てんでんばらばら」のこと、めいめい勝手という意味である。それが津波に結びついたのだ。明治29年(1896)6月15日の明治三陸大津波の悲劇的惨状ののち、いつしか三陸海岸に暮らす町民や村民の口の端にのぼってきた言葉だった。津波が来たら、たとえ家族であれ恋人どうしであれ、てんでに高い方をめがけて逃げるしかないという哀しい教訓だ。

 

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明治三陸津波の死者数と波高
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 本書の著者の一族も明治の津波で9人が溺死した。著者が生まれ育った岩手県大船渡の綾里地区石浜という集落は、全住民187人のうち141人が海に巻き込まれて死んだ。その後、綾里全域の死者1350人にあたる人口が回復するのに20年以上がかかった。
 そういう村に育った著者は、昭和8年(1933)3月3日の昭和三陸津波のときには小学校3年生になっていた。津波が来るぞという叫び声がしたとき、父親は末っ子の著者の手も引かずに自分だけ一目散に逃げた。父が子を捨てて逃げたのだ。そのことをのちのちになっても詰(なじ)る母親に、父親は何度も声を荒げ、「なに! 津波はてんでんこだ」とムキになって抗弁していたという。昭和三陸津波は明治三陸津波から数えてわずか37年後のことである。
 それからも大小の津波は何度も三陸を襲ってきた。三陸沖や宮城沖の海底のアスペリティという構造が地震と津波を周期的に用意する。1978年の宮城県沖地震、1994年の三陸はるか沖地震が大きいところだったが、1960年には遠くチリ沖地震津波も押し寄せた。
 それでも東北三陸の人々の日々からは、やっと悪夢が遠ざかっていたようだ。ところが、悲劇はそういうときにいっさいの予告もなく悪魔のように現れる。3・11の恐るべき脅威はあっというまに町と家と店を壊し、村々を蹂躙し、港を荒らし船を巻き込んで、互いに見知った2万人近くの東北の人々を水没させていった。最初の波源域はたちまち500キロに及んだ。
 なんたる出来事か。いまだにぼくはこれらに呼応する言葉をもちえない。しかたなく、たくさんの写真や映像でその愕然たる光景を見ているのだが、椅子にうずくまるばかり。
 なかでもふと目にした「週刊現代」4月23日号の鍵井靖章さんの海底写真には、震撼とさせられた。あれから何度も見つめてきた。いまなお大船渡と宮古の海底に沈んだままの「生活」が写っている。

 

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海中に外れた鍵盤が漂う(大船渡湾内)
アップライトピアノの鍵盤が鈍く光る。音楽好きの家のものか、
あるいは被害にあった学校のものなのか、ピアノのすぐ近くには
シンバルのセットが泥に埋もれていた[週刊現代 4.23]

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逆さまに浮かぶソファ(大船渡市・赤崎)
平屋建てとおぼしき家屋の中、リビングの天井に
白のソファが浮いていた。天井の隙間から陽の光が差し込み、
白い壁に反射する。モダンな部屋だったのだろうか[週刊現代 4.23]


 著者の山下文夫さんは、1990年の岩手県田老町で開かれた第1回「全国沿岸市町村津波サミット」で特別講演をしたとき、自身の体験をまじえて「津波てんでんこ」を訴えたそうだ。
 津波が来たらすぐ逃げなさい。そこでは生きるための非情というものがどうしても必要だ。そうでなければ家族もろともに死ぬ。津波とはそういうものなのだ。逃げ遅れて、それでいいのか。みんなが死んだら、いったい津波の苦悩を誰が伝えるのか。

 本書はそのように実感した山下さんが力をふりしぼって、悲痛な津波日本の実態をあからさまに報告した一書である。話題になった。この講演とその後の執筆本によって「津波てんでんこ」は被災者の土地を越えても知られるようになった。
 読んでいてさすがに心が痛むけれど、しかしながらその訴えにもかかわらず、事態はさらに悪態をついたのだ。3・11の大津波はたった数十分で「てんでんこな人々」をすら殺戮していった。

 それでも数日前に朝日新聞(4月17日)を見ていたら、78年前の「津波てんでんこ」の教訓を思い出して、命からがら高台に走った88歳の鈴木ノブさんと75歳の山崎巖さんの体験談が紹介されていた。
 その記事を読んでも感じたが、逃げきれた人たちの心情はかなり複雑だ。想像するにあまりあるものがある。家を失い、家族を奪われ、町と生活をもろとも喪失したという悲嘆がある。これからどのように暮らしていくのかという暗澹もある。しかしそこには「自分たちだけが助かった」という呆然自失もまじっていることが伝わってくるのである。
 なぜ助かったのに、苦しまなければならないのだろうか。
 3・11から数週間をへて、ぼくにもやっと見えてきたことがあった。家族や知人や先生を失い、けれども幸い生き残った被災者たちは、自分たちのことをとてもじゃないが、“勝ち組”などとは思えない。さらには援助物資や義援金で助けられたいとも、かぎらない。
 さまざまなインタビューを聞いたり、ドキュメンタリーを見たり、慌ただしく綴られたであろう手記を読んだりしてみると、被災者たちの多くの人々が「亡くした者たち」のことを、海鳴りに向かって深く想っていることが伝わってくる。避難所にいる生存者たちは、決して多弁を弄しはしないけれど、亡くなった同胞者たちの無念や残念をはらすための宿命や役目のようなものも負ったのだ。

 

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[朝日新聞 4.17]
88歳の鈴木ノブさんと75歳の山崎巖さんの体験談

 

 これをいったい何と言ったらいいのだろうかとずっと思ってきた。すぐさまいくつもの仏教用語が去来したけれど、しばらくするとそれらの言葉はどこかへ行った。
 薄墨で「南無阿弥陀仏」と書いたり、ちょっぴり短歌も詠んだが、こういうことではとうてい近づけない。そんなとき、ぼくはふらふらと、「海底に眠る能」のようなものが眼に浮かんできた。そして、ああ、これは「東北の複式夢幻能」だと思ったのだ。まるで土方巽(976夜)の「東北歌舞伎」のことを思い出すかのように。
 以下のことは、安田登『ワキから見る能世界』(1176夜)にも綴っておいたことである。シテに対するワキの重要性についてのことだ。あらためてかいつまむ。

 

 

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水没した民家から海面を見る(大船渡市・赤崎)
大船渡の対岸にある赤崎町の浜辺に水没する民家。近隣住民の
志田ソヨさん(73歳)は「ここはまだ水道も電気も通じなぐて。
大船渡の灯りを見てあっちは電気あるんだなぁって」と[週刊現代 4.23]



 能とは何かといえば、一言でいえば、人生の哀感や深淵にどのように出会うかというテーマとメソッドで仕上げられてきたものである。そう断言できる。
 何もないシンプルな舞台に、様式を背負った能楽師が囃子方や後見とともに静かに出てきて、一曲を見せる。謡(うたい)と所作(フリ)とお囃子がついている。登場人物は主にシテとワキでできていて、ほかにワキツレなども加わる。そしてすべてが終わって、舞台にはまた元通りに何もなくなっていく。
 シテが主人公で、ワキは「脇」であって「分」である。シテとワキでは衣裳もちがうしセリフもちがうが、そこにはもっと決定的なちがいがある。シテの大半が面(おもて・能面)をつけているのに対して、ワキは直面(ひためん)なのである。シテは幽明をさまよっているけれど、ワキは現実にいる人間なのだ。
 そのワキはこの世にいて、いまはたいていは「諸国一見の僧」として旅をしている。ワキはしばしば荒涼たる土地や荒れ寺にさしかかる。その場所は必ずや「過去」をもっている。やがてさるほどに、ワキはそこにあらわれたシテらしき人物に会う。男のこともあれば女のこともある。何か納得のいかない過去の出来事をもっているらしい。
 何度か話を交わすうちにシテは消え、ふたたび橋懸かりからあらわれたときは、その過去の渦中の人物になっている。
 ここからが複式夢幻能の独特のクライマックスになるのだが、ここでシテはかつての日々の想念と妄想に立ち返って、緩やかに、また激しい所作をして、最後には移り舞をする。ワキはこれをただじっと端座して見守っているだけである。
 こうしてふと気がつくとシテの姿が見えなくなっていて、夜が白んでみるとあとはもとの草茫々の土地ばかり。ワキも静かに退場していく。複式能の大半、『井筒』も『野宮』も『定家』も『敦盛』も『清経』も、みんなこうなっている。
 この複式夢幻能において、シテは幽明にさまよう者である。シテはもちろんそのことには気がつかない。ワキは何をしていたのかといえば、何もしていない。ただ問い、ただ見守るだけなのだ。
 ワキは現実の人間なのに無力なのである。だいたいシテには若い女も老人も設定されているのだが、ワキには少年も女性も老人もない。具体的な人生もない。つまりは無格であり、無力なのだ。
 しかし無力ではあるようだが、ワキはシテのためにいる。シテの言葉や仕草を感じているうちに、シテが抱えもった「負の大きさ」に気づくのだ。つまりはワキは、実はシテの無念や残念をはらすためにいるわけなのだ。そればかりか、ワキはシテたちの思いを遂げさせるためにいるのであって、ワキこそがこの一曲の能をつくりあげたのである。物語を再生したのはワキだったのだ。

 ぼくはこういうことを思い出しながら、東北大震災においては、ひょっとすると異界や幽明に行ってしまった者の魂を鎮め、その無念と残念をはらすワキとはほかならぬ生き残った被災者たちであり、残された者たちの役割であろうことを、うっすらと直観するようになった。ちなみに「はらす」は「祓う」ということである。
 もともとワキは「消極の者」である。現実(ウツツ)に放り出された者である。しかしもしもワキがいなければ、そこには先行する者たちの喪失(ウツ)を贖い、鎮魂し、哀しい過去とありのままの現在とをつなげて、新たに物語を再生する「積極」は生まれない。
 このことをこのたびの東北の一斉の災害にあてはめてみると、私たち日本人はこの壮大な「負」をどのように引き取るかということが問われていたということなのだ。その「負」を複式の物語として再生できる者は誰なのかということなのだ。ぼくはだんだんそんなふうに思うようになっていた。

 

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押し入れに残る布団(大船渡市・赤崎)
押し入れの中には、水没したいまも押し入れダンスがあり、
上段には敷き布団や掛け布団が折りたたまれた状態のまま、
漂っていた[週刊現代 4.23]

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防波堤下に沈む80点の答案(宮古湾・鍬ヶ崎)
宮古湾の防波堤は無惨にも寸断されて水没し、
残った一部が氷山の頂のように水面から顔を出している。
その防波堤下に漂っていたドリルの答案。
持ち主は無事だろうか[週刊現代 4.23]

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港の底のアナログテレビ(北三陸・八木港)
八戸に近い八木港の底に沈んだブラウン管のテレビ。
4月1日、パナソニックの完全子会社となった三洋電機のマークが見える。
港内はまだ濁りが強く、海水に油も混じる[週刊現代 4.23]

 

 本書には著者の生まれ育った三陸の津波のことが報告されているばかりなのではない。明治三陸大津波(1896)、関東大震災津波(1923)、昭和三陸津波(1933)、東南海地震津波(1944)、南海地震津波(1946)、昭和チリ津波(1960)、日本海中部地震津波(1983)、北海道南西沖地震津波(1993)のことも、事細かに綴られている。
 つまり本書は「津波てんでんこ」がオールジャパンのどこにでもあてはまる「負の教訓」だということを訴えている。海洋列島の日本は、縄文海進このかた、その全域が津波の共有を迫られたのだ。詳しいことは本書や河田恵昭の『津波災害』(岩波新書)で補われたい。
 また本書は、「津波てんでんこ」になれない者たちの多くが、家の物や金をもって逃げようとした人のことごとくが悲劇にあったことを、くりかえし指摘する。あたかも「津波は物欲と金欲に容赦ない」とさえ訴えるのだ。
 ところで岩手日報のウェブニュースを見ていたら、山下さんが陸前高田の県立病院入院中に津波にあい、首まで水に浸かりながらも奇跡的に助かっていたことが報じられていた。87歳になられたそうだ。

 

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「全世界の英知を結集し、津波防災の検証をしてほしい」
と訴える山下さん(花巻市東和町の県立東和病院)
[岩手日報Webnews 3.17]

 

 さて、ひるがえって、われわれの国はこの数十年間にわたって「勝ち組」になろうとしてしてばかりいた。どこをもって「勝ち」とするかはさだかではないはずなのに、そのインディケータはグローバル・スタンダードな基準で測ることにした。
 しかし、そんなことは日本総体の平均統計のマジックでもあって、むろん少数の「勝ち組」もいるにはいるが、実は大半は「負け」なのである。
 一方、明治このかた、日本は東京一極集中に向かい、敗戦後は基地や原発を各地に散らばせて高度成長をはかってきた。むろんこのことに矛盾と葛藤を感じてきた者たちはあったけれど、そのたびに右肩上がりのための材料と指数と資金が示されて、地方はまるく収められてきた。

 いま、政府も自治体も民間も、次の東北復興に向かって組み立てを試みるようになっている。そこには、瓦礫の処理、住宅の確保、町の再建、港の復活、原発不安の除去、産業立地、雇用の創出、農地の回復など、ありとあらゆる再興措置が待っている。まずもっては費用の調達だ。その通りだろう。
 けれども、この復旧復興計画はこの数十年間におよぶオールジャパンの「負」と「過ち」と「過剰」を根底から組み立てなおすものでなければならないはずなのである。いや、もっと以前からの「過去」を複式能にしなければならないのかもしれない。
 東北があまりにも巨大な「負」を抱えたことはあきらかだ。瓦礫と化した一帯はことごとく「広域グラウンドゼロ」になってしまったのだ。しかしながら、その「負」は必ずしも3・11の巨大地震と大津波だけがおこしたものではないとも言わなければならない。
 すでに古代エミシの時代から朝廷や幕府の制圧と支配をへて、明治政府や軍国主義がもたらした「負」が、ここには連綿と受け継がれてきた。このことは、本書にも、また伊藤重道の『東北民衆の歴史』(無明舎出版)や武光誠(1157夜)の『古代東北まつろわぬ者の系譜』(毎日新聞社)などにも詳しい。
 そうだとすれば、東北復興は沖縄とも日本海の各地の「負」ともつながるべきなのである。全国の基地や原発とも連動すべきなのである。新たなシナリオは、日本が成長力を内外に響かせ、そのぶん過去を封印してきた経緯をふりかえり、そのバックミラーに映った光景を見つつ、物語の再編集や超編集に向かわなければならない。

 

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昭和天皇のスナップ(宮古湾・鍬ヶ崎)
宮古港に沈んだ木に挟まれていた。
欄外には「ありし日の昭和天皇」「鹿児島国体で」とある。
丁寧にビニールパウチされていた[週刊現代 4.23]

 


東北学/忘れられた東北

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 赤坂憲雄の東北学はディープである。軽々しいものがない。そう言ってまずければ、ラディカルで、かつきわめて丹念だ。
 ぼくが赤坂の著作を読み始めたのは、ごく初期の著作『異人論序説』(砂子屋書房1985→ちくま学芸文庫)や『排除の現象学』(洋泉社→ちくま学芸文庫)のころからだが、そのときからすでに赤坂は調査と思索と表現にまたがる独特のスタイルをもっていた。細部からしか全貌は立ち上がるまい、という頑固な方針だ。大いに共感した。
 ちなみに『境界の発生』(砂子屋書房→講談社学術文庫)はぼくが『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)を書くときに、『子守の唄の誕生』(講談社現代文庫)は『日本流』(ちくま学芸文庫)を書くときにずいぶん参考にした。
 だいたい赤坂には、自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」などと綴って“フィールドワーク”とルビを打ちたいというような、そういう感覚がある。会って話してみるとわかるが、シャイでもある。ぼくが最初に会ったのは恐山の取材のときだった。そのときも「できれば静かに東北を見てほしい」というような眼をしていた。
 本書のもとになった「忘れられた東北」と名付けられたフィールドワークとしての野良仕事は、もともとは山形を拠点として岩手・秋田の僻地にひたすらかかわっていくという2年にわたる旅にもとづいていた。歩き方はすこぶる宮本常一(239夜)っぽい。静かなのだ。
 むろんたんなる旅人の眼ではない。そこには、「日本」および「日本人」をまとめて記述しようとしてきた柳田国男(1144夜)このかたの「一つの国家観」に対する反発がある。既存の民俗学の見方に対する注文がある。その注文は静かではあるが、激越だ。「忘れられた東北」の旅が始まった動機にも、そこに貫かれていた思想も、柳田の『雪国の春』に向けた徹底した批判の眼にもとづいていた。

 柳田が東北をどのように見たのかというと、家の軒まで積もる東北の雪国のそこかしこに“稲作の民”のよろこびを見いだし、その経緯を昭和3年の『雪国の春』に書いた。柳田にとっては最果ての東北にも、南方からやってきた稲作日本人が北上して培った“瑞穂の国”があったという発見だったわけだ。
 しかし赤坂は「いや、ちょっと待ってほしい、それだけではヤマト王権が東北を支配した思想と同じままなのではないか」と思い続けてきたようだ。それは王化思想そのままの民俗学じゃないか。東北を“瑞穂の国”として十把一からげにしていいのかという思いだ。
 日本の民俗学の事情が疎い諸君のために言っておくと、柳田の民俗学は「一国民俗学」とも「常民民俗学」とも言われてきた。わかりやすくいえば稲作社会の生活と信仰と祭祀と言葉づかいの広範な調査研究と洞察と推理であり、それを通してコメの文化に育まれた日本人の精神構造を解読してきたというものだ。柳田のいう常民とは瑞穂の国を支える稲作民のことであり、その生活なのである。
 その成果は体系的ではないもののまことに夥しく、ほぼ日本列島各地の実情を網羅したとおぼしかった。日本人の忘れられた生活文化は柳田民俗学によって取り戻されたとも見えた。また柳田国男という存在も巨大で、人脈も広く、柳田の学問人生はそのまま日本の民俗学の方法論ともなったのである。
 とくにその出発点が明治43年刊行の『遠野物語』に始まっていたということは、それが佐々木喜善からの聞き書きにすぎなかったとはいえ、柳田こそは日本の辺境の理解者であり、東北の村落生活の底辺の発見者であるともくされることともなった。
 ぼくの読書体験でいっても、26歳から27歳にかけて折口信夫(143夜)にぞっこんになり、そのあとしばらくしてから柳田をぽつぽつ読み始めたのだが、そんな折口かぶれの眼で読んでも、初めて読みすすむ柳田の分析や推理にはずいぶん頷いてしまったものだ。
 しかしそのような柳田民俗学について、赤坂は『山の精神史・柳田国男の発生』(小学館ライブラリー)や『柳田国男の読み方』(ちくま新書)などで、柳田はあまりに「稲と常民と祖霊の三位一体をなす民俗学」で日本のすべてを解こうとしすぎたのではないかと述べ、その過誤をいくつもの記述の検討を通して解説してみせたのだ。
 こうして赤坂の東北フィールドワークは、しだいに柳田的なものではなくなっていった。宮本常一同様に、柳田的な常民のカテゴリーに入らない生活者を訪ね歩いたのだ。とくに東北である。
 だから、われわれは柳田の民俗学の射程に入らなかった東北を、赤坂憲雄から学ばなければならないのである。本書はそのような赤坂が試みた最初の東北論になっている。

 

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赤坂が東北で最初に訪ねた九戸郡木藤吾
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 赤坂が最初に東北に入ったのは、北上山地山麓の九戸(くのへ)群の木藤古(きとうご)という村だった。わずか9戸の集落だったというが、ヒエやアワをつくり、炭焼きで暮らしを立てていた。雑穀の民だ。
 このような雑穀の村が東北から消えていったのは、昔のことではない。ごくごく最近のこと、1960年代の高度経済成長期のあとからのことだ。東北は原発開発計画が俎上にのぼったころから、かつての東北を失っていったのだ。もしも東北を復旧するというなら、ほんとうはそこまでさかのぼることが復旧なのだろう。
 赤坂はその後も早池峰や男鹿半島や大湯や月山を訪ね、柳田的常民では東北が支えられてこなかったというエビデンスを収集していった。そこには沢内マタギ、木地屋、鉱山で働く者、サケを追う川の民など、とうてい常民とは呼べない者たちの姿があった。とりわけ赤坂の心を打ったのは「箕つくり」の民の実態だった。尾花沢近くの次年子(じねご)という村の実態だ。
 江戸時代の次年子には90数戸の家があり、そのほとんどが箕つくりをしていた。1万枚ほどの箕がつくられていた。「箕の定め」という文書ものこっていて、そこには、次年子は昔から田畑が少なく飯米にも不足するので、年貢上納のたしにもなる箕つくりに徹したい。ついては他村に出た者がこの技を広げたりしないように、それを守れぬ者には箕つくりをさせないという「悲しい決め事」が記されていた。
 次年子に箕つくりが伝えられたことについても、いくつかの伝承が残っていた。そのひとつに、秋田からお里という女がやってきて、村を開き、箕の作り方を伝えたのだという。それが大同2年(807)のことなのだ。東北にとって、この大同という時代は実はきわめて象徴的であり、忘れがたい時代なのだが、そのことはこのあとふれるとして、赤坂はこの箕を手にとりながら、東北日本と西南日本が別々の歴史をもってきたことを裏付けていく。
 東北の箕は「片口箕」で、西南の箕は「丸口箕」である。のみならず東北の片口箕は樹皮でつくるが、西南の箕は大半が竹製だ。のちに赤坂は『東西/南北考』(岩波新書)というユニークな一冊を上梓するのだが、そこにもイロリとカマド、両墓制、背負子(しょいこ・オイコ)と天秤棒の比較などとともに、箕のちがいをあげ、東西と南北を分ける生活文化の境界の重要性を多様に示している。

 

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東北地方で見られる樹皮を折り曲げて作られたカバ箕。
ヤマザクラの樹皮が多く使われた。

 

 さて、こうした赤坂の眼が東北に注がれるにあたっては、東北独特の歴史的な背景も見ておかなければならない。
 本書はそうした歴史をあまり追ってはいないのだが、それでも第5章「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」に扱われている話は、東北の歴史特色を憤然とあらわしている。
 いったい「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」とは何のことなのか。このおどろおどろしいヘッドラインは何をあらわしているのか。お里が大同2年に次年子に来たという話とは何の関係があるのか。
 まず大同であるが、これは延暦(782~805)に続く平城天皇から嵯峨天皇即位におよぶ806年から809年までの年号であるとともに、この年号には象徴的な歴史社会がこびりついていた。
 7世紀から8世紀にかけて、古代ヤマト朝廷は東北の「まつろわぬ民」を制圧するために何度にもわたって、蝦夷(エミシ)に攻撃を仕掛けていた。詳しい古代東北史のことは別に千夜千冊するが、東北に「道奥国」の名が付けられたのが斉明天皇の659年で、それが天武天皇976年までに「陸奥国」になった。これが「みちのく」の発生だ。
 ついで大宝律令・養老律令が制定されると、8世紀には陸奥鎮守将軍や按察使(あぜち)などが派遣されるようになった。このとき東北は律令の用語でいう「化外」「境外」「外蕃」とされた。ヤマト朝廷が辺境の東北経営に乗り出したわけである。
 しかし実際の事情はきわめて複雑で、蝦夷(=東北在住者)はいっこうに治まらない。巨勢麻呂や佐伯石湯らが次々に鎮東将軍や征蝦夷将軍として派遣され、大伴旅人や家持の一族までかりだされるのだが、それでもうまくいかない。
 宝亀8年(777)には蝦夷の連合軍が出羽国に押し入り、宝亀11年(780)には伊治のアザマロが反乱をおこし、東北が騒然となってきた。「まつろわぬ民」の動向だ。折からの道鏡の乱行で国政コントロールを欠いた光仁天皇とその側近は、とうていそういう東北にまで手がまわらない。
 そこに登場してきたのが勇猛なアテルイとその一党である。アテルイは胆沢(いざわ=現在の水沢市・胆沢郡・江刺郡)の豪族だったようで、延暦12年(793)には中央から派遣されてきた大伴弟麻呂の一軍と戦ってこれを破り、平安遷都の渦中の朝廷を大いに動揺させた。こうして桓武天皇期、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21年(802)に胆沢城を築き、ここでやっとアテルイの軍勢を蹴散らした。
 もっともアテルイが首を刎ねられたからといって、蝦夷の反乱は収まったわけではなかった。征夷将軍となった文室綿麻呂が事態を収拾する弘仁2年(811)まで、余波は続いた。これを総称して歴史家たちは「三十八年戦争」という。古代王権と辺境東北とのあいだの、38年にわたる「東北王化の戦争」だった。

 これでざっとしたことがわかっただろうが、「大同2年」とは、坂上田村麻呂がアテルイ(およびモレ)を捕まえ、さらに胆沢周辺から東北平定をめざしていた時期にあたる。
 もうひとつの「悪路王」とは、のちにアテルイのことを『吾妻鏡』がそのように呼んだことから発した俗称で、正確にはアテルイ=悪路王かどうかはわからないのだが、しかし、ヤマトの中央からみれば、アテルイこそは悪路を仕切る悪路王の一味の頭目だったのである。
 一ノ関近くの「達谷(たっこく)の窟(いわや)」に毘沙門堂がある。その縁起由来には、征夷大将軍坂上田村麻呂が達谷の窟にたてこもって抵抗する悪路王らの夷族をことごとく打ち破り、田村麻呂は多聞天の加護で蝦夷平定を果たしたことをよろこんで、ここに毘沙門堂を建立したと書いてある。
 この由来どおりだとすれば、もはや東北は9世紀において悪路王が破れた地で、中央政府の管理がゆきとどいた地だとみなされたのだった。

 

 

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毘沙門堂がある「達谷の窟」周辺
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 以上が「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」の意味だ。実は柳田の『雪国の春』にも「坂上田村麻呂が悪路王を征討したいわゆる大同二年頃」とあって、田村麻呂と悪路王の戦いがこのちの伝承になっていたことを心に刻んでいた。
 赤坂はこの話にこそ、「闇に散った負の悪路王」と「光に包まれた正の田村麻呂」という対比が象徴されていると述べ、さらにここから「大同」という年号が“東北の負の歴史”の象徴にもなっていったのではないかと話を広げていった。
 それは、またしても柳田が『遠野物語』に書いていたことでもあるのだが、遠野には大同という家名をもつ家が多く、その家々では正月の門松を片方だけ地に伏せて注連縄をわたすらしいとあったことである。
 遠野の草分けの家は、きっと大同年間の田村麻呂の制圧の名残りで発祥していたのであろう。そればかりか早池峰神社や六角牛山善応寺なども大同年間の建立の言い伝えをもっていることからすると、この「大同」という響きには東北そのものの「負」が刻印されている。お里が次年子に来たのが大同2年だというのも、王化された東北がこの年から始まったという“時合わせ”だったのであろう。
 赤坂はこれらのことをまとめて、こんなふうに書いている。

 

 大同という問題を、丹念に、可能なかぎりの限界まで読み抜いてゆくことが、東北の常民たちの精神史に孕みこまれた結ぼれをひもとくための、ある重要なカギのひとになるだろうという予感が、わたしにはある。大同はヤマト王権による東北侵略の、固有に徴(しるし)づけられた年号である。

 (中略)ヤマト王権による蝦夷征討の象徴的な歴史語りは、この年号抜きには完結しないともいえるだろうか。東北の生きられた歴史は、大同を起点として紡がれる不幸を背負わされてきた。東北の常民の多くが、古代蝦夷の末裔であったとすれば、大同という、ヤマト王権による侵略と征服の年号を起点に歴史がひらかれることは、大同以前のみずからの歴史を闇に葬ることをこそ意味したはずだ。

 
 ところで、本書にもごく一節だけが引用されているのだが、宮沢賢治(800夜)の『春と修羅』に『原体剣舞連」(はらたいけんばいれん)という詩が入っている。
 「こんや異装のげん月のした 鶏(とり)の黒尾を頭巾にかざり 片刃の太刀をひらめかす 原体村の舞手(をどりこ)たちよ」で始まる詩で、勇壮であるが、どこか闇と闘っているように綴られている。原体は江刺郡田原村の原体(はらたい)という部落のことで、剣舞連はそこに伝わる剣舞のことをいう。その中ほどに「達谷の悪路王」が出てくる。

 

むかし達谷(たった)の悪路王
まつくらくらの二里の洞(ほら)
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ


 この詩は「消えてあとない天のがはら 打つも果てるもひとつのいのち」と結んでいて、大同2年の背後の闇に散った「いのち」の伝承が告げられる。
 賢治がどのように東北を見ていたかということは、何か適切な本を選んでいずれ書いてみたい。いまは赤坂の野良仕事は賢治の思想や表現ともつながっていることを指摘するにとどめよう。
 こうして赤坂は柳田の陰に隠れた「もうひとつの東北」を探しながら、その後は「いくつもの日本」が語れるような、そういう日本民俗学が必要だというところへ向かっていったのだ。
 その赤坂がいま、3・11以降の東北復興のために設けられた「東日本大震災復興構想会議」のメンバーになっている。今日の政府や政権にかかわって、一人の研究者が何かをもたらすのは至難の業ではあるが、せめてこれを機会に多くの日本人が赤坂の「東北学」や「いくつもの日本」を感じてほしいと思うばかりだ。ぼくも、東北復興には「失われたジャパン・マザーの発動」が必要になるだろうと思っている。

 

 

【参考情報】

 

(1)赤坂憲雄は1953年生まれ。1992年以来山形の東北芸術工科大学で教え、東北文化研究センターを設立して所長となり、「東北学」を創刊して、広く東北研究のリーダーをつとめた。今年から学習院大学文学部の日本語日本文学科の教授に移った。福島県立博物館の館長も務める。

 

(2)赤坂の著書は、上記にあげたもの以外は次の通り。『王と天皇』(ちくま学芸文庫)、『象徴天皇という物語』(ちくま学芸文庫)、『結社と王権』(講談社学術文庫)、『漂泊の精神史』(小学館ライブラリー)、『遠野/物語考』(ちくま学芸文庫)、『物語からの風』(五柳書院)、『東北学へ』1・2・3(作品社)、『山野河海まんだら』(筑摩書房)、『海の精神史』(小学館)、『一国民俗学を越えて』(五柳書院)、『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)など。編著だが、『東北ルネサンス 日本を開くたるの七つの対話』(小学館文庫)が、今後の東北の参考になる。

 

 

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蝦夷

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 オサマ・ビンラディンがアメリカ軍によって爆殺された。イスラマバード郊外の隠れ家が襲われたという。まだ何も詳細が伝わっていないけれど、これでアルカイダが壊滅するとは思えない。何人・何百人・何千人のビンラディンが密かに継承されていくだろう。
 それはそれ、このところのぼくは頻りに東北を思っている。陸奥を想い、日本を惟(おも)い、母国を念(おも)う。その歴史と現在をあれこれ胸中に感じている日々が続いている。どうしたら自分がそのような思念や思惟を継続できるのか、深められるのか、あるいは囚われた思考から脱することができるのか。それとも東北や日本と刺し違えることができるのか。
 さまざまな気分で、ちょっとずつ何かを試みている。高橋秀元ともそのことを「北方文化」として交わし、岩手県の達増拓也知事とも復興対象だけではない「東北」を交わしている。


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 そんななか、この1カ月ほどのあいだ、多くの連中に“あること”を次々に訊いてみて、驚いた。がっかりもした。エミシという呼称が「東北の民々」のことであることを、大半が知らなかったのだ。「蝦夷」はエゾのことで、それは北海道アイヌのことだろうとほとんどが思いこんでいた。
 そうではない。これでは「東北」はなかなか見えてこない。詳しいことはあとで説明するが、北海道アイヌが蝦夷と呼ばれたこともあるものの、蝦夷はエミシ、エミス、エビス、またエゾなどと訓まれ、多くが東北民のことをさしていた。越蝦夷(こしえみし)、出羽蝦夷(でわえみし)、東蝦夷(あずまえみし)、都加留蝦夷(つがるえみし)という言葉も古い。大宝令には「夷人雑類」の項目がある。「えみし」という呼称や綴りも、漢字では「夷」「狄」「蝦夷」「毛人」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。
 むろん、東北民が自分たちのことをこのように自称したわけではない。好んでもいない。ヤマト朝廷によってそのように名付けられたのだ。賤視蔑称だった。このことを象徴する意味ありげな歴史記事がある。二つ、あげておく。
 ひとつは『日本書紀』景行天皇40年の7月の条で、景行天皇がヤマトタケルに向かって蝦夷について次のように説明しているくだりだ。

 其の東夷の中に、蝦夷は是尤も強は。男女交じ居て、父子別(わきため)なし。冬は穴に宿(い)ね、夏は巣に住む。毛を衣(き)、血を飲み、昆弟(えおと)相疑う。山に登ること飛禽(とぶとり)の如く、草を行くこと走獣(はしるしし)の如し。恩を承けては忘れ、怨(あた)を見ては必ず報ゆ。

 ずいぶんひどい批評だが、この文章自体は『史記』『礼記』『文選』などの漢籍を借りているところもあるので、実際に蝦夷をこのように形容していたかどうかは画然とはしない。
 もうひとつは『日本書紀』斉明天皇5年(659)の条だ。「道奥の蝦夷(えみし)男女二人を以て、唐の天子に示(み)せ奉る」というふうにある。
 道奥は「みちのおく」と訓み、このあとの天武朝で「陸奥」(みちのく)というふうに改められた。当時の東北のことである。天子は唐の高宗のことをさす。記事は、遣唐使が蝦夷二人を同行させて、洛陽で高宗にこの二人をご覧にいれたのだと言っている。
 『日本書紀』斉明天皇5年の条にはこれだけが書いてあるのだが、このときのことを、遣唐使船に乗っていた伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)と難波吉士男人(なにわのきしおひと)らが航海日誌につけていた。それらによると、洛陽でこんな高宗の下問があって、使者が次のように答えたということになっている。

 

天子 これらの蝦夷の国は何(いずれ)の方にあるぞや。

使者 国は東北(うしとら)にあり。

天子 蝦夷は幾種ぞや。

使者 類(たぐい)三種あり。遠き者を都加留(つかる)と名(なづ)け、次の者を麁蝦夷(あらえびす)と名け、近き者をば熟蝦夷(にぎえびす)と名く。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国(やまとのくに)の朝(みかど)に入り貢(たてまつ)る。

天子 その国に五穀ありや。

使者 なし。肉を食ひて存活(わたら)ふ。

天子 国に屋舎(やかず)ありや。

使者 なし。深山の中にして、樹の本(もと)に止住(す)む。

天子 朕(われ)、蝦夷の身面(むくろかお)の異なるを見て、極理(きわまり)て喜び怪(あやし)む。

 

 まさに古代蝦夷の異様な姿を言いたいほうだいに伝えている。その蝦夷は北が都加留(つがる)蝦夷で、その下が麁蝦夷(あらえびす)、もう少し下が熟蝦夷(にぎえびす)になっているという。『日本書紀』は、このうちの熟蝦夷(にぎえびす)の二人が中国まで連れていかれたというのだ。熟蝦夷はおそらくは岩手県南部か宮城県北部あたりの蝦夷であったのだろう。
 古代ヤマト朝廷がどのように蝦夷の地を分国的に見ていたのかは、このような記録以外にあまり正確な記述がないのではっきりしないのだが、いずれにしても蝦夷が当時の東北民を賤視蔑称していた呼び名であったことは、はっきりしている。しかもこのような見方は古代を通じ、さらには中世・近世にまで及んだ。なぜ、そんなふうになったのか。「東北」を思うには、ここから視座を構えておかなくてはならない。

 そこで今夜は、そのような古代東北の日本列島ならびに日本人における位置と役割と意義と、日本中央が「蝦夷としての東北」をどのように扱ってきたのか、東北民はそれに対してどのような対抗を見せたのか、総じて古代東北とは日本の何であったのか、そのあたりの相貌を急いでふりえっておくことにした。いや、ビンラディンのこととつなげて何かを語りたいわけではない。
 思い返してみると、ぼくが東北を意識するようになったのは高橋富雄の『辺境』(1979・教育社歴史新書)を読んだころからだった。凄い本だった。この本には「もう一つの日本史」とサブタイトルがついていて、「あずま歌・みちのく歌」の意味、大化改新以前の東国観念のこと、「東の鄙・奥の鄙」の背景、そして最後に日本国家論の原点としてエミシ論がなくてはならないことが綴られていた。
 ぼくはそのころ、日本が東国と西国に分かれて発達していたということを知らなかった(網野史学も知っちゃいなかった)。のみならず、蝦夷が「東国・ひな・あずま・みちのく・蝦夷・日高見・日の本」などと多様に呼ばれてきたことも知らなかった。

 その後、気になって『遠野物語』やアラハバキ伝承を綴った『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)や、福士幸次郎が鉄の東北と朝鮮半島を結びつけた『原日本考』を読み耽り、また菅江真澄や吉田松陰の東北旅行記を渉猟した。そこには宮沢賢治(900夜)や太宰治(507夜)や土方巽(976夜)や寺山修司(413夜)にひそむ謎が、所狭しとびっしり埋まっていた。
 しかしエミシのことはいっこうにわからない。そのうち田中勝也のサンカ中心の『エミシ研究』(新泉社)や礫川全次が解説した菊地山哉の『蝦夷とアイヌ』(批評社)などで、ぼくのエミシ観はいささか右往左往させられたのだが、やがて佐々木高明さんの『縄文文化と日本人』(1986・小学館)や中西進(522夜)さんがまとめた『エミシとは何か』(1993・角川選書)あたりで、軌道が調整できた。
 また、上田正昭・田辺昭三・上垣外憲一・千田稔(881夜)らがあげる縄文文化やアムール北方文化圏との関係、粛慎(みしはせ)や靺鞨(まかつ)や朝鮮半島文化との関係などを知って、やっと大局の見地からの眺望が見えてきた。これで、ふたたび高橋富雄さんの『蝦夷』『古代蝦夷を考える』(吉川弘文館)などに目を通せるようになったのである。
 こうしてそのあとは、今夜のテキストにした高橋崇さんの本書『蝦夷』や『蝦夷の末裔』(中公新書)、最もこの領域を深く研究した工藤雅樹さんの『古代蝦夷の東北学』『蝦夷と東北古代史』『古代蝦夷』(吉川弘文館)を読めるようになっていた。途中に、赤坂憲雄(1412夜)の東北学との出会いがあったことについては、前夜にしるした。
 けれども、実はこれらはエミシについての“共読”ができるようになったというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。たとえば大伴家持がなぜ王朝政府から奥州に派遣されて失意のうちに亡くなっていったのかというような、井上ひさし(975夜)がどうして吉里吉里国の独立を執拗に描いたのかというような、そういうようなことはまだ感得していない。
 それでも今夜はこれまで“共読”してきたものに、さらに武光誠(1157夜)の『古代東北・まつろわぬ者の系譜』(毎日新聞社)、熊谷公男の『蝦夷の地と古代国家』(山川出版社)、河西英通の『東北』『続・東北』(中公新書)、さらには関裕二(1209夜)の『消えた蝦夷(えみし)たちの謎』(ポプラ社)なども参照して、以下、ざっと古代東北でのアテルイ登場までの出来事を略述することにする。とうていうまくはまとまらないだろうが、おおむね次のようになっていたとおぼしい。どこか家持、どこか土方巽、どこかアテルイ、どこかビンラディン‥‥。

 弥生時代以降の3世紀から6世紀にかけて、日本列島の北には注目すべきことが連続しておこっていた。
 当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であり、亀ケ岡式土器などを使っていた縄文的生活である。それが3世紀くらいにはこの地に稲作が北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いた。「北の稲」の発端だ。青森県田舎館の垂柳(たれやなぎ)遺跡や弘前の砂沢遺跡の水田跡などがそれを物語る。ところがその後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減する。なぜなのか。
 一方、この時期は北海道から続縄文文化が南下した。3世紀に北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた後北C2・D式土器が津軽海峡を渡り、ブラキストン線を越えて東北北部に降りてきたのだ。この続縄文文化は狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色とするのだが、これらの前期遺物が能代市寒川Ⅱ遺跡、盛岡市永福寺山遺跡に、後期遺物が青森県七戸森が沢遺跡、宮城県大崎市木戸裏遺跡、横手市田久保遺跡などに見られるのである。
 他方、それとともに東北には南方のヤマト文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。和習というべきか。岩手県奥州市には角塚古墳などの前方後円墳もあり、宮城県北部の大崎平野あたりまでが古墳文化地域になっていった。永福寺山遺跡にも土師器や鉄器が見られる。
 加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していったのである。
 前夜に赤坂憲雄によって批判された柳田国男(1144夜)が『雪国の春』で東北の稲作のよろこびをかみしめたことを紹介したが、以上のような動向からみてもこの柳田の観察はたしかに中途半端な観察ではあったのだが、とはいえ稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。

 

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蝦夷の地関係地図
(クリックで拡大)

 

 ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。岩手県では石巻の新金沼遺跡、奥州市の中半入遺跡、宮城県は大崎の名生館遺跡、多賀城市の山王遺跡、仙台の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。いずれもけっこうな数の須恵器の出土も見られる。
 当然、さまざまな“道”も生まれていった。仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
 このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」が形成されていったのである。

 しかし、この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。
 つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだったのだ。だからエミシは自生したのでも形成されたのでもなく、逆形成されたわけである。
 『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。
 それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあったにちがいない。これがだいたい478年あたりのこと、倭王武は大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう。
 つまり蝦夷は5世紀から6世紀にかけては、ヤマト朝廷の管理下に置かれるべき地域であり、服属すべき辺境民だったのである。
 敏達天皇紀には、おそらくは581年前後のことと思われるのだが、数千の蝦夷が辺境を侵犯したので、天皇が蝦夷の魁師(ひとこのかみ=首長)である綾糟(あやかす)らを召して、これをいたく叱責したという記事もある。綾糟は「大毛人(おおえみし)なり」と注記されていた。

 6世紀に入って、大伴金村に擁立された継体天皇が即位すると、倭国政府は任那四県を百済に割譲して、国内の安定をはかるようになっていた。地方に国造(くにのみやつこ)、屯倉(みやけ)、部(べ)を置いて、中央の「氏」との関係を築こうとしていった。
 このようになっていったのは、直接には527年に九州で筑紫の君の磐井の反乱がおこったせいだった。さっそく大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が大将軍として派遣され、磐井を斬った。
 以降、地方における国造の地方官としての力が増大し、①吉備臣・出雲臣・上毛野臣といった臣・君のカバネ(姓)をもつタイプ、②凡河内直(おおしこうちのあたい)・紀直(きのあたい)のようにアタイ(直)をもつタイプ、③日下部直・檜前(ひのくま)舎人直などの名代・子代の設定にともなうタイプが生まれた。そして、どのタイプの国造においても、その領内には必ずヤマト政権の屯倉と部が設置されたのである。
 屯倉が設置されたということは、そこに朝廷の直轄領や収穫した稲の収納機構が生まれたということだ。またそこに部としての部民(べのたみ)がいたということは、部民は大王(おおきみ)家やその一族や氏族に属して生産物や労役にかかわるということだから、その地こそが「王民」が住む地域とみなされたのである。
 このことを歴史記述の鍵と鍵穴をとりかえた見方からすれば、国造の任官が及ばず、そこに屯倉もなく部民もいなければ、そこは「王化されていない地域」であり、「王民のいない辺境」とみなされたということだ。
 当然、蝦夷(エミシ)はそうした王民のいない“化外の民”の地とみなされたのである。何かがおこれば磐井のように殺害されるか、さもなくば服属の礼をとらなければならない。敏達天皇の581年前後、数千の蝦夷が反乱して首長の魁師綾糟らが服属儀礼をさせられたというのは、こういうせいだった。

 7世紀に入ると、わが列島に仏教も海外技術も流れこんできた。蘇我馬子が君臨し、聖徳太子の摂政が試みられ、遣隋使や遣唐使が派遣され、東アジアを見据えたヤマト政権の海国としての安定が追求か試みられるようになった。
 とくに645年に乙巳のクーデターによって蘇我の権力が潰え、大化改新以降になると、斉明天皇の政権は一方では東アジアとのパワーポリティックスを動かしつつ、国内の支配態勢の強化に向かわなければならなくなった。
 しかし海外政治は白村江の海戦で失敗し、百済との同盟関係はあえなく水泡に帰した。日本は自立せざるをえなくなっていた。斉明女帝は阿部比羅夫に北方の守護と服属を任せ、655年には「津刈蝦夷六人」を朝廷に連れてこさせ服属の儀式をおこない、659年(斉明天皇5年)には、先に示したように唐の高宗に男女二人の熟蝦夷(にぎえびす)を見せに連れて行かせもし、ついで659年に「道奥国」を指定した。
 比羅夫は秋田・淳代(ぬしろ=能代)の蝦夷を服属させ、渡島蝦夷(北海道の蝦夷)を征討して粛慎(みしはせ)との和解をもたらした。
 阿部比羅夫の群を抜く活躍によって、ヤマト政権は初めて東北の社会とその実態を知るようになったといってよい。そこで政府は「道奥」(みちのおく)を「陸奥国」(みちのく・むつのくに)と改名し、さらに「出羽国」を設け、服属者には位階を授与もした。のみならず、かつての国造の管理外の地域に、むしろ移民を送りこむ方針をとるようになっていったのだ。これを中央ではしばしば「柵戸」(きのへ)とか「編戸」といった。王化政策が積極的にとられていったわけだ。養老年間には「柵戸一千人」を陸奥鎮処に廃したという記録がある。
 こうして天智時代には屯倉・部民が廃止され、国造は国司・群司となり、国と評(こおり=群)が設置されていく。しかし、「陸奥国」はわずかに仙台平野と大崎平野のあたりに特定されたにすぎず、それより北の岩手や青森はあいかわらず広大な「蝦夷」のまま、北の「大辺境」のままだったのである。

 さて、8世紀、壬申の乱をへた天武天皇以降のヤマト政権はいよいよ「日本」の確立を意図するようになり、律令国家の道を歩みはじめる。 
 その突っ先の平城京が造営されている渦中の和銅2年(709)、蝦夷の一団が反乱をおこし、これを制圧するために巨勢麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯が征越後蝦夷将軍として北に向かうという事件がおこった。この事件は詳細がまったく不明なのだが、これをきっかけに中央政府は東北にそれなりの任官を置き、城柵を設けるようになった。
 その先蹤は、神亀1年(724)に大野東人(あずまびと)が陸奥守となって多賀城(多賀柵)を築き、その功績で天平年間に按察使(あぜち)鎮守将軍になっていることだ。秋田城も大野東人の発案だとされる。神亀1年は聖武天皇の即位の年だった。
 東北任官の者たちはそれなりに東北経営に乗り出した。むろん生産力と交易のためだった。天平9年(737)には多賀城から出羽柵へ通じる直通幹線の開削計画もおこったが、これは途中で中止になっている。

 

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東北地方の城柵(じょうさく)
『詳説日本史図録』(山川出版社)

 

 このような事情のもとでは、当然に東北出身や東北移民者の出世頭も登場する。一獲千金を狙う者もいる。
 牡鹿群の出身の道嶋宿禰嶋足(丸子嶋足)は丸子一族を従えて陸奥においても中央においても活躍をして、奈良の都では橘奈良麻呂の乱を抑えた功績でその名が坂上苅田麻呂と並ぶほどだった。苅田麻呂は坂上田村麻呂の父である。一族の道嶋三山は宮城県栗原に伊治城(これはりのしろ)を築いた。伊治城はこのあとの東北戦乱の火の種になる。
 このような動きは藤原仲麻呂の専横時代におこっている。仲麻呂が中央と陸奥・出羽を直結して統治権力を伸長しようとしたせいである。そのため陸奥や出羽の任官たちが仲麻呂にとりいった。道嶋嶋足もその一人で、そのため橘諸兄の子の奈良麻呂は失脚させられた。
 ところがここに大事件がおこる。中央政府の東北最前線の最大の拠点であった多賀城が、宝亀11年(780)に焼き打ちされたのだ。伊治公(これはりのきみ)アザ麻呂の決起だった。アザ麻呂は栗原の蝦夷の族長で、中央からも信頼が厚く、部課を率いて胆沢(いさわ=岩手県奥州市)や志波(しわ=盛岡市周辺)に対する蝦夷征討に加わってもいた。胆沢と志波は当時の東北エミシの「まつろわぬ者」の二大拠点だった。アザ麻呂は当初は中央政府の意図に沿ってそこを落とそうとした。
 けれども、それが寝返ったのである。伊治城では牡鹿の大領の道嶋大楯や按察使の紀広純が殺された。アメリカのアフガン解放を信じて与したビンラディンが、その後にアメリカに反旗をひるがえしたことが思われる。ちなみに伊治はイジとも読んで、武光誠は「夷中の夷」をあらわす「夷種」がもともとの意味だったのではないかと言っている。
 こうして、古代東北戦争の火ぶたが切って落とされる。高橋崇はこれを、国家と蝦夷との「三十八年戦争」と呼んでいる。

 ヤマトや奈良の朝廷が東北の蝦夷を支配する戦略とは、おおむね次のようなものだった。
 まずは親政府的な蝦夷の集団に対して影響力を強くしていく。それでその地域が中央の直轄支配に組み入れても大きな問題がないと判断できれば、柔順な蝦夷と移民とを動員して城柵を設置し、それが完成したところへさらに移民を導入して、群を置く。もしも強硬派の蝦夷がいるのなら、これを巧みに他の地域に強制移住させる。それでも反乱するようであれば、これを武力で制圧する。この反乱分子のことを「夷俘」(いふ)とも「俘囚」(ふしゅう)ともいった。のちにエミシの異名にもなっていく。
 だいたいこういう手順だった。伊治城のときも大量の移民を送りこもうとしていた。しかしアザ麻呂はおそらくは政府側のなんらかの手口の強引などが理由でこの組み立てが気にくわず、反旗をひるがえしたのだ。そこには夷俘が結集しているようだった。
 光仁天皇の朝廷はただちに藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立と紀古佐美を副使に任命したのだが、まったく事態は進捗しない。
 藤原小黒麻呂が持節征東大使になった。持節は天皇の権限が代行できる役職である。けれどもそれでも事態は収まらない。伊治城以北はすっかり反乱軍の手中にあったのだ。ここで天皇が光仁から桓武に代わるのだが、桓武天皇は紀古佐美を陸奥守に任命し、さらに若手を登用して事態を打開しようとする。菅野真道、秋篠安人、坂上田村麻呂、藤原種継らが抜擢された。
 しかし夷俘の力は侮れない。藤原小黒麻呂は「われわれが相手にしている夷俘はたいそう始末が悪い。ときに蜂のように集まり、ときに蟻のように群がる」と言って、まるでゲリラのごとき夷俘たちの活況の様相を報告している。吉侯伊佐西古(きみこのいさしこ)、諸締(もろじめ)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)などの猛者の名前もあがっている。
  延暦元年(782)、ついに大伴家持までが駆り出され、陸奥按察使・鎮守将軍になり、2年後には持節征東将軍にもなった。これは実は藤原一族による大伴氏追い落としの計略だった。このことについては、家持の歌と生涯を千夜千冊するときに、あらためて話したい。
 
 家持が失意のうちに東北の露と消えたのち、「三十八年戦争」の最大の主役であるアテルイと、これを征伐する坂上田村麻呂が登場する。そのあらかたは前夜の「悪路王」の伝説とともに紹介しておいた。
 アテルイと征討群との戦いは3度に及んだ。延暦8年(789)の紀古左美との戦い、12年の大伴弟麻呂との戦い、16年、20年の征夷大将軍となった坂上田村麻呂との戦いである。アテルイは古左美を叩き(古左美は耄碌将軍と揶揄された)、弟麻呂とは引き分け、肝沢城を築いた田村麻呂には敗れた。いずれも肝沢や衣川が象徴的な戦場になっている。
 アテルイは都に引き連れられ、首を刎ねられた。田村麻呂の名声は頂点に達した。では、これで万事が収まったかといえば、まったくそうではなかった。詳しくは次夜に続けたいので、ここではこれ以上のことをのべないが、このあと平安王朝は東北とのあいだに壮絶な歴史を展開するのである。
 それにはアテルイの背後関係のこと、田村麻呂のその後のこと、そのあとの藤原緒嗣の東北経営の問題、文室綿麻呂の遠征の意味、さらには元慶の乱から東国武士の魂胆を連続的に語りあげ、安倍一族や清原一族のことに言及しなければならない。そしてそのうえで、その後の前九年・後三年の役から奥州藤原氏の台頭の意味までを問わなければならない。
 これらはひとつながりなのである。東北をエミシの歴史として浮上させ、それが実は「もうひとつの日本」の根本問題にかかわることとして見えてくるには、このひとつながりを、あえて3・11後の東北の明日ともつなげていかなければならないのだろうと思われる。

 

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蝦夷関係年表
『詳説日本史図録』(山川出版社)
(クリックで拡大)

 

仙台学vol.11 東日本大震災

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 連休中にやっと東北の被災地に行ってきた。三県の地図と新聞の切り抜きコピーの束と、吉村昭の文春文庫本『三陸海岸大津波』、平凡社ライブラリーに入った北山茂夫の『大伴家持』、川西英通の中公新書『東北』『続・東北』の4冊を持って、一人で行った。
 家持を持っていったのは、この歌人が陸奥の按察使(あぜち)鎮守将軍として、また持節(じせつ)征東将軍として多賀城あたりに3年半を過ごして、なんとも名状しがたい残念をかこち、そこで68歳で死んでいたからだ。68歳はぼくの今年の年齢なのである。

 堅い長靴を履いて言葉にならない気持ちを鞄に入れて、異貌の土地を歩くのは初めてだった。
 慰問でなく、救済ボランティアでもなく、仕事でもない。なんらのアポイントもなく、ただただ自分の胸に蟠る宿題の端緒に着手するためだけの、勝手な出立だった。できれば車を駆ることもでき、ぼくのことをよく知っていて、艱難突破のエネルギーもある和泉佳奈子を連れて行きたかったが、彼女は南三陸町のお寺での実のおばあちゃんの葬儀に行って、日程がふさがっていた。
 結局、こそこそと準備して、3・11以降の「陸奥の現在史」を浴びる感傷を慌ただしく確かめるだけの目的で、出掛けた。なんとなく後ろめたかったけれど、ともかくも行く以上はできるかぎり北から入りたかったので、へたくそな計画をたて、東北新幹線の新花巻から釜石線で釜石に入った。
 途中の遠野には渋谷恭子がずっと老人介護を尽くしていることもよくよく承知していたが、あえて連絡しなかった。ぼうっと早池峰(はやちね)の峯を眺めた。20年ほど前に訪れた大祭が懐かしい。「はやちね」はアイヌ語のパヤチニカだったか。

