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アンチ資本主義宣言

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 先だっての「連塾ブックパーティ・スパイラル」(11月6日青山スパイラルホール)に佐藤優さんをゲストに招くにあたって、事前の打ち合わせを長い電話でしていたとき、佐藤さんが黒田寛一の『実践と場所』全3巻をとりあげたいと言った。クロカン(黒田寛一)を現代の思想界や言論界がとりあげていないのは完全に片手落ちで、革命についての考察をクロカンを除いて現代日本人は議論できないはずなのに、それを誰もしていないから松岡さんとそのへんを話そうというのだ。

 どんな本でも読み耽ることができる佐藤さんのことだから、北畠親房が出てきても大川周明が出てきても宇野弘蔵が出てきても驚かないが、さすがにクロカンまで読破しているとは思わなかったので、この人の奥の深さに端倪しているうちに、電話ではクロカンの短歌まで持ち出し、クロカンの革命観は短歌にもあらわれているというのだ。その通り。ぼくも思わずあの遺作となった歌集の感想などを語ってしまった。

 結局、佐藤さんはクロカンの『実践と場所』を、マルクスの『経哲草稿』、廣松渉の『存在と意味』と並べて論理的同時に議論したいというので、内心、ブックパーティでそこまで話をするのはディープすぎるなとは思ったものの、じゃ、それでいきましょう。ついては佐藤さんの獄中の読書ノートのようなものがあったら、ぜひ持ってきていただきたい。そう、ぼくが言ったため、案の定、当日は舞台上でそのノートのほうの話が中心になって、クロカンの話はまったくできなかった。ごめんなさい、佐藤さん。けれども青山スパイラル1階ガーデンにマルクスと廣松とクロカンが並んだのは威風にも異風にも満ちて、たいそう頼もしかったと独りごちたものだ。

 

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獄中で書いたノートを片手に語る佐藤優氏。
連塾ブックパーティスパイラル「本の風」より

 

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「本市」の様子。
連塾ブックパーティスパイラル「本の風」より

 

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「本宴」でスピーチするセイゴオ。
連塾ブックパーティスパイラル「本の風」より

 

 ところで、その黒田寛一が起こした革命的出版社、それが本書の発行元のこぶし書房なのである。今夜はクロカンのことをあれこれ書く目的はないので、それは別の機会にしておくが、こぶし書房が最近になってなかなか粒よりの出版をしていることについては、一言触れておきたい。

 革マル派の領袖クロカンの本がすべてこぶし書房から刊行されているのは言うを俟たないのだが、それとはべつに九鬼周造・中井正一・三木清・三枝博音・梅本克己・宇野弘蔵などをずらりと並べた「こぶし文庫」がよく、また、務台理作著作集、福本和夫著作集が出色で、かつ最近はアドルノ(1257夜)やチョムスキー(738夜)の翻訳やロバート・ブレナーの『ブームとバブル』にも手をつけていて、その一環で本書のアレックス・カリニコスを次々に出し始めたのが嬉しいのだ。

 

 と、まあ、以上は前置きで、では本書のことを採り上げることにするが、またまた前置きのような話が続くかもしれない。というのも、ぼくにはアレックス・カリニコスについてはデヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)に対する親近感と同様の、ちょっとした名状しがたい贔屓目のようなものがあるからだ。

 こういう贔屓目がなぜ生じるかを説明するのは、少年時代に模型飛行機が好きだったか、サッカーボールも好きだったけれど模型飛行機ほどではなかったというのに似て、あまり説得力のある説明にはならない。

 1950年生まれのカリニコスはジンバブエの出身である。以前はローデシアと言われて、怪物セシル・ローズが一人でつくった狂暴な人為国家だった。100人の白人イギリス人がその他大勢のアフリカ黒人のすべてを支配したのだ。少年カリニコスが育ったころ、このジンバブエで黒人たちが暴動をおこして白人政府を転覆させた。これはむろん暴力を伴うものだったが、カリニコスはそこに言い知れぬ快挙を感じた。

 長じてオックスフォード大学に進んだカリニコスはマルクス主義に投じ、この快感がトロツキー(130夜)に発していたものであることを知る。青年はぞくぞくしたが、ところが周囲の現実社会や思想雑誌群を眺めてみると、マルクス主義は革命のための理論ではなくなっていて、スターリンの独裁や各国共産党の旗印程度のものになっていた。

 そのうち資本の自由化やら変動相場制やら社民主義が跋扈して、時代思想はあっというまに「ポストモダン」というわけのわからぬもので改革や革命のお茶を濁しはじめた。リオタール(159夜)が「大きな物語は終わった」などと言ったことを真に受けて、すっかり思想の武器も武器の思想もかなぐり捨てたふうになってきた。それなら自分が「大きな物語をこそ大事にした時代遅れのマルクス主義者」に徹して、ポストモダン思想ともカジノ資本主義とも対決してみせようというのが、カリニコスの思想戦線方針なのである。

 そのカリニコスが『アゲインスト・ポストモダニズム』(こぶし書房)を書いたのだから、これは贔屓目にならざるをえない。まことに胸のすく本だった。

 

 カリニコスのポストモダン思想の批判はかなり全般に及んでいるのでうまくは紹介できないが、その批判の一番の核心は、ポストモダンの思想家やアーティストたちは寄って集(たか)って「ポストモダンという架空の時代思想をでっちあげた」という点に尽きている。

 それでも、その罪は軽度と重度があるらしく、最初にポストモダン概念を口にしたロバート・ヴェンチューリやジェイムズ・スターリングは告発免除、フレデリック・ジェイムソン、スコット・ラッシュ、ジョン・アリーらの準マルスキトは注意勧告程度、ドゥルーズ(1082夜)、デリダ、フーコー(545夜)、リチャード・ローティ(1350夜)は軽度、リオタール、ボードリヤール(639夜)は重罪、レイモンド・ウィリアムズとルイ・アルチュセールとスラヴォイ・ジジェク(654夜)は無罪ということらしい。

 しかし、そんな罪状の診断よりもカリニコスが言いたいことは、ニーチェ(1023夜)やカンディンスキーやT・S・エリオットやベンヤミン(908夜)やハイゼンベルク(220夜)などの、つまりはニヒリズムやダダや表現主義や量子力学などの圧倒的な才能によってモダニズムが複雑に用意した「非連続性とアウラとフェティシズム」を盗用して、何をいまさらあんたたちは適当に現代社会はポストモダン特有のものだと偽ったり、差異の時代だ間主観性だと言い直したり、欲望機械だ戦争機械だなどと焼き直したりしたのかということなのだ。

 いいかえれば、ポストモダンが発見したのはせいぜい「ダブル・コード」というものだけで、それもたいていはフロイト(895夜)心理学かソシュール言語学の二重化ばかり、それをやるならもっと本格的な思想のダブルバインド理論を構築しなさい、そう言うのだ。

 つまり、ポストモダン主義は、次のボードレール(773夜)の一節の換骨奪胎にすらなっていないということなのだ。「モダニティ、それははかなく、束の間に色褪せ、そのときどきの偶然性に支配される不確かなものである」。

 

 カリニコスはポストモダン思想も気にいらないが、むろんマネタリズムも新自由主義もグローバリズムも「第三の道」も気にいらない。それどころか、これらはポストモダン思想との妄想的で悪質な共犯関係にあるとも暗示する。

 こうしてカリニコスは『第三の道を越えて』(日本経済評論社)と本書『アンチ資本主義宣言』を書いたのだった。マッド・マネー資本主義をなんとか是正しようという連中の悪戦苦闘にメスを入れていくことにした。

 これらの著作は、カリニコスにとってはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に対する反撃でもあったようだ。フクヤマは自由資本主義が勝ち残ったことをもって歴史の終焉と揶揄したのだが、カリニコスからしてみれば、新ヘーゲル主義とレーガノミクスをブレンドしたようなフクヤマに、自由資本主義陣営が勝利したなどとは言わせないということなのだ。

 そんなものはワシントン・コンセンサスとNAFTAとデリバティブを混ぜ合わせて、それをIMF、世銀、G8、G20、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、FTAA(米州自由貿易地域)などで、互いが互いをなんとかかんとか糊塗して相互事態の悪化を防ごうとしようとしている代物にすぎないからだ。

 (→それにしても先日の横浜APECはひどかったね。菅直人では胡錦濤やメドベージェフの相手はとうてい務まらない。いや、日本の現状はそれ以下の水準に堕ちている。あのね、尖閣諸島の海上保安庁のビデオは、見せるのがいいのか見せないのがいいのかではなくて、政治家はその「情報の意味」を外交カード上の言語にできなければいけないのです。どうしてもそれができないというなら、佐藤優にお伺いをたてたほうがいい)。

 

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APEC横浜
首脳宣言の様子

 

 話が逸れそうになってきたが、つまりはカリニコスの主張は、今日の世にはびこるワシントン・コンセンサス以降の資本主義というものは、企業資本主義とポストフォーディズムとグローバルクローニー・キャピタリズム(国際談合資本主義)のキマイラ的混成物の以外の何物でもありえない。それを社会民主主義に訂正しようと、第三の道に転換しようと、とうてい事態は展開しっこない。むろん歴史の終焉などであるはずがない。そう、言いたいのだ。

 カリニコスは市場を否定しているのではない。たとえば株価が、日々刻々の天気予報とまったく同様に毎日のテレビやネットで表示されているほどに「ただの情報」になったことを、ほら、市場社会こそが「資本主義の自由」なんですとか、ほら、市場取引の正しい制度化をすればいいんだとか、ほら、私たちの資本主義は格差をつくらないためにあるのですなどと大袈裟に正当化して、自分たちの悪辣を隠す材料にするなよ、そういうことはやめなさいと言っているだけなのだ。

 いや、もうちょっと理論的にいえば、カリニコスはマルクスがとっくに指摘したことをちゃんと把握しなさい、それには次の10項目程度の理解でも、悪質なポストモダン思想や社会民主主義よりもずっとラディカルになるだろうと言っているわけなのだ。10項目程度というのは、次のようなことを言う。

 

①資本主義の特徴はダイナミズムであり、不安定性である。この特徴は資本相互の競争から生まれる

②資本主義はすでにシステムの限界を示している。

③資本主義が生み出す利潤は、どう見ても不公正がつくりだすのだから、その不公正を隠す制度ばかりが資本主義社会を覆っていく。

④財とサービスの交換に富の出入りがあるのではなく、それにまつわる労働に富の出入りがある。

⑤資本主義がどれほど自由然としようとも、階級の分化がなくなることはないし、格差がなくなることもない。

⑥自由な仕事(労働)などというものはない。どんな仕事(労働)にも監督と監視がつきまとう。

⑦資本主義社会の創造性は労働力からしか生まれない。資本家の創造性はせいぜい技術革新に乗ることにしかない。

⑧資本主義の最も重要な対抗効果は経済危機によってしか出現しない。

⑨資本主義がめざしているのは資本の蓄積だけである。

⑩資本主義を乗り越えるには、経済の改革ではなく、社会の革命的な転換に着手するしかない。

 

 ところで、カリニコスが来たるべき新たな社会が遭遇すべきものを「反資本主義」(アンチ・キャピタリズム)と名付けているのは、ややカリニコスらしくないネーミングだ。というのも、いま世の中の思想や運動として提出されているものには、あまりに多様な反資本主義がありすぎる。本書の要約を兼ねて、そのあたりのことをまとめておく。

 まず、何としてでもグローバル資本主義に逆行したいという動向、すなわち(A)「反動的な反資本主義」がある。かつてジョルジ・ルカーチが資本主義以前に戻ろうとする志向を「ロマン主義的反資本主義」という名で呼ぼうとしたことがあるが、このグループの多くの連中はそれに近い発想にこりかたまっている。その動機には“前近代の有機的秩序”に憧れてのこともあるけれど、ここにはときにファシズムっぽいものも萌芽する。むろんウィリアム・モリスがラファエル前派から革命的マルクス主義に逆進化したという例もないではないけれど、たいていは極右化するか、反時代的になるのがオチなのだ。

 次にけっこう多いのは、(B)「ブルジョア的な反資本主義」である。良識をふりまきながら資本主義の限界を批判する連中で、トム・ウルフやノリーナ・ハーツなどがそうなのだが、ここからはしばしば「ビジネスの選択肢の拡張」が叫ばれて、企業家にバカにされる。アナン国連事務総長が提唱した「グローバル・コンパクト」なんてのも、大企業と市民社会を結びつけるというお題目だったが、これは「フィナンシャル・タイムズ」にすら冷やかされた。それでもここからはつねにCSRのような提唱が必ず噴き出てくるから注意したほうがいい。

 市場経済の改良や分権化を唱えるのもいる。カリニコスはあまりうまい名称ではないがと断りつつ、これを(C)「ローカリスト反資本主義」と名付けた。この連中は大半がフェアトレード主義者で、公正な賃金、昇進の機会、環境に配慮した企業活動、公的な説明責任、健康的な労働条件などを必ず声高に列挙する。しかしカリニコスは、資本家というものはそういう要求には「なるほど、わかりました。できるだけ努力しましょう」と言いながら、これらをすべて実現するわけがないのだから、これらの提案はつねに中途半端になるに決まっている。だからもっと過激になったほうがいいと忠告する。

 

 資本主義の悪いところはなんとか国民国家が救ってくれるだろう、いやそうなるべきだというのが、(D)「改良主義的反資本主義」である。市場原理主義と新自由主義が行き過ぎたと判断されたときは、必ずこういう国家に擦り寄った改良案が目白押しになる。

 これが改良主義であるのは、議会的手段でこの救済を確定しようとするからで、察しの通り、社会民主主義者にはお得意な発想と作戦だ。むろんここには有名な提案もある。そのひとつがトービン税や世界金融庁の設立案である。ただし、これらが成立するには参加国が国連並みになるか、為替取引の本当の意味を解剖しなければならない。

 ここまでの反資本主義の諸潮流が大なり小なり市場を前提にしているのに対して、次の(E)「オートノミズムによる反資本主義」は集権化された権力を放棄して、運動独自の組織と活動性によって資本主義をゆさぶるという方法を提起している。アントニオ・ネグリ(1029夜)やマイケル・ハートの提案によっているものであることは言うまでもない。
 このオートノミズムの担い手として定義付けられたマルチチュードは、「共同行動をとる複数の単独者」という意味をもつ。だが、ナオミ・クラインなどはそのようにマルチチュードを捉えるのは、増えすぎたNGOやNPOの落とし子が前提になっているからだろうとも判定をした。

 こうして、カリニコスはさまざまな反資本主義の動向があることを認めつつ、かつまたそれらを批判しつつ、(F)「社会主義的な反資本主義」をゆっくりと開陳していった。なぜゆっくりと開陳したかというと、これまで社会主義と反資本主義とがあまりに重なったものとして議論されてきたからで、カリニコスにとってはそんな茫洋とした「社会主義≒反資本主義」では困るからなのだ。スターリン主義が混じっても困るし、最近の中国共産党のような資本主義的社会主義では、なおさら困る。

 とくにカリニコスは本書では、第四インターナショナル(FI)や国際社会主義傾向(IST)が、この議論で黙殺されないように注意を払っている。つまりはブンド(革命的共産主義者同盟)の運動思想を看過しないように、開陳を進めているのだ。これは、またまた黒田寛一の話が舞い戻ってくるのだが、日本においては実はクロカンが最も重視したことだった。イタリアなら共産主義再建党(PRC)、ブラジルなら土地なし農民運動(MST)である。

 

 ざっと本書にはこんなことが書いてあったと思うのだが、カリニコスが最後のほうで挙げている提案の素案は、以上のゆっくりした開陣に慎重しすぎたせいなのか、ひどくつまらない。

 現行資本主義に代わるどんなシステムも、そこには「正義」「公立」「民主主義」「持続可能性」があるべきだというのだが、こんな程度ではいったいカリニコスはどうしたのかと言いたくなるほど一般的すぎる下敷きだし、最後の最後になってカール・ポランニー(151夜)の「社会に埋めこまれた自己調整市場」に尻尾を振るのもカリニコスらしくなかった。それならむしろ「土地・労働・貨幣はすべて擬制商品である」という、ポランニーの最も過激なところを受け継いでほしかった。

 過渡期の措置として上げた次の9項目ほどの措置についても、かなり不満が残る。残念ながら、こういうものだ。①第三世界の債務の即時帳消し、②資本コントロールの回復、③労働時間の短縮、④民営化された産業の再国有化、⑤富と所得の再配分のための累進課税の導入、⑥移民規制の撤廃、⑦環境破壊未然防止プログラムの発動、⑧軍産複合体の解体、⑨市民的自由の確立。

 あーあ、こんなことをカリニコスから聞きたかったのではなかった。まことに残念だ。もう一度ポストモダニズム批判で見せたあの刃の切れ味を、アレックス・カリニコス、貴兄自身が自らに振るうべきなのではないか。そう言いたくなってしまうのだ。

 しかし、それでも本書や『アゲインスト・ポストモダニズム』は、デヴィッド・ハーヴェイの諸著作とともに読まれるべきである。でないと、日本ばかりか世界がもっとおもしろくないままになる。

 


新しい資本主義

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 産業の中心になるはずがない金融業がわがもの顔で世界市場を席巻したことに、原丈人はずいぶん以前から警鐘を鳴らしていた。
 IT産業が勃興したころは、ベンチャーキャピタルは技術支援のためにこそ組み立てられていた。原さんがデフタ・パートナーズをつくったのはまさにその時期で、ぼくはその後しばらくして巡り会った。シリコンバレー、イスラエル、シンガポール、日本のベンチャー、さまざまな大学の研究室の成果などの世界中の新しい技術の萌芽について、何度も夜を徹して議論したのがたいそう新鮮で、深くて、おもしろく、こんな日本人がアメリカにいたのかと引き込まれた。
 まだシリコンバレー・エフェクトの余波のなか、日米ベンチャーがそれなりの“佳き勇気”を競いあっていた時期だった。ところが、そういうことはなかなか長続きしない。経済状況と財務感覚がたちまち変質していった。なんだか化け物じみていったのだ。数字でいえば、たとえば80年代はベンチャーキャピタルの投資総額は毎年3000億円以下だったのに、それが2000年ごろには10兆円というとてつもない規模に膨れ上がっていた。脇役であるはずの金融がバブル化し、化け物じみていったのである。
 それでどうなったかとえば、IT企業に必要以上の資金がどこどこ流れこみ、「新しい技術で新しい価値を作る」という当初のベンチャーらしい、多少は義侠心もまじっていた方針は次々に吹っ飛んで、実際に会社で仕事をしている者たちよりも、そこに投資している連中のほうが高いリターンを得るようになった。
 一言でいえばIRR(内部投資収益率)が大手を振ったのだ。これは投資に対してどれほどのリターンがあったかを年率で示す投資側から見る指標だが、これでは同じリターンを得るなら10年よりも5年、5年よりも1年というふうになる。一見、IRRを重視するのはリスク回避として当然のようではあるが、これを会社が実現しようとすると、たちまち短期で儲かる仕事だけをしていくという目先きばかりを追う集団になっていく。
 それだけではなかった。経営側のほうでもROE(株主資本利益率)をやたらに重視するようになっていった。

 ROEは株主の投資に対してどれだけのリータンがあったかを示す指標である。ネットバブルがはじけた反省から急にやかましく言われるようになった指標だが、ROEを重視しすぎると株価がもっぱらROEにくっついて連動することになり、経営者は短期に株価を上げないと評価されないようになっていった。
 多くの経営陣はストックオプションの権利を付与されていたので、自分が経営トップに在任している数年のうちに株価を上げることばかりに注意が奪われていくようになってしまったのだ。呆れるほどの高収入になったCEOも続出した。
 この趨勢は、もともと短期で株価を上げたがっているファンドマネージャーたちの思惑とぴったり利害が一致した。そこでCEOたちは資産を圧縮するなどしながら財務諸表を化粧なおしして短期的にROEを上げ、株価に結びつけるようになった。こんな悪しき流行を見ていた原さんは、研究開発にまともに取り組めば「それが売上と利益を生むには最低でも7年から10年がかかるはず」なのに、このままでは本気のベンチャーは絶対に育たないと言っていた。
 加えて、こういう風潮に「金融工学」がぴったり寄り添った。金融工学は「参入障壁のない完全競争市場」を架空の前提にした経済学をバックに組み上げた“擬似サイエンス”とでもいうもので、すべてを数式と数値であらわしてリスクヘッジの理屈を作り上げている。
 むろん実体経済の価格の乱高下を平準化させるといった方面では、それなりの有効性をもつことはあるだろうものの、これが経済一般・金融一般にあてはまると思いはじめたとたんにとんでもないことになる。
 なぜならヘッジファンドの理屈では、企業価値は時価総額なのである。その時価総額を決めるのがROEだから、企業価値は「1株利益÷1株当たり純資産」で決まる。ついで、これを向上させるのが当該の経営陣の至上命令になるのだから、それにはこの方式を使えば「資産を小さくすればいい」というふうになっていく。このようなロジックでは内部留保をためるより、それを配当金として分配したほうがいいということになるからだ。

 しかし、こういう理屈とこういう風潮に乗りすぎるのがきわめて危険だったんだよね、と原さんは振り返る。企業の体質がガタガタになり、本格的な力がつかなくなっていく。
 リスクの高い研究開発を持続的に展開する企業では、主な資金の調達方法は、①金融機関からの借り入れ、②現行株主立てする株主割当増資、③内部留保、の3つしかない。このうち①の方法は借入金が返せなくなったら研究開発が止まるのだから、ベンチャーには難しい。銀行もかんたんに応じない。②の株主割当増資は短期のリターンを望む株主が多ければ、そういう連中に資金を出してもらうことを説得するのに時間がかかる。
 となれば、③の内部留保こそが大事になるのだが、これがなかなか理解されないようになってしまったのだ。会社の「ダム」を作っておくことが一番大事なのに、そこにお金がまわらくなってしまったのだ。
 こうして原さんはさまざまな工夫と戦略を練ることになる。たとえば、欧米の市場モデルばかりに気をとられていないで、「5年以上株式を保有する株主だけが取引できる市場」をつくりなさいというふうに。

 原丈人がデフタ・パートナーズを設立したのは1985年だった。デフタはいまは世界的な事業持株会社のグループになっていて、原さんはその会長だ。
 出会ったころは、シリコンバレーの片隅の一介のベンチャーキャピタリストだった。しかし、早くからその名が知られていた。ぼくはいったい誰に紹介されて出会ったのかちょっと思い出せないのだが、おそらくは日経新聞の記者だったのではないかと憶う。
 そのころぼくは、稲盛和夫さんと樫尾忠雄(カシオ電気)さんの推薦で、日経のベンチャービジネス・センター(VBC)の纏め役のようなことをしていた。「VBC通信」というメディアの編集も引き受けて、月に一度、800人ほどのベンチャー経営者の会員のうちの200人ほどずつが集まる会合にも出ていた。これは奇妙な体験だった異業種交流会というものの実態もそのとき初めて観察した。
 それまで企業経営者群などと出会ったこともないぼくが、なぜ日経からそんな大それたことを頼まれたのかというと、1985年の筑波科学博で「テクノコスモス」というベンチャーパビリオンを演出したとき、その参加企業だった京セラの稲盛さんに気にいられたせいだと思う。気にいられたのは、きっと量子力学と意識の関係の話をやたらに詳しくしたのと稲盛さんの意向に適う科学博のパビリオン演出をしたからで、それ以上でもそれ以下でもない。
 それはともかく、当時の日経は「スモールビジネス」とか「地域経済」という紙面をもっていたのだが、それを一挙に「ベンチャービジネス」というタイトルに変更するにあたって、VBCを立ち上げると決め、そのために稲盛さんに相談したらしい。稲盛さんはそのときなぜか「それなら松岡正剛がいい。これからの時代の人だ」と推薦したらしい。
 その稲盛さんの話を聞いた相手が当時の日経新聞編集局長の樋口さんで、その樋口さんがたまたまぼくの九段高校時代の先輩だったことも手伝ったようだ。おそらくそんなギョーカイつながりで日経のベンチャー担当記者が原さんをぼくに紹介したのだったろう。

 原さんは体は小さいが勇気が漲っていて、太いものに巻かれるのが大嫌い。当然に負けん気も強い。学生時代からの考古学の学究者でもあったから、たいていの歴史にめっぽう詳しい。総じて探求心が抜群に旺盛なのである。
 そんな気質の持ち主だったせいか、日経の仲人のせいだったのか、最初から互いに妙に気が合った。かなりいろいろなことを話した。やっとパソコンが世に出回りはじめた時期のことで、原さんはそのころからつねに斬新きわまりない経済社会についての発想と、それにもとづく才能と技術に関する実験と体験を裏打ちしている人だった。「知的工業」とか「知的工業製品」というコンセプトを当時から打ち出してもいた。
 ぼくにもさかんに「松岡さんのような考え方に資金が投入されるべきだよね」と言ってくれた。「へえ、考え方に対しても投資ってあるんですか」と無知を承知で訊いてみたところ、破顔一笑、「当然でしょう。ベンチャーは考え方から始まるんですから。ファウンダーの知能にこそ投資すべきなんです」と言われてしまった。そして「担保をとらないと資金を融通しない連中は、たんなる金儲け屋ですよ」とも笑った。金融機関にまったく疎かったぼくは、これは世の中には知られていない“秘密の花園”の話かと思ったほどだ。
 しかし原さんは本気なのである。実際にもNTTの株の売却益で組まれた先端技術基盤センターから資金を引き出して、ぼくの編集工学に役立てようとされたこともあった。もっともこれは書類審査が不備のため、はねられた。そのときも原さんはこんなことを言った。「日本はね、まだリスクキャピタルのことがわかっていないし、アーリーアダプターがいませんねえ」。
 アーリーアダプターというのは、アントレプレナー(発見型起業者)がつくった新しいコンセプトにもとづく製品やプロジェクトを他に先駆けて買ってくれる人のことをいう。実は原さん自身がアーリーアダプターなのである。

 その原さんが『21世紀の国富論』(平凡社)を書いたときは万歳だった。おおー、ついに原丈人が一冊をまとめたかという万歳だ。
 この本は本書の前身にあたる本で、冒頭、2000年秋にアメリカでネットバブルが崩壊したのは、BtoBやBtoCのビジネスモデルを支えるのに必要な技術が未完成であったにもかかわらず、新たに産業をおこそうと暴走したせいだった、というところから記述が始まる。
 そのあと、時価会計主義と減損会計の問題点、ベンチャーキャピタルがただの金融業になってしまった理由、1989年のベルリンの壁崩壊をもって「資本主義の勝利」だなどと思いこんだ市場主義者の限界、ビジネススクールの弊害、株主至上観の誤り、ヘッジファンドが価格を歪める力をもちすぎた原因などを次々に血祭りに上げ、そのうえで、公開企業はストックオプションを廃止するべきだ、ヘッジファンドの有害になるファクターを除去する新たな競争のルールを作るべきだ、株式交換を用いた三角合併を食い止めるべきだ、リスクキャピタルには税制優遇措置を組むべきだ、といった提言を連打した一冊になっている。
 しかしここまではイントロなのである。ここから先に書いてあったことは、本書にも重ねて強調されているところでもあるのだが、とびきりに新しい。詳しいことは本書や『国富論』や最近の各誌に載る原さんの原稿を読んでもらうとして、注目すべき概要は次のような点にある。
  
 予見は次のようなものだ。
 いま多くのIT産業はサービス化に向かい、アマゾン、グーグル、楽天のように“消費者化”している。しかしそれでは知的工業製品を下敷きにした新たな産業社会はつくれない。まず、いつまでも現在のコンピュータ主義が続くとは考えないほうがいい。
 現在のパソコン・ネットワーク社会は、PtoP(ピアtoピア)のクライアント・サーバ方式でできている。ネットワークにつながっている成員のすべてがサーバとクライアントの両方の役割を果たすように、PtoPが成立するようにつくられている。これが現在のインターネット技術の基礎である。
 この基礎にもとづくコミュニケーションを可能にしているのは、オラクルに代表されるリレーショナル・データベースである。エクセルの表のようなテーブルの集合をつくっておいて、それらのテーブル間の関係を定義することでデータを管理する。これにはけっこう複雑な処理が必要で、少しでもデータ構造を変えようとすると、たいへんなコストがかかる(だからオラクルは儲かっている)。リレーショナル・データベースは構造に柔軟性がないのだ。オラクルも、インフォミックスも、サイベースも。その後に考案されたデータウェアハウスも同様だ。
 では、どう考えればいいか。ひとつは、このリレーショナル・データベースに代わるものを技術開発すべきなのである。候補としてオブジェクト指向データベースがあげられるが、これは早くから開発されてきたにもかかわらず、市場に受け入れられなかった。パフォーマンスが低かったのと、デファクトスタンダードになっていたリレーショナル・データベースとの互換性がなかったせいだった。最近ではXMLとの絡みで少しは改善されている。XMLは拡張可能マークアップ言語のことをいう。
 もうひとつは、ここが原さんの大胆な提案になるのだが、現在のパソコンを次世代のものにしてしまうということにある。

 現在のパソコンを支えている3つの技術は、マイクロプロセッサ(インテルが代表)、オペレーティングシステム(マイクロソフトが代表)、クライアント・サーバ型リレーショナル・データベース(オラクルが代表)の3つで、これが三種の神器になっている。
 このようなパソコンは相互コミュニケーションのために発想されたのではなく、計算と情報処理を高速にパーソナルにできるようにして、つくられてきた。だから本気で自分で情報や知識を編集しようとか、相互の編集環境をつくろうとすると、かなりの工夫でカスタマイズしなければならない。ハードとソフトが分断されているためだ。
 のみならず、このようなパソコン・ネットワーク産業では、ハードは粗利率が低いため、キャピタリストからすると投資がしにくくなっている。そのため勢い、パソコンサービス型の産業のほうに金融の目が向いてきた。三種の神器にもとづく産業は、市場を片寄ったものにもしてきたのである。日本はとくにここに追随した。
 これに対して、原さんは「PUC」を構想する。「パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーション」だ。コミュニケーションのためのシステムである。これは「ハードとソフトを分けないポストコンピュータ」の未来像である。原さんのデフタ・パートナーズは1996年から、このPUCに特化した投資をおこなっている。<!--[if gte mso 9]><xml> <w:WordDocument> <w:View>Normal</w:View> <w:Zoom>0</w:Zoom> <w:TrackMoves /> <w:TrackFormatting /> <w:PunctuationKerning /> <w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery>0</w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery> <w:DisplayVerticalDrawingGridEvery>2</w:DisplayVerticalDrawingGridEvery> <w:ValidateAgainstSchemas /> <w:SaveIfXMLInvalid>false</w:SaveIfXMLInvalid> <w:IgnoreMixedContent>false</w:IgnoreMixedContent> <w:AlwaysShowPlaceholderText>false</w:AlwaysShowPlaceholderText> <w:DoNotPromoteQF /> <w:LidThemeOther>EN-US</w:LidThemeOther> <w:LidThemeAsian>JA</w:LidThemeAsian> <w:LidThemeComplexScript>X-NONE</w:LidThemeComplexScript> <w:Compatibility> <w:SpaceForUL /> <w:BalanceSingleByteDoubleByteWidth /> <w:DoNotLeaveBackslashAlone /> <w:ULTrailSpace /> <w:DoNotExpandShiftReturn /> <w:AdjustLineHeightInTable /> 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 PUCを産業の基盤に乗せるには、当面、6つの新技術が開発される。①マイクロプロセッサに代わる次世代プロセッサ、②組み込み型ソフトウェア、③新たなPtoPネットワーク技術、④ネットワーク・セキュリティ技術、⑤ソフトウェア・スイッチング技術、⑥デジタル・ディスプレー・コントローラ。
 ①は計算ではなくコミュニケーションに特化したDSPチップ(デジタル信号処理プロセッサ)、②はハードと統合されたソフトウェアで、ウィンドウズのような大きなものではなくずっと小さくなるもの、③は新たな考案されつつある「インデックス・ファブリック理論」にもとづいて開発される、④はそのためのセキリュティ技術、⑤中継用交換機の機能をIP網とその上のソフトウェア処理で代替するもの、⑥は動画像を処理する半導体技術によるデジタル・ディスプレーである。
 このうちの③の「インデックス・ファブリック理論」が独創的で、ぼくからするとすこぶる編集工学的なのである。