 釜石駅に降り立って、突然、ドキンとしてきた。得体のしれない胸騒ぎがやってきた。町に向かい港に出てみると、光景がぐにゃりと動顛して、悪意の跡がそこかしこでまだごそごそ動いている。胸に津波が押し寄せてきたのだろうか、動悸が強くなってきた。
 この海を少し北に向かえば多くの人命を呑み干した大槌町であり、そのそばに井上ひさし(975夜)さんが“別国”を描いた吉里吉里がある。そのもっと先が、憶えば45年ほど前に小岩井牧場の帰りに思いついて、山田線を賢治の列車に見立てて立ち寄った海鳥が鳴く宮古の漁港である。
 その3年後だったか、平泉や衣川をうろうろして、水沢から黒石寺に寄ってみたことがあった。その蘇民祭の裸参りを毎年指導していたのは、ぼくに何度も熱烈な手紙を書いてきて、そして昭和天皇が亡くなった翌日に割腹自害をしたS氏だった。そういうこと、しばしば過(よぎ)ったけれど、今回はそういう一刻にはまったく向えない。
 釜石から45号線の浜街道を下っていけば、かの大船渡と陸前高田の惨状が歴然としてくるのだろうが、三陸鉄道の車窓からは南嶺や小石浜が近望できた程度だった。それでも盛岡駅で乗り換え時間が少しできたので、大船渡の近くを見た。どこもかしこも、ぺしゃんこである。
 瓦礫という言葉では、とうてい何も言いあらわせない。瓦礫は映像や写真で見るのとはちがって、異臭の物体群なのだ。地球のくすぶりの逆上なのだ。

 大船渡線が小坂から陸前高田を過ぎると、「こんなふうに無作法に来るべきではなかった」という気がしてきて、困った。光景に主語を呼びこめない。主語だけではない。そこに動いていたはずのすべての動詞が受け身に突き刺さってくる。
 このあたりから、見知らぬ方々の協力を得ることになった。とても一人では太刀打ち不可能なのだ。
 気仙沼は、その、いくつかの大事な主語がまさに根こそぎ失われ、大半の秩序が凌辱されていた。病院も壊れた。気仙沼の地区唯一の本吉病院というところに行ってみたが、ここは1階に2メートル近く泥水が浸水して、レントゲンや検査機器の大半が流れていった。院長は震災9日目に机の上に辞表を置いて姿を消した。泥水を除去したのは病院再建を願う住民たちだったらしい。
 足も地につかず、喉もからからになりながら塩釜に着くと、ここは港湾が上下に撹拌され、その隙間から早くも日常が新芽のように噴き出ていた。漁港というのは気丈夫なものなのだ。気になって陸奥一之宮の鹽竈神社を訪れてみた。大輪のピンクの花をつける塩釜桜に「春」を求める地元の家族が何組かいるだけだった。この神社には、シオツチがタケミナカタとフツヌシを案内して海路から上陸した伝説がのこっていて、おそらく2000年の津波の記憶が刻まれているはずだ。
 最後によろよろの体で回った夕暮れの福島いわき市は、なんというのか、恐ろしいほど無言で、こちらがちょっとでも気が緩めば、たちまち海鳴りに沈んだ者たちの怒号が聞こえてきそうだった。休日のせいもあってだろうが、海岸からそれほど遠くない学校が不気味なほど静まりかえっていた。
 どの地でも短歌と俳句を詠むことだけを心がけてみたけれど、まだ推敲する気にさえなっていない。いずれ詳しいことを書く日もくるだろうものの、いまはこの程度なのである。
 それより今夜は、塩釜で入手して帰りの車中で読み耽った「仙台学」11号の、「東日本大震災」とだけ銘打たれた4月26日特別号の数々の文章のうちから、いくつかを紹介しておきたい。この雑誌を刊行している版元は「荒蝦夷」(あらえみし)という。それだけで十分だ。立派だ。“中央に屈服しなかった者たち”の意味である。

 

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宮城県名取市 4月11日


 冒頭は赤坂憲雄(1412夜)が書いている。4月初旬に国道6号・陸前浜街道を北上して塩屋崎灯台をめざした途中の瓦礫と光景と初老夫婦のことを語り、これは「置き去り」だと感想している。なるほど、「置き去り」か。その1週間後、南相馬市の避難所ではたらいている友人が携帯メールを寄せてきた。国の「復興」はあまり感じのいいものじゃない。「復(ま)た同じ過ちを繰り返すのではなく、“再生”しなければならないのです」とあったという。
 やはり「復興なんて、誰が言ったんだ」と怒っているのは、ルポライターの山川徹だった。山形の上山生まれで、大学を仙台で送った。東京に拠点をおいて仕事をしていたが、3月13日の夜、被災地に向かった。南三陸志津川、石巻、気仙沼、女川、陸前高田、大船渡‥‥。惨状いちじるしい被災地をすべてまわっている。「慟哭する人」にも初めて会った。そして、感じた。「復興」なんて、自分たちの不安を和らげるだけのための言葉じゃないか。
 『ゴールデンスランバー』で山本周五郎賞をとった作家の伊坂幸太郎は、仙台に暮らしている。3・11の瞬間も仙台駅東口のビル1階の喫茶店でノートパソコンに小説を書いていた。あまりにも不気味な揺れだった。携帯がつながらず、急いで家に戻ると家のダメージもなく、家族も無事だったが、子供が余震があるたびに「何だ、またはじめからやりなおしかよ!」と言うのが響き、自分があれから泣き虫になっていったということを、綴っている。「役に立たない人間ほどよく泣く」という諺があってもいいとさえ思ったらしい。
 石巻生まれのノンフィクションライターで、海外サーカスの招聘をしている大島幹雄は、「石巻若宮丸漂流民の会」の事務局長でもある。自分のためばかりに生きてきたが、自分のことより東北の「生活の再建」に何かを捧げたいと結んでいた。

 

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宮城県気仙沼 3月28日


 朝日新聞記者としてさまざまな被災地を取材してきた木瀬公二は、その後に遠野に移り住み、いまちょうど朝日の岩手版に「100年目の遠野物語」を連載している。ぼくも新花巻駅で買ってみた。
 3・11の瞬間は秋田の96歳のジャーナリストむのたけじと会って、帰りの横手インターにさしかかるところだったという。釜石の北にある大槌町が「津波に襲われたというのに焼け焦げた町」になっていること、「他の被災地が釘だらけの柱や箪笥や背広が散乱している」のに、大槌が「錆びた金属の色しかない単色の世界」だったことなど、さすがに記者で鍛えた目が鋭い。そうか、錆びさせられたのか。日本人が「ほどほどの暮らし」をすることを勧めていた。
 新田次郎賞の『漂白の牙』の熊谷達也は仙台の登米の生まれで、大人になってから上田中の気仙沼中学校で教員をして、それから作家になった。大震災の日から3週間後、仙台から東北道・346号線・45号線で北上して気仙沼を訪れた。息を押し殺してハンドルを握っていたという。すべてが「ミキサーにかけられたカオス」だと感じたという。その気仙沼が、かつての土地の匂いの代わりに、磯と異臭のまじりあった町になっていた。
 気仙沼中学も半分が破壊されていた。無力感に打ちのめされた。木瀬は、こんなときに「想定外」ばかりを言い募る連中にこれ以上傷つけられるのはまっぴらだと、怒りを叩きつける。

 盛岡の作家で、「街もりおか」の編集長でもある斎藤純が、3月11日の夜空のことを書いている。「電気が復旧している地域がないかとベランダに出て確かめようとしたとき、ふと見上げた夜空をびっしりと星が埋め尽くし、輝いていた。盛岡であんな星空は見たことがない。あれは天へ昇っていく魂だったのだろう」と。
 朝日のアメリカ総局長や論説委員をしたのち石巻支局長だった高成田享も筋金入りのジャーナリストである。そのトップジャーナリストが、今回ばかりは「近代とか文明とかいったものは何だったのか」と問わざるをえず、現代のプロメテウスの火が原発になり、現代のパンドラの箱から飛び出しているのが原子炉から放射される見えない物質になってしまったことを嘆いていた。
 多くの作品で読者を唸らせてきた高橋克彦は、今日の東北文学を代表する作家だが、大震災で「自分の仕事に対する疑念が大きく膨らんでしまった」そうだ。みんなが「ガソリンが足りない、電池が手に入らない、米がない」と言っているのに、誰も書店や図書館や映画館が休業していることを嘆かないからである。高橋は書店や図書館に並ぶ本を書いて生活をしているのに、そういうものはこの災害の現実の前ではなんら主張力がないようなものだったことを突き付けられたのだ。
 けれども高橋はそのような言いようのない失望の渦中のような気分のなか、宮沢賢治(900夜)の詩歌のほとんどを精読しているうちに、『農民芸術論概要』に感動したらしい。それからは、賢治が芸術は働く者たちのためにあると高らかに宣言していたことを縁(よすが)にしているという。

 

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宮城県南三陸町 3月21日

 

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萱場康博さん、ひろみさん。仙台市若林区 4月4日(撮影/亀山亮)


 三浦明博は高橋克彦と同じく江戸川乱歩賞でデビューした。宮城県栗原の生まれで、いまも仙台にいる。最近作の『黄金幻魚』は三陸が舞台になっているらしい。
 3・11以来、伊坂幸太郎と似て「涙もろくなっている」と告白し、震災当日の夜半に山梨の富士吉田から15時間かけて、われわれの安否を案じてやってきた甥が、腹ぺこなのであり合わせを用意してやると、それをかきこみ、今度は「県北の祖父母の家に行ってくる」と言ってすぐに出て行ったのを見て、「この若者の無謀ともいうべき迅速な行動力に、何か眩しいものでも見せられたような心地がした」と書いている。このエッセイは「人は信ずるに値する」と結ばれていた。
 星亮一の『敗者の維新史』『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介』は、ぼくも愛読した。仙台に生まれ育ち、いまは福島にいるようだ。その星は4度にわたって津波被災地の取材をした。その体験をさすがに要訣をとらえて綴り、そのうえで東電と日本政府の責任を問う。「誰がどう言おうが、私は福島県を離れるつもりはない。この惨事を自分の目で見続けるためである」と断言しているのは、長らく戊辰戦争の悲惨と愚挙を書きつづけている著者にふさわしい。覚悟のある結語というべきか。

 

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仙台市青葉区 4月14日

 

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武藤隆博さん、みやさん。仙台市若林区 4月4日(撮影/亀山亮)


 特別号の掉尾は吉田司で、山形市出身。この作家この著者はぼくと同年代で、しかも早稲田文学部。在学中から小川紳介のプロダクションに参加して、『三里塚の夏』の演助をしたが、その感傷的な映像演出に耐えられず、1970年からは水俣に入って、若衆宿をつくりあげた。その体験が『下下戦記』(文春文庫)だった。その後の『宮沢賢治殺人事件』も『カラスと髑髏』も『王道楽土の戦争』も読んだが、なかでも『夜の食国(おすくに)』(白水社)はいずれ千夜千冊しようと思っていた。
 その吉田がここで書いているのは「ハローハロー、こちら非国民」という、とんでもないもので、収録エッセイのなかで一番長く、一番過激な見方になっている。その過激な見方は、主に原発事故後のグローバルな事態の進捗に向けられている。
 吉田は、アメリカ第七艦隊ロナルド・レーガンが岩手沖に停泊したとき、これはアメリカの“トモダチ作戦”などではなくて、実は“半占領”が始まるということだと喝破するのだ。
 諸君、よくよく目を凝らしなさい。復旧支援は日米同盟の共同管理下に入っていくだけでなく、3・11の事態が資本主義ネットワーク国家による「組み合わせ自由の多国籍軍」の中に取り込まれていったというのだ。ヒラリー・クリントンが被災地を巡るというニュースを聞いたときは、これは「アメリカの“東北巡幸”を意味することになる」と直観したとも言う。
 うーん、なるほど。ここまで言えるのは、吉田司しかいないだろうなと思いながら、ぼくは帰りの列車のなかでとろとろに眠りそうになっていた。

 

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宮城県気仙沼 3月28日

 

 

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征夷大将軍

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 世界は、平時を有事が破り、有事が平時に組み込まれていくことによって多様な歴史をつくってきた。
 平時が「常」で「ふだん」、有事が「非常」で「まさか」。平時が柔らかい「日常」だとすれば、有事が激しい「異常」であった。
 東日本大震災は25000人近い死者・行方不明者を呑みこみ、津波の及ぶところすべての住宅・仕事場・公共施設をことごとく打ち砕いた。船は数千艚が瓦解あるいは陸に乗り上げて、いつもは陸をわがもの顔に自在気ままに動きまわっていた自動車たちは、数万台が木の葉のごとく揉みしだかれ、あっというまに使い物にならなくなった。生活と仕事が根こそぎ奪われたのだ。
 そこへもってきてレベル7の福島原発事故がいまだ止まらない。1号機のメルトダウンは早々におこっていたようだし、これでは2号機・3号機・4号機だって、このあとどんな“想定外”の事態が勃発してもおかしくない。
 自衛隊が出動し、大半は無言の隊員たちではあるけれど、終始、不屈で劇的な活躍をした。被災者と放射線汚染圏の住民は避難施設に移動した。こちらも無言に近い。この無言は無念によっている。作物は乱され、牛馬は飼糧に見放され、福島の風評被害は日本中どころか、世界をかけめぐった。
 まさに国家危急の有事。国難である。
 しかし、こうした事態のすべては「北の有事」に発したものだった。普天間基地問題の「南の有事」では腑抜けになった日本政府も、この「北の有事」には驚天動地した。

 古来、有事とみなされてきたのは、戦争・自然災害・疫病流行・飢饉・財政危機・革命・クーデターなどだった。けれども有事は、それだけじゃない。ほかにもさまざまにあり、さまざまに歴史を動かしてきた。
 気候の変異、株価の暴落、通貨の変動、流民の移動、民衆の暴動のいずれもが有事だし、火事・殺人・政変・テロ・企業スキャンダル・鳥インフルエンザも、それぞれ有事なのである。そもそも世の中のニュースというニュースが「有事探し」しかやってはこなかった。そのニュースが気になるようなら、文明というものは有事をおこしたがっていく方向にばかり、歴史をつくってきたとしかいいえない。
 それでも何をもって有事とみなすかは、時代や民族によって、地域や習慣によって、社会情勢や経済水準によって、さらには技術リスクの判断基準や為政者の資質によって、おおいに変化する。たとえばレイチェル・カーソン(593夜)が『沈黙の春』で一羽の鳥の変事を書いたときは、誰もその背景にとてつもない環境有事があるとは思っていなかった。
 一方、有事はいつまでも有事にとどまらないともいうべきである。世間を驚愕させ、危機に陥れた有事は、やがて平時の中に組み込まれ、過去を現在に縫い直していったのだし、ノアの洪水やポンペイがそうであり、原爆ドームやベルリンの壁がそうであったように、平時と有事はさまざまなかたちで歴史共存するようになってきた。

 個人の日々の中にも平時と有事がある。
 誰がいつ、どこで交通事故や火事に出会うかわからないし、いつなんどき家族や恋人に変事がおきてもおかしくはない。「まさか」の偶然事は有事の兆候で、「たまたま」は有事の予告なのである。
 だからといって、個人の有事がいつもは個人的であるとも、生活的であるとも、かぎらない。個人はしばしば、気候や環境や社会や国家の有事と無縁ではいられない。地震も公害も口蹄疫も、戦争も自爆テロも、首切りも会社の危機も失業も、個人の有事はすぐさま公共の有事にも、隣接の有事にもなっていく。
 漱石(583夜)はそれらのことをはやくも見越していて、『私の個人主義』(岩波文庫など)に次のように書いたものだった。「日本はそれほど安泰ではない。貧乏である上に、国が小さい。従っていつどんな事が起こってくるかもしれない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです」というふうに。
 漱石がそうしてきたように、国の行方を案じて、自身の脳天に有事の鶴嘴を打ちこむということは、必ずしも少ないことではなかったのである。大伴家持は「北の有事」のなかで個人の平時を狂わされていった古代人であるけれど、それでも「すめらぎ(天皇)の御代さかえむと東(あづま)なる みちのく山に金(くがね)花咲く」と詠まざるをえなかった。

 巷間で感じるかぎり、最近の日本は有事に臨んでの準備がきわめて希薄であり、有事に対する決断が恐ろしいほど緩慢であるようだ。
 拉致問題、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、イラク戦争参加、竹島問題、柏崎刈羽原発事故、リーマンショック、厚生年金問題、普天間基地移転問題、日本海天然ガス開発競争、口蹄疫流行、医者不足、尖閣諸島漁船事件‥‥。そのほか、安倍・福田・麻生・鳩山の短命内閣、日本航空やソニーの現状、温泉街の不振、中小書店の壊滅だって、それぞれ由々しい有事だった。現代日本はいつだって多くの有事をかかえてきたわけだ。
 けれどもどうも、その摑まえ方を日米同盟や一部政治家やマスコミのシナリオに委ねすぎてきた。
 それなら日本がずっと以前から有事に甘かったとか、有事に怠慢だったかといえば、必ずしもそうとばかりとはいえない。白村江海戦から蒙古襲来をへて黒船来航にいたるまで、日本はシーレーンや国防には極端に甘かったけれど、列島内の辺境的有事には、むしろ異様なほどに過敏だったのだ。
 そのことを象徴的にあらわす有事の役職がある。それが「征夷大将軍」という者たちの歴史なのである。

 征夷大将軍は「征夷する大いなる将軍」という意味で、なんとも奇怪な名称であるにもかかわらず、建久3年(1192)の頼朝着任から慶応3年(1867)の慶喜の大政奉還にいたる約800年にわたって、日本の国政の中心を担うことになった。
 日本には倭国時代から天皇がいた。「治天の君」として院政を仕切る法皇もいた。関白も摂政もいた。執権や天下人も太閤もいた。けれども、鎌倉殿このかたは日本社会の実質システムの中心に、本来は有事と臨時のリーダーである将軍こそが君臨しつづけてきたわけである。将軍が「日本国王」であり「デファクト・スタンダードの主権者」であったのは紛れもない事実だったのだ。
 そもそも将軍という官位は「有事の大君」だった。「有事の大権」を発動できるプレジデントだった。そのことを如実にあらわしているのが征夷大将軍という格別な名称なのである。
 それが何がきっかけで「征夷する大いなる将軍」が国の大政の中心を担うのかといえば、「北の有事」が「国の有事」とみなされたからなのだ。

 本書はその「北の有事」が「国の有事」になっていった理由を、征夷大将軍の変遷を通じてさまざまな角度と背景から解読した最初の本だった。東北史研究の最もラディカルな研究者であった高橋富雄さんならではの、しばしば唸らせるような独自の分析がいろいろ詰まっていた。
 高橋さんの学問的な業績については文末を見ていただくとして、ここでは省くけれど、その研究姿勢は一貫して凄かった。東北を背負い、蝦夷(エミシ)を愛し、奥州藤原氏や平泉文化を解明しつづけた。ぼくが30代半ばに『辺境』(教育社新書)でガツーンときたことは『蝦夷』(1413夜)のところでも書いておいた。
 が、その高橋さんでも言及できなかったことは、いろいろあった。
 そこで以下では、本書のほかの高橋富雄著作とともに、高橋崇(1413夜)の『蝦夷の末裔』(中公新書)や『坂上田村麻呂』(吉川弘文館)を、新野直吉の『古代東北の覇者』(中公新書)を、また、工藤雅樹の『古代蝦夷の英雄時代』(新日本出版社・平凡社ライブラリー)や『平泉藤原氏』(無明舎出版)、たいへんよくまとまっている「戦争の日本シリーズ」の鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』や関幸彦の『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)を、さらには安田元久の『源義家』(吉川弘文館)や大石直正・入間田宣夫ほかの『中世奥羽の世界』(東京大学出版会)などを参照しながら、「北の有事」と征夷大将軍の関係を概略的に案内する。

 征夷の「夷」は夷狄(いてき)すなわち外国の敵ということである。古代日本は中華思想を輸入して、この名称を外敵にあてがった。
 しかし本来の海外の外敵の対処にはもっぱら太宰府があてられていて、それとはべつの“国内の外敵”にのみ征夷将軍や大将軍の名がつかわれた。陸奥の蝦夷にのみ征夷の対象が向けられたのだ。
 ということは、つまりは「北の有事」に備える軍事総司令官が征夷大将軍だったのである。
 ただし、この官職は頼朝から始まったことではない。最初の征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂で、これが延暦12年(793)のことだった。『日本紀略』に「征東使を改めて征夷使となす」と説明されている。征東使や征東将軍を改めて征夷使とし、その長官に征夷将軍を、さらにそのトップに征夷大将軍が設けられたわけだった。
 二代目は坂上田村麻呂である。大伴弟麻呂が征夷大将軍になったときの征夷副使近衛少将だった田村麻呂が、4年後の延暦16年に征夷大将軍に抜擢された。その田村麻呂が新たに胆沢(いさわ)城を築き、ここに多賀城から鎮守府を移して、勇猛果敢なアテルイ・モタイらの蝦夷(エミシ)の反乱を平定したことは、前々夜(1413夜)にも書いた。
 というわけで、征夷大将軍の初登場は平安初期のことだったのである。そしてそれは、「征東使を改めて征夷使となす」と説明されていたように、その前の時代の征東使のころの役割の強力なヴァージョンアップだったのだ。

 征東使とは何かといえば、これは征夷使ともいわれ、蝦夷征討のために臨時に派遣された者をいう。その長官が征東将軍とか征夷将軍とかとよばれた。
 この名でわかるように、あくまで臨時の軍事リーダーだった。最初の征夷将軍は和銅2年(709)に任命された佐伯石湯にまでさかのぼる。
 つまりは蝦夷討伐のための臨時長官が征夷将軍であり、プレ征夷大将軍だったのである。では、蝦夷を討ったのは臨時の軍事リーダーやその一団ばかりだったかというと、そうではなかった。そこにはいくつかの前史があった。そのへんのこと、本書にもいろいろ説明がなされているが、鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』にさらに詳しい。

 そもそも日本の古代国家は、律令制にもとづいて「国・軍・里(郷)・保」という国内行政機構をもっていた。その行政機構にあわせて全国に公戸皆兵制を敷くことにより、その基盤を成立させていた。
 すべての「戸」から兵士一人を徴兵して、これをもって軍制・軍団・軍令を形成し、発令するのが原則だったのである。これを日本歴史学では軍団兵士制という。
 『令義解』などでみると、この軍団の編制は兵1万・5千・3千を単位にして、1万軍には将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4をおき、その上に大将軍が立つようになっていた。3軍もろともの編制であれば、大将軍の下に将軍3・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8がついた。
 将軍や大将軍は非常大権をもち、大毅(たいき)以下が軍令に従わなかったり軍務に怠慢であったりすれば、死罪以下の刑に処してよいとされた。大毅は千人の兵を率いるのだから、将軍・大将軍は文字通りの生殺与奪の大権を行使できたのである。
 もっとも将軍・大将軍に非常の大権があるからといって、将軍・大将軍がその地の平時の軍政に当たるわけではない。それをするのは鎮守府の鎮守将軍で、平時の管轄をするのは国府であった。平時の軍政は鎮守府の将軍・軍監・軍曹が担当した。だから将軍の官位は国司に準じ、軍監は掾(じょう)に準じ、軍曹は目(もく=さかん)に準じた。
 これで古代律令下の軍団兵士制はうまくいくはずだった。けれども、どうしても徴兵がゆきわたらない。数が揃わない。そのため、何度かのルール変更がなされていった。最初は陸奥・出羽・壱岐・対馬などの辺要諸国以外の全地域に健児(こんでい)をおいて、30人から100人程度の郡司の子弟を中心にした精鋭を選抜によって補完するようにした。これはいわゆる「健児制」だ。
 が、それでは不十分だった。そこで導入されたのが「編戸(へんこ)制」あるいは「柵戸(きのへ)制」だった。戸主のもとに造籍を通じて「戸」をふやすことにした。造籍とは水増しだ。とはいえ水増しにも限界がある。10年たっても各地に新しい子がふえてはこない。成長してこない。これでは軍事力強化にならない。

 かくて踏み切られたのが「俘囚(ふしゅう)制」だった。
 ヤマト朝廷の宇内の領域に入らない者たちを、まずはネゴシエーターが征圧し(この先蹤が阿部比羅夫だったろう)、それでも言うことをきかないなら軍事的に征圧し、そのうちの服属を誓った者たちを俘囚として取り込み、これを編戸や柵戸にまわすというものだ。
 王化されていない土地の民を取り込んで、これを煽(おだ)てて王民の兵士に仕立てていくというやりかただった。
 ここにおいて、いよいよ蝦夷の地と蝦夷の民こそが俘囚編戸の大きな対象になったのである。そのぶん陸奥東北一帯は「化外(けがい)「境外」「外蕃(げばん)」などと呼ばれ、そこは「まつろわぬ民」がいる“外国”とみなされた。
 その内域と外域を分け隔てるためにつくられたのが「柵」(城柵)である。王民化した俘囚が「和(にぎ)蝦夷」などとよばれ、それでも抵抗をつづける蝦夷たちが「荒(あら)蝦夷」とやや恐れられてよばれたことについては、1413夜でも説明した。
 古代国家はヤマト朝廷の支配にまつろわぬ者たちを制圧し、この「俘囚の民」をもって軍事組織の底辺にあて、とりわけ陸奥・出羽の蝦夷を服属させた「俘囚の民」が駆り出したのである。「和(にぎ)蝦夷」がさかんに公戸皆兵制に次々に組み込まれていったのである。

 こうして陸奥の地に国府とはべつの鎮守府がおかれるようになり、そこに将軍・副将軍以下の兵団が設置されていくようになった。
 天平宝字年間には、鎮守府の官員に国司なみの給与がわたされたとあるから、そうとうに優遇されたはずである。ちなみに大伴家持は最晩年に陸奥に赴任してそこで死んでいったのだが、それは鎮守将軍に任命されたため、その役割をはたすためだった。藤原氏による大伴一族追い落としの計略だったにちがいない。
 按察使(あぜち)という制度もあった。特別に按察使が設定されて、出羽国を含めた陸奥全体の管理を兼ねた広域行政指導府の面倒をみた。これはさしずめ3・11以降の岩手・宮城・福島3県の上に、“東北日本臨時統括府”といった上部ボード機能が置かれるようなものだろう。坂上田村麻呂のあとをうけて東北経営を任せられた藤原緒嗣は、そういう陸奥出羽の按察使だった。
 ついでにいえば鎮守府の和名は、本居宣長(992夜)の『歴朝詔詞解』によれば「みえしのまもりのつかさ」と読まれたらしい。鎮守府とはいえ、そこには北の蝦夷を統括するという意志がはたらいていたことを物語る。

 これらが平時の蝦夷管理システムだった。
 ところが、これに対して緊急有事のシステムがさらに用意されていったのである。それこそが征東使や征夷使という臨時のリーダーで、その統括長官が征夷大将軍である。
 征東使や征夷使は、国の非常事態に処するための有事のリーダーだった。日本の国事というものは朝廷が体現していたから、征東使や征夷使はその出征にあたっては朝廷のシンボルである天皇から節刀が親授された。節刀(せっとう)があるということは、天皇の大権が臨時委任されたことを意味した。
 そういう役割の征東使や征夷使の呼び名には、古代においては二つのジグザグとした前史があった。
 ひとつは、和銅2年には征蝦夷将軍、養老4年には持節征夷将軍、養老5年には征夷将軍、神亀1年には征夷持節将軍の名が冠せられたという前史で、もうひとつは、和銅2年に陸奥鎮東将軍が、宝亀11年のには征東大使が、宝亀12年に持節征東大使が、延暦3年に持節征東将軍が、そして延暦7年には征東大将軍という官職が発令されたという前史だ。
 実は征夷大将軍とは、これら二つの前史の名称の“統合”なのである。そして、征東使や征夷使がいよいよ征夷大将軍になったとき、「北の有事」は「日本の有事」にすっかり吸収されることになったわけである。高橋富雄は「ここで東北経営の歴史が切り替わった」と書いている。

 以上をまとめると、平時の軍政のトップに仮の将軍としての按察使なるものがいて、その下に陸奥守としての将軍と、副将軍格の鎮守将軍がいたということになる。位階も按察使が正五位上(のちに従四位下)、陸奥守が従五位上で、鎮守将軍は従五位下だった。
 だいたいは、そういうことだ。そしてこれが全面的に有事の臨時システムに切り替わったとき、征東使や征夷使を強化した有事のトップリーダーとしての征夷大将軍の出征が発令されたのである。
 しかしながら意外にも、この古代的な征夷大将軍の歴史は短いものにおわったのである。早くも延暦23年(804)、坂上田村麻呂は2度目の征夷大将軍に任命されながら、その征夷計画の実施は中止されたのだ。
 桓武天皇晩年に重大な御前会議が招集され、エミシ征討か平安教造営かの論議がされたうえで、「都の造営」が採択されたのだ。「北の有事」が「都の造営」に吸収されたのだ。いってみれば、東北大震災や福島原発問題より、東京オリンピック開催予算や東京電力の組織充実のほうが採択されたようなものだったろう。
 この中止された征夷計画は、それでも6年後の弘仁2年に文屋綿麻呂によって実行に移されている。綿麻呂は陸奥の中の陸奥ともいうべき、閉伊(へいい)と弍薩体(にさたい)に向かった。ここは岩手東部山岳地帯と青森南東部で、綿麻呂の軍は奥入瀬川を渡るところまで進軍した。
 ただこのときの綿麻呂は征夷大将軍ではなく、征夷将軍だった。実際にも、その後の元慶2年(878)に秋田城下で「俘囚の大乱」があって、出羽国最大の有事となったにもかかわらず、朝廷は従5位上右中弁の藤原保則を正5位下に叙し、出羽権守に任じて鎮定にあたらせたにすぎなかった。平安王朝の征夷政策は、律令国家の支配領域をほぼ北上盆地にまで拡大したところで、一応のピリオドを打ったのだ。
 というようなことで、古代律令制下の征夷大将軍の役割は、ここでいったん途切れたわけである。高橋富雄は、このときに「古代征夷大将軍の役割が中断された」と見たわけだ。

 古代律令型の征夷大将軍が田村麻呂と綿麻呂の出征をもって中断されたのは、東北38年戦争がようやく収まったと判断されたからだった。
 ところが、ところがだ、それから80年ほどすると、源頼朝が征夷大将軍をまったく新たな制度にして蘇えらせたのだ。その前には木曾義仲がその官職を名のった。征夷大将軍が“復活”したのだ。
 なぜ、こういうことがおこったのか。
 いろいろ理由が考えられるけれど、一番に見るべきことは、そこにふたたび「北の有事」が認められたということである。そこには安倍一族や清原一族の動向が、奥州藤原4代の動向がおこっていて、それを源氏の棟梁が収拾することになったからだった。
 ざっとは次のような出来事が東北を中心におこっていた。

 古代律令制がくずれ、平安朝の“規制緩和”がすすむと、各地の支配は地方官の受領(ずりょう)に委ねられるようになり、9世紀を通して中央集権力が衰えるとともに受領の国内支配における裁量権が拡大していった。受領というのは任国に赴いた国司の長官で、多くは「守」(かみ)、あるいは「介」(すけ)の名をもった。
 これらは宇多・醍醐朝の「延喜・天暦の改革」によって大いに進行し、それにもとづいて、①中央財政の構造改革、②土地制度の改革(荘園整理令)、③富豪層と王臣家の指摘結合の分断、④受領による国衙機構の改編などに向かっていったのだが、それが一方では各地に群盗の出没や在地領主や任官たちの武装反乱を促進してしまった。
 朝廷はすぐさま令外官(りょうげのかん)として押領使などを派遣したものの、事態はいっこうに収まらない。もはや中央からの鎮圧では無理だったのである。平安期の貴族社会では考えられない武力勢力が台頭していたからだ。
 なかでも平将門や藤原純友などの猛者によって朝廷に対する謀反が勃発し、これが大乱の兆しをもたらすと(承平・天慶の乱)、この不穏を平定する力としては、“武力に対しては武力を”ということで、東国や西国からのしてきた「武士」の軍団にその解決を頼むしかなくなっていた。
 平将門は下総で決起し、常陸の国府を襲撃したのち上野・下野の国府も占領して新政権の樹立を狙った。藤原純友は伊予の日振島を根拠に瀬戸内海の海賊を率いて、伊予の国府や太宰府を襲った。どちらも、とうてい中央でも受領でも抑えられない力になっていた。
 ここに登場してくるのが、新たな勢力のイニシエーターとなった平高望(高望王)、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)たちだった。なかで藤原秀郷はのちのちの「奥州藤原四代」につながっていく。

 

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前九年合戦絵巻
源頼義が陸奥守・鎮守府将軍として派遣された。

 

 この承平・天慶の乱(935~941)のあと、頼朝が征夷大将軍を“復活”させるまでに、実は時代社会を変更させる“何か”がおこっていったのだ。
 まずは列島各地で多田源氏(源満仲)、伊勢平氏(平維衡)、武蔵七党(横山党・児玉党)などの武士団が、次々にあらわれた。
 ついで武蔵の押領使だった平忠常が房総半島一帯を巻き込んでおこした大きな反乱(1028~31)を、源頼信が平定して源氏の東国進出の橋頭堡をつくることになった。これがきっかけで武士のパワーはふたたび東北に舞台を移し、いわゆる前九年・後三年の役(1051~1087)の奥州十二年合戦になっていく。ふたたび東北が「有事の戦場」になったのだ。
 前九年・後三年の役は、奥州安倍一族と清原一族の主導権争いに、源頼義などの源平を代表する武将が絡んだ合戦である。承平・天慶の乱とともに日本の中世の本質を見極めるにあたっても、また「兵」(もののふ)の登場という点からも、そして「北の有事」の新たな意味を知るうえでも、前九年・後三年の役はきわめて重大な経緯をもっている。
 発端は、胆沢の鎮守府を掌握した安倍氏が多賀の国府にあった中央政権の出店を侵犯したことにあった。これを「奥六群」をめぐる争いという。胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手が奥六郡である。
 奥六群のことは奥州藤原氏や平泉文化の謎を解く重要な背景になることでもあるので、次夜以降でも詳しく書きたい話題のひとつなのだが、その地がなぜ重要かというと、ここが「北の有事」を「国の有事」として引き取った頼朝を棟梁とする源氏勢力起爆の大きなトリガーになっていったからだ。
 前九年の役は「北」の安倍一族と「東」の源頼義との出会いと合戦である。安倍頼時の祖父の時期に安倍氏の勢力が奥六群におよび、それが安倍頼時の時期に衣川の外に向かって広がり、しかも租税も収めず力役も務めないという勢力になっていったため、そこで源頼義が追討将軍に任ぜられ、頼時を継いだ安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)と壮烈な合戦を交わすなか、頼義が「出羽の俘囚」のリーダーであった清原武則と連携して戦力を増強して、一挙に安倍氏を滅亡させたという戦役だ。その物語は『陸奥話記』がしるして、読む者を躍らせる。
 後三年の役のほうはその清原一族の内紛に発した戦役で、そこに陸奥守に赴任した源義家(八幡太郎義家)が介入して清原清衡を応援し、家衡・武衡を討ち取っていくという合戦だった。
 これが前九年・後三年の奥州十二年合戦のあらましだが、この結果、何がどうなったかというと、(A)源氏の戦果がめざましく全国に鳴り響き、(B)これによって陸奥の「奥六郡」と出羽の「山北(せんぼく)三郡」の支配権を得た清衡が清原姓から藤原姓に代わり、(C)新たに藤原清衡として支配地南端の平泉を拠点に奥州藤原4代の基礎をつくったわけである。

 

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後三年合戦絵巻(金沢柵攻略)

 

 さて、このあと時代は「西の平家」と「東の源氏」による源平争乱が続くわけで(すなわち保元・平治の乱)、それがとどのつまりは源氏の勝利になっていくのだが、その最終場面で次のことがおこったのだ。
 ①頼朝と弟の義経が対立した。②義経が平泉の藤原秀衡を頼った。③秀衡が急死した。④泰衡が義経を衣川に討った。⑤そこへ頼朝軍が攻めこんで奥州藤原一族の終焉がおとずれた。
 中世奥州最大のドラマである。いったい奥州藤原氏とは何なのか、平泉文化とは何だったのかというドラマだ。1週間前、平泉が世界遺産に登録されるだろうという報道があった。これは、3・11以降の岩手県の“蘇生”にとっても、奥州藤原氏の物語と中尊寺や毛越寺などの中世浄土の景観、および平泉を中心とした陸奥文化の歴史が21世紀に何をもたらすのかということを日本と世界が理解するにあたっても、すばらしい契機になると思われる。
 だからここでも、そのことをぜひとも源平の争乱のもうひとつの意味として議論していきたいところだが、それはいずれ千夜千冊するとして、ここでは頼朝がこの直後に征夷大将軍になっていったということを、おおざっぱな論点だけを追って本書の流れで説明しておきたい。

 頼朝が征夷大将軍を復活させた経緯の背景で、高橋富雄が最初に注目するのは、木曽義仲が征夷大将軍を名のったことである。このことはあまり歴史家のあいだで議論されてこなかったことだった。
 木曽義仲こと源義仲が征夷大将軍に任ぜられたのは寿永3年(1184)である。その直前、義仲は平氏打倒の兵を挙げ、寿永2年に倶利加羅峠で勝利を収め、京都に入って後白河法皇の治世を回復させる試みに着手した。その功で左馬頭(さまのかみ)に任ぜられ、さらに「朝日将軍」の号を下賜されると、翌年に半ば強引に征夷大将軍となった。
 このとき義仲は平氏をこれ以上は追討せず、むしろ平氏とともに頼朝に向かうことを決意していた。
 ところがその後、法皇は頼朝と連携するほうを重視した。そのため義仲は法住寺殿を襲撃して法皇を幽閉するのだが、ここから源平さまざまに入れ乱れ、ついに義経によって宇治川に追われ、近江粟津にわずか30歳で戦死した(巴御前はその後に行方を消した)。高橋富雄はこのとき義仲が「頼朝という東の棟梁を征夷する」としたことこそ、次にその「征夷」のシンボルを頼朝が逆転して握ることになるきっかけになったと見た。

 頼朝はどうしても征夷大将軍の官位がほしかったのだ。そのためにこそ義経をして義仲を討ったのだ。
 そこで後白河法皇に願い出るのだが、朝廷はこれを許可しなかった。なぜなら、鎌倉の地においてそこを動かぬ者が、有事の非常大権である大将軍の官位を得ることはできないと判断したからだった。
 そこで頼朝は次の手を思いつく。奥州平泉を征討したい、ついては勅許を願いたい。そういう申し入れを思いついた。文治5年(1189)のことだった。朝廷は泰衡追討使の宣下を与え、頼朝はこれを首尾よく果たし、「北の有事」に凱旋したことを誇示できた。
 こうして建久1年(1190)についに上洛すると、頼朝は権大納言を、続いて右近衛大将の任命を受ける。右大将になったことによって、「幕府」を開くことを決断し、あとは征夷大将軍の節刀を受けるだけというところまでこぎつけた。かくて建久3年(1192)にその軍事公権が与えられた。
 しかし、そこにはもはや「北の有事」はなかったのである。征夷大将軍の名は幕府のプレジデントとしての名称になっていったのだ。そのかわり、頼朝は、新たな4つの権力の上に君臨することになる。
 この4つの権力を滝川政次郎は、①征夷大将軍としての軍事権力、②日本66カ国の総守護・総地頭としての権力、③関八州の分国主としての権力、④鎌倉御家人の封建的主従関係の棟梁としての権力、と見た。
 高橋富雄はこれを、①征夷大将軍としての幕府主権様式、②諸国総守護職・総地頭職としての諸国総追捕使の軍事警察権、③東海・東山両道に固有宗主支配を行使する東国行政権、④鎌倉御家人を従者としてコントロールする鎌倉殿の支配権、という4つの権力の支配を得たと見た。
 いずれの言い方でもいいのだろうが、これはその後の日本の武家の支配体制の根本方針になるものだった。すなわち「将軍」あるいは「将軍家」がこの4つの権力を掌握し、それをさまざまに発展させることこそ、「国の有事」を司るということになったのだ。
 では、「北の有事」はどうなったのか。また、鎌倉幕府以降の「将軍」はどんな変遷を遂げたのか。いずれも高橋富雄が生涯をかけて探求した問題であったけれど、今夜はこのへんまでにとどめておく。いずれ、どこかでぶり返して案内してみたい。


【参考情報】

(1)高橋富雄さんについては前々夜にもふれておいたが、『辺境』(教育社新書)を読んで以来、ずいぶん瞠目させられてきた。『奥州藤原氏四代』(吉川弘文館)は1957年の刊行で、いまでも古典的名著になっている。このほか『平泉』(教育社新書)、『古代蝦夷』『胆沢城』(学生社)、『蝦夷』『奥州藤原氏四代』『奥州藤原氏・その光と影』(吉川弘文館)、『平泉の世紀』(日本放送出版協会)、『義経伝説』(中公新書)、『徳一と最澄』(中公新書)など、著書は多い。
 最近の歴史学は高橋東北史学を必ずしも全面容認しなくなっているようだが、史実をどのように扱っているかという問題をべつにすれば、ぼくとしては高橋さんの深くも鋭い抉り方が、いまなお好きである。

(2)今夜ふれた歴史の流れだけを通して学習したいなら、「戦争の日本史」シリーズ(吉川弘文館)の、3鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』、4川原秋生『平将門の乱』、5関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』、6上杉和彦『源平の争乱』の精読をすすめる。このシリーズはかなりいい。
 そのほか鈴木靖民編『古代蝦夷と世界の交流』(名著出版)、今泉隆雄『律令国家の地方支配』(吉川弘文館)、熊谷公男『古代国家と東北』『古代城柵と蝦夷』(吉川弘文館)、関幸彦『鎌倉殿誕生』(PHP新書)なども補いたい。
 人物伝としては、定番ではあるが、やっぱり人物叢書シリーズ(吉川弘文館)の高橋崇『坂上田村麻呂』、安田元久『源義家』などに当たっておくことだ。
 ほかには亀田隆之『坂上田村麻呂』(人物往来社)、野口実『伝説の将軍・藤原秀郷』(吉川弘文館)がおもしろい。
 なお前九年・後三年の役、奥州藤原氏、保元・平治の乱については、今夜は省く。そのうち続きを書くので、その折に紹介する。

 

 

平泉藤原氏

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 平泉が、小笠原とともに世界遺産になるという。あとは認定発効を待つだけだ。よろこばしい。
 目を覆うほどの、胸が詰まる3・11以降の数々の東北関連ニュースのなかで、この時期に平泉に一条の脚光が当たったことは、そこにもし蝦夷の歴史回復のプランが加わるのなら、きっと明日のためのビッグニュースになるはずである。とくに岩手県にとっては大きな復興エンジンのひとつになろう。
 ぼくはこの1年をかけて、NHK・BSの『世界遺産・1万年の叙事詩』という90分シリーズ番組をテレビマン・ユニオンの若い優秀なスタッフとともに約1年をかけてつくってきたのだが、先だっての5月13日、その最終回の収録をベルリンの博物館島やクロアチアの戦禍などを紡いだ「継承」というテーマ・キーワードで了えたばかりだった。
 その収録後にみんなと話しているうちに、「うーん、やっぱりラストに平泉を入れよう」ということになった。おそらくは象徴的なラストのワンショットが入るだけだろうが、『1万年の叙事詩』のオーラスのカットにはぴったりだ。
 

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NHK・BS『世界遺産・1万年の叙事詩』撮影風景。

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制作・撮影に関わった、テレビマン・ユニオンのスタッフと。


 しかし今後、もしも本気で「平泉」を番組にしようとするのなら、けっこうな腕力や工夫が必要になる。
 前九年・後三年の役の背景から話が始まり、それがだんだん奥州藤原氏の勃興につながりました。清衡(きよひら)が平泉に館を移してからは基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)がそれを発展させました。けれども4代目の泰衡(やすひら)のときに頼朝も攻めてきて奥州合戦がおこり、さしもの100年に及んだ奥州藤原氏は滅亡してしまいました。その泰衡と義経の最期はほぼ一緒のときでした、はい、チョンチョン、というわけにはいかない。
 そもそも清原氏の清衡が新たに藤原清衡と名のったのはなぜなのか。その藤原のルーツがあの藤原秀郷にまでさかのぼるのはどうしてなのか。いや、そのような奥州藤原氏がなぜにまた東北の蝦夷(エミシ)の地に独自の社会文化を築きえたのか。またそれなら、安倍氏や清原氏と蝦夷の相互乗り入れはどういうものなのか、そこに合戦を挑んできた源氏との関係はどうなっていたのか、そういうことをまるごと消化しなければならない。
 なんといっても日本にとって「陸奥」(みちのく)とは根本的に何なのかということだ。それには「奥六群」こそが立ち上がってこなければならない。そこは昔ながらの蝦夷の本貫なのである。中尊寺のキラキラだけを紹介して、蝦夷の歴史を背負わない平泉を番組にしたところで、何のインパクトもあるまい。

 

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p.p1 {margin: 0.0px 0.0px 0.0px 0.0px; font: 12.0px Helvetica} 前九年・後三年合戦の地図。地図中央に「奥六郡」。

 
 平泉文化が日本の歴史文化のなかでもかなり特異なものであることは、言うを俟たない。京の都の模倣と見られた時期もあったが、そうではない。仮に模倣に始まっていたとしても、模倣の本質は、ガブリエル・タルド(1318夜)が言うように、独創の編集なのである。
 なかでも柳の御所は「北の都」にふさわしく、無量光院や毛越寺や中尊寺の建立は「北の浄土」にふさわしいものだったはずである。おそらくはそれらのどれもこれもが稀にみるもので、しかもこれらは奥州藤原4代をとりまく人々によってしっかりとつながっていた。もしも多くの堂宇が焼亡していなかったなら、かなり広大な世界遺産になっていただろう。
 清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代の人物像も、当初の「俘囚の上頭」「東夷の遠 酋」という奥州藤原一族の“蝦夷の自負”の表明このかた、その事績や人脈にまだまだ不明なところが多いものの、そうとうにユニークであることは確かだ。とくに初代清衡と三代秀衡である。北方交易においても金の産出においても、また中央に対する地域社会からの堂々たるプレゼンスにおいても、群を抜いていた。まさに「北方の王者」というべきだ。
 ところが、それほどの地歩と栄華と矜持を誇りながら、平泉文化は4代目の若い泰衡の死とともに、そして義経の横死とともに、あっけなく潰えてしまったのである。芭蕉(991夜)が衣川を訪れて「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠んだ心境は、まことに万感推してあまりある。
 その芭蕉が『奥の細道』の全行程を平泉で折り返し点にしていることは、ぼくには芭蕉の陸奥観念の根本にあたるラディカル・スコープだったにちがいないと感じるものがある。平泉への道は、大伴家持から西行(753夜)におよぶ「北の負のマザー」が昏々と眠っていたところなのだ。そのことについては、もう一度か二度、あらためて被災地をめぐり、「奥の細道」がらみの体験をなんとか自分に通過させたのち、いずれゆっくり綴ってみたい。

 というわけで、平泉という地には、ぼくにとってもいまもってたくさんの関心を集中させたいいっぱいの魅力が詰まっているのだが、しかしとはいえ、今日の目によってその縁(よすが)を偲ばざるをえなくなった中世平泉文化は、あまりにも歴史的な謎が多いままになっているばかりなのである。
 とくに藤原4代をめぐる「生活」と「思想」が見えてこない。清衡・基衡・秀衡・泰衡がミイラになっているということも、まだ存分に考究されてはいない。世界遺産・平泉が世界中に映像紹介されたとき、中尊寺金色堂の華麗と4代のミイラの対比がどんな驚愕をもたらすか、まだ想像だにできない。
 考古学的な発掘もまだまだ十分でない。かなりの威容を誇っていただろう無量光院や、毛越寺に付随していただろう観自在院も細部の再現がまったくできていないし、オールドシティの衣川館に対するニューシティの平泉館の、そのセンターたる「柳の御所」や「加羅の御所」の、それらの結構がなかなか見えてはこないのだ。ちなみに“遺跡としての平泉”について、だいたいはどこまでが見えてきたのかということは、いまのところはたとえば斉藤利男の『平泉』(岩波新書)に詳しい。

 さて、なによりいっさいの平泉文化の謎を集約しているのが、初代の清衡の出自と生い立ちである。なぜ清衡が奥六郡を掌握できたかということだ。
 清衡の父親が藤原経清であることはわかっている。1062年(康平5)の秋のこと、攻め手の源頼義は、奥六群の郡司であった安倍氏の最後の砦であった厨川柵に火を放った。頼義の軍師格になっていた出羽の清原武則が「包囲網をといて柵内の者たちをおびきよせましょう」と進言したようだ。それで瀕死の重傷の安倍貞任も外に引きずり出されてきたのだが、このとき清衡の父の藤原経清も安倍氏の近縁として生け捕りにされ、赤錆の鈍刀で首を斬られた。『陸奥話記』では、これが前九年の役のラストシーンになっている。
 清衡の母親の名も、わかっている。安倍氏の娘の有加一乃末陪(あるかいちのまえ)だった(有加一乃末陪については、ぼくが作家ならすぐに小説にしたいほどのヒロインである)。
 経清は安倍氏の娘を娶ったのだ。父親が鈍刀で首を斬られたとき、数え年7歳だった清衡はこの母の胸にしがみついていただろう(少年時代の法然を思わせる)。ところがこの母は前九年の役のあと、あろうことか清原武則の子の清原武貞に与えられ、妻となる。母親が敵将の正室にさせられたのである。それとともに清衡は、新たに“清原の清衡”として育つことになったのだ。
 これだけでもいささかややこしいが、そこに加えて、そもそも藤原経清の祖先はかの藤原秀郷につらなっていた。秀郷(ひでさと)は俵藤太の異名をもつ豪勇である。経清の祖父はその豪勇秀郷の血をうけた藤原兼光で、その後は強く東北と縁をもつ鎮守府将軍になった名門だった。兼光は陸奥に赴任した。
 それで、その子の正頼が亘理郡(宮城県南)に土着するようになって、その正頼が何かの縁で出羽の土着豪族の平国妙の娘を妻にして、そこで生まれたのが経清だった。こうした事情のすえ、経清が安倍氏の娘の有加一乃末陪とのあいだにもうけたのが清衡で、その後の母は敵の清原氏に属することになったわけである。
 ということは、清衡はそもそもは藤原秀郷の血を受け継ぎ、ついで出羽の平氏の血を受け継ぎ、さらに安倍氏の血を受け継いで、姓氏のうえでは連れ子の嫡男として“清原の清衡”を名のることになったのである。

 

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中尊寺金色堂内陣

 

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p.p1 {margin: 0.0px 0.0px 0.0px 0.0px; font: 12.0px Helvetica}

安倍・清原・平泉藤原氏関係系図

 

 血脈、まことに複雑にいりくんでいるが、清衡自身はそういうことにとくに頓着していなかったようだ。
 清原氏の内紛が激化して戦乱にいたり、そこに源義家(八幡太郎義家)が介入してきたときは、青年らしくけっこう自在に動いている。うまく立ち回ったというべきか。真衡には楯突いて家衡と組み、義家が介入してからはその中間に立ち、後三年の役が始まる直前には、国守の義家が奥六郡を南北に二分した配分にしたがって、南の胆沢・江刺・和賀の三群をちゃっかり貰っている。
 このとき、北の山間寒冷地の稗貫・紫波・岩手の3郡を分け与えられた家衡は、これを不満として義家に讒訴するのだが、義家はこれにはとりあわない。そこで家衡は恨んで清衡一族を襲うのである。おそらくこのときに母の有加一乃末陪(あるかいちのまえ)が殺された。けれども、このときも清衡はあえて戦闘していない。よほどの趨勢のヨミがあったのだろうか。
 ヨミ通りだったかどうかはわからないが、やがて後三年の役では思わぬ事態が進捗した。清衡に有利に風が吹いた。清原一族がことごとく戦没あるいは病没していったのだ。残ったのは清衡ただ一人。結局、清原宗家を清衡が継ぎ、奥六郡を掌中にした。
 さっそく江刺の豊田館(とよたのたち)を構え、ついでは姓を藤原にして、“清原の清衡”から藤原清衡となって、いよいよ平泉に本拠を移した。これが奥州藤原4代のスタートで、おそらく康和年間(1099~1104)のことだった。

 ざっとこんな経緯で清衡は平泉を拠点とし、ここに「北の王城」を築くことになったのである。さっそく南は白河の関から北は外が浜(陸奥湾沿岸)まで、一町ごとに笠卒塔婆を立て、そこに金色の阿弥陀像を描かせたという。
 それにしてもなぜ初代藤原清衡は新たに奥州藤原氏を名のり、平泉に「北の都」や「もうひとつの王城」を築けることになったのか。朝廷や中央勢力との関係はどうなっていたのか。ぼくはずっとその背景が読み切れないでいた。
 時は白河上皇がいよいよ院政を始めつつある時である。当時の朝廷はどのように東北経営を考えていたのかといえば、安倍氏が衣川の北にとどまっているかぎりは、征夷大将軍を送るほどもなかった。それが前九年の役で衣川の南にまで勢力が及んだとき、なんとか手を打たざるをえなくなってきた。そこで源頼義が奥州に赴き、安倍氏を屠(ほふ)ってこれを収拾し、ついでは清原氏が陸奥の一帯支配を安定させるかと思えたのだが、これが予想外の分裂抗争になったので、源義家がここに介入し、そうこうしているうちに、その“清原の清衡”がその宗家を継いで、今度は「藤原」を奥州で継承すると言ってきたのだった。
 これは“脱清原”の選択だった。それも「衣川の南まで管轄してみせましょう」という選択だ。
 白河朝廷は陸奥守の藤原実宗や、その後任の藤原基頼などの意見を参考に、ともかくは清衡の申し出を承認して押領使とし、しばらく様子を見ることにしたのであろう。しかし清衡はしだいに独自の“北方政権”を強化していったのだ。なんとも豪胆というか、器量が大きいというか。

 本書は、長らく北方蝦夷の研究をしてきた著者の工藤雅樹さんが、満を持して平泉にとりくんで、『平泉への道』(雄山閣)についで、岩手日報に連載した57回分の文章を加筆訂正したものである。
 3・11から3週間ほどたったころに読んだ。当時のぼくは打ちひしがれていた。とりあえず千夜千冊に「番外録」を設けて、自分に鞭を打つように地震と津波と原発のことを連打して書くようにしたけれど、これでは歴史的現在にならないという焦燥感をもっていた。とくに東北大震災が東日本大震災に変更されつつあったとき、これでは「本来の東北」が抜け落ちると感じた。
 それで一挙に「蝦夷」を浮上させたいと思っていたのだが(1413夜)、そのころのぼくの必死の“東北歴史共読の感覚”は甚だおぼつかないもので、自分でも「胸の津波」に煽られたままになっていた。どうにも地が足についていないようだったのだ。
 こうして連休中に釜石・気仙沼・塩釜・いわき市を走りまわるのだが、惨状なまなましい現地に立ってみると、歴史への思いなどとうてい遡及もできない。むしろ「お前、いったい何を歴史浪漫に浸っているのか」と瓦礫の惨状から無言で怒鳴られるようなもの、自分の歴史的現在すら吹き飛ばされた。
 ともかくもそんなふうななか、高橋富雄(1415夜)も高橋崇(1413夜)も、そして工藤雅樹も読んでいたのだった。いや、もっと読んだ。毎晩がひどい状態だったけれど、それをやめなかったのは(やめられなかったのは)、なんとか「東北」を古代から現在にまでつなげて3・11を見つめ切りたかったからだった。

 もともとぼくの平泉文化についての関心は、きっと多くの研究者や読者がそうであったろうと思うけれど、高橋富雄の名著『奥州藤原四代』(吉川弘文館)や『平泉』(教育社歴史新書)に始まっていた。誰だって、この2冊で「東北」に関心がもてないはずがない。
 が、奥州藤原氏というのは、なかなかその胸襟の中に入れたという気になれないという相手なのである。あまりにも史料が乏しい。『吾妻鏡』や『陸奥話記』だけでは現在につながらない。
 そこで途中は、新野直吉の『古代東北の覇者』(中公新書)や荒木伸介・角田文衛の『奥州平泉・黄金の世紀』(新潮社)なども読み、また学生時代から3度にわたって平泉や衣川をうろついてきた記憶をたよりに、なんとか奥州蝦夷の一族の中世的本質を推理しようとしてきたのだが、あいかわらず核心をつかめないままにきたわけだった。
 そこでいったんは古代蝦夷に戻っていったのだ。その事情についてはすでに1413夜に書いたことである。
 その後、本書の著者が書いた『古代蝦夷の英雄時代』(新日本出版社)とその新書版ともいうべき『蝦夷の古代史』(平凡社新書)を読んだ。前著は新日本出版社で刊行され、2005年に平凡社ライブラリーに入るときに大幅な改定が加えられたもの、後者は2001年の刊行であった。読んでみると、著者がどのように古代蝦夷の研究に没入していったのかという経緯も挿入されていて、この分野の推理や研究が一筋縄ではないことをよく伝えてくれた。
 ともかくもこういう粗雑な読書遍歴を辿ってきて、今夜はやっと工藤雅樹流の平泉論の突端を眺めているということだ。では、今夜に書いておきたい核心点だけを紹介する。

 中尊寺には「中尊寺建立供養願文」という国の重要文化財がのこっている。これは清衡が右京太夫の藤原敦光に起草させたもので、金色堂の創建(1124)のあと、新たな伽藍を建造するにあたってその趣旨をのべたものである。金色堂建立の2年後の日付がある。
 この願文は平泉の地の意味と奥州藤原氏の核心を解くのに、欠かせない。意訳すればざっと次のようなことが書いてある。

 この中尊寺の伽藍には一宇の鐘楼があり、二〇釣の洪鐘が掛けられる。この鐘の音が及ぶところ、あらゆる箇所で苦しみを抜き、楽しみを与え、すべてにあまねく平等の響きをもたらす。この東北の地では、官なるものと蝦夷なるものの別なく戦いで死んだ者は古来より多く、獣・鳥・魚・貝などの殺されたものも、はかりしれない。
 現在、これらの霊魂はすべて他方の世界に消え去り、朽ちた骨はこの世の塵となっている。この鐘の音が地を動かすたびに、罪もなく命を奪われたものたちの霊魂は極楽浄土に導かれるだろう。
 この伽藍はひとえに鎮護国家のために造営される。なぜなら、そもそも自分は「東夷の遠酋」(とういのおんしゅう)なのである。さかのぼれば聖代の戦いのない時代に生まれ、長いあいだ平穏であった世の仁恩をうけてきた。そのため蝦夷の村々では事件も少なく、蝦夷は心配のない日々をおくっていた。
 自分は父祖の余業をうけつぎ、あやまって「俘囚の上頭」(ふしゅうのじょうとう)の地位にある。それでも出羽・陸奥の人々は風に草が靡くように、また粛慎・悒婁といった 海の彼方の「えびす」も太陽に向かう葵のように、自分に従ってくれた。とくに何もせず、やすらかに三十余年を過ごしただけである。けれども自分が果たすべき年ごとの貢はまちがいなく納め、鳥や動物の革なども約束の時期に遅れることなく都にお届けしてきた。
 しかしすでに杖郷(じょうきょう)の齢(60歳)も過ぎた。どうしてこれまでの御恩に感謝しないではおられようか。そこでこの寺を造り、禅定法皇(白河法皇)、金輪聖主(崇徳天皇)、太上天皇(鳥羽上皇)、国母仙院(鳥羽中宮璋子=待賢門院)の御長寿、御無事をはじめ、朝廷の高官から五畿七道の万民にいたるまで、すべて治世をたのしみ長生をまっとうできるように、これを心からの御願寺としたわけである。


 この願文には、まず中尊寺やその伽藍が極楽浄土を求めたものであることが謳われている。この平泉を中心とするかなり広い地に多くの戦乱がおこり、数多の命が奪われていったことへの鎮魂になっている。つまり仏教への帰依が語られる(ちなみに3・11東北は、どこかでこのような「鎮魂」をこそやり遂げるべきである)。
 ついで、この地はかつて蝦夷(エミシ)の地であって、そこにはそれなりの平穏が確保されていたこと、そこへはからずも、父祖このかたの血をうけた自分(清衡)がやってきたことを述べ、だから自分は「東夷の遠酋」に属するのだと書いている。安倍氏の血が流れていることを表明しているのだ。
 のみならず、自分はそうした父祖の余業をうけつぎ、はしなくも「俘囚の上頭」になったとも書いている。
 つまり清衡は奥六郡の蝦夷の族長たる安倍氏の血をうけ、その後は出羽の俘囚長としての清原氏に属したのだから、そのうえもともとは藤原秀郷の系譜をうけつぐ者なのだから、ここにおいて“蝦夷の頭目”として奥州藤原氏の初代となったのだと、そのことを自分は鮮明に自覚しているということを表明する。
 まことに画期的な“歴史的自覚”の表明というべきである。ここに奥州藤原四代の起点が示される(この点についても、3・11以降の東北はみずからの歴史と背景を大きく訴えるべきだろう)。
 しかし他方、清衡は朝廷ともつながっていた。願文の後半は、平泉が朝廷への貢物を絶やしたこともなく、期日に遅れたこともなかったことをあえて強調し、いま60歳を過ぎた自分が過去をふりかえってこの寺を建てるのは、さまざまなこの土地への思いと朝廷を司る貴人たちへの敬慕が重なっているからだということを、訴えるのである。

 実に堂々として、かつ完璧な口上だ。仏教のこと、鎮護国家への祈念、東北の地に対する愛情、「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」としての自覚、朝廷に対する敬意。それらがみごとに織り合わさっている。
 この時代、世はとっくに末法の世になっていた。都では念仏結社が生まれ、浄土庭園がつくられていた。院政も始まっている。平将門の蜂起以来は、武門の跳躍がやたらにめざましい。東北にも源氏の武将たちがやってきて、前九年・後三年の戦乱を収拾してみせたわけである。
 このような日本中世最初の過渡期に、清衡がはからずも奥六郡を占め、東北自立経営に乗り出したのだ。願文はこの込み入った事情を実にたくみに一文にした。
 とくに清衡が「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」の言葉をもって、奥州藤原氏が蝦夷の歴史文化を継承していることをアピールしたことは、今後のわれわれ日本人があらためて「東北」や「みちのく」を思うときの決定的な再起動点になるものだ。

 

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p.p1 {margin: 0.0px 0.0px 0.0px 0.0px; font: 12.0px Helvetica} 「中尊寺建立供養願文」

 

 東北の古代から中世にかけての歴史が、蝦夷(エミシ)とともに始まっていることは、もはやあきらかである。それ以外ではない。蝦夷と奥六郡が見えない者には東北は語れない。藤原氏は3代秀 衡の代になっても「奥六郡之主」と言われていた。
 ただ、その蝦夷がエミシ・エゾ・エビスなどと称され、そこにはヤマト朝廷にまつろわぬ民も、中央に服属して俘囚の民となった者たちも、他地域からの移住者も、北海道アイヌもまじってきたため、一言で蝦夷と称するだけでは、はなはだわかりくい様相が展開されてきた。
 では、どんなふうに東北蝦夷の時代社会を分けて見ればいいのか。参考のため、また念のため、それを『古代蝦夷の英雄時代』と『蝦夷の古代史』で整理しておく。ざっとは次のような5段階になる。工藤流である。

 Ⅰ=5世紀以前
 早期には古代ヤマト朝廷の勢力は東北地域の南部にまで及んでいるが、まだ強力なものではなかったし、安定もしていない。時によってはヤマトの王族や重臣が遠征をして待機勢力と戦うこともあった。このころの蝦夷は東国人(あづま)を広くあらわしていた。一方、エミシは「強い人々、恐るべき人々」の意味で使われていることが多い。倭王武の上表文にエミシを毛人と書いていることにもそのことが窺える。

 Ⅱ=6世紀から7世紀前半
 この第Ⅱ段階では、日本海側の東北は信濃川・阿賀野川の河口以南、および太平洋側の阿武隈川の河口以南に、国造(くにのみやつこ)制が施行され、この領域ではヤマト朝廷に敵対する勢力はいなかった。それゆえ、蝦夷とはこれらの「外の領域」の住民だった。そこで蝦夷はもっぱら「化外の民」とみなされることになった。他方、朝廷に服属の意志を示したものたちは「俘囚」とみなされた。

 Ⅲ=大化改新から平安初期まで
 国造制から国郡制に移り、蝦夷の管轄のため陸奥国と出羽国が置かれ、盛岡市と秋田市を結ぶ線の以南の地域に城柵が造営されていった。郡(こおり)である。これ以北は平安末期まで政府直轄地には組み入れられなかった。そこにアザマロやアテルイによる蝦夷の乱がおこり、坂上田村麻呂らの征夷大将軍が派遣された。アザマロやアテルイには蝦夷の誇りとともに、俘囚長としての自覚もあったと思われる。

 Ⅳ=平泉藤原氏の時代まで
 盛岡市と秋田市を結ぶ線以北に、元慶の乱、安倍氏が滅びた前九年の役、清原氏の内紛に発した後三年の役が次々におこり、そこに源頼義や八幡太郎源義家らの源氏の武将が絡んで、結局は奥州藤原氏の自立を促した。清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代にわたる奥州藤原氏は平泉に拠点を定め、北方交易・金山開発・仏教浄土の建設に勤しんだ。この時期に蝦夷の読みが「エミシ」から「エゾ」に変化していった。

 Ⅴ=鎌倉時代以降
 頼朝の奥州合戦が奥州藤原氏を滅ぼし、同時に義経の死をもって、鎌倉幕府による奥州支配が確立する。征夷大将軍の名は蝦夷対策から脱却して、御恩と奉公による海道日本の為政者の肩書きに変質する(1415夜参照)。幕府は奥州よりも東海道を重視し、北条氏以降は本州の北端と北海道だけが幕府の直轄となり、こうして以降は津軽海峡以北はアイヌの時代に入っていく。

 古代蝦夷の時代社会は、いったんは奥州藤原氏の掌中に入ったかのようなのだが、清衡・基衡・秀衡・泰衡以降はまた中世の“暗闇”のなかに放り出されていったのだ。
 そうだとすると、清衡によって「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」が自覚されていたとはいえ、藤原4代がすすむうちに、どうやらその自覚は薄れたか、掻きまわされたか、あるいはそれこそ清衡の願文によって、北方浄土に“浄化”されていったということなのだ。そしてそのぶん、「平泉」は繁栄の極致に向かっていったのだ。
 では、これまた参考のため、ごくかんたんに清衡以降の平泉をとりまく基衡、秀衡、泰衡の歴史を案内しておく。

 清衡は1129年(大治4)に亡くなった。73歳だった。後継者は多少の争いがおこったが、これを継いだ2代基衡は安定したマネジメントをしたようだ。
 一方で北方交易を拡張し、砂金・布・馬・漆・アザラシの革・アシカの皮・熊の皮・鷲の羽・昆布などを北海道を含めて内外に充実させ、これを都にも提供しつづけた。他方では毛越寺や観自在院の造立に励み、平泉の中世都市としての景観を整えていった。
 さしずめ基衡は、東北地方の荘園総管理人としての地位をまっとうしたのであろう。陸奥と出羽を治めて33年の在位だった。その基衡が亡くなったのは、ちょうど保元の乱と平治の乱のあいだのことになる。
 基衡を継いで、いよいよ3代秀衡が登場した。法皇と上皇と摂政と関白に源平が入り交じって戦闘を繰り広げていた最中である。秀衡の時代は源平争乱の頂点に向かっていく時期になる。
 すでに保元の乱後の後白河上皇の院政が開始されていて、平清盛が太政大臣になっていた。保元の乱で多くの親族を失った源義朝のほうは痛手が多く、これを挽回するには清盛を討つしかなかった。1159年(平治1)、義朝はクーデターを決行するが逆に清盛に制せられ、殺される。義朝の嫡子頼朝は伊豆に流され、義経は鞍馬山預かりとなった。よく知られている話だが、これが平治の乱の顛末である。

 

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毛越寺山白王院 所蔵「三衡画像」。奥州藤原氏三代の肖像。
上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡

  

 3代藤原秀衡は1170年(嘉応2)に鎮守府将軍になり、1181年(養和1)に陸奥守になっている。この約十年のうちに、日本社会ががらがらと裏返っていった。歴史はたいてい十年で大変動をおこす。
 この十年で、義経が鞍馬を出奔して、秀衡を頼って平泉に来た。以仁王の令旨(りょうじ)が発せられて頼朝が挙兵し、木曽義仲もほぼ同時に挙兵した。平家のほうは清盛が没して、宗盛が継いだ。後白河法皇が義仲を軽んじ、頼朝は義仲追討と東国支配を認められた。こういうことが連続しておこり、平泉の秀衡もこの天下の形勢を見るのに独特の勘をはたらかせていったのである。
 秀衡には、いろいろな風聞が立った。ひとつ、1183年(寿永2)には頼朝の郎党らが平泉に参じたおり、秀衡は頼朝の士卒たちに異心が多いと感じ、これを義仲に知らせて頼朝を挟み討ちにしようと企んだらしい。ひとつ、秀衡は義仲が頼朝追討の院宣を受け取ったかどうかをそうとう気にしていたらしい。ひとつ、秀衡その人に院庁下文がだされて、義仲とともに頼朝攻めが計画されていたらしい‥‥云々。

 つまりは秀衡と頼朝は、この時期、かなり虚々実々の駆け引きをしあっていたようなのだ。これは「北方の王者」の自負と矜持であり、端倪すべからざる外交手腕をあらわしていた。
 その後はどうなっていったかというと、続いて義仲が都に暴れて敗走し、頼朝と義経が会いまみえ、義経が平家を壇ノ浦に沈めると、今度は義経に頼朝追討の院宣が発せられるのだが、これに頼朝が逆上して義経追討の宣旨が下されたわけである。
 こうして1187年(文治3)の早春、あたかもビンラディンのごとく身を隠さざるをえなくなった義経は、ふたたび秀衡を頼って平泉に来るのだが、ここでついに秀衡は頼朝と本気で対峙しなければならなくなったのである。

 秀衡はむろん義経を匿(かくま)った。二人の蜜月の日々については、詳しいことはわからない。一方、頼朝は朝廷に対しても平泉を圧力をかけるように仕向け、自身も軍勢を平泉に差し向ける決断をした。ところが、その10月29日、秀衡は病没してしまったのだ。
 死去にあたって秀衡は、兄の国衡と嫡子の泰衡を融和させるべく、自分の妻を国衡に娶らせて、二人が主君を義経と定めて従うように遺言した。ところが泰衡がこの遺言を無視し、義経を衣川館に襲ったのである。義経は妻子を殺したのち、自害したことになっている(実は義経はこのとき巧みに逃れて北海道に渡ったのだとか、さらに大陸に渡ってチンギスハーンになったのだとか、その後の陸奥にはさまざまな義経北方伝説がのこされた)。
 しかし、義経の首だけでは頼朝は満足しなかった。ここに大軍を率いて4代泰衡を平泉に殲滅させることを踏み切った。これがいわゆる「奥州合戦」である。ここに、清衡・基衡・秀衡・泰衡の奥州藤原氏4代があえなく滅亡してしまったのである。夏草やつわものどもが夢のあと…。

 平泉文化について、もう少し書こうと思っていたが、今夜はこのくらいにしておこう。先に紹介した斎藤利男『平泉』(岩波新書)のほか、大石直正『奥州藤原氏の時代』(吉川弘文館)佐々木邦世『平泉中尊寺』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)、入間田宣夫『平泉・衣川と京・福原』(高志書院)、高橋富雄・三浦謙一・入間田宣夫『図説奥州藤原氏と平泉』(河出書房新社)などを見ていただきたい。
 できればこのあと、その平泉についてか、奥州合戦のことか、あるいは日本中世と東北社会のことを書きたいが、さて、どうなるか。あまり期待しないでいただきたい。

 

 

連塾ブックパーティ・スパイラル〈巻1〉「本の風」(2010.11.06)
ダイジェストムービー特別公開中

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次回の連塾は、2011年5月28日(土)に開催予定です。
(お申込み受付中・・定員になり次第、締切りとなります)
詳細はこちら→ 連塾ブックパーティ・スパイラル 公式ホームページ

 

 

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北上幻想

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 このところ「母国」という言葉をときどき発してみている。かつて「母なる空海」という言葉を突如として思いついて以来、ぼくのなかではしばしば出入りしていた“母系カテゴリー”なのだが、それを「母国」というふうに切り出すようになったのは、3・11以降のことだ。
 たとえば「東北復興は母国再生にならなくちゃね」「これは東北と沖縄を一緒に母国として見るということなんだと思う」というように。けれども、多くの反応はこの言葉をやんわり通り過ぎさせるだけで、そこに佇まない。いまさら母国ですか、おおげさ、うーん母国ねえ、東北は東北だろ、愛国っぽい、松岡さんもそういうことを言うようになったか、結局は日本論でしょ、お母さんで行きますか、ナショナリズム? 祖国じゃなくて母国なんだ、「方法日本」のほうがいいと思うけど、ちょっとめめしい‥‥。そんな感じだ。
 母国という言葉に慣れないのか、何かが嫌なのか、坐りが悪いのか、照れくさいのか。どうもまともに受け止めない。

 20年ほど前のことになるが、ぼくは高橋秀元や田中優子(721夜)や高山宏(442夜)らと物語の「型」を研究していた。そのなかで、世界中の物語にはそんなに多くはない数の「母型」があることに気づき、これを「ナラティブ・マザー」とか「物語のマザータイプ」と名付けた。
 何をもってナラティブ・マザーとしたか、その一端については『知の編集工学』(朝日文庫)に案内してある。
 一方、ユング(830夜)がその心理学のなかで、民族や宗教にひそむ「アーキタイプ」(元型)と呼んだものがあるのだが、それについては典型(ステレオタイプ)や類型(プロトタイプ)に対する原型(アーキタイプ)のほうに分類し、それらいずれにも共通していながら、もうちょっと漠然とした時空間に漂っていたり、どこかに埋め込まれているイメージの母体のようなものをあえて母型と呼び、これを「マザータイプ」とか、たんに「マザー」と捉えるようになっていた。
 文化人類学などでは、ふつうは母型をマトリックスと見るのだが、それだけでは不十分だと感じたのだ。あまり厳密なものではないし、むしろ厳密に規定しないほうがいいと思うけれど、しかし、われわれにはどうしてもこうした母型やマザーに逢着するときがあったり、その近くをうろうろしたくなることがあるはずなのである。
 他方、ぼくはグレートマザー(太母神)の伝説が好きで、これは最初は『ルナティックス』(ちくま学芸文庫)を連載しているときにのめりこみ、小アジアのディアーナ(ダイアナ)伝説を月女神や月知学に敷延していたのだが、その後にバッハオーフェン(1026夜)の大著『母権論』を読んでからは、世界中のマトリズム(母的思考)に対するパトリズム(父権的思考)の圧迫を知るようになった。
 そうしたなか、「母国語」や「母国」や「母なる大地」や「母音」「母体」「分母」という言葉に、しだいに深遠な愛着をもつようになっていったのだ。ぼくはいつかこの言葉を強く発しなければならないと感じてきた。
 これらの用語は、毫も民族主義的なニュアンスや国家的ニュアンスを含まない。ひょっとするとフェミニズムですらないのかもしれない。われわれの「胸の津波」を直撃する“何か”なのである。

 どうやら、みなさん勘違いをしているようだが、母国とは、必ずしもたんに生まれ育ったクニや民族性の中だけで見いだせるようなものではないのだ。母国は何も告示してはくれない。母国というのは探さなければ見つからないものなのである。
 ここに取り上げた森崎和江の『北上幻想』には「いのちの母国をさがす旅」という副題がついている。「いのちの母国」「母国をさがす」「さがす旅」というふうに。
 そうなのである。母国は探していくものなのだ。ときに容易に見つからず、ときにあてどもなくもなり、ときに見失う。それがふいにどこからか顕現もする。とても小さな母国に触知することもあるし、とても大きいときもある。見えないままのときもある。それが母国というものなのだ。
 森崎さんは生まれは韓国慶尚北道で、育ちは久留米で福岡県立女子専門学校の出身である。すでによく知られてきたと思うけれど、詩誌「母音」の同人となって詩を書きはじめ、谷川雁と出会って炭鉱労働者たちと「サークル村」の活動を開始、「無名通信」などを出し続けた。
 だから森崎さんの故郷といえばおそらく慶州でも福岡でもあって、実際にも『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本もある。いまは宗像神社のすぐ傍らに住み続けられている。
 しかし森崎さんはそれでも母国をずっと探してもいて、『北上幻想』では東北にひそむ安倍一族の行方を尋ねたのだった。前九年の役で滅びたあの安倍一族の母国を‥‥。

 実はおとといの5月28日の「連塾ブックパーティ」巻2で、ぼくはほぼ冒頭にこの『北上幻想』を紹介した。そうしたかったのだ。
 舞台のスクリーンにこの本の表紙を映し出し、たった2分程度ではあったけれど、なぜ3・11以降の東北に母国を探すことが必要なのか、その重要性を訴えた。

 

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『北上幻想』の紹介シーン
「なぜ母国を探すことが必要なのか」
喪にふすようにその想いを語った松岡

 

 この連塾はまた、これまで連塾に“出演”してもらった多くのゲストたちに3・11メッセージ「百人百辞百様」を提供してもらう場にもなっていて、青山スパイラル1階のガーデン回廊にそれらのA4判1枚ぶんのメッセージをやや拡大して、美柑和俊君のデザインによってずらりと公開もしていたのだが、そこへのぼくのメッセージも「母國」を墨書したものだった。「國」という字の「戈」の上部を囗(くに)がまえの上に突き出した書になっている。けっこう思いをこめた。
 それほどにここのところ、ぼくは母国にこだわりたかったのである。それは森崎和江がずっとずっと以前から静かに叫び続けていたことでもあったのだ。

 

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松岡正剛による『母国』の書

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本市会場に展示された「3・11 百人百辞百様」
過去の連塾出演者による3・11メッセージ
デザイン:美柑和俊さん

 

 森崎さんが住んでいる宗像の社には、宗像の女神たちが祀られている。海の沖津宮、島の中津宮、浜の辺津宮があって、それぞれが宗像三神にあてがわれている。「みあれ祭」では、沖津宮からイチキシマヒメを舟に迎え、中津宮からタギツヒメを迎えて宗像七浦の海人族がお供をして、辺津宮に鎮座するタゴリヒメに合流する。
 宗像三神はすべてが海の女神であり、アマテラスがスサノオと誓約(うけひ)をしたときにアマテラスの吐く息から生まれた女神たちである。その末裔は海流に乗り、海人たちの活動に応じて、日本の列島・群島のそこかしこに散っていった。
 その逆に、宗像三神と交流した記憶が九州に届いてもきた。そのひとつ、中津宮の大島は「お言わずさま」ともよばれ、そこにはなぜか安倍貞任と宗任の墓がある。森崎さんは長らくそのことに名状しがたいものを感じてきたようだ。陸奥(みちのく)の俘囚の物語に消えたはずの安倍氏の末裔がここに流れてきたのだろうか。それとも宗像神と安倍氏とはもともとどこかでつながっていたのだろうか。あるいは、その後の歴史にわれわれが失った母国の一族を結びつける何かの動向があったのだろうか。
 こうして森崎さんの宗像三神の相方(あいかた)を求め、そこに母国の脈絡を尋ねる旅が始まったのである。途中、若狭の小浜にも安倍一族の墓があったけれど、森崎さんの母国幻想が最もふくらんだのは、北上の安倍一族の消息だったのである。

 安倍一族の消息はたしかに日本列島各地に残響している。『筑前国風土記』には安倍宗任には3人の子があったと記され、長子は肥前松浦に渡って松浦党の祖になり、次男は薩摩に行き、そして三男が筑前大島に渡ってきて、宗像の杜に拠点をおいたと説明されている。
 一方、宗任たちは前九年の役で坂上田村麻呂に捕縛され、いったんは京中に連れてこられようとしたのだが、都には入れず、伊予に流されたときに逃亡を企てたので、治暦3年(1067)に太宰府に再配流されたなどという記録もある。『再太平記』では後三年の役の折に、八幡太郎義家が宗任を筑紫に下らせたというような物語をつくっている。
 これらは、たんなる安倍一族の伝承にとどまるものではない。津軽のアラハバキの伝説や悪路王の伝説とともに、われわれの北方伝承を組み立てている母国のモジュールそのものなのである。そこには、山内丸山の産女(うぶめ)の土偶から、安倍一族の子孫という安倍康季が「奥州十三湊日之本将軍」を標榜した物語までが含まれて、われわれの“北なる母国”を形成してきたわけなのだ。
 森崎さんはそのような思いの一端を「歌垣」という詩では、こんなふうに詠んでいる。

  降りつむ雪と響きあう
  北東北の山のエロス
  いのちの子らが光ります

 ところで、今夜はもう一冊、『北上幻想』に並べておきたい本がある。それは谷川雁の『北がなければ日本は三角』(河出書房新社)だ。
 谷川についてはいずれじっくり千夜千冊したいので、ここでは詳しくはふれないが、さきほども書いておいたように、森崎とは闘う同志としてしばらく筑豊にいた。1958年に森崎が筑豊の炭坑町に移住をしていたとき、谷川は上野英信や森崎や石牟礼道子(985夜)らと文芸誌「サークル村」を創刊しつつ、大正炭坑に行動隊を結成し、ラディカルきわまりない戦闘を辞さなかったのである。
 

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『北がなければ日本は三角』
谷川 雁
河出書房新社

 

 谷川自身は熊本県水俣の生まれで、熊本中学・五高をへて東大の社会学科に入り、戦後は西日本新聞社にはいるのだが日本共産党に入党したことで解雇され、大西巨人や井上光晴らと左翼活動をしながら「九州詩人」「母音」などに詩を書いていた。
 そのあと中間市に移住して、そのときから炭坑労働者たちと活動をともにするのだが、やがて60年安保のときに共産党を離脱、吉本隆明らと「六月行動委員会」をつくり、大正炭坑の争議では大正行動隊を過激に組織したりした。
 ぼくはそういう谷川に、早稲田時代からかなりの影響をうけてきた。『原点が存在する』『戦闘への招待』『影の越境をめぐって』など、いずれも貪り読んだ。実は「遊」を創刊するためにつくったちっぽけな母体に「工作舎」という名をつけたのも、谷川雁の『工作者宣言』にかぶれたところも多かった。そこに「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」と書いてあったことは、いまなおぼくのアクティビィティの中核に唸り声のように響いている。

 しかしその後の谷川は詩も書かず、思想書も、文人としての活動も、社会批評もしなくなった。TECという情報教育システムにとりくんで、なぜかいっさいの沈黙を守ったのだ。
 そうした事情についてもいずれ書きたいが(実は子供向けの創作や表現活動をしていたのだが)、その谷川が70歳になってやっと書いたのが『北がなければ日本は三角』だったのである。
 これは「西日本新聞」に連載されたもので、谷川が初めて幼児期と少年期をふりかえったエッセイだった。まことに淡々と「です・ます調」で綴られた回想記ではあるのだが、このタイトル『北がなければ日本は三角』が異様にも突き刺さる。
 これは谷川が小学生のときに、転向してきた女生徒から掛けられた謎なのである。いや、女生徒はもっと単純な意味で言ったのかもしれないが、谷川はこれを終生大事な謎にしてきたようなのだ。いったいどういう意味かは、谷川も証していない。しかし、たしかに日本は、北がなければ三角なのである。

 

【参考情報】

 

(1)森崎和江の著書や詩集は数多い。初版と現在手に入る版元はだいぶんちがっているが、だいだいは次の通り。
 『まっくら』(理論社・現代思潮社)、『非所有の所有』(現代思潮社)、『さわやかな欠如』(国文社)、『第三の性:はるかなるエロス』(三一書房・河出文庫)、『ははのくにとの幻想婚』(現代思潮社)、『闘いとエロス』(三一書房)、『異族の原基』(大和書房)、『奈落の神々』(大和書房・平凡社ライブラリー)、『かりうどの朝』(深夜叢書社)、『匪賊の笛』(葦書房)、『からゆきさん』(朝日新聞社・朝日文庫)、『光の海のなかを』(冬樹社)、『ふるさと幻想』(大和書房)、『産小屋日記』(三一書房)、『ミシンの引き出し』(大和書房)、『海路残照』(朝日新聞社・朝日文庫)、『髪を洗う日』(大和書房)、『湯かげんいかが』(東京書籍・平凡社ライブラリー)、詩集『風』(沖積舎)、『消えがての道』(花曜社)、『慶州は母の呼び声』(新潮社・ちくま文庫)、『森崎和江詩集』(土曜美術社)、『津軽海峡を越えて』(花曜社)、『インドの風間なかで』(石風社)、『ナヨロの海へ』(潮出版社)、『悲しすぎて笑う』(文春文庫)、『いのち、響きあう』(藤原書店)、『いのちの素顔』『語りべの海』(岩波書店)、『草の上の舞踏』(藤原書店)など。
 ほかに森崎和江コレクションとして『精神史の旅』全5巻(藤原書店)が新しく編集された。

 

(2)谷川雁についてはいずれ千夜千冊するが、現在入手できるのは、次のようなものになっているようだ。『原点が存在する』(講談社文芸文庫)、『谷川雁セレクション』1・2(日本経済評論社)、『汝、尾をふらざるか』(思潮社)、『谷川雁の仕事』『幻夢の背泳』(河出書房新社)、『極楽ですか』(集英社)、『谷川雁詩集』(現代思潮社)など。

 

(3)5月28日(土)の青山スパイラルホールでの「連塾ブックパーティ・イパイラル」巻2は、「本の名人・本の商人・本の芸人」と題して、まことに充実した催しになった。金子郁容・今福龍太・小城武彦・笈入建志・川上未映子・杉浦康平という順にオンステージしてもらったのだが、そのあいまに挟んだ映像を含め、すべて極上だった。
 1階のスパイラルガーデンでは、「3・11百人百辞百様」のメッセージ展とともに、5月26日はエバレット・ブラウンの、27日は浅葉克己のトークショーを開き、3日間を通して「BOOKS SEIGOW」の上映、「連々3冊」の販売、新たな函物「BOOX」の販売などの「本市」がおこなわれ、これまた大盛況だった。28日の「本宴」も小堀宗実家元の乾杯スピーチから高野明彦さんの3・11スピーチまで、聞き惚れた。次回の巻3は11月11日を予定している。

 

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連塾 ブックパーティ スパイラル巻❷「本の名人・本の商人・本の芸人」本談

 

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オープニングムービー
本を積み重ねてできた街にあふれ出す文字
制作:チームラボ

 

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本談 スペシャルゲスト「本人(ほんびと)」のブックウェアト―ク
川上未映子(文筆歌手) 杉浦康平(グラフィックデザイナー)

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今福龍太(文化人類学者) 笈入建志(往来堂書店店長)

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小城武彦(CHIグループ  代表取締役社長) 金子郁容(慶應義塾大学教授)

 

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本談エンディング
出演者の肖像フォトコラージュがフルスクリーンに映し出される
写真:中道淳さん

 

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本宴会場「乾杯」の場面
司会・進行:小城武彦さん、金子郁容さん
乾杯の音頭は小堀宗実さん

 

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5月26日、27日の本市会場で開かれたトークショーの様子
浅葉克己(アートディレクター) エバレット・ブラウン(フォトジャーナリスト)

日本の深層

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 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたりは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。
 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。
 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。
 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。
 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。
 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。
 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。
 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。
 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。
 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。
 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。
 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。
 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。

 

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  本書の旅程

 


 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。
 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。
 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。
 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。
 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。

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金色堂の一字金輪像


 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。
 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。
 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。
 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。
 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。
 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。
 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。
 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。
 

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 卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。
 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。
 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。
 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。
 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。
 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。
 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。
 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。
 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。
 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。
 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。
 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。
 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。
 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。
 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。
 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。
 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。

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十一面観音体(左)   聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。
 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。
 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。
 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。
 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。

 

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 猪の土偶(上)と熊の土偶(下)

 

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  津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

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南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

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サキオリ
 田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

 

 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。
 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。
 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。
 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。
 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。
 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。
 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。

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たちねぷた   毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。
 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。
 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。
 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。
 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。
 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。
 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。

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家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。
 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。
 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。
 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。
 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。
 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。
 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。
 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。

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ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。
 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。
 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。
 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。
 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。
 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。
 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。
 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。
 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。
 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。
 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。
 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。
 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。
 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。
 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。
 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。
 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。
 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。
 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。
 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。
 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。
 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。
 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。
 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。
 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。
 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。
 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。
 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。
 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。



【参考情報】

(1)梅原さんの著作についてはあまりに多いので、文庫本として入手しやすいところだけをかいつまむ。大きくは『梅原猛著作集』全20巻(集英社)がある。
 文庫別でいうと、次のようになる。文庫も変遷があるので、現在の版元で示した。それでもけっこうある。『地獄の思想』(中公文庫)、『隠された十字架・法隆寺論』『水底の歌・柿本人麻呂論』『黄泉の王・私見高松塚』『湖の伝説・画家三岸節子の愛と生』『写楽』『百人一語』『中世小説集』『海人と天皇』(新潮文庫)、『美と宗教の発見』(ちくま学芸文庫)、『哲学する心』『古典の発見』(講談社学術文庫)、『日本学事始』『さまよえる歌集』『歌の復籍』『聖徳太子』『塔』『文明への問い』『飛鳥とは何か』『日常の思想』(集英社文庫)、『仏教の思想』『学問のすすめ』『精神の発見』『日本冒険』(角川文庫)、『怨霊と縄文』(徳間文庫)、『誤解された歎異抄』(光文社文庫)、『混沌を生き抜く思想』(PHP文庫)、『古代幻視』『世界と人間』『自然と人生』(文春文庫)、『親鸞のこころ』(小学館文庫)など。
 まだ文庫になっていないと思うが、『京都発見』全9巻(新潮社)もしばしばびっくりさせられる。入門的には別冊太陽の『梅原猛の世界』(平凡社)、やすいゆたか『評伝梅原猛』(ミネルヴァ書房)などもある。

(2) 梅原さんとはずいぶん会っていない。自治省が日本各地の伝統芸能や祭りをデジタル映像にする計画をたて、その半分の費用を「ふるさと創成資金」のばらまき の不評に代えようとしたとき、そのデジタル化される伝統芸能や祭の応募候補を各市町村が提出してきて、梅原さんとぼくとがそれを審査する役割になって以来 ではないかと思う。
 その後のことで、もうひとつ。梅原さんはいろいろ賞の審査委員長も引き受けられていて、そのひとつに岐阜の梶原知事が創設した円空賞もあるのだが、とこ ろがぼくは同じ時期に梶原知事から織部賞のほうを頼まれて、そのためあまり会えなかったという、そんな事情もあった。その織部賞は古田知事時代になって廃止されてしまったので、いまとなっては懐かしい。
 ところで、いま梅原さんは、東日本大震災の復興構想会議にもかかわり、いよいよもって「日本の深層」としての東北再生をどのように着手していくかということに苦労されていると思う。その会議には本書の解説を書いた赤坂憲雄さんもいるので、二人でもっぱら文化面・思想面を訴えておられることだろう。大所高所というよ り、ぜひとも深所原所からのジャッジをしてほしい。

(3)念のため書いておくのだが、 梅原さんは本書では蝦夷はすべてエゾと読ませている。これはアイヌと蝦夷(エミシ)と蝦夷(エゾ)とをあえてごっちゃにしている意図のもとか、ときどきうっかりされているのかはわからない。北海道アイヌはともかく、東北におけるアイヌ文化はとうてい10世紀以前にはさかのぼらないし、当時「蝦夷」はほとんどエゾとは読まなかったので、そのへんがいささか気になるところだった。

 

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平泉・衣川と京・福原

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 高志書院は「東北中世考古学叢書」や「奥羽史研究叢書」を刊行していて、出羽や陸奥の考察には欠かせない出版活動をしている。小さな版元だが、重要な仕事をしている。本書はその高志書院と衣川遺跡発掘の研究成果を発表したシンポジウムとが結びついた。
 2006年6月、本書の編著者でもある入間田宣夫(東北芸術工科大学教授)が委員長となり、元衣川村長の佐々木秀康が副委員長となった「日本史のなかの衣川遺跡群」というシンポジウムがサンホテル衣川荘で開かれた。平泉研究会・岩手史学会・岩手考古学会・蝦夷研究会・北上川流域の歴史と文化を考える会が共催し、岩手県教育委員会、岩手県文化振興事業団の埋蔵文化財センター、中尊寺、毛越寺、マスコミ各社などが後援した。岩手の歴史文化にかかわる機関の総動員だった。
 シンポジウムは、2005年に埋蔵文化財センターによって六日市場・細田・接待館・衣の関道などの衣川遺跡群が発掘され、驚くほどの“発見”があったことをうけてのもので、その後、そのときの報告と議論をいかして「歴史評論」2006年678号に入間田宣夫・斎藤利男・菅野成寛・及川真紀・福島正和・羽柴直人・鈴木琢也・三浦圭介の論考が掲載された。
 本書はそれをベースに、さらに高橋昌明・保立道久・七海雅人・鹿野里絵・石橋高臣・西澤正晴・柳原敏昭が加わって、いっそう「平泉」「衣川」の歴史価値を深めた。
 これ以降、この手のシンポジウムが全国的な盛り上がりを見せて、その成果は吉川弘文館の『奥州藤原氏と柳之御所跡』や『日本史の中の柳之御所跡』などとなり、一躍「柳の御所」が知られるようになった。(平泉館ともよばれる)。これらの一連の動きがエンジンとなって、このたびの平泉の世界遺産認定につながったわけである。

 いつだってそうであるけれど、土中に埋められた“歴史”が新たな姿を見せるのは偶然のきっかけだ。平泉文化では、衣川の北岸の堤防工事がさまざまな“発見”のトリガーになった。
 おかげで、六日市場遺跡・細田遺跡・接待館遺跡・衣の関道遺跡などの衣川遺跡群が次々に発掘され、奥州藤原氏が繁栄した12世紀の正真正銘の遺跡であることが判明した。このうち接待館は近世の史料でも「秀衡の母の居館」として、六日市場は平泉全盛期の市街地として、以前から取り沙汰されていたのだが、柳之御所跡は奥州藤原氏が居住し、3代秀衡が構えた“北の政庁”ともいうべき「平泉館」だろうということになった。
 それとはべつに「衣河館」の役割も浮上して、ここが藤原基成の館であったろうことが見えてきた。義経が居住したのはこの衣河館のほうだろうということにもなった。基成は衣川のキーパーソンである。そのほか秀衡の“常の御所”の跡だろうという「伽羅の御所」も見えてきた。

 北上川→衣川→中尊寺→毛越寺→平泉館→伽羅の御所→衣河館は、それぞれつながっている。
 この順に12世紀末にむけて「東北」が自立的に、またさまざまな相互性をもって政治的にも文化的にも”開発”されていた。このことがわかった意味は、まことに大きい。
 衣川遺跡群の発掘はそうした歴史のミッシング・リングに意味を与え、多くの研究者の仮説を生み出した。こうした調査研究の成果をどのように解釈すればいいかについては、総じては斎藤利男の『平泉』(岩波新書)がその成果をうまくまとめているから、コンパクトにはそれを読まれるといい。仮説検証にも富み、読みやすくもなっている。
 ただし今夜は本書のほうを素材にして、坂上田村麻呂の遠征以降のおおざっぱな東北日本についての「見方」を提供しておきたいと思う。とくに京都や西日本との関係、および義経と平泉の関係だ。まずは衣川を感じなければいけない。

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都市平泉推定復元図


 衣川は北上川の支流である。現在の地理標識では、岩手県西磐井群平泉町と奥州市衣川区の境界を流れる。北上川が奥州をタテにつなぐ“母なる川”だということについては、前夜(1418夜)にもふれた。
 平泉はその北上川が広大な北上盆地をぬけて、一関の小平野に入った右岸にある。北上川は一関の南で全長20キロをこえる峡谷に入るため、洪水のときには溢れた河水が激しく乱流し、多くの網目のような河川をつくってきた。衣川はそのひとつだ。
 せいぜい幅100メートルほどの川である。しかし、都市平泉がこの幅100メートルの衣川をこえた地点に建設されたことは、東北の歴史にとってはきわめて大きな意義をもった。奥州藤原氏はこの100メートルの川をこえることによって、かつての蝦夷(エミシ)の文化風土を背景にしながらも中央の政権や王朝文化とわたりあうことができたからである。

 その衣川の北岸に立つとすぐわかるけれど、ここからは中尊寺の塔頭を仰ぎ見ることができる。気持ちのいい展望だ。
 政治を構えるにしろ、文化を発信するにしろ、中央を迎え撃つにしろ、絶景のトポスなのだ。実は平泉が四神相応を意図した風水による選地術で成り立っていただろうことも、今回の調査があきらかにした。
 ぼくは学生時代に初めて衣川・平泉を訪れてうろつきまわったけれど、衣川北岸に、いまでいう平泉館や衣河館などの往時の威容があっただろうことは、まだ陸奥の歴史を何も知らなかった当時のぼくにさえ、なんとなく伝わってきた。歴史の栄華の跡というものは、それがほとんど見えなくなっていればいるほど、何かを妙に告示する。
 いま、衣川村には城郭ふうの郷土史料館「懐徳館」が設えられている。そのフロントガーデンには、ここを西行(753夜)が文治2年(1186)の初冬に訪れたときの歌を刻んだ2基の歌碑が、東西に分かれて立っている。東に「ころも川みぎはによりてたつ波はきしの松がねあらふなりけり」とあり、西では「とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも」。断然、西の歌碑の歌が心を打つ。
 このとき西行は69歳で、平泉に来る途中に頼朝とも会っていたといわれるから、もしもそうならばすでに頼朝の奥州攻撃のプランを察知していたのであろう。「とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川」という深い言いまわしには、そういう西行が察知した藤原4代に寄せる万感の無常と人情が詠われている。
 この冬、西行は平泉で越年し、そのあとは出羽に向かった。その十月に秀衡が死に、義経が討たれ、明けて泰衡が追われて家臣に殺された。ここに藤原4代は滅亡してしまった。しかし平泉や衣川の往時の殷賑は、衣川遺跡群の発掘とともに日本人の記憶となって、いままさに世界に発信されようとしている。


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平泉町市街地
『図説 奥州藤原氏と平泉』より

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平泉全盛期の都市景観 (手前に北上川、奥に金鶏山)
『図説 奥州藤原氏と平泉』より


 そもそも清衡が江刺の豊田館を引き払って、磐井の平泉を奥州一帯の中心地に選んだのは、この地が「奥六郡」(胆沢・江刺・和賀・稗貫・志波・岩手)のセンターであり、安倍一族の本領であったからだった。
 けれども安倍氏は前九年の役で滅びた。そのとき清原の一族に名をつらねることになった清衡は、ここで勇躍一転、清原姓から藤原姓への転換をはかり、そのかわり「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」として奥六郡を引き継ぐことを決意した。33歳のときだった。
 後三年の役ののち、北方社会は新たな展開を見せていた。それまで郡(こおり)が立てられていなかった北奥羽の地に次々と郡が設けられ、「日本」の境界はそれまでの盛岡と秋田を結ぶ線からぐんと北上して、津軽にまで達したのだ。
 地域でいえば、奥羽北部に久慈・閉伊・鹿角・比内・津軽四群の8郡が、それに糟部・外ケ浜・西浜といった行政単位が加わって、宇曾利・外ケ浜・西浜が津軽海峡をまたいで渡嶋(北海道)につながったのである。そこはかつてのエミシではなく、エゾであり、擦文文化やオホーツク文化が入っていた地域だった(ちなみに擦文文化は12世紀にオホーツク文化を吸収し、北海道全域に広まった)。

 清衡は、こうしてエミシとしての奥六郡をセンターとしつつ、背後のエゾとの交易にも手をのばしていった。奥州藤原氏の時代とは、陸奥のエミシ文化と北方のエゾ社会を融合させた時代であるとともに、そこへ西の「和の社会」が入りこんでいった時代なのである。
 これは、中央の奥州政策が転換していったことも大いに関係している。前九年・後三年の役のあと、朝廷は軍事貴族を北の国守として派遣するのをやめ、鎮守府将軍を陸奥守として兼任させて、出羽秋田城介についてはその任命自体を中止した。軍事貴族たちの陸奥守就任は、寛治6年(1092)の源義綱で最後だった。清衡はこうした中央の政策転換をしっかり読んでいたにちがいない。
 かくして和の文化を北方に積極的に引き入れていったのが、2代基衡の時期だった。
 これ以降、京都の白河法勝寺をかなり意識的に模した円隆寺伽藍(=毛越寺)の造営が始まり、そこに中尊寺、観自在院、無量光院などを次々に加えた“北の浄土”が鮮やかに出現していった。その残香はいまなお中尊寺の金銀紫檀赤木の結構に、毛越寺の庭園や延年の舞に、二十日夜祭に先行する天台の常行三昧供に、うかがえる。

 当時の平泉の日々の生活はめざましいものだった。中部地方から運ばれた渥美や常滑の陶器もどんどん導入され、畿内の手技を彷彿させる「手づくねからわけ」が大量に使われていた。
 平泉は従来の東北らしからぬ様相を呈していったのだ。「手づくねからわけ」の使用は、あきらかに「京の都ぶり」を意識したものである。
 こういうことが出土品から見えてきたのだが、そこではっきりしたのは、アテルイや田村麻呂の時代の「武張ったもの」が平泉周辺からはほぼ退嬰し、代わって「北の雅びなるもの」がしだいに出現していったということである。平泉はそれまでの東北に漲っていた軍事的な性格を脱して、新たな生活文化的な“北の都”としての表情を整えていったのだ。
 風水を睨んだ四方の結構も整えられた。平泉の東方鎮守に日枝・白山の両社、南方鎮守に祇園社・王子社、西方鎮守に北野天神、北方鎮守に今熊神社。まさに小京都であった。

 こうして3代秀衡の時代に、衣川には平泉館(柳の御所)を中心に、秀衡の常の御所(加羅の御所)、その秀衡の子弟の館などがずらりと並び立っていく。ちなみにこの地では「館」は「たち」と読む。「たち」としての館は「庁」(たち)でもあった。平泉館(柳の御所)は平泉政庁なのである。
 平泉政庁でどんな日々が営まれていたかということは、まだ十分にはわかっていない。「かわらけ」(御土器)は使っていたが、いまのところ木簡が出土していないし、硯や筆もちょっとしか見つかっていない。しかし折敷(おしき)や御土器(かわらけ)の裏にはたくさんの和歌が書きこまれていた。斎藤利男はこうしたさまざまな事情を総合して、ここが「儀式と宴の社会」をつくりだしていただろうと推理した。
 その平泉館に加えて衣河館が造営されることになる。そこにやってきた人物が見逃せない。陸奥守で鎮守府将軍でもあった藤原基成である。
 基成はたちまち平泉を解くキーパーソンの一人になっていく。衣河館が基成その人の寓居となり、基成は秀衡の最高政治顧問とも、また黒幕ともなっていったのだ。なんといっても基成の娘が秀衡に嫁いで泰衡を生んだことからも、そのキーパーソンぶりがうかがえる。
 そういう衣河館に、やがて義経が寄寓することになったわけである。なんとなくやってきたわけではない。たんに逃げてきただけでもない。義経を招いた以上は、秀衡は義経を首班とする奥州政権を構想したはずだ。本書の編者でもある入間田宣夫は、そこには「奥州に幕府を樹立する」という構想があったのではないかと書いている。
 が、義経を招いたのち、秀衡はまもなく亡くなった。あとを継いだ4代泰衡は平泉館の当主となったけれど、頼朝からのプレッシャーに堪えられずに衣河館の義経を襲い、これをことごとく焼き払った。あとは「兵どもが夢の跡」となる。

 義経は、なぜわざわざ奥州藤原氏の平泉に入ったのだろうか。この義経奥州下向の問題は、これまで多くの歴史家の謎とされてきた。
 たとえば、秀衡が奥州で政権を牛耳ろうとして“貴種”としての義経をほしがったとも見られるが、そのわりには兵馬の機動に長けていた義経の軍事力をいかした戦いへの準備が見られない。その義経が兄の頼朝によって討たれた理由についても、多くの物語に登場しているような兄弟間の怨恨や怨嗟の説明だけでは、とうてい納得できるものではない。
 ちょっと変わった説は、後白河法皇の計略だったというものだ。後白河院はもともと清盛のあとの後継者に義経を指名しようとしていたのだが、そこへ頼朝が登場した。そこで頼朝と義経の仲を断って、頼朝に東国を統括させ、義経には西国を治めさせ、秀衡には北国を統率させようと企んだのだが、これを頼朝と北条政子が嫌ったため、義経は秀衡と結ぶことになったというものだ。
 これは後白河による「天下三分の計」とでもいうべきもので、もしそのままいけば三国志の魏・呉・蜀のような日本が、西国・東国・東北にできていたかもしれなかった。
 しかし、後白河がブレーンもなくてそこまで考えていたかどうかの証拠ははっきりしないし、仮にそういうことが試みとして仕組まれていて、途中で計画倒れになったのだとしても、では、それによってなぜ義経が奥州に下向してまで秀衡と結託することになったのかという説明には届かない。
 こうして新たな仮説を出したのが保立道久(東大史料編纂所教授)だった。本書では『義経・基成と衣川』という論考になっている。仮説の概要はいっとき話題になった『義経の登場』(NHKブックス)であらかた書かれているが、本稿ではそのあとの推理にまで及んでいた。

 保立は「平安時代は京都王朝を中心とした時代ではなくて、むしろ地方の時代だった」と捉えてきた研究者である。鎌倉幕府はその地方の勃興を確立に向かわせないための権力だったとも捉えている。
 その視点からみると、衣川遺跡群とは鎌倉幕府によって押し潰された地域だということになる。
 このことは逆に、それだけ京都と奥州平泉は隔絶してはいなかった、つながっていた、だからこそ平泉は地方権力として押し潰されるべき内実に富んでいた、ということにもなっていく。保立の義経論は、そうした京都と平泉との裏腹の関係線の上に成り立っていた結び付きを、義経の背後のネットワークからほぐしていくものだった。とくに義経と藤原基成の関係が強調される。例のキーパーソンだ。
 義経の母は常盤御前である。夫の義朝が殺されて一条長成と再婚をした(させられた)。長成は歌舞伎では『一条大蔵譚』が有名で、18代勘三郎の襲名披露にも選ばれていたが、ぼくは吉右衛門のほうに軍配を上げる。それはともかく、その長成の母方の祖父に藤原長忠がいた。長忠の血はこのあと基隆・忠隆をへて基成(!)へと続く。
 つまり陸奥守として衣川に入った基成は、もともとが義経とは遠い血でつながっていたわけだ。あまつさえ、その基成の娘が秀衡に嫁いだわけだから、秀衡が衣河館に義経を招いたということそのことが、京都と平泉の結び付きから派生した別格ヴァージョンだったのである。

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十七代中村勘三郎の大蔵卿(『一条大蔵譚』)
源氏再興に想いを寄せる本心を顕す大見得
 

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中村吉右衛門の大蔵卿
平家全盛の世を忍ぶ姿と聡明な本来の姿との演じ変わりの妙
写真:稲越功一『中村吉右衛門―播磨屋一九九二~二〇〇四』より

 以上のことは、基成が後白河法皇や平清盛の中央の意図や、新たな権力機構を奪取しようとしていた頼朝の意図から見て、はなはだ気がかりな存在だったということを暗示する。
 基成は康治2年(1143)から10年にわたって陸奥守になっている。のみならず、そのあとの15年のあいだ、甥の藤原隆親、弟の信説、伯父の藤原雅隆、従兄弟の源国雅といった基成の親類筋が、次々に陸奥守になった。ということは、基成の一族が陸奥守を独占していた時期があったということなのだ。
 しかも同時期、義経の父の義朝は下野守に、基成の弟の信頼は武蔵守になっていた。秀衡がその名を天下に轟かせる渦中、関東から奥州を広域的にネットワークしていたのは義朝と基成を結ぶネットワークだったのだ。

 

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系図 (「陸」と記してある人物が陸奥守)


 実はここまでの仮説は、あらかたは角田文衛によっても提起されていた。しかし、以上のことだけで義経が奥州に行く理由になっていたかといえば、なんだかまだまだ動機が浅い。保立はそこにもう一人のキーパーソン、源頼政を浮上させた。
 源頼政は歌人としてはもっぱら「三位の頼政」(源三位頼政)として知られる人物で、若いころは摂津の源仲政の長男として渡辺党を率いていた。その後、白河院や鳥羽院の北面の武士として西行とも同期の日々をおくり、美福門院や八条院とも親しかった。保元の乱のときは後白河の方に参戦し、平治の乱では最初は義朝に与したが、のちに清盛方に転じた。その後、従三位に叙して公卿に列したのだが、以仁王(もちひとおう)の令旨に応えて平家打倒のために挙兵して、宇治川の戦いで戦死した。
 そういう頼政がどんなふうに義経にかかわっていたのかというと、ここに一人の目立たぬ仲介者がかかわっていた。義経の奥州下向で金売り吉次とともに義経に同行していた陵助重頼という者だ。あまり義経もののドラマには登場しないが、このことは『平治物語』に書いてある。この陵助重頼が「私は深栖の三郎光重の子で、頼政と仲がいいんだ」と言っていた。義経もそれを聞いて自分の身分をあかしたというふうになっている。
 深栖光重は下野国の住人で、頼政の父親の仲政の養子だった。重頼は頼政の義弟の息子にあたる。義経は、そういう頼政との縁が深い者を同行させる気になったわけである。母の常盤と頼政が信頼関係でつながっていたからだ。
 常盤は一条長成(例の大蔵卿)の後添えとなり、長成が皇后宮の次官だったこともあって、後白河の側室たちとも昵懇になっていた。このときの皇后宮は徳大寺氏出身の忻子という女性だ。皇后太夫には忻子の兄の徳大寺実定が就いていた。源頼政はこの徳大寺とそうとうに親しく、頼政の和歌も徳大寺家の歌集に収められるほどの間柄だった。
 それよりなにより、平氏によって世間が席巻されつつあったとき、頼政は都で唯一の実力をもっていた源氏であったのである。平治の乱で義朝に与し、のちに清盛方に転じたものの、その後は以仁王の令旨に応えて平家打倒のために挙兵した人物である。
 義経としては、そういう頼政に縁のある子分なら同行させてもいいはずだった。こうした因縁や背景にもとづいて、義経は平泉に入ったというのである。この仮説、どのくらい説得力があるのかはぼくにはわからないが、今後はいろいろ膨らんでいきそうな感じもする。