 コンピュータ処理のうえで、属性が固定的なデータを「ストラクチャード・データ」という。これを高速に処理するのがリレーショナル・データベースである。
 属性の下位の分類がいくつもの階層構造をもつデータ群を「セミストラクチャード・データ」という。リレーショナル・データベースはこの処理がからっきしヘタくそだ。しかし、われわれの知性や読書体験はこの傾向をこそもっている。たとえば1000冊の本の目次群はセミストラクチャード・データ群になっている。固定的に構造的なのではなく、半構造的で、柔構造的なのである。なぜなら「意味」という属性を扱うからだ。
 さらに属性がうまく定義できないのに、実際にはすばらしい機能を発揮しているデータ構造をもっているものがある。たとえば遺伝子のDNA配列やタンパク質のアミノ酸構造である。脳もそうである。いや、生命システムの多くの機能がそうなっている。こういうデータ群を「アンストラクチャード・データ」という。リレーショナル・データベースではまったく歯が立たない。
 これまで、バイオ新薬の発見技術、コンテンツの編集的獲得プロセス、画像コンテンツの検索、理想的なカーナビ、安全かつ使い勝手のいいeコマース技術、個人の体調に合ったテーラーメードの薬の確定、原産地から流通プロセスまでを知るトレーサビリティ技術、本人の特性を理解する秘書技術‥‥などなどといったものは、以上のデータ属性をさまざまに組み合わせる必要があり、なかなか一筋縄ではいなかった。
 これを解決しようというのが③のための「インデックス・ファブリック技術」というものだ。略して「IFX」という。原さんはこの発想のための理論に、イスラエルのテルアビブで出会った。劇的だったようだ。ぼくはその直後の興奮を、原さんからいろいろ聞いたことがある。IFX理論はその後、2001年9月のVLDB学会でも発表された。独自のツリー構造でインデックス(目次・目録)を構成し、これを半構造データにするための理論である。
 IFXがどのようになっていくは、いまのところ「おたのしみに」と言っておくのがいいだろう。ぼくはそもそも編集工学がもっているエンベッドな技能観ときわめて相性がよさそうなので、実はある計画との擦り合わせを考えたいと思っているのだが、それも今夜は「おたのしみに」と言うしかない。いまはまだ伏せておきたいのです(笑)。ちなみにエンベッド(組み合わせ可能)な技能観とは、「アソシエーションによる編集技術」のことをいう。
 ともかくもこのように、原さんはポストコンピュータ時代を想定して、そのコア技術になりうべきものを世界の技術から組み合わせ、そこに投資しようとしている。株価を維持したり上げようとするだけの企業や企業合併などには目もくれていなのだ。

 一方、本書には「新しい資本主義」のために「公益資本主義」という方向が必要になっているという提案も、いくつもなされている。
 現在、世界にはLDCとみなされている国々がたくさんある。後発発展途上国である。1人あたりGNI(国民総所得)が750ドル未満、50パーセント以下の識字率、高い幼児死亡率、経済的脆弱性などに喘いでいる。国連の判断では49カ国にのぼる。
 原さんは、これらの根底に「教育」と「医療」があると見た。この二つの分野に最新テクノロジーをエンベッドしたシステムを考えたらいいのではないか。こうした国々こそが、21世紀の最も発達したテクノロジーを導入できるようにするべきだというのだ。
 そこで、バングラディッシュの最大のNGOであるBRAC(バングラディッシュ農村向上委員会)と組んで、農村部の貧困層のためのマイクロクレジットを組み合わせた教育、技術訓練、保険プログラムを発進させるためのbracNETという会社を立ち上げた(BRACが40パーセント、デフタが60パーセントの出資)。2005年の秋だ。まずワイヤレスブロードバンドのインフラ整備から始め、2008年にはその成果をいかして固定電話会社を吸収した。
 この会社の特徴は、利益の40パーセントを教育と医療に使えるような仕組みになっていることにある。おかげで収益の40パーセントを得るBRACは、おまけにNGOなので非課税部分が大きく、これを教育や医療の活動に当てられるようになったのである。
 LDCは貧困とともに飢餓にも喘いでいる。ここにはまさに「栄養」が必要だ。原さんはここに「スピルリナ」という高タンパクの藻を原料とした栄養供給システムを提案した。そのために、スピルリナをLDC各国に普及させるためのスキームを国連とともにつくり、原さん自身が国際機関の特命全権大使となって、スピルリナ・プロジェクトを推進していった。日本でもコクヨ、ロート製薬、大日本インキ、三井不動産などが協賛し、すでにザンビア、ボツワナ、モザンビークなどでその試みが開始した。
 これらは、株主資本主義や時価会計資本主義に代わる公益資本主義への第一歩の試みである。夢物語なのではない。飢餓とコア技術とマイクロファイナンスとは、決して別々のものではなかったのである。

 ここに紹介したのは、原さんが取り組んでいる現状のごく一部にすぎない。話してみるとすぐにわかるが、この人は真剣で斬新な話題でありさえすれば、どんな領域のことでも猛烈な好奇心によって対応する人なのだ。
 よくぞこれだけ多領域の仕事をこなしているなと感心するけれど、しかもよくぞ毎日のように世界を動いているなと思うけれど(ケータイに電話を入れると、たいていトランジットしている)、最近思うのは、そこには「日本」への強い愛着があるということだ。今年、日経ホールでの経済フォーラム(東アジアと日本の未来を考える)に呼んで話をしてもらったときは、アジアの新たな産業を日本の資金と日本語によっておこすべきで、そのためにはアジア人に日本語をおぼえてもらうべきだと言っていた。
 隣りにいたローソンの新浪剛史社長が、「そういえば今年のローソンの新年の売上ナンバーワン店のスタッフは中国人の女性たちでした」と思わず言っていた。控室で奈良県の荒井正吾知事が原さんと新浪さんの二人に出会えたことを、びっくりするくらい嬉しそうな笑顔で本人たちに伝えていたことが思い出される。こういう場面に立ち会うと、日本もまだまだ捨てたものじゃないという気になってくる。

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平城遷都1300年記念経済フォーラム「2010年からの転換と展望」
2010年5月13日開催 日本経済新聞の記事

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経済フォーラムで特別講演を行う原丈人氏



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【参考情報】

(1)原丈人は1952年の大阪生まれだ。父上はコクヨに縁が深く、ぼくが会うときはいつも和服を着ている。デフタ・パートナーズの日本の事務所に行くと、父上が作成した機関車の模型が置いてある。阪神大地震で壊れた鉄道模型をすぐに作り直したほどの“鉄爺”なのである。当然、子供も“鉄男”になった。ただし、自分で動きまわる鉄男クンだ。
 鉄男クンは慶応大学の法学部の出身で、大好きな考古学研究のために中央アメリカに渡った。夢はハインリッヒ・シュリーマンのようになることだったが、自分がめざしたい考古学の発掘には莫大な資金がかかることを知った。そこで、スタンフォード大学の経営学大学院に進み、ここで事業計画書の作り方を学んだ。考古学や鉄道に必要な光ファイバーを素材に映像システムを解発する会社をおこすという計画書だった。
 計画は机上のものではなかった。資本金60万円を用意して技術開発に取り組もうとした。が、技術者を雇うには高額の報酬が必要だと知って、自分自身でエンジニアの資質をつけないといけないと決意して、工学部に入りなおした。本気で光ファイバーによる超大型ディスプレー開発のための技能を学んだのだ。当然、関心は製造技術や管理工学にも及んだ。
 かくて1981年、光ファイバー・ディスプレーのための会社「ジーキー・ファイバー・オプティクス社」を設立、製品がディズニー・プロダクションに採用されたこともあって、従業員50人ほどの会社に成長した。キャッシュフローがピークになった1983年、会社を売却すると、鉄男クンはここで得た資金を元手にベンチャーキャピタリストとして、いよいよ資本主義市場と産業技術に挑戦する冒険者になることにした。未知を考古学することにしたのだ。
 

(2)原丈人はいま、デフタ・パートナーズ・グループの会長である。デフタ・パートナーズは1985年に設立したのち、オープラス、トランシティブ・テクノロジー、ボーランド、ピクチャーテル、トレイディックスなどに技術投資して、これらすべてを成功に導いた。
 その一方で、ぼくもときどき呼ばれたのだが、財団のアライアンス・フォーラムを早くに立ち上げ、多くの技術と産業と人とを結びつけ、真新しい技術や哲学や組織観を披露しようとする者を応援しつづけている。
 ぼくにとっては旧知の異人であり、最初から瞠目すべき才能と行動力を発揮していたと思えるのだが、日本がこのような原丈人に注目しはじめたのは、やっとこの数年のことなのだ。ニッポン、遅すぎるよね。



ガンディーの経済学

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 ガンディーは「機械は壮大だが、恐ろしい発明品だ」とか、「トラクターと化学肥料はインドの荒廃を意味する」とかと言い、一貫して近代的工場生産を反対した指導者として、また外国製品をボイコットしたスワラージ主義者として知られてきた。
 あまつさえ、ときには「需要と供給の法則は悪魔の法である」と言ったという噂も伝えられてきた。そんなガンディーに、はたして今日の資本主義社会で耳を傾けるべき経済学があったのか。本書のタイトルを見ただけでは、そんな疑問をもつ者も少なくないだろう。
 ぼくも発行されたばかりの10月末に作品社から本書が送られてきたときには、うーんと唸らざるをえなかった。帯には「新自由主義でもマルクス主義でもない“第三の経済学”という構想」とある。ガンディーに独特の経済観念があったことは、わかる。それが今日の経済思想の混迷を妥当する“第三の経済学”とまで言えるのか。それにアンソニー・ギデンズやトニー・ブレアなみの“第三の経済学”では、やや困る。
 でも、かなり気になった。読書というもの、この「気がかり」がすこぶる重要で、これをアタマのどこかに羽根簪(はねかんざし)のようにひらひらさせながら読むのがコツとも醍醐味ともなるのだが、ただしそのときは“一気読み”をしなければならない。ところが、そのころ仕事に追いまくられていたぼくは、気になりながらもなかなか通読できなかったのだ。これでは羽根簪を自分でどこに挿したのかが、わからなくなる。
 というわけで、このインドの著者には申し訳ないことをしたが、それでもなんとかまるで隙間に光を見いだすように“拾い読み”や“追い読み”ばかりして、一昨夜、読み了えた。266夜に書いた『ガンジー伝』ではほとんど予想できなかったものだった。

 本書の著者のアジット・ダースグプタは1928年にカルカッタに生まれたインド人である。カルカッタ大学とケンブリッジ大学で経済学を修めた。どちらかというと厚生経済学に与しているようだが、開発経済学や統計経済学にも強い。むろんのこと、インドの近現代経済史については欧米の誰よりも専門的だ。そのダースグプタが混迷する21世紀世界経済の曲がり角で、ガンディーに的を絞ったのである。
 絞った理由は、およそのところは見当がつくだろうと思うが、グローバリゼーションに席巻された世界経済の喧噪のなかで、新たな「第三の道」やそれ以外の「オルターナティブ」を構想しようとするとき、ひょっとすると自分たちの国(インド)の近代化の原点にいるマハトマ・ガンディーの経済思想にこそ、古くて新しい光を見いだせるのではないかと思ったためだった。
 そこでダースグプタが着目したのは、ガンディーがつねに民族的(ないしは民族主義的)な構想をもっていて、その構想にはインド人民における「欲望や欲求の制限」という強い見通しが入っていたことだった。ダースグプタは、これを経済学にいう「選好」の発案というふうに捉えた。たんなる選好ではない。「倫理的選好」というものだ。
 ふつう、倫理的選好などという基準は経済社会で実現されるようなものではない。自由市場では誰だってどんなものも欲しくなるし、いったん手に入れたものでもそれより魅力的な商品があれば、自動車であれジュースであれ、ケータイであれジャケットであれ、すぐ欲しくなる。そこに倫理的選好など持ち込むスキはない。
 しかし、ガンディーはそれをこそ訴え、それをこそ実行した。欲望や欲求を「個人が欲しがるもの」(消費財)と、「村落のレベルで対象にすべきもの」(輸送手段や公衆衛生)に分けたり、70万人の村落にいくつ病院があればいいかという政策を考えようとしていった。カッダル(チャルカー=手工業の国産糸で紡がれ織られた服)に人々の選好を集中させたのも、ガンディーの強引きわまる功績だった。ダースグプタはそこに「倫理の経済学」の実践があったと見たのだ。

 もともとぼくも関心をもっていたのだが、ガンディーにはいろいろな編集的独創力がある。それは手紡ぎ車を奨励する行動にもあらわれたが、さまざまなガンディー好みの言葉にもあらわれている。
 たとえば「サッティヤグラハ」という言葉は「サッティヤ」(真実)と「アグラハ」(把握)を組み合わせたもので、ガンディーの造語だった。意味は「真実の把握」だが、かえって造語であるがゆえに非暴力不服従運動という意味が巧みに加わった。よく知られるスワラージやスワデーシーも同様だ。スワラジーは「自治」や「独立」を、スワデーシーは「自分たちの国」をあらわすインド固有の言葉なのだけれど、ガンディーはこれらの言葉を頻繁に強調するだけでなく、そこにつねに「不屈な行動力」とか「国産品愛用」という意味を付加し、その活動に国民全体が参加することを訴えた。
 ガンディーは言葉や文脈における編集的選択肢を見せるのが、まことにうまかったのだ。

 民衆の選好というもの、ほっておいても或る方向を選ぶようになるものではない。広告代理店的にいえば、そこには徹底したマーケティングが必要だし、無節操なほどのアドバタイジングが必要だ。しかし、そういうことをすればするほど、それらの戦略はどんな商品にも適用されていくことになり、結局は市場や生活者を過当競争の中に投げ入れる。
 ガンディーはそうではなく、人々に独特の選択肢を提供することにしたわけである。そしてその選択肢には必ずや、インドの村落が持ち合わせている素材や技能や労働力が入るようにしていたのだった。
 ガンディーが故郷のポールダンダルで初期にした演説の言葉には、すでにそうした編集力が駆使されていた、とダースグプタは言う。それは“ガンディーの経済学”が芽生えていた証拠だというのである。これにはぼくもちょっと動かされた。選択的な選好をガンディーが意図的に用意していたとしたら、それはなるほどかなり自覚的な経済政策であり、“ガンディーの経済学”なのかもしれない。ダースグプタは、その一例を次のポールダンダルでの演説の一節に見いだした。
 「ベンガルが、インドの他の地方や外の世界を搾取することなしに自然で自由な生活をおくろうとするならば、トウモロコシを自らの村落で栽培するのと同様に、衣服もそこで製造しなければなりません」。

 ふつうは、ガンディーのような選択的選好は、それが経済政策であるばあいは「愛国的選好」とか「保護主義政策」というふうにみなされる。ガンディーは政治リーダーであり為政者でもあったのだから、まさにそういう偏向にあったのだ。そんな政策は自由交易を阻害しているとか、市場の自由を無視していると言われても仕方がない。
 しかしガンディーは怯まずにこの方針を貫いた。そこには、当時のインドには1年のうち少なくとも4カ月くらい仕事がない者たちがいて、それが人口の4分の1に達しているという認識があったからだった。
 異常なほどに多い失業者の数である。いや、失業者なのではない。そういう「仕事のない生活者」が多いのだ。では、このような苛酷な現実にいったい何を加えることによって変更をもたらすことができるのか。
 ここでガンディーは「糸紡ぎ」を選んだのだ。極端にいえば、ただひとつ、「糸紡ぎ」だけを奨励したのだ。まことに驚くべき選択である。それをもってスワデーシーの原理としたのだ。
 なるほど、ガンディーの言い分では、糸紡ぎは「最も簡単で、最も安く、最も良い」し、しかも「最小の支出と組織的努力で、最大多数の村人たちに収入をもたらす」という利点があるというのだが、仮にそうだとしても、これには当然ながらいくつもの反論がありえた。
 たとえば糸紡ぎで得る収入よりもすでに高い収入のある者には、こんな方針はとうてい肯んじられないし、糸紡ぎで作るものと見かけも肌触りもそれほど変わらないものが、もっと大量にもっと容易に(ときにうんと安価に)、もっとスピーディに製造できる欧米の機械技術もあった。実際にも糸紡ぎ政策の提案には、こうした反論や無視がいくつもおこった。
 それにもかかわらずガンディーの方針は、これらの反論や不満を押しのけてでも「手製による糸紡ぎで織られたカッダル」を作り、村人たちが手にし、着用するのがいいとしたわけである。当時はそのカッダルの市場すら準備できていなかったのに。

 ずいぶん大胆なことをしたものである。これが“ガンディーの経済学”なのだろうか。経済学と言うにはあまりに単純ではないか。しかし、単純ではあっても、そこには原則としての新経済学があった、とダースグプタは言う。
 ガンディーには、経済社会は利己主義とはべつな利他主義の行為もあり、この二つは人々の生活においてどこかで融合するはずだという確信があったから、ここにこそガンディーはインド経済社会の未来を見たのだと言う。
 利他主義? ガンディーは利他主義で経済が成り立つと言うのだろうか。そう確信していたのだろうか。それともガンディー独自の「好意の経済学」とでもいうものがあるというのだろうか。
 多少はさまざまな見解が交じり合うのだが、ダースグプタがそういうところにガンディーの意図があるのだと言う説明を、もう少し正確に理解するには、ガンディーが強調した「パンの労働」論と、ガンディーが失業保険金の給付に反対しつづけたこと、この二つを理解するのがいい。少なくともぼくはそう感じた。

 「パンの労働」というのは、もともとはトルストイ(580夜)が言い出したことで、過激には「パンを作らない者はパンを食べてはならない」というもの、一般的には「身体を使って労働しない者には食べる権利はない」というもので、インド哲学的には「ヤージュナ(犠牲)を払うつもりのない者は恩恵に浴することはできない」という考え方をいう。
 これは自給自足(アウタルキー)の経済を提唱しているのではないし、むろんエコの経済主義(エコノ・エコロジー)の発案というのでもない。ガンディーは「パンの労働」を通して精神活動と肉体労働がバランスよく向上すると思っていたようなのだ。もう少しいえば、「パンの労働」がコミュニティにそれぞれ生きているかぎり、人々はやたらな消費主義や余暇主義に走らないと踏んでいたようなのである。
 とくに「過度の余暇」が生活者全般にもたらすものを、ガンディーは警戒した。20世紀の世界が「過度の余暇」によって価値観を失い、しだいにめちゃくちゃなものになっていくだろうことを予想してもいた。資本主義の未来を案じていただけではない。ソ連や中共や東欧の社会主義計画経済が労働時間を1日2時間とか3時間にすることも、ガンディーは問題視していた。「パンの労働」を強調したのには、そうした見通しもあった。

 それにしても「パンの労働」論には、一般の市場経済ではあまりにも普遍化されているひとつの原則が、大きく踏みにじられていた。エコノミストの大半は次のようにガンディーを詰(なじ)るはずなのだ。それは、こういうものだ。「ガンディーは分業を拒否している!」。
 どんな経済学でも分業を軽視したりすることはない。分業はアダム・スミスから一貫して経済学の大前提になってきた経済の王道なのである。分業を前提にしない生産システムや流通システムなどありえないと言っていいほどだ。産業とは何かといえば、それは分業だと言ってもいいほどなのだ。でもガンディーは「自分のパンを自分で作れ」と言ったのである。これはあきらかに分業の拒否ではないか。
 このガンディー批判は当たっていなくもない。そもそもガンディーが「機械の使用」に反対していたこと自体が分業拒否だった。
 こうしたガンディーの頑迷固陋については、ガンディーにインタヴューしたチャールズ・チャップリンをさえ当惑させた。チャップリンは自由を求めるガンディーには共感も尊敬もするが、その機械に対する嫌悪にはさすがに辟易としたと感想を述べた。あのテーラー・システムによるベルトコンベア式労働を揶揄したチャップリンを当惑させたのだから、そうとうなものだ。
 進歩主義者のオルダス・ハクスリーはもっと辛辣だった。「ガンディーのような人々は、自然への回帰を説き、農業および工業の生産に科学と技術を適用することに反対して、実際には世界を飢餓、死、そして野蛮へと逆戻りさせようとしているのである。トルストイとガンディーは人道主義者を自称するが、実際には殺戮を唱導しているのであり、それと比較すればチムールとチンギスハンの大殺戮はほとんど目にとまらないくらい些細なものに見える」。
 マルクス主義者たちも「ガンディーは機械の時代を石器時代にしたがっている」と呆れた。実はガンディーの僚友だったネルー(のちの首相)やインド国民議会派でさえも、ガンディーの理念とはべつに実際の政策においては「産業化」を機械化を伴うものと規定し、それをしないかぎりはインドの貧困が解消されないとひそかに決意していたのだった。
 つまりはガンディーの反分業論や反機械論は、当時の多くの者に「有害な酔狂」と映っていたのだった。
 それでもガンディーは機械化に反対した。『ヒンドゥ・スワラージ』のなかでは、機械はいずれヨーロッパを荒廃させるだろうし、機械そのものが道徳悪になる日がくるとも信じていた。

 いったいなぜガンディーは産業化にも機械化にもあんなに執拗に反対したのだろうか。ダースグプタはさまざまなガンディーの文献を調べあげ、第1には、ガンディーが「資本力よりも労働力を」と考えていることを突き止めた。
 これまでガンディーの経済政策は「より少ない資本、それも外国資本に頼らない資本」という観点から論じられてきた。しかしダースグプタはそうではなく、ガンディーは「より少ない資本力によって、より多くの労働力を」という点に活路を見いだそうとしていると見たのだ。
 インドは過剰労働力国家なのである。ガンディーはそれは今後100年後も200年後もそうだろうと見積もっていた。だとすれば、安易に機械を工場へ急いで導入することは、インドの本質を歪ませるだろうと考えたのだった。
 第2に、ガンディーは「機械が人々の利他性を奪う」と考えていた。何でも機械が便利に見えるようになるということは、人々のあいだに芽生えている良き利他主義を薄め、機械と自分だけがいればいいという利己主義や個人主義をはびこらせることになると見なしていたのだった。
 第3に、ガンディーは安直な産業化は、一国を外国市場に従属させ、ひいてはその国を経済的帝国主義へと乗り出させることになるという見方を固持していた。ここ20年間ほどのIMFやワシントン・コンセンサスによる新興国の失敗例を見るたび、ぼくにもこのガンディーの予想が胸をよぎることがある。
 しかし、こうした“ガンディーの経済学”はほとんど理解されなかったわけである。それにおかしなことに、ガンディーは「シンガーミシンだけは有益だね」とも言ったたため、ガンディーの経済思想はまことに勝手なご都合主義だとも思われたのだった。
 ただ、これについては本書を読んでぼくはかえってギョとさせられた。ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。うーん、すばらしい。

 ロナルド・ドゥウォーキンが『権利論』のなかで、最近のアメリカでは権利の議論が政治を支配していると書いたことは、よく知られている。
 ドゥウォーキンは政治には目標ベース、権利ベース、義務ベースの3つのドメインがあるのだが、アメリカでは目標ベースは功利主義によって、義務ベースはカントの定言命法によって、権利ベースはトマス・ペインの革新論によってつくられていると見抜いたうえで、最近はイノベーションがあるたびに権利ベースをめぐる議論をまきちらして経済をまわすようになったアメリカ政治を皮肉った。
 しかしこの“でん”でいくと、ガンディーはどんなイノベーションによってもインドを動かそうとはしなかったので、権利ベースを欠いた政策者だったということになる。このことは権利と義務と自由をめぐる政治論のなかで、これまでガンディーを過小評価する根拠につかわれていた。ダースグプタはここにも分析を入れて、実際のガンディーは「権利は義務から派生する」と確信していたことをあきらかにした。
 これについてもおもしろいエピソードがある。よくよく知られているようにガンディーはいつも半裸で仕事をしていたが、これに関心をもったジャイナ教徒の空衣派たちが、われわれも裸でいる権利があると言ったところ、ガンディーはにっこり笑って「そのためには裸でいることによる義務を作らなければならず、その義務をはたさなければならない」と言ったというのだ。『自由への制限』で表明された言い分だった。
 ガンディーにとって重要なのは自由の要求ではなく、不平等との闘いだったのである。人種差別、女性蔑視、経済エリートによる大衆搾取、家父長制の強調、宗教の特殊視などは、ガンディーがつねに闘いつづけた問題だった。なかでもガンディーはカースト制度の最下層をどうするかという問題を苦慮した。
 伝統的なヒンドゥー社会では、ヴァルナ(カースト集団)による4重の階層区分が貫かれている。バラモン(聖職者)、クシャトリヤ(戦士)、ヴァイシャ(農業者・商業者)、シュードラ(肉体労働を通して他のカーストに仕える者たち)、である。しかし実際のインド社会はその下にアヴァルナ(非カースト)もしくはパンチャマ(5番目のヴァルナ)と呼ばれる不可触民をもっていた。ガンディーはインドにおける不平等のいっさいの根拠がこの不可触民制度にあると見て、ここから「受けるに値する不平等」と「受けるに値しない不平等」を切り出していったのだ。
 「受けるに値する不平等」とは義務をはたさず、勝手に怠けているような連中が受ける不平等のことである。これに対して「受けるに値しない不平等」は不可触民のように、社会の根本がもたらしている矛盾に起因する。
 このように考えていたガンディーからすれば、失業保険金を給付するなどという政策は、多くの労働者の義務の発生を奪うものであり、それゆえかれらの権利を発生させないものだったのである。

 さて、こうしたあまりにも独創的なガンディーの経済思想や政治思想を、最もわかりやすく今日の問題に橋渡しするであろうものが、ダースグプタによると「受託者制度」をめぐる理論というものだ。
 これは、「人々が合法的に富む者から期待できるのは、かれらの富を信託のもとにおき、これを私的利益のためだけではなく社会の奉仕に使用するというしくみであろう」という発想から生まれたものだった。ここに受託者というのは、「自らの信託の義務を誠実に履行し、その被後見人の最大の利益のためにこれをおこなう者」というふうに定義される。
 ごく簡潔にいってしまえば、ガンディーは「富む者と貧しい者とのあいだのパートナーシップ」を、「新たな信託のしくみ」として活用しようとしたのだった。これが受託者制度だった。
 そこには失業保険制度やその給付の平等に政策が集中しすぎるという疲弊はない。問題は失業するということではなく、誰もが職に就いているという社会を、(欧米から見て)どんなにレベルを下げても実現することこそが重要課題だったのである。
 ガンディーがこうした制度やしくみに強い関心をもったのは、「富」の分配についての欧米主義からの脱出を試みようとしていたからだった。いささか民族主義的ではあるけれど、たいへんに共感できる。それとともに、そこにはインドにおける教育問題を同時に解決したいという意図もはたらいていた。最後に、そのことにも触れておく。一番、ガンディーがかっこいいところだ。

 教育という英語は、語源的には「引き出す」(drawing out)という意味をもっている。インド語のひとつグジャラティ語の「ケラヴァーニ」もまったく同じ意味をもつらしい。
 ガンディーはこの話を引きながら、自分にとっての教育は「開くこと」であり、「そこに引きずり出すこと」であると言った。そのためには、「知性」と「身体」と「精神」とが同時に絡み合って引きずり出されるような教育が必要だと考えた。これはガンディーが生涯にわたって帰依したヒンドゥ教の教えとも合致していた。
 しかし、ガンディーは初等教育は必ずや国民教育であるべきで、それも厳しくなければならないとも考えた。インドの国民に英語による教育をしすぎることに問題があるともみなしていた。すでにイギリスの植民地政策によって、インドの教育設備ではほとんど英語が流通していたのだが、これがインド本来の「知性・身体・精神」を歪ませるのではないか。ガンディーはさかんにこのことを危惧した。
 たとえば、初等教育のシラバスが英語で書かれていることに、そもそもの問題があると見て、これらに多大な資金を提供するのは支出のムダであるとも指摘した。
 こうしてガンディーの「ナイー・タリム」(新しい教育)が構想されていったのだ。学校児童に向けてのプログラムだった。
 その原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだとしたところだ。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。
 なんという卓見か。その通りだ。ダスグプタは、このガンディーの教育には「方法論的個人主義」が開花していると評した。
 ちなみにぼくは、この「ナイー・タリム」と、そして今夜はそのことには触れないが、シュタイナー教育法にもヒントを得て、まずは大人用の学習方法をネット上で展開するべく、イシス編集学校の「守・破・離」のコースウェアをつくってきた。とりわけ「離」におけるカリキュラムには“大人のための手仕事”を工夫したものだった。ここではまさに「離」のシラバスそのものが編集技能獲得的なのである。
 ただし、ガンディーやジョン・デューイやマリア・モンテッソリとはちょっと違って、ぼくの方法では読書にも多くの可能性が秘められているというところが強調されている。(そういうぼくにも、そろそろ子供のカリキュラムにとりくむ時が近づいているようだ)。

 ざっと、以上が本書でぼくが感応したところのサマリーだ。本書には、そのほか、ガンディーの先人たちやその後の思想者たちのことも採り上げられていて、とくにブッダ、トルストイ、ラスキン(1045夜)、スワミー・ヴィヴェーカーナン、アマルティア・セン(1344夜)が重視されている。
 革命的な大乗仏教改革者のアンベードカルとの熾烈な論争も少しだけ言及されていて、ぼくにはこの点だけは本書があまりに浅薄だと思ったのだが、それについてはいつかアンベードカルを千夜千冊したうえで、議論してみたい。
 世の中、師走になりました。日本、ますますつまらない。
 ぼくは今日は九段会館の「剣道文化講演会」で90分の話を、赤穂浪士の「公と私」をめぐる議論や山鹿素行の日本論や大道寺友山の武道論や盤珪禅師の不生禅などで語ってみたのだが、そのなかで白鵬に「相撲がなくなれば日本はなくなる」と言われたことに日本人が感応していないのがあまりにも変だという話をまぜておいた。いま、そこにガンディーの話もまぜるべきだったと思っている。

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「剣道文化講演会」(九段会館)で講演中の松岡。
九段高校時代の剣道体験、禅との出会いからはじまり、
武道史の概略を語った。

 

 

リオリエント

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 いま、ぼくは「世界の見方をコンテント・インデックスするための作業」の一応の仕上げにかかっている。30年来の懸案の仕事で、マザープログラムとしての「目次録」というものだが(詳しいことはそのうち公表する)、これをイシス編集学校の「離」の演習を修了した者たちがつくる「纏組」(まといぐみ)のメンバーとともに取り組んでいる。
 来年の半ばには公開しようと思っているので、この年末年始にはちょっとピッチを上げたい。なかで二人の若い仲間にエディトリアル・リーダーシップを期待している。一人は香港に、一人はチェンマイにいて、それぞれ投資会社や化粧品会社を経営している。こんな会話をしていると仮想してもらうといい。チェンマイ嬢の「花」(おなじみだね)は最近トルコに原料の仕入れに行ってきた。

松 イスタンブールはどうだった?

花 トルコはやっぱり東と西の両方をもってますよね。それがオリーブの木の在り方にもあらわれてます。

松 香港も「東の中の西」だよね。

川 すでにマネーはあまりにもグローバルになりすぎてるんですが、経営者たちはやはり中国的で、会社の将来に対するアカウンタビリティはやっぱりどこか東方的です。

花 タイのさまざまな会社は、その手工業的な生産のしくみにはまだまだアジア性があるんですが、いったんグローバルマネーの洗礼を受けると、がらりと変わります。それは日本企業の近寄り方にもあらわれている。

川 校長のNARASIAのほうはどうですか。

松 ちょうど近代以降の東アジアの人物ばかりを取り上げる「人名事典」の執筆編集にかかっているんだけど、いままで誰もそんなことをしてこなかったようだね。どうも「欧米の知」に埋没しすぎた時期が長すぎた。掘り起こすのがたいへんだ。


 まあ、こんな感じの会話をちょくちょく楽しんでいるのだが、この二人のためにも、今夜はアンドレ・フランクの『リオリエント』を紹介することにした。すでに『NARASIA2』でちょっとお目見えした本だ。榊原英資さんが紹介した。ざっとは、以下のようなものになっている。

 ヨーロッパ人は自分たちの位置が世界の圧倒的優位にあることを示すため、かなり“せこい”をことをしてきた。わかりやすい例をいえば、メルカトール図法を波及させてヨーロッパを大陸扱いし、イギリスをインドほどの大きさにして、そのぶんインドを「亜大陸」と呼び、途方もなく大きな中国をただの「国」(country)にした。
 そもそもアジアを含む「ユーラシア」という言い方があまりにヨーロッパに寄りすぎていた。せめてアーノルド・トインビー(705夜)や世界史学会の元会長だったロス・ダンがかつてかりそめに提案した「アフラジア」(Afrasia)くらいには謙虚になるべきだが、そんなアイディアはすぐに吹っ飛び、そのユーラシアの中核を占めるヴェネツィアやアムステルダムやロンドンが発信したシステムだけを、ウォーラーステイン(1364夜)が名付けたように「世界システム」とみなしたのだ。
 ヨーロッパの歴史が世界の歴史であり、ヨーロッパの見方が世界の価値観なのである。さすがにこうした片寄った見方が、何らかの度しがたい社会的な過誤を生じさせてきたであろうことは、一部の先駆的な知識人からしてみれば理の当然だった。たとえばエドワード・サイード(902夜)は『オリエンタリズム』で、サミール・アミンは『ヨーロッパ中心主義』で、西洋社会(the West)が自分たち以外の「残り」(the Rest)を“オリエンタルな縮こまり”とみなして、多分に偏見と蔑視を増幅してきたことを暴いた。
 またたとえば、マーティン・バーナルは『黒いアテネ』で、ヨーロッパが古代ギリシアに民主的なルーツをもっているとみなしたのは19世紀ヨーロッパが意図的にでっちあげた史的神話であり、そこには根強いヨーロッパ中心史観が横行していったことを暴露した。

 ヨーロッパ中心史観は“せこい”だけではなく、アジアについての歴史認識が決定的にまちがっていた。そのことをいちはやく証した者たちも、告発した者たちもいる。
 早くにはヨゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』という10巻近い大シリーズがあった。ぼくは70年代に夢中になった。本人とも会った。中国の科学技術を絶賛していた。
 ドナルド・ラックとエドウィン・ヴァン・クレイは『ヨーロッパを準備したアジア』というこれまた8巻をこえる大著を刊行し、16世紀のヨーロッパ人が「中国と日本こそ未来の偉大な希望である」と見ていたことを実証した。この時期までは、ヨーロッパの宣教師・商人・船長・医師・兵士は中国と日本を訪れた際の驚きをヨーロッパの主要言語でさかんに著述喧伝していたのだ。ライプニッツ(994夜)でさえルイ14世に、「フランスがライン川の対岸に関心をお持ちのようならば、むしろ南東に矛先を変えてオスマンに戦いを挑んだほうがよろしかろう」と手紙を書いているほどだ。
 ジャネット・アブルゴッドの『ヨーロッパのヘゲモニー以前』という本もある。この本では、13世紀にすでにアフロ・ユーラシア経済というシステムが機能していて、そこに、①ヨーロッパのサブシステム(シャンパーニュの太市、フランドル工業地帯、ジェノヴァ・ヴェネチアなどの海洋都市国家)、②中東中心部とモンゴリアン・アジアを横断する東西交易システム、③インド・東南アジア・東アジア型のサブシステムという、3つのサブシステムが共有されていると主張した。
 イスラムの研究者であるマーシャル・ホジソンは近代以降のヨーロッパの世界経済研究者の視野狭窄を「トンネル史観」だと批判した。ヨーロッパ内部の因果関係だけを見てトンネル的な視界でものを言っているというのだ。
 たしかにヨーロッパにはアダム・スミスの『国富論』は下敷きになってはいても、イブン・ハルドゥーンの『諸国民の富』はまったく目に入っていない。実はアダム・スミスが「中国はヨーロッパのどの部分よりも豊かである」と書いていたにもかかわらず――。

 どう見ても、世界経済は長期にわたってアジア・オリエントに基盤をおいていたのである。ジェノヴァもヴェネチアもオランダもポルトガルも、その経済成長の基盤はアジアにあった。コロンブスが行きたかったところも“黄金のアジア“だったのである。
 これらのことをまちがえて伝え、あるいは隠し、その代わりにその空欄にヨーロッパ中心史観をせっせと充当していったことは、近代以降の世界経済社会から得た欧米主義の大成果の巨大さからして、あまりにもその過誤は大きい。捏造された歴史観だけではない。経済学やその法則化もこの史観の上にアグラをかいただけだったのだ。その責めはマルサスやリカードやミルにも、また残念ながらマルクス(789夜)にも、またマックス・ウェーバーにもあったと言うべきである。
 ようするにヨーロッパは、ウェーバーにこそ象徴的であるが、アジアの経済社会が長らく「東洋的専制」「アジア的生産様式」「貢納的小資本主義」「鎖国的交易主義」などに陥っていると強弁しつづけることで主役の座から追いやり、ヨーロッパ自身の経済成長をまんまとなしとげたのだった。
 こうした強弁にもかかわらず(いや、故意に過誤を犯してきたからだったともいうべきだが)、ヨーロッパは19世紀になると、それまで周辺世界を公平に学習をしてこなかったことはいっさい棚上げをして、その後の100年足らずで一挙にアジアを凌駕してみせたわけだ。実質的にも、理論的にも、その後のグランドシナリオにもとづくグローバリゼーションにおいても――。
 そこでアンドレ・フランクがこれらの総点検をもって、本来のアジア・オリエントの優位は今後の21世紀における“リオリンエント現象”の復権につながるのではないかという仮説を、本書で提出することになったわけである。
 一言でその狙いをいえば、本書ではブローデル(1363夜)のヨーロッパ中心の経済パラダイム論やウォーラステイン型の近代世界システム論ではなくて、新たな「リージョナルエコノミー・システム」(地域間経済システム)が右に左に、東西に、南北に動くことになる。銀や綿花や胡椒や陶磁器が「横につながる経済力」をもって主語になっていく。

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1400〜1800年の主要な環地球交易ルート

川 どうして「アジアの経済学」が生まれなかったんですかね。

松 欧米で?

川 アジア人の手によって。

松 そもそも儒学の「経世済民」は東洋の経済思想だと思うけどね。でもそれが近代化のときに孫文をはじめ、みんな社会主義のほうに行った。日本にも三浦梅園(993夜)にも二宮尊徳にも権藤成卿(93夜)にも経済学はあったんだが、やっぱり近代日本人がそのことに気がつかなかったんだね。20世紀にその必要があったときは、もうすっかり欧米エコノミーに蹂躙されていたしね。

花 そうなると、前夜の千夜千冊の『ガンディーの経済学』こそ、ますますかっこいいですね。

川 あれは「第三の経済学」というより、まさしく近代における経済社会の原点ですね。

松 ポランニーが実践できなかったことだよね。

花 それをカッダル(チャルカー)に人々の選好を集中させるという象徴的選択であらわしているのが、とてもかっこいい。セクシーです。

川 『ガンディーの経済学』に書いてあった「サッティヤグラハ」がそうですが、ガンディーって概念を編集的に創造してますよね。それが経済政策の「より少ない資本、それも外国資本に頼らない資本」という実践方針と合致していくのは、感心しました。

松 そう、かなり編集的な政治家だね。

川 「ナイー・タリム」(新しい教育)もいいですねえ。

花 子供に教えるためのシラバスは手仕事的な仕掛けで説明されているシラバスであるべきだというのは、涙ぐみます。

川 あれって「離」のカリキュラムですね。「離」は子供ではなくて大人用だけど、“大人のための手仕事”でシラバスができてますよね。「目次録」も新しいシラバスになるでしょうね。

松 うん、そうなると嬉しいね。


 本書は600ページの大著で、15世紀から近代直前までのアジアの経済力を克明に詳述したものであるが、その記述は研究者たちの成果と議論をことこまかに示しながら展開されているために、一般読者にはきわめて読みにくい。けれどもそのぶん、経済史家やアジアを視野に入れたいエコノミストには目から鱗が何度も落ちるだろうから、ぼくのような素人にはアジア経済史研究の跛行的な比較の核心がことごとく見えてくるというありがたい特典がある。
 が、そういうことはべつにすると、本書が提示した内容はきわめてシンプルなのである。
 第1点、なぜ中世近世のアジア経済は未曾有の活性力に富んでいたのか。第2点、なぜそのアジア経済が19世紀に退嬰し、ヨーロッパ経済が世界を席巻できたのか。第3点、以上の背景と理由を経済史や経済学が見過ごしてきたのかはなぜか。たったこれだけだ。
 第2点については、かつてカール・ポランニー(151夜)がいみじくも「大転換」と名付けた現象で、その理由については一般の経済史では産業技術革命の成功とヨーロッパ諸国によるオスマントルコ叩きの成功とが主たる理由にあげられてきた。それがアジアに及んで、1840年のアヘン戦争がすでにして“とどめ”になったと説明されてきた。
 いっとき話題になったダグラス・ノースとロバート・トマスの『西洋の勃興:新しい経済史学』では、ヨーロッバにおける経済組織の充実と発展が要因だとされた。株式会社の発展だ。ウィリアム・マクニールの『西洋の勃興:人間共同体の歴史』では、大転換はそれ以前の長きにわたるアフロ・ユーラシアの経済動向に関係しているという説明になった。一方、ポランニーは19世紀のヨーロッパが土地や労働を売買することにしたからだという“犯罪”の告発に徹した。

 フランクはこれらの説明のいずれにも不満をもったのである。それが第3点の問題にかかわっていた。
 フランクの不満を一言でいえば、多くの経済史家が「ヨーロッパ世界経済」と「それ以外の外部経済」という区分にこだわりすぎていたことにあった。その頂点にブローデルとウォーラーステインがいたのだが、フランクは当初はこの二人に依拠し、あまつさえウォーラーステインとは共同研究すらしていたのだが、ある時期からこのようなパースペクティブをいったん捨ててもっとホリスティックな世界経済史観の確立をめざさなければならないと決断したようなのだ。
 そこでフランクは、第1点の問題を新たな4つのスコープで書きなおすべきだと考えた。「リージョナリズム」(地域主義)、「交易ディアスポーラ」、「文書記録」、「エコロジー」(経済の生態系)だ。これによって本書の前半部はまことに雄弁な書きなおしになった。そこには第3点の「見過ごし」の理由もいちいち示されている。
 しかしあらかじめ言っておくと、ぼくが本書を読んだかぎりでは、第2点の「東洋の没落」と「西洋の勃興」の交代がおこった理由は十分に説明されていなかった。19世紀におけるアジアの後退の構造的要因をアジア自身には求めていなかった。アジアは叩きのめされたとしか説明されていないのだ。
 とはいえ、本書によって世界史上の訂正すべき問題の大半が1400年から1800年のあいだにおこったことにあることは如実になった。ふりかえっていえば、1935年にアンリ・ピレンヌが「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」と直観的に指摘したことは、本書によって浩瀚なアフラジアで、アフロユーラシアな、そしてちょっぴりNARASIAな400年史となったのである。

川 フランクは「東洋の没落」と「西洋の勃興」の交代の理由をあきらかにしなかったんですか。

松 いろいろ書いているし、引用もしているんだけど、抉(えぐ)るようなもの、説得力のある説明はなかったね。

花 学者さんの学説型の組み立てだからじゃないですか。

松 そうだね。ただし、この手のものがあまりにもなかったので、従来のアジア経済史を読むよりよっぽどダイナミックなものにはなってます。ただし、読みづらい。いろいろこちらでつなげる必要がある。

花 それでもリオリント現象というテーゼは高らかなんですか。

松 決して情熱的でも、精神的でもないけれど、確実にリオリエンテーションを実証しようとしているね。

 

 15世紀からの世界経済の鍵を握っていたのは、「銀の流通」と「リージョナル交易」と「細菌のコロンブス的交流」である。その一部の流れについてはジャレド・ダイヤモンド(1361夜)も触れていた。そこにはたえず「リオリエント」(方向を変える)ということがおこっていた。
 以下、「千夜千冊」の読者のために、興味深い流れだけをごくごく簡潔に地域ごとに紹介することにする。

 まず【インドとインド洋】だが、ここでは時計回りにアデン、モカ、ホムルズ、カンパヤ、グジャラート、ゴア、ヴィジャナガル、カリカット、コロンボ、マドラス、マスリパタム、マラッカ、アチェなどが交易港湾都市として次々にネックレスのように連なり、これに応じて17世紀のムガール帝国のアグラ、デリー、ラホールがそれぞれ50万人内陸都市として繁栄した。
 低コストの綿織物・胡椒・豆類・植物油などが、ヨーロッパに対しても西アジアに対しても西回りの貿易黒字を計上しつづけ、その一部が東回りで東南アジアに向かっていたのだ。
 これによってインドは莫大な銀とある程度の金を受け取り、銀は貨幣に鋳造されるか中国などに再輸出され、金はパゴダ貨や金細工になっていった(インドはほとんど銀を算出しない)。
 なかでインド西岸は紅海・ペルシア湾交易の中継地となったグジャラートとポルトガルの交易集散地となったゴアを拠点に、インド東岸はベンガル湾に面したコロマンデル地域を中心に、東南アジアと中国とのあいだで綿布を輸出し、香料・陶磁器・金・錫・銅・木材を輸入していた。コロマンデルはオランダ人による世界経営の出張拠点にもなっていく。
 次には【東南アジア】だが、この豊かな生産力をもつ地域ではインド洋側のクラ地峡よりも、東側の東シナ海に面した「扶南」(中国からそう呼ばれた)地域に流通センター化がおこったことが重要である。胡椒はスマトラ・マラヤ・ジャワに、香料はモルッカ諸島・バンダ諸島にしか採れなかったからだ。
 歴史的には、ベトナムの越国と占城(チャンパ)、カンボジアのクメール人によるアンコール朝、ビルマのペグー朝、タイ(シャム)のアユタヤ朝、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国とマジャパピト王国などが、西のインドと東の中国の中継力を発揮して、インドの繊維業から日本と南米の銀の扱いまでを頻繁に交差させていった。
 とくに東南アジアが世界経済に寄与したのは、やはり中国市場との交易力によるもので、たとえばビルマと中国では中国から絹・塩・鉄・武具・化粧品・衣服・茶・銅銭が入り、琥珀・紅玉・ヒスイ・魚類・ツバメの巣・フカヒレ・ココヤシ油が出ていったし、ベトナムは木材・竹・硫黄・薬品・染料・鉛を中国に向かわせ、タイは米・綿花・砂糖・錫・木材・胡椒・カルダモン・象牙・蘇芳・安息香・鹿皮・虎皮などを中国に向け、アユタヤ経済文化の独特の栄華を誇った。
 こうしたなかで【日本】が1560年以降に豊富な銀の産出量によってはたした役割が見逃せない。近世日本は交易力においてはまったく“鎖国”などしていなかったのだ。鎖国徳川幕府まもなくの30年間だけで、日本の輸出力はGNPの10パーセントに達していたのだし、その30年間でざっと350隻の船が東南アジアに向かったのだ。

 【中国】についてはキリがないくらいの説明が必要だが、思いきって縮めて言うと、まずは11世紀から12世紀にかけての宋代の中国が当時すでに世界で最も進んだ経済大国だった。そこにモンゴルが入ってきて元朝をおこしたが、それがかえって江南に逃れた士大夫・商業階級を充実させ、むしろ明代の全土的な隆盛のスプリングボードとなった。
 中国経済は生産力は高く、交易はさすがに広い。スペイン領アメリカと日本からの銀によって経済活動が煽られたこと、米の二期作とトウモロコシ・馬鈴薯の導入によって耕地面積の拡大と収穫量の増大がおこったこと、少なく見積ってもこの二つに人口増加が相俟って、明代の中国は世界経済における“銀の排水口”(シルバー・シンク)として大いに機能した。「近世の中国が“銀貨圏”にならなかったら、ヨーロッパの価格革命もおこらなかっただろう」と言われるゆえんだ。ハンス・ブロイアーに「コロンブスは中国人だった」と言わしめたような、途方もない世界経済情勢のモデルがそこにはあったのである。
 もともと中国は絹・陶磁器・水銀・茶などでは世界の競争者を大きく引き離してきたのだが、“銀貨圏”になってからはさらに亜鉛・銅・ニッケルなどの採掘・合金化にも長じて、他方では森林破壊や土壌侵食すら進んだほどだった。このことは、のちの欧米資本主義諸国家の長所と短所があらわしたものとほとんど変わらない。浜下武志や池田哲の研究にも有名なことだ。
 こうした中国にくらべると、イスラムの宗教的経済文化を背景としたモンゴル帝国やティムール帝国の威力があれほど強大だったのに、1400年~1800年の【中央アジア】の歴史状況はほとんど知られてこなかった。『ケンブリッジ・イスラムの歴史』などまったくふれていない。これはおかしい。シルクロードやステップロードの例を挙げるまでもなく、中央アジアは世界史の周縁などではなかったのだ。
 それどころか、オスマントルコ、サファビー朝ペルシア、インドのムガール帝国は、すべてモンゴル帝国やティムール帝国の勢力が及ぶことによってイスラム帝国を築いたのであって、これらはすべて一連の世界イスム経済システムのリージョナル・モデルの流れだったのである。
 中国とて、そうした地域から馬・ラクダ・羊・毛皮・刀剣をはじめ、隊商が送りこんでくる数々の輸入品目に目がなかった。そのような中央アジアが衰退するのは、明朝が滅び、ロシアが南下を初めてからのことである。
 その【ロシア】だが、ここは【バルト諸国】や【シベリア地域】と一蓮托生の経済圏を誇ってきた。ロシア経済圏が拡張するのは17世紀にとくにシベリアを視野に入れるようになってからで、シベリア産の毛皮がロシア・ヨーロッパの毛皮を上回り、貨幣がヨーロッパから東に流れることになってからである。ピョートル大帝時代はモスクワ周辺だけで200位上の工業組織ができあがっていた。うち69が冶金、46は繊維と皮革、17は火薬関連だったらしい。
 そのほか、世界経済からは最も遠いと思われてきた【アフリカ】においても、“アフラジアの経済力”との連携が結ばれていた。たとえばタカラガイ(宝貝)だ。柳田国男(1144夜)も注目したタカラガイの、もともとの主産地はモルディブ諸島で、それが南アジアでタカラガイ貨幣として使われるようになり、ヨーロッパ人(ポルトガル、オランダ、ついでイギリス)はそれを逆にアフリカに持ち込んで黒人奴隷を安く買いまくったのである。


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アジア地域 1400〜1800年の主要交易ルート

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交易ルートごとの品目

 さて、以上のちょっとしたスケッチでもわかることは、われわれはこれまで金や金貨や金本位制ばかりによって「世界経済史の流れを教えこまれてきた」ということだろう。
 とんでもない。それはまったくまちがっていた。15世紀からの中国・インド・日本のアジア、南北アメリカ、アフリカを動かしていたのは何といっても「銀」であり、何といっても「銀本位」だったのである。そこに大量の生産物と物産と商品と、金・銅・錫・タカラガイなどが交じっていったのだ。  

 

花 金色銀色、桃色吐息(笑)。アジアは銀なり、ですか。

松 そうだね。インドも明朝もオスマン朝も銀決済です。

川 銀はポトシ銀山や日本の石見ですよね。金のほうはどうなってたんですか。

松 主な産出地域はアフリカ、中米・南米、東南アジアだね。そのうちの中米・南米というのはスペイン領だから、銀は西から東へ動き、金は東から西へ動いた。ちなみにインドでは金が南下して、銀が北上するんだね。

花 徳川時代でも東国が銀の決済で、西国が金の決済ですよね。

川 一物一価じゃなくて、二物多価だった。

松 そうそう、そこに「貨幣の流通の問題」と「価値と価格の問題」とがあるわけだ。

 

 本書は第3章と第4章を銀本位経済社会のリージョナルなインタラクションに当てて、近世のグローバル・エコノミーがいかに“アフラジアな地域間交易”によって律せられていたかを縷々説明している。
 しかしながら、そのオリエントの栄光は19世紀になると次々に衰退し、没落していった。最初の兆候は1757年のブラッシーの戦いでインドがイギリスに敗退したことだった。それによってイギリス東インド会社の「ベンガルの略奪」の引き金が引かれ、織物産業が破壊され、インドからの資本の流出が始まった。
 オスマン帝国は経済成長のピークが18世紀以前に止まり、その類いまれな政治力も19世紀のナポレオンのエジプト遠征あたりをピークに落ちていった。そこへ北アメリカからの安価な綿が入ってきてアナトリアの綿を駆逐し、カリブ産の安価なコーヒーがカイロ経由のアラビアコーヒーをを支配した。東京の珈琲屋がスターバックスに次々に駆逐されていったようなものだ。
 中国では銀の輸入が落ちた1720年代に清朝の経済力の低下が始まっていたが、1774年の白蓮教徒の乱をきっかけに回復不能な症状がいろいろな面にあらわれた。それらに鉄槌を加えて息の根を止めようとしたのが、1840年のイギリスによるアヘン戦争である。この時期になるとアメリカの拡張が本格的になってもいて、奴隷プランテーションによる資本力の蓄積もものを言いはじめた。その余波が日本に及ぶと、お待ちかね、ペリーによる黒船来航になる。そんなこと、とっくに決まっていたことなのだ。
 つまりは全アジア的危機をいかにしてさらにつくりだしていくかということが、欧米列強の資本主義的な戦略になったのだ。
 というわけで、アフラジアな経済圏はリージョナルな力をことごとく分断されて、欧米列強の軍門に下ることになったのである。軍門に下っただけではない。アフラジアな各地は新たな欧米資本主義のロジックとイノベーションによって“別種の繁栄”を督促されていった。これはガンディーのようにシンガーミシン以外の工場型機械を拒否するというならともかくも、それ以外の方法ではとうてい抵抗できなかったものだった。

 こうして、人類の経済史は1800年以前と以降とをまったく違うシナリオにして突き進むことになったわけである。
 その突進のシナリオは、ぼくがこの数カ月にわたって千夜千冊してきたことに呼応する。すなわち、ナヤン・チャンダの『人類5万年のドラマ』(1360夜)とジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』(1361夜)以来紹介しつづけてきたこと、つまりはグレゴリー・クラークの『10万年の世界経済史』(1362夜)をへて、いったんブローデルの『物質文明・経済・資本主義』(1363夜)とウォーラーステインの『史的システムとしての資本主義』(1364夜)を通して案内し、それをジョヴァンニ・アリギの『長い20世紀』(1365夜)と渡辺亮の『アングロサクソン・モデルの本質』(1366夜)でブーツストラッピングしたものに合致する。
 けれど残念なことに、グレゴリー・クラークが従来の世界経済史を見てきた歴史観は「マルサスの罠にはまっていた」と指摘したような問題は、あくまで1800年以降のヨーロッパの経済システムから見た反省にすぎなかったのである。
 フランクは、本書に登場するおびただしい研究者とともに、そうした「1800年以降の見方」をいっさい使わずに、新たなアジア型の近世グローバル・エコノミーの記述の仕方に挑んだのだった。

 

川 「リオリエント」って「東に向いて方向を変える」ということですね。とてもいい言葉だけれど、今後は広まっていきますか。

松 そうあってほしいけれど、東アジアの経済の将来はいまや政治情勢とずぶずぶの関係になってきているから、それを新たに「リオリエント」とか「リオリエンテーション」として網を打つのはなかなか難しいだろうね。

川 普天間も尖閣もノーベル平和賞も、ちっともリオリエントじゃありません。

松 だいたい日米同盟や韓米同盟がリオリエントするときは軍事的プレゼンスか経済摩擦だからね。

花 みんなちょっとずつアジアを重視してくれているけれど、しょせんはグローバリズムのロジックですよね。

川 経済だけの歴史観には限界があるんじゃないんですか。

松 その通り。

花 物語が不足しすぎています。

川 東の哲学ってほとんど世界に向かっていませんからね。いまの中国も政治と経済のプレステージだけで押している。

花 この本が言っている“リージョナル”なものが失われているんでしょうね。

松 大文字の経済はそろそろいらないということだね。とくにGod・Gold・Gloryの3Gはいらない。

花 でも、イスラムはどうでしょう。大文字なのに独特でしょう。

松 おっ、いいところを突くね。これで決まったね。次夜の「千夜千冊」はイスラム経済学でいこうかな(笑)。

川 ところでクリスマスの松丸本舗はとても賑わっているそうですね。香港にも噂が届きました。

花 「くすくす贈りマス」? 本とグッズが一緒になったプレゼント・ブックでしょ。羨ましいな、行きたいな。

松 どうぞみんなに薦めてください。明日は美輪明宏さんが来店して、美輪ブックギフト・バッグが飛ぶでしょう。ぼくの「天界物語」と「時の歌」という桐箱シリーズもご贔屓に。

 

 

松丸本舗のブックギフト・プロジェクト

クリスマス企画


「くすくす贈りマスBOOKS」
12月13日〜12月25日まで

→ 詳細は松丸本舗ホームページで



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セイゴオ・セレクトは2種。
「天界物語」と「時の歌」。

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ゲストのブックギフトも充実。
(写真は美輪明宏さん、佐藤優さん、山本耀司さん)

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“本”と“モノ”を組み合わせたエディットセレクト。
何が入っているかは、開けてのお楽しみ・・

 


【参考情報】

 (1)アンドレ・グンダー・フランクは1929年のベルリン生まれ。アムステルダム大学で長らくラテンアメリカの経済社会の研究をしていたが、その後はウォーラーステインと交わり、90年代に「500年周期の世界システム論」を発表すると、やがてそのウォーラーステインとも袂を分かってアジア・アフリカ・南北アメリカをつなげる「リオリエント経済史」とでもいうべき研究に没頭した。マイアミ大学、フロリダ大学などの客員教授も務めた。バリー・ギルズとの共同研究が有名。

 (2)翻訳者の山下範久は気鋭の歴史社会学者で、世界システムにもとづく社会経済論の研究者。いま39歳。東大と東大大学院ののち、ニューヨーク州立大学の社会学部大学院でウォーラーステインに師事した。その後は北大をへて立命館大学へ。何冊かのウォーラーステイン著作本の翻訳のほか、『世界システム論で読む日本』『帝国論』(講談社選書メチエ)、『現代帝国論』(NHKブックス)、『ワインで考えるグローバリゼーション』(NTT出版)などの自著がある。実は日本ソムリエ協会認定のワインエキスパートでもあるらしい。
 ところでぼくは、東大の博士課程にいた山下さんが『リオリエント』を翻訳したときに、手紙付きで贈本を受けた。手紙には「私淑する松岡先生に、是非、御批判を乞いたいとの思いやみがたく感じて、突然に失礼とは存じながら一部献呈させていただきました」とあり、たいへん恐縮したものの、その後本書を紹介する機会がないままになってしまったこと、申し訳なかった。証文の出し遅れのように、今夜、その約束の一端をはたしたわけだ。
 山下さん自身のほうはそれからの活躍がめざましい。たとえば最初の単著となった『世界システム論で読む日本』は、ウォーラーステインが確立した開発主義的な近代化論とそれへの批判をふくむ従属理論とを総合した見方をいったん離れて、そこにポランニーやブローデルの視野を残響させるような方法で新たな世界システム論をめざそうというもの、それを山下さんは「近世」の解明に、さらに日本の近代化の世界史的な位置付けの解明にあてた。ずうっと前に山本七平が提示した仮説にもとずく桂島宣弘の『思想史の十九世紀』(ぺりかん社)に依拠しすぎているのが気になったけれど、その構想はなかなか意欲的だった。
 そのあとの『現代帝国論』や共著の『帝国論』(講談社選書メチエ)はこちらこそいつか千夜千冊したいというもの、「ポランニー的不安」(人間・自然・性の定義のゆらぎや流動化)と名付けた問題を巧みに浮上させている。今後は是非とも、たとえばエマニュエル・トッド(1355夜)とユセフ・クルバージュがイスラムと西洋の橋と溝とを描いた『文明の接近』(藤原書店)に代わるような、「東洋・西洋の橋と溝」や「世界史と日本の経済システム比較」といったものを、独自に展開してもらいたい。