 さて、本書のタイトルの『平泉・衣川と京・福原』は、本書の冒頭におかれた高橋昌明の論考「西の福原と北の衣川・平泉」を反映している。最後にそのスコープを紹介しておく。義経が平泉と関係した背景を考えるうえでも、新たなヒントになろう。今度は清盛の話だ。
 平清盛が西国に勢力をはるようになったのは、久安2年(1146)に安芸守となって、軍神である厳島神を氏神と奉じてからのことだった。厳島神社への参詣は10度以上にわたり、華麗きわまりない写経本も奉納した。いわゆる「平家納経」だ。
 古来、清盛の開削として名を馳せてきた「音戸瀬戸」(おんどのせと)が賑わったのも、このころのことだろう。この呉と倉橋島のあいだにある要衝は、その後の清盛の西国支配の構想の先触れだった。
 その清盛が太政大臣になったのは仁安2年(1167)のことである。これでいよいよ中央政界に勢威をふるうことになったのだが、これからというときに大病に罹り、一命をとりとめたものの、翌年に出家すると平家の代表権を嫡子の重盛に譲った。そしてどうしたかというと、本拠地の六波羅を重盛に引き渡し、自分は摂津の福原山荘に移り住んだ。
 以降、めったなことでは京都に出掛けず、居住すること10年に及んだ。好んで中国人クルーが操船する宋船(いわゆるジャンク船)を乗り回したり、厳島の内侍(巫女)たちに宋の装いをさせて大陸風の遊興をたのしんだ。都に入るときも六波羅には行かず、妻の時子の西八条亭に入った。逆に後白河法皇は二度にわたって福原の別業を訪れている。

 清盛が福原に行ったのは大輪田泊の機能に目をつけたからだった。すでに摂津・播磨の一帯は平家の荘園になっていた。その広大な荘園の力をバックヤードに、清盛は福原を都のヒンターランドとし、次なる国益をもたらす日宋貿易の拠点にしようと計画していたのである。
 大輪田泊は瀬戸内海の要港で、瀬戸内海を東に進んだ大型船はここに寄港する可能性が高かった。難波では河川が流出する土砂で、大型船の停泊はムリになりつつあったからだ。
 清盛は承安3年(1173)に大輪田泊の修築に着手し、瀬戸内海を運行するすべての運京船の入港を義務づけると、防波堤メンテナンスのための修築料を徴収し、これをテコに日宋交易に乗り出していった。たちまち宋銭が流入、『百練抄』によると治承3年(1179)にはいわゆる「銭の病」が流行したという。
 「銭の病」は宋銭流入による物価騰貴であった。だぶついた宋銭を公定するかどうかの議論もおこった。むろん清盛の狙いはそういう貨幣流通問題をおこすというところにはなかった。やはりのことに政権奪取の機をうかがっていた。福原への政権引き寄せを狙っていた。
 治承3年(1179)、清盛は後白河院を鳥羽に幽閉してクーデターを敢行した。院政がいったん廃止された。ところがよく知られているように、この暴挙に対抗して、以仁王の平家追討の令旨による頼朝、頼政らの挙兵がおこっていったわけである。
 源平の激突は目に見えていた。けれども清盛はその最中においても福原遷都を決行した。まだ福原には内裏などの造営はない。それでも幼い安徳天皇は頼盛の屋敷へ、高倉上皇は清盛の別業へ、後白河法皇は教盛の邸宅にあわただしく入ったのである。そして新都はついに造営されることなく、頼朝の挙兵などの混乱のなか、ふたたび都は京都に還都された。

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福原の地形図
(左上の図は風水説で吉相とされる地形)


 福原に何があったかは、まだ遺跡の発掘調査の途上なので詳細はわかっていない。平泉のようには遺跡調査が進んでいない。それでも天皇が仮の住まいとした頼盛の邸宅があった楠・荒田町遺跡や、福原のセンターであったろう祇園遺跡や、重衡の住居であった雪御所遺跡などが、それぞれ往時を偲ばせる。
 高橋昌明は福原には風水的な好条件があったのではないかと見ている。中国人あるいは高麗人が風水をとりこんだプランを清盛に提案したのではないかというのだ。そのあたりのこと、福原遺跡を含めていまのところまったく明確にはなっていないのだが、しかし高橋は、このあと頼朝が鎌倉に新たな幕府をつくりえたのは、「北の平泉的なるもの」と「西の福原的なるもの」の統合であったのではないかと結論づけるのである。
 こういう仮説だ。ぼくには説得力があるように思えた。
 わかりやすくいえば、院政の爛熟のさなかの源平争乱期、北に「平泉の都とプレ幕府」が、西に「福原の都とプレ幕府」が相並ぼうとしていたということなのだ。両方ともに風水にもとづき、両方ともに「武の雅び」を謳っていた。けれどもまさにその矢先、頼朝はその北の平泉と西の福原の両方を蹴散らして、新たに鎌倉に幕府を築いたということなのである。
 東北の問題は東北でおわりはしないのだ。平家は滅んだが頼朝とともに鎌倉に移り、平泉は義経とともに滅んだけれど、征夷大将軍の名のもとに源氏政権の中にとりこまれていったのだ。3.11以降の東北の本来と将来を考えるには日本の全体を動かしてみるべきなのである。ときに北方世界全体との関連を、ときに東アジアとの関連をさえ……。

 

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義経の東アジア

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 この本の主旨は、義経が30歳ちょっとの生涯をおくった12世紀後半は、日本史上の稀にみる転換期であって、かつ東アジアでも重大な選択がおころうとしていた時期に当たっているのだから、そして秀衡・清盛・義経・頼朝の奥州藤原氏の時代もまたそうした動向の本質と似たところをもっていたのだから、義経を考えるにもつねに東アジアは欠かせないというものだ。
 ま、こんなふうに簡素に言ってしまってはミもフタもないだろうから、ではもう少し説明することにする。
 その前に、この著者はなかなかおもしろい。機知にも富んでいるし、記述の工夫も怠らない。『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(トランスビュー)があるかと思えば、『靖国史観』(ちくま新書)があり、ぼくもおおいにお世話になった『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)なんていう本も書いている。
 こういう本の並びからすると、てっきり日本の歴史学か日本思想史の研究者だろうと思われるだろうが、そうじゃない。実は1962年生まれの、れっきとした気鋭の中国思想史の専門家なのだ。『中国思想と宗教の奔流』(講談社)、『朱子学と陽明学』(放送大学)などがある。それなのに、『足利義満』(光文社新書)などのジャパン・プロブレムを軽々と料理してしまう腕前の持ち主でもある。
  本書はもともと勉誠出版で同名の書籍として刊行された。義経についてのアジア的捉えなおしの展開はほぼこちらに書いてあったのだが、このたびはこれに「日本を東アジアから見るためのリベラルアーツ」ともいうべき見方についての補助章がいくつか加えられ、いっそう背景の被写界深度のレンズ効果が増した。そういう一冊である。表記した編集者の名は小島明が勉誠出版に、中嶋廣がトランスビューに属する。
 それでは、著者の異能ぶりが伝わったところで、さっそく本書の“提訴”を案内するが、それにはひとまず義経の時代とその動向をあらあらに把握しておかなくてはいけない。

 義経は平治1年(1159)に生まれた。それぞれ母の異なる源義朝の11人兄弟の9番目だった。それゆえのちに九郎とも名のった。父の義朝は東国で活躍していた武士団のリーダーで相模の鎌倉の楯(館)を本拠にしていた。
 長兄の義平は相模原の遊女を母とする「鎌倉悪源太」、三兄が熱田大神宮の娘を母とする頼朝、次が池田宿の遊女が母の範頼で、義経は常盤を母として生まれた。九条院(藤原呈子)に仕えていた官女だったようだ。そうとうの美女だったと『平治物語』にある。
 生まれてすぐに父の義朝が平治の乱で殺された。母親の常盤は幼い義経を連れて大和の龍門に隠れ、兄の頼朝は伊豆に流された。
 母は捕らえられたが、わが子の命乞いと引き換えに清盛の言いなりになることを引き受けたので(清盛とのあいだに一子を生んだ)、義経はひそかに牛若丸として7歳まで山科に育って、あとは鞍馬山中にいた。
 鞍馬は都の北方の守護神である毘沙門天(多聞天)の山である。ここで牛若は遮那王(しゃなおう)とよばれ、稚児として仕付けを施されるはずが、暴れん坊に育った。鬼一法眼なる奇怪な人物から武術を教わったということになっている。鬼一法眼は中国の兵法書『六韜』を伝授したらしい。
 ここに荒法師たちがいたか、その中に弁慶がいたかどうか、牛若が五条大橋(一説では五条天神)でひらりひらりとその弁慶を翻弄したかどうか、まったく史実にはのこっていない。
 その後の常盤は、前夜(1419夜)にも書いたように一条長成(大蔵卿)に嫁ぎ、その長成はその父の一条長忠にさかのぼれば藤原基成とは縁戚関係で、その基成がのちに奥州平泉の館に入ることになり、そこへ義経が落ちのびるようにやってくるわけだから、常盤の再婚は義経の未来を図らずもスコープしていたことになる。

 承安4年(1174)、牛若丸はひそかに鞍馬を出て奥州平泉の藤原秀衡のところに行った。これが最初の奥州藤原氏とのかかわりである。金売り吉次や陵助重頼(りょうのすけしげより=深栖三郎)らが手引きしたということになっている。一条長成の縁があったのかもしれない。
 奥州への途次、熱田神宮の大宮司のもと元服をはたし、源九郎義経を名のった。九郎判官だ。のちのち義経人気のことをしきりに「判官(ほうがん・はんがん)贔屓」というのは、このときの名義に倣っている。
 治承4年(1180)、清盛が後白河法皇を幽閉して院政を一時停止させたことがきっかけに、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨が出て、頼朝が伊豆で挙兵した。
 このことを聞き知った義経は、ずっと会いたかった兄と駿河の黄瀬川に初めて対面した。このときの兄弟は互いに手をとりあって源氏の武運と平家打倒を誓いあっている。
 しかし頼朝は侍所を開設して、ここに義経をその一人として配下した。頼朝は累代の家人や広大な所領などもっていなかった男である。直属の武力基盤などなかった。ただ源氏の嫡流という貴種性によって坂東武士団の“主君”に推戴されているにすぎなかった。
 もし頼朝が天下に君臨したいなら、ここで坂東武者とは明確な一線をしき、自分をかれらの容喙を許さない超越者に仕立てあげなくてはならない。それには、どんな武士団連合をも自分の下知に無条件で応じる政治システムに組織替えし、武士の一人一人を御家人として従属させることをめざす必要があった。それは弟の義経でも例外ではなかったのだ。

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黄瀬川陣(安田靫彦画/部分・東京都国立近代美術館蔵)
兄頼朝挙兵の報に接した義経は奥州藤原氏の元から急ぎ参陣。
富士川合戦の翌日、黄瀬川にて感激の対面を果たした。
13才歳の離れた兄弟はこれが初対面だった。
2人は心を合わせて打倒平氏の誓いを新たにする。

 義経の初陣は、征夷大将軍を名のったばかりの木曽義仲を宇治・勢多に追いかけた戦陣である。当時の義仲は“朝日将軍”といわれるほどの勢いだった。しかし義経はなんなく豪猛で鳴る義仲を近江の粟津で討って、そのあと初めて入京した。
 元暦1年(1184)、頼朝に平家追討の命がくだると、義経は今度は六兄の範頼とともに西国の福原に向かったが、平家はここを脱出していたため、一ノ谷で「鵯越えの逆落とし」などの奇略を敢行して平家軍をもののみごとに破ると、屋島に逃れた一門をさらに追撃した。
 その途中、義経は後白河院から晴れて左衛門少尉および検非違使に命ぜられ、さらに従五位、大夫判官へと順調に昇進していくのだが、これが兄頼朝の勘気にふれた。
 それまで頼朝は以仁王の平家追討の令旨によって動いていたにすぎない。この令旨は頼朝だけに与えられたのではなく、誰もが挙兵することができた。これではいくら頼朝軍が勝とうとも天下の中心には近づけない。そこには朝廷からのオーダーこそが必要だ。当時の権力者は後白河法皇である。だから、その宣旨を入手したかった。それなのに義経は後白河法皇に近づいて、ちゃらちゃらしている。
 これが気にくわなかったのだ。頼朝は頼朝で鎌倉に公文所・問注所を開いて、次の手を準備する。

 文治1年(1185)、平家は壇ノ浦に沈んだが、都での義経の評判の高揚や人気にくらべ、その勝利は関係者たちにはまったくよろこばれなかった。梶原景時の讒訴が迎え、頼朝からは勘当された。
 平家滅亡が3月24日で頼朝の勘当の達しが5月4日だから、わずか1カ月すこしで義経は嫌われたわけだ。そこでともかくは兄のいる鎌倉に行こうとするのだが、その手前の腰越で差し止められた。このとき江ノ島近くの満福寺で書いたのが有名な「腰越状」で、大江広元に兄への執り成しを頼んだ手紙だ。叛意のまったくないことを訴えた。のちの寺子屋で手習いにされるほどの名文と書風だが、弁慶が下書きしたとも伝わっている。
 腰越状に対する頼朝の返事は「そのまま京都に帰れ」というもので、甚だ冷たい。のみならず所領24カ所を没収した。ここに至って義経は兄との対決もやむないと感じ、叔父の源行家らとともにあらためて後白河法皇に接近し、頼朝追討の院宣を獲得する。これでもう引き返しはなくなった。
 頼朝も土佐坊昌俊に義経が依拠する堀川を襲撃させ、これが失敗すると、ついでは大軍を率いて義経を討ちにかかった。なんとか九州惣地頭に補任をもらった義経はたまらず西国に向かうのだが、11月6日、大物浦(だいもつうら)で出帆したのち、嵐のなかで和泉の浦に漂着したという噂をのこしたまま、消息を絶った。6日後、頼朝は義経追討の院宣を得るものの、義経の行方は杳としてわからない。
 どうやら吉野山にいるらしいということになり、そこを襲うのだけれど、捕まったのは静御前だけだった。歌舞伎『義経千本桜』はこのときの出来事を題材にした。
 こうして義経の逃避行が始まっていく。そこには『勧進帳』に名高い安宅ルートなどもふくまれるのだろうが、そしてそれが能や歌舞伎にもなっていくのだが、史実はどれもこれもはっきりしない。ともかくも文治3年2月、義経はついに奥州平泉の藤原秀衡の御所に辿り着いたのである。

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腰越状(末尾・満福寺蔵)
父の仇である平氏を見事に討ち滅ぼした義経だが、
兄頼朝の疑心を買ってしまう。義経が自分には異心が
ないことを訴えたのが腰越状。左下に義経の名がみえる。

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大物浦難船(中尊寺蔵)
再起を期すために大物浦から西国を指して出航した義経一行だったが、
大嵐に遭遇して難船する。平知盛の亡霊が大風を起こしたとも伝えられている。


 秀衡の庇護のもと、義経は藤原基成の衣河館に入った。その挙動のいっさいは伏せられていたが、平泉に義経がいるらしいという情報は、まもなく頼朝の耳に入った。さっそく後白河法皇に奏申して義経追捕を命じる使者を平泉に送った。ところが秀衡はこれをにべなく断った。
 秀衡には奥州政権を確立したいという意志が迸(ほとばし)っていた。しかし、これこそ頼朝が虎視眈々と待っていたことなのだ。義経には追捕の命令が出ているのだから、これを匿えば国家的犯罪になる。秀衡はその禁を犯した。頼朝はまんまと「北の王者」を討つレジティマシーを得たことになったのだ。もっとも奥州攻めとなれば、事態は大掛かりになる。まずは征夷大将軍の名義を求め、頼朝は万策を練ることにした。
 そこへ秀衡の病死が伝わってきた。文治3年(1187)10月末だ。義経は最大の後ろ盾を失った。一方、頼朝にはチャンスがおとずれた。頼朝は藤原基成と4代泰衡に義経の討伐を命じた。ぐずぐずしていた暗君の泰衡はそれでも文治5年4月になって、衣川を襲った。義経は持仏堂に籠もって応戦したが、もはやこれまでと自害して果てた。時にわずか31歳だ。
 義経の死が奥州藤原4代の最期なのである。これ以降、日本は幕府をセンターとする「武者の世」となり、源氏、北条氏、足利氏をへて徳川一族による幕藩体制に進んでいく。

 以上の通り、義経の一生(1159~1189)は12世紀後半のことになる。まさに武家政権が生まれようとする日本の転換期であるが、この時期は東アジアの転換期でもあった。その話に入ろう。
 義経が生まれた1159年ちょうど、日本からざっと2000キロほど離れた中国の一隅で陳淳という男が生まれた。陳淳は義経が非業の最期をとげた翌年の1190年に朱子(朱熹)と出会い、その後は朱子に師事してさまざまな問答を重ねることになった。その問答は全140巻の『朱子語類』となり、陳淳が直接の弟子とかわした問答は『北渓字義』となった。
 義経の時代とは東アジアでは朱子学が確立していった時期なのである。
 陳淳が生まれたのは中国暦では紹興29年だった。これは高宗が即位して29年たったことをあらわしている。高宗は南宋の初代皇帝であるが、宋の皇帝としては開国以来の10代目にあたる。父親は風流天子として名高い徽宗(きそう)皇帝で8代目、徽宗は自由に書画を遊んでいたのだが、兄の哲宗が病死して急遽皇帝となり、蔡京(さいけい)というブレーンと国政にあたらざるをえなくなった。ところが、そこに難問が出現してしまったのである。

 そもそも「宋」という国は、その当初から「燕雲十六州問題」をかかえていた。このことがわからないと義経の時代の東アジアはわからない。
 10世紀はじめに唐帝国が倒れた。北中国に5つの短命な王朝が続いた。これを「五代」という。そのひとつの「晋」は、建国のために北方の「契丹」(きったん)の援軍を必要とした。そしてその代償としていまの北京や大同などの一帯を契丹に割譲することにした。これが燕雲十六州である。契丹はやがて「遼」という国名になった。
 宋は割譲後も燕雲十六州は自分たちの領土だと主張したが、遼には強大な軍事力があったので宋からの対応策がなく、11世紀になると講和条約を結んで遼の十六州占拠を認めることにした。その一方、宋の中で発行する地図には十六州は宋の領土だと示した。まるで今日の日本における北方領土や竹島だ。
 そんな宋と遼の関係に転機がおとずれたのが徽宗時代だった。遼のさらに北方にいた女真が「金」という国を建て、宋とのアライアンスを求めてきた。徽宗と蔡京は、よしよしこれなら金と組んで遼を挟み撃ちにできると思った。ところがこれが失敗だった。
 宋は遼に負け続け、金は遼に勝ち続けた。おまけに宋と金が遼の領土分割の交渉に入ると、金は有利な条件を引き出すために宋の本土に侵攻して都の開封(かいほう)を包囲する始末で、徽宗は退位、蔡京は処刑されてしまった。
 こうして9代欽宗皇帝が継ぎ、その欽宗が金によって北方に拉致されるという「靖康の変」がおこると、10代皇帝の高宗が即位したわけである。
 高宗は金とのあいだに平和友好条約を結び、20年に及んだ交戦状態に終止符を打った。ところがそれがさらに20年ほどたつと、金の側から一方的に条約を破棄してきた。紹興31年(1161)のことで、義経が常盤と離されて鞍馬山に入るころだ。
 たちまち宋は混乱し、都の臨安(いまの杭州)は恐慌状態になり、金もここぞと襲いかかろうとしたのだが、虞允文(ぐいんぶん)という前線司令官ががんばって長江南岸の采石機というところで金を食い止めた。

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10〜12世紀の東アジア
(棚橋光男『王朝の社会』小学館、より)


 かくて南宋は生き延びた。では、このことを日本から見るとどうなるかというと、清盛は金と日金貿易をしないですみ、日宋貿易に集中できたということになる。
 前夜(1419夜)にも書いたように、清盛の日宋貿易で日本には宋銭が大量に流入して「銭の病」がおこった。相手国の通貨が一方的に流入してきたということは貿易黒字が出たということだ。1980年代の日米関係もそうだった。ドルが日本に入ってきて日本は貿易黒字、アメリカには貿易赤字が積み上がっていった。おかげで手ひどいジャパン・バッシングを食らった。
 ただし、現代では自動車をはじめとするさまざまな製品が交易されるのだが、当時はまったく別の交易品が流れた。日本は何を中国に売っていたかというと、何だったかお分かりだろうか。金(きん)を売ったのだ。
 中国では北方では金が産出するが、南では採れない。もしも清盛の交易の相手が女真の金王朝であったならば、日本は貿易黒字はもてなかった、宋が相手だからこそ金(きん)が売れたのである。徽宗の失敗は東アジア社会にとって大きな転換だったという意味が、ここにある。
 では、その金(きん)が日本のどこから清盛のところに届いたのかというと、奥州からやってきた。藤原氏が調達していた。清盛はこれを宋に流すために西国福原の大輪田泊をつくって拠点にし、そこから奥州産出の黄金を動かしたわけである。
 奥州藤原氏のほうはどうしたかというと、実は一方で清盛経由で宋を相手にしたとはいえ、実際には他方で北方の遼や金を相手にしていた。清衡・基衡・秀衡とは北方交易の王者なのである。これは何を意味するかといえば、奥州藤原氏は京の朝廷や福原の清盛政権に頼らずとも、独自の北方交易で奥州政権をそれなりに維持できたということだ。だからいまさら清盛の方針に従う必要はない。
 ここに、もうひとつの“東アジアの義経”の意味が隠れている。清盛政権から源氏の政権に時代が移るとき、源氏の棟梁頼朝にとってはこのままでは具合が悪かったのだ。まして義経が奥州にいるということは、新たに政権を動かそうとしていた頼朝にとっては、もっとまずい。頼朝が清盛同様の新朝廷型の内政や外交や交易をするつもりだったのなら、これでもいいのだが、頼朝はまったくそんなことは考えていない。
 複合的な武士団の力を背景に頼朝に「御恩と奉公」を誓う御家人を集め、従来のシステムとは異なる「幕府」というものをつくろうとしていた。そのために征夷大将軍になろうとしていた(のちになった)。それなのに、弟の義経が奥州と組んでしまったのだ。これでは頼朝は平泉政権ととももに義経を叩くしかない。そういうことになる。

 本書の著者の小島毅は、平家と源氏の対立をはなはだ斬新な視点でとらえている。それは「開国か、鎖国か」という視点だ。平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だったというのだ。
 そもそも清盛と頼朝は「武の家」どうしの闘いであったとともに、大きくは東日本(東国)と西日本(西国)の覇権争いでもあった。しかしそれとともに同じ源氏の棟梁においても、その方針が開国に向いているか、鎖国に向いているかということによって、骨肉を分けた者のあいだでも熾烈な闘いを演じたのであった。頼朝が義経を無慈悲に屠ったのは、“奥州義経”が清衡以来の開国性に富んでいたからだったのだ。
 実は、その後に3代実朝が鎌倉八幡宮の大銀杏の下で殺されたのも、そういう事情によっていたと小島は見ている。実朝はなぜ殺されたのか。宋に心酔しすぎていたからだった。鎌倉幕府はそういう実朝を早々に抹殺することによって、いわば「関東農本主義」を基軸にした新たな「日本一国主義」の確立を急いだのだ。
 この見方はかなり大胆である。はたしてそこまで踏みこんで言えるのか心配になるほどだ。しかし小島からすれば、それほどに東アジアにおける宋の役割が日本の12世紀と13世紀に大きくのしかかっている、そこに義経の抹殺も含まれていたと言いたいわけなのである。


【参考情報】

(1)小島毅の著書については上記に紹介しておいたので(『近世日本の陽明学』は必読書)、ここでは義経まわりの参考図書をあげておく。
 学界的にセンセーショナルだったのは保立道之の『義経の登場』(NHKブックス)で、その関連では元木泰雄の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)、奥富敬之の『新・中世王権論』(新人物往来社)、菅野覚明『よみがえる武士道』(PHP研究所)などが新しくて、わかりやすい。東アジアを背景に見るには村井章介の『東アジアのなかの日本文化』(放送大学テキスト)あたりがどうか。武家とは何かということでは、野口実の『武家の棟梁の条件』(中公新書)をどうしても読む必要がある。
 むろん義経をめぐってはいろいろな本がこれまでしこたま出ているが、もともとは『義経記』(平凡社・東洋文庫)が下敷きである。これに『平治物語』や『吾妻鏡』が加わる。が、これらは史実にもとづいているとはいえない。そのためさまざまな空想が生じてきたのだが、それを勘案して新たな歴史的義経像を描いたという点では、いまならばまずは五味文彦の『源義経』(岩波新書)か、奥富敬之の『義経の悲劇』(角川選書)か、上横手雅敬の『源義経・源平内乱と英雄の実像』(平凡社ライブラリー)かだろう。ごくごく入門的にはいろいろあるものの、きっと『図説源義経』(河出書房ふくろうの本)が便利だろう。
 ちなみにぼくは、偕成社の子供向け伝記本をべつとすると、古くは角川源義・高田実の『源義経』(いまは講談社学術文庫)などをたのしんだ。司馬遼太郎の『義経』(文春文庫)はつまらなかった。

(2)本書『義経の東アジア』をとりあげたのは、これまでの一連の「蝦夷→古代東北問題→奥州藤原氏の意味→平泉の役割」という流れの頂点を示すためで、ぼくとしてはこれでいったん「番外録」をもとの「連環篇」に戻して、長らくほうっておいたアジア・ユーラシア遊牧民から唐や宋やイスラム諸国をへてモンゴル帝国に及ぶ歴史の案内にとりくみたいと思っている。そこで今夜は「東北」と「アジア」を結節するために本書をもってきたのだった。
 もっとも「番外録」はこれからもときどき挟もうと思っている。とくに原発問題についてはあまり突っ込んでとりあげてこなかったので、今後の事態の推移に応じてとりあげたい。すでにぼくの手元には100冊近い原発系の本が積み上がっている。

(3)東北問題については、実は鎌倉幕府以降の大きな出来事としてとりあげなければいないと思っていることがある。それは「津軽安藤氏」の問題だ。十三湊(とさみなと)を根拠に安藤太郎が「日の本将軍」を名のったのだ。すこぶる興味深い。うまく千夜千冊の流れがつけばいずれ拾いたい。けれども、もしそうならなかったら、ぜひとも小口雅史編の『津軽安藤氏と北方世界』(河出書房新社)を読んでほしい。この一冊に極まっている。

 

 

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アーリア人

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別番 いよいよ今夜から「連環篇」に戻るんですね。久しぶり。

半東 『遊牧民から見た世界史』(1402夜)以来。

校長 うん、あの3・11以降、やっぱりこれは〈現在〉につながる本を書くべきだと思って「番外録」を走らせることにしたわけだから、約3カ月半ぶりの再開かな。

半東 でも校長の「千夜千冊」はいつも〈現在〉につながっているんじゃないんですか。とくに〈歴史的現在〉に。

校長 うーん、そうは言ってもマグニチュード9・0と大津波と原発事故の連打はとんでもない〈現実〉だったからね。日本への挑戦だった。頬っかむりはできないと思ったね。いまでもそうだよ。

右筆 「番外録」で用意されている本がけっこうあるんですね。

校長 そうだねえ。東北論もまだまだあるんだけど、とくに原発論や日本再生論をね。

右筆 原発論ではいい本は出てるんですか。

校長 このところひとしきり見てみたけれど、やっぱり亡くなった高木仁三郎の『原子力神話からの解放』(講談社α文庫)や『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)は必須だろうね。でもそのほか西山明『原発症候群』(批評社)、堀江邦男『原発ジプシー』(現代書館)、森永晴彦『原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ』(草思社)なども紹介してあげたいね。

半東 有名すぎるけど、広瀬隆の『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社)や新著の『福島原発メルトダウン』(朝日新書)などもありますよね。

校長 あれはスジモンだ。『危険な話』(八月書館)このかた、終始一貫しているね。1996年の『腐食の連鎖』(光文社)など、地震と原発の連動性を早くから指摘していたしね。そのほか、かつてから話題になっていた木原省治『原発スキャンダル』(七つ森書館)、坂昇二・前田栄作『日本を滅ぼす原発大災害』(風媒社)とか、恩田勝亘『東京電力・帝国の暗黒』(七つ森書館)なども見逃せない。こういう本は先駆者だからね。ぼくはたとえ少数でも先駆者には敬意を表したい。そのうちとりあげるかな。

 

右筆 日本再生論のほうはちょっと見てみましたが、強烈なスマッシュはないみたいですけど‥‥。

別当 でもまあ、佐藤優の『3・11クライシス!』(マガジンハウス)を筆頭に、緊急出版ものもいろいろ出てきましたよね。大前研一の『日本復興計画』(文藝春秋)とか佐野眞一(769夜)の『津波と原発』(講談社)とか、

校長 いま日本の知識人たちが何を発言しているのか、何を考えようとしているのか、これはやはり要チェックだね。たとえば中沢新一(979夜)が「すばる」で3回連載して第八次エネルギー論を提言していて力作だったけど、さあ、あれでいいのかどうかとかね。それから野口悠紀雄はかつての『「超」整理法』なんかは大嫌いなんだが(笑)、今度の『大震災後の日本経済』(ダイヤモンド社)はよく書けていた。でも、やはり合理詰め。なんだか釈然としなかったなあ。いまは、小田実が阪神大震災のあとに書いた『被災の思想・難死の思想』(朝日新聞社)のような重みがないんだね。

半東 うーん、そうか。第八次エネルギー論っていうのは何ですか。

校長 エネルゴロジーの用語で、第七次が原発だね。第八次エネルギー時代は太陽エネルギーの媒介的変換の時代。中沢君はそこに贈与互酬性の社会とキアスム構造の社会の実現があるというふうに言っているんです。

半東 野口悠紀雄の提言っていうのはどういうものですか。

校長 自分で読みなさい。

方師 そうそう、そういう話ばかりしていたら「連環篇」にはいつまでたっても戻れない。校長は「番外録」を続けたいんですか。

校長 いったんは戻るんです(笑)。とはいえ大震災の余波と福島原発の危機的状況はあいかわらず予断を許さないだろうから、それに中東情勢もわが政権の動向も当分は目を離せないだろうから、ときおり「番外録」も交差させていきたい。

別当 ま、そこが校長のいいところなんですが、でも気分を変えて、再開「連環篇」の第1弾は何ですか。

校長 さすが方師や別当は仕切るね。すでに予告していた通りの青木健の『アーリア人』にしたい。

半東 『遊牧民から見た世界史』(1402夜)でスキタイ人などのユーラシア遊牧民の動向を書かれていましたが、そのつづきですね。

校長 つづきなんだけど、実はいろいろな暗合や符牒も感じていてね。「番外録」を書いているあいだ、とりわけ古代東北「陸奥」の負荷の歴史をふりかえった『蝦夷』(1413夜)を書いてからというもの、ぼくの〈歴史的現在〉のいくつもの目盛を示す針は「東北とユーラシア遊牧民のあいだ」をせわしなく揺動しつづけていたわけです。アザマロやアテルイや悪路王の伝承はあきらかにユーラシアのステップロードや東北アジアとつながっているように思えたし、擦文文化やオホーツク文化と交わっていた津軽安藤氏や中世アイヌの動向は北方ユーラシアや海のアジアそのものなのなんだよね。

別当 前夜の『義経の東アジア』(1420夜)がまさにそうですね。

半東 あれって、清盛から頼朝にいたる中世日本の「開国性と鎖国性」が実は東アジアの金や宋の王朝の動向と密接につながっていることを示していました。

別番 もっと義経の話を詳しく書いてもほしかった。ぼく、義経フリークなんです(笑)。

方師 俺も(笑)。義経ってロックンロールですよ(笑)。

半東 パンクかもしれない。

別当 まあまあ。あまり雑談に走らないように。「東北とユーラシア遊牧民のあいだ」のことを聞きましょう。

校長 連休中に東北の被災地に向かい、最初に釜石に降り立ってかつての「鉄の街」(新日鉄釜石の街)を見たときも、そこにパストラル・ノマドの影がひそんでいるように感じたんだね。釜石名物の「呑ん兵衛横町」はぐちゃぐちゃの瓦礫と化してはいたんだけれど、それはユーラシア遊牧民が無数につまりあげた小さなオアシスの崩壊とつながっていた。東北を北方ユーラシアから切り離してはいけないんです。

方師 そういえば校長は3月の別当会議で「東北復興は沖縄問題と一緒に考えるべきだ」とも言っておられましたね。

校長 うん、そう思っている。

 

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登場キャラクター

 

別当 では、そろそろ今夜の本題を(笑)。

校長 これはねえ、一言でいえば「いったいアーリア人とは何か」という問題です。問題はそれだけなんだけど、そのアーリア人がとても多岐に分かれているため、これがなかなか出入りが複雑きわまりないんだな。

半東 アーリア人って、紀元前3000年から1500年くらいの出現ですよね。ユーラシアのカスピ海や黒海のあいだの一角にあらわれた。

別番 遊牧民の元祖。

校長 元祖かどうかはべつとして、いろいろ移動した。それが多様で、広域にわたった。だからどこからどこまでがパストラル・ノマドのアーリア人なのか、その本流と分派の関係が掴みにくい。

半東 インド・ヨーロッパ語族の母体ですよね。

校長 言語学からいうと、そうなるね。そもそも大きくアーリア人を分けるとね、(A)ヨーロッパに入っていったグループと(B)イラン・インドに入っていったグループがいたわけです。それぞれが古代ユーラシアの特色をつくっていったので、これをさかのぼって(A)+(B)という母体があったというふうにみると、その母体がのちに言語学的にはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)と名付けられたマザーだったということになる。

別当 インド・ヨーロッパ語族って言ったって、その系譜はかなり広いですよね。

校長 そう、それについては今夜の本では紹介できなくて、できればコリン・レンフルーの『ことばの考古学』(青土社)という古典的名著から、それを発展させたピーター・ベルウッドの『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会)あたりをとりあげて論じたいこところだね。でも、今夜はムリだ。

半東 農耕起源? 農耕と語族とが関係あるんですか。

校長 あるね。ベルウッドが言ったことは、西アジアに発生しただろう農耕が地球上に広まっていったのは、語族の広がりと重なっていたんではないかという仮説だね。農耕の発散と語族の系譜はつながっているんじゃないかということです。でも、その話はまたにしよう。それに「千夜千冊」ではまだセム語族の問題とかアルファベットの起源とかをちゃんと扱っていないから、そのうちまとめて紹介するよ。

別当 はい、たのしみにします。で、話を戻して、さっきの(A)と(B)はどうなっていったんですか。

校長 ヨーロッパに入っていった(A)のグループはやがてゲルマン人の起源だとみなされるんです。そしてヨーロッパ3000年の歴史に白色人種の誉れを伝える“アーリア神話”をつくりだしていった。一方、(B)のグループのほうは、一方では火と水の誓いを生んだイラン民族系となり、他方はインダス文明崩壊のあとのインド的な“ヴェーダの民”となった。(B)のグループはイラン系とインド系に分かれるんだね。

別番 その話はうんと前の『空海の夢』(春秋社)でもふれられていましたね。アフラとアスラの分化。

別当 イラン系のアフラ(アフラ・マズダ)とインド系のアスラ(阿修羅)。あれは衝撃的だった。

校長 でも、あのときの見方はごくごく大づかみでね、そこには実にめまぐるしい草原と砂礫の民の交代がおこっていたんだね。

 

半東 校長、アーリア人とは何かという問題って、ヒトラーのアーリア信奉と結びつくんでしょう?

校長 それが“アーリア神話”だね。

別番 俗説ですよね。

校長 そうね、かなりあやしい。白色人種の祖先がアーリア人である。それは金髪・碧眼・長身・細面というすばらしい特長をもっている。世界で最も優秀な民族であり、したがってヨーロッパン・アーリアンはヘレンラッセ(支配種族)なのであるというものだね。ようするに「白いアーリア人が人類最古の血を引いた最優秀人種だ」ということをヒトラー・ナチスは強力に鼓吹した。
これは人類学的にも遺伝学的にもむろんデタラメもいいところなんだけど、実はこの手のアーリア神話はナチスだけではなく、欧米の長きにわたる民族イデオロギー史のなかで稠密に用意されてきたものでもあったんです。たとえばヤーコプ・グリム(1174夜)の『ドイツ人の歴史』は骨の髄まで政治的な著作なんだけど、そこで主張されているのは「ヨーロッパの大半の民族や部族は親族関係にある」ということだった。こういうふうに、ヨーロッパ人のルーツとしてアーリア人が想定されてきたわけです。

別当 純血主義と優生学。

校長 そう、それだね。ただ、そのアーリア人がはたしてその後のどの民族や国民に“純血”をつないできたかということについては、ヨーロッパの中では決して一致を見なかったわけだ。こういう論争がヨーロッパの歴史ではしょっちゅうおこっていた。

別番 ふーん、ナチス以前から?

校長 そう、ずっと以前から。たとえばドイツ人のことを例にすると、イギリス人は「ジャーマン」と呼び、スカンディナビア人は「サクソン人」と呼び、ロシア人は「ニェームツィ」と呼ぶよね。それからイタリア人は「テデスキ」と呼ぶ。ドイツ人自身は「ドイッチェ」を好んできたけれどね。そういうふうに、それぞれ勝手な各国事情が民族ルーツを競いあって、互いの呼び名を争ってきたんです。
どの国のどの民族をどうみなすかということは、ヨーロッパにおいてはアイデンティティの競争であり、それってアーリア権の争奪なのです。そのへんのことはレオン・ポリアコフに『アーリア神話』(法政大学出版局)という熱意と検証に満ちた一冊があるので、近々紹介したい。これはかなりおもしろい。

 

方師 いま思い出したんですが、白色人種が黄色人種を蔑んだけれど、そこにもアーリア神話が入っていましたよね。

半東 19世紀末から「イエロー・ペリル」(黄禍論)の汚名を強引にかぶせられましたからね。

校長 そうだね。その黄禍論もいつか千夜千冊したいね。ともかく、そういうことも手伝って、アーリア人とは何かという問題については長期にわたっての捏造学説が多いんです。だからこの手の本は、これまで日本人の研究者のほうにはほとんどなかったといっていい。俗説にまみれていた。本書が初めての本格的な一般書のお目見えだったかもしれない。

右筆 へえ、そうなんですか。青木健ってどういう著者ですか。

校長 ぼくは会ったことはないけれど、この人は1972年生まれの東大イスラム学科出身の気鋭の研究者だね。けっこう若い。すでに『ゾロアスター教』(講談社選書メチエ)、『ゾロアスター教の興亡』(刀水書房)といった著書があるように、もともとはゾロアスター教の専門家です。
ぼくもゾロアスター教については「千夜千冊」でメアリー・ボイス(376夜)を紹介したおりに、著者の先生筋にあたる伊藤義教さんの研究成果などにふれてきたけれど、そもそもゾロアスター教を見るということは、その背後のイラン系アーリアの歴史と民族と文化のすべてを引き取って見るということでね、青木さんはそれをみごとにやってのけたわけです。
ただし、本書では(A)(B)のすべてを扱っているんではなくて、(B)のイラン・インド系グループの、とくにイラン系アーリアを中心にとりあげています。それでもかなり複雑だけどね。

 

別当 では、そろそろ本論に(笑)。

校長 そうだねえ、どう説明するかな。えーと、まずおおざっぱなことで言うと、「ウクライナ平原でスキタイ人が動いた」ということだね。これでいろんなことが始まったということです。スキタイが黒海の北あたりから東に動いて、サルマタイ人を押して「塞」の民とした。そこへ中央アジアに匈奴があらわれて広大なユーラシアを席巻していった。
で、その一部は西に向かってフン族としてヴォルガとドンとドニエプル川を渡り、いわゆる「ゲルマン諸民族の大移動」となったわけだ。別の一部は匈奴のままに春秋戦国期の中国に向かい、中国側からは脅威の異民族として東夷・南蛮・西戎・北狄などと呼ばれた。とりあえずは、そういう大きな図を思い浮かべてほしい。

右筆 スキタイが最初ですか。

校長 いや、先行者がいた。イラン系アーリア遊牧民で最初に確認できているのは、前9世紀のころにウクライナ平原から西アジアに移動したキンメリア人だね。続いてそのウクライナ平原にスキタイ人が登場して、天幕に移動式の幌車をつけ、馬を駆って前後左右に移動するようになった。さらに前6世紀になると中央アジアでサカ人が出没した。サカ人は鹿(サカー)をトーテムとした部族です。

右筆 キンメリア、スキタイ、サカ‥‥。何が違うんですか。

校長 みんなパストラル・ノマドだけれど、これらがまったく別々の民族や部族かどうかは、実はまだはっきりしない。似たような民族の部族ちがいが戦ったのかもしれません。というのも、キンメリア人やスキタイ人を観察したのがギリシア人で、サカ人を観察したのがペルシア人であるからです。お互いに表現がちがうんでね。でもキンメリア人はホメロスの『オデッセイ』にも言及されている。その後のギリシア語文献でも「冥界(ハデス)の入口を守護する民」とみなされた。ギリシア人にはかなり怖がられていたんでしょう。ひょっとするとアッシリア帝国の周辺にいたのかもしれません。

右筆 スキタイって遊牧騎馬民族ですよね。黄金のバックルなんかで有名な一族ですね。

校長 そうだね。キンメリア人を撃破したのがスキタイ王のマドイェスであるということはわかっています。馬を駆り、竈の女神タビディを信奉し、柳の枝を束ねて占う占術師を連れ、エナレエスと呼ばれる生殖能力のない司祭たちを伴っていた。宦官かもしれないし、オカマだったのかもしれない。変わってるよね。
このような特徴は東アジアの遊牧騎馬民族にも大きな影響を与えている。白川静さんが『詩経』と『万葉』に柳の枝が川上から流れてくる呪能を書いているのは、ずっとさかのぼればスキタイからの共鳴だったわけですよ。

半東 ステップロードを東アジアに向かって疾駆する姿が彷彿としてきます。

別当 新薬師寺の十二神将?

半東 決してロックンローラーじゃない(笑)。

方師 でもステップローラーだった(笑)。それにしても校長は遊民学がお好きだからスキタイは気になったでしょうね。

校長 そうだね。40年前に雑誌名に「遊」を冠したぼくとしては、パストラル・ノマドの本家ともいうべきスキタイの遊牧歴史的な実態をなんとか掴みたかったのだけれど、なかなか結像しないままにきましたね。いまでもわからないことが多すぎる。それでも最近になって雪嶋宏一の『スキタイ:騎馬遊牧国家の歴史と考古』(雄山閣 2008)という大きな一冊に出会えたので、もう少し詳しいことを見ている最中です。

 

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イラン系アーリア人遊牧民の活動の舞台
(キンメリア人、スキタイ人、サカ人)

 

別番 キンメリア、スキタイ、サカのあとはどうなりますか。

校長 舞台はやっぱりウクライナ平原なんだけれど、前3世紀ころ、ここに東方のサルマタイ人が出現して覇権をとるんです。この交代が大きくて、中央アジアのサカ人の一派がイラン高原のほうへ動いていったんだね。これがパルティア人です。で、中央アジアに残ったサカ人のほうは中国から塞族と呼ばれていたのだが、そこへ大月氏が入って勢力を奪っていった。そしてインド亜大陸に動いていった。

右筆 そのころ中国はどうなっているんですか。

校長 さっき匈奴の一部が春秋戦国期の中国に向かって、中国側からは東夷・南蛮・西戎・北狄などと呼ばれたと言ったよね。そういう時代です。

右筆 そういう時代っていうと?

校長 想像するに、おそらく夷は夏王朝となり、これを狄の湯王らの殷王朝が襲い、そこへ戎に押された一群が周王朝を立てて、そこから秦が出現していったんだろうね。

右筆 南蛮は?

校長 楚が南蛮だろうね。でもこのあと匈奴は分裂する。分裂して、そのうちの東匈奴から南匈奴と北匈奴が派生した。中国は後漢の時代にこれを手なづけようとしてしきりに西域経営をするんだけれど、そんなことくらいでユーラシア遊牧民の力が衰えるわけではないよね。結局は八王の乱をおこし、中国は五胡十六国となっていくんです。遊牧民系も羯・羌・鮮卑・拓跋などの組み合わせによる連合軍をつくっていった。そのなかには匈奴王の單宇たちもいたのだから、かなりぐちゃぐちゃ。

別番 鮮卑、拓跋はその後の東ユーラシアの動向を握りますよね。

校長 そうね。鮮卑や拓跋は馬を駆って強力な軍事力をもって東アジアを縦横無尽に動き、ついには朝鮮半島にまで入っていったからね。そのうちの一部がさらに日本列島の北や南に紛れていくわけですよ。いわゆる天津神(あまつかみ)の一族。江上波夫さんが「遊牧騎馬民族が天皇の一族になった」と言った、あれです。はっきりそうかどうかは証明されていないけれど、おおざっぱにはその後にヤマト朝廷を形成の一族がかつてこういうふうにやってきたんだろうことは、当たらずとも遠からずだろうね。
でも、ヤマトの一族ばかりがやってきたわけじゃない。その一方で古代日本の蝦夷や隼人の伝承にも、そういう面影がある。

別番 鮮卑や拓跋の面影?

校長 うん、それは当然にありうるね。

半東 蝦夷やアイヌもですか?

校長 そのへんは別の議論が必要だ。オホーツク文化と擦文文化の関係とか、スキト・シベリア文化の影響とか。
でも、本書の主題はこの匈奴から鮮卑への流れの話ではないんです。匈奴は言語的にはアルタイ系の言語民族でね、のちの「テュルク・モンゴル系」(トルコ・突厥・モンゴル系)につながっていく。それに対して本書の主人公であるスキタイやサルマタイやサカを生んだアーリア人というのは、さっきも言ったように別の系譜に属するんです。それが(B)のイラン・インド系のアーリアなんです。

 

別当 校長、かなりややこしいです。何か一覧できる歴史マップや民族表はないんですか。

校長 地図も図表も何枚かに分かれるから、ぴったりしたものはないけれど、イラン系アーリアをざっとまとめれば、次のようになるかな。ひとつは遊牧民系で、もうひとつは定住民となったグループだね。

 

  ◎遊牧民系
    ウクライナ平原‥‥‥キンメリア人、スキタイ人、
              サルマタイ人、アラン人
    コーカサス山脈‥‥‥オセット人
    イラン高原‥‥‥‥‥パルティア人
    中央アジア地域‥‥‥サカ人、大月氏、エフタル
    インド亜大陸‥‥‥‥インド・サカ人、インド・パルティア人

  ◎定住民系
    イラン高原西北‥‥‥メディア人
    イラン高原西南‥‥‥ペルシア人
    イラン高原東北‥‥‥バクトリア人、マルギアナ人
    中央アジアA‥‥‥‥ソグト人
    中央アジアB‥‥‥‥ホラズム人
    中央アジアC‥‥‥‥(タリム盆地)ホータン・サカ人

 

右筆 ずいぶんいろいろな民族がいる。イラン系アーリアっていっても多様なんだ。

半東 どういうふうに見るといいんですか。

校長 上から順に見てください。このうち一番古いのがウクライナ高原で動いていたキンメリア人とスキタイ人で、スキタイによってキンメリアは史上から姿を消すわけです。でも、あまりにも忽然と消えたみたいなので、キンメリアはその後のヨーロッパ人に多くの想像力をはたらかせることになるんだね。キンメリア人こそが「白色人種の高貴な遊牧民の祖」で、それがのちに「黄色人種で野蛮な遊牧民の祖」であるフン族や匈奴と対比されることになっていった。

右筆 ああ、そういうふうな対比になるんですか。だからイエロー・ペリルもおこったんだ。

半東 消えたキンメリア人のあとは、スキタイが残りますよね。

校長 スキタイは、おそらく前7世紀ころにマッサゲタイ族に押されて中央アジアから西に向かい、最初はコーカサス山脈付近を拠点にしたと言われているけれど、そこにキンメリア人が“消失”したので、そこへもぐりこむかたちで黒海北岸のステップ地帯を牛耳ることになったんじゃないかと考えられてますね。本書はそういう説明になっていた。

半東 次のアラン人というのは?

校長 その前に、スキタイがイラン高原の西北部に南下を始めたとき、そこにいたのはメディア人だったんです。ただしここでは激突はおこらずに相互の混交がおこった。前672年にメディア王国がアッシリア帝国から自立したのは、メディア系とスキタイ系の混交力によっていたと言われるからね。

別番 メディア人って、メディア王国の?