 (3)謎めく「目次録」については、まだ詳しい話はできないが、これはぼくが来年にプロトタイプをまとめる仕事としては最も重要なものになる。冒頭に書いたように、「目次録」は「世界の見方のためのコンテント・インデックス」を立体化したマザープログラムのようなもので、そこから数百万冊の本の目次に自在に出入りできるようになるという“知の母”づくりなのだ。

 (4)松丸本舗がクリスマスと初春にそれぞれ特別企画した、クリスマス期間の「くすくす贈りマス」セールと正月7日間の「本の福袋」セールについては、どうぞ丸の内丸善4階を訪れてほしい。行ってみないとゼッタイにその「ときめき」はわからない。
 いとうせいこう、福原義春、ヨウジヤマモト、佐藤優、美輪明宏、市川亀治郎、杏、コシノジュンコ、鴻巣友季子、やくしまるえつこ、藤本晴美、松本健一、長谷川眞理子、今野裕一、森村泰昌、しりあがり寿、金子郁容さんたち、総勢20余名のゲスト陣と、ぼくとイシスチームとが、年末年始に分かれてずらりとお好み本とお好みグッズを意外なパッケージセットにして待っているというものだ。
 ジャン・ジュネあり、坂口安吾あり、男空(おとこぞら)文庫あり、アンデルセンあり、森ガール術あり、稲垣足穂あり、温泉セットあり、甘読スイートあり、藤原新也・アラーキー・横尾忠則セットあり、セカイまるごと仕掛け本あり。これ、松丸本舗店主からの宣伝でした(ぼくも、この歳になって、さらにいろいろ仕事が多くてフーフーしています)。

 

 

イスラム経済論

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 久々に土取利行さんと話した。30年来の付き合いですが、やっぱり深くてカッコいい。12月18・19日の2日間イベント、平城遷都1300年記念事業のラストを飾るグランドフォーラム「NARASIA 2010」(県立文化会館)に出演してもらうためで、土取さんにもずっと奈良に滞在してもらっていたからです。
 「NARASIA(ならじあ) 2010」は、まさに前夜の千夜千冊『リオリエント』がライブなテーマになったというもの。トークと音楽と映像と照明との重なりあいをリオリエントっぽく演出するべく、ぼくと藤本晴美さんと井上鑑さんと飯島高尚さんが中心になって1年をかけて準備してきた。
 その中身は、当事者のぼくですら説明しがたいほどのアクロバティックな構成で(笑)、たとえば万葉とファッション、能とムーダン、尺八とパーカッション、知識人と子供たち、ピアノと声明、政治家とダンス、漢字とボーカリゼーション、ヴァイオリンと漢方‥‥などといった異種配合が、奇蹟のように舞台と客席のあいだで互いに連鎖するという、まあまあそれはそれは贅沢で過激な組み合わせでした。全プログラムに日本とアジアの流れの接点をふんだんに浮上させてみたので、観客はそうとうに堪能できたろうと思います。
 土取さんにはそのプログラムの多くに参加してもらったのですが、とりわけキム・メジャさんとの「光」を象徴したパフォーマンスが天にも昇れるほどの圧巻でした。おそらく今日考えられるかぎりの、アジア最高のコラボレーションだったでしょう。韓国も日本もない。アジアの矜持が誇らしく突き抜けていた。これを見なかった人はジンセー10年の損だったでしょう(不参加の人、悔しいね)。ぼくも嗚咽を禁じえないほどに感銘した。
 その圧巻の舞台にいったん緞帳が降りると、続いてステージが声明と平城京レポートが組み合わさったセレモニーに変わり、さらには子供たちとアーティストたちが打ち揃って「ならじあ」(松岡正剛作詞・井上鑑作曲)の大合唱・大合奏となっていくという連打の構成演出したのですが、こうして舞台がラストフィナーレに向かっていくと、それまでキム・メジャさんの超越的シャーマニックな踊りと土取さんのアニミスティックなパーカッションの重畳果敢な舞台のときはまだしも堪(こら)えていたろう観客の感情も、ここでついに感極まって、ぐすぐす嗚咽したり、わんわん慟哭していたようでした。うんうん、これでいい、これでいいと、ぼくはとても嬉しかった。
 

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平城遷都1300年記念「グランドフォーラム NARASIA2010」 

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柿本人麻呂と夏目漱石の『夢十夜』をテーマにした能コラボレーション。
能楽師の安田登さん(写真左)、尺八演奏家の中村明一さん(写真右)。

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土取利行さんのパーカッション、金梅子さんの舞踊が、
太古のアジアを現出させる。

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フォーラムのハイライトは、『平城京レポート』の提案・手交式。
奈良から発信するコンセプトが、荒井正吾知事から鳩山由紀夫元総理に手渡された。 

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シンガーのおおたか静流さん、ヴァイオリン奏者の金子飛鳥さん(写真左)。
イベント全体の音楽を演出した作曲・編曲家の井上鑑さん(写真右)。

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フィナーレは、「NARASIAのテーマ」の大演奏。
各出演アーティストに加え、奈良密教青年会、まつぼっくり少年少女合唱団も共演。 

 

 ま、当日の舞台の話はともかくとして、ところでその日の「NARASIA 2010」が終わって出演アーティストと荒井奈良県知事らと打ち上げの歓談しているとき、土取さんがこんなことを言った。「これまで日本は宗教文化に音痴すぎたんだよね」。
 かつて土取さんが音楽を担当しているピーター・ブルック国際劇団が、シェイクスピアをもって日本に来たときは日本のメディアは大騒ぎして迎えたのに、ところが数年後、イスラムをテーマに舞台を見せたときは、みんながみんな腰が引けていたというのです。メディアはどこも採り上げなかった。土取さんは「こういう日本が決定的にダメなんだよね」と失望の念を禁じえない。
 たしかに、そうです。日本は宗教文化で1300年を暮らしてきたのに、それが面と向かってアートになると、どうしていいかわからなくなるという、ひどい迷子状態になるのです。とくに異教に弱い。
 その最たるものがイスラムを相手にしたときで(「イスラーム」と書くべきですが、今夜は「イスラム」にします)、いったいこの異教性をどうすればいいのか、さっぱり反応ができなくなるのです。
 かつては大杉栄も大川周明も反応できたのに、いまやがたがた、壊滅状態になる。佐藤優さんなど、きわめて例外的理解力です(その佐藤さんはキリスト教神学の専門家ですよ)。

 このことは9・11以降の日本ではさらに目立ちます。スンニー派とシーア派の区別はおろか、イスラム原理主義とイスラム主義の区別もつかないし、なぜ自爆テロがあれほど過激なことができるのかも、理解できません。いや、はなっから理解しようとしていない。
 それはまだしもだとして、一億総じて経済主義のはずの日本人がイスラムの経済社会に利子がないことなど知ると、まるでそっぽを向いてしまいます。その理由を考えようともしない。これはあまりにおかしな話です。イスラムは普遍宗教ですよ。いまや13~16億人がムスリムなんですよ。その経済力はオイルマネーとともに世界の5分の1か4分の1を覆いつつあるんですよ。
 それなのに、イスラム経済をわれわれは理解しようとしていない。なぜそんなふうになるのか。むろん勉強不足でもあるけれど、どうもそれだけではないようです。それに、根本的な過誤を犯しているようにも思います。まず、とりあえず、次の説明を読んでみてください。

 イスラムは「リバー」(利子 riba)を禁止しています。利息付きの資本を認めません。イスラム銀行は無利子銀行であリ、イスラム金融は無利子金融なのです。イスラムは貨幣が自己増殖することを否定するからです。このことはすべては「シャリーア」(イスラム法)で決められている‥‥。
 一方、イスラム経済ではさまざまな金融取引・金融事業が頻繁におこなわれています。むろん金融商品もいっぱいある。これらをイスラム銀行が主に次の4つのスキームをもってビジネスしています。
 「ムダーラバ」(Mudharabah)は銀行が顧客から預かった資金をプロジェクトに投資し、そこで発生した利益(あるいは損失)を事前に決められた割合で顧客に配分する。 「ムシャーラカ」(Musyarakah)は銀行と顧客が資金を出しあいプロジェクトを共同経営をして、その損益を応分に配分しています。 「ムラーバハ」(Murabahah)は銀行が顧客に代わって商品を購入し、購入価格に銀行マージンを上乗せ(マークアップ)して顧客に売却するしくみです。 「イジャーラ」(Ijarah)は銀行が顧客に代わって商品を購入して顧客にリースし、応分のリース料を受け取ります‥‥。

 これって、何を言っているか、わかりますか。つまり、イスラム経済社会では銀行と顧客は債権者と債務者の関係にはないんです。両者は互いが利用するスキームによって、売り主と買い主、貸し手と借り手、投資者と事業者などの関係になっている‥‥。
 そもそもイスラム社会では、万物の所有は神のもとにあるのです。公正なビジネスをおこなうことが篤い信仰そのものなのです。その所有にしてもうまく分担されていて、国有権をもつイスラム国家は資源の有効利用と所得配分の格差の縮小にあたります。公有権をもつ「ウンマ」(イスラム共同体)はモスク・学校・病院・道路・バザールなどの公共財を管理しています。ウンマの資金や土地は「ザカート」(喜捨)や「ワクフ」(寄進)によって拠出されているのです‥‥。
 いやいや、それだけではない。そのほか、資本の集中と退蔵を禁止していますし、労働の市場的商品性が否定されている。さらには土地の私的所有には制限があって、土地私有が集中することを避けてもいます。それどころか、資本の所有権は死後に親族に移転することを容認しているのです‥‥云々。

 なんという経済社会でしょうね。こんな経済社会が地球の4分の1で実行されているんです。
 けれども、これらのことをめぐっては日本人のあいだで(むろん西洋でも)、かなりの誤解が伴ってきたのです。とくにイスラム社会が利子を認めず利潤を認めるところを、混乱して解釈していることが少なくありません。かく言うぼくもいろいろ読んではきたけれど、何かがどうも画然としなかったものです。
 なぜ誤解をしてきたのか。あるいは理解がしにくかったのか。ちょっと反省してみますと、とりあえず3つほどの理由が考えられる。
 第1には、やっぱりイスラムのことがわかっていないのだろうということですね。第2には、イスラム宗教についてはイスラム教義の言葉で解釈して、イスラム経済については資本主義経済学の言葉で、分断して理解しようとしてきたのだろうということです。ありうることです。そして第3に、これこそが土取さんがまさに嘆いていることですが、そもそも宗教と経済を、経済と芸術を一緒に語る能力が、ぼくを含めたわれわれ日本人には決定的に欠けているのだろうということです。

 第1の「イスラムのことがわかっていない」ということについては、今夜は言及しないことにします。いまもってわかってないと言うしかないし、その途中までの理解を示してもキリがない。
 ちなみにぼくのイスラムについての理解の途次を白状すると、最初はスーフィズムやスフラワルディを齧り、ついで井筒俊彦さんの『イスラーム思想史』(いまは中公文庫)を読むことに始まりました。これはぼくの当初の関心がイスラム神学やイスラム神秘主義にあったためと、井筒さん以外の信頼すべき哲学史がなかったためですが、そのぶんイスラムの現代社会の実態がどういうものであるかは、ほとんどわからないままでした。スフラワルディーについての拙(つたな)い感想は『遊学』(中公文庫)に入っているので、お目よごしで読んでみてください。
 その後はどうかというと、イスラム哲学では、ムハンマド(マホメット)や『コーラン』(クルアーン)をべつにすると、イマーム・ル・ハラマインやアル・ガザーリーやイブン・ルシード(アヴェロエス)の周辺をうろうろしたにすぎなかった。ついでアンリ・コルバンの『イスラーム哲学史』や黒田壽郎さんのもの、たとえば『イスラームの心』(中公新書)や『イスラームの構造』(書肆心水)を読んだり、あるいはまた後藤明、山内昌之、鈴木董などの本の助けを借りていたのですが、いまひとつ深まらなかった。
 そのうち中東・アラブ・イスラムの歴史のほうに関心が移り、ウィルフレッド・スミスの『現代イスラムの歴史』(中公文庫)以降は、気がつくとオスマントルコの歴史や海のシルクロードや、ときにはイスラム建築論や庭園論のほうに、ぼくは誘われていたのです。なんといってもイスラムの歴史は、十字軍との戦いでも、オスマン帝国の構想にしても、西洋との対決を辞さなかったわけで、めちゃくちゃおもしろいですからね。しかし、これらはあくまで歴史のなかのイスラムの出来事でした。
 そんなところへ湾岸戦争と9・11です。これは歴史ではなく、いまおこった現実です。
 ぼくの周辺の話題も、たちまちイスラム原理主義のこと、アメリカ帝国主義のこと、パレスチナとイスラエルのこと、中東アラブの政治情勢のこと、自爆テロ問題のことで沸騰していきました。そうなるとイスラム思想のことよりもその行動主義のほうに気をとられ、遠くウサマ・ビンラディンに異様なカリスマ的指導性を感じながら、しかしイスラムの現実社会を観望するというふうになったものです。

 第2の「イスラムをイスラム教義の言葉で、イスラム経済を資本主義の言葉で分断して理解していた」ということについては、これはまずいなとうすうすいろいろなことを感じてはいたのですが、実は本書や櫻井秀子の『イスラーム金融』(新評論)を読むまでは、その問題の深さを測定できなかったと告白します。
 その測定感覚の欠陥は、恥ずかしながら「千夜千冊」にムハマンド・バーキルッ=サドルの『イスラーム経済論』(未知谷・305夜)の感想を書いたときの浅薄な書きっぷりにも、端的に反映しています。その後、思いなおしてバーキルッ=サドルの『無利子銀行論』(未知谷)を読んで少しは訂正できたものの、どこまで深まったものやら。
 おそらくわれわれは、ついつい二つの立場のどちらかでイスラム経済を論じようとしてきたのだと言うしかありません。
 ひとつは、イスラム経済にはイスラム独自の経済論があるだろうから、その経済学を理解しようという立場なのですが、これはその「経済学」という発想そのものが資本主義的な枠組を前提にしたうえでのオリエンタリズムになりがちなのですね。
 もうひとつは、イスラム経済は近代経済学の枠組でも解釈しうるという立場で、この見方は欧米ではかなり流通しています。いわば“近経”によって力づくでイスラムを押さえこもうというものです。しかし仮にそういうことが西のロジックで可能だとしても、これではイスラム経済学は現代資本主義のシステムに組み込まれて解釈されて、ハイ一貫の終わりということになる。これじゃやっぱり話にならないでしょう。
 ですから、このような二つの立場は、どちらもイスラムの経済をそのまま理解したことにはまったくなりません。

 第3の、われわれには「宗教と経済を一緒に語る能力が欠けている」ということについては、いまさらながらあまりに根本的な問題すぎて、すぐに反省の弁解をする気にならないほどです。
 それでもしかし、たとえば「ユダヤ・キリスト教が世界最大のビジネスモデルを用意した」ということや、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で何を資本主義のセオリーにしたかということなら、だいたいはわかっていたはずなんですね。
 もともと世界中で宗教と経済は長きにわたって一蓮托生だったのだし、仏教もキリスト教もその他の宗教と経済の関係も、歴史のどこを切っても別々なものではなかったのです。また、たとえばインド出身のアマルティア・センの『合理的な愚か者』(1344夜)は「共感と参加」を軸に合理的経済学を批判したものですが、それは言ってみれば「菩薩道としての経済学」のようなものだったと解釈できてもよかったのです。
 ということは、世界の経済を深く見たいなら、もっと宗教の問題にも同時に入っていかなければならないということで、ということは、イスラム経済のことをもっと正確に理解しようと思うなら、われわれはイスラムの教えとしくみを理解しなければならず、資本主義の本質と限界をさらに知りたいのなら、ユダヤ・キリスト教のことを歴史社会的にも経済社会的にも理解しなければならないはずだったのです。
 ところが、そこをほったらかしにしてきた。ぼくのイスラム観もぐさぐさのものでした。けれどもオイルマネーの力とともに、またパレスチナ問題や湾岸戦争や9・11とともに、いまやイスラム社会とイスラム経済の実態としくみは国際社会のなかでも世界経済のなかでも大きなプレゼンスと実行力をもつようになってきたわけですから、これ以上、この問題(宗教と経済の関係の問題)をほったらかしにしているわけにはいかなくなったのです。さあ、それで、体の一部がそわそわしてきたということです。ならじあ・あじあ・いすらむ・むらむら。

 というわけで、やたらに前置きが長くなったのですが、ぼく自身もそろそろイスラムの社会と経済についての態度というのか、姿勢というのか、見方といいますか、そういうものを表明する必要に迫られていたのですね。
 そこで、お待ちどうさま、今夜から何冊かの本によって主にはイスラム経済社会の特徴を通して、ついではぼくの“積み残した宿題”についての宗教と経済をめぐるエクササイズがその後どういうものであったかなどを、あらためて紹介したいと思います。
 それを始めるにあたって、まずは本書『イスラム経済』を選んでみたという、今夜はそういう前後関係です。そんなとき、土取さんととてもNARASIAでイスラミックな話をしたということでした。
 もうひとつ、今夜から宗教と経済と文化と社会のことを考えるのならば、イスラムから入るのが最も遠くて近い問題意識を触発するだろうと感じるからです。それにあたっては、本書は適確な主題を提示している入口になるだろうと思います。そのうえで、仏教やキリスト教などにも言及していきたい。イスラムの背景にある考え方や事柄については、また第3点にあげた宗教と経済の全般的な関係のことについては、別途、別の本で案内します。

 さて、本書は次のように始まっています。
 今日、イスラム経済は世界経済上でも無視できなくなっている。それは、第4次中東戦争とオイルショック以降の1970代後半に「イスラムの復興」とともに拡大してきた現象で、その波及についてはかつてはイスラム金融の是非を議論する程度のものだったのですが、それがしだいに国際金融市場における制度設計をどうするかという段階にまで達してきたからでした。
 のみならず、近い将来においては既存の金融システムとイスラム金融システムとの併用や共存がおこりうることが、はっきり予測されるようになってきているのです。これはほってはおけない。
 こうしたなか、イスラム金融が自由資本主義社会に投げかけている問題を正確に理解することが急務になっているのですが、それにもかかわらず、多くの資本主義諸国や企業家たちのあいだでは「なぜイスラム経済は利子を禁止しているのか」ということ自体がわからないままになっているのです。
 しかし、この答えは本書によれば、明々白々なのです。答えは「そのことがコーランに書いてある」という以外にはありえない。利子の禁止はアルコールの禁止と同様の宗教的タブーなのですね。もっとはっきりいえば、イスラムにはそもそも「特別な経済社会のためのプログラムがあるわけではなかった」ということです。
 とはいえ、その「コーランに書いてあること」が経済ルールや生活経済に及ぶというところが、欧米型の知識で固まった連中には、またわれわれにも、どうもわからないところなんですね。では、どこをどう理解すべきなのか。本書は次のように説明します。

 もともと「イスラム」(イスラーム)という言葉は、「引き渡すこと」「委ねること」というアラビア語に発して、総じて「すべてを(神に)ゆだねること」という意味をもっています。
 そのイスラムの理念と倫理を包括しているのが『コーラン』(クルアーン)で、その思念と行動の規範のすべては「シャリーア」(イスラム法)の中にあります。シャリーアは私的ならびに公的なムスリムの全生活領域を覆っています。したがって経済生活もその一部にすぎません。それゆえ、ムスリムの日々の活動から経済領域だけを取り出し、それに規範を与えて体系にするということはありえない。体系といえば、シャリーアそのものなのです。
 この意味でいうと、イスラム経済はカール・ポランニー(151夜)の「社会に埋めこまれた経済」という言い方にあやかれば、「シャリーアに埋めこまれた経済」、すなわち「法に埋めこまれた経済」ということです。イスラムには経済建設のための自立したプログラムがあるわけではないのです。
 けれども、ここからが大事なのですが、それでもイスラム圏の日々の経済活動や国際的な経済活動には、当然ながら一般的な経済と同様の特徴があります。そこには近代以前に発達したイスラム市場の歴史的特徴と、現代イスラムで目立ちはじめた金融活動との違いがみごとに同居しているのです。

 現代イスラム社会が明確に独自の金融のしくみを表沙汰にしたのは、そんなに古くはありません。
 その前哨としては、1963年にエジプトのミート・ガルム貯蓄銀行(のちのナセル社会銀行)とマレーシアのマラヤ・ムスリム巡礼貯金公社(のちの巡礼積立運用基金)が設立されたことが大きいのですが、もっと今日的なイスラム経済システムが明白になっていったのは、1974年のオイルショックの直後に、巨大なオイルマネーの背景をもってドバイ・イスラム銀行が1975年に設立されたということです。これを嚆矢に、その後の10年間で中東に次々にイスラム銀行が林立していきました。たとえば次の通り。

  1975 ドバイ・イスラム銀行
       イスラム開発銀行(イスラム諸国会議機構)
  1977 エジプト・ファイサル・イスラム銀行
       クウェート・ファイナンスハウス
       スーダン・ファイサル・イスラム銀行
  1979 ヨルダン・イスラム銀行
       バーレーン・イスラム銀行
  1983 トルコ・ファイサル・ファイナンス
  1985 アルバラカ・トルコ・ファイナンスハウス

 これらは、いずれも“無利子銀行”です。無利子だなんて、資本主義国家群や企業群にはそうとうめずらしいものだったのですが、そんなことにおかまいなくこうしたイスラム銀行群はたちまち国際金融力をもちはじめます。
 とくに1991年にソ連の解体と冷戦体制が終焉して社会主義計画経済が崩れ、アメリカ一極の軍事経済力が一人勝ちするかに見えた時期、その90年代に、のちに杉原董が「オイル・トライアングル」と名付けた中東・東アジア・欧米の3つの市場間で、きわめてグローバルなオイルマネーの取引が確立していったことが大きかったんですね。
 これは、中東の石油が東アジアに輸出され、東アジア諸国は工業製品を欧米に輸出し、欧米は中東産油国に武器と金融サービスをもたらすというトライアングルです。このオイル・トライアングルが一方では「アジア4竜の奇跡」をもたらすとともに、他方ではイスラム銀行の国際化を着実に保証していった。ちなみに中国にさえ1000万人以上のムスリムがいて、インドネシアのムスリムは1億9000万人(なんと国民の9割)に、パキスタンとインドはそれぞれ1億2000万人にのぼるんですよ。
 かくてイスラム金融と資本主義諸国のコンベンショナルな金融はダイナミックに交じりあったのです。そしてこのなかで、さきほど述べたような、損益分配型の金融契約による「ムダーラバ」や「ムシャーラカ」と、損益分配契約によらない金融契約を結ぶ「ムラーバハ」や「イジャーラ」がどんどん定着していったのです。とくにムダーラバは、グローバル経済がデリバティブなどの金融商品を有力武器にしたことと相俟って、国際金融舞台の花形にさえなっていった。

 こんなことは、前近代のイスラム市場ではほとんど考えられなかったことです。不確実性とリスクが増大したグローバル経済のなかでこそ、かえってイスラム経済は大きな地歩を築けたのです。
 なぜなら、次のような事情があった。シャリーアはその評議会によって、次の事業モデルを禁止しています。①利子をともなう取引、②その結果が不確実な取引、③投機を目的とした取引、④豚肉・ポルノ・アルコールなどの禁止された商品の取引。
 ここで、①の「利子(リバー)の禁止」では、厳密には等量の交換の原則を踏みにじることによって発生する利子(剰余のリバー)と、同時交換の原則を踏みにじることで発生する利子(期限のリバー)が戒められています。これは、猛威をふるったデリバティブな国際金融商品が陥りやすい陥穽を、当初から回避しているみごとなシナリオでした。「剰余のリバー」と「期限のリバー」を禁止していれば、サブプライムローンの悲劇など、おこりっこないのです。
 また、②の「不確実な取引」にイスラム経済社会が着目していたということが重要です。今日の金融取引はまさに不確実性を利用することによって成立しています。しかし、その不確実性はそもそも経済の本質でもあるのだから、そこには莫大な利益を得るようなしくみとともに、手痛い損失が伴うしくみとが混在します。それによってハイリスク・ハイリターンからローリスク・ローリターンまでの損益グラデーションがポートフォリオとして商品化されるわけですが、このうちイスラム経済は「真の不確実性」には手をつけないという原則をなんとか確立しようとしているのです。
 これはいまごろになって国際金融取引が各国各エコノミストのあいだで、反省しきりに取り組もうとしていることでもありますが、それをイスラムは早くも先取りしていたということです。
 そこへもってきて、これは一般にもよく知られていることですが、③の「豚肉・ポルノ・アルコールなどの禁止」が加わります。このことは経済行為がその根本において宗教行為や信仰行為であることを忘れさせません。このようにイスラム経済社会が「なんでも自由」を持ち込まないということをしゃかりきに守っているということは、すごいことです。これがイスラムの誇る「ハラハー」(禁忌)というものです。

 というわけで、ごくおおざっぱな説明しかできなかったのですが、それでもイスラム経済社会が驚くべき先進的な金融感覚やプロフィット・マナーを身につけているということは、あらかた察知できるだろうと思います。
 イスラムにおいては「公」がべらぼうに大きくて、そこに「共」と「私」とがうまく包まれるのですね。この公共性のことを「マスラハ」と言うそうです。イスラム法学では「公共利益」とか「社会福祉」と訳されるものですが、その意義は資本主義社会の公共利益や社会福祉とは異なります。もっともっと「公と共と私」を貫くものになっているんですね。
 マスラハを抱くということは、そこに正義としての「アドル」と不正としての「ズルム」の区別を画然とさせます。そして、このマスラハのためにアドルとズルムを知悉していくことが、イスラム経済社会の「タドビール」(経営)というものになっている。
 これは強いでしょうね。しかもタドビールは、それぞれ「国家の統治」(タドビール・アルフィラーファ)、「都市の行政」(ヒスバ)、「家計の経営」(タドビール・アルマンズィル)に分かれ、さらに細かくは「資産の経営」(タドビール・アルマール)、「女の経営」(タドビール・アルマルア)、「子供の経営」(タドビール・アルワラド)などに徹せられていくというのですから、たいしたものです。
 では、以上の説明ではまだカバーしきれなかったこと(いろいろあります)については、次夜以降にフォローしていきたいと思います。では、みなさんご一緒に。「ならじあ、あじあ、なら、あじあ、いすらむ、むらむら、ならあじあ」。

 

 

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「グランドフォーラム NARASIA2010」の公式パンフレット
(制作:編集工学研究所 デザイン:美柑和俊)
イベントの各シーンは、都、風、文、身、海、間、楽、時、衣、交、光、臨、遊、
漢字一文字の表現による計13のテーマキャプチャーで構成された。 

 

 

イスラーム文明史

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 前夜に『イスラム経済』を案内したところ、ずいぶん反響があった。「千夜千冊」でイスラム系をとりあげたのが久々だったからだろう。そのなかに、経済論だけでなく、やはりイスラムのあれこれ全体を眺望できるもの、その教義や歴史や松岡さんの問題意識も書いてほしいという声が少なからずあった(そういえばイシス編集学校「離」の方師の相京範昭は、ぼくに会うと五回に一度は「そろそろイスラムを」というのが口癖だった)。
 実は前夜につづいて櫻井秀子の『イスラーム金融:贈与と交換、その共存のシステムを解く』(新評論)を予定していて、少し書いていたのだが、ふーんそうか、やっぱりそういう要請が多いかと踏みとどまり、今夜はあえてイスラーム全般的な本をあいだに挟むことにした。

 でも、何をとりあげるか。いったんは佐藤次高・鈴木董・坂本勉の編集著作による『新書イスラームの世界史』全3冊(講談社現代新書)がいいかな、ジョン・エスポジトが編集構成したオックスフォード版の定番『イスラームの歴史』全3巻(共同通信社)がいいか、それとも後藤明の『イスラーム世界の歴史』(放送大学出版局)や『イスラーム歴史物語』(講談社)がいいかなと思ったが、もうちょっと名にし負う原型っぽいものがいいだろうと、本書にした。
 しかし、このハミルトン・ギブの『イスラーム文明史』は夙に名著として知られてきたものではあるけれど、膨大なギブの著作から7篇の論文を集めたものにすぎず、また、今日のイスラーム学習の多様性や掘り込み度からすると、いささか古い。
 そこで掟破りではあるのだが、ギブのもうひとつの古典的名著『イスラム:誕生から現代まで』(日本オリエント学会監修・東京新聞出版局=以前は紀伊国屋書店から刊行されていた)をここに併せ、かつそこに、さきほどのオックスフォード版のエスポジトの3冊、佐藤・鈴木・坂本の本、後藤の本を加え、さらに後藤明と山内昌之が新鋭執筆陣を配した『イスラームとは何か』(新書館)や、前夜にとりあげた加藤博の『文明としてのイスラム』や『イスラム世界論』(いずれも東京大学出版会)、塩尻和子・青柳かおるの『イスラーム』(日本文芸社)や板垣雄三・山岸智子・飯塚正人『イスラーム世界がよくわかる』(亜紀書房)などを混ぜ合わせ、「千夜千冊」ふうのイスラームちゃんぽん歴史思想ガイドにすることにした。
 わざわざ書名をあげさせてもらった著者の諸氏諸兄には申し訳ないが、あしからず。
 なお次夜は、年末年始となるので確たることは約束できないが、ヴィジュアリティとタイポグラフィにすこぶる富んだ『クルアーン』(コーラン)も、念押しで案内することにしたい。で、もうひとつ、今夜は「イスラム」ではなくて「イスラーム」と表記する。それにしても、年の瀬がイスラーム漬けになるとは思わなかったなあ。

 最初にハミルトン・ギブについて一言。ギブは1895年にエジプトのアレクサンドリアに生まれた。すでに1971年に亡くなっている。
 エディバラ大学でセム語学科を出て、ロンドン大学東洋学部でアラビア語をマスターしたのち、1935年に大部の『イスラーム大百科事典』の編集責任を担い、それがきっかけでアーノルド・トインビー(705夜)とともにイギリスが生んだ偉大な歴史家として一躍知られるようになった。その後はオックスフォード、ハーバードなどで教鞭をとり、総計180点にのぼる著書・論考と230点以上の書評をのこした。
 その学問的姿勢は「東洋学と社会科学の結婚をはたした」と言われるように、きわめて厳密である。当時にありがちなオリエンタリズムにも陥っていない。本書においても、イスラームがユダヤ教やキリスト教と同様に、中東の古い社会文化風土にもとづいて発生発展したもので、それを近代以降のキリスト教的な合理性や歴史観で語ろうとすることの誤謬を手厳しく戒めている。
 いま、中東には3~5億人の人口がいる。世界のムスリム人口が不確定ながら13億~16億人と言われていることからすると、比率は3分の1程度であるが、ここはなんといってもイスラーム圏の中核なのである。もともと中東は夏にはほとんど雨が降らない乾燥地帯でありながら、8000年以前から小麦の栽培やヒツジやヤギの飼養をしていて、メソポタミア文明をはじめ先駆的な集落都市を生み出し、あまつさえ早くに「商品作物」の生産と交易に長けてきた。
 いろいろな意味で中東は、「個人の資格で他者と契約する」という自立心豊かな社会を早々に確立していたのだ。アルプス以北のヨーロッパでこんな社会が実現するのはやっと19世紀になってからのこと、中東はヨーロッパ近代を5000年近く先取りしていたのだった。
 ギブは一貫して、イスラームがこうした中東の社会文化風土そのものから生まれたことを重視した。そこにはアラブ人とアラビア語を中心に、イラン人・シリア人・エジプト人・ベルベル人・トルコ人・スラブ人・アルメニア人・インド人が加わり、さらには遠いモンゴル人や中国人やアフリカ人をも引き込む大文明圏が形成されてきたのである。ギブはそのようなイスラームをヨーロッパの視点で読み解くことを、ずっと嫌っていた研究者であった。
 以下、ギブその人の見解をいちいち紹介しないけれど、下敷きにはその歴史観を使わせてもらった。