校長 そうだね。メディア王国ってイラン系アーリア人が遊牧から定住になった最初の国家です。アッシリアを壊滅させたのもメディア人でしたからね。それならメディア王国は拡大し発展していったのかというと、そうはならなかった。次の西アジアの覇権はイラン高原の西南部を本拠とするペルシア人の掌中に落ちます。で、これ以降、7世紀にイスラムを掲げたアラブ人が登場するまで、セム語族がオリエントの政治的覇権を握ることはない。以降、なんと約1200年にわたって、イラン系アーリア人が西アジアを主導するわけです。

方師 そうか、ペルシア帝国がいったん入って、それを古代ギリシア人たちが観察するんだ。スキタイはヘロドトスの『歴史』に詳しいですよね。

校長 そうだね。古代ペルシア帝国の発展はすさまじい。先住のエラム人の力を組みこんで、前675年にパサルガタエ族の族長チシュピシュが政権を奪取は、アンシャンの町を首都としてとりあえずのペルシア王国を建国した。ついで前559年にキュロス大王が就任すると中央アジアに進出して、これがカンビュセス王に継承され、さらにそのいっさいの力がダレイオス大王に集約されていった。
このヘルシア王国がウクライナのスキタイを叩いたわけですね。それから巨大なペルシア帝国になっていった。

 

右筆 スキタイの影響は西のギリシアにも及ぶだけでなく、ユーラシアの東にも及びますよね。みんなスキタイ化していったんじゃないですか。

校長 それはいい質問で、ふつうならセンターに巨大な力が結集されると、それに似た周辺部が広がっていくんだけれど、この時期はまだユーラシアの勢力分布なんでスカスカだから、影響を受けないでさっさと動いていく連中がけっこういたんです。

右筆 スキタイから外れていった連中がいた。

校長 サルマタイがそうですね。サルマタイはこのスキタイの動きに追従しなかった。コーカサスを越えて西アジアに行くのではなく、東欧のハンガリー方面に侵攻してローマ帝国の北側を脅かしたんです。けれどもそのサルマタイも長くは君臨できなかった。版図も広げていませんね。

別当 どうしてですか。

校長 それがさっきのアラン人の動向と関係していた。

半東 アラン人って気になりますよね。

校長 1世紀前後にウクライナを動いていたアラン人たちがいて、それがサルマタイを駆逐したようだね。そのアラン人の動向は中国の『魏略』にも「阿蘭」としてのこっているんです。で、サルマタイがオリエントに関心を示さなかったのにくらべ、このアラン人は頻繁にコーカサスを越えていったんですね。

半東 アランって「アーリア」っぽい言葉ですよね。

校長 おそらくアーリアが転訛してアランになったんだろうね。

別番 アラン人とヨーロッパ文化の関係って、のちのちまで続くでしょう。アラン・レネやアラン・ドロンみたいに、ヨーロッパにアランの名が多いのはこの連中に肖ってのことだよね。

校長 さすがフランス文学の教授だね。そうです。ヨーロッパにはアラン君が多い。アラン・ロブグリエもアラン・ジュフロワも。そうなった経緯は、初期のアランの覇権が4世紀まで続いて、これを破ったのはいままでのようなイラン系アーリアたちではなくてフン族だったことが時代の転換点なんだね。テュルク系のフン族によってアランは四散した。
フン族はそれまでのアーリア系とは見かけもかなり異なっている。クレルモンの僧正シドニウスが「短躯で細い目と偏平の鼻をもち、ぞっとするような姿をしている」と書きのこしているんだけれど、それはアラン人が「長身で美形の金髪」と記録されてきたのとは、まるっきり正反対なんです。

右筆 フン族と匈奴は同じ系ですか。

校長 それがまだまだわからないことが多いんだけれど、モンゴル高原の匈奴の一派が西走してフン族を励起させたのだろうという説が有力だよね。ただ、それならそれで、ではその匈奴はどうやって出現してきたかというと、そこがまたわからない。内田吟風の有名な匈奴論や、それを批判的に継承した沢田勲の『匈奴』(東方書店)を読んだくらいでは、ぼくにもそのルーツはいっこうに見えてはきていません。

 

半東 四散したアラン人はどうなったんですか。例の4世紀半ばのゲルマン民族大移動のころの話ですよね。

校長 そうね。フン族によって蹴散らされたアラン人は、一派はヨーロッパに逃避し、他派はコーカサス方面に活路を求めたようです。ヨーロッパに行ったアラン人たちは、みんなも高校で習ったように、次々にトコロテン式に押されたゲルマン諸民族とともに一緒にまじって黄昏のローマ帝国領のあとに入っていった。ゴート族やヴァンダル族とともにライン河を渡ってフランスへ、さらにはピレネー山脈を越えてスペインに入り、一部はジブラルタル海峡を越えて北アフリカにまで達していったんですね。

右筆 みんなアラン君ですか。

校長 いやゲルマン諸族とまじってのことだ。そういえば「カタロニア」ってあるよね。あれもゴート系とアラン系がまじって合成された言葉です。

別当 コーカサスのほうに行ったアラン人のほうはどうなっていくんですか。

校長 あんまり移動しなかったみたい。山岳地帯に入って牧畜や農耕をするようになり、しだいにキリスト教に改宗していったようだね。現在のロシアに北オセティア共和国があったり、グルジア共和国があるね。そこに住んでいるのはオセット人というんだけれど、これがコーカサスを越えたアランの末裔だとみなされてます。オセットには「ナルト叙事詩」という独特の口承神話があってね、これが泣かせる。

別番 大相撲で賭博疑惑がもたれて各界を追放された露鵬、白露山、若ノ鵬とか、あれはみんなオセット人ですよね。

校長 ふーん、別番はそういうこと、詳しいね。

 

別当 ユーラシアの真ん中のほうはどうなっていきますか。中央アジアのイラン系アーリア。

校長 うん、ここにはパルニ族がいて、ずいぶん以前から遊牧ポリスのようなものを形成していたようだ。
パルニ族は前3世紀半ばにカスピ海の南岸一帯のパルサワで、新たな支配権をとっていてね、それがパルティア人です。パルティアの族長にアルシャクという男が出てきて、アルシャク王朝を建てます。で、重装騎馬隊を組織してまたたくまにイラン高原北部を蹂躙していった。さらにメソポタミア平原を領有し、ここにパルティア国家という巨大な遊牧王朝をつくりあげていく。パルティアは西アジアに勢力を伸ばしていったんです。

半東 クテシフォンですよね。

校長 最初の首都は今日のトルクメニスタンのニサーだけれど、6代目のミフルダート1世のときに力量がついて、8代ミフルダート2世のときにクテシフォンを造都した。これは盤石だった。その後のアルシャク家の支配はほぼ500年近く続くからね。

右筆 信仰は何ですか。

校長 コインを見るとわかります。アルシャク朝のコインは最初こそギリシア文字が刻まれていたけれど、のちにはパルティア語の刻印となり、それにともなってミトラ(ミスラ)神の像を彫りこんだ。ということは拝火壇をもつ信仰がさかんだったということだよね。これがゾロアスター教のヴァージョンとも取り沙汰されると、青木さんは書いていた。

別当 あのー、中国ではパルティアを「安息」と呼んでますね。

校長 そうですね。パルティアはのちのセルジューク・トルコの王朝の先駆体ともなっていく重要な集合体です。

別当 のちにササン朝になっていくのも、その集合体の変化でしたよね。

校長 アルシャク朝のパルティア人に代わって西アジアを支配する王朝は、なかなかあらわれなかったんだけれど、それが3世紀の始めにササーン家に率いられたペルシア人たちが勢力を伸ばして、アルダフシール1世のときにアルシャク朝を破ってクテシフォンに入場した。これがササン朝ペルシアです。西アジアが久々に統一された。

半東 そうか、ここでやっとササン朝ペルシアが出てくるんだ。

校長 ササン朝は統一言語によって王朝の公用語を発展させたという点と、ゾロアスター教を国教にしたという点で、かなり独特だよね。公用語はパフラヴィー語で、のちに中世ペルシア語として定着していきました。
しかし本書の著者はそれ以上に、ササン朝の皇帝たちが自身を「シャーハーン・シャー・エーラン」と自称していたことに注目しているんです。かれらは自分たちのことを「エーラーンの皇帝」つまり「アーリアの皇帝」と名のったし、その王朝についても「パールス・シャフル」(ペルシア帝国)ではなく、好んで「エーラーン・シャフル」すなわち「アーリア帝国」と呼ぶようになっていたんです。

別当 そうか、ササン朝がアーリア帝国なんだ。それにしても長い栄華でしたよね。

校長 それが破れるのはムハンマドのイスラムが席巻してからだからね。そしてウマイア朝やアッバース朝になっていく。

 

右筆 さっきの表では、イラン高原の東北にバクトリア人とかマルギアナ人が出てきて、さらに中央アジアにソグト人やホラズム人が登場したということになっていますね。

校長 バクトリア・マルギアナ複合文化っていうやつだね。この定住イラン系アーリアの歴史はなかなか複雑でね。でもそもそも「アーリア語」っていう呼び名は実はバクトリアから出てきた呼称なんです。

別当 へえ、そうなんですか。

校長 縄文から弥生後期までの日本人に似て、バクトリア人もマルギアナ人も文字をもたなかった民族なんです。だから文字資料もないので歴史変遷の中身がなかなかわからないんだけれど、それだけじゃなくバクトリア・マルギアナは政治的な自立をできないままにきた。

別番 文字がない国は政治的自立できないですよね。

校長 そう、その通り。だからバクトリア・マルギアナはいつも歴史の下敷きになって、そのOSの上にグレコ・バクトリア王国とかクシャーナ王朝とかが乗っかっていった。つまり「征服王朝」というかっこうになるんです。でもそうなってもまだ文字がないというわけにはいかないから、土着のバクトリア語をギリシア文字で表記する工夫をした。ちょうど漢字で万葉仮名をつくったようにね。それが「アーリア語」なんです。

別当 へえ、これはバクトリアに親しみがわいてきた。

右筆 クシャーナ朝って仏教を交流させた王朝ですよね。カニシカ王。それもバクトリア系なんですね。

校長 カニシカ王は2世紀になってからだけど、その前にクシャーナ族の大王(カドフィセース1世)がバクトリアのOSの上に王朝をつくったんです。クシャーナ族というのは中国流にいうと大月氏の一派だね。大月氏はグレコ・バクトリア王国を滅ぼしたのだろうと見られています。

半東 バクトリアとかソグディアナのあたりの地理は複雑ですよね。

校長 複雑だけれど、超重要だね。アム・ダリヤー河とシル・ダリヤー河の2本の河が中央アジアのオアシスやシルクロードの原点になるからね。その2本の河の真ん中にサマルカンドとブハラがあって、アム・ダリヤーの上流がバクトリア地方、アム・ダリヤーとシル・ダリヤーのあいだがソグディアナ地方です。まあオアシス都市国家群のセンターでしょう。

別当 「胡風」というのは、ここですよね。

右筆 胡座(あぐら)とか胡服とか。

校長 ソグド人にはゾロアスター教もけっこう栄えたんだよ。あとマニ教とかも。

別番 それらもいずれはイスラム文化の中に入っていくんですね。

半東 そのへんについてはすでに「連環篇」が書いていました。やっとこれでつながったんですね。

校長 半東らしくフォローしてくれた。

半東 で、次は何ですか。

別当 ま、そう急(せ)かないで。

校長 原発に急変がないかぎりは、アーリア神話にしようかな。

 

   

 

アーリア神話

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 戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱら「アーリア人かセム人か」というふうに区分されていた。おおかたの諸君が知ってのとおり、ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺された。あれって、いったい何だったのか。ファシズム思想がもたらしたものなのか、たんなるヒトラーの狂気のせいなのか。
 ヒトラーは『わが闘争』に「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし実は、ヒトラーがこのように断言できたのは長い前史があったからだった。
 キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、ヤペテ、セム、ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきた。ところがここにいつのまにか、ヤペテの子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人になっていったという俗説、あるいはまた、ハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、ヤペテは貴族の祖先だという鼻持ちならない俗説が、どんどこ加わっていった。
 これがアーリア神話だ。その後にこの俗説がどのように変遷していったかはのちに少々案内するけれど、ようするにヒトラー以前に、アーリア神話はとっくに、しかも多様に確立していたのだった。

  本書は、ぼくがこれを読んだ時点では、この手の議論に分け入った唯一の成果だった。目からウロコが2、3枚、落ちた。ただし著者のレオン・ポリアコフ一人の業績ではないようだ。
 1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、かのノーマン・コーン(897夜)の主導による「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究が開始した。ポリアコフはその恩恵に広く浴したらしい。コーンが提示した研究対象は、魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダヤ人虐殺にまでおよぶもので、本書はその討議と研究の成果の最大の結実だった。
 それまで、どのようにアーリア主義が謳歌され、いつどこでアーリア神話がでっちあげられ、それがヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか。そこにはどれほど多様な前史があったのか、誰も全容を掴めないでいた。そこに本書が登場した。ポリアコフの記述と解説は残念ながらかなりまわりくどく、やや文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめていて、この難題に大きな方向性を与えた。
 ぼくはこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。ヨーロッパにおける民族主義と人種主義が入り組みすぎていて、なかなかその核心が掴めなかったからだ。
 だからうまく案内できるかどうかはわからないが、本書の記述にあらかたしたがって、まずはスペイン、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロシアの順にその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように超シナリオになり、それがヒトラーの言説にまでなっていったのか、その概略をマッピングしてみたい。
 これまでヨーロッパや「セカイ」について諸君が抱いてきたイメージや知識が、かなり粉砕されるのではないかと思う。

 スペインの歴史は711年のイスラム侵入とその後のレコンキスタによってその前の歴史が忘れられがちであるが、もともとはローマ帝国が土着文化を消し去ろうとし、そこへ西ゴート族とヴァンダル族が侵入したことによって変質していたと見たほうがいい。つまりスペインはもとから積極的に“ゲルマン化”していった国土だったのだ。
 カロリング朝以前のヨーロッパで最も学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的な理論家でもあったから、スペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化した。すると、ここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。
 スペインのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」のことだとみなしている。そもそもルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽいとは)、自由であって、かつ野蛮でもありある両義性をもっていた。それゆえセルバンテス(1181夜)は『ドン・キホーテ』の冒頭に「高名で光輝あるゴート人ドン・キホーテ」と示したものだった。
 こうしたゴート認識を媒介にして、18世紀には古代スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイスラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「レコンキスタ的なイデオロギー」も関与した。

 フランスにとって「ゴート」に匹敵するのは「フランク」である。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味をもった。
 そもそもフランスからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフランク人になったのである。それがカロリング朝以降はフランク人の王が大陸の主人公となり、それにつれてオットー・フォン・フライジングの有名な『年代記』のなかで、ドイツ人はフランク人の分枝とみなされた。なんともフランスらしい矜持だった。
 これでシャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たることを自信をもって公称できた。吹聴できた。シャルルマーニュは親しい近臣には自分のことをダビデと称ばせていた。
 しかしドイツ人からすれば、ゲルマンの魂、すなわちアーリアの血をみんなフランク人がもっていくのは許せない。ドイツ人はタキトゥスの『ゲルマーニア』を論拠に、シャルルマーニュをフランス化したことを詰(なじ)り、ライン河のこちらにこそアーリアの起源があることを主張した。
 こうしてルネサンス期にはフランスとドイツ両者の言い分が早くも大いに食い違ってくるのだが、ここにフランソワ・ド・ベルフォレの『わが祖先ガリア人』(1580年代?)が刊行されるにおよんで、そもそもガリア人こそがフレンチ・アーリアの起源であるとの評判がたち、ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリア人の優越を強調するようになっていった。
 が、そうした論争を尻目に、太陽王ルイ14世が登場すると、フランスはゲルマンの系統樹もフランクの系統樹もなべて配下にしてしまったのである。かくて17世紀のジャン・ラブール神父以降は、「元来、フランス人は完全に自由で、完全に平等なのである」というふうになり、これがサン・シモンにもモンテスキューにも伝染していった。モンテスキューは古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいる。

 この手放しのガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家ヴォルテール(251夜)だった。ヴォルテールはフランスにはフランクの家系を引くものなどひとつもないと言ってのけた。
 一方、同じ啓蒙派でもディドロ(180夜)のほうはこれを緩め、あえて語源を持ち出して、「フランク、フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であることを仄めかした。
 しかしフランス革命は、これらの議論をいったんご破算にした。フランス革命は「抑圧者ローマ人、被抑圧者ガリア人、解放者ゲルマン人」という三つ巴の構図を現出させ、これをさかんにふりまいたのである。民族の歴史から見たフランス革命とは、そういうものだった。フランソワ・ギゾーはこれを集約して、「フランス革命は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それが領主と農民の、貴族と平民の対立で、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。
 フランスのアーリア神話はかなり混乱していたわけだ。フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジュール・ミシュレ(78夜)さえ(ぼくが好きなあのミシュレさえ)、「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ人(古代ベルギー人)、イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が肥沃になっていって、ケルト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人がそこへ最期にやってきたのだ」と書いた。

 イギリスとは何か。
 ぼくは『世界と日本のまちがい』(春秋社)に、イギリスのいくつかの過誤を示しておいたけれど、もともとイギリスにはそのような過誤を演出せざるをえない事情がひそんでいたともいえた。
 11世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、そして最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんなイギリス島に来ていたのだ。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったろう「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境い目が曖昧になっていった。諸君が後生大事にしている「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語なのである。それゆえOED後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正」(フェアネス)や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があった。

 ところで、それにあたってイギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。こんなちゃっかりした民族はない。
 ちなみにもっとちゃっかりしているのは、このイギリスから派生したアメリカ人で、そのことはトマス・ジェファーソンがアメリカ合衆国をつくりあげた起源神話として、ひとつはサクソン人の首領ヘンジストとホーサによる海洋横断をあげ、もうひとつにユダヤ人による砂漠横断をあげたことにあらわれている。
 しかし実際には、ブリトン人は自分たちの「最初の横断」のことなどすっかり忘れていた連中だったのである。そこでやむなく、セビリアのイシドルスの記述に従って(またもや!)、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」という名を選び出し、これをせっせとヤペテの系譜につなげたのだ。
 かくて8世紀のベーダがそのようなイングランド史を書くことになったのだが、そのテキストのおかげでベーダは“イギリス史学の父”と呼ばれた。ベーダは「ジュート、アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」とも書き加えた。
 もっとも、この系譜はのちに書き換えられていった。それはアルフレッド征服王の“史実”を正統化するための変更だった。そしていつのまにか、あらゆるゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン族のみが(つまりはアングロ・サクソンのみが)、最高神オーディンにまでさかのぼりうる系譜をもっているとともに、セムの系譜に直結しているというふうになったのである。

 こうしてイギリス人はヤペテの系譜ではなく、ノアの長子のセムの系譜のほうに位置づけられたのだ。アーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその線でかたまり、その後のイングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」であることを誇るようになっていった。

 ヘンリー8世も、クロムウェルやジョン・ミルトンのようなピューリタン派も、さらにはウィリアム・ブレイク(742夜)でさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意を抱いたことには驚かざるをえない。
 さっそく、イギリス人とユダヤ人を積極的に結びつける理屈がいろいろ試みられた。ジョン・トーランドの『大ブリテン島およびアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由』(1714)は、そういう一冊だった。逆に、そんな安易な選択に反対するウィリアム・プリンの『イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論』なども出回った。
 しかし近代に向かってイギリス人の血を沸き立たせたのは、なんといってもウォルター・スコットの『アイヴァンホー』と『ウェイヴァリー』だ。『アイヴァンホー』は12世紀のイングランドを舞台にした熱血小説で、『ウェイヴァリー』は1745年のジャコバイトの反乱を素材に若い草莽の血を描いたもので、それぞれ英国浪漫を滾(たぎ)らせた。
 ここにおいて、イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙し、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまったのである。

 イタリアを、フランスやイギリスやスペインと同断の視点でみるのはやめたほうがいい。そのことはファビオ・ランベッリの『イタリア的』(1158夜)でもある程度の見当がつくだろう。
 むろんイタリアの地でも多くの部族や民族が通過していった。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人などだ。
 しかしイタリアは、フランスやイギリスとちがって、これらの民を決して自分たちの歴史の中心に組みこんではこなかった。イタリアはつねにウェルギリウスが描いた「アエネーアスの物語伝統」と、そこから国が築かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなるイタリア性も別の国々から援用してはこなかった。

 イタリアにはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえば“ロンバルディア神話”といったものは一度も現出しなかった。どだいロンバルディアは「ロング・バルブ」(長い髭)という以上の意味をもってはいなかったのだろう。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何の装飾も加えなかった。
 こうした純血イタリア主義ともいうべきをルネサンスに向かって派手に確立させたのは、イタリア起源神話の流れに最も貢献したダンテ(913夜)であろう。そのことは『神曲』がウェルギリウスの案内による世界巡りになっているということにも、シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第9獄に配下されていることでも、よくわかる。
 いいかえれば、ダンテはイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さなかったということだ。ダンテだけではない。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオ(1189夜)も、その代表作『著名男子列伝』や『異教神系譜』に一人の古代ギリシア人すらとりあげなかった。
 以来、イタリアはマッツィーニが「第3のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。

 では、ドイツである。
 ふつう、イタリアが「個人主義と懐疑主義」に片寄るのなら、ドイツは「群衆心理と熱狂」に加担してきたと言われてきた。しかしニーチェ(1023夜)が言ってのけたように、「ドイツ人を定義することなど不可能なのである」。
 そもそもドイツ人には「ゲルマンの初期」と「大ドイツの初期」とのあいだに断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのかというのなら、ドイツ(Deutsche)という語そのものの語源が示しているように、ドイツは多様な部族間の言語的共同体あいだの中から生まれてきたものなのだ。
 この部族間の言語的共同体のあいだこそは、ドイツのナショナリズムの起原となる原郷なのである。これを真っ先に称揚したのは、誰あろうマルティン・ルターだった。ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う一書』に明白だ。
 こうして1780年、プロシアの政治家フリードリッヒ・フォン・ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルクであって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってのけるにいたる。これが何を意味するかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルがそれをドラスティックに示唆したのだが、「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」ということなのである。
 もうひとつドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたということで、それはオットー大帝が即位した962年にすでに、大帝の信頼を一身に浴びたクレモナのリゥトプラント神父が次のように断言したことにあらわれていた。「われわれ、ロンバルディア人、サクソン人、フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、ローマ人にたいしてきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現しようとするとき、われわれは敵を罵るのに、ローマ人という言葉を使うのである」。

 ドイツはその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」をかこってきた。そう、言える。
 しかしながら、こんな「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものがそうそう現実にあるわけがない。それはたえず“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるをえないものだった。しかもその程度の共同幻想は、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであったように、ふつうならどこかで歪むはずである。
 ところがドイツにあっては、それが宿敵フランスとの対立対比が歴史上たくみに作動して(三十年戦争など)、ついに崩れることが避けられてきた。その最も顕著な例がナポレオン戦争によって、クラウゼヴィッツ(273夜)のドイツ・ストラテジー(戦争論)が確立し、フィヒテ(390夜)の『ドイツ国民に告ぐ』が熱狂的に受け入れられていったことなどにあらわれた。
 「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という勝手な共同幻想も、大ドイツ主義の形成にあずかった。のみならず、このことは「ドイツ人の世界精神」という観念をいつのまにか肥大させ、疾風怒濤のシラーがまさにそうであったけれど、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想にまでふくらませていったのである。

 これらがやがてワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていくのだが、そのことについてはのちにふれる。

 ロシアには長らく5つの伝承が組み合わさってきた。ロシアという名称の起原となった「ルーシ」の伝承、スラブ族としての伝承、キエーフの年代記がもたらすネストルの伝承、各種の民俗習慣やロシア正教の伝承、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承である。
 これらの伝承はしばしば「ウラジミール公たちの伝説」というふうに束ねられていたけれど、実際にこれらのいくつもの伝承が一つに向かっていく結節点となったのは、1472年にイヴァン3世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚したことだった。こうして国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、それにふさわしいモノマクの王冠(白い三重宝冠)が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされた。
 そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝)による、「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった」という宣言だ。雷帝はここにロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもつようになった。
 この路線を拡大したのはピョートル大帝である。大帝は、1700年前後の北方戦争で領土を著しく広域化すると、西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア絶対主義を築いた。しかしいくらピョートル大帝が夜郎自大なことをヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人とはアジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入したフン一族の末裔にしか見えなかったのである。
 が、こんなひどい侮辱は吹き飛ばさなければならない。それに着手したのはピョートル3世に嫁いでこの愚鈍な夫を放逐したうえ殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していったエカテリーナ女帝だった。3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り、フランス革命を憎んだ稀代の女帝は、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にはスラヴォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほどになっていた。池田理代子の傑作マンガ『女帝エカテリーナ』(中公文庫コミック版)などを読まれるといい。
 こうして、さしもの不毛の地を多くかかえるロシアにも、カラムジの『ロシア国家の歴史』や国民詩人プーシキン(353夜)の歴史観などが出回るようになっていく。
 しかし実際には、プーシキンの友人だったチャダーエフが『哲学書簡』に述べたように、ロシアの唯一の特異性は「無」の中にひそんでいたのかもしれない。ロシア革命前のナロード・ニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャダーエフの暗示は当たっていたようにも思われる。

 以上が、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“前提”のためのプレ言説たちである。
 これらは各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説ではあるが、それが奇っ怪にも、しだいに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていったのだ。なぜそんな驚くべき超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッパ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていったからだった。
 人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義がもたらされていた。10世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が先行していたことを主張した。
 以来、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案されていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことで、それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で、立案された。
 たとえばパラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、アダムという3つの祖先をもっていた」と説いたのだ。イギリスでは詩人のクリストファー・マーローや数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。
 こうした言説がアーリーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関する神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったんご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると強調した。
 これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動かし、パスカル(762夜)は一笑に付した。

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということができる。人類複数起原説である。
 お歴々の思想家たちにも人気があった。異説が好きなホッブス(944夜)、スピノザ(842夜)はむろん、後期ヴォルテール(251夜)も後期ゲーテ(970夜)も加担した。
 しかし、いざこの仮説を現実社会にあてはめようとすると、難題が待ちかまえていた。その難題に最初に出会ったのがスペイン人だった。南米を侵略したスペインがここで原住民を布教することになったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見るかで布教方法が論争になったからだ。
 ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カサスはインディオをアダムの末裔とみなし、その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2世も同意した。ということは、ここでは「複数創生説」は破れたのだ。
 ところが他方、スペインから奴隷労働力として南米に連れていくことになったアフリカの黒人たちについては、かれらはぬけぬけと複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」(黒いアビシニア)を区別した。インディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いインディオと対比させることには、あきらかに矛盾があったにもかかわらず。

 そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献した一人のシナリオライターが『ノアの方舟あるいは諸王国の歴史』(1666)を書いたドイツ人のゲオルギウス・ホルニウスである。
 ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になったとしたのだ。歴史学も神話学も取り乱しはじめたのだ。
 やがてスペインの時代がオランダに移り、それがイギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”をからめることが流行した。ラ・フォンテーヌはそうしたイギリス人の趣味を、「いたるところで科学の王国を広げているイギリスのキツネ」と呼んだ。アーリア人種は「科学の王国の住民」にもなったのだ。

 近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲学論が、人種についてはそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたことについては、もっと知っておいたほうがいい。
 ジョン・ロックは「猫とネズミをかけあわせた動物」がいるだろうように世界の人種を見ていたし、レオミュールは「ニワトリとウサギのかけあわせに類する実験」のあれこれに成功したとフランスでは信じられていた。「最小作用の原理」を確立した数学者で、ベルリンアカデミーの会長だったモーペルテュイは、皮膚の白さと黒さを比較することがきっと人種の優劣を決める科学になりうると考えていた。
 なかで最も有名な過誤を犯したのは、かの分類学の泰斗のカール・リンネだったろう。その『自然の体系』にこっそり“人間”の項目を入れたリンネは、大胆にも次のように人種分類をしてみせたのだ。
 

   エウロパエウス・アルブス(白いヨーロッパ人)=白くて多血質。創意性に富み、発明力をもつ。法律にもとづいて統治される。

   アフリカヌス・ルベスケウス(赤いアメリカ人)=赤道色、短気。自己の運命に満足し、自由を愛する。習慣に従って自身を統治する。

   アジアティクス・ルリドゥス(蒼いアジア人)=黄色っぽい、憂鬱質。高慢、貪欲。世論によって統治されている。

   アフェル・ニゲル(黒いアフリカ人)=黒くて、無気力質。狡猾、なまけもの、ぞんざい。主人の恣意にもとづいて統治されている。


 リンネの“理論”はビュフォンの「退化の理論」に受け継がれ、やがてはルソー(663夜)の『人間不平等起原論』の中で想定された“自然人”のカテゴリーにまで突っ込んでいく。
 こうして事態は18世紀末のクリストファー・マイナースの「人種理論」の創成に向かっていったのだ。マイナースはのちにナチスが評価した”早すぎた人類学の父”となった過誤の先駆者だった。

 近代思想の流れのなかで、ダーウィンの進化論ほどに誕生したその日から勝手に歪曲されていったものはなかった。なかにはすぐれた社会進化論に適用されたものもあったけれど、おおかたは度しがたい進歩思想と優生思想がさまざまに組み立てられ、捏造され、流布していった。
 その頂点にいたのがフランスの外交官で歴史家で、また東洋史の研究者であって、かつ人種的社会学の創始者ともなった、かのジョセフ・ゴビノー(1816~1882)なのである。悪名高い『人種の不平等性について』を書いた。
 ゴビノーは聖書の読み直しから出発し、創世記が「美と知と力をひとりじめ」にしている白い人類を強調していることに着目すると、その白い人類が北方アジアから出てきたであろうと推理した。まさにウクライナ平原を遊牧していたキンメリア人やスキタイ人を含む「アーリア人」(1421夜)に、白い人類の源流を見いだしたのだ。
 ただし、このアーリア人はそれまでの聖書学の慣習に従って「ヤペテの民」と呼ばれた。ゴビノーは、ヤペテとハムとセムが最初の白人となりながらも、それが分岐していったとみなしたのだ。
 そもそもゴビノーは人種には「人種の本能」というものがあり、そこに吸引の法則と反発の法則がはたらくと考えて、これは宿命的な“歴史科学”なんだと思いこんでいた歴史家だった。吸引の法則というのは人種の混交を受容していく傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。
 この“歴史科学”が白い人類にあてはめられた。二つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度ではあるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時代あたりまでかなりの純粋を保ってきた。ゴビノーは、そう、みなしたのだ。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきたとみなされた。
 ゴビノーは、こんなどうにも理屈の整合性の説明がつかないような構図を自信をもって提示したのである。もっとも、アーリア人もキリスト紀元以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したため、しだいに堕落していったと見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えはしなかった。

 ゴビノーのトンデモ仮説は、当初はまったく評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。そのためオーギュスト・コント、ド・トクヴィル、エルネスト・ルナンらはゴビノーを慰め、君の主張はきっとゲルマン諸国で受け入れられていくだろうと激励したほどだった。
 この慰めの予言はヒトラーの時代になって当たったということになったのだが、実際にはゴビノーとはべつに次のような思想家たちが似たような言説を強調していったことにより、このトンデモ仮説はまことしやかな恰好でしだいに広まっていった。
 たとえば、“自然哲学の父”と称ばれたシェリングは白人には最も重要な高貴があると考えて、『神話の哲学』では人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けた。そのうえで「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこむことができる唯一の人間だった」と、暗にアーリア人を称揚した。
 ドイツの自然主義哲学のパイオニアになったローレンツ・オイケンも、モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人などに言及し、結果的にゴビノーの歴史科学に似た言説を披露した。そこには「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がないからである」などという噴飯ものの強烈な差別発言もまじっていた。
 しかしヘーゲルだって、同じような人種論を展開したのだ。有色人種や黒人に対して劣等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してしまった。それどころかヘーゲルの世界史は、①ゲルマン民族の発端からシャルルマーニュまで、②シャルルマーニュから宗教改革まで、③宗教改革からヘーゲル自身の思索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされていた。
 無神論者のフォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアではないが、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対比させたのだ。昭和初期の日本で大流行した『唯一者とその所有』のマックス・シュティルナーはやや積極的に、「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服していくことになるだろう」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュティルナーはヒトラーの先駆者だったということになる。 

 マルクス(789夜)やエンゲルスはどうだったかといえば、残念ながらこの件についての例外になりえていない。エンゲルスの『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書いた。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。
 ショーペンハウアー(1164夜)はどうかというと、さすがに人種主義には陥ってはいなかったろうとぼくは思っていたが、しかしそれでもなお本書の著者は、ショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させるにあたって、最も影響力と洗脳力を発揮した最初の人物だったと見ている。
 もしそうだとするのなら、この「意志と表象の哲人」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はからずも貢献してしまっていたのだということになる。それならビスマルクも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たいていスラプ人とケルト人を引き合いに出したのだ。

 歌と社会の革命詩人ハインリッヒ・ハイネ(268夜)となると、もう遠慮もしていない。「われわれドイツ人は最も強く最も知的な民族である」と歌って、さらに次のように高揚させた。「われわれの王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と印刷術を発明したのである!」。
 ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰だって“早すぎるヒトラー”だったのである。
 通俗科学者たちもドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・グスタフ・カールスはジネコロジー(婦人科学)を標榜して、無意識にひそむゲルマン魂を“説明”してドイツ人のプシュケーを見えるように仕立て、カール・グスタフ・ユング(830夜)の先駆者の役割をはたしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることを訴えた。
 もはやニーチェ(1023夜)は間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的本質とセム的本質に結びつけ、決してアーリアン・スピリットばかりを強調したわけではなかったのだけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これを読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはずだった。
 こうして世紀末に向かって、ゴビノーのアーリア主義は数々の思想の意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに一人の音楽家によって絶頂にまで高められたのだ。それがワグナーのオペラのファンファーレというものだ。もう、どうにもとまらない。


 ダーウィンがうっかり『人間の由来』を書いたのはよけいなことだったかもしれない。すでにパリに発足していた人類学会にとって、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらすかたちになっていったからだ。
 フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカーは「アーリア人種という用語は完全に科学的である」と確信し、ヘブライ人の原型である“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ。こうなっては誰もが黙っていない。
 マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イポリット・テーヌは「言語と宗教と文学と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種をごちゃまぜにすることにあれほど警戒をしていた文化人類学の創始者であるエドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれることになる。

 もっとも、ここで新たな問題も浮上していた。
 それは言語と人種についての関連が濃くなってきたぶん、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリアの区別がつきにくくなっていったということだ。
 そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アーリア語族」という等式がいったん浮上したのだが、しかし、ヨーロッパ人たちにとってはこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨーロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。
 かくていっそうに、20世紀はアーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリアのための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要にも迫られたのである。
 ここにいよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られていくことになる。

 アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与えた。
 ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家独特の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆するような青年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこからひそかに人類の遺伝形質の分類をするようになった。
 やがて家系や血統によって才能が不平等に分布していることに気が付くと、『遺伝的天才』を発表、「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろうと思い始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことに警戒するべきだと考えた。
 こうして1910年前後、最も優秀な民族や人種こそが未来の人類文明を築くために断乎として残ることの重要性を訴えるべきだと確信すると、ゴルトンはそこから「優生学」という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのである。その優生学の目的は「不適応者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。どうすればいいか。「断種」をこそ実施するべきだという結論が出た。
 ゴルトンの優生学はイギリスからアメリカに飛び火し、たちまち燎原の火のごとくに広がった。インディアナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨励されることになり、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは1925年までに全土で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。
 この優生学的断種運動がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーによる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。
 これでわかるように、先進列強のなかでヒトラー・ドイツはこの運動の最も遅い後発部隊だったのである。すべてはイギリスとアメリカが用意していたものだったのだ。
 ただしドイツはその2年後に「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を禁止した。

 優生学が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結びつけた。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を拠出した。
 もはやアーリア神話は忌まわしいアーリア問題以外ではなくなっていた。ドイツでこの忌まわしい問題をふたたび神話の輝きに変貌させたのは、パウル・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教すなわちアリーア主義をユダヤ教に対比させることに成功してからだった。ラガルドは「ユダヤ人がユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれてのことだ」と言って、ユダヤ人虐殺の先鋒を切った。
 問題は、そうしたラガルドの言説を初期のトマス・カーライルもトーマス・マンもバーナード・ショーも称賛してしまっていたこと、そのラガルドの言説がフートン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフート・ローゼンベルクの手による『二十世紀の神話』として未来に向けての概括として、ヒトラーに献上されてしまったこと、それが『わが闘争』の一部を飾ってしまったことである。
 ポリアコフは次のように書いている。
 ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造したのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書崙のように援用したのである。むしろルネサンスの人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めることができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ。
 

 

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黄禍論とは何か

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  そろそろユーラシアにおける遊牧民帝国の誕生に向かって千夜千冊したいのだが、ここでもう少し踏みとどまって、前夜の『アーリア問題』の余韻がまだ熱いうちに、20世紀初頭の黄禍論(イエローペリル)が世界にまきちらした問題について、簡略に案内しておきたい。
 なぜなら黄禍論という前代未聞の奇っ怪な“イエローピープル大嫌いムーブメント”には、そもそもは中世のモンゴルとその亜流のすさまじい動向が、そのぶりかえしともいうべき20世紀初頭の汎モンゴル主義の運動が、さらには今後の日米同盟関係や日本と東アジアのグローバリゼーションとのぎくしゃくしていくだろう関係などについての、すこぶる重要な“予言”がいくつも含まれているからだ。
 本書はそういう黄禍論の近現代史を、めずらしくコンパクトにまとめた本である。ただし、その観察はあくまでも欧米側からのものなので、今夜はテキストとして本書のほかに、橋川文三の『黄禍物語』(岩波現代文庫)などをところどころとりまぜて案内する。

 ヨーロッパ、ロシア、アメリカで19世紀末から20世紀初頭にかけて、ほぼ同時に沸き上がった黄禍論は、中国人と日本人が白色人種に与えた脅威のことをいう。
 当時、3つの現象が欧米の脅威になっていた。①安価で忍耐強い黄色の労働力が白人の労働力を凌駕するのではないか。②日本製品の成功が欧米経済に打撃を与えるのではないか。③黄色の国々が次々に政治的独立を果たして近代兵器で身をかためるのではないか。
 まるで今日にも通じそうな話だが、黄禍論はそのころのアジアの力が急激に増大してきたことへの過剰な警戒から生まれた。それは中国や日本からすれば黄禍ではなくて「白禍」(ホワイトペリル)というものだった。
 どんなふうに黄禍論が沸き上がっていったのか、重要なのはその異常発生の背景なので、そのアタマのところを紹介しておこう。

 日清戦争が勃発した1894年、ジョージ・ナサニエル・カーソンというイギリスの政治家が『極東の諸問題』という本を世に問うた。イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている。
 カーソンは、イギリスがこれから世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を“東洋のイギリス”にして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った。
 カーソンやチロルの期待と予想は当たった。日清戦争で日本は勝ったのだ。しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか。さまざまな憶測が広まるなかでの1895年、イギリスの銀行家トーマス・ホワイトヘッドは『アジア貿易におけるイギリスの危機的状況』という講演をロンドンでぶちあげ、中国の銀本位制にイギリスの金本位制がたじたじになっていることをこそ解決すべきだと訴えた。

 一方、こうした極東状況を横目で見ていた二人の皇帝が、まことに勝手なことに、突然にあることを示し合わせた。
 有名な話だが、“カイゼル”ことドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシア皇帝ニコライ2世に手紙を書いて、そこで「黄禍」という言葉を使い、ポンチ絵で黄色人種を揶揄ってみせたのだ。「黄色い連中を二人で叩きのめそうよ」というポンチ絵だった。
 これが「黄禍」という言葉の誕生の現場だが、むろん言葉だけが一人歩きしたのではなかった。実際にも、まずは日本にちょっかいを出して、牽制することにした。ドイツとロシアがフランスを誘って三国干渉に乗り出したのである。
 翌年、ベルリンの雑誌「クリティーク」は「黄色人種の脅威におびえる白色人種」という特集を組んだ。2年後には東アジアの経済事情を調査するドイツ委員会が結成され、むしろ伸長する日本の経済力をうまく巻き込んで利用すべきだという報告がなされた。

 

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 義和団の乱に出征するドイツの東アジア遠征軍に演説する
ヴィルヘルム2世(1900)
ヴィルヘルム2世の中国侵略への野望は、
日清戦争後の三国干渉、日露戦争後の黄禍論となってあらわれる。

 

  ここで事態はアメリカに飛び火する。イギリスに始まった優生学がアメリカに飛び火して断種政策の拡張になっていったのと同様に、アメリカはしばしばこのように、最後尾から登場してまずは自国の情勢をまとめあげ、ついではあっというまに事態を全世界化してみせるのだ。
 すでにアメリカは移民問題に悩んでいた。アメリカがサラダボウルの国で、どんな移民も受け入れる“自由の国ユナイテッドステート・オブ・アメリカ”だというのは、今も昔も半分でたらめで、アメリカほど移民問題をたくみに国際情勢の天秤目盛として活用してきた国はない。この時代もすでに中国移民のコントロールが問題になっていて、カリフォルニアでは中国移民制限と中国人排斥の機運が高まっていた。
 そもそも帝国主義大好きの大統領セオドア・ルーズベルトが、中国人追放には手放しで賛成している始末だった。
 そこへジャパン・パワーの噂が次々に届いてきた。折しも多くの日本人たちがカリフォルニアに次々に移住もしていた。問題はイエロージャップらしいという声が高まってきた。とりあえずルート国務長官と高平駐米公使のあいだで日本人のアメリカ入植を自発的に縮小することになったのだが、コトはそれではおさまらない。1900年、カリフォルニア州で日本人排除法が提案された。
 加えて名門兄弟のヘンリー・アダムズとブルックス・アダムズが『文明と没落の法則』と『アメリカ経済の優位』をそれぞれ刊行して、次のようなロジックを提供した。
 ①文明化するとはすべてを集権化することだ。②集権化とはすべてを合理化することだ。③集権化と合理化を進めれば欧米の品物よりもアジアの品物のほうが安くなる。④世界は集権化と合理化に向かっている。⑤だからアジアが生き残り、これに気が付かないヨーロッパは滅びるにちがいない。⑥アメリカはここから脱出しなければならない。

 アダムズ兄弟のロジックは強力だった。すでに『海上権力史論』を世に問うて、アメリカ中で万余の喝采をもって迎えられていたアルフレッド・マハン提督は、⑥の「アメリカはここから脱出しなければならない」を達成するための、新たな方針を打ち出した。
 中国を門戸開放させ、その管理を列強が示しあわせてコントロールするべきだと言い、今後のパワーポリティックスは「北緯30度から40度のあいだ」に集中するだろうから、トルコ・ペルシア・アフガニスタン・チベット・揚子江流域の中国・朝鮮半島・日本、および南米のとくにアマゾン河流域のブラジルに注意しなければならないと力説したのだ。けっこう当たっている。
 ところが、そこへおこったのが、世界中を驚かせた日本による日露戦争勝利だったのである。イギリスがちゃっかり日英同盟を結んでいたことが、アメリカには癪のタネだった。
 1905年にカリフォルニアに反日暴動がおこり、アメリカはロシアに勝った日本と反日の対象となった日本とをどうあつかうかという二面工作を迫られた。その工作がポーツマス条約に対するアメリカの斡旋というかっこうをとらせた。
 しかしむろんのこと、アメリカはこのまま日本をほうっておくつもりはない。血気さかんな将軍ホーマー・リーはさっそく悪名高い『日米必戦論』と『アングロサクソンの時代』を書き、これからはロシアはきっと中国と手を結ぶだろうから、アングロサクソン連合としては中国と同盟を結び、将来における日米決戦に備えておかなくてはならないと“予言”した。
 当時、京都大学で比較宗教学を講していた親日派のシドニー・ギューリクはさすがにこの“予言”に呆れて、急遽『極東における白禍』を執筆したが、もう焼け石に水だった。このあとアメリカの排日主義はますます強固に、ますます拡大のほうに向かっていった。

 

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 風刺画「Japonは悪魔」
日露戦争に勝利した日本がヨーロッパのキリスト教社会を守る天使に
手傷を負わせた悪魔として表現されている。

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 "The Yellow Terror In All His Glory", (1899)
中国人が西洋の婦人を犯して殺すというイメージを吹聴している。

 

  日露戦争に破れたロシアでは、かなり複雑な反応がおこっている。この国はもともと徳川日本に関心をもっていて、プチャーチンをはじめ何度も日本沿岸に出没し、折りあらば交易や開港を迫るつもりだったのだが、それをペリーとハリスのアメリカに先を越されたわけだった。
 つまりロシアには「ロシアのアジア主義」ともいうべきものがあったのである。けれども、その外交政策がなかなか軌道にのってこない(今はなお北方領土問題がくすぶっている)。
 そういうロシアにとって、それを邪魔するのは仮想敵国のイギリスだった。それゆえ19世紀末、ブルンホーファーやウフトムスキーといった言論派は、たえず「ロシア・アジアの統合」というお題を掲げ、ときにはなんと、「仏教世界制覇の計画が日中韓の連合によって進むことがありうるかもしれないから、ロシアはそれに遅れをとってはならない」というような、やや誇大妄想なアジア対策を練ったりもしていた。
 それがニコライ2世のころから黄禍に走り、そうこうしているうちに日露戦争で辛酸を嘗めた。ほれほれ、だからロシアン・アジアを早く確立すべきだったじゃないかと言ったのは、ウラジミール・ソロヴィヨフの『汎モンゴル主義』だった。

 ドイツはどうか。アーリア神話や優生学や断種政策でもそうだったように、おっちょこちょいのカイゼル(ヴィルヘルム2世)こそ黄禍のお囃子の先頭を切ったものの、国全体としてはあいかわらず微妙な立場にいた。
 三国干渉、膠州湾占領、義和団事件への出兵までは、まだ日本をからかっていればよかった。だからドイツ財界の重鎮で社会進化論者でもあったアレクサンダー・ティレは1901年の『黄禍』では、黄色人種によって「ドイツの労働市場が水びたしになることはないだろう」とタカをくくっていた。しかし日露戦争以降、どうも雲行きがあやしくなっていく。
 アウグスト・ベーベルは中国に莫大な地下資源が眠っている以上、ドイツはこれを取りに行く列強との競争で遅れをとってはならないと警告し、フランツ・メーリングは中国や日本の脅威を防ぐには、もはやかれらの資本主義の力を社会主義に転じさせるしかないだろうと弱音を吐いた。
 しかしドイツの黄禍論が他の列強と異なっていたのは、やはりそこに反ユダヤ主義がまじっていったことだった。ドイツの黄禍論はしだいに民族マキャベリズムの様相を強くしていった。

 

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 「ル・ガトゥ・チノイス」(中国の分割)(1899)
左よりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、フランス大統領ルーベ、
ロシア皇帝ニコライ2世、日本の明治天皇、アメリカ大統領T=ルーズヴェルト、
イギリス国王エドワード7世。

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T・ビアンコ「黄禍論―ヨーロッパの悪夢」


  ざっとは、こんなふうに列強世界を黄禍論が走ったのだ。
 では、ここまであれこれのイジメを受けた日本はどうだったのかというと、黄禍論は当然、明治の日本にも衝撃を与えた。ただし、当時の日本人は黙っているわけではなかった。たとえば象徴的には鴎外(758夜)、天心(75夜)、漱石(583夜)が反論していた。
 鴎外については、明治36年11月の早稲田大学課外講義『黄禍論梗概』の記録がのこっている。そのなかで鴎外は、黄禍論は「西洋人が道徳の根幹を誤って社会問題を生じて、商業・工業の上で競争ができないようになりそうだと、不安がっているにすぎない」と断じ、「西洋人は日本と角力を取りながら、大きな支那人の影法師を横目で睨んで恐れて居るのでございます」「所詮黄禍論というものはひとつの臆病論なのです」と言った。鴎外はジョセフ・ゴビノーの人種差別論にもかなりの批判を展開した。
 天心は『日本の目覚め』の第5章を「白禍」とし、「東洋民族が全面的に西洋を受け入れたのは問題だった。帝国主義の餌食になった」と述べ、「かれらの渇望の犠牲になってはならない」と強く訴えた。
 漱石が『それから』の代助に言わせたセリフは、まさに黄禍と白禍の問題の本質をついていた。こういうものだ。最近のニートやフリーターにも聞かせたい。
 「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。日本対西洋の関係がダメだから働かないんだ。第一、日本ほど借金をかかえて貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。そりゃ外債くらいは返せるだろう。そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底たちいかない国なんだ。それでいて一等国を以て任じている。無理にでも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なんだ」。

 

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 ニュージーランドの風刺画「黄禍論」(1907)
アヘン吸引、貪欲、不道徳などの悪徳をふりまく蛸の姿のアジア人が
ニュージーランドの女性を襲っている。

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パラマウント社制作「The Return of Dr. Fu-Manchu
Part Six – “The Silver Buddha”」(1929)
英国の作家サックス・ローマーが義和団の乱の影響を受けて、
西欧による支配体制の破壊と、東洋人による世界征服を目指す
怪人ドクター・フーマンチュー(傅満洲博士)を主人公とする
スパイ小説『怪人フーマンチュー』(1916)を発表。
これは“黄禍”を警告する意図で1920年代から1930年代に連続して
トーキー映画化された。

 

  田口卯吉のように黄禍に対抗するあまり、敵のロジックをむりに日本にあてはめた例もある。田口は『日本人種論』『破黄禍論』において、なんと「日本人=アーリア人」説を説いたのだ。
 これが『日本開化小史』を書いて、福沢諭吉や天野為之と並び称された自由主義経済学の導入者とは、とうてい思えない。そこには「史海」の発行者であって、『国史大系』『群書類従』の編纂に当たった田口のほうの顔が強く出ていた。
 もっとも、このように日本人を優秀化するためにアーリア人やユダヤ人をその流れに牽強付会させようというめちゃくちゃな論陣は、この時期は田口だけでなく、黒岩涙香(431夜)、竹越与三郎、木村鷹太郎、小谷部全一郎などにも共通していて、かつて長山靖生の『偽史冒険世界』(511夜)を紹介したときにもふれておいたように、それ自体が黄禍に対する過剰防衛になっていた。小谷部は、例の「義経=ジンギスカン」説の発案者である。
 いずれにしても、当時の日本人にもたらした黄禍論の影響は、かなり面倒なものとも、危険なものともなっていったと言わざるをえない。
 橋川文三は、日本に「国体」論が浮上し、天皇唯一主義が受け入れやすくなったのも、また孫文に代表される大アジア主義が流行して日本の国粋主義者がこれに大同団結しようとしたのも、どこかで黄禍論に対する反発がはたらいていたと見た。この見方、いまこそ肝に銘じておくべき見方であろう。

 黄禍論。まことに厄介な代物だった。それは今日のアメリカのWASP主義、中国や韓国の反日感情、インドとパキスタンの憎悪劇などの厄介さを思えば、想定がつくだろう。
 しかし、ほんとうに厄介なのは、アーリア神話、ゲルマン主義、優生学、断種政策、黄禍論が、すべて一緒くたに20世紀の劈頭を荒らしまわっていたということだ。
 ぼくはこのあと、ユーラシアにおける民族の交代劇をその制覇と没落を通して案内していくつもりだが、そしてそこにイスラム主義やモンゴル主義やトルコ主義がどのような光と影をもたらしていったかを、できるだけわかりやすく、できれば順よく案内し、そこから東アジアの盟主となった中国という国がどんな民族ネクサスを演じてきたかを書くつもりだが、それにあたって、スキタイから派生したアーリアン・コメディの長期にわたった脚色劇が20世紀にまで続行していたことを、あらかじめ伝えておきたかったのである。

 

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「千夜千冊1423夜」松岡の赤字修正

 

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明

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 シベリアの真ん中を大河イェニセイが南から北に流れている。その源流近くにトゥバという共和国がある。首都のクズルの街中には「アジアの中心」という碑が立っている。
 トゥバの言葉はテュルグ語(トルコ系)に属するが、文化的にはモンゴルに近く、信仰もチベット仏教(ラマ教)である。100年ほど前には清朝に組みこまれていたが、1911年に辛亥革命がおこるとロシアがこの地に触手をのばして、ロシア革命後にソ連の領土となった。
 そのトゥバにアルジャンという村がある。ソ連が国営工場ソホーズを建てたので、周囲から石材が必要となり、積石塚(ヘレクスル)が次々に壊された。そこに古代そのままの直径110メートルの「草原の王墓」があらわれた。木槨墓室には王と王妃の人骨が埋葬されていた。周囲には13カ所にわたって馬の遺骸が発掘された。
 古代騎馬遊牧民の王墓だったのである。調査が進むと、副葬品の馬具や武器が先スキタイ時代のものに近いことが判明した。となると、紀元前800年代である。発掘が始まった1971年、アルジャン古墳と名付けられた。
 倍音を次々に響かせるホーミーの歌唱法はモンゴルやチベット起源とされていきたが、実はモンゴルよりもトゥバのほうが古いのではないかと言われている。それはそうかもしれない。なにしろ前9世紀からのパストラル・ノマドの村なのである。

 歴史を読むとは、ひとまずヘロドトスと司馬遷をどう読むかということである。なにもかもがそこから始まる。
 ヘロドトスの『歴史』全9巻と司馬遷の『史記』全130巻はユーラシアの西端と東端の古代を、当時としては驚くべき詳細な視点で、きわめて鮮明に綴った。
 ヘロドトスはギリシア本土ではなく、エーゲ海を挟んだ対岸のカリア地方のハリカルナッソス(今日のトルコ西南部)に生まれた。紀元前480年頃の生まれだったから、いまだアケメネス朝ペルシアが唯一の超大国として君臨していた。のちにアテネに行ってペリクレスやソフォクレスと交流し、歴史が物語であることに気が付き、伝承や見聞を徹底して集めた。ヒストリアはストーリーそのものだったのだ。
 ヘロドトスは自分の故郷であったペルシア帝国の絶頂期を築いたダレイオス大王の事績を調べていくうちに、大王をもってしてもついに征服することができなかったスキタイの存在と活動にのめりこんでいった。われわれがスキタイのことを知れるのは、ほとんどヘロドトスの執着のおかげなのである。そのヘロドトスは前443年に南イタリアのトゥリオイ建設にかかわり、何かを夢見て、そこで死んだ。
 司馬遷の生まれは紀元前145年頃で、前漢の太史令だった司馬談の子として生まれた。根っからのフヒト(史人)だったが、ヘロドトスに劣らず長距離の旅をして、調査や資料収集をやってのけた。漢の王室に仕官したのちは、武帝の随員として四川・雲南・湖南・浙江・山東に赴いた。やがて匈奴に使節として旅だった張騫たちから匈奴の事情をヒアリングできるようになり、この破天荒な連中のことを知った。
 前98年に匈奴にくだった李陵を擁護して武帝の怒りにふれ、宮刑(去勢)に処せられたが、その屈辱をかみしめつつも、以降十数年を費やして『史記』を仕上げた。紀伝体である。

 本書はヘロドトスの『歴史』第4巻を通してスキタイを浮上させ、司馬遷の『史記』匈奴列伝を通して匈奴を浮上させる。
 スキタイと匈奴に共通するのは、2つの集族がユーラシアを代表する古代騎馬遊牧民だったということである。両者は、①農耕をおこなわない純粋の遊牧民である、②家畜とともに移動して定住する町や集落や都市をつくらない、③男子は全員が弓矢にすぐれた騎馬戦士になっている、④戦術は機動性に富み、不利なときはあっさり退却する、という著しい特色をもっていた。
 その動向範囲はユーラシアのほぼ全域で、西はカルパティア山脈の麓の黒海の北のウクライナから東はウランバートルをこえた大興安嶺山脈の山麓にまで及ぶ。そこにはカフカス山脈、カスピ海、アラル海、カザフスタン、ウラル山脈、アルタイ山脈、モンゴル草原、天山山脈、ウルムチ、ウィグルを含む(地図参照)。
 しかし、ヘロドトスと司馬遷の記述がどこまで正しいものかどうかは、いまや『歴史』と『史記』の熟読だけでは立証できない。今日では、そこにふんだんな考古学のエビデンスが加わる必要がある。本書は考古学に裏付けられたヘロドトスと司馬遷を通したスキタイと匈奴の実像を詳しく提供する。たいへん興奮させられた。


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世界史上最初に登場した遊牧国家
東はモンゴル高原から西は東欧のカルパティア山脈まで、
ユーラシア大陸を疾駆した騎馬遊牧民スキタイと匈奴は、
古代ペルシア帝国や漢など、隣接する
定住農耕社会にとって常に最大の脅威だった。

  文明(civilization)についての定義は曖昧である。メソポタミア・エジプト・インダス・古代中国に共通する特色は、一応は「都市の発生」「王権の誕生」「巨大構築物の建設」「官僚制度の確立」「裁判の実施」「文字の発明」などになっている。
 では、パストラル・ノマド(pastral nomads)の歴史に文明的なるものがなかったかといえば、そんなことはない。騎馬遊牧民(mounted nomads)の社会にはすでに「王」がいた。騎馬遊牧民の歴史に王が登場したのは紀元前9世紀の、ユーラシア草原地帯の東部でのことだった。そのころ、ユーラシアの西にはアッシリア帝国があり、東には西周の王朝が広がりつつあった。
 騎馬遊牧民の王は「王墓」を造り、その権力の大きさを誇示した。最初は地上に墓所をおいてそれを墳丘で覆ったが、やがて地下に墓室を設けた。かれらは動物文様、馬具、武器を独特の様式で意匠した。こうしてわれわれの前にスキタイがあらわれた。
 ヘロドトスが驚いたスキタイにもすでに王がいた。『歴史』ではプロトテュエスという王名になっている。メディア王のキャクサレスがアッシリアの都ニネヴェを包囲したとき、プロトテュエス王の息子のマデュエスが率いるスキタイの大軍かあらわれて、メディア軍を蹴散らしたとある。そのアッシリア帝国は、その後の前612年にメディアと新バビロニアの連合軍によってあっけなく滅ぼされた。

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スキタイ文化の東漸

 このようにスキタイは王を戴き、ウクライナから中東までを荒らし回っていたのである。どうもいまのパレスチナあたりまで進出していたと思われる。「旧約聖書」エゼキエル書に、イスラエルの北方を騎馬軍団が襲ったという記述があるのは、スキタイあるいはキンメリアのことだとされている。
 ちなみに、いま日本の高校教科書ではスキタイの出現を前6世紀としているが、実際には前7世紀には動きまわっていた。このスキタイ時代はいわば「草原の古墳時代」なのである。
 スキタイの黄金装飾品はべらぼうに美しく、完成度が高い。180度体をひねった動物表現から合成獣グリフィンのような造形まで、目を奪う。これだけの造形をくみあげる集団に文明がなかったとは言えない。それなら縄文人にも文明があったということになるが、縄文人には戦闘力がなく、おそらく王権がなかった。

 

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前8〜4世紀のユーラシア西部
各地で独特な文化が生まれた。

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キンメリオイとスキタイの西アジア侵入ルート
クルプノフの推定による。


  一方、前3世紀後半にユーラシアの東に匈奴が出現した。
 匈奴の社会は十進法からできたヒエラルキー構造をもっていて、それを軍事組織にもいかしていた。リーダーを単宇(ぜんう)といい、その下に4王がいて、さらに左右2人ずつの大将、大当戸(だいとうこ)、骨都侯(こっとこう)が配備され、「二十四長」を形成していた。
 二十四長には裨小王、相、都尉、当戸、且渠(しょきょ)らの属官がいて、総じて左の王将軍は東方に、右の王将軍は西方にいた。むろん祭祀・刑罰・葬儀も発達していた。
 ただし匈奴は古墳を造らなかった。墓所は平原ではなく森林を選び、墓室は地下の深さ20メートルくらいのところに設えた。しかしだからといって、匈奴に文明がなかったとは言えない。

 スキタイについては『遊牧民から見た世界史』(1404夜)にも『アーリア人』(1421夜)にもふれたので、ここでは匈奴のことをいささか紹介することけれど、知れば知るほど匈奴はどぎまぎさせる。そればかりか、匈奴がわからなければ中国史は解けないというほどなのである。沢田勲の『匈奴』(東方書店)など、とくに堪能させられた。
 そもそも匈奴とは何者かというと、『史記』匈奴列伝は「匈奴の祖先は夏后(かこう)氏の末裔である」と記している。夏后は最近その実在が実証されつつある夏王朝のことだから、夏が殷に滅ぼされたのちに、夏后の一部が北方の平原に逃れていったのかもしれない。
 が、殷王朝は紀元前17世紀のことだから、そんな古い時期に匈奴の祖先が遊牧民化したというのは、あまりに早すぎる。やはり司馬遷の記述に従って、秦の始皇帝が天下を統一する前後に草原を疾駆し、その名が知られはじめていたと見るのが妥当であろう。
 秦の将軍の蒙恬(もうてん)が匈奴を黄河の北方に追いやったというあたりが、歴史記述に登場する匈奴の活動期だったのである。この時期は、秦の北方の周辺で騒いでいたのは匈奴、東胡、月氏などだった。
 蒙恬は匈奴の王が単宇といい、そのころには頭曼(とうまん)というリーダーだったことを知っていただろうか。頭曼はたえず1万人くらいの部隊を率いていた。やがて時代が秦末となり、楚の項羽と漢の劉邦が鎬を削って天下をとりあうころになると、頭曼の後継者あるいは太子として冒頓(ぼくとつ)単宇が登場してきた。
 冒頓はそうとう残忍だったようだ。妻に閼氏(えんし・あっし)という者が何人かいたが、何人もいたということは単宇は閼氏のマトリズム(母系性)に支えられていたということだろうけれど、冒頓単宇は自分の権力奪取のために鏑矢(かぶらや)でその閼氏の一人を射ってしまった。そればかりか司馬遷によると、父親も殺したようだ。ヨーロッパの王権奪取の伝統とちがわない。きっと匈奴にも『金枝篇』(1193夜)があったのである。 