 では、イスラームとはどういうものか、イスラーム文明とは何なのか、イスラーム史はどんな流れをもったのかということだが、一夜や二夜ではとうていその全貌にはふれられないので(ぼくの任ではないし)、ごくごく基本的なところから入りたい。
 まずは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの3つの宗教は、同じ唯一神を確信しつづけている一神教独特の中東的社会文化風土に発しているのだということ、このことをあらためて肝に銘じたい。これらはすべてセム系の宗教なのである。アラビア語もセム語族に属する。
 セム系民族が確信した「神の唯一性」のことを、アラビア語では「タウヒード」という。タウヒードはイスラームの世界観そのものになっている。もっとも、しばしば誤解されているようなので念のために言っておくが、イスラームが奉じる「アッラー」はそういう名の神がいるのではなく、アラビア語の定冠詞「アル」(al)に神を意味する「イラーフ」がくっついたもので、「ザ・ゴッド」という意味しかあらわさない。
 したがって、アッラーはイスラームの神であるとともに、ユダヤ教における「約束の民イスラエルの神」であり、キリスト教にとっての「父と子と聖霊の三位一体の神」でもあるわけだ。ここまでは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの世界三大宗教は一神教としてぴったり重なっている。
 それゆえ『クルアーン』(コーラン)に登場する預言者25人も、アダム、ノア、アブラハム、ロト、イサク、ヤコブ、ヨブ、モーセ、ダヴィデ、ソロモン、ヨハネなど、旧約聖書と重なるところがそうとうに多い。24番目の預言者がイエスで、25番目がムハンマド(マホメット)になる。
 イスラームでは神からの啓示を受けた啓典も、『クルアーン』だけではなく、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)、ダヴィデの詩篇、イエスの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を認めている。
 ただしイスラームは、アダムが創始してアブラハムが確立した純度の高い一神教に立ち戻るべきだという意志が強く(これをしばしば「アブラハムの宗教」というのだが)、その点でユダヤ教やキリスト教の誤りをたえずただそうとする。
 つまりイスラームは「最後の一神教」であって、ムハンマドは「預言者の封印者」なのである。

 ムハンマド(マホメット)は預言者であって、神の使徒だった。その言動と思想は啓典『クルアーン』と言行録『ハディース』にまとまっている。この二つがイスラム法「シャリーア」の第一法源、第二法源になり、ムスリムのすべての生活と倫理を規定する。
  『クルアーン』はそのもとの原意は「声に出して読まれるもの」(朗誦されるべきもの)で、ザシゥ体というすばらしい押韻散文詩の様式をとっていて、そのアラビア語の文体スタイルそのものが奇蹟だと称えられてきた。
  『ハディース』はその唯一無比の第一法源『クルアーン』を補完するもので、『クルアーン』に詳しく述べられていない規定は『ハディース』で知れるようになっている。たとえば『クルアーン』には礼拝せよとあるが、その具体的な方法は明示されていない。そこで『ハディース』を参照すると、ムハンマドの礼拝方法がわかるようになっている。
 それほどのムハンマドではあるが、ムハンマドは神ではないし、神格化されることもない。最高最大の崇拝と敬愛を受けてはいるものの、あくまで人間なのである。さらにイスラームは偶像表現や偶像崇拝を厳しく禁止しているので、ムハンマドはかつてのペルシア・ミニアチュール以外ではほとんどフイギュア化されることがない。フィギュア化ができないということは、揶揄されることが大嫌いだということなのだ。気をつけたい。

 やはり最初にムハンマドの生涯のアウトラインについて書いておく。そこからでないと、話が始まらない。
 ムハンマドは570年前後に、クライシュ族のハーシム家に生まれた。聖徳太子が574年生まれとされているから、ほぼ同世代だ。ハシームは名門ではあったが、没落しかかっていた。父親アブドゥツラーは生前6カ月前に亡くなり、母親アーミナもムハンマドが6歳のときに亡くなった。ムハンマドは孤児なのだ。そこで祖父のもとで育てられ、祖父の死後は叔父のアブ・ターリブに引き取られた。
 物思いにふけりがちな内気な性格で、「アル・アミーン」(誠実な子)と呼ばれていた。けれどもアブ・ターリブの家は貧しく、子供たちにほとんど教育の機会が与えられなかった。そのためムハンマドはほとんど読み書きを学べなかった。このことについては、『クルアーン』第7章157節に「ウンミー」と説明されている。“文盲”だったのだ。
 ムハンマドがウンミーであったことは、神の言葉がかえって歪められていないこと、かえって神に近づく可能性が高まったことの証明になっているという。折口信夫(143夜)の『弱法師』を思い出す。
 長じてムハンマドは商人の雇い人になり、隊商に加わってシリアなどに赴いた。25歳頃に雇い主である年上の女商人ハディージャに結婚を申し込まれ、二人のあいだに三男四女が生まれたが、男子はみな夭折、女子だけが残った。
 その後、末娘のファティーマとムハンマドのいとこのアリーが結婚、この家系がいまなおムハンマドの子孫として続いている。ムハンマドの家系は女系として歴史の波間をくぐり抜けていく。

 ムハンマドが生まれ育ったメッカ(マッカ)は、6世紀から7世紀にかけて部族的遊牧社会から隊商交易を糧とする商業都市社会になろうとしていた。ここに、のちのムハンマドの逆境の転換を志すモチベーションのすべてが蹲(うずくま)る。
 当時のアラビア半島周辺では、ビザンティン帝国とササン朝ペルシアが対立していて、陸路による東西貿易がしだいに困難になりつつあった。そのため隊商はインド洋からイエーメンへ行き、そこから陸路でメッカを経由して北上すると、シリアやバスラに向かっていた。したがってメッカには多くの部族が行き交い、カーバ神殿は多様多神を祀っていた。
 こうしたなか、メッカではクライシュ族の中心神仏たちによって部族社会から商業社会への転換が試みられつつあった。族長の権力は強大でも、そのもとにある部族は擬似的平等を保つ社会になっていた。それが崩れ、巨大な富をもつ者が君臨する社会が芽生えつつあったのだ。
 ハディージャと結婚して大商人の仲間入りをはたしたムハンマドであったけれど、その一徹すぎる性格のせいか、この青年はしだいにクライシュ族が仕切る部族長や大商人たちから締め出されるようになった。40歳の頃だ。ムハンマドは一念発起、ヒラー山中に籠もって瞑想に耽る。

 610年のラマダーン(9月)のある夜、山中のムハンマドに天使ジブリー(天使ガブリエル)からの啓示が下った。「誦め」という啓示だ。
 声を出して誦め。読みなさい。わたし(神)の言うことを声に出しなさいというのだ。この啓示は凄い。イスラームでは当初に言葉がある。当初に神の文字がある。
 驚いたムハンマドは、最初はジン(妖精・幽鬼)に取り憑かれたのかと思って家に帰ると毛布にくるまって脅えていたのだが、妻のハディージャはあなたは預言者なのよと励まし、ハディージャの弟のワラカもあなたのところに来たのは天使にちがいないと示唆した。
 こうして「神の使徒」としてのムハンマドの伝道(説教)が始まった。リテラシーは側近たちがフォローし、ムアハンマドはオラリティに徹した。アブ・ターリブの息子のアリー(のちの4代カリフ)、親友のアブー・バクル(のちの初代カリフ)、いとこのウスマーン(のちの3代カリフ)、ズバイル、タルハ、有力者のウマル(のちの2代カリフ)らがまずもって賛同(入信)した。
 しかしムハンマドの伝道はメッカ社会のありかたを根本から問題にするもので、クライシュ族が前提としてきた血縁社会に代わってイスラーム信仰による共同体をめざしていたため、クライシュの大商人たちからはさらに迫害を受け、ハシーム家からもボイコットを受けた。
 619年、ムハンマドを支え続けた妻ハディージャと叔父アブ・ターリブが相次いで死んだ。かなりの打撃だったと伝えられ、この年はムスリムたちによって特別に「悲しみの年」と呼ばれている。しかし孤立したムハンマドにさらに追い打ちがかかった。なんと暗殺計画である。
 もはやじっとはしていられない。意を決したムハンマドは、622年、心を一つにした70余名の信徒とともにメッカの北350キロのマディーナ(メディナ)に移住した。
 これがイスラームの発端を告げた「ヒジュラ」(聖遷)であった。成功のためのヒジュラではない。70人の同志と撤退し、そして立ち上がっていったのだ。ヒジュラとは「新たな関係に入る」ということなのだ。スーパースターたちにはたいていこの逆境からの関係転換がある。

 

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天使ジブリーの啓示を受けるムハンマド
顔面は白く塗りつぶされている。

 
 ヒジュラによってマディーナ(メディナ)に移ったムハンマドのグループは、イスラーム共同体「ウンマ」を初めて自立させていく。やがて「マディーナ憲章」が締結され、ムスリムと多神教徒とユダヤ教徒とのあいだに独特の集団安全保障協定ができた。
 マディーナ憲章はイスラームにおける最初の国家アーキタイプになっている。第1に、どんな争いごとであれ、問題解決は神とムハンマドに委ねられた。第2に「血の代償」が確立した。部族間の争いなどで誰かが殺された場合でも復讐は認められず、血の代償、すなわち身代金で解決された。第3に礼拝が重視されて、キブラ(礼拝方向)がメッカになった。
 こうして態勢を整えたムハンマドは、いよいよメッカ進軍を果たすべく、いわゆる「ジハード」を敢行する。620年代のバドルの戦い、ウフドの戦い、ハンダクノ戦いが続いた。
 ジハードにおいては、(a)異教徒は改宗するか、(b)ジズヤ(税金)を納めて庇護民(ズィンミー)になるか、(c)戦うか、そのいずれかを選択させられた。のちに確立したシャリーア(イスラム法)では、戦いを挑む異教徒は殺害の対象であるが、降伏した場合は戦いをやめ、講和しなければならないとされている。
 一方、その戦いで死に至ったムスリムは殉教者(シャヒード)になり、死後の最後の審判をへずにただちに天国に向かうことも約束された。これでわかるように、ジハードは「聖戦」であるとともにイスラームの「正戦」だったのである。
 かくて628年、今度は倍の1500名を率き連れてカーバ神殿に入ったムハンマドは、祀られていた多くの偶像を次々に打ち毀し、神殿を唯一神の聖域にする。いまでもカーバ神殿の中はカラッポなのである。あそこはイスラームのモノリスなのだ。

 630年、アラビア半島は統一された。ムハンマドは新たに入信するアラブ族に対して、一定率の家畜やナツメヤシなどを税(義務的喜捨)として徴収することを決め、教団の財政基盤とした。そして2年後、最初で最後の巡礼(大巡礼=ハッジ)をおこなった。約4万人が参加したという。のちに「別離の巡礼」と名付けられた。現在、毎年12月に100万人を越すムスリムのメッカ巡礼がおこなわれているのは、このハッジの再現にもなっている。
 が、その3ヶ月後、病いに臥せると、アラファの野のラフマ山でラストメッセージを述べ、昇天した。63歳だった。聖徳太子没後5年ほどにあたる。
 ムハンマドの昇天のありさまは「ミゥラージュ」(原意は梯子)だ。天界めぐりとともに後世に語られていく。ムハンマドがカーバ神殿の塀の中で寝ていると、天使ジブリールがやつてきて天馬ブラークに乗せられ、エルサレムまで巡礼したのち、第一天から第七天で過去の預言者たちに出会い、さらに上昇して天界で神に接見したというものだ。
 これは創世記の「ヤコブの梯子」の影響を思わせ、かつ、ダンテ(913夜)がこの物語にヒントを得て『神曲』を構想しただろうことが想定される。
 ところで、ムハンマドには没時に9人の妻がいた。イスラームでは4人までの妻帯が許容されているのだが、なぜか預言者だけは別格で、ムハンマドは生涯に11人の妻を娶った。有力者の娘と政略結婚するためだったろう。一説には、最初のハディージャと、ムハンマドが最後に熱病に罹っていたときに没したアイーシャ(アブー・バクルの娘)を、ムハンマドはこよなく愛していたらしい。

 さて、ここからが中世イスラーム史の未曾有の大展開になる。
 詳細はともかく、大きな流れだけを概括しておくと、次々にカリフが君臨し、科学が勃興し、学術も芸術も栄えた。また多くのイスラーム王朝が各地に出現し、これらがネットワークされて、しだいに大帝国のおもむきを呈していった。
 当初は、632年のムハンマド没後に初代カリフとして長老アブー・バクルが立った。2年後、アブー・バクルの指名によって2代カリフにウルマが選出された。ウルマの時代にアラビア半島の外への大征服運動が進み(これもジハード)、シリア、メソポタミア、イラン、エジプトが少しずつイスラーム圏になっていった。急進撃である。
 644年、3代カリフにウマイヤ家のウスマーンが選出されたが、その優柔不断が問われ、暗殺される。反乱軍は4代カリフにアリーを推しクーファを拠点としたものの、これに対して同じウマイヤ家出身のシリア総督ムアーウィヤが挙兵して、ダマスカスを本拠に戦いを挑んだ(ラクダの戦い)。二人はいったん和平協定を結んだが、アリーは自分の陣営から離脱したハワリージュ派によって暗殺され、これをきっかけにウマイヤ朝が成立した。
 このとき、ウマイヤ朝を認めた多数派が「スンナ派」(スンニー派)となり、アリーを支持した少数派が「シーア派」となった。今夜はややこしくなるので、スンナ派とシーア派の差異については省く。
 ウマイヤ朝はカリフを世襲した。ウマイヤ家はクライシュ族ではあったものの、ムハンマドの血筋には遠い。そこでムハンマドの叔父につらなるアッバース家が「預言者一族をカリフに」のスローガンのもと、反乱をおこし、750年、ここにアッバース朝が始まった。
 ちなみにカリフは「イマーム」とも言われ、「神の使徒の代理人」あるいは「後継者」の意味をもつ。イスラーム共同体ウンマの最高指導者で、政治的権限はあるが、宗教的権限はもてなかった。


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イスラーム 各宗派と主な分布地域

 

 アッバース朝では改めて初代カリフが選ばれ(イスラームでは王朝ごとにカリフが選出されていく)、アブー・アッバースが就任した。
 アブーの時代の751年にタラス河畔の戦いで高仙芝の率いる唐の大軍と戦闘を交え、これに勝利したことが製紙法が東から西に伝わるきっかけになったことは、誰もが知っている話だが、この勝利はイスラームがシルクロード交易を制したこととして、もっと理解される必要がある。
 続いて第2代にマンスールが着任すると、ティグリス川西岸のバグダードを首都とし、三重の城壁によるみごとな円形都市を造営して「マディーナ・アッサラーム」(平安の都)を謳った。マンスールは駅伝制(バリード)を敷いて中央集権化を進め、カリフの宮殿も造った。街区のいたるところにスーク(常設店舗市場)が立ち並んだ。マンスールは藤原仲麻呂とほぼ同世代である。
 マンスールこれらの政策によって、イスラームのすべての権威と情報と富がバグダードに集中するようになると、『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)にも登場する第5代カリフのハルーン・アル・ラシードの時期(786~809)には、バグダードはついに100万人都市に突入し、ローマ・長安・平安京と並ぶ世界に冠たる国際都市になっていく。
 とりわけ第7代カリフのマームーンの時代(813~833)のバクダードには、ぼくがいっとき惚れ抜いて「遊」に何度もその誌上リメイクをいろいろ試みた「知恵の館」(バイト・アルヒクマ)という学府が設立され、中世ヨーロッパが忘却していた古代ギリシアの哲学・科学・思想が次々にアラビア語に翻訳されていった。とくにアリストテレス(291夜)の著作の翻訳編集が深化した。それだけではない。天体観測所・アストロラーベ・羅針盤・医療機器などが発明され、製紙工場と化学工場が唸り声をあげ、代数学が競いあい、総合病院がオープンていくという、おそらくは世界一の科学芸術文化のセンターになったのである。
 多くのウラマー(知識人)が輩出したのだ。なんとなく時代文化の勢いで輩出したのではなかった。ウラマーを養成する「マドラサ」(学院)がめっぽう充実していた。今日でいえば大学にあたるのだが、そのメソッドとスタイルは大学とはかなりちがっていた。学生は寄宿舎に住み、教室がなく、モスクが教場になった。
 マームーンの時期のバグダードは、その後のフィレンツェもボードレールのパリも世紀末のウィーンも敵わぬものだったろう。
 マドラサは地域をこえて広がった。人口数十万の都市ならば教授は十数名、学生は数百名。先生一人・生徒数人のマドラサなら無数にあった。アル・フワーリズミーの代数学、ラーズィー(ラーゼス)やイブ・スィーナー(アヴィセンナ)の医学は、こうしたマドラサが生んだ大成果のひとつであるが、これらはのちに、そのままラテン世界へ、ルネサンス世界へ持ち込まれ、ヨーロッパにかつて古代ギリシアがあったことを思い出させた。
 イスラームはヨーロッパが忘れていたことを引き取り、すぐれたコーパスにし、インターフェースまで付けて発展させていった中世ネットワーク社会のWWWだったのだ。

 しかしアッバース朝の全体は、マグリブ(エジプト以西の北アフリカ)、イラン、中央アジアで軍人総督の力が増強し、加えて遊牧民の王朝独立が相次ぐようになると、しだいにその勢いを失っていく。
 イランにはターヒル朝やサッファール朝が、エジプト・シリアにはトゥルーン朝が、中央アジアにはサーマーン朝が、相次いだ。さらに決定的だったのは、イベリアに後ウマイヤ朝が、北アフリカにファティーマ朝ができて、それぞれ自前ダウラと自前カリフを自称したことだった。ダウラとは王朝のことをいう。地方王朝時代だった。
 こうして945年、イラク・シーア派のブワイワ朝が興ると、すでに形骸化していたアッバース朝カリフの力は如何ともしがたく、ついには1055年にトルコ・スンナ派のセルジューク朝に取って代わられることになる。
 これを劇的に演じた有名なトゥグリル・ベク(鷹の君主)のバグダード入城は、なんとカリフの側から人の要請によるものだった。ここに、カリフはスルタンになり、スルタンがカリフになったのである。

 

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分裂したイスラーム世界(10世紀)

 

 イスラーム圏にトルコ人が登場してきたことの意味は、きわめて大きい。今日、中東イスラームの主要語はセム系のアラビア語、インド・ヨーロッパ系のペルシア語と、そして膠着語の特徴をもつトルコ語が占めている。
 しかしそのトルコ語の半分近くはアラビア語やペルシア語からの転用吸収で、そこにはイスラーム文化がたっぷり組み込まれてもいた。日本語に漢語がたくさん入って、「旅行する」「会議する」というふうに「漢語+する動詞」になっているようなものなのだ。そのトルコ・イスラームのめくるめく発端がここにあったわけである。
 セルジューク・トルコの旗揚げの地はアラル海に近いジャンドという小さな町なのだが、その一族のセルジューク家の戦闘家たち(遊牧トゥルクマーン軍団が中心)は、ガズナ朝と一戦を交えて勝利するとしだいに膨れ上がり、その地方地方でマドラサの有能な人材を登用していくという戦術をとったため、一気にイスラームの本陣に達することができたのだった。
 おまけに遊牧民族を母とするセルジューク朝は“停止的な首都”をもたなかった。スルタンはニーシャープール、レイ、イスファハーンというふうに次々に移動して、そこに滞在していればそこがセンターとなって文書庁や軍務庁がつくられるのであるが、実際には建物はなく、その業務を担当する人材が役所機能そのものだったのである。ターキッシュ・イスラームは「動く知財主義」だったのだ。
 なお、アッバース朝そのものの滅亡は1258年のモンゴル軍のバグダード侵攻のときになる。

 ムハンマドに始まったイスラーム信仰の波濤は、実に多様な民族性と宗教性を包みこんでいる。ハミルトン・ギブらよると、大きくは3つある。①全人格的で全面的な改宗者、②形式的に信教共同体ウンマに加入した同化者、③さまざまな遊牧民たち、だ。
 よくぞこんな異種格闘技のような相手を、それぞれにオーガナイズしていったものだと思う。しかもこれら民衆たちの入信とはべつに、他方、ダマスカスにウマイヤ朝が確立すると、この王朝は被征服地の農業経済を整備してアラブ諸国の社会構造を組織的に統合するという課題と、その再組織化された社会はイスラームの信仰道徳と合致させたほうがいいという課題とを、かかえることになった。しかし、この二つの課題を宥和克服することこそが、その後のイスラーム社会の典型的なプロトタイプにもなった。
 このプロトタイプはやがて「シャリーア」としてイスラム法のなかに立体的に、かつ有機的に組み立てられていく。それにしても多民族を相手に、たとえウンマやシャリーアがあったとしても、なぜそんなことが可能になっていったのか。
 ぼくが思うには、イスラムの法学はそもそもが「類推」(キヤース)を武器としていたからだった。類推こそイスラーム知の編集武器なのだ。だからこそ、次々に各民族・各部族との「見解の一致」(イジュマー)が獲得でき、拡充できたのだったろう。

 アンダルスとマグリブ。この二つの地域名が何を示しているかおわかりだろうか。
 アンダルスは「ヴァンダル族の国」を意味するアラビア語で、イスラーム化したイベリア半島のことをいう。マグリブは「日の没する地」「西方」を意味するアラビア語で、チュニジア以西のイスラーム化した北アフリカをさす。この二つの地域では、中東のイスラームとは別のたいそうエキゾチックなイスラーム文化が根付いた。
 ローマ帝国は地中海を制して「ローマの海」とした。ビザンティン帝国も地中海を統一して「ビザンツの海」を確保した。しかし、ローマもビザンツも征服者であって、地域文化を編集することをしなかった。ここにイスラームが確実に浸透していった。とくにスペインやシチリアがイスラームの領土となったことが大きい。

 711年、ムーサーとターリクを指導者としたジハード軍はイベリア半島に入るとセビリヤ、サラゴサを占領し、さらに北上を続けてトゥール・ポワティエで迎え撃つキリスト教軍と全面対峙した。732年のことだ。
 この「トゥール・ポワティエの戦い」は、キリスト教社会がイスラームの侵攻を食い止めた戦いとして、「原ヨーロッパ」の誕生と結びつけて語られている。ムスリムの進出を退治したカール・マルテルは、いまでも「EUの原型をつくった将軍」なのである。
 しかしそれから20年もたつと、アブド・アッラフマーは4万人のベルベル人の軍隊を率いてジブラルタル海峡をこえてふたたびアンダルスに入り、コルドバに大モスクを建てると、アミール(王)位を宣言して後ウマイヤ朝を樹立した。ここに、バクダートのアッバース朝とは別の、初めてのアラブ国家がイベリア半島アンダルスの地に成立したのである。
 10世紀のコルドバは世界有数の都市文化の花を開かせる50万人が住み、1600のモスクが立ち並び、13000人の機織り職人がいた。ジルヤーブはウード(琵琶)の名曲をつくり、それまで一度にごたごたに運ばれていた料理はスープから始まってメインディッシュやデザートにいたるというコースウェアになった。酒杯や食器を金銀製からガラスに代えてみせたのもコルドバ・イスラームの工夫であった。
 この、アンダルスの後ウマイヤ文化がマグリブにも転じていったのだ。マグリブには先住ベルベル人ががいたが、かれらはイスラーム文化を受け入れた。いまでもモロッコの住民の半分、アルジェリアの住民の3分の1がベルベル人である。

 こうしてアンダルス・マグリブのイスラームが地中海を覆いはじめていったのだ。
 910年には過激シーア派の代名詞にもなっているイスイール派の指導者ウバイド・アッラーが、チュニジアで自分がマフディー(待望された救世主)であることを宣言して、カリフを自称した。ファティーマ朝の確立である。カイロに遷都した。
 このとき、これに対抗して後ウマイヤ朝でもカリフを名のったので、イスラーム世界はアッバース朝・後ウマイヤ朝・ファティーマ朝の3つのカリフが鼎立することになったわけである。
 ベルベル人も独自のイスラーム的国づくりに乗り出した。モロッコのイブン・ヤースィーンは「リバート」(修道所)に籠もって自ら養成した1000人の弟子を連れて周辺部族にイスラーム改宗を迫り、その後のイブン・ターシュフィーンはマラケシュを首都としてスルタンを名のり、ここにムラービト朝が立ちあらわれたのである。ムラービトとは「リバートに籠もって修行する」という意味らしい。
 その後、11世紀になるとアンダルス・マグリブは政治的にも統一感をもつようになり、幾多の王朝の交替がありながらも、地中海に独自の社会文化をもたらしていった。そこではユダヤ教徒やキリスト教徒さえアラビア語を話すようになり「モサラベ」(マサラーべ=アラブ化した人々)と称ばれていった。
 ぼくは以前から“地中海ユダヤ人”の活躍が東と西の学知を媒介してきたとうすうす思っていたのだが、それはいったんイスラーム化された学知であったのだ。

 

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イスラーム王朝の変遷
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 さて11世紀半ば、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)は領土のひとつのアナトリア(小アジア)をセルジューク朝に奪われた。帝国はローマ教皇ウルバヌス2世に助けを求めた。
 教皇はクレルモンに公会議を開き、西洋キリスト教社会をひとつにまとめて強化するため、このチャンスを利用することにした。聖地エルサレムを奪還するという名目で、ヨーロッパ諸国の国王・領主・僧兵・騎士団・民衆に十字軍に参加することを呼びかけたのだ。ヨーロッパ的なボランティア(義勇兵)のスタートだった。
 こうして1096年、第1回十字軍が10万人をこえる軍団となってアナトリア・シリアをへてエルサレムをめざした。
  当時のシリアやエルサレムの周辺はセルジューク朝とファティーマ朝が支配していたものの、強力な軍備はなかったので、十字軍はやすやすとシリアにいくつかの拠点をつくってエルサレムに入り、ムスリムやユダヤ教徒をみさかいなく殺害したうえで、エルサレム王国を樹立してしまった。
 しかしイスラーム側も黙っていなかった。反撃がすさまじい。シリア内陸部で勢力をもっていたザンギー朝が反抗を開始し、それがエジプト地域のアイユーブ朝の英雄サラディン(サラーフ・アッディーン)に受け継がれた。サラディンはエジプトにイクター制を導入した。イクターとは土地や権利を切り取って与えるという意味で、転じて軍人を地方の総督として送りこむという政策になっている。サラディンはこれを活用し、イクターを授与された軍人にその見返りとしてスルタンの召集に応じて配下の兵士を率いて参戦する義務とした。
 こうしてサラディンはエジプトの統治者となったばかりでなく、十字軍を徹底的に撃破した英雄となった。源頼朝の10歳年上だとおぼえると、東西両極の符牒が見えてくる。
 というわけで十字軍は、予想に反してイスラーム社会にたいした打撃を与えなかったのであるが、さてこのこととはべつに、実はそれ以上の激震をもたらした事態が13世紀になっておこったのである。
 それは、まるで遠方から襲来した者たちの「嘶き」(いななき)のようなもので、しかしながらそのあまりの戦闘性と意外な文化性が最初はまったく予想がつかなかった事態の到来だった。モンゴル帝国の出現である。

 13世紀のはじめに内陸アジアの片隅に突如として出現したモンゴルのことを、ここでゆっくり紹介することはできない。その歴史はあまりにも怪物的でありすぎる。
 しかし、モンゴルが東アジア全域にイスラームをもたらしたこと、そのモンゴルはトルコとともに遊牧民の王者であったこと、さしものモンゴル帝国に翳りが見えたとき、その後継としてあらわれたのがティムール帝国というトルコ語を駆使するイスラーム帝国であったことなどは、その要点だけでも知っておく必要がある。
 イスラーム世界にモンゴルが姿をあらわしたのは、1219年から7年にわたってチンギスハーンがホラズム・シャー王朝への遠征のときである。この王朝は、中央アジア・西アジアに旭日の勢いで100年ほどパミール高原の東西を制圧していたカラ・キタイ(西遼)の宗主権をはねのけた王朝で、当時はアフガニスタンからバクダードを狙うほどの勢力をもっていた。中心にはアッラー・アッディーン・ムハンマド2世がいて、このまま新たなイスラーム世界の中央にのしあがっていくかに見えていた。
 このホラズム・シャー王朝をチンギス・ハーンはあっというまに撃沈させたのである。この事件はモンゴル軍が中東イスラームにデビューを果たした記念日を示すとともに、イスラーム世界がモンゴルを引き込む出入り口となった記念日でもあった。もっと正確にいえば、この中東におけるモンゴルの登場は、イスラームの“世界化”をもたらすことになったのだ。
 なぜそうなったのか。モンゴルがもともとそのような可能性を秘めていたからだった。
 チンギス・ハーンがモンゴルの草原で名乗りをあげた頃から、すでにその周辺はムスリムの商人や側近が取り巻いていたのだし、クビライが南宋を接収して海上ルートを掌握し、中国に元を樹立したときも、それを企画演出していたのは、もっぱらクビライによって抜擢されたムスリム経済官僚だったのである。
 それゆえ、チンギス・ハーンの孫のフレグ(クビライの弟)がシリアに進攻し、ダマスクスを落としてイル・ハーン朝(フレグ・ウルス)を建てたときも、獰猛と恐れられていたモンゴル軍がさきほどのべたようにアッバース朝を滅亡させたときも、とくに誰も驚かなかったのだ。モンゴルは「部分イスラーム」を体に秘めたまま「世界イスラーム」に向かったのである。
 最近の歴史学では、このようなモンゴルのイスラーム世界化を、歴史上初の「世界史」の確立と呼び、これを「パックス・モンゴリカ」と名付けるようにもなっている。


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13世紀のイスラーム世界と東アジア
 

 従来のイスラーム史では、アッバース朝の分裂と衰退がイスラーム世界全体の停滞と衰退だとみなされていた。とりわけ13世紀にモンゴルがバグダードに侵入してアッバース朝を滅ぼしたことは、イスラームの衰退とは言わないまでも、拡散であったと解釈されていた。
 また、11世紀末に始まる十字軍運動や、15世紀末からの大航海時代の到来も、イスラームに代わって西欧キリスト教社会の世界化であるとみなされてきた。しかし、事実はまったくそういうことではなかったのだ。
 たしかにアッバース朝の分裂以降、イスラーム世界の政治的な統一性は失われ、ムスリム諸国は地方王朝の分立状態になっていった。実は、もっと巨きなイスラームがそこに入りこんでいったのだ。すなわちモンゴルによるイスラーム世界の拡大は、イスラームによって世界が初めて「大交通時代」に入っていったということをあらわしていた。
 ヨーロッパが大航海時代を通して世界支配を開始したという16世紀においてさえ、イスラーム世界には次々に強大な王朝や帝国が出現し、アッバース朝をこえるめざましい繁栄が連打されていったのである。イラン・アフガニスタンのティムール朝、イランのサファヴィー朝、インドのムガール帝国、そして地中海周辺を領土となしたオスマン帝国である。
 このことはイスタンブールのトプカピ宮殿にいまも残っている膨大な中国陶磁器コレクションを見るだけでも、すぐわかる。そこには宋の青磁・白磁、明の赤絵、そして世界最大のコレクション規模を誇る元の染付(そめつけ)がひしめている。これらはすべてムスリムによってイスタンブールに運ばれてきたものなのだ。
 なぜヨーロッパの歴史はイスラームの不死身のような再生力や連打力を過小評価してしまったのか。食わず嫌いだったのではない。ヨーロッパはイスラームに食われっぱなしだったからである。

 いやいや、ここまで書いたところで、一夜ぶんの紙幅がいっぱいになってしまった。これはまずい。まだ、話はティムールにもムガールにもオスマンにも届いていない。近代イスラームの前提になる粗述すら済んでいない。これでは、その後のイスラーム社会経済の話にはつながらない。
 おまけに、今日は12月29日。昨日でやっと編集工学研究所と松岡正剛事務所の大掃除をかなり中途半端にすまし、今夜は納会ののちにまだ自分の部屋の片付けをしなければならず、さらに1月2日からの松丸本舗「本の福袋」の初荷の準備をしなければならないというのに、加えて1月7日からの「目次録」合宿の準備をしなければならないというのに、ぼくはまだモンゴル帝国の蹄(ひづめ)の乱打の余韻が聞えている状態なのだ。
 うーん、このままではとうてい、次の美しい『クルアーン』(コーラン)の話などに進めない。やむなく、この続きは次夜にすることになるだろう。けれども「千夜千冊」は毎夜、別の本をとりあげるわけだから、これを続きものにするわけにはいかない。どうするか。困ったな。
 ま、いいか。いつだって、ぼくはこういう羽目になるわけだ。きっと何かの手はあるだろう。それにしても、イスラムで暮れて、イスラームで明ける去年今年になった。まったく予想もしていなかった。でも、これって、いまの松岡正剛らしいのかもしれない。ではでは、除夜のクルアーン!