 冒頓単宇の非情ぶりは、秦にも漢にも届いていた。東胡のリーダーもそれを知っていたようで、匈奴の悍馬名馬として知られる千里馬をほしがりもした。汗血馬だ。遊牧民たちはこうした贈与や交換を好んだのだろう。
 冒頓は「ほしくばくれてやろう」と馬を与えるのだが、東胡王は今度は閼氏の一人を所望した。冒頓はこれも寛大なところを見せて与えるのだが、これで東胡王は慢心して、よせばよいのに次は空いた土地がほしいと言ってきた。そのとたん、冒頓は「土地は国の基本である、なんということを言うか」と怒髪天を突き、東胡をあっというまに滅ぼしてしまった。
 冒頓はこのようなやりかたで、月氏の3分の2くらいを滅ぼすと、その勢いで楼蘭、烏孫、呼掲などの近傍26カ国くらいをなんなく平定してしまっている。月氏については冒頓を継いだ老上単宇もこれを襲い、その一部を西方に移動させている。この西方に行った連中がいわゆる大月氏で、バクトリアを支配した。その大月氏のうちの一部族がさらにクシャーン王朝になる。残った月氏のほうは甘粛方面に行き、小月氏になった。
 こういうふうに、匈奴は中国周辺のみならず、アジア各地にその足跡と派生者をのこしていったのである。

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匈奴の最大領域


 いったい単宇(ぜんう)とはどういう王位だったのだろうか。司馬遷の記述とその後の調査や研究をあわせて浮かび上がらせてみると、なかなかの権威とシンボリズムを発揮していた。残忍なだけではなかったのである。
 たとえば単宇となった者は、毎朝、宿舎のテントを出ると日の出を拝み、夕刻には月を拝んだ。重大なことを決断するときは、たえず月の満ち欠けに従ってもいた。月が満ちれば攻撃し、月が欠ければ退却した。かなりのルナティック・ノマドだったのだ。
 座するときは左を尊び、北を向いた。日本もそうであるが左大臣のほうが右大臣よりも上なのだ。今日のモンゴルではテントの南側に入口をつくり、入って左側が男性の座、右側が女性の座になっているけれど、きっと匈奴にもそうした儀礼的習慣か、そうした天地の左右を律するコスモロジーがあったのであろう。
 活動の日時を選定するにも、なんらかの信仰や暦法があったようだ、少なくとも戊(つちのえ)と己(つちのと)を重視したことがわかっている。そうだとすると十干の5番目と6番目を吉日としたということで、おそらくはそういうことを表示する暦をもっていたのであろう。
 婚姻制度にも興味がある。寡婦となった継母や兄嫁を娶る習慣をもっていたようなのだ。これは文化人類学ではレヴィレート婚(嫂婚制)というのだが、戦闘によって寡婦が生じやすい社会では、なかなか妥当なコンベンションだったのだと思われる。
 しかし、匈奴の最大の特徴はなんといっても駿馬を駆って、圧倒的な戦闘力を発揮したということにある。秦の始皇帝が万里の長城を築くことにしたのも、この匈奴の勇猛苛烈を阻みたかったからだった。どうも匈奴には幼年期から訓練を積ませる国民皆兵制のような制度があったのだと想像される。

 

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金動物闘争文牌飾(前漢時代)
内モンゴル自治区の墓より出土。匈奴の動物闘争文と言われている。  

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鷹形金冠飾り(一級文物・戦国時代)
主体は翼を広げた雄鷹。鷹は狼が羊に噛みつく場面を描いた半球体の上に立ち、大地を見下ろす。額の部分は虎と野生羊と馬が臥せた姿の浮き彫り。これまで発見された中で唯一完全な「胡冠」の実例で、匈奴の王冠の優品。

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匈奴族の腰帯装飾
1961年、西安で発見されたもので、匈奴族の腰帯装飾である。典型的な透かし彫り技法が使われており、猛獣が獲物を捕らえる場面が表現されている。横の長さは10.7cm。 


 劉邦が高祖となって漢帝国を築いたあとも、匈奴はその勇猛苛烈をもってしばしばこの大帝国を脅かした。
 高祖6年(前201)には、北方防衛の拠点であった馬邑(山西省北部)に駐屯していた韓王信が匈奴の大軍に包囲された。韓王信はしばしば匈奴に使者を出して、なんとか和解の道をさぐろうとしたが、これが匈奴に通じているとの疑心を高祖に抱かせ、高祖自身が大軍を率いて馬邑に向かった。
 この戦闘は古代中国史ではとても有名で、やがて冒頓の40万騎が高祖の20万の漢軍をたたいた「白頭山の戦い」で決着がつく。そのあと、高祖も冒頓も亡くなったから、白頭山は古代中国史の大きな区切りだったのである。高祖のあとは恵帝、文帝などをへて7代目に武帝が登場する。
 一方、匈奴のほうで冒頓を継いだのは老人単宇で、そのあと軍臣単宇というふうに続く。

 武帝の時代、ふたたび匈奴攻撃が始まった。武帝の魂胆は大月氏と示し合わせて挟撃しようというのものだった。そのため使者として若い張騫(ちょうけん)が登用された。
 張騫と武帝の西域経営計画のことは、比較的よく知られている。わざわざぼくが書くまでもないだろうが、張騫の苦心が匈奴の社会をよくあらわしているので、かいつまむ。
 張騫は甘父という者をサブリーダーにして、約100人ほどの従者とともに前139年に隴西を出発し、匈奴の領内に入ったとたんにすぐ捕まってしまった。捕虜となったのだが、なぜか張騫は好意をもって幽閉された。敵ながらあっぱれともいえるが、匈奴にはそういう胸中にとびこむ敵を優遇するところもあった。
 妻をあてがわれ、十年がたち、子も生まれた。監視の目もゆるくなってきた。そこで張騫は当初の目的を忘れず脱出し、西に走った。大宛に向かったのだ。大宛は中央アジアのフェルガナ地方に栄えていた王国である。張騫の巧みな弁舌と誠意に絆(ほだ)されたのか、大宛王は通訳をつけて張騫一行を康居に送り届けた。康居はフェルガナからシル・ダリヤ沿いに下った遊牧民王国である。ここで張騫はさらに大月氏のもとに送られた。

 

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張騫の西域遠征図

 そのうち軍臣単宇が病没し、匈奴は後継者争いで混乱した。張騫はこのときとばかりに匈奴人の妻と甘父とともに漢に逃げ帰った。
 これでは張騫は何もしなかったことになる。いたずらに時を食んだだけだ。しかし、張騫は豊富な「情報」を持ち帰ったのだ。古代において情報はときに金よりも尊い。まだ20代前半の若き武帝は張騫によって西域情報を手に入れ、あたかもベンチャー・プレジデントのごとく、いよいよ西域経営に乗り出すことになる。

 前135年に匈奴から使者が来て、和親を求めてきた。さて、どうするか。寵臣たちが議論すると、方針が割れた。
 もともとが燕の出身だった王恢(おうかい)は「匈奴は和親しても数年で約束を破るから撃つべきだ」と言い、韓安国は「匈奴は移動するから捕らえがたい。それを追えば兵士が疲弊して戦闘能力が失せるから、ここは和親に応ずるべきだ」と言った。
 武帝は作戦を練った。囮を使って匈奴の領内に入れ、そのうえで襲うというものだ。囮には馬邑にいた老人がつかわれ、うまいことに新たに単宇の位に就いた伊稚斜(いちさ)がこの老人を信用した。武帝軍は機をみはからって一気に突入しようとしたが、匈奴軍は左右に動き、前後に走ってこれを翻弄した。やむなく武帝は奸計を用いるのではなく、正面突破に切り替えた。あとはどこを好機とするか。

 前129年、匈奴の一部の編隊が上谷(じょうこく・北京の西)に侵入して、役人と民衆を屠っていった。
 こういう時を待っていた武帝は4人の将軍に1万騎を与えて攻撃させた。車騎将軍の衛青は龍城にいたって匈奴の首級・捕虜700を得た。軽車将軍の公孫賀は戦果を得られず、騎将軍の公孫敖(こうそんごう)は破れて7000人の兵士を失い、驍騎将軍の李広は捕虜になった。
 どうもうまくいかない。匈奴のほうでは捕虜とした李広に関心をもった。この男を手なづけて匈奴の将軍に仕立てようというのだが、李広はとっさにこれを振り切った。
 翌年、匈奴は2万騎をもって遼西を襲い、太守を殺して200人を攫っていった。ぼくは思うのだが、このような匈奴のやりくちを見ていると、どうも「拉致」という言葉が浮かぶ。いま「拉致」といえば北朝鮮のやりくちで有名になっているが、この手段は近代国家のなかではおよそ考えつかない。しかし、ここには遊牧的なもの、あるいは遊撃的なものの本質があるようにも思われる。相手の人材や才能の芽を摘んで、これを内部でインキュベートしようというやりくちなのだ。
 まあ、それはともかく、武帝の怒りはしだいに頂点に達してきた。前127年に戦果著しかった衛青を今度は隴西に向かわせ、黄河の南にいた匈奴を撃たせ、白羊王と楼煩王を破り、捕虜4000人を確保すると、かつて蒙恬が築いた長城を修復させた。以降、衛青は大将軍となり、6将軍10万騎をもってたびたび匈奴征伐を敢行する。
 なかで弱冠20歳の霍去病(かくきょへい)は隴西から焉支山をへて匈奴の領内を食い破り、18000人を捕らえた。渾邪(こんや)王を屈服させたのも驃騎将軍となった霍去病だった。義仲や義経を思わせる。霍去病はその後の数年間も匈奴退治で大活躍をするのだが、わずか24歳で死んだ。武帝の皇后の血縁で、衛青の姉の子であった。

 漢と匈奴の“動く闘争”ははてしないものだった。西域経営もなかなかままならない。
 武帝もこんな遊動的な連中を叩ききれないと覚悟し、それよりも匈奴の周辺でつながっているだろう羌(きょう)や烏孫(うそん)を匈奴から引き離す作戦をとり、いわゆる河西回廊(いまの甘粛省)に大規模な植民を投じるようになった。当初の令居を足がかりに、武威郡・酒泉郡・張掖郡・敦煌郡を分置して、とりあえず西域ルートを確保し、そこへ使節団や商人を送りこむことにした。これは朝鮮半島に楽浪郡など4郡を置いたことと同じ外交策である。
 それでも西域では匈奴を恐れて漢の施設を軽んじていた。武帝は自分が寵愛していた李夫人の兄の李広利を頼んで、この統制にあたらせた。こうして楼蘭が前108年に落ちた。
 匈奴のほうも黙っていない。狐鹿姑単宇と左賢王だった息子の日遂王は、独自の西域経営に着手して、僮僕(とうぼく)政治を実行していった。僮僕とは召使いや下僕の意味だが、捕虜・人質・奴隷を仕立てたのであろう。このあたりも北朝鮮を思わせる。
 楼蘭を落とした武帝は、次は車師に狙いをつけ、匈奴からの投降者の介和王をリーダーとさせた。かくて漢と匈奴は西域を舞台に一進一退を何度もくりかえす。
 そこに登場してくるのが中島敦の小説で有名な李陵である。李広の孫にあたる。騎兵ではなく歩兵5000を率いて作戦に出るのだが、捕虜になってしまった。李陵は降伏するふりをして単宇と刺し違える覚悟だった。その覚悟を見た単宇は李陵を気にいり、娘を娶わせ、右校王という名を与えた。このときの李陵の心の葛藤が中島敦の『李陵』の主題になっている。

 

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紀元前1世紀前半の匈奴と漢

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紀元前1世紀のユーラシア大陸


  武帝は前87年に没した。匈奴は勢いを得てしばしば侵入と殺戮を試みたが、漢が各地に置いた狼煙台が機能して、防衛線がなんとか守れた。匈奴は一転、烏孫を攻撃、車延や悪師の地を取って、相変わらず人民連行策を継続していった。このへんのこと、もはや司馬遷は書いていない。『漢書』や『後漢書』の記述を借りることになる。
 単宇は壷衍鞜単宇から虚閭権渠単宇、握衍枸鞜に代わり、さらに呼韓邪(こかんや)単宇の時代になっていた。
 このころから匈奴に親子兄弟の内紛が絶えなくなっていったのである。単宇並立時代だった。内紛は対立から決戦に及び、呼韓邪とその兄の呼屠吾斯(ことごし)が勝ち、さらに頂上決戦となって、呼屠吾斯が統一単宇につき、致支単宇を名のった(致の真字はコザト)。
 致支単宇は烏孫の地の赤谷城に侵入し、人民数百を都頼水に投げこんだ。都頼水とはタラス河であり、ここに新たに城をつくって周辺諸国に貢がせた。そこには大宛、奄蔡が含まれていたのだが、そうだとするとこれは1421夜にのべたアランとも関係してくることになる。
 しかし、こういう内紛はその後に何が統一されても、敗残の一味がそのまま屈することは少ない。ここについに匈奴は初めて分裂をおこすのである。
 呼韓邪は南方に走り、呼屠吾斯は西方と北方を収めた。呼韓邪のほうは後漢には柔順で、漢の帝室の娘婿になりたいとさえ申し出た。匈奴の一部が組みこめるなら、これはことのほかだということで、このとき漢室から呼韓邪に嫁いでいったのが、かの王昭君だった。前33年のことだ。
 王昭君は元帝の後宮にいた美女で、呼韓邪に嫁いでからは寧胡閼氏(ねいこえんし)と称され、呼韓邪が没してからは復株累単宇と再婚し、計1男2女を生んだ。その数奇な生涯はさまざまな詩文に謳われた。晋の石崇の詩曲『王明君辞』、元の馬致遠の戯曲『漢宮秋』などもそのひとつだった。

 こうして南匈奴と北匈奴が分立していった。北匈奴は呼衍(こえん)王のときに西域に進出し、亀茲(クチャ)を攻略し、天山山脈の北側の草原地帯を占めた。現在の新彊ウイグル地区からカザフスタンのあたりを本拠とした。
 だが、敦煌の太守が北匈奴を攻撃したいと後漢に上表したように、その勢力はしだいに衰えていった。
 南匈奴のほうは後漢にくだり、それが逆に内外の出入りを激しく加速したため、中国を四分五裂させ、五胡十六国になっていった。中国は騎馬遊牧民の匈奴によってその性質を変えていったのである。

 いったい北匈奴がその後どうなっていったのか、いまのところ歴史学も考古学もあきらかにしていない。呼衍王が西域の北に拠点を定めていたのが西暦123年くらいのころだったことは、わかっている。
 後漢も敦煌らと北匈奴を挟撃しようとしていたが、151年に後漢軍が向かったところ、呼衍王はどこかに消え去っていったとしか『後漢書』には書いていない。さあ、そこで北匈奴の行方が問題になってくるのである。ひとつは鮮卑とまじっていったという説、ひとつはカスピ海まで及んでアランとまじっていったという説、そしてフン族になっていったという説である。
 とくに「匈奴≒フン族」説はなかなか捨て難い。ただし中国の記録から北匈奴の姿が消えてから約200年をへた376年に西ゴート族が動くのだから、これをフン族が追い、そのフン族と匈奴がつながっているとすると、2世紀前後のエビデンスが必要になる。
 いずれにしても北方遊牧民族たちがユーラシアを駆けめぐっていたことが、その後のアジアはむろん、ヨーロッパをも変貌させていったのである。

 本書は次の見方を示しておわっている。
 いま、遊牧性が見直されているのではないか。遊牧民は家畜に配合飼料などは与えない。自然には生える草を食べさせる。だから肉も乳製品も完全自然食品なのである。一カ所にとどまることはないから、草が食べ尽くされることもない。
 いまや21世紀の草原遊牧民も、一族が必要なぶんを提供する小さな一畳程度の太陽電池パネルと、それに風見鶏をかねたプロペラの風力発電装置があれば、十分に暮らしていける。遊牧民だってパラボナアンテナわもって衛星放送を見まくり、携帯電話でカシミヤの毛の相場を遊んだっていいのだ、というふうに。
 そういう21世紀ノマドな生き方や暮らし方は、原発事故に悩む日本列島に何かをもたらすだろうか。東北や沖縄なら、まだ遊民化は可能であろう。

 

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【参考情報】

(1)本書は「興亡の世界史」シリーズの第02巻にあたる。このシリーズは講談社が創業100周年を記念して企画出版した全21巻もので、まったく新しい世界史解読のための視点と視野を提供する。03『通商国家カルタゴ』、05『シルクロードと唐帝国』、06『イスラム帝国とジハード』、07『ケルトの水脈』、08『イタリア海洋都市の精神』、09『モンゴル帝国と長いその後』、10『オスマン帝国500年の平和』、11『東南アジア 多文明世界の発見』、15『東インド会社とアジアの海』といった、ユニークな巻立てが並ぶ。これらのタイトルを見てすぐに見当がつくだろうが、いわゆる西洋中心史観からの大きな脱却をめざした。これからもときどき千夜千冊したい。

(2)本書の著者の林俊雄は1949年生まれで東大大学院人文科学研究科で東洋史を専攻し、古代オリエント博物館の研究員をへたのち、創価大学の教授になった。『ユーラシアの石人』『グリフィンの飛翔』(雄山閣)の著書、『中央ユーラシアの考古学』(同成社)、『中央ユーラシア史』(山川出版社)の共著がある。ぼくは考古学的に詳細をきわめる著述は苦手のほうなのだが、本書は実に好奇心を絶えさせることなくこれを刺激し、叙述をうまくはこんでいた。
 なおスキタイについては、以前にも紹介したが雪島宏一『スキタイ』(雄山楼)が考古学満載で詳しく、ほかには各種のスキタイ美術の美術展図録が親しめる。匈奴については沢田勲『匈奴』(東方書店)、加藤謙一『匈奴「帝国」』(第一書房)などが読みやすい。

(3)今夜の千夜千冊を書いているあいだ、「なでしこジャパン」が女子ワールドカップで奇跡のような優勝を遂げた。ついつい本を読んだりキーボードを打ちながら、見入った。まるでノマディックな戦法だった。僅かな裾野しかない日本の女子サッカー界で、並み居る世界の強豪に屈服することなく、一戦一戦を勝ち上がっていくチームを見ていると、誰しもがそれを感じただろうけれど、日本はこのジャパン・メソッドでいいのだという気がしてこよう。
 そうなのである。日本は30人から50人くらいのチームが適当に分かれて技能や芸能を徹底稽古して、これをあるときグローバル・ピッチを恐れることなく世界に持ち込めばいいのだ。しかも能や歌舞伎がそうであったように、それらはたいてい少数の遊民たちにのみ決起してきた成果なのである。

 

大月氏

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 14世紀の稀代の歴史哲学者で、のちのちに“アラビアのモンテスキュー”とも“イスラームのヘーゲル”とも褒めそやされ、ぼくはひょっとするとそれ以上の歴史哲学の持ち主だったと思っているイブン・ハルドゥーン(1399夜)は、大著『歴史序説』のなかで「バトウ」(田舎)と「ハダル」(都会)に分けて文明と歴史をみごとに分析してみせた。このことは今年1月24日の千夜千冊にも書いた。
 イブン・ハルドゥーンがバトウ(バダウ)の砂漠的生活の特色としてとりだしたものは、本書では、そのまま草原の遊牧民にもあてはまるとみなされている。砂漠と草原を同一視しているのではなく、パストラル・ノマドの生活と観念と連帯力を近似視してのことだ。次のような特色である。

  ①砂漠と草原の生活形態は都会に先行する。砂漠と草原は文明の
   根源で、都会はその副次物である。
  ②砂漠と草原の人間は都会の人間よりも善良で、かつ勇敢である。
   都会人が法治国家に対してもっている依頼心は、勇気や抵抗力
   を失わさせる。
  ③砂漠や草原に住めるのは連帯意識をもつ部族だけである。その
   連帯意識は血縁集団もしくはそれに類した集団にのみ見られる。
  ④指導権は連帯意識を分かちあう集団の中でひき継がれるが、野
   蛮な民族や部族ほど支配権を核とする可能性が高い。
  ⑤連帯意識の目標は王権である。王権の障害になるのは奢侈と富
   裕への耽溺である。

 いまふうにいえば、砂漠の文化は中世ヨーロッパの都市文明に先行し、草原の文化は多くのアジアの都市文明の原型になっているだけでなく、その後の都市文明が堕落していったものを超えていた、遊牧民にはそういう独自の力がある、というのだ。
 定住のハダルはすべて遊牧のバトウから派生した。そう、言っているわけだ。すこぶる鋭い観察であり、イブン・ハルドゥーンならではの分析だった。
 本書はその都市文明の繁栄に先立つ草原アジアの遊牧民のなかから、のちに大月氏(だいげっし)と呼ばれた民族の消長を詳しく扱っている。日本の本では、レグルス文庫のために書きおこされた前田耕作の『バクトリア王国の興亡』(第三文明社)というユニークな本をのぞいて、類書はない。

 

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中央ユーラシア
『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社 2005)より

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中央ユーラシア主要部
『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社 2005)より


 大月氏はもともとは月氏から派生した。だから広い意味での月氏には二つの顔がある。
 ひとつは秦漢時代に中国の西北辺境に出現して匈奴と勢力争いをした月氏の顔で、これは北匈奴がそうであったように、どこかで歴史の記録から姿を消した。わかりやすく「小月氏」と呼ばれる。もうひとつが、その匈奴に追われてアム・ダリア流域に退却したのち、その西方に動いた勢力の中から勃興したクシャン(=クシャーン=クシャーナ)王朝を形成した大月氏である。本書のサブタイトルに「中央アジアに謎の民族を尋ねて」とあるのは、こちらのほうの大月氏のことだ。
 前夜の林俊雄の本(1424夜)のところでも案内したように、この西遷した大月氏たちの国に、張騫(ちょうけん)と甘父という漢の武人が苦難の末に辿り着いて、長期にわたって捕虜同然となりながらもその実態をつぶさに観察したあげく、長安に帰ってきた。張騫はその「情報」を武帝やその側近に報告した。インテリジェンスとしての情報だ。そのエッセンスは主として司馬遷の『史記』大宛伝に綴られた。張騫と司馬遷は同時代人だったのである。
 『史記』に報告されている張騫の説明は次のような文章になっている。以下にごく一部を掲げるが、これを読むと当時の紀元前後のユーラシアに遊牧国家がもたらしていた「情報=インテリジェンス」がどういうものだったのか、その感じがよくわかる。大宛はフェルガナ盆地のことをいう。

  大宛は匈奴の西南にありまして、漢の真西にあたります。漢から
 の距離はおよそ1万里で、中心は城壁をめぐらして定住生活をして
 います。周辺では70あまりの村落があって、コメとムギを農耕し、
 ブトウ酒を醸造し、優れた馬がたくさんいます。人口数十万という
 あたりでしょうか。大宛の北は行国(遊牧国家)の康居(キルギス
 ・カザフスタン)で、その西北に奄蔡という行国があります。西は
 大夏(バクトリア)で定住民が住み、確たる王がいませんが、ざっと
 100万人ほどの人口がいます。
  大宛の東北は烏孫(うそん)という行国で、生活習慣が匈奴と似
 ています。東は干覃(ホータン)です。ホータンから西は川はみん
 な西に向かって流れ、西海(アラル海)に注ぎ、ホータンから東で
 は川は東に向かって流れ、塩沢(ロプノール)に注ぎます。このロ
 プノールの水が地下を潜行して南の果てで、わが黄河の水源となる
 のです。
  楼蘭と姑師は城壁をもって、ロプノール(塩沢)に臨んでいます。
 ロプノールは長安から5000里ほどでしょうか。匈奴の右方勢力
 はこのロプノールの東の地域を支配し、隴西の長城にいたって南の
 羌族と接しているので、われらが漢への交通経路を遮断しているの
 です‥‥。

 こういうものを読むのは愉しい。まさにインテリジェンスであって、地政学である。張騫も司馬遷も、佐藤優のかたまりのような人物だったのだろう。司馬遷のヒアリングが巧みであったのか(きっとインタヴューの超名人だったろう)、いま引用しただけでも当時としてはかなり詳しい情報だが、実際の張騫はもっといろいろ語っている。まさにイブン・ハルドゥーンの観察と分析につながるものもある。
 大宛はともかく、本書の主題になっている大月氏はどういう民族で、どんなところにいたのかというと、そのことも張騫はいろいろ報告していた。

   大月氏の国は大宛の西2~3000里のところにある行国で、そ
  こはオクサス(アム・ダリア河)の北にあたっていて、南に大夏
  (バクトリア)、西に安息(パルティア)、北に康居が控えていた
  ところです。すでに王がいました。
   大月氏はもともと月氏と言いまして、そのころは家畜とともに移
  動する騎馬遊牧民の部族集団でした。その生活習慣は匈奴に近かっ
  たと思われます。それゆえ馬に乗って弓を射る戦士が20万ほどい
  て(騎射戦士)、かつてはそうとう強い部族集団の緩やかな連合体
  でした。
   ところが強大なリーダーの冒頓単宇(ぼつとつぜんう)が匈奴を
  率いるようになって、大月氏はしばしば領土から追い散らされてい
  ったのです。次のリーダーの老上単宇はもっと過激で、大月氏の王
  を殺害すると、その頭骨で酒杯をつくったほどでした。そのくらい
  大月氏は匈奴によって蹂躙されたのです。
   そんなことがあって、月氏は新たに大月氏という名称の大集団と
  して西のほうへ流れていきました。いまはアム・ダリア河の流域の
  肥沃な土地に安住しています。そこはかつては大夏(バクトリア)
  と呼ばれていた地域だったのです‥‥。

 ざっとこんなふうなのだ。
 大月氏のだいたいのアウトラインが手にとるようにわかる。もしわからないとすれば、日本人がアム・ダリア河と言われてもピンとこないだけで、中央アジアを知るには、それではいけない。アラル海に注ぎこむシル・ダリア河とアム・ダリア河(オクサス)は、中央アジアの“命の河”なのである。
 この2本の河に挟まれた地域は、いまはカザフスタンの南で、ウズベキスタンを挟んでトルクメニスタンにまたがり、東はキルギス・タジキスタンをへてタリム盆地やタクラマカン砂漠におよぶ中央アジアのキーエリアなのだが、かつてそこにはタシケントやサマルカンドが栄えていた。つまりは張騫も、武帝たちにこの二つの河を目印に、大月氏が中央アジアのキーエリアに赴いて定着した顛末を伝えたのだった。実はソグド人によるソグディアナ文化もここに発祥した。二つの河のこと、地図で確かめていただきたい。
 で、本書は、このような張騫の見聞を足掛かりとしながら、そこにその後の班固による『漢書』西域伝や張騫伝、および『後漢書』西域伝の大月氏条などの記述をつなぎ、さらにその後の調査研究の成果を加えつつ、大月氏がどのような“国づくり”をしつつ、ついにクシャン王朝の構築にいたったかということを、たいへんうまくまとめた。
 イブン・ハルドゥーンのバトウとハドルをめぐる比較についての検討も、本書のなかでの重要な視点になっている。

 

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前三世紀頃の北アジア遊牧諸民族の分布


 著者の小谷仲男(おだに・なかお)は京大東洋史を修了後、ガンダーラ仏教美術の研究を足場にユーラシアにおける東西文化交流史を渉猟してきた研究者で、アフガニスタンやパキスタンの調査隊などにも参加してきた。
 ついでに案内しておくが、本書を刊行している東方書店は、その名の通りのアジアに強い版元で、なかなかユニークな出版社だ。本書を含むその名も「東方選書」というシリーズは、ぼくもしばしば参考にしてきた。“学術エンターテイメント”と帯に謳われているシリーズだが、編集者がきっと上々のリードをしているのだと思われる。どの本もよく書けている。沢田勲『匈奴』や三崎良章『五胡十六国』はこのシリーズに入っている。

 話を張騫の報告から離れて大月氏のほうに進めるが、大月氏が西遷してアム・ダリア河の流域に落ち着く前、そこにはかつてバクトリア王国があった。中国では大夏と称ばれた。
 バクトリア王国はアレキサンダーの東征以降で、ギリシア人が最も遠くの東方で植民地経営をしていた国だった。首都のバトクラは今日のアフガニスタン北部のバルフにあたる。ヘレニズム文化が届いた最東方の王国で、イラン系の部族たちがいた。古くは「千の都市に満ちていた」と噂されたほどに繁栄していたのだが、やがてセレウコス朝(現在のシリア)の領土となり、ついで前250年頃には現在のイランにアルケサス朝パルティア(安息)が独立して勢力を広げたたため、これをきっかけにギリシア人のディオドトスがバクトリア太守となって、ここを植民経営したのだった。
 それでもそれから100年ほど、バクトリアはなんとか栄えていたらしいけれど、結局は前2世紀頃にスキタイもしくはサカ(塞)によって滅亡させられた。その滅亡の事情の一端はストラボンの『地理誌』にも記録されている。
 というわけで、バクトリアについてはいまはアイ・ハヌムという中央アジア考古学者にとっては垂涎の遺跡が、往時のドラマをさまざまに伝えるだけなのである。
 本書はアイ・ハヌム遺跡のことを数十ページにわたって解読する。この遺跡からは116本の列柱に守られた宮殿とアクロポリスに通じる道路と広場ポルティコが発掘され、周囲のギムナシオンや円形劇場があったことも発見された。宮殿の「列柱の間」や「謁見の間」の跡も別の調査隊が発掘して、王キネアスの栄華を偲ばせているという。
 近くに古代世界で唯一のラビスラズリの鉱山があったせいもあって、宮殿のそこかしこにラビスラズリによる装飾があったらしい。ちなみにアイ・ハヌムとは「月の姫」という意味だった。一度は行ってみたい遺跡だ。

 

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張騫の遠征と前二世紀頃の中央アジア

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前三世紀頃のバクトリア王国と周辺諸国


 古代バクトリアの地に入ってきた大月氏のことは、『漢書』西域伝、『後漢書』西域伝、『魏書』三国志が少しずつ書いている。
 それらによると、大月氏がここを支配すると、そこにいた5つの部族が次々に服属してきた。休密、双靡、貴霜、朕頓、高附だった。これを「五翕侯」というふうに中国人は報告している。「翕侯」(ヤブグ)とは城邑ごとに仕切っていた小君長(部族長)のことで、大月氏はこの連中をそのつど統合していったか、もしくはこの連中の中の中核部と交ざっていった。
 このとき統合の機関となったのが貴霜(クシャン)翕侯で、これこそがのちのクシャン王朝の担い手となっていった。クシャン王朝(貴霜王国)には王がいて、『後漢書』は初代クジュラ・カドフィセスと2代ヴィマ・カドフィセスをあげている。
 が、クシャン王朝で最も有名になったのは、誰であろうカニシカ王(在位143~160)である。その名は、かのインド最初の統一国家マウリヤ王朝でダールマ(法)に全面帰依したアショーカ王(在位前268~前232)ほどではないが、漢訳仏典の中には仏教の偉大な擁護者として登場し、玄奘の『大唐西域記』にも伝説的なエピソードが綴られている。
 カニシカ王は自身の即位を紀元とする「カニシカ紀元」を創始した。そういうところは“絶対王”だった。後継者のフヴィシュカ王、ヴァースデーヴァ王もそれに倣っている。考古学と歴史学では、ひとつにはカニシカ王が発行した金貨が重要で、ローマのアウレウス金貨と同じ重さになっている。もうひとつは「ラバタク碑文」で、土着バクトリア語で刻まれていた。碑文には、カニシカ王がギリシア語で書かれた詔勅を“聖なるアーリア語”に改めさせたとある。ここでは“聖なるアーリア語”が土着バクトリア語だったのである。まことにアーリア神話(1422夜)なるもの、奥が深すぎる。

 

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土着バクトリア語で刻まれた
ラバタク碑文模写(Sims-Williams,1998による)



 クシャン王朝がガンダーラ仏教美術に大きく寄与していたことも、知られていよう。
 大月氏=クシャン人は、中国産の絹の交易者としても大いに活躍したのだが、自分たちの死後の保証のため、その富の一部を仏教教団に喜捨し、その喜捨の富が新たな仏像製作にまわされて、そこに誕生していったのがガンダーラ仏像だったのである。そのうち、そうしたユーラシアを動きまわった仏教思想と仏像のことも、千夜千冊してみたい。
 それはそれ、今夜は大月氏について軽くノマディック・ドリームしてみた。このドリーム、もう少し続けたいと思っている。次は五胡十六国あたりか、ソグド人あたりだろうか。いよいよシルクロードを東に向かって辿ることになりそうだ。


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融合する文明

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 先だって東アジア・サマースクール「NARASIA未来塾」第1回で、42人の中国・韓国・日本の現役社会人を相手に「東アジアと日本の文化関係」について話してきた。話題はいろいろ持ち出してみたが、とりわけては漢字文化の意義や背景を熱く語るようにした。
 この未来塾は奈良県の募集に応じて中国から18人、韓国から13人が来日し、そこに日本各地の11人の参加も加わって3週間ほど奈良に滞在するというもので、カリキュラムはぼくの話を含めて20テーマにおよぶ日中韓のゲスト講師の講義を奈良県立大学の大教室で受け、そのあとディスカッションをしてレポートを書き、最後にみんなで十津川村で体験合宿をして“卒論”も提出するという、そういうものだった。十津川村合宿には編集工学研究所から広本旅人が参加した。
 ゲスト講師は、李御寧、原丈人、王敏(法政大学教授)、渡辺賢治(慶應大学教授)、雀官(高麗大学教授)、上垣外憲一、松本紘(京都大学総長)……等々。
 初めての試みで、「日本語がある程度理解できること」という参加条件だったけれど、グループ・ディスカッションを聞いていて、少しホッとした。平均32~35歳くらいの全員が「母国」についても「日本」についても強い関心をもっていた。とくに参加した中国人や韓国人は自国史をもっと深く知りたいと思っているようで、そのことを日本の歴史における政治・社会・文化の変化を知ったうえでちゃんと比較したがっていたのである。日中韓の交流と共通基盤の構築に貢献できそうなメンバーも何人も見えた。


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東アジアサマースクール「NARASIA未来塾」での講義の様子。
「和」と「漢」を並存させる「日本という方法」を東アジア的な観点から語った。

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受講生とのディスカッションの様子。
講義後は日中韓の受講生たちが各テーブルに分かれて、
三カ国の歴史や文化について熱心な議論を繰り広げた。


 歴史教育がぞんざいになっているのは、日本だけのことではない。中国や韓国でも日本同様である。中国では都合の悪い歴史はほとんど教えないし(中国新幹線の事故の対応にもあらわれているが)、韓国では古代の自国史が文字史料になっていないというコンプレックスがあり、日本には日本近代史の欠落や東アジアについての知識の損傷が甚だしく目立つ。
 中・韓・日ともにそれぞれが歪んだ歴史的現在にいるのだが、今回の「NARASIA未来塾」の参加者たちはこれらの是正を本気でしたがっていた。なかでもかれらが気になっていたのは「漢字文化」と「仏教文化」のことだった。
 漢字のほうは中国ではすでに簡体字ばかり氾濫しているし(だんだん繁体字が読めない世代が広まっている)、韓国ではとっくにハングル全盛で新聞も教科書も漢字をほとんど使わない。それにくらべると日本は東アジア随一の漢字王国なのに(それなのに漢字検定ばかりにウツツを抜かして)、東アジアについてはまったく考慮も配慮もゆきとどいていないままである。
 仏教についても似たような事情がはびこっている。すでに日中韓ともに仏教とは“観光のお寺”のことであって、仏教思想をもって歴史観を鍛えるとか、欧米やイスラムの宗教意識と仏教哲学をくらべてみるなどということは、さっぱりエクササイズされていない。参加者たちはそこをどう考えていけばいいかということも、多少は真剣に考えようとしていた。
 東アジアにおいて仏教をどのように共通未来の問題にしていけるかという問題は、なかなかごっつい問題だ。しかしこの問題を融通しあうには、よほどに深く漢字文化圏や仏教文化圏が共通OSとして東アジアの歴史文化を動かしてきたことを、互いに学ぶ必要がある。「ひと夏の体験」だけではまだまだ十分にはなりえまい。
 とくにこの問題に投企していないのは若者・おやじ・オバサンの日本人のほうである。さすがのぼくも、もっと応えてあげたいという気持ちと、それにしても日本の若者・おやじ・オバサンがどれほど熱心になっていってくれるのだろうかという心配とが、二つながらやってきた。

  というような事情もあって、さて今夜は、前々夜(1424夜)のスキタイと匈奴の関係や前夜(1415夜)の大月氏の消長に続いて、きっと日中韓も中韓日もともに苦手であろう「魏晋南北朝」と「五胡十六国」のことをざっくり紹介することにした。
 テキストにはあえて中国が最近刊行した本を選んだ。全10巻シリーズ「図説中国文明史」のうちの第5巻『融合する文明・魏晋南北朝』だ。最近の中国で出版された「中華文明傳真」という全集の翻訳で、著者は南京博物院の研究教授、全巻を中国文物学会理事の劉偉(偉は火ヘン)が構成した。日本版の監修には早稲田の中国古代学の稲畑耕一郎が当たっている。
 かなり一般向けになっているが、著しい特色がある。魏晋南北朝や五胡十六国というのは、北方の遊牧民や異族が頻繁に出入りして複雑な政治事情が展開された時代なのだが、そのため夥しい殺戮と陰謀が連続しているにもかかわらず、そうしたことはかなり柔らかく捉えられていて(巧みに省かれていて)、むしろ北魏によって諸民族が「融合」していったことのほうに、つまりはその後の隋や唐による「中華帝国統一」がなされていった中華的偉大性のほうに、説明の流れをつくっているということだ。そのためついつい「周辺諸民族の文化の多様性を中国が手に入れたこと」を強調する。
 中国は魏晋南北朝によって胡風の習俗や西域仏教や均田制を受け入れるようになったのだから、たしかにこの時代にこそ中国史は「周辺諸民族の文化の多様性を手に入れた」わけだ。しかし、これを日本の歴史学者が記述すると、たとえば三崎良章の『五胡十六国』(東方書店)や川本芳昭の『中華の崩壊と拡大:魏晋南北朝』(講談社「中国の歴史」第5巻)がそうなのだが、匈奴以降の周辺民族の権謀術策の経緯をことこまかにちゃんと描写する。とくに徒民(しみん)政策がどのように発揮されていったか、その説明に手を抜かない。徒民というのは“異民族とりこみ政策”で、ヤマト朝廷が東北の蝦夷(えみし)に施した政策に近いものをいう。中国のほうではこのへんを省くのだ。
 そういうきらいはあるのだが、しかし、これが現在中国の一般的な歴史書のスガタなのであろう。さはありながら、図版が豊富な手に入りやすい中国側の中国史案内シリーズとして、日本人としては手元においておくと便利な10冊でもある。

 それにしても日本人には、五胡十六国を含む魏晋南北朝にはそうとうに無縁であるらしい。アウトラインだけをいえば、次のような時代なのである。
 西暦前後を挟んだ200年ずつにわたって前漢と後漢の君臨が続いた。これによって都合400年におよんだ漢帝国が、2世紀後半に入って「黄巾の乱」などがおこり、屋台骨がぐらぐらし、220年には名実ともに滅亡したわけである。
 これで中国は曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の鼎立による、いわゆる「三国志」の時代となった。中原の中国が割れたのだ。日本ではだいたい卑弥呼の時代にあたる。それでも三国鼎立は265年にいったん司馬氏の西晋によって仮の統一をみるのだが、そこから遊牧民族や異民族の出入りが甚だ激しくなって「八王の乱」などがおこると、中国全体が大きく北朝型と南朝型に分かれ、ここから魏晋南北朝時代と総称される時代に突入していった。
 このあと中国がふたたび統一されて随になるまで、およそ370年ほどが大乱世となった。370年間といえば平安時代や徳川時代より長い。中国史にとっても、春秋戦国期以来、最もめまぐるしく多民族並立がおこった政治分裂時代だった。
 なかで3世紀末から5世紀中期までの中国北部では、匈奴をはじめとして、怒涛のようにダイナミックな部族や民族の入れ替わりがおこっていった。これが「五胡十六国」なのである。五胡は「匈奴・羯(けつ)・鮮卑・邸(コザトなし)・羌(きょう)」をさすのが一般的であるけれど、実際にはこれらに丁零・烏桓(うがん)・扶余(ふよ)・高句麗などが複雑に交じっていた。しかし中華の見方では、これらはいずれも「胡族」と一括総称された。
 それら「五胡」の胡族の離合集散が、やがて「十六国」になった。十六国もふつうは「前趙・後趙・前燕・前涼・前秦・後秦・西秦・後燕・南燕・北燕・成漢・夏・後涼・南涼・北涼・西涼」とされるけれど、前趙/後趙、前燕/後燕、前秦/後秦/西秦というふうに、華北においては4世紀から6世紀の前期と後期でいろいろ建国メンバーの組み合わせが替っていったので、民族部族名でいえば十六国といっても主要国は趙・燕・涼・秦・夏などになる。
 これらは華北の「北朝」にあたっている。ほとんどがノマドな異民族の国々だが、前涼・後涼・南涼・北涼・西涼の五涼を数える涼のみは、張氏をリーダーとする漢民族の国だった。いずれにせよ、華北を北魏が統一するまでの北朝の総称が五胡十六国なのである。なかで北魏のことは、初期の中国仏教と漢化政策を語るうえでは欠かせない。
 一方、これに対して長江に近い地に広がった「南朝」が北朝とは別種の、さまざまな離合集散をおこしていた。このうちの6つの王朝を「六朝」ともいう。

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魏晋南北朝時代の王朝交替図

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五胡十六国王朝興亡図


  ぼくは長らく六朝文化に憧れてきた(いまも憧れがある)。そうさせたのは、講談社の「アート・ジャパネスク」(日本美術文化全集)全18巻の顧問だった長尾敏雄センセー(当時すでに京都大学名誉教授・中国美術史専門)のせいで、長尾センセーはぼくに六朝文化の薫りを徹底的に植え付けた。
 六朝には、書聖と謳われた王羲之の親子も、ケイ康・阮籍・王戎・阮咸らの「竹林の七賢」も、山水画をおこした顧鎧(リッシンベン)之(こがいし)も、田園詩や山水詩を始めた陶淵明(872夜)や謝霊運も、また暦法・算法に長けた祖冲之(そちゅうし)たちもいた。『老子』『荘子』『易経』の“三玄”を研鑽する「玄学」も六朝独特の流行である。ぼくの俳号「玄月」もここから採った。
 六朝は呉(222〜280)、東晋(317~420)、宋(420~479)、斉(479~502)、梁(502~557)、陳(557~589)の六王朝をいう。このうちの宋・斉・梁・陳が「南朝」になる。また、三国時代の呉から数えて東晋・宋・斉・梁・陳のいずれもが南の建康(南京)を都にしたので、この名称がある。
 いろいろな特色があるが、一言でいえば江南の貴族文化のロマンと隠逸の気風が渦巻いた。そのひとつが玄学やタオイズム(道教)で、もうひとつがそのころ広まりつつあった仏教である。北朝の北魏では西域から伝わってきた最初の仏教が栄えて大同や雲崗に巨大石仏を築きながらも、他方では道武帝の排仏が何度かおこったのだが、南朝では梁の武帝がかなり深く仏教に傾倒したので、独自の仏教文化が稔った。
 ボーディ・ダルマ(菩提達磨)が南インドあたりから訪れて長江(揚子江)に入り、洛陽の永寧寺の威容に涙したのも梁の武帝の時代のことだった。『洛陽伽藍記』にも詳しい。
 ぼくはかつて、この時代を舞台にダルマを主人公にした『西から来た男』という映画のシノプシスを書いたことがあった。マーロン・ブランドにダルマに扮してもらいたかったのだ。アメリカで活躍していた石岡瑛子(1159夜)さんがおもしろがって、ぜひフランシス・コッポラに監督を頼もうということになったのだが、すでにマーロン・ブランドは太りすぎていた。

 

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「アート・ジャパネスク」(日本美術文化全集)全18巻 講談社


  南朝のおこりは4世紀初頭あたりにさかのぼる。306年、晋(西晋)の王室が匈奴の乱入などによってことごとく滅ぼされたとき、ただ一人この難を免れた者がいた。琅邪王(ろうやおう)に封ぜられて山東の地に赴いていた司馬睿(しばえい)である。
 琅邪には王氏という屈指の豪族がいて、孤立した司馬睿を扶けた。王氏と司馬睿は「八王の乱」のさなかに江南に移って、建康を本拠にした。この動きに多くの中原の貴族や豪族たちが呼応し、南に移住をくりかえしながら「僑姓士族」(外来貴族)としてネットワークされていった。六朝文化はこのような僑姓士族のもとに花開いたものである。
 ちなみに、このうちの宋の時代(420年建国)に、日本は使節を派遣して「讚・珍・済・興・武」という安東将軍の称号、いわゆる「倭の五王」の称号をもらっている。『宋書』夷蛮伝倭国条にのこされた出来事だ。武が雄略天皇にあたる。『日本書紀』にはこの安東将軍についての記述はない。

 もう少し大きなアウトラインに進む。
 以上の魏晋南北朝の時代のことをグローバルに見ると、こうなっている。五胡十六国が激しい出入りをくりかえしていた時期、ヨーロッパにおいてはアーリア民族が動いてゲルマン諸族として次々に部族国家が乱立していた。スキタイからフン族へ、フン族からゲルマン諸族へ、とてつもなく大規模な民族トコロテンがおこっていた。
 ユーラシアはほぼ同時期に、西のゲルマン、中の遊牧民族、東の五胡十六国という、民族大移動期になっていたのだ。ゲルマン民族の移動と五胡十六国の動向はまったく同時期なのだ。
 それでもヨーロッパでは、このあとフランク王国が誕生してゲルマン諸族の統合がおこって、いわゆる「西ヨーロッパ世界」(西欧)が形成された。また、フランク王国から零れた部族たちの動向はスペインをはじめ、多様なヨーロッパの形成になだれこんでいった。そのため、こうした変貌の歴史について、ヨーロッパ人は初等教育でも中等教育でもけっこうな歴史学習をする。
 これに対して東アジアでは、魏晋南北朝のあとに隋唐帝国が生まれたのだから、事情は似ているところもあったのだが、隋唐帝国の前史でどのような混乱と自立の交代があったのか、あまり国民的な学習をしてこなかった。中国人は朝鮮半島や日本や東南アジアの歴史を自国史と同時に語るということもしていない。そればかりか、魏晋南北朝や五胡十六国を濃厚に評価する歴史研究者は、日中韓、中韓日いずれでも少ないままだったのである。中国では長らく「蛮族どもが中華を乱した」と説明されてきただけだったのだ。
 こういうところは、今日の中国が“失態”を隠すという歴史観や現在観を固守している態度にもあらわれている。

 さて、では、いったい五胡十六国のようなノン・チャイニーズの多民族複数部族が、なぜ互いに入れ替わり立ち代わってチャイニーズとしての中国史を彩るようになったのか。大事なところは、そこである。かれら五胡のノン・チャイニーズはその後の漢人中国の正史に混じっていったのだ。
 発端をよくよく知っておくべきだろう。
 後漢末、黄巾の乱(184)のあとの軍閥連中の争乱が全土に群雄割拠をもたらした。これが三国志の争乱につながり、この争乱を開口部として中国に次々に諸族が介入するようになった。これを治める力があったのはただ一人、魏の曹操だったろうが、その曹操ものちに五胡十六国と呼ばれることになる諸族を傘下に引き入れているうちに、呉や蜀との中原の内戦に巻きこまれ、「赤壁の戦い」(208)で三国鼎立を余儀なくされた。
 曹操はそれなりに諸族による混乱を収拾するつもりだった。たとえば、南匈奴は2世紀の半ばをすぎると約50万人まで膨れあがっていたのだが、188年に内紛がおこって二つに分裂した。曹操はそのうちの山西の単宇(ぜんう)を抑留して匈奴の力が再発するのを抑えた。幽州にいた烏桓(うがん)は2世紀末に袁紹(えんしょう)に支配されたものの、遼東などに勢力をのばしていたところを曹操が袁紹を撃って、烏桓20万人を配下に入れた。鮮卑(せんぴ)では2世紀中頃に檀石槐(だんせきかい)という君長のもとに全盛期を迎えたのだが、その死とともに分裂したため、曹操がかれらのリーダーたちを懐柔して役職に付けた。
 羌(きょう)は古くから甘粛や四川北部で匈奴などとも連携していた強力な部族だが、前漢の武帝も後漢の光武帝も武力介入したため、いったんは後漢に服属していた。後漢政府は羌族を移住させ、さらに分散させようと狙ったけれど、華北に点住することになった羌族は2世紀になるとしばしば蜂起反乱をおこして、しだいにその勢力を再成長させた。そこで曹操はこれを軍事力として利用するという方策をとった。

 こういうぐあいに、曹操は諸族異族の懐柔と利用が巧みであったのだが、途中、呉および蜀と決定的な対立をすることになって、その統合力にブレーキがかかってしまったのである。それを象徴するのが、派手なCGと戦闘場面で話題になった映画『レッド・クリフ』の「赤壁の戦い」だったのだ。
 水上戦に不慣れな曹操の魏は、ここで呉の孫権・周愈と蜀の劉備・諸葛亮の連合軍の作戦に破れた。これが黄河流域の中原を3分割させ、漢民族を3つに割ったのである。
 三国時代は、かなり活劇化されているとはいえ羅漢中の『三国志演義』(明代の創作)に詳しいし、映画やドラマや横山光輝のよくできた長編劇画でも日本人には大いに馴染みがある。けれども、では、あの三国志のドラマのあと中国がどうなったのかというと、日本人はさっぱり注目してこなかった。
 が、話はここからなのだ。

 三国鼎立は司馬懿(しばい)、司馬昭などの司馬氏の台頭でじょじょに解消され、西晋の武帝・司馬炎によっていったん統一された。
 曹操がつくりあげた魏をコアに司馬氏の西晋が中原を制したのだ。ところが司馬炎が死ぬと、たちまち帝位継承争いがおこって大反乱状態になった。これが「八王の乱」(290)で、八王と言うほどにトップを狙う者たちがあれこれ競いあったため(成都王の司馬潁など)、混乱がずるずる十数年に及び、あげくに西晋は滅亡した。
 これがきっかけに北方騎馬遊牧民の国々が乱立していったのだ。その引き金をひいたのは匈奴のリーダー大単宇の劉淵で、跡目争いのうえ「永嘉の乱」(311)をおこして漢を自称して国を立てた。ついで劉聡・劉曜が国号を「趙」(前趙)とするや、劉聡のもとにいた石勒(せきろく=羯の一族)が反旗をひるがえして新たに「後趙」を立て、ここから関中による勢力と関東による勢力とが華北を二分しながら乱立していったのである。
 遼西では鮮卑が丸都を攻略して扶余や遼東を確保し、関中ではチベット系の邸(コザトなし)や羌が力を増し、4世紀半ばになると華北は鮮卑の「前燕」と邸の「前秦」とが鎬を削った。こうしてこれ以降、華北はつねに胡族と漢族とがその背景でヘゲモニーを取り合う綱引きをしつづけたのである。
 このヘゲモニー争いをさらに激化したのは、「前秦」の苻堅(ふけん)が江南に拠点を移した「東晋」を潰そうとして大敗してしまった「肥水の戦い」(383・肥はサンズイがつく)だった。これで、それまで前秦を形成していた鮮卑・羌・邸(コザトなし)などが連合性を失って、それぞれが緩い縄を解かれたごとくに急速に自立していくようになったのである。
 以上であらかたの見当がつくように、「赤壁の戦い」「八王の乱」「永嘉の乱」「肥水の戦い」などの戦いが北方の五胡十六国を中国になだれこませたわけだった。

 

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十六国の民族と建国年代

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分裂時代の南北の境界線


   このような華北をやっと統一してみせたのは、鮮卑拓跋部がふくれあがって連合国家に達した北魏である。すでに述べてきたように、北魏の出現によって、以降の中国は「北の中国文化」(北朝)と「南の中国文化」(南朝)が両立していくという構造をとる。

 北魏は鮮卑拓跋部がつくりあげた国だった。鮮卑族には長らく慕容部(ぼようぶ)と拓跋部(たくばつぶ)という有力部族がいて、慕容部は河北に入って前燕・後燕などの国を立てていた。一方の拓跋部はもともと匈奴がいた東北の大興安嶺の北あたりに集住して、天下の動きに満を持していた。
 やがて3世紀、拓跋部のほうが周辺部族を集めて内モンゴルを制し(匈奴を散らして)、部族連合体としての大規模勢力となると、4世紀には山西省北部の大同(当時は平城といった)に降りてきて、ここを中心に北方および中原の王者になっていった。
 その拓跋部が「北魏」として統一されるのは、リーダーの拓跋珪が皇帝号を用いた道武帝になったときである(386)。ついで3代の太武帝のときに華北全域の統一がなしとげられた(439)。
 道武帝も太武帝も、それまでの五胡政権とはかなり異なる政策を打ち出している。鮮卑の一族を中心に、東西南北の方位にもとづいて8つの「部」を形成し八部とし、皇帝たちは従来の胡族の君主であることから中華の皇帝であることをめざした。これを「内朝」といった。
 最近、ぼくは気になって東アジアにおける「部」のことを調べているのだが、高句麗・百済・新羅・倭国にはどうもその国制の初期に「部」が動いている。高句麗では消奴部・絶奴部・順奴部・漢奴部・桂婁部という五部がある。百済には上部・前部・中部・下部・後部が、新羅には梁部・沙梁部・牟梁部・本彼部・漢岐部・習比部があった。倭国には部民制があった。
 この「部」のルーツに、どうやら北魏の八部制の影響がありそうなのである。それが北魏の独創だったかどうかはまだわからないのだが、おそらくは前燕などもこの「部」を活用していただろう。そうだとすると古代の東アジアの国づくり、すなわちNARASIAの共通OSに、かなり「部」のダイナミック・オーガニゼーションが動いていただろうと思われるのだ。

 