 

 

イスラームの歴史(全3巻)

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 本賀新年。今年もぼくの1年は「本を賀する」という日々になります。正確には「本に資する」というべきだけれど、それにしても、こんなにも本を相手に日々格闘するとは思いませんでした。
 理由は明白。このところどんどん“世相と思想と技相”が本を囲い込み、本を追い込み始めたからですね。一言でいって、世相はフラット、思想はゼロ年代、技相は検索主義ばかり。けれども、ここで本が逃げてはいけない。後ろを見せてはいけない。本だって“本気”で闘わなければ、まずいでしょう。ぼくとしても奥の手を繰り出してでも、時代は“本番”だと言わしめたい。
 で、松丸本舗では早々に、正月2日から7日まで「本の福袋」を供することにしたわけです。福原義春・コシノジュンコ・森村泰昌・やくしまるえつこ・美輪明宏・鴻巣友季子・ヤマモトヨウジ・長谷川真理子・ヴィヴィアン佐藤・しりあがり寿・前田日明・松本健一さんたち、総勢20人以上のゲストに頼みこんで(ぼくも加わって)、それぞれ数冊の本とお年玉とをブックギフトとして特別に用意してもらって袋詰めにしたんですね。
 2日の朝の開店2時間でどんどこ捌(は)けました。ありがたい「本の初荷」となりました。来店のみなさんに感謝、準備に奔走してくれた和泉PMらのスタッフに感謝。佐伯亮介のデザインもどんどこ冴えた。ともあれ今年も「兎の如くに読走し、亀の如くに読坐する」でありたいものです。これ、松丸本舗の新年の標語です。

 

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松丸本舗のエントランスに出揃った「本の福袋」(12月31日)

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17名の著名人ほか自治体、出版社が参加。
内容はいずれも数点の限定商品。

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「本の福袋」初売りの様子(1月2日)

 もちろん「千夜千冊」も“本番”が続きます。そろそろ1400冊目にさしかかる。一夜をこんなに長めに書いていていて、自分の残り時間にまにあうかとも思ったりもするのですが、まだしばらくはこの調子を守るしかないでしょう(そのうちスピードもスタイルも変えるつもり)。
 というわけで、やっと今夜の「千夜千冊」の話ですが、前夜があんなふうに尻切れとんぼ歴史になったので、今夜は前夜からタスキを受けた「本の駅伝」です(箱根駅伝はワセダだったね)。本で駅伝というのも、まあ連環篇にふさわしいといえば、ふさわしい。

 では、さっそくに入るけれど、今夜はいろいろ案じたすえにジョン・エスポジットが構成編集したオックスフォード版『イスラームの歴史』全3巻を掲げることにした。9・11直前に刊行されたものだが、序文にはイスラーム世界と欧米世界の軋みがそれなりに言及されている。
 とはいえこの本は中身は平たい歴史文化寄りのものなので、どのようにも案内可能になっている。とくにオールカラーの図版や写真が説得力があるので、以下、図版・写真はできるだけ挿入したい。目での理解も楽しまれたい。
 それよりなにより本書は正月にぴったりの杉浦康平のブックデザインなのだ。カバーはむろん、1巻ずつの本表紙や見返しがそれぞれイスラミック・バラエティになっていて、扉・章扉・本文組はモスクっぽい。図版のキャプションにして、左右の石積みなのである。

 

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『イスラームの歴史』の杉浦康平デザインの数々。
本表紙が3巻とも異なるイスラミック・ヴァージョンになっている。



 また、今夜も前夜に続いて本書だけではなく、前夜にあげた書籍とともに多くの本を参照することにした。いくつかはそこから図版を借りた。
 バーナード・ルイス『イスラーム世界の二千年』(草思社)、ルーズヴェンとナンジーの大型本『イスラーム歴史文化地図』(悠書館)、宮崎正勝『世界史の誕生とイスラーム』(原書房)、小滝透『宗教史地図イスラーム教』(朱鷺書房)、小杉泰・江川ひかり『イスラーム』(新曜社)、堀内勝『砂漠の文化・アラブ遊牧民の世界』(教育社)、護雅夫『草原とオアシスの人々』(三省堂)、ジャネット・アブルゴドの話題本『ヨーロッパ覇権以前』上下(岩波書店)、杉山正明『大モンゴルの世界』(角川選書)、鈴木董『オスマン帝国』(講談社現代新書)、河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国』(講談社選書メチエ)、山内昌之『イスラームと国際政治』『民族と国家』(岩波新書)、大塚和夫『イスラーム主義とは何か』(岩波新書)。
 それから、井筒俊彦『イスラーム思想史』『イスラーム文化』(岩波書店)、オリヴァー・リーマン『イスラム哲学への扉』(ちくま学芸文庫)、青柳かおる『イスラームの世界観』(明石書店)、嶋本隆光『シーア派イスラーム』(京都大学学術出版会)、R・A・ニコルソン『イスラムの神秘主義』(平凡社ライブラリー)、シャイフ・ハレード・ベントゥネス『スーフィズムとイスラムの心』(岩波書店)、横田貴之『原理主義の潮流』(山川出版社)、桜井啓子『日本のムスリム社会』(ちくま新書)、などなどだ。
 なお通史的な入門なら、前夜に紹介した佐藤次高・鈴木董・坂本勉が編集著作した『新書イスラームの世界史』(講談社現代新書)か、後藤明の『イスラーム世界の歴史』(放送大学出版局)が視点多様でいいのではないかと思う。事典ものはネットよりも、2002年刊行の『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)がうんといい。

 さて前夜は、モンゴル帝国がもたらしたイスラームの世界史的広がりまでを管見した。話はこのあとからのことになる。
 さしものモンゴル帝国にも、14世紀の中頃になるとユーラシア各地でヒビ割れが生じてきた。とくにモンゴル発祥の本拠地たるべき中央アジアのチャガタイ・ウルスが1340年代に東西に分裂し、西半分ではチンギス・ハーンの子孫による支配が途絶え、遊牧諸勢力の突つきあいになった。チャガタイ・ウルスは東西トルキスタンを中心にチンギス・ハーンの次子が治めた領土で、ウルスはモンゴル語の「国」という意味である。
 このモンゴル衰退期に頭角をあらわしたのがティムール(帖木児)という男だった。モンゴル貴族の後裔の軍人で、むろんムスリムで、トルコ語やペルシア語を自在に操った。ティムールは1370年に即位するとマー・ワラー・アンナフルを中心に、アフガニスタン・イラン・イラクにまたがる大帝国を建設していった。ティムール帝国の登場だ。
 パミール以東の中央アジアや北方草原地帯もティムールの宗主権を認めたので、モンゴル帝国時代の3王家(チャガタイ・フレグ・ジョチの3王家)の支配圏がすっぽりティムールの手に落ちたのである。拡張はそれだけにとどまらなかった。シリアのダマスクスに進撃してマムルーク軍を破ると、1402年には日の出の勢いのオスマン軍をアンカラ郊外に粉砕した。
 これで西方イスラームに見切りをつけたティムールは、一転、いよいよ念願の大元ウルス(元王朝)の復活をめざして、明の支配する中国への遠征を計画する。その途次の1405年、シル川流域の町オトラルであっけなく没した。

 

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750年までのイスラーム世界の拡大
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オスマン帝国の拡大を示す歴史地図(1328~1672)
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 ティムール帝国の短期的成功の秘訣は、遊牧的軍事力とオアシス定住民の経済力をハイブリッドにしたことにある。
 ティムール自身はつねに郊外の庭園に天幕をはって暮らすことを好んだ変わり者のようだが、イスラームの都市性にはすこぶる好意的で、サマルカンドをイスラーム世界のセンターキャピタルとすることにも熱心だった。
 ティムールの子のシャー・ルフもこの方針を踏襲した。長男のウルグ・ベクをサマルカンド太守とし、サマルカンドとヘラート(アフガニスタン)を極めて華やかな人工都市に仕上げていった。モスク、マドラサ(学院)、霊廟、ハーンガーフ(公共施設)、ハンマーム(公衆浴場)、バーグ(宮殿庭園)が次々に造営され、宮廷には当代一流の画家や書家が綺羅星のごとく集まった。アーティストたちはミニアチュールをよくし、カムラ(アラブ・ペン)をアクロバティックに操ったナスターリック書体でそれらをみごとに飾りあげている。
 学芸にも力を入れた。4代君主のウルグ・ベクがサマルカンドに天文台を建設して、みずから天体観測をしたこと、その観測にもとづいてキュレゲン天文表を編纂したことは、稲垣足穂(879夜)の『黄漠奇聞』の題材にもなっている。ぼくが若いころに夢中になった作品だ。ベグの学芸はペルシア語にもアラビア語にもトルコ語にもなって、広くイスラーム社会に知れ渡っていった。
 文芸でも、ヘラートのスルタン・フセイン、宰相のアリー・シール・ナヴァイーの時代にジャーミーが出て、近世ヘルシア文学を完成水準に仕上げた。このとき文章語として確立されたのがチャガタイ・トルコ語だった。

 ティムール帝国のあと、イスラーム世界を覆ったのは前夜にちょっと案内しておいたオスマン帝国である。西のモロッコと東のイランを除いて、ほとんどのイスラームの心臓部を支配した超大国で、しかも650年にわたる長寿を誇るとともに(1922年まで存続)、つねにヨーロッパ社会に脅威を与えつづけた。
 とくにハプスブルグ家との数百年にわたった歴史的抗争は、近世近代の東西にまたがる世界史の最大の出来事である。また、フェリペ2世と1580年に結んだ休戦協定は、いまなお地中海キリスト教圏とイスラーム圏との“世界境界”になっている。
 オスマンの原郷はアナトリアだった。そこはかつてはビザンティン帝国の片隅で、そのあとルーム・セルジューク朝が十字軍の来襲に耐えて、首都コンヤなどの都市にメスジット(モスク)が立ち並びムスリム・トルコ文化が華やいだところだった。
 そこへ13世紀半ばにモンゴル軍が侵入し、その後は群雄割拠が続いたのだが、そのひとつの軍事集団(ガーズィー)から指導者オスマン・ベイに導かれた動的結社が力をため、立ち上がっていった。オスマンはバルカン半島に入り、ついにビザンツ領に攻め入った。これを1324年に2代オルハンが、さらに1360年にはムラト1世が継ぐと、プルサやアドリアノープルを拠点に、しだいにその勢力を東西に広げていった。
 こうして、ムラトの子で「電光」の異名をとった4代君主(スルタン)バヤズィット1世のときにはアナトリアとバルカンの全土がほぼオスマン朝の手に落ちた。
 その強さは君主直属の軍団組織(カプクル軍団)にある。歩兵のイェニチェリ(新軍)はことに有名で、そのころ普及しはじめた鉄砲を使い、のちには領内のキリスト教徒の子弟を組みこむ少年徴集(デヴシルメ)すら、子供たちから憧れられた。そこにはメフテルと呼ばれた軍楽隊の整備もあって、これはのちのヨーロッパの軍楽隊に影響をもたらしたほどで、われわれにも「トルコ行進曲」がおなじみである。ズルム(オーボエっぽい管楽器)とダウル(ドラムに似た打楽器)がなんともいえない。
 もっともオスマンの拡張には紆余曲折もあった。バヤズィットは1391年から4度にわたってコンスタンティノープルを包囲するのだが、失敗している。さらにさきほど書いたように中央アジアの英雄ティムールとも一戦を交え撃退され、オスマン朝はいったんは分裂の危機に立った。

 オスマンが再統一されるのはバヤズィットの子のメフメト1世とその子の6代ムラト2世の時期で、ここでなんとか失地回復をすると、次の7代メフメト2世のときに一気に飛躍する。
 飛躍のきっかけは、世界史的にも大事件であったのだが、1453年に積年のコンスンタィノープル包囲を10万の大軍で了え、これを一挙に陥落させたことだった。三重の城壁で守られた都はハンガリー人ウルバンから提供された巨砲によって砲撃を受け、乱戦のなか最後のビザンツ皇帝コンスタテンティヌス11世は行方不明、ここに千年以上続いたビザンティン帝国(東ローマ帝国)が滅亡した。
 メフメト2世は本拠をエディルネからコンスタンティノープルに移し、アヤ・ソフィア大聖堂などを次々にモスクに改築し、街区(マハッレ)を整え、ティムール帝国同様、マドラサ、ハンマーム、救貧休職施設(イマーレット)などを造営して、帝都を「イスタンブール」と改称した。「飛んでイスタンブール」の歴史はここから始まる。
 メフメト2世の帝国拡張戦略はみごとであった。荒廃しきっていたビザンツ領土を回復させるため、まず各地からの移住を奨励すると、都市には旧ビザンツの臣民の安全を保障して組み込ませた。宗教政策においてもムスリム、ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒を巧みにミレット(宗教共同体)に分けて共存共栄させた。イスラーム得意のズィンミー制(保護制度)がうまく機能していったのだ。
 領土はべらぼうに広い。ペロボネソス半島、アルバニア、黒海地域、アナトリア、バルカン全土を掌中にすると、これでオスマン帝国は西欧キリスト教世界と対峙しうるイスラーム最大の版図と勢力をもつことになった。
 この勢いはメフメト2世が49歳で急逝したため、次のバヤズィット2世、1512年にはその子の9代セリム1世に継がれ、残る課題は北イラン地域のサファヴィー朝とエジプト・シリア地域のマムルーク朝をどう支配してしまうかということに移っていく。
 なかでサファヴィー朝が見逃せない。このことを書いておかなくてはいけない。「スーフィー」(神秘)と「マフディー」(救世主)の思想が横溢していたのだ。オスマン帝国のその後の強大化をスケッチする前に、その話をちょっとだけしておく。

 どんな宗教にも神秘主義の色彩がともなっている。イスラームの神秘主義的傾向を代表するのはスーフィズムだった。
 もともと9~11世紀頃の禁欲的な修行者(ズィクル)の言動や動向を「スーフィー」と呼んでいた。スーフィーは「羊毛」のことで、貧者の衣服をあらわしていた。やがて女性スーフィーのラービアらが登場して、神ーの愛や神と人の合一が強調されるようになると、ここに霊魂論・修行論・哲学・アリストテレス主義・新プラトン主義などが渾然と加わって、独特の神秘哲学あるいは神秘宗教になっていった。それが「スーフィズム」(アラビア語ではタサウウフ)だ。
 一般にはイスラーム神秘主義というふうに一括されるけれど、禁欲(ズフド)をともなうその内実は多様で、かつ深い。
 すでに何度も述べてきたようにイスラーム社会はシャリーア(イスラーム法)を根本とする。それが正統である。このようなイスラーム社会にとっては、最初はスーフィズムは危険なものだったので異端とみなされ、ウラマー(知識人→法学者)たちはこれを批判した。
 しかし、イスラーム神学の“中興の祖”となったアブー・ハーミド・アル・ガザーリー(1058~1111)は、ニザーミーヤ学院の教授として多数派のスンニー派(スンナ派)の最高権威の地位にありながら、「疑いのない知」とは何かを問うて懐疑主義に陥り、真理を求めて10年にわたって各地を放浪するうちに、真理(ハキーカ)はスーフィー的な直接体験(ファナー)にこそよらなければならないと悟り、『誤謬よりの救済』などを著わし、以降、神学にスーフィズムをとりいれるようになった。
 ガザーリーの深い思索と敢断が始まる前、イスラーム思想はイスラミック・ギリシアというか、グリーク・イスラームというか、アル・キンディー、ファラービー、イブン・スィーナー、イブン・ルシュドらによって、イスラーム哲学とアリストテレス哲学との融合が試みられていたのである。詳しいことは省くけれど、ぼくが70年代に井筒俊彦さんの著作に耽ったのはこのあたりの哲学問題だった。ガザーリーはこのような立場を批判した。
 こうしてガザーリーによってウラマーとスーフィーは宥和し、これがきっかけでスーフィズムは13世紀までにはイスラーム社会の全域に普及していった。スフィーたちはハーンカー(会合・礼拝・教育の施設)に居住あるいは参集すると、それとともに、これは当然のなりゆきだが、さらに徹底したスーフィズムを追求するスーフィー教団をつくっていった。これが「ターリカ」である。ターリカは「道」のことをいう。

 

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イラン南東部とインドのスーフィーの中心地となった
マーハーンのシャイフ・ニーマトゥッラー・ヴァリー(1431没)の廟。

 

 もうひとつ、スーフィズムがもたらしたものがあった。それは「マフディー」を求める思想だ。これは救世主(メシア)の思想である。マフディーは「神意によって正しく導かれたもの」を意味する。
 イスラームのメシア思想は、預言者ムハンマド(マホメット)を伝承としていくという立場そのものの中にある。ムハンマドは「終末が近づいたときには、自分の子孫からある人物が出現してあらゆる悪と不正を駆逐する」と述べていた。この言葉は『クルアーン』になく『ハディース』に残る。このムハンマドの末裔が指導者としてのマフディーと表現される。
 10~12世紀のマグリブ(北アフリカ)では、マフディー出現の噂が流布し、ファティーマ朝の初代カリフのアブドゥッラーがマフディーを自称した。ほかにもマフディーを名のる人物があらわれた。
 しかし、メシア思想を本格的に組み立てたのはスーフィズムだったのである。マフディーは「完全なるスーフィー」とあらわされるようになったのだ。
 この思想はつづいて「十二イマーム派」に採り入れられて、今日なおシーア派の中心思想の一角を占めている。シーア派の90パーセントが十二イマーム派で、今日、イラン・イラク・アフガニスタン・レバノン・インド・パキンスタンに多い。なかでも現代イランではシーア派の宗教権威が最高指導者に君臨し、大統領も十二イマーム派の男性に限られている。
 十二イマーム派についてはいろいろ語るべきことが多いのだが、それはいまは省略して基本のところだけを言うと、その特色は「イマーム」という「位」の去来動向にあった。

 イマームは一般ムスリムにとっては自分たちの地区の「導師」を意味するにすぎない。しかし歴史的にも思想的にもイマームの問題は予断をゆるさないものを秘めている。とくに十二イマーム派にとっては、イマームはムハンマドの娘ファーティマとアリーの子孫でなければならず、それゆえ「全知」であって「不可謬」なのである。
 シーア派も正しい知識はイマームのみによって得られるとみなし、全ムスリムはイマームに従わなければならないと考えた。これはスンニー派のイジュマー(共同体主義)と対立した。長きにわたるスンニーとシーアの対立はこのあたりからも始まっていた。
 このようなイマームの見方が出てきたのは、歴史的には 874年に11代イマームのハサン・アルアスカリーが没したとき、まだ幼かった12代イマームのムハンマドが姿を消した出来事に関連する。12代イマームは“異次元”に隠れたとされ、これが“お隠れ”(ガイバ)と解釈されたのだ。
 12代イマームは874年に小ガイバに入り、そのときはまだイマームと交信できる4人の側近がいたが、941年に最後の側近が亡くなると、その後は現在まで大ガイバの時代に入った。しかし実はイマームは死んではおらず、いつか必ず帰ってきて、救世主マフディーとして再望する。
 そう、解釈されたのである。ガイバとはなんとも神秘的なお籠もりディメンションを演出したものだが、このような見方をとったのが十二イマーム派だったのだ。

 話がちょっと長くなったけれど、何を説明したかったかというと、サファヴィー朝は、以上のスーフィズムとマフディー=イマーム思想を前提とした十二イマーム派の信仰を“国教”とした王朝だったということなのである。
 そもそもサファヴィー朝の原型が、神秘主義者シャイフ・サフィーユッディーン(1252~1334)によってイラン北西部のアルダビールに創立されたサファヴィー教団というスーフィー教団だったのである。だから15世紀にはこの教団の指導者は信徒のシャー(王)とも「隠れイマーム」ともみなされた。サファヴィー朝はこのような教団の力を背景に確立されたのだった。
 実際のサファヴィー朝は1500年に着位したイスマイール1世によって栄える。首都は最初はタブリーズで、ティムール朝のヘラートの画家たちが移され、工房や写本図書館が充実し、かの『シャー・ナーメ』(王書)が著作編集された。その後、アッバース1世によって新たにイスファハーンに首都が建設されると、ここがイラン文化の中心になった。
 サファヴィー朝では、国教として十二イマームのシーア派が尊重されるとともに、イスファハーン中心の学芸においても充実した。ミール・ダーマードやムッラー・サドラーはスフラワルディの神秘思想とイブン・アラビーの哲学と新プラトン主義を結びつける独自の学風を展開した。イスファハーンの全貌こそ、サファヴィー朝の最後の作品であった。
 スフラワルディには、シハーブッディーン・スフラワルディと叔父のアブドゥルカーヒル・スフラワルディと、照明学派(イシュラーク)のシャイフルイシュラーク・スフラワルディがいるけれど、照明学派のスフラワルディ(1145〜1234)については『遊学』(中公文庫)を読んでみてほしい。35年前のぼくの拙(つたな)い文章だ。

 

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1520年代にサファヴィー朝の
タフマースプ1世のために作られた『シャー・ナーメ』

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イスファハーンの王の広場には4つの門がある。
これは西側のアリー・カープー(至高の門)。

 

 ということで、ここでやっと話を戻すけれど、このサファヴィー朝の栄光に業を煮やしたのがオスマン朝のセリム1世だったのだ。
 そこで1514年、セリム1世はサファヴィー朝遠征を企て、チャルディラーンの戦いをおこした。この大会戦は、その後のイスラーム世界においていかにオスマンの力が圧倒的で、東方イスラーム社会も西洋キリスト教社会も、これにはとうてい敵わないことを知らしめたものだった。つまりサファヴィー朝との激突がオスマンをしてオスマンたらしめたのである。
 これで勢いづいたセリム1世は、このあとシリア北部とカイロ東北部で二度にわたってマムルーク軍を破り(マムルーク朝滅亡)、これによってオスマン朝はエジプト・シリアのほうを領土にすることになる。

 セリム1世を継いだのがスレイマン1世である。10代スルタンであり、カリフであった。スレイマン大帝と呼ばれる。
 スレイマン大帝の時代、オスマン朝はアナトリア、バルカン、エジプト、シリア、アラビア半島、ハンガリー、イラク、イエメン、リビア、アルジェリアを治めて、大オスマン帝国となった。ベオグラードを落とし、ロードス島ではヨハネ騎士団を駆逐した。地中海世界のほぼ4分の3をオスマン帝国の領土とした。
 とくに1529年に大軍がウィーンを何度か包囲したときは、ヨーロッパ全体が震撼となった。以降、オスマン帝国はハプスブルク帝国との宿命の歴史的対決関係に入っていく。
 オスマンの力はトルコ行進曲を響かせた陸の制覇力だけではない。スレイマン大帝は大艦隊をインド洋にも送った。ヨーロッパはこの「海のオスマン」にも驚いた。なぜなら1497年にヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰まわりの航路が発見されて以来、ポルトガルをはじめヨーロッパ社会は植民地開拓に乗り出して、てっきり「ムスリムの海」を分断したと思っていたからだ。ところがどっこい、そうではなかったのである。
 スレイマンの軍隊は、名にし負うイェニチェリ歩兵軍団に六連帯衆と呼ばれた騎兵軍団を加えたカプクル軍団を中心に、そこへさまざまな補助軍団を出入りさせ、その上に君主直属の常備軍と、大帝の専制を水ももらさず強化する官邸奴隷集団が管轄しているというもの、すべて俸給制の精強兵力システムになっていた。
 そのオスマン帝国を経済的に支えていたのは遠隔交易と農業生産である。この収益を一括した徴税権で押さえ、地域ごとの租税は地域統括官たちにローカリティをいかした法令集(カヌーン・ナーメ)を随時編集して、できるかぎり自治力をもって対応させた。農地は徴税官(エミン)の管轄である。
 オスマン帝国を大帝国たらしめていったのは、こうした軍事力や専制力ばかりではなかった。それならモンゴル帝国もティムール帝国ももっていた。その地域ネットワークのしくみこそがこの大帝国を長期化させた。交通要所にはデルベント(関所)、道路沿いにはキャラバン・サライ(隊商宿)、町の中にはマドラサ(イスラーム学院)を中心に、大小のバザール(野外市場)とハーン(ビジネス取引所)を設置して、たえず経済社会のアクチベイトを欠かさなかったことである。イスタンブールのマドラサ「スレイマニイェ」は4つの神学校と医学校と伝承研究院を備えた帝国最大の複合学院である。
 日本ではあまり知られていないが、文化力も申し分ない。建築では巨匠ミマール・シナンが、絵画ではニギャーリーヤやマトラクチュ・ユースフが活躍し、文芸では古典定型詩(ディーヴァン)にトルコ語を完成させたバーキーや書簡作法(インシャー)の規範をつくったアフメット・ベイなどがそれぞれ登場して、スレイマン大帝文化を飾った。絶頂期だった。

 

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スレイマン大帝の肖像画。
ヨーロッパ諸国の指導者に対峙する
威厳を意図的に描いた。

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イスタンブールのマドラサ複合施設(1557)の威容。
4つの神学校と医学校と伝承研究院が組合わさっていた。

 

 1566年、スレイマン大帝が71歳で死んだ。13回目のハンガリー親征の陣中での死だった。
 次のセリム2世も大帝の意志を継ぎ、東地中海に残ったヴェネツィアの拠点のキプロス征服に向かった。しかし大帝とはその迅速力がちがったのであろうか、この遠征にはヨーロッパ・キリスト教社会がすばやく反応し、ローマ教皇とハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が提携し、キリスト教連合艦隊を結成し、1571年にキプロスがオスマンの手に落ちたあと、レパントでオスマン艦隊を破った。これがいわゆるレパントの海戦である。
 レパントの海戦における西側の勝利は、その後も西洋の東洋に対する過剰な自信の要となるのだが、またヨーロッパの教科書には「このとき以来、メフメト2世とスレイマン大帝によってさしもの栄華を誇ったオスマン帝国もついに衰退していきました」と書かれているのだが、実際はそうではなかった。
 セリム2世の後のムラト3世やメフメト3世がスルタンになった時代は、たしかに内憂外患の時代にはなったものの、ムラトは西のハプスブルクとの、メフメトは東のサファヴィーとの抗争をあきらめなかったのである。オスマン帝国は依然としてイスラーム世界の覇者でありつづけたのだ。かくて世界史は、エリザベス女王のイギリスとフェリペ2世のスペインが海の覇権を争い、いよいよヨーロッパ対イスラームの様相を呈していく。
 その後の17世紀のオスマン帝国については、ムラト4世が“トルコのモンテスキュー”の異名をとったコチ・ベイの助言を得て綱紀粛正を試みたり、ムラト4世やメフメト4世の母后が実権をとった“女人の天下”になったり、大宰相ファールズ・アフメット・パシャがふたたびハプスブルクに挑んで第二次ウィーン包囲をするなど、いろいろな時代が後続したが、ここはヨーロッパとの関係で本格的にスケッチしたほうがいいので、またの機会にしたい。
 今夜は、1699年のカルロヴィッツの講和条約がオスマン帝国とハプスブルク帝国の関係だけではなく、イスラーム世界とキリスト教世界との新たな一線を引いたということだけを、告げておく。

 ここまで、南アジア・東南アジア・東アジアについてはふれてこなかった。しかしイスラームの浸透はアジアの東においても驀進しつづけていた。その一端をちょっとばかり案内する。
 まずインドだが、この亜大陸では712年にウマイヤ朝のアラブ軍隊がインダス下流のスィンド地方を占領したのを皮切りに、トルコ系・モンゴル系・アフガン系の諸民族がインド西北に進出し、なかでもアフガン系のガズナ朝やゴール朝がヒンドゥークシュ山脈をこえて西北インドに侵入したことなどがあったものの、中世のインド亜大陸は総じてヴァルダーナ朝崩壊のあとは約500年ほど、政治的混乱と分裂をくりかえしていた。
 抵抗勢力が手ごわかったのだ。ヒンドゥ系のラージプート戦士集団のせいだった。それでも、デリーには奴隷朝(1206年成立)などのいくつかのデリー・サルタナット(デリーを拠点としたスルタン制の諸王朝)が、またデカン地方にはムスリムのチョーラ朝やバフマニー朝が2~300年ほど続くのだが、この地からヒンドゥイズムを除去することは難しかった。
 やむなくイスラーム軍は仏教を狙った。1203年、インド密教最後の聖地ヴィクラマシラー寺院が蹂躙されたのは、そういう意味でもはなはだ象徴的な事件だったのだ(820夜『インド仏教はなぜ亡んだか』参照)。
 事態が大きく動いたのは16世紀になってからである。ティムール出身のバーブルが分派して中央アジアに向かい、サマルカンドやウスベクと一戦を交えて失敗しながらも、その方向を北インドに転じて1526年にデリーを占領すると、ここについにインド亜大陸最大のイスラーム王朝となるムガール帝国の足場が築かれた。
 ムガールという王朝名には、察しがついたかもしれないが、「モンゴル→モグール→ムガール」という発音の響きが残っている。バーブルが連れてきた軍事力もトルコ・モンゴル系(いわゆるトゥーラーン系)が多かった。