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敦煌莫高窟第二八五窟の壁画にあらわれた騎馬民族の戦闘図


  北魏の歴史はいくら注目してもしすぎるということはない。このあとの隋唐帝国のアーキタイプをいくつももっていた。
 わかりやすくいえば、官僚の登用とその制度化のつくりかた、国家祭祀のまとめかた、姓族の分定の広めかた、均田制などの生産システムの確立、封爵制度の改革、王朝としてのレジティマシーの整備といったことが、北魏によって準備されていた。
 こうした改変が着手されたのであるが、しかし、最も流動的だったのは儒教・仏教・道教が相並んできたことによって、国教をなかなか定め難かったことだった。漢の武帝の時代にいったん儒教が国教になったけれど、これはその後の三国時代・五胡十六国時代に道教の興りや仏教の導入が広まったため、ずるずる後退していた。六朝においても「竹林の七賢」などに象徴されるような隠逸の流行のほうが強かった。
 そういうなか北魏初代の太武帝は、こういうことはよくあることだけれど、道士の寇謙之(こうけんし)を信頼して自ら“太平真君”を称し、新興の道教を国教にしてしまったのである。すでに仏教が入って、これに呼応する者たちも少なくなかったのに、太武帝は道教を選び、廃仏毀釈に走ったのだ。
 ところが北魏がしたたかなのは、こうした動向は文成帝をへたのちの6代孝文帝の決断によって、大きく切り替わる。
  孝文帝は均田制を発案し(484)、三長制をしいた。均田制は15歳以上の成年男子に穀物を作らせるために田畑(露田・桑田)の土地を与える制度で、のちの唐の口分田や日本の班田収授のモデルとなったものである。三長制は戸籍システムで、五家を一つの「隣」とし、五隣を一つの「里」に、五里を一つの「党」に仕立てる中国流の隣組制度のモデルとなった。
 孝文帝がこのような新たな土地政策や人民政策を導入したのは、鮮卑に対する漢人たちの抵抗をできるだけ緩和するためでもあった。孝文帝はまた洛陽に遷都して、これをきっかけに北魏は「漢化」を進めるようになった。これがいよいよ始まったノン・チャイニーズ(胡族)とチャイニーズ(漢人)の混交だ。
 一方、太武帝の排仏政策にもかかわらず、文成帝や孝文帝以降の北魏には仏教が栄えたのである。これは、この時期までにインド仏教が西域をへて北方中国に次々に入ってきていたことと大いに関係がある。

 いずれ千夜千冊するけれど、この時代の仏教を知ることは、その後の中・韓・日の仏教思想と仏教文化の要訣をカバーすることの原点になる。なにより、西域から熱砂の砂漠やシルクロードをへて、次々に仏経僧が“五胡入り”をはたしていた。
 たとえばこの時期、すでに西晋では敦煌に生まれた笠法護(じくほうご ?~308)を登用していたのだし、後趙の石勒や石虎はクチャ(亀茲)の仏図澄(ぶっとちょう 233~348)を篤信して、その高弟の道安による西域仏教の中国化を図っていた。東晋では道安の門下だった慧遠(えおん 334~417)が登場して廬山に入り、中国初の念仏結社ともいうべき白蓮社をおこしていた。後秦の王だった姚興(ようこう)が鳩摩羅什(クマーラジーヴァ 344~413)を国師として招いて、74部384巻の経典の漢訳を任せたことはことに有名だ。
 北魏仏教はこうした下地の上に花開いたもので、五胡における仏教前史を巧みにとりこんだのである。とりわけ文成帝によって雲崗や龍門の石窟寺院の開削が始まると、巨大仏のオンパレードの威容を示した。その塑像たちは初期こそインド風のものが目立ったが、孝文帝が漢化政策に転じてからは、長身で首が細くて面長の「秀骨清像」や士大夫階層の衣服を模した「褒衣博帯」を特色とした。雲崗は大同の西13キロに、龍門は洛陽の南14キロのところにある。
 ついでながら強調しておきたいのは、これらを初めて世界に紹介したり調査研究したのは先駆的な明治の日本人たちだったということだ。伊東忠太(730夜)や関野貞が先駆し、昭和11年に京大の水野清一と長廣センセーが初めて本格調査した。またちなみに、今夜は詳しいことは述べないが、雲崗・龍門の石窟ブームは敦煌の莫高窟を頂点とする西域仏教のダイレクトな流入でもあったのだが、そうした西域仏教の調査研究も明治大正期の西本願寺の大谷光瑞を隊長とするいわゆる大谷探検隊や、狩野直喜・内藤湖南(1245夜)・小川琢治らが早々と手掛けていた。当時の日本人は東アジアにめっぽう強く、また東アジアが大好きだったのである。

 北魏は中国史上では異例な性格をもっていた。前王朝の禅譲を受けることなく成立した王朝だったのだ。そのことについて、ちょっとふれておく。
 中国では古来より五行によって国家の特性をみなす習慣をもってきた。五行は周知の通りの木・火・土・金・水で、世界はこの五行をもって構成されているとされた。そこで、どの王朝も五行のいずれかを担って、木・火・土・金・水の順に興亡すると考えられてきた。これを「五行の行次(ぎょうじ)」といった。たとえば漢は火徳を受け、曹操の魏は土徳を受けたとみなされた。
 この行次からすると、北魏は先行した前秦の火徳を受けて土徳になるはずだった。ところが孝文帝は北魏の行次を土徳から水徳に変えてしまったのだ。これは北魏が西晋の金徳を受けたということで、ということは中国正史を継承しようとした北魏からすると、趙や燕や秦などはしょせん“僭偽の国々”だということになる。孝文帝は、鮮卑拓跋は五胡ではないというロジックの表明をしたということになる。
 こういうことも北魏はなしとげたのだ。それを物語るさらにいくつかの“操作”もおこっていた。

 中国の皇帝には、古来、死後には廟号と諡号の二つが与えられてきた。北魏をおこした拓跋珪の廟号は太祖、諡号(おくりごう)は道武帝。拓跋宏の廟号は高祖で、諡号は孝文帝なのである。
 が、実は拓跋珪太祖の廟号は孝文帝のときにあとからつくられたのだった。これは孝文帝の“操作”なのだ。
 国家祭祀も「祀天(してん)」の統一が図られている。鮮卑拓跋にはもともと7体の木主(ぼくしゅ)をもってその祭祀を飾るという風習があった。7つの主要部族を象徴してのことだ。が、やがて北魏を拓跋部が支配すると、その中華化がめざされたのだった。孝文帝は7つの木主を一本化して国家祭祀をまとめあげたのである。

 カジュアルな生活習慣にも思い切った変革がなされた。とくに劇的なのは胡服や胡語の使用禁止だ。学校の服装規定からタリバンの髭まで、こういう見かけの問題は、実は生活者・思想者・表現者の意識と行動に大きな縛りと緩みをもたらすのだが、それをあえて断行してしまったのである。当然、こうした北朝の制度が気にくわない者たちが南朝に流れていったのも、当然なのである。
 北魏孝文帝の「漢化方針」こそおそるべし。かくして五胡のノン・チャイニーズの動向の大半が、形式的にも生活的にも意識的にも、チャイニーズのレジティマシーを獲得していったわけである。

 

 

 

王羲之◎六朝貴族の世界

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 しばしば「六朝の書、唐の詩、宋の画」という。六朝が書の時代といわれるのは、六朝最初の東晋に書家の王羲之・王献之の親子やその書をとりかこむ文人たちが出現したからだ。親子は同時代に「二王」とよばれ、なかでも王羲之はその後ずっと「書聖」と称賛されてきた。
 しかし六朝を書や王羲之たちだけで語る前に、そもそも六朝文化がなぜ芽生えたのか、そこを知っておく必要がある。「二王」をめぐる歴史だってけっこう波瀾に富んでいた。
 王羲之の一族は「琅邪臨沂の王氏」という名門である。琅邪(ろうや)の臨沂(りんぜき=現在の山東省)という土地に発した一族だった。その王氏の一族が名門家系に名をつらねることになったのは後漢末の王祥からのことで、王祥は当時の二十四孝の一人に数えられるほどの清貧の士であった。王祥のことはわが国でも御伽草子などにも採録されているが、中国では『世説新語』にその行状が語られてきた。

 王祥には異母兄弟がいた。王覧である。王羲之の曾祖父にあたる。琅邪出身の当時のトップ貴族だった。
 王祥も王覧もそれなりに出世して、王祥は西晋の司馬炎のもとで高い役職の太保に、王覧は光禄大夫になった。しかし西晋は潰え、五胡十六国が乱れて八王の乱がおこり、中国は370年にわたる魏晋南北朝に揺れていった。
 このなかで華北を統合できたのは前夜(1426夜)でも述べたとおり、道武帝や孝文帝の北魏であるが、中国全土を統一できたのは西晋だけだった。しかしながらその西晋も胡族たちの激しい出入りのなか、江南に逃れて東晋にならざるをえなかった。
 が、それが六朝分化を花開かせることになる。

 江南に移動する計画を律したのは、八王の一人だった司馬迪の直系にあたる琅邪王の司馬睿である。その懐刀として、王覧の孫にあたる王導や王敦、および王羲之の父の王曠がいた。
 司馬睿は都督揚州諸軍事という役職をもって江南一帯の軍事権を掌握すると、王導らを引き連れて建康(南京)に移り、ここに東晋を建国して元帝となった。
 このとき地元の貴族のリーダー顧栄にとともに建国事業に携わったのが、王導・王敦・王曠らの王氏一族なのである。そのめざましい活躍の様子は「王馬、天下を共治する」と言われた。王氏と司馬氏が江南の天下を治め、貴族による門閥政治を確立したというのだ。ただ王曠は壮年に達することなく病いに倒れ、その家督を王羲之が継ぐことになった。

 東晋は、王馬(王氏と司馬氏)のような外来の「僑姓士族(外来貴族)」と土地の豪族・貴族との結託で劇的に躍進した。たちまち江南が開発されて、クリークが網の目のように張りめぐらされ、低湿地は美田に変貌し、この地に移住してくる者が絶えなくなった。
 その中心のひとつに会稽があった。現在の紹興である。あの紹興酒で有名な紹興だ。魯迅(716夜)の故郷でもある。山水がこよなく美しい。東山に居をかまえて、さっそく大通人ぶりを発揮したのは謝安(謝安石)である。いつも清談や詩作をものしながら、山水に遊ぶときは数人の伎女を連れていた。謝安は東晋きっての名門の出身で、東晋を救った政治家でもあった。
 東晋が江南に新たな政治文化を広めつつあったころ、長江の上流地域で桓温が登場して、かつての荊州と蜀とをあわせもつほどの一大勢力になっていた。桓温は東晋にも関心をもったが、そこには征服欲が見え隠れしていた。これを阻止して東晋に六朝文化の礎えを確保したのが謝安だったのだ。ちなみに謝安の弟の謝万(しゃばん)も清談が好きだった。談論風発の清談には詩人の許詢(きょじゅん)や孫綽(そんしゃく)も加わった。
 351年のこと、そうした会稽の地に王羲之が右軍将軍・内史(長官)として赴任した。
 王羲之はすぐに会稽の風水が大いに気にいって、ここを終焉の地に決めた。そればかりか、永和9年(353)の上巳(じょうし=3月3日)の節句の日、会稽山陰県の西南20里(7キロほど)の蘭亭に時の名士たちを招集し、世に名高い「蘭亭の盟」を結び、祓禊(ふっけい)の儀式をおこなって、流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴を催した。
 集まった名士は謝安、謝万、許詢、孫綽、支遁、王献之をはじめとした名だたる42人。春うららかな宴であった。そのうちの26人が詩作を寄せた。その詩作集『蘭亭集』の前序が王羲之の筆による、かの歴史上最も著名な書作品となった「蘭亭叙」なのである。すでに真蹟は失われているものの、古来、天下の名筆とよばれてきた。後序は孫綽がものした。
 「蘭亭叙」は次の言葉で結ばれている。3・11以降の日本にこそ、この意味が響きわたる。まず綴る、「後の今を視るは、またなお今の昔を視るがごとし」というふうに。そして締めくくる、「世、殊(こと)なり、事、異なるといえども、懐(おもい)を興すゆえんは、その致(むね)一つなり。後の覧(み)る者は、亦まさに斯の文に感ずるあらんとす」というふうに。

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「流觴亭」
王羲之たちが「蘭亭の盟」を催し、風流を楽しんだ場所。
(紹興市内「蘭亭」)

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 清流が流れる「流觴曲水」の跡
順番に杯をまわしながら、歌を即興で詠む宴を催した。
(紹興市内「蘭亭」)

 
 王羲之という男の心情、なかなか掴めない。
 なにより、とびきりの官吏だった。琅邪臨沂の名門貴族に生まれ、いずれも江南文化の誕生に寄与した王氏の血を承けて、かつ多忙きわまりない官吏の仕事をこなした。秘書郎から身を立てて、寧遠将軍、江州刺史、護軍将軍、右軍将軍、会稽内史という順に難職要職をまっとうしてきた。これらが王羲之が生涯でもった肩書なのである。ここまで、どこを見てもピカピカだ。
 しかし、このような多忙きわまりない官吏であったにもかかわらず、王羲之は「逸民」たらんことをめざした。逸民については、ぼくも親しく『山水思想』(ちくま学芸文庫)や千夜千冊「陶淵明」(872夜)に説明しておいたけれど、逸民概念は中国文化における隠逸思想や狂草思想を解くうえでのキーコンセプトになっている。
 逸民は、時や場面や思想者によって、隠者・処士・遺民・幽人・高士・隠君子・逸士・隠士などと示されてきた。そこには遁世・隠遁・棲遁・幽静・高踏、そしてときに清貧と高潔が、ときに狂乱と逸脱が、ともなった。
 その出自において逸民があるのではない。「乱世」とともに逸民の志が出たのだ。その起源はすでに孔子の『論語』の伯夷・叔斉の兄弟のエピソードにある。殷末の孤竹君の二子とはいかにも昔すぎるけれど、いそれでも、孔子だけでなく荘子(726夜)も孟子も、逸民にはただならない関心を寄せていた。そこには体制に対する根本批判があったからだ。
 以来、竹林の七賢まで数多くの逸民がさまざまな噂をふりまいたのだが、王羲之はそうした逸民の行状に必ずしも賛同したのではなかった。謝万に送った尺牘(せきとく=書簡)には、こんなふうに書いている。「古来の隠逸者は紙を振り乱して狂人を装うか、あるいは故意に汚れた行為に出るかして、とかく容易ならざることでありました。しかし私はいま、坐したままで隠逸者となりおおせ、かねてからの志を実現することができたのです」。
 どうも王羲之は「新たな逸民」の理想を探求したようなのだ。それを「タオ回帰」とでも言えばいいのか、それとも「山水合一」と言えばいいのか、ぼくはまだ迷っている。

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王羲之の尺牘「喪乱帖」
(唐の内府で搨摸した摸本 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)


  王羲之には7男1女がいた。長男の王玄之が早逝したのをのぞくと、王凝之・王粛之・王渙之・王徽之・王操之・王献之がいずれも成長して、献之の書がそうであったように、のちのち文人としての気質をあらわした。
 よほど父親としての配慮があったにちがいない。本書にあれこれ案内されている数々の尺牘を見ると、王羲之は家族にはかなり優しく、しかも家長としての細かい気配りをしている。とくに「目前」ということを大切にしていたらしく、「少しでもおいしいものがあれば、みんなで分かちあい、目前をたのしんだ」といった表現が少なくない。
 しかしよくよく考えてみると、この父親像と逸民への愛着は、本来なら同居しがたいものなのである。「目前」のアクチュアリティと山水に埋没する気質も、うまく重ならない。逸民の本質は逸脱を弄ばないにしても、「拙」あるいは「訥」ないしは「朴」(あらき)に、その精神と行為の根拠があったはずなのだ。
 もうひとつ気になるのは、「仕」と「隠」とはそもそも別々の方向をむいている生き方であるはずなのに、これが王羲之においては連続できていたということ、またはデュアル・スタンダードになりえていたということである。

 中国の官僚制度は、漢代の九品中正法このかたきわめて厳格で、上下をひどく決めたがるものとして機能した。
 地方の仕官においても九品に品第(ランク)を分け、これを郷品(きょうひん)と名付けて、高位を「清官」と呼び、低位を「濁官」と呼んだほどなのだ。おまけに「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われたように、高位高官には低い家柄がなく、低位の者には有力家族はいないというのが定番だった。これがいわゆる「譜牒」(家系書)として巷間にまで知れわたったのである。
 王羲之の一族は、こうした高位高官の門閥貴族の家柄をほしいままにし、王羲之その人もそこそこの高位高官の日々をまっとうした。ただ、王氏が司馬氏とともに江南の建康に逃れてきたということ、そこが漢民族が初めて長江を渡った別天地であったということ、このことが従来の歴史にはまったくなかったことだった。
 そうだとすれば、王羲之は「仕」と「隠」の同時成立を、この六朝建国の一大事において早々に果たしていたとも言えるのである。

 さて、いまさらながらの話であるが、王羲之は天下の能書家であった。中国書道の議論は王羲之から始まると言っていい。
 その書は「蘭亭叙」「十七帖」「楽毅論」「黄庭経」「東方朔畫賛」「孝女曹娥碑」「集字聖教序」などとしてのこされているが、どれもこれもが後世に集字されたか模刻されたかで、決定的にこれが真筆だと言えるものがない。ぼくが好きな「十七帖」にして、豬遂良(豬はシメスへん)、王知敬、王行真らによって整理表装されたうえ、解天畏による双鈎填墨(そうこうてんぼく)がされていた。
 もっとも双鈎填墨とはいえ、その技能はまことに驚くべきもので、蝋紙を原本の上に重ねて籠字をとるか、遊糸筆で丹念に輪郭をとるという手法を、当代の最もすぐれた書芸者がとりくむのだから、ほとんど真蹟と見まごう出来栄えになるのである。それで王羲之鑑賞はほぼ十全でもあった。
 それゆえ、かつて中村不折は「十七帖」について、草書は初めて王羲之によって完成された。「十七帖」の独草はその標本である。後代の草書の先祖である。連綿草も狂草も、みなこの独草から派生したと述べたものだった。
 それはそれとして、王羲之がなぜこれほどの名筆に達したのかといえば、ひたすら一途に研鑽を重ねたのだろうとしか言いようがない。「蘭亭叙」は鼠髭筆(そしょひつ)をもって蚕繭紙(ざんけんし)に書きあげたことがわかっているのだが、こんな筆紙の組み合わせで柔らかく書き上げるのは至難の技である。王羲之自身、このときの書をその後も何度か浄書したにもかかわらず、ついに最初の書に及ばなかったと告白している。
 しかし、今日伝えられてきた王羲之の書は、真行草いずれも完璧なのだ。それは逸民の書ではない。芸術家の書というべきである。それでもそういう王羲之をして「自論書」では、自分の書はまだ鐘徭(しょうよう・「よう」のフォントがない)と張之(ちょうし)には及ばないとしている。
 この男、どうにもその心底をなかなか見せない深さに遊んだようである。それが六朝文化の到達点でもあったのだろう。

 ところで六朝は東晋のあと、宋・斉・梁・陳と続いた。420年に劉裕が東晋の最後の皇帝である恭帝を禅(ゆず)りうけ、武帝となって開いたのが宋朝である。
 文帝のときに「元嘉の治」を栄えさせ、人口517万人を擁したものの、あとがひどかった。北魏の討伐を計画してもののみごとに失敗した。文帝は皇太子に殺され、その皇太子も弟に殺され、孝武帝は子供16人が殺害されて、宋朝は滅んでいった。
 宋については、やはり陶淵明(872夜)が「仕」から「隠」に転じて桃源郷を謳ったこと、『宋書』倭国伝に「倭の五王」のことが克明に綴られていることが、欠かせない。
 次の南斉は蕭道成が建国するが、さしたる成果もなく、梁がこれを継承して蕭衍(しょうえん)が武帝として50年ほどにわたって君臨した。ここでまた六朝独特の文化が開いた。とくに仏教と漢詩である。六朝は、のちに「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」とうたわれるのだが、それらの多くを武帝が建てたか、支援した。
 前夜(1426夜)にも書いたけれど、このとき南インドあたりから碧眼巨怪のボーディ・ダルマがゆらゆらと揚子江(長江)を渡って梁に入ったのである。貧相な赤衣のダルマの異様な噂を聞いた梁の武帝は宮廷に呼び、どのようにしたら仏教的安寧が得られるのかと尋ねると、ダルマがそこで答えたのが有名な「安心立命」の問答である。禅林では「安心問答」(あんじんもんどう)と呼ばれてきた。ぼくがけっこう気にいっている問答だ。
 梁の六朝文化の武帝の長男の昭明太子蕭統が編集した『文選』(もんぜん)も、すばらしい。随唐の文芸も、わが聖徳太子の十七条憲法も、この『文選』のまともな影響の中にある。
 しかし、こうした梁もやがては潰え、六朝は陳をもって終わる。それは魏晋南北朝の終焉でもあった。時代はいよいよ隋唐に向かう。では、いったい南北朝文化とは何だったのだろうか。ぼくとしては顔之推(531~602)をもってその真骨頂を訴えたいと思う。

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『文選』(六家文選)
蕭統とその文臣らにより編纂された現存する最古の詩文集。
東周から南朝の梁までの文学者130余人の700作品余りを収録している。
図は「六家(六臣注)」の注釈本
(国立故宮博物院所蔵)


 顔之推は『顔氏家訓』の著者として有名であるが、それよりも梁・北周・北斉・隋という4つの王朝に使えて波瀾万丈の生涯を送った者として象徴的なのである。
 顔之推は軍政下の北周で命を賭して妻子とともに大洪水中の黄河に小舟で船出していった者として、建康や江陵や北周の都を見続けてきた者として、また、河南省霊宝の陝(せん)より孟津の河陰にいたる700里を一夜にして下って北斉に亡命した果敢の人物として、いまなお南北朝史の最期を飾っている。
 その生涯は顔之推自身によって、「予(われ)は一生にして三たび化し、茶苦(とく)を備(な)めて蓼辛(りょうしん)たり」と述べられている。けれども顔之推を顔之推たらしめたのは、どんな危難のときも“読書者”たることを捨てなかったということである。
 そこで言っておきたい。“読書者”とは、本ばかり読んでいて、何らの行為にも及ばなかった者という意味ではない。読書の持続が、突如としての危難(リスク)に対する勇気を育んでいたということなのだ。顔之推は“読書者”というリスクテイカーだったのである。

 

 

シルクロードの宗教

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  何度か書いてきたことだが、ぼくは昭和38年(1963)入学の早稲田大学で、互いに関連がなさそうな3つのサークルに属した。早稲田大学新聞会、劇団素描座、そしてアジア学会である。
 新聞会では学生左翼活動にまみれ、素描座ではゼラチン番号をおぼえる照明屋たらんとし、アジア学会では松田壽男さんのアジア観を学ぶつもりだった。どれも中途半端だったけれど、それなりの体験をした。少なくともつまらない授業よりはずっと刺戟的だった。
 当時のアジア学会の仲間たちのあいだでは、ぼくが関心をもったアジア仏教史やタオイズムや古代朱問題やモンゴル帝国の秘密などは人気がさっぱりで、もっぱらシルクロードが脚光を浴びていた。例の喜多郎のシンセサイザー音楽に乗せたNHKスペシャル『シルクロード第1集』が始まるのが昭和55年(1980)で、日本人にシルクロード・ブームがおこるのはそれからだから、これはけっこう先駆的なことだったのだろう。
 先駆する理由があった。そのころの早稲田にはなんといっても長沢和俊センセーがいて、当時のシルクロード研究を一手に引き受けている台風の目だったからだ。アジア学会もその勢いに乗っていた。ぼくものちのちには『シルクロード史研究』(国書刊行会)や『楼蘭王国』(徳間文庫)や『張騫とシルクロード』(清水新書)などのお世話になったけれど、そのころは松田センセー一辺倒だったのだ。

 古代シルクロードは「絹の道」とはかぎらない。絹馬の道であり、民族の交差路であり、大乗仏教の道であり、ソグド人やウイグル人の道でもある。
 シルクロードは1本でもない。何本もの道の平行と交錯がシルクロードであった。北方ユーラシアのステップ地帯を北緯50度あたりで横断する「草原の道から」、中央アジアのオアシス・ルートを北緯40度あたりで点綴(てんてつ)する「熱砂の道」まで、シルクロードはかなりの幅と複合的な支線とをもって、時代ごとに躍動してきた。紅海・ペルシア湾かららインド洋・東南アジアをへて華南に達するルートも「海のシルクロード」だった。
 シルクロードがこんなに話題になったのは、ベルリン大学の地質学者で地理学者でもあったフェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(1833~1905)が、ユーラシアにまたがる東西交渉路を「ザイデンシュトラーセ」(Seidenserassen)と名付けてからである。リヒトホーフェンは7度にわたって中国各地や中央アジアや西域各地を踏査して、その成果を1877年から続けざまに『支那(ヒナ)』全5巻として発表した。
 それがオーレル・スタインによってただちに英訳されて「シルクロード」になり、スウェン・ヘディンが『シルクロード』(西域冒険記)を書いたのが、アルベルト・フォン・ルコック、大谷光瑞、ポール・ペリオ、ラングドン・ウォーナー、ジェリー・ベントレイらの研究欲や探検欲を駆り立てた。
 ちなみにこのなかのウォーナーというのは、映画『インディ・ジョーンズ』のモデルになったハーバード大学の教授である。日本もこういう冒険的な学者や研究者を映画にしてみるくらいの茶目っ気がほしいけれど(たとえば狩野亨吉・杉山茂丸・権藤成卿・本田宗一郎・大森荘蔵などをモデルにして)、どうもそういう映画は少ない。だからマンガ家たちががんばれるのだが‥‥。
 ともかくも、リヒトホーフェンのこの「ザイデンシュトラーセ」という創発的なネーミングがなければ、「シルクロードの遊牧文化」も「シルクロード・ロマン」も「シルクロードから平城京へ」もなかっただろう。ペルシアと敦煌と正倉院をつなぐ楽器の道もなかったろう。

 とはいえ、シルクロードはたんなる「絹の道」ではないと、やっぱり言うべきなのである。
 匈奴が跋扈し、張騫(ちょうけん)が大月氏に向かい、マニ教が動き、隊商宿キャラバン・サライ(ペルシア語のカールバーン・サラーユ)が点々と連なり、ホータンやクチャに西域文化が花開き、仏教が東漸して敦煌に千仏洞をつくらせ、数々の貨幣が飛び交った文明路なのである。
 最近(2011年2月)になってやっと東洋文庫に入った『トルキスタン文化史』(平凡社)をものしたロシアの最も偉大な東洋学者ヴァシリー・バルトリドは、「シルクロードは草原と播種の共生文明路だった」「遊牧民と定住民のあいだにはたらいた民間の文明の力学だった」と喝破した。
 本書もそのような立場で書かれている。ただし著者のフォルツはハーバード出身で、いまはフロリダ州立大学にいる気鋭の東洋宗教学者なので、本書ではシルクロードを東西南北に移動しつづけた諸宗教だけを扱った。ゾロアスター教、東アジア型ユダヤ教、大乗から密教や禅にまで及んだ仏教諸派、東方ネストリウス派、マニ教、そしてイスラーム各派である。
 訳者の紹介によると、フォルツという研究者もおもしろそうな人物だ。イラン宗教とイスラームの専門家であるが、かつプロの音楽家としてCDを制作したり、未発表ながら小説も書くような異能研究者であるらしい。ネットで写真を見ると、うーん、なるほどオタクっぽい(笑)。アフロディテ・デゼネ・ネバブという夫人も写真家で、夫のフォルツが2000年から勤務しているフロリダ州立大学の芸術学部の助教授をしている。日本のドキュメンタリー・テレビ屋たちは、こういう夫妻をこそ取材するといい。
 ついでながら、本書の訳者も若い。1973年生まれで、東大の人文社会系研究科を修めたのち、真宗大谷派の親鸞仏教センター(ここはたいへん精力的な研究とメディア発信をしているところ)や、東大の博士課程をへて、主に中国における外来宗教思想を研究しているようだ。

 では、本書が扱っているシルクロードの諸宗教を、ごくかんたんに集約して見ておきたい。
 かんたんに紹介するけれど、ユーラシア宗教史の中の内容はけっこう複雑である。多神多仏と一神教が交じりあっているのだし、諸言語が入り乱れつつ、仏教でいうならその諸言語と諸信仰がしだいに漢訳され、シノワズリーな様相に覆われて、そのまま儒教や道教をともなって日本にやってきたわけである。
 そのようなシルクロード諸宗教を欧米人が扱うには、ちょっとした覚悟がいる。西欧史観を脱いでかからないといけない。そういう意味では、本書は西欧史観の転倒を試みたアンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)などの主旨を受け継ぎ、それを古代に展開しているものでもあった。今後は少しずつかもしれないけれど、きっと注目を浴びていくにちがいない方向を示している。ただし、残念ながら仏教にはあまり詳しくない。

 で、まずゾロアスター教である。
 シルクロードを越えて南北朝の周や斉で王族・貴族に広がり、唐ではケン教(示ヘンに天)とも拝火教ともよばれ、いくつもの拝火殿堂の営みさえあった、あのゾロアスター教だ。松本清張(289夜)が『火の回路』(火の道)で幾多の謎を追いかけた、あのゾロアスター教である。
 宗祖ゾロアスター、すなわちザラトゥシュトラ=ツァラトゥストラは、世界の天啓宗教の創唱者のなかでもかなり古く、紀元前1200年ころのイラン東北の、現在はカザフスタンにあたる地方に生まれた(メアリー・ボイス『ゾロアスター教』376夜参照)。その教えはおそらく自分たちのことを好んで「アイルヤ」(アーリア人)と呼称していただろう部族(民族)のあいだに広まったと思われる(青木健『アーリア人』1421夜参照)。
 それゆえ一般的には、ゾロアスター教は「大イラン」に広まっただろうと思われているだろうけれど、最初のイラン人の王国メディアやアケメネス朝ペルシアにおいても、“ゾロアスター化”とはいまだ“イコール=イラン化”ということでもあって、宗教として確立していたのではなかった。ゾロアスター教が確立するのは、実質的にはやっと紀元前後が活動集約期になってからのことなのだ。経典『アヴェスター』や『ガーサー』によるその体系化も、3世紀にササン朝ペルシアが国教にしてからだった。マギ(ゾロアスター教の司祭)たちの位置付けもやっとこのころに確定した。
 しかしゾロアスターっぽいものがまじったイラン的宗教性となると、たとえば「アフラ・マズダ」はアッシリア語では「アサラー・マザズ」に、サカ語では「ウルマイスデ」となっていて、急に広がりをもつ。紀元以前からそういう裾野の広がりがあった。シルクロードを東漸できたのも、その柔らかさのせいだった。
 それでもアケメネス朝ペルシアのダレイオス大王がサカ族やエラム族の信仰を、「かれらはアフラ・マズダをちゃんと崇拝していない」と文句をつけたように、アフラ・マズダのことは知られていた。ただしそれらは、まだゾロアスター教ではなかったのだ。

 

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ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ
翼のある半獣身の姿で表される


 次にユダヤ教。ユダヤ教がシルクロードに浸透していなかったかといえば、やっぱり染み出していた。
 すでに『列王記』に、イスラエルの10支族が「ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に追放された」とあるけれど、これはアッシリア帝国が紀元前722年に北イスラエル王国を破壊して、居住者たちをアッシリアの各地に移住させたことにあたる出来事だろうから、ホラサーンあたりの中央アジアにはイスラエルの民がいろいろ散っていたはずなのだ。
 そのあとの南ユダ王国だって150年ほどはもちこたえたが、やがて前587年に新興のバビロニアによってエルサレムの神殿が破壊されたのだから、このとき以来、ユダヤの民がメソポタミア方面に散ったのである。しかもこのディアスポラ(離散)のあと、ペルシアのキュロス大王はバビロニアを征服してユダヤ人や奴隷を解放すると、さらにバクトリアやソグディアナにまで攻め込んだのだから、ここでまたブハラやサマルカンドのユダヤ人共同体の前身が残っていったと想像もできるはずなのである。
 のみならず、本書は古代ペルシアに始まってヘレニズムとパルティア王国時代をへたイラン的信仰は、かなりユダヤ的信仰と共振をおこしていっただろうとしている。それどころか、ユダヤ教に終末論やメシアの概念や最期の審判の観念が確立にするにあたっては、イラン的なるものの影響が大きかったのではないかと推測もする。
 さらに、これにはぼくも驚いたのだけれど、『ヨブ記』(487夜)に登場する天使と悪魔の概念や「告発する者」(ha-satan)という言葉も、イラン信仰におけるアングラ・マインユ(悪霊)やアーリーマン(闇の支配者)の影響だろうというのだ。
 いまはチェンマイにいて、ネパールやモロッコを飛び歩いている、イシス編集学校「6離」の花形だった花岡安佐枝は、少女のころに『ヨブ記』を読んで“世界”にめざめたようだけれど、この話を知ったらびっくりするだろう。

 キリスト教はシルクロードに関係したのだろうか。むろん大いに関係した。その代表が東方教会であり、ネストリウス派だ。
 西アジアでのリンガ・フランカ(共通語)であったシリア語は、実は東方教会の典礼言語になっていた。そのシリアでの428年、シリア人の司祭ネストリウスがコンスタンティノープルの総司教に任命された。就任まもなくネストリウスはアンティオキア派の立場に立って、「神を小さな少年であるかのように扱ってはならない」と主張した。総主教のムキュリロスがこれに猛烈に反対した。
 初期キリスト教というもの、勢力を増すにしたがって、しだいに二つの立場が対立するようになっていた。対立した二説は、キリストは二つの異なったペルソナ(位格)をもつという「キリスト両性説」(アンティオキア派)と、いや、キリストは永遠の神聖なロゴスであるとする「キリスト単性説」(アレクサンドリア派)だ。
 アンティオキア派は「キリストには神としてのキリストと人としてのキリストがあるのだ」と言い、アレクサンドリア派は「キリストは人であって神である」とした。マリアの性格を決めるにあたっても、アンティオキア派は「キリストを生んだもの」(クリストトコス)としてのストレート・マリアを、アレクサンドリア派は「神の母たるもの」(テオトコス)としてのジェネラル・マリアを重視した(シュライナー『マリア』359夜参照)。
 ビザンティン帝国の皇帝テシオドスは、アンティオキア派のネストリウスに少なからぬ好意をもっていたようだが、実力者の姉のプルケリアはあからさまな反感をもっていた。そこでキュリロスはプルケリアを立ててネストリウス批判に乗り出した。431年、皇帝はエフェソスで公会議を開くように指示し、マリアの意義の確定を求めた。
 議長となったキュリロスがアンティオキア派をまんまと異端としたのは驚くにあたらない。いつの世でも、こんな近親者や取り巻きの進言くらいのことで未来の方針が決まっていくものなのだ(毛沢東の四人組問題もブッシュの戦争も原発問題の次代決定なども‥‥)。
 こうしてアンティオキア派、別名「ネストリウス派」はローマ教会の支配を離れ、ササン朝ペルシアの首都であったクテシフォン(現在のバクダード付近)に主座をおくことになる。これが「東方教会」の始まりである。

 ネストリウス派はすぐさまソグド人のあいだに広まった。ソグド人はシルクロードの実際的な“動く主人公”で、ソグド語はシルクロードのリンガ・フランカ(共通語)であったから、ネストリウス派キリスト教はたちまち拡張し、いくつもの拠点をもつようになった。
 ソグディアナの中心都市サマルカンドに総主教座ができ、カシュガルにもその出店ができた。シル河(オクサス)の東側だけでも20ものネストリウス派の司教区があったという。
 パウル・ペリオによれば、こうして8世紀末までに少なくとも30点のネストリウス派の文献が敦煌で中国語訳されて、そのままその教えが中国センター部に流れこんだのである。これが「景教」だった。781年に唐の長安に建立された「大秦景教流行中国碑」が、以上のすべてを物語っている。

 マニ教はペルシア系・イラン系の宗教である。
 創唱者のマニ(マーニー)は216年にバビロニアで生まれ育ち(パルティアの王家の血を引くとも言われる)、ササン朝のシャープール1世が即位した前後に決定的な精霊の啓示を受けて、伝導を開始した。
 早々にシャープール1世の弟が帰依したため、その推薦でクテシフォンの王宮に招かれたマニは、教義書『シャープラカーン』を綴り、その後はアラム語による教義書を執筆した。弟の勧めもあってシャープール1世もマニを寵愛し、しばしば遠征に同行させたが、これはマニに医術の心得があったからだとされている。絵の技量もあったようだ。
 244年、マニは高弟のアッダーとパテーグを東方シリアに送り、伝導を広げさせたのだが、やがてゾロアスター教のマギたちの反発を招き、迫害や弾圧を受けた。やむなくシャープール1世のあとの皇帝ワフラーム1世に迫害の中止を訴えたのだが、かえって捕らえられて投獄されると、ほどなくして獄死した(あるいは処刑された)。
 それでもすでにマニ教の勢いは広がっていて、西はシリアからエジプト、北アフリカに(4世紀以降はさらにアンダルス、スペイン、南フランス、イタリアに)、東は西トルキスタンからシルクロードを進んで、7世紀末には唐に達した。
 とくにウイグル人はマニ教を好み、突厥第二帝国のあとのウイグル帝国(740年代から840年代まで)では国教にされた。マニ教を国教にしたのは世界史上ウイグルだけである。
  マニ教の特徴はそのヘレニズムっぽいグノーシス的な折衷力にあるが、マニが啓示を受けて最初に向かったのがクシャーン(クシャーナ)朝であったことを考えると、マニの教義には多分に仏教の影響がまじっただろうと推測できる。マニは知識や言葉を尊んだので、クシャーン朝(カニシカ王時代)に勢いをもっていた仏教の魅力にも寛容であったのだと思われる。
 こうして、ソグド人とウイグル人と仏教徒によって、マニ教はシルクロードをなんなく東漸していったのである。中国では「明教」(光の宗教)と名付けられ、その教団の拠点を築いていった。ずっとあとのことにはなるが、マルコ・ポーロ(1401夜)もシルクロード旅行中にマニ教の教団に出会っている。ちなみに、あのアウグスティヌス(733夜)も、最初はマニ教信者だったのである。
 

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予言者マニ(?)とマニ教聖職者。
ホジョ壁画10世紀(インド美術博物館)


  以上のようにシルクロードには、さまざまな宗教が人種や文物とともに混交しながら動いていた。しかし、シルクロードを東に進んだ宗教のなかで最も大きな流れとなったのは、なんといっても仏教だった。ふつう、まとめて「シルクロード仏教」と言われる。
 シルクロード仏教といっても、一筋縄ではない。ガンダーラの仏教、アショーカ王の仏教、カニシカ王の仏教、マトゥラーの仏像、コータンなどの西域南道の仏教、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を生んだクチャの西域北道の仏教、トルファンの仏教、浄土思想にめざめた敦煌の仏教、ウイグルの仏教、五胡十六国の仏教、北魏に流入していった仏教、イスラームと交じった仏教‥‥いろいろなのである。
 ただし本書はさきほども指摘しておいたように、仏教についてはあまり詳しくはない。それでシルクロード仏教については改めて千夜千冊しようと思うのだが、それでは今夜の愛想がないだろうし、本書の著者もいくつかのユニークな視点を加えているので、とりあえずそのサワリだけ紹介しておくことにする。ざっとは次のようになっている。

 仏教がインド全域に広まる原動力をもつのは、マウリヤ朝の第3代アショーカ王の在位の頃からである。紀元前3世紀のことだ。
 これは前252年に、アショーカ王がパートリプトラに僧侶1000人を集めて、仏典結集をおこなったことが機縁になっている。ブッダ入滅後から数えると第3回の結集になる。大編集時代だった。サンチーの大塔をはじめ、舎利塔(仏塔)も各地につくられた。
 けれどもアショーカ王が亡くなると、新たな仏教勢力の勃興を快く思っていなかった旧バラモン勢力(ヒンドゥー教徒)が仏教的活動の抑圧に乗り出して、紀元前180年前後にマウリヤ朝に代わってシュンガ朝が王権を握ったのちは、その後の歴代の王たちはバラモン教にばかり熱をあげた。
 これでいったん仏教は四散するのだが、それがかえって仏教を根太いものにも、信仰しやすいものにも変えていった。とくにシュンガ朝を逃れた仏教徒たちが、すでにアレキサンダー大王のインダス流域進出の影響を受けてヘレニックな造像感覚が定着しつつあったガンダーラ地方やタキシラ地方に入ったことが大きかった。ここで「アショーカ時代の仏塔仏教」に「ガンダーラの仏像仏教」が加わったのだ。
 ぼくは学生時代に、ギリシア的な知性の持ち主のミリンダ王が仏教的な長老ナーガセーナと論戦をしている『ミリンダ王の問い』という説話のようなものに熱中したことがあるのだが、このミリンダ王が漢訳仏典『那先比丘経(なせんびくきょう)』にいう弥蘭のことで、実名はメナンドロス王だと知ったのは、ずっとあとになってのことだった。メナンドロス王こそカーブルやガンダーラを治めた王であり、『ミリンダ王の問い』ではギリシア知性が仏教に兜を脱ぐということになっていたのは、のちに仏教徒がヘレニズムの仏教化を試みたせいだったと知ったのも、だいぶんたってからのことだった。
 つまりは、ガンダーラには「ギリシアと仏教のヘレニズム」が生まれただけではなく、「グレコ・ローマンの仏教化」がおこっていたということなのである。が、これだけで仏教がシルクロードを上っていったのではない。事情はもう少し複雑だった。

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サーンチーの仏教遺跡
(インド:マディヤ・プラデーシュ州)
アショーカ王によって建立された、
ストゥーパ(仏塔)や僧院跡などが遺される。

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サーンチーの仏教遺跡
トーラナ(仏塔)に施された彫刻
ブッダの生涯が象徴的に描かれている。


 そもそもガンジス流域の農耕社会に生まれ育った初期の仏教は、端的にいうのなら、思索・瞑想・持戒などによって「欲望を断ち切る」あるいは「苦悩から脱出する」という方針で確立していったものである。
 しかしとはいえ、煩悩と苦悩からの脱出(解脱)を完遂しようとするのはあくまでプロの出家修行者であって、その出家集団を支えるのはそんな修行に至らないアマチュアの一般在家信者たちだった。ということは、初期仏教というもの、いってみれば信仰と修行の専門家たちと、専門的な訓練など必要のない布施や礼拝で信仰支える大衆という、互いに異なる二つの組み合わせによってスタートを切ったものなのである。
 このためアショーカ王登場以前、すでに仏教教派は信仰的存在のすべてを賭ける立場の「説一切有部」と、信仰のきっかけはもっているものの存在のすべてを賭けるにはいたらない「大衆部」とに分かれていたのだった。
 そこへアショーカ王とガンダーラ造像感覚が登場して、誰もが親しめる「大衆部」めいた“広がりの可能性”を準備した。これを逆にいえば、このとき「説一切有部」的なる考え方のほうがはじかれて、それがまずシルクロード方面に上がっていったということになるのだが、それとともに「大衆部」的なるものはシルクロードを動く商人にとっても仏教ポータビリティが高いものになったわけでもあって、ここにシルクロードを「理論的なもの」(悟り)と「救済的なもの」(救い)という二つの仏教性が動くことになったのである。

 

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アショーカ王柱
紀元前250年頃に建立
(インド:ヴァイシャリー)

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アショーカ王柱の碑文
(サールナート博物館)

 

 そこに加えて重なってきたのが、バクトリアを支配することになった大月氏の動向だった(1425夜)。大月氏は紀元後の127年前後にガンダーラを含む北インドにクシャーン(クシャーナ)朝を興し、その4代のカニシカ王のとき、改めて仏教充実を図っていった。仏伝が意識され、ブッダの誕生・出家・成道・初説法・涅槃といった重大場面が編集されて、仏弟子たちのアヴァダーナ(因縁譚)も揃ってきた。総じて、ここに大乗仏教が芽生えていったのだ。
 参考までに言っておくと、それまでガンダーリー・プラクリット(ガンダーラ地方で習合したインド語)で書かれていた経典が正典用のサンスクリット語に書き替えられたのも、中インドのマトゥラーでブッダ(釈尊)が人間の姿で描かれるようになったのも、弥勒(マイトレーヤ)が未来仏として浮上していったのも、いずれもクシャーン朝でのことである。
 ちなみに本書の著者フォルツは、マニ教では弥勒はミトラ神ともキリスト教のイエスとも習合していたという。

 クシャーン朝は3世紀後半に衰退した。デカンを支配していたサータヴァーハナ朝も3世紀にイクシュヴァーク朝に滅ぼされ、そのイクシュヴァーク朝も4世紀に衰微した。
 代わってこれらの混乱を統一したのがチャンドラグプタ1世が開いたグプタ朝である。パータリプトラが都になった。とくにチャンドラグプタ2世(在位375~414)の時代には、これは5世紀の初めにパータリプトラに入った法顕(ほっけん)が報告していることなのだが、都には大乗の寺と小乗の寺とが並んで栄えていて、僧侶も700人くらいが修行していたという。グプタ仏教は僧侶が大いに寄進を受けていた時代だったのだ。
 ま、ざっとはこんなふうにして各時期の仏教のさまざまな側面が、多面・多様・多彩・多時間をもってシルクロードに流れこんでいったのである。
 これをむりやり整理すれば、ごく一般的には、第1期が2~5世紀のガンダーラの影響を強く受けた流れ、第2期が5世紀以降のシルクロード・オアシスの各都市で独自になっていく流れ、第3期がそれらが西域から中国につながって敦煌の莫高窟などが栄える6世紀以降の浄土的な仏教の流れ、というふうになる。
 これらが、シルクロードのオアシス都市上にホータン仏教、クチャ仏教、敦煌仏教などとして連続的に起爆していったのだ。
 そこにはすでに中国からの訪問者や旅行者たちもいたので(そうしたなかに張騫などもいた)、また西域から中国に招かれていった仏教僧も少なくなかったので(そうしたなかに安世高や支謙や鳩摩羅什がいた)、やがて西域全体のシルクロード仏教が中国仏教へと結実していったのである。
 これを仏教史学ではまとめて「仏教東伝」という。いわば、みんな中国化していったのだ。
 では、東に流れこんでいった仏教のあとには、シルクロードに何がのこったのであろうか。本書は後半の4分の1でそのことを書いているのだが、仏教が中国に吸い寄せられていったあとのシルクロードは、ほとんどイスラームによって埋められたのだ。そのことについては、しばらくあとのモンゴル時代のユーラシアを千夜千冊するときに、あらためて案内したい。
 また、シルクロード仏教が中国化していったのとはべつに、インドからスリランカをへて東南アジアに定着したテラヴァーダ仏教のことや、チベットに入って“ラマ教”化した仏教、いまでもブータンに純粋にのこる本格的なチベット仏教のすばらしさについても、そのうち書いてみたいと思う。

 

 

羅什

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【ノート01】かつてぼくは横超慧日・諏訪義純の共著による大蔵出版の『羅什』という本を読んだことがある。80年代の前半のこと、10年続いた工作舎を離れて4、5人で松岡正剛事務所を自立させたころだ。
 ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥ、クマーラジーヴァの3人が気になっていた時期だった。ナーガルジュナ(竜樹)は中論を知りたかったからだが、ヴァスバンドゥ(世親)とクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)については、二人が小乗から大乗に転向あるいは転換した理由や経緯、それとともに周辺の状況が知りたかった。
 ブッダの教えは第二結集のころに出家教団サンガの対立によって、厳格な長老をコアメンバーとした「上座部」と柔らかい信仰をつくりたい「大衆部」とに分かれた。インド仏教史にいう“根本分裂”である。その後、マウリヤ朝のアショーカ王の時代をへて仏教が西域(もうひとつはスリランカから東南アジアに)に広まっていくまで、上座部は正量部や教量部や、とりわけ「説一切有部」によって理論的な深まりを見せていった。「小乗の力」だ。
 シルクロード仏教はその「小乗の力」に席巻されていた。そういうときにクチャにクマーラジーヴァが登場した。そして中国(後秦)に招かれる前後に大乗化し、中国仏教の基礎を築いた。
 本書は『高僧伝』の焼き直しではなかった。詳しい分析がなされていたというほどではなかったが(とくに後半はつまらなかったが)、それでもクマーラジーヴァの「言語編集力」に驚嘆した。この本を読んでしばらくして、ぼくは春秋社の『空海の夢』に執りかかった。

 ◎横超慧日=明治39年生。東大印哲、『中国仏教の研究』法蔵館、『北魏仏教の研究』平楽寺書店。◎諏訪義純=『中国中世仏教史研究』大東出版社、『中国南朝仏教史の研究』法蔵館。大谷大学。

 

【ノート02】羅什はむろん鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)のことだ。この略称はよくない。マクドナルドがマクドで切れるみたいだ(笑)。ときに「什」とも綴る。これは池袋をブクロと言うみたいだ(笑)。マクドやブクロはいいけれど、この男についてはちゃんと鳩摩羅什かクマーラジーヴァと言ったほうがいい。
 父の鳩摩炎はインド出身である。シルクロードをクチャ(亀茲)に上って国師として迎えられた。やがてクチャ王の妹の耆婆(ジーヴァ)を娶って、あるいは娶らされて(?)、多言語の可能性にとりくんだ。
 鳩摩炎の母国語はインド語、文字はグプタ・ブラフミーである。クチャではクチャ語がつかわれていた。同じインド・ヨーロッパ語族だが、ケンツム語群系(ギリシア語・ヒッタイト語・ラテン語系)とサテム語群系(インド語・イラン語・トカラ語系)のちがいがあって、互いにさっぱりわからない。鳩摩炎はそこを突破していった。聡明な妻のジーヴァの助けがあったのだろう。この両親の異文化交流能力は、息子のクマーラジーヴァにも乗り移る。
 言語と仏教、文字と仏教の関係は密接だ。インド仏教・シルクロード仏教・東アジア仏教におけるオラリティとリテラシーの変化と変容と変格を、看過してはならない。ヘブライ語やアラブ語が文明史を大きく変革していったように、アジアにおいては仏教言語が文明の歯車をつくっていった。これはもっともっと強調されるべきだ。
 ふりかえればブッダの時代はおそらく文字がなく、仏典編集に文字が本格的に使われるのはアショーカ王の治世になってからである。それらがシルクロードでは多種多様な言語として花開いた。しかし、その多様多彩はいずれ「漢訳」という一大言語編集機能に集約されたのである。これをなしとげた連中に敬意と驚異を表したい。

 ◎紀元前4世紀頃に、文法学者パーニニが北西インドの言語習慣を整理して「サンスクリット語」を成立させた。サンスクリットは比較言語学では古代インド・アーリア語に属する。やがて口語の表記ができる「プラクリット語」が成立した。中期インド・アーリア語に属する。
 ◎アショーカ王の碑文には、アラム文字の影響を受けたカロシュティー文字(向かって右から左に読む)と、インド固有のブラフミー文字(左から右に読む)が使われている。◎グプタ文字・クシャーナ文字・デーヴァナガーリ文字といった呼称はブラフミー文字の中のフォントの種類だった。
 ◎インドの仏典写本に使われたのは椰子の一種のターラ(ターラ椰子)の葉だった。それを短冊状に切って書写に用いた。これを「貝葉」(ばいよう)という。貝多羅葉(パットラ)の略だ。というわけで、インドやシルクロードの“本”は横長短冊形だったのである。

 

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陸の交通路(8世紀ごろ)

(帝国書院『明解世界史図説エスカリエ』より)

(クリックで拡大)

 

【ノート03】クチャの340年(or350)、クマーラジーヴァが生まれた。母は比丘尼となり、そのとき7歳の少年クマーラジーヴァも出家した。稽古始めや修行見習いというならまだしも、出家というにはやや早すぎるようだが、『太子瑞応本起経』(→調べること)には悉達太子が7歳のときに仏門学習に入ったというし、当時のクチャでは『十誦律』が広まっていて、そこに「仏曰く、今より能く烏を駆うなれば沙弥となるを聴(ゆる)すも、最下は七歳なり」とあるので、鳩摩羅什伝もこれに倣ったのだろう。
 当時のクチャは寺院や僧院が500ケ寺を越えていた。止住する僧侶や僧徒たちも百人程度はザラで、なかには数千人がいた大寺院もあった。そうだとすると、のちの中国寺院に見られるような「三綱」(寺主・上座・繊那)や「僧官」(僧正・悦衆・僧録)といった役割が機能していたとも想定される。のちに玄奘が『大唐西域記』に綴ったところでは、クチャ仏教はまことにすばらしく、僧徒たちは持戒をちゃんと守り、全員が清らかで、寺院の中の仏像も人工のものとは思えないほど精緻だったらしい。
 クチャの仏教界では仏図舌弥(ぶっとぜつや 生没未詳)が有力僧として知られていた。いくつもの寺院を統括していたようで、中国からやってきた僧純・曇充という学僧がこの仏図舌弥の名声について触れている。

 ◎クチャの殷賑は『北史』西域伝や『晋書』四夷伝に詳しい。硫黄・石炭・細氈・饒銅・鉄・鉛・毛皮・饒沙・塩緑・雌黄・胡粉・安息香・良馬・牛・孔雀などに恵まれていたという。松田寿男センセーの『古代天山の歴史地理学的研究』(早稲田大学出版部)では硫黄と石炭と鉄を重視している。◎風俗はイラン風の断髪が流行していたようだ。
 ◎いっときクマーラジーヴァ一家はクチャ王の帛純が新たに建立した伽藍に住していたという説がある。その寺には90人近い僧侶がいた。古くに建てられた雀離大寺にもいたとか(このことについては未詳)。

 

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クチャ(亀茲)のキルジ千仏洞と鳩摩羅什の銅像

 

【ノート04】358年前後のこと、母は息子を国外で修行させようと思い、西トルキスタンのカシュミールに留学させた(首都スリナガル)。クチャにいても充分な修行もできるだろうに、またそのころはすでにグプタ朝下で新たな仏教が隆盛していたのだから本格的な留学ならこちらだろうに、カシュミールを選んだ。なぜか。
 4~5世紀のカシュミールはクチャ同様の小乗仏教活況期で、なかんずく説一切有部のアビダルマが支配的だった。母はわざわざそこへ息子を行かせた。凄いお母さんだ。これはあくまで推測にすぎないが、クマーラジーヴァと同じクチャ生まれの仏図澄(232~348)がやはりカシュミールに留学しているから、これに準じたのだろうか(これは白鳥庫吉説)。
 カシュミールで師事したのは槃頭達多(ばんずだった)という高僧だった。説一切有部に属し、のちに薩婆多部第48祖に数えられた。カシュミール王の従兄弟にあたる。母のジーヴァが王族出身だったから同じ王族出身という誼みで息子を預けたのかもしれない。大きなお母さんだ。
 槃頭達多は午前写経一千偈、午後読誦一千偈を日課としていた。少年クマーラジーヴァもただちに暗誦を日課とさせられた。『雑蔵』と『阿含経』を読んでいる。クマーラジーヴァの人生はまさにブックウェアそのものだったのだが、それはこのときから始まっていた。
 ついで『六足発智論』のような阿毘曇(アビダルマ)を学んだ。ともかくも、少年あるいは青年クマーラジーヴァの瑞々しい知性は、当初は全面的に「小乗の力」に満ちたアビダルマ仏教で覆われたのだ。