 

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ムガール帝国の拡大する版図(1526~1707)大
(クリックで拡大)

 

 ムガール帝国を本格的に確立したのは3代アクバル大帝である。複雑な宗教状況をうまくコントロールして、6代のアウラングゼーブ時代までの100年ほどで、インドの大部分とアフガニスタンにまたがるインド史上最大のイスラーム帝国が仕上がった。
 アクバル大帝はかなり柔軟で英明な、融合的かつ折衷的な統治意識と文化感覚をもっていたようだ。
 支配のための組織システムではマンサブダール制を採用した。すべての臣下にマンサブ(位階)による上下をつけ、そのマンサブ数に相当する給与をジャーギールと呼ばれる土地から上がる税収で支払うのだが、そのジャーギール地を2~3年で取り替えていたのだ。また、公式文書ではペルシア語を使いながらも宮中ではウルドゥ語を交わせるようにもした。
 宗教政策では、ヒンドゥイズムにひそむバクティ信仰をスーフィズムの親和性で捉え、ターリカ(ここではスーフィー教団)の言動動向に近づけさせている。これはムガール帝国を訪れたイエズス会士の手紙に残ることだが、大帝はキリスト教にも理解を示したようで、イエズス会からはキリスト教徒とも感じさせていたらしい。
 13歳で即位して50年におよぶ治世に君臨したアクバル大帝は、実は家康とまったくの同い歳である。家康が採った譜代・外様の政策や寺請制度・寺門制度とくらべると興味深い。
 ムガールについては建築物もひときわ印象深い。大帝が父フマーユーンのために造営したフマーユーン廟、アグラから40キロほど西のスィークリーに赤砂岩で建てたスーフィーのためのシャイフ・サリーム・チシュティー、スィカンダラーのアクバル自身の廟、シャー・ジャハーンが愛妃のムムターズ・マハルを偲んだタージ・マハル廟など、枚挙にいとまがない。

 

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孫のシャー・ジャハーンが1650年頃に描かせたアクバル大帝像。
大帝もまた修行に余念がなかったことが表現されている。

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アクバル大帝が父フマーユーンのために造営したフマーユーン廟。

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スィークリーに建てたスーフィーのための
シャイフ・サリーム・チシュティー。

 

 現在、東南アジアには総人口2億強の各地域に、約1億4000万人のムスリムが住んでいる。40パーセントを超える。インドネシア、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、ミャンマー、タイ南部、フィリピン南部が多い。ちなみに上座部の仏教徒が約30パーセント、キリスト教徒が13パーセントくらいで続く。
 最初にイスラームが入ったのは「海のムスリム」が到達したマレー社会だった。スマトラの『パサイ王の物語』には、東南アジアで最初にイスラームに改宗したパサイ王の往時の日々が描写されている。
 東南アジアはもともとインドと中国の影響を受けてきた。「インドシナ」という地域名にそのことが顕著にあらわれている。そこにイスラームが入ってきたので、社会構造が3層になった。一番下に「ピー」がすだく土着文化が広がっていて、その上にインド・中国文化が乗り、そのさらに上から傘のごとくにイスラームが覆ったわけである。しかし、最後に覆ったイスラームがめっぽう強かった。現在にいたる東南アジアの生活の日々にも変化をもたらした。
 このことはマレー・イスラームの社会文化にその特徴がよくあらわれている。主に8つの特徴だ。今日のイスラーム社会文化を見るのにもヒントになるだろうから、列挙する。

 

  ①個人の通過儀礼のイスラーム化(とくに割礼と土葬の普及)

  ②太陰暦による年中行事の普及

  ③モスク中心の地域社会の形成

  ④『クルアーン』(コーラン)を中心にした学習環境の整備

  ⑤スンニー派学派を中心としたウラマー

  ⑥神秘主義と聖者崇拝の傾向

  ⑦王権と王族・貴族の契約・合議によるスルタン制

  ⑧アラビア文字によるマレー語の表記(ジャウィ)

 

 これでおよそが察せられるように、東南アジアにおけるイスラームの浸透は政治・法律・経済・文化・生活のいずれにも「変容」をもたらしたのだ。
 東南アジアのイスラームをここまて活性化させたのは、主として東西交易を担った海港都市マラッカ(ムラカ)によっている。インドと中国を結び、ベンガル湾と南シナ海をつなげ、香辛料と陶磁器を運ぶマラッカ海峡は、大航海時代を代表する“ムスリム海峡”であり、1400年頃に建国されたムラカ王国に開港されたイスラーム交易の代表港だったのである。84種の言語が交わされていたともいう。ちょうど明の永楽帝が積極的な対外政策を採っていた時期だ。
 しかし、ここが1511年にポルトガル人の手に落ちてからは、マラッカはモルッカ諸島とスラウェシ島をかかえる「近代世界システムの多島海交易圏」に組み入れられていった。
 けれどもマラッカの多島海世界は、ポルトガルがそれを強引に望んだにもかかわらず、決してキリスト教化されることはなかったのだ。そのことはスマトラの北端に勃興したイスラーム王国アチェの興亡にも反映したことだった。

 

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マラッカ海峡から東南アジアへのイスラーム拡張ルート。
(クリックで拡大)

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ジャワ島ジョグジャカルタの集会モスク。
マタラム朝のカルタンが建設した。

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ジャワ島北岸のチルボンの集会モスク。
16世紀初頭の建設。傾斜した屋根に
この地域独特の曲線のイスラームとの習合が見られる。

 

 ふーっ。ま、今夜はこのくらいにしておこう。それにしても、世界で最も非イスラム的な日本の正月に、イスラームの歴史の潮流をとびとびに追って書くというのは、なかなか複雑な味のあるライティング・ワークだった。
 実は正月3日、評判がよすぎて飛ぶように売れていった「本の福袋」の状況を見るため松丸本舗に寄っていたのだが、そのときついでに丸善3階のイスラーム関係の書棚を見てみて、なんとも複雑な気持ちになったのである。8段ぶんの棚一つがイスラームでは埋められない。せいぜい4段がいいところ、あとはユダヤ教やアラブ関連本が適当にまじっていた。これは暮れの30日に渋谷東急本店の丸善ジュンク堂に寄ってみたときも同じことで、やはり棚一つを占められないままになっていた。日本はイスラームがよほど苦手なのである。
 ヨーロッパにとってはイスラームは敵対者ではあるけれど、歴史を同時に進展させてきたエンジンの両輪でもあった。オリエンタリズムによる見方の歪みはひどくもあったけれど、それでもずっと以前から「ムハンマドなくしてカール大帝なし」とも言われて、そういうことを学校で教えてもきた。アメリカにおいても9・11以降のイスラームへの関心は異常なほどである。
 アンドレ・フランクが『リオリエント』(1394夜)で、近世の世界経済が「銀」と「イスラーム」によってダイナミックに環流していたと述べたような視点は、いまやそれほど珍しくはなくなったのだ。「海の東西交易」についての議論はすっかり変貌したのである。
 いや、シルクロードだって、8世紀から12世紀にかけてはムスリム商人こそがウィグル商人やソグド商人を介して中国の銀を(金も)イスラーム世界にもたらしていた。

 今夜はふれる機会がなかったが、ロシアにとってもイスラームは濃い関係裡にあった。たとえば遊牧トルコ系のハザル・ハン国は、ヴォルガ河口の都市イティルを中心にウラル山脈南麓とカスピ海北縁地域をつなぎ、その影響力をクリミア半島にもビザンティン帝国にもおよぼしていったのだ。
 むろん中国では、永徽2年(651)に大食(タージ)国王が通商を唐の皇帝に求めたのをはじめ、モンゴルによる元朝(大元ウルス)支配はもとより、回回砲や回回暦などの科学技術の移入、清真寺(マスジト)の各地での建立など、かなりのイスラーム社会文化技能の中国化がおこってきた。16世紀には「大分散・小集住」と称されるムスリムの居住を律するチャイニーズ・ムスリムのライフスタイルの定着さえおこっていた。いまでも中国には1000万人のムスリムがいる。
 ちなみに、ぼくがひそかに関心をもっているのは、17世紀から18世紀にかけて「ハン・キターブ」と総称される、南京や雲南のムスリムたちによる異形の著作群があったことである。漢語で著述されたイスラーム経典のことなのだが、その翻訳は儒教・仏教・道教の用語との親和をこころがけていた。

 しかし、日本人にとってのイスラームはあまりにも遠いものになったままにある。むろんいくつかの理由はあろう。
 例の蒙古襲来があの程度におわったため、モンゴル・イスラームを日本列島はまったく感じることができなかったことということもあるだろうし、マラッカ海峡からジャワまで及んだマレー・イスラーム文明は、フィリピンで現地化していたキリスト教と正面からぶつかって対峙してしまい、イスラームが東シナ海を北上して日本に届くことがなかったということもある。
 それでも徳川時代には、新井白石(162夜)の『采覧異言』、石西川如見の『華夷通商考』、寺島良安の『和漢三才図絵』などにはちゃんとイスラーム事情が記されていたし、明治に入っても林董の訳述した『馬哈黙(マホメット)伝』(1876)や坂本健一訳の『コーラン経』(1920)が訳出され、東海散士の『佳人之奇遇』にはウラービー運動に呈する共感も述べられていた。「時事新報」記者だった野田正太郎がイスタンブールに入って日本人初のムスリムになり、その野田の仲介で山田寅次郎がイスタンブールでビジネスを展開したい日本の貿易業者たちの便宜をはかったことも、よく知られている。
 いや、もう少し日本のイスラーム研究は続行されていた。タタール・トルコのクルバン・アリーが満州から東京に移住して、東京回教学校を開設したのは昭和2年のことだった。さらには日本の大アジア主義運動が軍部に回教調査や回教研究をもたらして、陸軍中佐の大原武慶や山岡光太郎のイスラーム入信や大川周明の独自のイスラーム研究を触発したという動きもあった。大久保幸次・小林元・松田寿男が回教圏研究所を設立したのも昭和13年のことだ。ぼくは早稲田時代、入部したアジア研究会の顧問をされていた松田さんからこの話をやや詳しく聞いたことがある。

 けれども、戦後になると日本はイスラームの調査も研究もさっぱりやらなくなったのだ。井筒俊彦さんが『コーラン』をアラビア語から初めて翻訳したのが1957年、東大でイスラム学科が始まったのは1982年なのである。
 むろん戦後民主主義とアメリカによる政教分離政策とがイスラームとの接触を遠のかせたのだったろう。また、中国からもっとイスラーム近代の動向が日本に押し寄せてきてもよかったのだが、これは中国が辛亥革命以降に共産主義に傾いたことや、文化大革命期に清真寺の多くが毀損されていったことなど、そのルートがついに豊饒にならなかったという事情が絡んだ。
 こうしたことはあるのだが、日本のイスラーム音痴がこのままでいいということは、ありえない。湾岸戦争や9・11の語り方も、日本なりの語り方があるべきなのである。
 サウジアラビアの王立リヤド大学を出た小滝透さんは、『神の世界史』3部作(河出書房新社)や『宗教史地図・イスラム教』(朱鷺書房)などで、日本人がいまこそじっくりとキリスト教・イスラム教・仏教・神道を見つめなおして、日本の世界史的な座標を見定め、そのうえでセム系の一神教と法然や親鸞の阿弥陀信仰の相違をみずから抉(えぐ)るところまで実感的に考察していくべきではないかと、説いていた。
 このこと、井筒さんが晩年をイスラーム研究から唯識や大乗起信論の研究に没頭していったこととあわせて、正月三ヶ日にあらためて思い出したことだった。では、今年もよろしく、クルアーン。

 

 

図説コーランの世界

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 聖典『コーラン』。発音からすると「クルアーン」と表記する。本書もタイトルには“コーラン”が使われているが、本文ではすべて『クルアーン』になっている。
 コーラン=クルアーンは「読誦されるもの」という意味をもつ。イスラームは「帰依すること」の意味、ムスリムは「帰依する者」の意味だから、ということは『クルアーン』を読むこと自体が、ムスリムにとってのイスラームという帰依なのである。
 1396夜にすでに書いたことだが、ムハンマド(マホメット)がアラビア半島の砂漠地帯の中のメッカ(マッカ)のクライシュ族に生まれ育ち、この都市の多くの部族同様に商業に従事していたこと、ムハンマドがウンミー(文盲・非識字者)であったことは、『クルアーン』の中身にもその成り立ちにも大きく関係する。
 ヒラー山中で瞑想していたムハンマドに届いたのは、大天使ジブリール(ガブリエル)の「声」である。それは私の言葉を「誦め!」というものだったが、そう言われてもムハンマドは読めない。それでも大天使は「誦め!」を繰り返すので、ムハンマドはその通りにした。文字は読めなくとも言葉は聞こえる。見える。すると大天使はそのあとの言葉を続け、ムハンマドはそれを復唱しつづけた。こうして『クルアーン』は「口承」の言葉としてムハンマドの体と心と記憶にしだいに巨きく響いていった。
 これが『クルアーン』の始まりだった。そこには冒頭の「ヌーン」のような神秘文字が含まれるだが、それはやがて「書承」に転移していった。口承から書承へ。ここにおいて『クルアーン』は世界史上めずらしい“当初からの聖なる書物”となっていったのである。

 

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様々なクルアーン。
下段左から、大川周明訳『古蘭』、豆本のクルアーン、デジタル・ブックのクルアーン。

 

 アラビア語で書物のことを「キターブ」という。ムハンマドは大天使の言葉から、ユダヤ教の『トーラー』(モーセ五書)、キリスト教の『聖書』とともに、自分がいま受けた言葉は、自分たちが「キターブの民」であることを告げられたのだと確信した。
 こうしてイスラームは、『トーラー』も『聖書』も『クルアーン』も啓示による聖典、すなわち「啓典」だとみなすことになった。そこには口承と書承とがふたつながら互いに生きつづけた。
 『クルアーン』が口承から書承に転じたのは、初期にムハンマドの言葉をそのまま記憶復唱できる者たちになんらかの断絶がおこったか、もしくは少数になったためである。この記憶復唱できる者のことをクッラー(読誦者)というのだが、とくにムハンマドの死後数年で、このクッラーたちのあいだにずれが生じ、はたしてムハンマドの言葉が後世に正確に伝えていけるかどうか、心配が広がった。
 そこで2代目カリフのウマルが、仲間のなかでは一番知識があるだろう初代カリフのアブー・バクルに、ムハンマドの言葉の編集をするように要請した。アブー・バクルは「ムハンマドがしなかったことをしてもよいものか」と躊躇するのだが、ウマルの強い説得により、それならとザイドに編集を命じた。
 しかし、このときすでに読み方と書き方のちがいやズレがあらわれていたため(イラク地方とシリア地方の読誦に差異があったという)、3代カリフのウスマーンがクライシュ族の言葉づかいにあわせて書き写すように、ザイドに再指示をした。
 これが有名な「ウスマーン写本」という原典になる。「ウスマーン写本」が書承のスタートなのである。そしてここから『クルアーン』は写本の歴史になっていく。まさに華麗きわまりない歴史であり、タイポグラフィの宝庫とも、格別な書物のページネーションの歴史ともいえる。本書はその写本を図版と解説で伝えてくれる。

 『クルアーン』はカラム(ペン)とミタード(インク)をもって、板(ラウフ)、パーチメント(ラック=獣皮紙)、パピルス(キルタース)、のちにはワラク(紙)に書かれた。カラムは葦ペンである。板はノアの方舟の板ないしはモーセの十戒の書板とみなされた。
 書かれた言葉はむろんアラビア語で、書かれた文字はアラビア文字だ。アラビア語はセム語系の言語に属する。セム語系には、もともと東のメソポタミア系のアッカド語、北西の古典ヘブライ語・アラム語・フェニキア語、南西のエチオピア系諸言語などがあったのだが、これらがいくつか交じってアラビア語を形成したとおぼしい。
 アラビア語の社会言語学的な特徴は「二重言語性」(diglossia)にある。もともと文語(フスハー)と口語(アーンミヤ、ダーリジャ)がかなり異なっていた。おそらくは初期アラビア語においてすでにフスハーとダーリジャがナジュド(東アラビア半島)で併用されていたのであろう。『クルアーン』の音声的なアラビア語はそのなかでもヒジャーズ(西アラビア)地方の言葉が中核になって確立していった。
 アラビア文字は28文字にハムザ(’)を加えて、29文字でできている。この文字は主に北西セム文字から派生した。右から書き起こして左へ進むのだが、基本的には子音のみになっていて、母音は読む者や誦む者が補った。けれどもこれらはたんなるタイプフェイスとかフォントというものではない。すでに7世紀初頭の十二イマーム派の6代イマームのジャアファル・サーディクによって「ジャフル」(神秘文字解読術)が唱えられていたように、そこには音価があった。文字の音価を足したり引いたりできた。
 『クルアーン』はこの数秘術的に操作可能な文字群によって写本されていったのである。だから中身も格別だが、カリグラフィも尋常ではない。写本の全体もとうてい“ふつうの本”ではない。見ているだけでも溜息が出る。いやいや、溜息ではなかった。これらの写本からはまさに朗々たる“神なる声”が聞こえてくるわけなのである。
 では以下には、本書に紹介された「格別の書物」たちをいくつかピックアップしていきたい。

 アッバース朝(750~1258)の『クルアーン』はクーフィー体という書体で書かれている。10世紀までの『クルアーン』はほとんどクーフィーである。クーフィー体は『クルアーン』にしか用いられないほど神聖な力をもった書体とされた。その名もユーフラテス河畔のクーファに由来する。
 クーフィー写本では、図01が8世紀のアラビア半島に残されたもので古く、図02が10世紀のチュニジアのカイラワーンで写本された傑作。アッバース朝カリフのマアムーンが父のハルン・アル・ラシードを讃えるために写本させたと伝わる。図03も図04も9世紀か10世紀のもので、北アフリカで発見された。
 いずれも神聖力を秘めたクーフィックが並び、行の全体に一本の水平基準線が通っていて、岩に刻まれた碑文から転用であることを想定させる。すでにしてさまざまなアクロバティックなカリグラムが施されている。驚くべきことに、1つの単語が2行にまたぐことがある。たとえば図04の3行目の左端の文字は4行目の右端とつながって、2行にわたる単語表記になっている。
 また『クルアーン』には余白が存分にあって、欄外の花模様は図02が節の区切りを、図03が節の区切りをしめす花文。図04は章を示す花文で、上の花文の左の金文字が章タイトルを、下が節タイトルをあらわしている。

 

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図01
クーフィー体(アラビア半島 8世紀)

 

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図02
クーフィー体(カイラワーン/チュニジア、10世紀)

 

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図03
クーフィー体(北アフリカ 10世紀)

 

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図04
クーフィー体(北アフリカまたはスペイン 9/10世紀)

 

 『クルアーン』の写本には、多くの名人カリグラファーや達人カリグラファーがかかわった。そのきっかけは、アッバース朝の宰相でもあったイブン・ムクラが文字の幅や高さを基準点(ヌクタ)によってあらわす書法を編み出し、さらにはナスフ体、ムハッカク体、ライハーン体、スルス体、タウキーウ体、リカーウ体という「六書体」を発案したこによる。
 これを、名人イブン・バウワーブが華麗な草書体に仕上げていった。図05がそのイブン・バウワーブのナスフ体による写本、そのヴァージョンが図06や図07である。やっぱり溜息が出るほど、美しい。
 アッバース朝は1258年のモンゴル侵入によって崩壊した。これでイスラーム世界は多角化していくことになり、それが『クルアーン』写本をさらに多様化させていった。たとえば図08のライハーン体の写本(イラン)、図09のムハッカク体の写本(イラク)だ。図08では行間に小さな文字が入っているが、これは注釈のナスフ体である。一つの『クルアーン』の中で幾つもの書体が共存していったのだ。ヤークート・ムスタアスィミーといった達人がその華麗な技を発揮した。

 

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図05 イブン・バウワーブ書写 
ナスフ体・章題スルス体(バグダード 1000年)

 

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図06 
ナスフ体・章題スルス体(トルコまたはエジプト 15/16世紀)

 

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図07
ナスフ体(ヘラート/アフガニスタン 1430-1550年頃)

 

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図08
ライハーン体・注釈ナスフ体(イラン 14世紀)

 

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図09 アリー・イブン・フサイン筆写
ムハッカク体(モスル/イラク 1306-1311年)

 

 モンゴルの西征はイランやイラクにまで進み、そこにイル・ハーン朝(フレグ・ウルス)を樹立すると、ペルシア人を多く登用していった。このペルシア感覚の影響が『クルアーン』写本にもあらわれる。8代オルジェイトゥの時のアリー・イブン・フサイニーが名を馳せた(図08がその模本)。
 ついでティムール朝が1370年代に勃興すると、今度はトルコ人が多く登用され、ターキッシュ・カリグラフィとの混交が進む。首都ヘラートには宮廷写本工房が出現して、アリー・マシュハディーなどは本文に幾つもの書体を書き分けてみせた。
 ぼくはかつて杉浦康平さんとイスラミック・カリグラフィに溺れていたころに、ティムール朝のナスフ体・ムハッカク体・ライハーン体を「ドライ・フェイス」(乾いた文字)と、スルス体・タウキーウ体・リカーウ体を「ウェット・フェイス」(湿った文字)と呼んだものだ。今回、大川玲子さんのものをあれこれ読んでみて、実際にもそれに近い歴史的な呼び名があることを知った。
 図10がカイロに残るムハッカク体と章題スルス体のドライ・フェイスである。おそらくアナトリア(トルコ系)のカリグラファーの手になるものだと思われる。

 

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図10
アフマド・イブン・アリー・アジャミー・ムザッヒブ書写・装飾
ムハッカク体・章題スルス体(カイロ 1382/83年)

 

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図11
クーフィ体(アンダルシア/スペイン 13世紀)

 

 『クルアーン』写本の変容はまだまだ尽きない。それほどにイスラーム世界が地域を移り、時代を超えていき、そのつど大いなる「好み」を発揮していったからだ。
 マグリブやアンダルスに進出した後ウマイヤ朝ではマグリビー体(西方クーフィック)が生まれ、エジプトのマムルーク朝ではムハッカク体が好まれてアリー・バクルらの名人を輩出し、そのマムルークを1517年に滅ぼしたオスマン朝では文化の中心がイスタンブールに移って、シェイム・ハムドッラー、アフマド・カラーヒサリーといった書聖ともいうべき名人を生んだ。
 図11がアンダルシアに残るマグリビー体の写本、図12がグラナダに残った本文マグリビー体、章題クーフィ体の写本、図13はシェイム・ハムドッラーの独特のナスフ体による写本である。
 図14は天才カラーヒサリーが作った手本用のもので、右ページ上から、ムハッカク体(1行)、ナスフ体(3行)、ムハッカク体(1行)、ナスフ体(2行)、ムハッカク体(1行)ときて、左ページでは上からスルス(1)、ライハーン(3)、ムハッカク(1)、ライハーン(2)、リカーウ(9)というふうにみごとに異行体が進行する。「ヤークート・スタイル」といわれる。こんなこと、空海の雑書体以来、めったにお目にかかれない。
 もっともぼくは、いっときはムガール朝に発達したナスターリーク体が好きで、そのインド交じりのペルシア感覚に酔ったことがある。図15がカシミールに残っていた写本で、ペルシア語がナスターリークになっている。インドではそのほか、図16がその例だが、ビハーリー体などもあらわれ、鮮やかな色彩をともなった。

 

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図12
マグリビー体・章題クーフィー体(グラナダ/スペイン 1300年頃)

 

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図13 シェイフ・ハムッドラー筆写
ナスフ体・章題ムハッカク体(イスタンブル 1514年)

 

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図14 カラーヒサーリー筆写
「六書体」のうち5つを用いて書かれている。
(イスタンブル 16世紀)

 

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図15
ナスフ体・ペルシア語はナスターリーク体(カシミール/インド 1829年)

 

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図16
ビハーリー体・欄外の注釈はナスフ体(インド 16/17世紀)

 

 同じマグリビーでも、これが北アフリカから西方スーダンに入っていくと、さらに目も綾な民族色が滲み出てくる。図17がバーレーンに残っていた北アフリカ写本のマグリビー体、図18がやはりバーレーンに伝わっていた『クルアーン』の扉絵である。平家納経にも匹敵しよう。
 イスラーム社会は東南アジアのほうにも勢力を寄せていった。13世紀末にはスマトラに最古のイスラーム王国サムドゥラ・パサイ王国が成立し、14世紀にはマレー半島にマラカ(ムラカ)王国が誕生して、香辛料の公益で栄えた。とくにイスラームが本格的になったのは17世紀のアチェ王国で、マレー語をアラビア文字で表記する「ジャウィ」(ジャビィ)があらわれて、『クルアーン』をナスフ体のジャウィで書くという到達を見せている。このようないわば「書体のクレオール化」や「写本の装飾クレオール化」は、チャイナ・イスイラームでも顕著であった。
 図19がインドネシア風のジャウィ、図20が雲南(昆明15世紀)に残る中国風の装飾を施した写本である。

 

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図17
マグリビー体(北アフリカ 17-19世紀?)

 

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図18
(北アフリカ 18世紀)

 

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図19
東南アジア特有のアラビア文字「ジャウィ」(インドネシア 18/19世紀)

 

 以上、ともかく『クルアーン』写本の目を見張る意匠を堪能してもらった。しかしこれらはたんなる意匠やデザインではなかったのである。偶像や寓意に厳しいイスラーム世界が、文字とそのレイアウトのみによって世界を圧した「言葉と文字の芸術」だったのである。イスラームの「声に出せる言葉の芸技」だったのである。

 

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歴史序説(全4冊)

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  この男はあるときは学者で、あるときは裁判官、あるときは政治家で、あるときは亡命者だった。ゲーテ(970夜)より多彩だ。幕僚となって戦闘に加わり、地下牢に幽閉され、大法官となって裁いた。モンテ・クリスト伯(1220夜)より変幻自在だ。
 あるときは砂漠の遊牧テントに暮らし、あるときはクーデターに加担し、あるときは宰相となって宮廷で政務を執った。七つや八つの王朝に仕えたといえばすぐさま夢窓疎石(187夜)を想わせるけれど、国師にくらべてこの男のその行動範囲がケタはずれだ。チュニス、フェス、グラナダ、セビーリャ、カイロ、メッカ、ダマスカス、そのいずれでもその名が知られた。
 そのうえでこの男は、一貫して歴史的現在を見つめつづけた大思想者だった。その世界読書性はたちまちヘーゲルやヴィーコ(874夜)を想わせる。
 それが14世紀のマグリブとアンダルスの波濤から「世界」を見抜いたイブン・ハルドゥーンなのである。この男、圧倒的な観察と見識で歴史のダイナミズムを洞察しつつ、深い疑惑と闘いもし、山塞に隠棲して沈思黙考もし、そして厖大な記述に向かった。
 イブン・ハルドゥーンが書き上げた『歴史序説』は、初めて「文明」というものを思想の裡に抱握した画期的な大著作だった。この男にとっては「文明」とはそのまま「人間社会」のことだったから(そのように見たのはイブン・ハルドゥーンが最初だ)、これはまさしく「人間社会についての初めての学」が成立したということだった。

 

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イブン=ハルドゥーン像

 

 はたして西洋の歴史家たちはこのことに気がつくとギョッとして、さすがにその後はイブン・ハルドゥーンを畏怖をもって読んできた。「歴史は社会変化によって変質していく」ということを世界史上初めて説明しえたのが北アフリカの一人のムスリムだったことを、悔しくとも認めざるをえなかった。
 ヨーロッパはイブン・ハルドゥーンによって、初めて歴史社会学の構想と可能性を教えられたのである。
 それでも、アーノルド・トインビー(705夜)がイブン・ハルドゥーンを「トゥキデュデスやマキャベリの著作に匹敵する大著作をものしたアラブの天才」と絶賛してから、ずいぶんの月日がたつ。ヨーロッパの多くの識者たちが「アラビアのモンテスキュー」と称賛してからもだいぶんがすぎた。
 こうしていまでは、この男のことが議論にのぼることがめっぽう少なくなったようだ。ヨーロッパは、歴史を解明するエンジンを600年も前の北アフリカのイスラームの一思想家が“発明”したことを、いまや忘れてしまったのだろうか。それともあえて口にしないようにしてきたのか。
 少なくともアメリカ社会は、当初からこの男のことをすっかり置き去りにしてきたようだ。9・11がおこってもなお‥‥。

 日本ではどうか。日本ではもっとさっぱりだ。いや、もともとがさっぱりだ。恥も外聞も気にせず、イスラームに疎(うと)いことをもって鳴る日本では、イブン・ハルドゥーンの著作のことはおろか、その74年にわたった波瀾に満ちた生涯のことも、ほとんど知られていない。
 そのことを思うと、この男の話とはべつに、このところついつい頻りに考えざるをえないのは、日本人は何かの理由によってよほどのイスラーム嫌いか、よほどの苦手か、とんでもない食わず嫌いか、そのどちらかになってきたのは、どうしてなのかということだ。
 だいたい1億人以上の人口をもつ国でこれほどにムスリムが少ない国は世界中のどこにもないと言っていい。今夜はその理由について考えたところを述べる予定はないけれど、ふと漠然とは3つのことくらいは思いあたる。

 一つは、日本とイスラームに歴史的な実際交流がなかったということだ。東南アジアを怒涛の勢いで東漸してきたイスラームは、インドネシアからマラッカ海峡を渡ってフィリピンに向かうところでキリスト教との競合に堰止められた。
 中国を覆ったモンゴル帝国(元)が高麗軍とともに日本海の九州沖で撤退しことも、イスラーム知らずの歴史として大きかった。イスラームは一度たりとも本格的に日本列島に上陸しなかったのだ。
 二つには、日本人はイスラームの律法主義がわかりにくく、また受け入れがたかったということだ。そもそも「宗教は法律である」あるいは「信仰は法である」という考え方は、日本仏教のなかですら仏教輸入時にくらべてどんどん薄くなっている。最初のうちは東大寺や比叡山の戒壇院に有名なように、つまりは鑑真や最澄に有名なように、日本仏教も戒律をもって僧尼の覚悟を問うたのだけれど、やがてはこれが薄まり、法然(1239夜)や親鸞(397夜)においてはまったく新たな様相にまで行き着いた。日本人は社会の法と仏教の法とをつなげられなかったのである。
 三つには、日本にはセム系一神教に特有な「神に対する恐怖」がきわめて薄いということがあろう。イスラームにおけるアッラーに対する畏怖は「タクワー」とも言われ、『クルアーン』(コーラン)では「神を恐れよ」という投げかけが頻繁に告げられる。これは心理学的には身が縮みあがるような絶対的な“対神恐怖”というものなのだが、これが日本人にはさっぱりわからない。あるいは、そんなふうには神を絶対視しない。とくにイスラームの「タウヒード」(神の唯一性)が実感できないままなのだ。
 言ってみれば、日本人には神や仏はなんとなく感じさえすればいいわけだ。それが初詣と仏式葬儀とクリスマスとが、なんなく共存できている理由なのである。