 ◎どうもカニシカ王時代のクシャーン仏教あるいはチャンドラグプタ時代のグプタ仏教とシルクロード仏教との関係が、イマイチはっきりしない(→要点検)。◎当時のクチャは小乗仏教。クチャのみならずシルクロード仏教の初期はだいたい小乗的な説一切有部だった。みんなアビダルマに強かったのだ。
 ◎仏図澄が五胡十六国期を代表する。後趙から晋の洛陽に入ったのは80歳の頃だ。仏図澄は一本の経典も訳さなかったけれど、後趙の石勒・石虎に「国の大宝」「大和尚」と称えられた。日本における鑑真和上のような存在だったと見ればいいか。

 

【ノート05】クマーラジーヴァ以前、すでに西域には何人もの訳僧が出身し、中国に入っていた。シルクロード仏教の中国化はすでに始まっていた。
 かれらは中国読みで「安」「支」「笠」「康」といったカンムリ呼称をもって呼ばれていた。安世高や安玄は安息(パルティア)の出身、支簍迦讖(簍はタケカンムリなし)や支謙や支曇龠(龠はタケカンムリ付き)は月氏あるいは大月氏(クシャーン)の出身、笠法護や笠仏朔や笠法蘭は天竺(インド)の出身、康僧淵や康僧鎧は康居(サマルカンド)の出身である。
 もっとも260年代から次々に経典の漢訳を手掛けた笠法護(じくほうご)は、月氏の血を継いだ敦煌の生まれだった。
 これらの訳出僧を受け入れた側の、中国の同時代僧も重要だ。なかで最も注目されるのは、なんといっても、クマーラジーヴァより40歳ほど年上の道安(釈道安 312~385)である。永嘉の乱の渦中に衛氏として生まれ、早くに両親を亡くして12歳で出家、修学の途次に後趙の都で仏図澄に師事して一番の弟子となった。その後は華北を転々としながら安世高が訳出した経典の注釈をしつつも、しだいに禅定の研鑽に励むようになった。
 道安は40歳をこえて太行恒山に移り住んで、もっぱら門下の指導にあたった。このとき、それまではタオイズムに走っていた21歳の慧遠(えおん 334~416)が道安の『般若経』の講義を聴いて画然として出家を決意するのである。
 道安については、いわゆる「五失本三不易」といわれる翻訳編集術の極意の提案がめざましく、のちのクマーラジーヴァの傑出した訳僧としてのみごとな活躍も、この道安の「五失本三不易」のガイドラインに導かれるところが大きかった(→後述)。
 道安とクマーラジーヴァと慧遠。この組み合わせがすべての東アジア仏教の起爆装置をつくったといっていい。

 ◎パルティアの太子でもあった安世高(あんせいこう= 2世紀半ば)は阿毘曇と三昧経典に精通して、後漢の建和2年(148)に洛陽に入った。『安般守意経』『陰持入経』『人本欲生経』などを漢訳。数息観や禅定についての言及がある。◎大月氏出身の支簍迦讖(しるかせん=ローカクシェーマ)は後漢の桓帝(在位146~167)の時期に洛陽に入り、『道行般若経』や『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)や『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)などを訳出。ここに「般若」や「空」の思想の中国化がちょっぴり始まった。『首楞厳経』はその後クマーラジーヴァによっても新訳された。
 ◎支謙(3世紀)=叔父が大月氏の出身。支簍迦讖の弟子の支亮に師事し、後漢末の混乱を避けて呉に入った。黄武・建興年間(252前後)に『大明度無極経』『法句経』などの多くの経典を漢訳した。やはり般若思想の初期導入になる。ぼくとしては支謙が三国時代の清談に関心や憧憬をもったことに関心がある。『無量寿経』の異訳も試みた。◎笠法護(じくほうご 239~316)=月氏の両親、敦煌出身。笠高座に師事。『光讚般若経』『正法華経』『無量寿経』などの大乗経典を漢訳した。笠法護が『無量寿経』の訳出後に記録から消えたあと、仏図澄が洛陽に来た。

 

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後漢から唐までの東西トルキスタン諸国出身の僧侶の来朝
(クリックで拡大)

 

【ノート06】クマーラジーヴァはカシュミールに3年ほどいて、その後はギルギット、フンザ、タシュクルガン、カシュガルなどを遊学ののち、クチャに戻っていった。この間、もって生まれた才能もあったのだろうが、急速に、かつ有能に多言語に慣れていく。その経緯は本書では詳しくは触れられていないけれど、察するにあまりある。
 とくに疏勒(カシュガル)での刺激のことが気になる。カシュガルに仏教が伝来したのはおそらく紀元前70年頃だろうし、クシャーン朝の仏教ともかなり深い交流をもっていただろから、ここでの体験は大きいはずだ。他のシルクロード・オアシス同様に小乗の説一切有部のアビダルマが強かったカシュガルではあるが、それともここにはインドのヒンドゥー哲学もかなり入りこんでいて、クマーラジーヴァはその外典にも目を見張ったはずだ。このあたりのことは宮元啓一の研究が参考になる。
 『出三蔵記集』鳩摩羅什伝には、かの「仏鉢の話」を伝える。クマーラジーヴァが仏鉢を頂戴したとき、ふーんずいぶん大きいものだが軽そうだと思い、それで仏鉢を手にとったところうまりに重くて上げられなかった。これは自分の心に軽重の分別がありすぎるからだと感じたという話だ。
 カシュガルでのクマーラジーヴァは博学をもって名声を上げた。僧の喜見が時のカシュガル王にクマーラジーヴァに会うことを勧めている。そこで『転法輪経』を講じた(『転法輪経』は小乗阿含部の経典)。カシュガルでは仏陀耶舎とも面受した。

 ◎トルキスタン(西域)の言語はトカラ語、コータン語、ソグド語など(いずれもインド・ヨーロパ語)の混交である。羽田亨『西域文明史概論』(弘文堂書房)。◎クチャ語はトカラ語のケンツム語群に属する。トカラ語Bなどとも言われる。
 ◎仏鉢信仰はクマーラジーヴァのエピソード以来、シルクロードをへて中国にまで至っている。法顕の『仏国記』にはペシャワールでも仏鉢説話がゆきわたっていたとある。法顕がペシャワールに行ったのは400年前後のこと。◎セイロン経由の南伝仏教では仏鉢説話は弥勒信仰につながった。
 ◎宮元啓一『仏教誕生』(筑摩書房)、『インドはびっくり箱』(花伝社)、『わかる仏教史』(春秋社)など。

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亀茲語(Tokharian B)

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キジル石窟の亀茲人像(トカラ人の風俗)

 

【ノート07】カシュガルには須利耶跋陀(すりやばっだ)・須利耶蘇摩(すりやそま)という兄弟がいて、このうちの弟の須利耶蘇摩が早くも大乗の教学に通じていたらしく、クマーラジーヴァはこの弟のほうから『阿達耨経』(あのくだつきょう)を講読してもらっている。すでに308年に笠法護が『弘道広顕三昧経』として訳出したものにあたる。
 これはクマーラジーヴァにとっての初めての大乗との出会いだ。どんな主観も客観も空であると説く「陰界諸入・皆空無相」の教義を須利耶蘇摩の講読で聞かされて、これまで「三世実有・法体恒有」(過去・現在・未来に及んですべての諸法も本体も実在している)を説く説一切有部ばかりを学んできたクマーラジーヴァはかなりびっくりしただろう。
 しかしクマーラジーヴァは早くも何かがピンときたようだ。本書にはこの直後からクマーラジーヴァが『中論』を読み耽ったとある。どこまで深まったのかはわからないが、ついにナーガルジュナ(竜樹)の「空」や「中」に接したのだ。『十二門論』『百論』も読誦した。『十二門論』は『中論』入門書、『百論』はナーガルジュナの弟の聖提婆の著述作。いずれもテキストはクチャ語を含むトカラ語系だった(→リチャード・ガード『印度学仏教学研究』)。ともかくも、ここに「空」がシルクロードを東漸して、東アジアから中国へ驀進していったのである。
 こうしてクマーラジーヴァはクチャに帰ってくる。すでに英明が聞こえていたから、クチャ王が温宿まで迎えに出た。鳴り物入りだった。すぐさまクマーラジーヴァを迎えてのシンポジウムやディベート会議が開かれた。

 ◎ナーガルジュナについてはここではメモしないけれど、一言でいえばシルクロード仏教を大乗に切り替えていく原動力になっていったのが『般若経』の理解とナーガルジュナの「空」の論法だった。だからこそ、このあと大乗が漢訳されていったとき、「空」が「無」とも訳された。
 ◎クチャに帰ってきたクマーラジーヴァの講義を聞いて、阿喝耶末帝(あかつやまてい)という尼僧が感激したという話がのこっている。一説にはこの女性こそ母親のジーヴァだったとも言われる。

 

【ノート08】370年、20歳のナーガルジュナはクチャの王宮で三師七証のもとで受戒した。戒和上は卑摩羅叉(びまらしゃ 337~413)だった。カシュミールの人である。卑摩羅叉はのちにクマーラジーヴァが長安に招致されたとき、その地で活躍する弟子の噂をよろこんではるばる長安に赴き、師弟の交わりを温めた。
 クチャでのクマーラジーヴァは、カシュガルでの須利耶蘇摩による大乗般若の一撃にもとづき、一心不乱に大乗教学に向かう。王新寺での大乗経典の読書、なかんずく『放光般若経』を読んだ体験がことに大きかったようで、大いに開眼した。世に「鳩摩羅什の開眼」とみなされる。
 ここからのクマーラジーヴァは強靭だ。カシュミールでクマーラジーヴァを教えた槃頭達多が噂を聞いてやってきて、「一切皆空」という大乗思想はちょっとおかしいのではないかと難癖をつけた師弟問答をしたときも、クマーラジーヴァは臆せず応酬し、その論議の往復は1カ月に及んだ。槃頭達多はそれなりにクマーラジーヴァの大乗開眼を認め、「和上は是れ我が大乗の師にして、我は是れ和上の小乗の師なり」と言った。この噂は中国から来ていた僧純・曇充によって中国にも伝わっていった。
 しかしこのあとまもなく、五胡十六国の激しい出入りのなか、これを華北に統合しつつあった前秦の苻堅(ふけん 338~385)が派遣した将軍呂光によって、クチャは384年に陥落してしまう。
 このとき、苻堅は自身が統括するべき国の命運を占った。「星が外国の分野に現わる。まさに大徳、智人、秦に入りて輔(たす)くべし」と出た。苻堅はただちにこの“情報”を調査させ、大徳が西域のクマーラジーヴァであること、智人が襄陽の道安であることを確信した。
 こうしてクマーラジーヴァは苻堅の差配によって、そして道安の進言によっていよいよ長安に招致されたのである。が、その直前に苻堅も呂光も没し、前秦は姚興(366~416)によって後秦になっていた。

 ◎三師七証=戒和上・教授師・羯摩(かつま)師の三師と、受戒を照明する七人の僧侶のこと(→平川彰『原始仏教の研究』、佐藤密雄『仏教教団の成立と展開』)。
 ◎僧純・曇充が中国に伝えたクマーラジーヴァの評価は、「年少の沙門あり、字は鳩摩羅なり。才大にして高明、大乗の学にして仏図舌弥とは師と徒なり。而れども舌弥は阿含の学者なり」とあった。

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内陸アジア世界
鳩摩羅什はクチャに生まれ、カシュミールから長安へ東西をまたいだ
(『世界史図録ヒストリカ』山川出版社より)

 

【ノート09】クマーラジーヴァが、新たなリーダー姚興の治める後秦の長安に入ったのは401年12月20日。52歳になっていた。
 姚興は儒教にも奉じていたが、仏教にも熱心だった。クマーラジーヴァが長安に入ったとき、姚興は即位して8年目、36歳だ。沙門5千人を集め、仏塔(浮図)を起造し、波若台を立ててその中に須弥山を造容した。すでに父の代から弘覚大師を迎えて笠法護の『正法華経』の講義に聞きほれたり、僧略という師に帰依して、後秦の仏教教団の統括を任せて国内僧主を託したりしていた一族だった。
 クマーラジーヴァのお迎えには長安から僧肇(そうじょう 384・414)が出向いた。のちに有能な愛弟子になる。長安に入ったクマーラジーヴァのことは、これまたのちに愛弟子になる僧叡(352~436)が「ついに歳(ほし)は星紀に次(もと)る。豈に徒らに即ち悦ぶのみならんや」と書いている。招致を待ち望んでいた道安はもとより、遥かに廬山にいた慧遠もこの入閣をよろこんで、親書を送った。この慧遠とのその後の質疑応答記録こそ『大乗大義章』として知られる有名な3巻18章になる。
 かくてクマーラジーヴァは、姚興が用意した国立仏典翻訳研究所ともいうべき訳場を「逍遥園」(もしくは西明閣)の所長に迎えられた。すぐさま漢訳団が結成され、僅か5年で次の仏典群が訳出された。

  大品般若経24巻。小品般若経7巻。
  妙法蓮華経7巻。
  賢劫経7巻。華首経10巻。
  維摩詰経3巻。
  首楞厳経2巻。
  阿弥陀経12巻。
  十住経5巻。思益義経4巻。持世4巻。自在王経2巻。
  仏蔵経3巻。菩薩蔵経3巻。称揚諸仏功徳経3巻。
  弥勒下生経1巻。弥勒成仏経1巻。
  金剛般若経1巻。
  諸法無行経1巻。菩提経1巻。遺教経1巻。
  十二因縁観経1巻。菩薩呵色欲1巻。
  禅法要3巻。禅法要解2巻。禅経3巻。
  雑譬喩経1巻。
  大智度論100巻。
  成実論16巻。十住論10巻。
  中論4巻。十二門論1巻。百論2巻。
  十誦律61巻。十誦比丘戒本1巻。

 なんと35部294巻にのぼる。これは西晋の笠法護の154部309巻や、のちの玄奘の76部1347巻より劣るものの、その内実において遜色がない。それよりなにより、その流麗な翻訳力や言語編集力こそ画期的だった。中国仏教はここに開闢したと言ってよい。

 ◎慧遠がクマーラジーヴァに送った親書には、クマーラジーヴァの評判がすでに十全に伝わってきていたこと、自分は貴兄が宝をもって長安に来たことをたいへん楽しみにしていたこと、早く親しく会いたいことなどがていねいに述べられている(京大人文科学研究所『慧遠研究・遺文篇』)。
 ◎逍遥園は終南山の北麓の草堂寺にあった、いまはここにはクマーラジーヴァの舎利を収めた舎利塔がある。
 

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鳩摩羅什像(西安 草堂寺)

 

【ノート10】クマーラジーヴァの言語編集力はたんなる漢訳力・翻訳力にとどまっていなかった。今日では漢訳仏典の歴史をクマーラジーヴァ以前を「古訳」、クマーラジーヴァ以降を「旧訳」、玄奘以降を「新訳」と区分けする慣わしになっているが、それほどにクマーラジーヴァの翻訳編集は時代を画期した。自在きわまりなかった。
 すでに笠法護が『正法華経』でどんなふうに訳経をしたのか、その手順がわかっている。本人が「経記」としてのこしている。たいへん興味深い。それによると当時の訳業は、①執本、②宣出、③筆受、④勧助、⑤参校、⑥重覆、⑦写素、の7段階を分けられていた。
 まずは①胡本を執り、②口述によって『法華経』を宣出し、これを③数人の優婆塞(うばそく)たちに授けて共に筆受させ、さらに④数人の目を通して勧助勧喜させて、ここから⑤文字に強い者たちの参校が加わって、⑥いよいよこれらを重覆(トレース)して、最後に⑦素(きぬ)に写して解(おわ)る、という手順だ。
 いったいクマーラジーヴァがどんな手順をとったのかはぴったりした記録がないのだが、ほぼこれに近かったろう。またどんな役割がどんなチームに割り振られたかは、玄奘の『大般若波羅蜜多経』のときの後記から推しはかると、中心のクマーラジーヴァのほかに、筆受4名、綴文3名、証義4名、専当写経判官1名、検校写経使1名などがいたと思われる。これを宋時代の翻経院のシステムで見ると、次のようになる。

  1・訳主(正面に座して梵文経典を読み上げる)
  2・証義(訳主の左に座して訳主の朗唱の正確さを確認する)
  3・証文(その右に座して訳主の音読と梵文とを照合する)
  4・書字(梵文を漢字によって音写していく)
  5・筆受(音写した漢字の単語を適切な漢語に翻訳する)
  6・綴文(翻訳漢語の並びを中国語としての漢文とする→伝語・度語)
  7・参訳(原文と翻訳した漢文を対比して原意との対応を点検する)
  8・刊定(訳文をしかるべく添削する→校勘)
  9・潤文(教義に照らしてふさわしい漢文に仕上げる)

 うーん、すばらしい。これは編集学校だ。小池純代や中村紀子や小西明子に伝えたい。しかしクマーラジーヴァはこれらの分業手順をもっと集約して一人で何役も担当していただろう。本書では、胡本(原典)を手にするとクマーラジーヴァ自らが漢語でただちに口訳し、これをすぐに弟子たちが筆録していただろうと推測している。ぼくもそんなふうだったろうと思う。
 が、それだけでもなかっただろう。クマーラジーヴァはきっと試訳した漢文を原文対比するときに「講経」や「対論」をしたにちがいない。なんども伝習座を開いたはずなのだ。そこから主旨にあったリズムのよい訳経を編集していったはずなのだ。

 ◎『大品般若経』の場合では約1ケ年を要したようだ。それでもクマーラジーヴァは納得せず、いろいろ推敲を重ねて書写を許さなかった。この徹底ぶりには弟子たちが痺れを切らせて、こっそり筆写を始めたという話がのこっている。
 ◎クマーラジーヴァが逍遥園あるいは西明閣で大翻訳編集に従事しているとき、姚興は国内に僧官をつくり、仏教教団の監督制度を用意した。これは北魏が396年に導入した「道人統」の応用だった。姚興はときに筆受を担当していたらしい。

 

【ノート11】仏典・経典の漢訳はすこぶる編集的だ。それはコンパイルではなくエディットである。クマーラジーヴァはその言語編集力をいっぱいに生かした。そこには先行者たちの努力、とくに【ノート05】にあげた道安の「五失本三不易」のガイドラインが生きていた。
 「五失本」とはインドに発した原典の漢訳にあたっては、当然言語的な変形がともなうことになるのだが、とくに次の5点は変えてもいい(=失本)と判断できる指針をいう。以下のように判断された。
 ①語順がインドの原典と漢文では逆になる。②原典は質を好むが漢語は文を好むから、経文は美しい表現になる、③原典は人を何度も称賛するが、それは省いてよい。④同じ意義を長い語句の装飾で繰り返している場合は、これを削ってもいいだろう。⑤原典が次に進むときに前の語句を再掲するが、これも略せる。
 次の「三不易」は安易に変えてはいけない方針のことをいう。①経文の原意を変えてはいけない、②時代背景による表現を変えてはいけない、③難解を捨て安直を採ってはいけない。なかなかのガイドラインだ。

 ◎道安の「五失本三不易」は『出三蔵記集』の「摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序」に説明されている。
 ◎例。たとえば『般若心経』の「照見五蘊皆空」は、それにあたるサンスクリット文を訳主が読み、まず音による漢字があてられ、それを筆受がチャイニーズに語訳して「照見五蘊彼自性空見」などとする。これでは中国語としての意味が通じないので、これを参訳や綴文が「照見五蘊見彼自性空」→「照見五蘊見皆空」→「照見五蘊皆空」などとし、最後に潤文がこれでもまだ漢文のすわりがないと判断して、締めの語句を加えて「照見五蘊皆空、度一切苦厄」などと決めるのである。

 

【ノート12】クマーラジーヴァは409年に亡くなった。いまから1600年前の8月20日である。その生涯はまさに「エディトリアリティ」に富んでいた。長安に入ってまもなく女人と交わって「破戒」するのだが、そういうことにもほとんどこだわっていない。
 上座部の説一切有部から大乗へ。シルクロード仏教から中国仏教の確立へ。逐語訳から意訳の世界の編集へ。インド思想律の中国律動化へ。のちの玄奘の翻訳編集力のアーキタイプもプロトタイプもステレオタイプも、みんなクマーラジーヴァが用意したようなものだ。よくもこれだけのことを成就したと思うけれど、そこには中国側の学衆たちの受容力と編集的呼応力を発揮したことが大きかった。
 もともと道安がいた。クマーラジーヴァの招致の提案者でもある。廬山の慧遠との交流交信も厚かった。訳場でクマーラジーヴァを扶けた僧たちもすぐれていた。惜しくも夭折した僧肇は天才的な才能を発揮した。その僧肇と僧叡を別当格とする門下の一群は3000人に及んだという。
 なかで道生(笠道生 ?~434)が格別にすばらしい。廬山の慧遠のところで7年ほどアビダルマの研鑽を積み、長安に来てクマーラジーヴァに師事して、クマーラジーヴァ没後は建康に帰って実に自由な経義の研究をした。一闡提(いっせんだい)の成仏、すなわち法然(1239夜)や親鸞(397夜)の悪人正機説の母型ともいうべきイッチャンテカの信仰可能性を切り拓いた。とくに道生の『涅槃経』注解が見せる独創的な仏教論は、ぼくとしてはクマーラジーヴァの飛躍的継承だと思いたい。

 ◎道安→仏図澄→慧遠→クマーラジーヴァ→道生という流れを、あらためて強調すること。
 ◎それにしても、ここまで中国が仏教の漢訳に徹底したのに対して、なぜ日本は仏典の和訳にとりくまなかったのだろうか。日本人には漢訳仏典を読誦することが、かえってアタマの中の吹き出しをジャパナイゼーションさせたのだろうか。この難問、いずれ解かなくてはならない。
 ◎いま、ぼくの信頼すべき仲間たちが「纏組」(まといぐみ)として「目次録」の新構成と解説編集にあたってくれている。ネット上の「逍遥園」もしくは「西明閣」である。ぼくもそろそろクマーラジーヴァしなくては。

 

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仏教の東伝と受容

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 本書は「新アジア仏教史」という全15巻シリーズの一冊だが、このシリーズはごく最近に完結したばかりである。この刊行完結をぼくはいささかの感慨をもって迎えた。
 というのも、本シリーズ名に「新」がついているように、これはもともとは「アジア仏教史」全20巻を1972年に同じ佼成出版社が刊行していて、ぼくはその各巻各章を頼りに、アジア仏教のあれこれをずっと啄んできたからだ。やはり「インド篇」「中国篇」「日本篇」などと構成されていた。佼成出版社というのは立正佼成会の出版部門のことをいう。
 わが仏教史学習時代としてはまことにたどたどしい時期だったけれど、しかしそのころは、アジアまるごとの仏教史を思想研究や経典研究ではなく、地域別通史的に総なめしてくれているものはほかになかったのだ。多くは仏教思想のとびとびの解明に傾斜していた。やむなく宇井伯寿や木村泰賢(96夜)まで戻ったこともあったほどで、が、それではとうていまにあわなかった。

 今回のシリーズ「新アジア仏教史」はそこそこ斬新な組み立てになっている。
 インド篇が「仏教出現の背景」「仏教の形成と展開」「仏典からみた仏教世界」で、スリランカ・東南アジア篇が「静と動の仏教」、中央アジア篇が「文明・文化の交差点」となり、これに中国篇の3巻の「仏教の東伝と受容」「交流・発展する仏教」「中国文化としての仏教」が続く。
 さらにチベット篇の「須弥山の仏教世界」、朝鮮半島・ベトナム篇の「漢字文化圏への広がり」が各1巻あって(これがユニークだ)、そして日本篇の5巻が別格として控えるというふうなのだ。編集委員は奈良康明・沖本克己・末木文美古・石井公成・下田正弘だが、この顔触れ同様、執筆陣もかなり若返った。そのぶん全巻構成とともに、1巻ずつの視点も刷新された。
 ただし各章を分担執筆にしてあるので、なかには重複が煩わしいところ、ややありきたりな展開になってしまったところもある。

 今夜とりあげることにした本書は、タイトルに「仏教の東伝と受容」とあるように、東伝仏教としてどのように仏教は“中国化されたのか”ということ、すなわち中国仏教史の“発現”のところを扱う重要な1巻になっている。これまでこの手のものを詳細に構成しているものはあまりなかった。
 ぼくの例など引き合いにも出せないが、かつてはせいぜい塚本善隆の『中国仏教通史』(春秋社)や鎌田茂雄の『中国仏教史』(東京大学出版会・岩波書店)のたぐいを、何度も首っぴきしなければならなかったのだ。それも、すでに中国に定着した中国仏教の内実が主軸になっていて、インド仏教やシルクロード仏教がどのようにアウトサイドステップやインサイドステップをおこしながら“中国化”という劇的な変容の出来事をなしとげていったのか、その多言語型異文化インターフェース上の苦労にはふれていなかった。
 とくに南北朝時代に安世高からクマーラジーヴァ(1429夜)に及んだ訳経僧がインド・シルクロードをへた仏典や経典をどんなふうに扱ったのか、それがどんな経過で集合的な訳業や分業的に訳場にいたったのか。こうした問題は、われわれ日本人が読んできた仏典が漢訳仏典であったことからすると、最も大事な仏教思想上の編集的要訣を「謎」のように握っているところであり、かつまた、それは小乗仏教が大乗化するユーラシア的なスケールにおける宗教戦略的転換にもあたっていたはずなのだ。
 ところが、その両方が重畳的にはなかなか見えてこなかった。「新」シリーズはそのような視野を比較的柔軟に開いて構成されていた。

 本書の中のぼくなりの注目点に話を進める前に、インドに始まった仏教がシルクロードをへて中国に入ってくるにあたって何が眼目になったのか、ちょっとだけ大きな流れを俯瞰しておきたい。本シリーズでいえば第1巻・第2巻にあたるところだ。
 仏教はむろん北インドのゴータマ・ブッダの覚醒に“創発”したものである。しかしそこをユーラシアという大きな視野で見ると、そもそも「アーリア人が先住インドの業と輪廻の考え方を継承した」という大きな流れがかかわっていた。生きとし生けるものは「業」(ごう)によって生と死と再生をくりかえすという輪廻観は、やがて東アジアを根底で貫く因果応報観となり、また自業自得観になっていった。このことは、今日の日本人の諦念(あきらめ)観にまで及んでいる。
 しかし日本人とちがって、もともとインド・アーリア人は言葉においても思考においても論理的だった。そこで輪廻の正体にも切りこんだ。輪廻の原動力は善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、「おこない」にもとづいているのだろうから、その「おこない」の基層にある真の問題を考えるべきだと推理して、そこに欲求と渇愛が蠢いているということを突き止め、真理を邪魔しているのはそういう欲求や渇愛がからんで捩れた「煩悩」(ぼんのう)や「無明」(むみょう)だろうと考えたのだ。
 そして、そこからの脱却が必要だと考えた。仏教が解脱(げだつ)をめざした宗教だということが、ここにあらわれる。仏教は、それには「智慧」(プラジーナ=般若)が必要だとみなした。これらが一言でいえばブッダの仏教(=ブッディズム)が生まれてくる背景思想の流れだった。

 ふりかえって、そもそもインドでは2000年ほど続いたインダス文明のあと、中央アジアからやってきた遊牧アーリア人の集団がひとつにはイラン地域へ(1421夜)、もうひとつにはヒンドゥークシュ山脈を越えてインドのパンジャーブ地方に入ってきた。紀元前1500年くらいのことだ。
 インド・アーリア人は父系的な氏族社会を営みながら、先住ドラヴィダ人の習俗をとりこみつつ新たな言葉の文明を築いていった。これがいわゆる「ヴェーダの文明」である。膨大な讚歌群として「サンヒータ」(本集)、「ブラフマーナ」(祭儀書)、「アーラニヤカ」(森林書)、「ウパニシャッド」(奥義書)などのヴェーダ文献がのこされた。なかで「サンヒータ」の最古の中心を占めるのが『リグ・ヴェーダ』だった。
 ヴェーダの宗教は33神とも3339神とも数えられる多神教だったが、この多神教は、たまたま讚歌の主題になった神がその讚歌の中で最大級の賛辞で称賛されるという多神教だったので、たんなる多神教ではなかった。19世紀の宗教学者のマックス・ミューラーは「交替多神教」と名付けた。なかなかうまいネーミングだった。
 とはいえ、その多神教を管理する階層がいた。ヴェーダは「知る」という語根から派生して「知識」を意味しているのだが、その知識を牛耳るのはもっぱら祭官階級のバラモン(ブラーフマナ)ばかりになったのだ。これがだいたい紀元前8世紀ころのことで、このバラモン層を中心に「業」や「輪廻」を知識として処理管理するという思想が芽生えていったのである。それとともにカースト(種姓=ヴァルナ)が組み立てられていった。

 アーリア人の祭官階級のバラモンたちが律していった思想は「ウパニシャッド」(「近くに坐る」という意味)として構築されていった。紀元前5世紀までを「古ウパニシャッド」期あるいは「ヴェーダンタ」期とよんでいる。
 ウパニシャッド哲学は「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を主張した。ブラフマン(梵)とアートマン(我)は究極的に同一(一如)であるというもので、この原理によって世界と人間と知識のあいだを詰めていったのである。
 マクロコスモス(梵)とミクロコスモス(我)を一体化するという意味では、「梵我一如」にはすばらしいロジックが芽生えたのであるが、しかながら、父系制とカースト制と知識管理を律するバラモンたちの社会は広がりを欠いていた。
 それにパンジャーブ(ドーアーブ)地方は小麦以外に収穫物が少なく、大きな王権国家を築けず、やむなく部族連合国家のような体裁をとるしかなかった。

 一方、これに対してガンジス中流域は米を中心に安定的な収穫物に富んでいた。そのためこちらには国家や富裕階層が誕生する余地があった。そこにバラモン支配やカーストに対する不満が立ち上がっていき、ガンジス型の新興勢力層となっていった。
 かれらは、バラモンだけに富が集中するブラフマニズムよりも新たな宗教文化を求めて出家して、いわゆるサマナ(シュラマナ=沙門=努め励む人)となることを好んだ。
 やがてそうした一群からいくつもの自由思想者が登場し、ジャイナ教の開祖マハーヴィラ(=ニガンタ・ナータプッタ)に代表されるような、独自の修行と思想を展開する活動が目立ちはじめた。人間は「おこない」が原因で、外部から「業」が魂に付着し、魂の自由を束縛して輪廻に陥らせるという見方は、マハーヴィラが最初に説いたものだ。
 このジャイナ教にみるように、かれらのグループはいずれも特色のある一派を築き、しだいに多様になっていく。のちの仏典では62もの流派が、ジャイナ典籍では363もの流派がつくられたという。まとめて「六師外道」などといわれる。
 そうしたサマナの中のひとつからゴータマ・シッダルタ、すなわちブッダが登場したわけである。

 今夜はブッダについてはごくごく簡潔にすませるが、カピラヴァストゥの王家に生まれてすぐに両親を亡くし16歳で結婚した王子シッダールタは、しだいに人生の無常を感じて29歳で出家すると、従来型のアートマン(我)が常住不変の自己の本体だという見方に疑問をもった。
 バラモンの教えに反発したのだ。そのため「非我」や「無我」を考えるようになり、世間や社会というものは「苦」で成り立っているという「一切皆苦」の見方をとった。これを仏教史に広げると「苦諦・集諦・滅諦・道諦」という四諦になる。ベナレス郊外の鹿野苑でブッダが最初に説いた説法(初転法輪)の中身も、このことだったといわれる。わかりやすくいえば「生のニヒリズム」を説いたのだ。
 やがてすべての現象の根源は「縁起」(相互関係)で成り立っているとみなしたブッダのもとに、だんだんブッダの人格を慕う者、その教えに帰依する者、その活動に寄進する者があらわれ、ここに原始仏教が芽生えた。仏教はサマナ(沙門)のような出家者によって唱導され、ガンジス型の富裕層の在家信者からのパトロネージュを受けつつ独特の集団を形成していったのである。
 たとえば、ブッダの教えに早くに帰依したカッサパ3兄弟、マガダ国王ビンビサーラ、祇園精舎を提供したスダッタ(須達長者)などは、いずれも大富豪か権力者だった。ブッダ自身はきわめて禁欲的であり、深い思索にも瞑想にも集中できた異能者ではあったけれど、その活動を支えたのはもっぱら富裕層や商工業者だったのだ。

 諸説はあるが、ブッダはおそらく80歳前後で亡くなった。敬して入滅(にゅうめつ)という。
 けれどもこの偉大なリーダーを失っても弟子(仏弟子)たちは弱体化しなかった。「サンガ」(僧迦=教団)を組んで、その教えを伝えることを誓った。ふつう、原始仏教教団とよばれる。このように仏教は、その最初からあくまで出家至上主義の教団によって進められていったのである。
 こうして王舎城に篤実な仏弟子たちが集まって、まずは第一結集(けつじゅう)が試みられた。合言葉に「一切皆苦」と「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の三宝印をおきつつ、ブッダが得意にしていた対機説法や応病与薬の成果と、それにまつわる言葉の数々が編集されたのだ。
 編集にあたっては晩年のブッダの説法をしょっちゅう聞いていた多聞第一のアーナンダ(阿難陀)や智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)がコアメンバーになった。これが“初期仏典”である。そのためこの時期の経典の多くが「如是我聞」(私はブッダからこのように聞いた)の言葉で始まっている。

 しかしブッダ入滅から百年もたってくると、さすがに教団内部に対立と論争が絶えなくなり、争点もあれこれ十指をこえるようになる。その争点を「十事」という。
 長老派は十事審査をしたうえで第二結集に踏み切るのだが、改革派はこれに満足せず分派することを選んだため、ここで守旧派(長老派)の「上座(じょうざ)部」と改革派の「大衆(だいしゅ)部」が大きく対立した。これがのちのちまで続く「根本分裂」である。
 これ以降、仏教は長いなが~い「部派仏教」時代に突入する。この部派仏教のストリームはのちに大乗派(大乗仏教)の連中から蔑称され、「小乗仏教」ともよばれた。
 部派仏教はマウリヤ朝のアショーカ王時代をあいだにはさみ、さらに「枝末分裂」していった。上座部は説一切有部(せついっさいうぶ)が主流となりながら、犢子(とくし)部・正量部・経量部・法蔵部などへ分化し、またセイロン(スリランカ)から東南アジアへの伝播とにおよんだ(テラヴァーダ仏教)。大衆部のほうは一説部・説出世部・説化部などの9部派などへ小さく割れていった。 

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初期訳経関係地図


  これらのなかでもっとも大きな潮流となったのは上座部系の「説一切有部」のエコールである。
 たいへん理論的なエコールなので多くの言説(エクリチュール)をもたらしているのだが、あえて一言でいえば「三世実有」「法体恒有」を主唱した。主観的な我は空であるが、客体的な事物や現象は過去・現在・未来の三世にわたって実在するという考え方で、それが人間存在においては「五蘊」(ごうん=色・受・想・行・識の5つの意識の集まり方)が瞬間瞬時に変化しながら持続されいく。そう、みなしたのだ。我空法有・人空法有、五蘊相続説などという。
 これに対して経量部や大衆部は「現在有体」「過未無体」を主張して、あくまで現在に重きをおいていった。この考え方はやがて大乗仏教のうねりとともにその中に組みこまれていく。
 けれども全体のストリームからみると、当面の流れは説一切有部の勢いがはるかに強く、また大きく、それゆえこの上座部系の小乗仏教的な理論や知識こそが五胡十六国やシルクロードの仏教思想を占めていくことになっていったのである。
 他方、東漸する仏教に対して、インドでは六派哲学に代表されるインド哲学が深まり、民衆にはバラモン教に代わって、その衣裳替えともいうべきヒンドゥー教が広まっていた。
 かくて、ここからはやや複相的になるのだが、1世紀前後におこる大乗ムーブメントが「般若経」「維摩経」「法華経」「華厳経」などの新たな“大乗仏典”のかたちをとるにつれ、またそこにナーガルジュナ(龍樹)の中論や「空の思想」の論述著作が加わっていくにつれ、そうした大乗経典や研究書が上座部系より遅れながらも西域や五胡に入って、相互に交じることになった。
 そして、その大乗著作群の西域流入期とちょうど相俟って、ここに安世高からクマーラジーヴァに及ぶ「仏教の中国化」(漢訳の試み)がさまざまなルートでおこっていったわけだった。
 本書にいう「仏教東伝」とは、ごくごくおおざっぱにいえば、まさに以上のことをさしている。

 さて、ここからはやっと本書の内容案内になるのだが、仏教が中国に伝わった事情は、金人伝説あるいは白馬寺説話と呼ばれてきた物語の裡にある。
 ある夜、後漢の明帝(在位57~75)が金人が空から宮殿に飛来する夢をみて、これはかねてから伝えられている西方の聖者が漢に来る前兆だろうと思い、使者を西域に遣わせた。使者一行は大月氏にいたって迦葉摩騰(かしょうまとう)と笠法蘭(じくほうらん)という二人の僧に出会ったので、使者たちは二人を伴って永平10年(67)に漢に戻った、明帝はこれをよろこび、洛陽に白馬寺を建て、経典の漢訳を要請した。このとき完成したのが『四十二章経』である云々‥‥という物語だ。
 伝承ではあるが、この話は中国仏教が独自の漢訳作業から始まったということをよく伝える。大月氏がクローズアップされているのも注目される。
 では、これらは伝承だけかというと、そうでもない。実際にも『三国志』魏志の注に『魏略』西戎伝の一節が引用されていて、そこには前漢の哀帝のとき(紀元前2年)、大月氏の使者の伊存が漢の朝廷で仏教経典の口授をしたという記述があり、この時期になんらかのかっこうで仏教初伝があったろうと思われるのだ。大月氏とは、漢の武帝の指示ではるばる西域に及んだ張騫(ちょうけん)が入ったクシャーン朝のことをいう(1425夜参照)。念のため。

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後漢明帝が夢に金人の姿を見(右)、西域に仏教を求めたという
「感夢求法」は、後世に至るまで仏教初伝の説話として流布した(『釈氏源流』)

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「白馬寺説話」に基づき、洛陽に建立された白馬寺


  中国はそもそも「文の国」であって「文字の国」である。いったん伝わってきた“文章としての経典”には異常なほどの関心をもった。
 加えて中国人にとっては、未知なるものはなにがなんでも既知なるものにならなければならなかった。
 ゾロアスター教は拝火教に、ネストリウス派のキリスト教は景教に、イスラームは回教に。いやいや、核実験もIBMもマイクロソフトも新幹線も‥‥まして仏教においてをや、なのだ。だからこそ、ここに訳僧や渡来僧の大活躍がおこったのである。
 かくして前夜(1429夜)にもあらかた紹介したように、初期のパルティア(安息)出身の安世高が後漢の148年に洛陽に入って『安般守意経』『陰持入経』などの説一切有部系の経典を訳出して以来、シルクロード経由の部派仏教(小乗)と大乗仏教の経典はほぼ同時に入り乱れつつ、中国化することになったわけである。
 とはいえ、この中国化は時まさに漢帝国が解体し、三国時代や五胡十六国時代などの、ようするに魏晋南北朝時代になっていた乱世中国での中国化だったため、初期中国仏教はおおいに混乱することにもなっていく。“いろんな中国化”が併存していったのだ。
 このように混乱しつつあった南北朝時代の初期中国仏教のことを、仏教史ではちょっと気取って「格義仏教」とよぶ。中国的な古典文化にもとづいた教理解釈法あるいは教義理解法による仏教といった意味だ。
 「教理」はギリシア哲学でいえばドグマのことで、明治時代の仏教学者がつくった日本版用語だが、インド仏教ではこれをもともと「教義」といって重視した。「教」が教えの方法で、「義」がその内容になる。また「教」は衆生(しゅじょう)のための具体的な教説だから「事」に属していろいろ変化するのに対して、「義」は普遍的な「理」(真理)そのものだともみなされた。
 ちなみにのちの華厳ではこの「事と理」をことのほか多用して、「教義理事」とか「理事無礙」とか「事事無礙法界」などと言った。
 こうした教義を仏教東伝の過程で、初期の中国仏教側が中国なりの教説に即して解釈しようとしたわけだ。それが格義仏教であった。

 中国に入った仏教はむろん漢訳された。「漢字の仏教」になった。仏教はついにインド・アーリア語から離れたのだ。それゆえ中国人は仏教の言葉を当初は儒教や老荘思想で受けとめた。当然だろう。
 そこで、たとえば「空」という概念を「本無義」「即色義」「心無義」などとしてみたり、たんに「無」としてみたりしていたのだが、そもそも中国は皇帝を最高権力者とする中央集権的専制国家であって、それゆえ儒教は国の現状や将来に資するか憂うかのものだった。儒学儒教のみならず、諸子百家のいずれもが、そういうものだった。これは、出家集団が担う仏教が政治を超えているという特色をもっていることとは、まったくちがう。
 そのため当初の漢訳経典を解釈していくうちに、たとえば「仁」や「礼敬」(らいきょう)や「気」をどのように仏教が扱っているかということが問題になってきた。そこでこれを調整しようとしたのである。それが「格義」というものだったのだ。

 そこへ、もうひとつの動向が重なった。
 魏晋南北朝時代の東晋に知識人が多く出て、かれらがもっぱら玄学に興じていたため、仏教教義が老荘に引っ張られていったこと(1427夜参照)、その余波でそのころ隆盛中だった道教の影響を受けたということだ。そのため仏教の教説と道教とが混淆したり、対立したりした。
 たとえば、安世高(あんせいこう)が訳した『安般守意経』には数息観や導引術めいた用語や「存思」「坐忘」といった荘子(726夜)の用語が多く使われていたし、仏図澄(ぶっとちょう)や曇無讖(どんむしん)は周囲からは仏教僧というよりもオカルティックな神異僧と見られがちだった。曇鸞が曇無讖の『大集経』の注をつくろうとして自分の病身を恐れ、長寿法を求めて道教の大家であった陶弘景のもとを訪れたことも、よく知られている。
 もっと極端なのは西晋の王浮が書いた『老子化胡経』で、これはなんと老子が夷狄の胡の地に行ってそこで胡の人々を教化するために説いたのが実は仏教だったというものだ。『老子化胡経』はいくつものヴァージョンも出回って、道教的仏教論を広げた。その逆に、北周ではそういう道教を非難する『笑道論』なども取り沙汰された。他方、仏教を弾圧したり排仏したりする動きも少なくなかった。
 いずれにしても、仏教の中国化には難産がつきまとったのだ。生みの苦しみでもあるが、それは仏教の歴史にとって必要なことだった。ここで大きな異文化トランスファーの問題と言語編集力の可能性が試されたのだ。
 とはいえしかし、こうした格義仏教ばかりが俎上にのぼっていたのでは仏教本来の独自性が損ないかねなかったので、ここについに道安(1429夜)が登場して大鉈をふるったのである。

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「導引坐功図」(名古屋市蓬左文庫蔵)
中国に古くからある道教的・神仙術的な養生術「導引術」に関する図
仏教の禅定との類似が顕著である。


  道安(釈道安)がふるった大鉈のことを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)という。
 道安以降もずっと続けられていく作業なのだが、何をしたかというと、おおむね以下のようなことにとりくんだ。
 第1には、中国に入ってきた経典があまりに前後無関係、軽重無頓着であったので、これをちゃんと並べ替える。第2にその場合、ブッダが成道(じょうどう)して涅槃に入るまでの45年間にどんな順で説法したかということを枠組みとする。そしてそこに中国的な仏伝解釈を加えていく。第3に、その仏伝の順にそって教時と教相をあきらかにできていければ、その原則から派生していったヴァージョンの教説をていねいに分類する。第4に、それらを通して中国語による仏教の根本真理と修行目的を明示していく。第5に、今後の漢訳にあたっては、以上のことが見えやすくなるような手立てを講じた翻訳作業に徹する。こういうものだった。
 第5点については、すでに道安が「五本失三不易」というルールをつくったことを、『羅什』(1429夜)のところで説明しておいたのでここでは省くけれど、そのほかの第1点から第4点までの教判(教相判釈)の作業は、まとめていうとこのようになっていった。

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西域の主な交易ルート


  これらの作業は道安、クマーラジーヴァ、その弟子の僧肇(そうじょう)、道安の弟子の慧遠とその弟子の慧観らによって組み立てられた。道安教団がだいたいのお膳立てをしたとみればいい。

 お膳立てをかんたんにいうと、ブッダの説法を5つの段階で分け、それを「頓教」(とんぎょう)と「漸教」(ぜんぎょう)に振り分けたのだ。
 その場合、頓教を華厳経としておいて、そのほかを漸教とした。そして漸教に阿含経などの三乗別教、般若経などの三乗通教、維摩経などの抑揚教、法華経などの同帰教、涅槃経などの常住教をあてはめた。
 もっともこれは5世紀に慧観がまとめたプランAのほうで、その後のプランBでは、漸教を人天教(提謂経など)、有相経(阿含経など)、無相教(般若経など)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の5つに分かれている。
 ようするにブッダがどのような順に教えを説いたかと決めることが、経典のテクスト解釈を浮き立たせることになるという、そういう教判なのである。
 この作業はさらに隋唐に向かって、天台宗によって「五時」説と「八教」説というものに組み上げられ、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時と、化儀の四教(頓教・漸教・秘密教・不定教)および化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)の八教(教え方の分類)として定式化されていった。まとめて「五時八教」という。
 そのほかまだいろいろの教判があるが、その多くは唐仏教界でのことになるので、これまた今夜は省く。

 ではここからは、本書の白眉ともいうべき菅野博史(創価大学教授)の第3章「東晋・南北朝の仏教との思想と実践」と、沖本克己(花園大学名誉教授)の第6章「経録と疑経」を、少々かいつまんで案内したい。
 道安については前夜を含めて何度か書いてきたのでいいだろうが、あらためて強調しておきたいのは、中国仏教がクマーラジーヴァ(1429夜)期の一連の漢訳経典によって面目を一新したのは、道安の力によるところが大きかったということである。
 そういう道安に影響をうけたのはシルクロード僧だけではなく、当然ながら中国僧も多かった。その一人に慧遠(えおん)がいた。道安の教相判釈を継いだ一人は慧遠だったのである。
 道安が43歳のときに弟の慧持とともにその門に学んだ学僧だった。しかし前秦の苻堅が道安を長安に連れていったので、そこで独り立ちをして廬山に入り、修禅道場(仏影窟)と念仏道場(白蓮社)をつくった。これはのちの中国禅や中国浄土教の原型になる。
 慧遠は最初はアビダルマ(阿毘曇)に熱中したのだが、やがて格義仏教の限界をおぼえて、そもそもブッダが挑んだ輪廻と因果応報の問題とはどんなものだったのかという問題にとりくんだ。これは慧遠なりの教相判釈だったし、古代インドがアーリア人の思想になって以来の根本問題でもあった。そのことについてクマーラジーヴァとの詳しい問答も交わした。

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クマーラジーヴァと弟子たちによる訳業の様子(『釈氏源流』)


  ところで実は、中国人が仏教に関心をもったのは、中国人が長らく徳と福の矛盾や過去・現在・未来(三世)にまたがる報恩がありうるのかという問題に悩んできたからだった。
 現世において積んだ徳は死後の福につながるのかという悩み、また、因果応報は三世(さんぜ)をまたぎうるのかという悩みだ。これは、すでに述べてきたように、インド古来の業と輪廻の問題だった。
 中国人は業と輪廻を考えるなどということをしてこなかった。かれらにとって大事なのはあくまで「仁」や「孝」や「気」や「義」であった。まとめていえば五常であった。ただし、そこには徳や福や報恩をもたらせるのかどうか、個人がマスターした五常を生死をこえて伝えられるのかどうかという解答はなかったのだ。
 しかし、いよいよ中国人が本気で仏教を受け入れようとするなら、この問題は避けられない。避けられないどころか、このことがわかれば中国人の思考の矛盾の悩みを仏教で解決できるかもしれない。こうして慧遠は、かつてブッダがそこを正面から考え抜いて解脱したのだとしたら、その問題にこそ自分も向き合おうと決断したのである。
 慧遠は仏教経典を調べ、『三報論』を著した。インド人であれ中国人であれ、人間にとって業(ごう)は必ずついてまわる。けれども現世で報を受ける現報、来世に報恩がやっくる生報、その両方をつなぐ後報というふうに、業というものを三種に分けて考えてみれば(これを三報といった)、これらの業に心が感応するはたらきにズレがあるのだから、報においても軽重がおこると見たほうがいい。ということは、中国の仏教解釈では、因果応報が三世(過去・現在・未来)にまたがるとしても、そのズレをいかせば対応できる。
 ざっとはこういう教判をしてみせたのだ。これらは「三世輪廻論」の問題として本書では扱われて、これに慧遠だけではなく孫綽(そんしゃく)や慧遠の弟子の宗炳(そうへい)などもかかわっていたことが説明されている。
 なお慧遠については念仏道場の白蓮社を拠点に、阿弥陀仏を本尊とする念仏三昧と浄土往生が特筆されるのだが、これはのちの唐時代の善導(613~681)がそこに「他力」を加えていった発展系とは異なっていることを付け加えておきたい。法然(1239夜)、親鸞(397夜)による日本浄土宗は善導のほうの系譜にあたる。

 道安、慧遠とともにもう一人フィーチャーをしておきたい僧がいる。廬山の西林に7年間を過ごした道生(?~434)である。
 道生は慧厳、慧観とともに長安に入ってクマーラジーヴァの薫陶もうけた。その後、建康に行き、20年ほど龍光寺に住した。『五分律』を翻訳したり、法顕(ほっけん)がもたらした梵本を『泥浬経』(ないおんきょう:浬のツクリは亘)6巻として訳出したり、『法身無色論』を書いたりした。
 その道生を特色づけるのは、第1には「一闡提(いっせんだい)は成仏できる」と主張したことにある。一闡提というのはサンスクリット語のイッチャンティカを音訳した言葉で、漢語の意訳では「断善根」「信不具足」などとなっているが、この字面でも憶測できるように、仏縁から見放されている者や善根をもっていない者をいう。つまりは成仏の機根がない者のことをいう。にもかかわらず道生はそんなことはないと主張した。
 たとえば『涅槃経』には一闡提は不成仏者と規定されているのだが、よく読むと最終的には仏性(ぶっしょう)をもつと書いてある。それなら一闡提も成仏できるのではないかと道生は考えたのだ。
 イッチャンティカの問題は仏教史においては難問である。のちの唐仏教界で天台宗と法相宗と華厳宗との意見が分かれたのも、この問題だった。だから道生がこの時期に早くも一闡提成仏説を唱えていたということはまことに驚くべきことで、それが道生が建康の仏教教団から排斥されてしまったことを含め、きわめて独創的であり、また判釈においてそうとうに勇敢であったというべきである。
 ちなみに、ぼくにイッチャンティカの問題を教えてくれたのは西田長男センセーだった。西田センセーは日本で唯一の神道学を切り拓いた方であるが、仏教におけるイッチャンティカの問題は日本神道における「よさし」と同じ問題に属するということを指摘されていた。その後、このことは何度も鎌田茂雄センセーにも教えられた。いずれ千夜千冊したい。

 第2に、道生には「理」と「悟り」をめぐる推察の独創性もあった。これは『涅槃経』の注解を通して披露した思想で、「理」は作為されたものではなく真そのものとなりうること、および、そのような「真なる理」には変化しない本体が宿るということを説いていた。ここには古代ギリシア以来の西欧哲学に匹敵する“理法”が芽生えている。
 第3に、道生は他に先んじて「頓悟論」も説いた。悟りはくねくねと得られるものなどではなく、どこかで一挙に加速して得られるものだという説だ。漸悟を退けて頓悟を示した。
 これはのちの禅宗が重視した“禅機”のようなものを早々に提案しているもので、同時代の謝霊運はおおいに賛同して『弁宗論』を著したほどだったのが、やはり早すぎて周囲からの理解は得られなかったようだ。しかしぼくは、のちのち中国がインド仏教には見られなかった禅思想を展開できたのは、道生のような思想が魏晋南北朝期に先行できたからだと思っている。つまり中国人にひそむ“感応思想”は、道生によってこそ刺激されたと見たいのだ。

 ざっとこんなところが道安、慧遠、道生が先駆した中国仏教の特色であるのだが、もうひとつ、中国仏教に顕著なことが魏晋南北朝時代に始まっていた。それは「疑経」(偽経・擬経)がつくられていったということだ。
 仏教の典籍は「三蔵」によって分類される。経典・律典・論典である。ブッダの説法は結集(けつじゅう)のたびに、三蔵として編集されていったとみるわけだ。
 しかし中国では、さまざまな時期にさまざまな地域で作成された仏教典籍がランダムな順に漢訳された。そこで教相判釈とともに「経録」(きょうろく)が試みられ、目録の整備とアーカイブの整理が必須になった。ところが、あろうことか、そこにかなりの疑経が交じったのだ。
 疑経には、①仏教を儒教と道教と比較したもの、②権威のために書かれたもの、③俗信を仏教のレベルに引き上げるために著述されたもの、④インド思想を脱するために書かれた中国独自のもの、がある。かくて代表的な疑経だけでも、『金剛三昧経』『首楞厳経』『仁王般若経』『法王経』『十王経』『父母恩重経』などが執筆された。
 ぼくはこれらが疑経だと知ったときはびっくりした。よくぞこれらを著作したとも思った。中国というのはけっこう勝手なことが許されるのだとも感じた。もっとも実際には、疑経はのちの中国仏教界では厳しく点検され、排斥されて、それゆえ「一切経」(大蔵経典集)の整頓がすすむにつれ、すべて葬り去られていくことになる。
 しかし、いちいちホンモノとニセモノを区別していくことが、中国仏教にとって時間をかけるべきことだったのかどうかというと、いささか気になる。よくよく考えてみると、こうした疑経をつくりだしたことこそ中国仏教の面目躍如だったともいえたからだ。
 ぼくがこんなことを感じるのは、そもそも仏典にして、すでにオラリティの中にあったブッダの言葉を独自にリテラルに編集したものだったという思いがあるからだ。これはパウロやペテロによって新約聖書が編集されことにも言えることで、とくに仏典や経典だけに言いうることではないけれど、つねづねぼくの念頭から離れないことなのである。

 と、まあ、こんなところが本書から抽出しておきたかったことだ。これまでインド仏教からシルクロードをへて中国仏教に至った流れを説明してこなかったので、やや煩雑な案内になったけれど、これでインド哲学、東南アジア仏教を除けば、なんとかつながった。
 ちなみにいま、ぼくはNHK出版の『法然の編集力』(仮題)という一冊を準備しているのだが、中国仏教のこのあとの流れが朝鮮半島をへて奈良・平安の仏教になっていく転変を想うと、実は前途遼遠という気にもなってくる。まして、それを“天台の陸奥(みちのく)化”にまでつなげるには、十日十夜のぶっつづけの話が必要になる。

 

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セイゴオ・マーキング(本書の目次)

 

 

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