 まあ、ことほどさように、日本人にはイスラームの核心が届きにくいところがあるのだろうが、この度しがたい症状についてはまたあらためて考えたい。それからついでに欧米には欧米の「オリエンタリズム」という度しがたい症状があって、そのことも気になるのだが、いまはイブン・ハルドゥーンのことから離れすぎるので、またの機会に語ってみたい。

 それにしても日本はイスラームに構えすぎてもきた。特別視しすぎてきたようだ。むろん研究者はべつである。
 たとえば、ぼくが早稲田のアジア学会で影響をうけた松田寿男はいつも愉快そうにイスラームの話をしていたし、宮崎市定(626夜)の東洋史にイスラームが欠落したり軽視されたりすることは、まったくもって、ない。だからこそぼくも気になって古本屋をたずね、前嶋信次や嶋田襄平や黒田寿郎のものを買いこんだりしたものだ。大川周明までは手が届かなかったけれど。
 そこへ登場してきたのが井筒俊彦である。『コーラン』を訳出した井筒の大いなる影響のもと、その後の日本には多くのイスラーム研究者が輩出した。少なくとも1982年に東大にイスラム学科ができ、その2年後に梅棹忠夫・板垣雄三らによって日本中東学会ができてからは、ぼくのようなシロートが眺めていても、日本のイスラーム研究はかなり充実したものになっていったのだ。とくに山内昌之の活躍や1395夜に紹介した加藤博らのイスラーム経済社会論の研究、また9・11以降の中東研究者の言動には目を見張るものがある。
 今夜の主人公イブン・ハルドゥーン(イブン=ハルドゥーンと表記されているが、ナカグロで済ませてもらう)についても、日本では日本なりに研究者のあいだでは、早くからその読み取りが取り組まれてきた。
 その嚆矢は藤本勝次の述懐によると、昭和21年12月に刊行された斎藤信治の『沙漠的人間』(桜井書店)に「イブン・ハルドゥーンの歴史哲学」の一章が書かれたあたりからだった。斎藤が昭和15年に横浜からエジプトに渡り、カイロの日本公使館で外務省研修生の小高正直と出会ったことが大きなきっかけだったらしい。大戦のさなか、斎藤は小高とともに『歴史序説』を一行ずつ虫が這うように読んでいったという。
 小高という人はなかなか偉い人物だったようで、その後はカイロ日本大使館の一等書記官やシリア大使になったのだが、昭和34年にアジア経済研究所が「イスラームの経済思想」を京大の東洋史研究室に委託研究したとき、藤本勝次・田村実造・羽田明・佐藤圭四郎・森本公誠・岡崎正孝らがその調査研究にあたることになり、それならまずはイブン・ハルドゥーンの経済観をこそ勉強しようというふうになって、そのうちの藤本・森本がカイロに赴いてまたまた小高の慄然たる研究姿勢に身をただされたのだという。以前はそういう文明に対して気概のある外交官が日本にもごろごろいたわけだ。
 こうして昭和39年(1964)に、アジア経済調査研究双書として『イブン=ハルドゥーンの歴史序説』上巻が、その2年後に下巻が陽の目を見た。その後、このメンバーの一人の森本が単独で翻訳にあたり、それが岩波から「イスラーム古典叢書」の3巻本(1979~1987)として刊行され、いまはそれが今夜紹介する岩波文庫版4冊本になっているのである。

 

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『歴史序説』の一部の写本にしか載っていない世界地図(左)。
「イドリースィーの世界地図」(右)とほとんど変わりないといわれている。

 

 こういうわけなので、日本もイブン・ハルドゥーンについては研究者たちのひそかな取り組みが続いていたのだが、この30年ほどの流れのなかで注目すべきなのは、講談社が大型企画「人類の知的遺産」全80巻に「イブン=ハルドゥーン」を入れたことだろう。1980年のことだった。本書の訳者の森本公誠がわかりやすい解説と部分翻訳をしている。
 ちなみにイスラーム圏からこの「人類の知的遺産」全80巻に“入閣”した思想家は、「マホメット」と「イブン=ハルドゥーン」の二人だけで、これは「墨子」(817夜)「王陽明」(996夜)「イグナティウス・デ・ロヨラ」「黄宗羲」「バクーニン」「ラーマクリシュナ」「フランツ・ファノン」(793夜)が“入閣”したことともに、この出版企画のすばらしい快挙だったと、褒めてあげたい。

 では、そろそろイブン・ハルドゥーンの御案内をしなければならないのだが、その前に、1395夜でとりあげた加藤博の『イスラム経済論』がいくつも指摘していたことを、当夜の千夜千冊ではあえて伏せておいたことを白状しなければならない。
 1395夜の段階では、イスラームの経済思想をイブン・ハルドゥーンまで戻って語るのは難しすぎると思ったからだ。けれども加藤はそこではイブン・ハルドゥーンだけではなく、その弟子筋のマクリーズィーの貨幣論の先駆性についてもあれこれふれていたのだった。
 加藤はイスラーム経済思想の原点の大半がイブン・ハルドゥーンにあったと見たわけである。それは藤本勝次や田村実造や小高正直が推察していたところとほぼ同じこと、それをさらにラディカルに捉えなおすものになっている。加藤は他の著作、たとえば『文明としてのイスラム』(東京大学出版会)でもくりかえし、このことを述べていた。
 ただし、そのことをうまく先取りして説明するのは、やっぱり難しい。そう、思えた。実はいまや、イブン・ハルドゥーンは今日の資本主義的な市場社会論とその偏向とをそうとう早くに先取りするものでもあったとも見られるようになっているからだ。
 それは、イブン・ハルドゥーンにはその国家論や社会論の基核として、連帯意識「アサビーヤ」や協業論「シャリカ」のことが、さらには社会分業論や剰余価値論が萌芽しているとみなされているからで(このことは以下で説明する)、とくに、連帯あるいは連結の意識が歴史のもっと重要な動因だと見抜いていたことは、イスラーム思想を歴史的現在に引き当てて語ろうとすると、現代社会思想の最前線に躍り出るほどのものであるからだった。
 ということで、ぼくもいささか弁解がましくなってしまったが、今夜はイブン・ハルドゥーンの現代的再解釈については突っ込みすぎないことにする。以下はその「人類の知的遺産」というかぎりにおいてのイブン・ハルドゥーンの御案内だ。

 では、この男の到達した歴史思想を概観しておこう。イブン・ハルドゥーンが到達した歴史観とそこから派生する国家観・経済観・社会観とは、次のようなものである。
 そもそもこの男が登場してきたのは、イスラーム世界が歴史にあらわれて700年後のことだった。だからそこには当然、700年間の前史が踏まえられている。それを一言でいうと、それまでにイスラーム思想はウマイア朝を通して法学・哲学・帝王学の3つの領域でそれなりの成果をもたらし、次の方向を模索していたのである。
 次の方向とは、①イスラーム共同体「ウンマ」が構成していくイスラーム社会にとって、どのような法が必要かということ(シャリーアの問題)、②指導者にはどういう資質の者がなるべきかということ(カリフの問題)、③イスラームにおける聖俗の一体性をどのように説明するかということ(神学の問題)、この3方に広がるものだった。
 ところが、アッバース朝(750~1258)の半ばあたりから変化があらわれたのだ。イラクにシーア派のブワイフ朝(946~1055)が成立し、続いてトルコ人のスンニー派によるセルジューク朝(1038~1194)がカリフからスルタンの称号を授与されるようになると、カリフの実際政治の権限がゆらぐようになり、世俗的な行政権が軍事支配力の持ち主の手に握られるようになってきた。
 こうしてシャリーア(イスラーム法)を現実の国家に適用するには、どのような政治制度が必要なのかということが議論の俎上にのぼってきた。あいかわらず法理論に耽るもの、ファーラビーのように理想都市国家を説くもの、アッバース朝期に入っていたプラトンやアリストレスの政治学を検討してみるもの、「君主の鑑」を議論するもの、いろいろの説が出たのだが、どれも全般に及ぶものがなかった。
 他方、すでにイスラーム世界がマグリブ(北アフリカ)やアンダルス(イベリア半島=いわゆるアンダルシア)にまで拡大して、まことにさまざまな政権と民族が交じるようになっていたという事情もあった。いったいイスラーム社会を律する政治や経済がどういうものであるべきか、事態はますます混沌としていったのだ。
 このような混乱する事態のなかで、新たな総合をもたらしたのがイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』だったのである。

 論旨ははなはだ明快である。まず5つほどの前提が説かれる。
 第1に、歴史がたんなる出来事の羅列なのではなく、そこには「社会」が組み立てられ、壊され、変更されていることを直視するべきだと言う。これをイブン・ハルドゥーンは「社会的な結合」の変化だと見た。
 なぜ「社会的な結合」に着目することがこの男にとって重要かというと、「人間」は結合と連帯と対立によって社会を生きていると見えたからだ。このことがなくてはパンひとつも得られない。そこには本来の相互扶助が生きている。
 ところが第2に、人間はこのような社会的結合を必要としているにもかかわらず、相手と闘い、相手を屈服させ、ひとり占めしたくなる。すなわち社会はつねに「競争」にさらされる。歴史を見るには、この「競争としての社会」というものを前提に考えなければならない。
 しかし競争は放置はできない。ほったらかしにすれば、度が過ぎたことがおこりうる。犯罪も多くなる。そこで第3に、競争社会において互いを守る仲裁者や抑制者が必要になる。イブン・ハルドゥーンはその仲裁者や抑制者の象徴を「王権」に見た。王権、すなわち支配権である。歴史はこの王権に象徴される権力と、さまざまな社会的結合と社会的競争との関係に立ち現れるはずのものなのである。
 他方、第4に、人間が住む環境にはさまざまな特色がある。気候、風物、産物、交通地理、生活様式は人間にも社会にも大きな影響を与える。社会の集団もこの地理的環境によってその特徴を変えていく。歴史はその環境特性と社会特性が交じり合った相克の描出なのだ。このことも前提にしなければならない。
 第5に、とはいえ人間には、そもそも理性的判断をこえた超自然的な知覚能力というものに左右されるところがある。そこには必ずや「神」が存在し、そのもとに人間と社会の組み立てができあがる。このことを無視しては歴史はまったく語れない。
 これらが『歴史序説』の基層観にあたるこの男の議論の前提だ。まことに堂々たる社会的歴史論である。

 さて、おおむね以上のような前提をバネに、ついでイブン・ハルドゥーンは人間社会の存在的領域を「バドウ」と「ハダル」に分けた。バドウは「田舎的なるもの」を、ハダルは「都会的なるもの」を意味する。
 バドウ(田舎)とは、この男が生きた北アフリカや西アジアでは砂漠や草原そのもののことであり、そこにおける人間はずばり遊牧民や牧畜民のことである。加えてしばしば農地と農耕民がいて、それらがバドウの特徴になる。これに対してハダル(都会)は都市定住性を特質とする。
 バドウとハダルには生計のちがいがある。これは「経済」のちがいである。バドウでは生活は遊牧的に動くので、集団を組んだり協同作業をするといっても、流動的になる。人口密度もめったに集中しない。一方、都会的なハダルでは商工業が中心となるから、定住が組みやすく、協同作業が継続しやすく、したがって人口が過密になっていく。
 歴史はまずバドウに始まってハダルに向かう。バドウが生活と社会の必需品をあらかた産み出し、ハダルはこれを加工したり消費したりする。こうしてバドウとハダルのあいだには「自然法」のようなものが生まれ、社会はこの二つのダイナミズムのなかで動いていく。
 ここで重要になるのは遊牧的なバドウにも、定住的なハダルにも、同様の連帯意識のようなものが生じていくということである。これをイブン・ハルドゥーンは「アサビーヤ」と名付け、最初は血縁集団に芽生え、やがては主従関係や盟約関係に発展して、これらが王朝あるいは王権としての歴史国家の「絆」となっていくのだと説明した。
 アサビーヤは単調なものでも、単純なものでもない。その逆だ。この男は早くもその「絆」は複合的であると喝破した。部族、氏族、親族、姓族がまじりあい、さらにそこに上下左右の結合関係がかぶさっていくとみなした。

 次に『歴史序説』の第3章で国家観が述べられる。ここではカリフ制についてだけではなく、イスラーム圏外の君主制を含め、かなり多くの政治体制にもとづく国家観が検討されている。
 きわめて啓発的なのは、国家は連帯意識アサビーヤが薄れてきても存続しうるシステムになっているという指摘だ。だからこそ王権国家は既存のアサビーヤからあたかも地上から浮上するように構築できるのだが、だからといってそこに宗教的要素を強く加えようとすると、かえって地上のアサビーヤが動きだし、必ずしも王権の安定をもたらさないと指摘した。なんとも鋭い。
 もうひとつこの男が鋭いのは、国家は必ず領土の拡張をめざすようになるものだが、ここには連帯の絆がどこかで切れてしまう臨界点が必ずあって、それをこえて領土を拡張しようとすると、ほぼてきめんに失敗すると予告されていることだ。国家とアサビーヤとが、つまり国家と社会との関係がみごとにデュアル・スタンダードに、ないしはミューチュアル・スタンダード捉えられているのである。
 こうしてイブン・ハルドゥーンは国家が仮にこれらのことを首尾よくコントロールできたとしても、いずれは専制化するか、あるいは奢侈や安逸を貪るはずだから、どんな王権国家も永遠ではなく、それどころかせいぜいのところ3世代で、いくつもの限界をかかえることになると指摘した。王朝1世代を約40年ほどと見たようなので、一つの王権は120年程度の寿命だと言い放つのだ。
 それを端的に、①王朝の樹立、②人民にたいする支配権の確立、③王権の安泰、④伝統主義への満足、⑤浪費と荒廃、⑥滅亡、というふうに図式にまでしてみせた。

 次にイブン・ハルドゥーンは、政治にはなんらかの拘束条件がなければならないと考えていく。「本性としての王権」はいかに純粋なものでも、そこには政治的規範がなさすぎる。その逆の自由放縦の王権はどんなオーダーも生みえない。このいずれでもダメだと言う。
 そこで、そもそも政治には、「宗教にもとづくもの」と「知性にもとづくもの」とがあると考えたほうがいいのではないか。そう推理して、「宗教にもとづく政治」では現世観と来世観が利用され、「知性にもとづく政治」は現世観のみによってその方針を徹するようになっているのではないかとみなしたのだ。
 前者の政治形態はイスラームのカリフ制に顕著であろう。後者の政治には二つの方向があって、ひとつは(A)支配者の利益が民衆にまで及ぶばあいで、古代ペルシア帝国や古代ギリシア政治がその例になる。もうひとつは(B)民衆の利益を一般化していくことによって政治が誕生していくばあいで、これはまだ歴史的には見られない。そうなっているのではないかと、見たのだ。
 ここまででもけっこう驚くべき洞察だが、そのうえでこの男は「宗教にもとづくもの」と「知性にもとづくもの」は統合できるのではないか、また(A)と(B)も統合できるのではないかと見て、ついには「シャリーアによる政治」を最もすぐれたものだとみなしていったのだ。成文化されきっていないイスラーム法がさまざまな政治形態を巧みに有効なものへ誘導していくだろうと見たのだ。

 概観するにしてはやや詳しくなりすぎたかもしれないが、話はこれではまだおわらない。『歴史序説』は第5章では経済論に、第6章では学問・教育論に入っていく。「富」や「知」のしくみに分け入った。
 すでにイブン・ハルドゥーンはバトウ(田舎)とハドル(都会)との格差が「富」をつくりだしているとみなしていたので、その格差にひそむものがどのようになっているかに関心を示したのだ。そこで発見するのは「協業性」「分業性」「剰余労働性」というものだった。ほとんどアダム・スミスやマルクス(789夜)に近いと言いたくなるほどだ。
 話はこういうことだ。人間は一人で生計に必要なものを得ることはできないから、互いに協業をする。そのような協業で得られた必需物資は、たんに各人が持ち寄ったものよりも数倍の需要を満たす。しかし、そこには剰余労働が関与せざるをえず、それにはバトウの労働がどこかで価値のかたちを変えてハダルに集中する必要がある。そうすると、そこではさらに徹底した分業がおこり、そこに富が生み出されていく。
 この流れは、ハダルにおいては「所得」をつくり、その価値に向かってバトウの生産が組み立てられていく。となると、バトウの「生産」とハダルの「所得」とをつなげる何かの活動や存在がそこに浮上するはずだ。
 ひとつは「労働」である。が、ほかにもある。イブン・ハルドゥーンはそれが「商品」であると見破った。のみならず商品にくっついている「価格」の役割にも注目したのだ。
 うーん、よくぞそこまで洞察が進むものである。おそれ、いる。加藤博が『イスラム経済論』(1395夜)で、イブン・ハルドゥーンとその弟子のマクリーズィーをことのほか強調したのも頷ける。
 しかしこの男は「富」の秘密に言及できたことなどに溺れていない。国家が過度の財産権を侵害すること、強制労働を強いること、労働力を売買しすぎること、国家が専売制に加担しすぎることを、ちゃんと咎めもした。

 最後に「知」についての歴史哲学が述べられる。その一端だけを紹介しておきたい。ぼくはここでも何度か膝を打った。
 イブン・ハルドゥーンが学問と教育の基礎とみなしたのはまずもっては「思考力」である。思考力こそが動物と人間を分け、社会に生計を発生させ、そこに協業や分業を発達させた。その思考力は真実を求めたいという衝動にもとづいている。
 けれども思考力は漠然としたものではない。思考にはいくつもの段階や特性がある。それを概括すれば「識別の知」「経験の知」「思索の知」というものだろう。識別知は「表象」を、経験知は「確認」を、思索知とは「識別と経験とを総合するもの」を、それぞれ担う。
 しかしこのような思考力を磨くだけでは人間は十分な「知」を統御できない。「感覚力」「思考力」「精神力」の3つがそろわなければならない。とくに精神力はさしずめ「天使の世界」につながるものだから、ときに人間と隔絶しているものたちへの敬意が必要である。これは論理では説明できない。信仰が介在する。
 こうしたことを前提したうえで、学問や教育には、一方では「哲学的な叡知のための学」と他方では「伝統と因習のための学」とが必要だと見た。またまたもって、まったくもって申し分ない。
 かくてイブン・ハルドゥーンは自分の研究を、かつて歴史にあらわれたことのない「新しい学」だとみなした。また自分こそが「文明の学問」を確立したと自負もしたのである。この自負、すばらしい。むしろ世界史がイブン・ハルドゥーンによって初めて「文明」(ウムラーン)を知ったと言ってみたいほどなのだ。

 以上が、『歴史序説』の概観である。さて、ここからはイブン・ハルドゥーンの波乱万丈・有為転変の生涯をスケッチしておくことにする。
 冒頭にゲーテもモンテ・クリスト伯もこれほどではなかったと書いておいたけれど、まったくこの男の人生はただならない。まあ、以下の人生をとくと眺めてみてほしい。

 イブン・ハルドゥーンは1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。この年はダンテ(913夜)が満を持して『神曲』を発表した翌年で、日本では鎌倉幕府が滅亡する1年前にあたる。ヨーロッパでは7年後にかの不毛な百年戦争が始まった。
 14世紀のイスラーム世界は8世紀のアッバース朝時代にくらべれば、ずっと拡大していた。十字軍は全世紀にシリアの海岸から追い払われ、小アジアやバルカン半島では新興のオスマン帝国がビザンティン帝国を着々と侵食していて、かつてはイスラーム外周圏だったスーダン、インド、インドネシア、中央アジアでも次々にイスラーム改宗がおこっていた。
 しかし、そのぶん王朝も政権も安定はしていない。当時の北アフリカ(すなわちマグリブ)は、3つの王朝、マリーン朝・ザイヤーン朝・ハフス朝が鎬を削っていた時期で、それぞれにスルタンやカリフがいた。そのなかのハフス朝は13世紀前半にムワヒット朝から独立したイスラーム王朝で、その首都がこの男が生まれたチュニスなのである。

 チュニスに生まれたのではあるけれど、イブン・ハルドゥーンの家系は8世紀にアラブ大征服時代にスペイン(アンダルス)遠征に参加した一族だったので、その子孫の多くはもともとセビーリャに住んでいた。
 しかしながら、イベリア半島にヨーロッパ人とキリスト教徒によるレコンキスタ(イスラーム排斥運動)が激しくなると、一族はセビーリャ陥落を前に北アフリカ(マグリブ)に移住してきた。
 イブン・ハルドゥーンがその一族ともども、チュニスに生まれたのはそのためだった。けれどもこの男には、どこかイベリア半島をこそ自分の原郷とみなしているようなところがずっとあったようだ。

 

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イブン=ハルドゥーン家のものといわれている中庭。

 

 1347年、マリーン朝スルタンのアブルハサンがハフス朝の領土に侵入した。チュニスは動揺するのだが、子供時代のイブン・ハルドゥーンにとって幸運だったのは、このときスルタンが多くの高名な学者たちをモロッコから連れてきて、側近に加えていたことだ。
 父親がその学者と交流したこともあり、そのうちの一人の哲学者アービリーがハルドゥーンの家に寄宿、頻繁に読書会を開いたようで、そこで数学・論理学・自然学・形而上学の香りが少年に植え付けられた。
 しかし、チュニス自体は歴史の揺動する運命にさらされつづけていった。スルタンがチュニス占領をしたのち、アラブ遊牧民がカイラワーンで反乱をおこし、スルタンがその鎮圧に向かったあとにはチュニス市民が暴徒化するのだが、そこへ黒死病(ペスト)が襲ったのである。ハルドゥーンの両親もこれで死んだ。16歳のころだった。
 マリーン朝のほうも安定はしていない。首都フェスでクーデターがおこり、スルタンは帰っていった。両親を失って悲嘆にくれながらも、かえって勉学に励んでいた。イブン・ハルドゥーンは、やがてその学識を認められ、ハフス朝の国璽書記官についた。それでも、まだ勉学への憧憬やみがたく、フェスに赴いてマリーン朝の新たなスルタン(アブー・イナーン)に迎えられ、公文書の書記官を担当した。
 ともかくも、この時期のマグリブは不安定きわまりなかったのである。誰もが権力をもてるともいえた。これがこの男の生涯をゆさぶっていく。
 イブン・ハルドゥーンもついつい密議に参画し、それが露呈して投獄されるようにもなったのである。この男、プラトン的な意味で、政治にめっぽう関心があったのだ。おかげで失敗も多く、獄中では1年9カ月の日々をおくっている。
 釈放後も政変劇にかかわった。マリーン朝のスルタンの弟アブー・サリームを即位させる陰謀にからんで、これを成功させた。国璽尚書についたのがこのときだ。
 けれども、こういう軽挙妄動が長続きするわけはない。何度も二重三重の喝采と失意を味わうことになり、このような経験がやがて『歴史序説』のなかの王朝論や政権論になっていったわけである。

 1362年、この男はグラナダへ行く。憧れの父祖の地への待望の帰還であったが、ナスル朝スルタンのムハンマド5世との親交が深まったからでもあった。ムハンマド5世がグラナダ入城をはたすべく戦っているあいだ、その留守家族の面倒を見たという間柄になっていたせいである。
 以降、ムハンマド5世はグラナダ王国の君主としてイブン・ハルドゥーンを重用し、当時はセビーリャを治めていたカスティリア王ペドロ1世の修好使節に抜擢されたりもしている。このときペドロ30歳、ハルドゥーン31歳だった。
 このようなことはこの男の政治的理想をいっそう滾(たぎ)らせたようだ。自分の原郷とおぼしいスペインの地にイスラーム政権を永続的に定着させたい、それにはムハンマド5世を英明な王に仕立てなければならない、そういう思いが募ってきたのだ。
 こうしてムハンマド5世に自分のもつありったけの知識を投下するという、いわば帝王学のための日々が費やされた。スルタンのための論理学のテキストさえ書いた。
 むろん、こんなことが容易に実行できるわけはない。北畠親房(815夜)や吉岡松陰(553夜)も、この手のことは失敗する。案の定、ムハンマド5世の宰相として君臨しつづけていたイブン・アルハティーブがこの計画を外しにかかった。
 やむなく歩調をゆるめているところへ、耳寄りな一通の手紙が届いた。ハフス朝の王族アブー・アブドッラーからのもので、ペジャーヤの主権を回復することができたから、イブン・ハルドゥーンを国政の最高責任者たる「ハージブ」(執権)に迎えたいというのだ。
 ペジャーヤは小国とはいえ一個の独立国である。この男の理想を実現するにはもってこいのサイズだ。ところが、スルタンに支配者としての資質が欠けていた。ハルドゥーンの懸命の努力にもかかわらず、住民からの支持は失われ、そこへ隣国コンスタンチーヌが戦いを挑んできて、敗北。スルタンは殺された。 

 

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ペジャーヤ(16世紀頃の銅版画)

 

 最悪の失敗である。さすがのこの男も打ちのめされる。苦悩する。事は哲学の教科書通りにはとうてい進まない。プラトン(799夜)やアリストテレス(291夜)ではままならない。
 現実の国家や社会というものは実に変転きわまりないものなのだ。それが歴史というものなのだ。これは根本から考えなおさなければならない。まずは神の偉大を自覚しなければならない。そのうえで、新たな知識の探求に向かわなければならない。
 こうしてこのあと、イブン・ハルドゥーンは約9年にわたる転身と放浪と旅路についた。これはあえて引きかぶるイニシエーションであったろう。
 途中、トレムセン、フェス、グラナダなどを巡り、野宿も投獄も逃亡も、疲労も思索も解放感も焦燥感も体験しながら、1375年にアルジェリアの町フレンタセ近くの山塞イブ・サラーマの寓居に辿り着くと、ここで一念発起、一気に『歴史序説』のあらかたを書き上げるのである。1377年11月のこと、45歳になっていた。
 このあと『歴史序説』の序論「イバルの書」を書き、さらに概論から本論に移ろうとして、ついに倒れた。過労が重なったのである。1年ほど病床に臥せると、さすがに生まれ故郷のチュニスに帰りたくなっていた。すでにハフス朝は再興されていて、スルタンも新たになっていた。
 ペジャーヤを征服した隣国コンスタンチーヌの太守アブルアッバースが新スルタンになっていたのだ。イブン・ハルドゥーンからすればかつて反目していた相手ではあったが、アブルアッバースは快く帰国を認めた。こうして26年ぶりにチュニスに戻る日がやってきた。

 実はこのようなイブン・ハルドゥーンの詳細な足跡は、彼自身が記した『自伝・東と西』(未訳)に詳しい。
 ぼくはこの概略を森本公誠の『イブン・ハルドゥーン』(人類の知的遺産)で追っているにすぎないのだが、それでもその毀誉褒貶いりまじり、雄弁と果敢と失態がくりかえされる劇的な人生を読んでいると、ときどきギリシア悲劇の劇的なシーンを何度も思い出した。また、誰かがソフォクレス(657夜)やアイスキュロスのように、イブン・ハルドゥーンの時代を物語や戯曲にするといいのではないかと、何度も思った。そうでなければ、デビッド・リーンの『アラビアのロレンス』に匹敵する映画にこそするべきだろう。
 それほどこの男の生涯はすさまじく、矛盾と葛藤に富み、また周辺の出来事はたえず世界史的で普遍的なのである。

 チュニスに戻ったイブン・ハルドゥーンは新たなスルタンのアブルアッバースに、『歴史序説』で書きあげつつあった「新たな学」を惜しみなく提供する。講義もいろいろな場所で開いた。
 その内容はたちまち評判になり、名声は一挙に広がることになるのだが、ところが今度はやっかみが出た。嫉妬が沸いた。やっかみや嫉妬だけではなく、その言説があまりにも現実味をおびていたため、危険視されるようにもなり、陰謀家とももくされた。それだけ「新しい学」が人心を刺すアクチュアリティに富んでいたということなのだが、これらのことはイブン・ハルドゥーンをまたまた悩ませた。
 1382年、ついにチュニスを離れ、メッカ巡礼を口実にエジプトに向かうとアレクサンドリアに、またカイロに赴いたのである。
 カイロでは新たにバルクークがスルタンに就いて、後期マムルーク朝が栄えていた。そのカイロを見てイブン・ハルドゥーンは腰を抜かして驚いた。殷賑、きらびやかさ、人口の集中力、富のあらわれ、いずれをとっても圧倒的なのだ。まさにハダルの輝きだ。カイロは「世界の都」であり、「文明の頂点」をあらわしていた。
 もっともしばらく滞在していると、信仰や道徳の面ではそうとうに堕落していることも見えてきた。この男、こういうところは見逃さない。文明とはそういう二面性をもつことが深く実感された。
 名声のほうは存分なものだった。請われてアズハル大学(宗教と学門の殿堂)で講義をもち、スルタンに謁見し、カムヒーヤ学院の教授に任命され、マドラサというマドラサにその名が知られると、さらにはマリーク派の大法官に推された。裁判官トップとしての日々が始まったのである。
 けれどもそこまで上りつめれば、またまた当然、反発は免れない。司法関係者は批判と攻撃を開始し、高官たちはイブン・ハルドゥーンにシャリーア(イスラーム法)の知識が片寄っていることを指摘した。それでもスルタン・バルクークはこの男を擁護したようだが、そこへ不幸なニュースが届いた。彼の家族を乗せてチュニスを出た船がアレクサンドリアの近くで嵐にあって難破し、バルクークに贈られるはずだった数頭の駿馬とともに海の藻くずと消えてしまったのだ。
 ハルドゥーンの不運に同情したバルクークは、彼をザーヒリーヤ学院のマーリク派法学の教授に任命するのだが、本人はここで何かを精神転換(コンバージョン)する必要があったので、いよいよメッカ巡礼に向かうことにした。およそ8カ月の旅であるが、ムスリムが生涯に一度は体験すべきものだった。

 メッカから帰ったイブン・ハルドゥーンは、スルガトミシーヤ学院の伝承学の教授に、ついではバイバルス修道院の院長のポストが与えられた。かなりの優遇だったが、またまた、またまた、うっかり奢ったようだ。スルタンはその姿勢が気にいらず、以降、9年にわたって公職を解かれた。
 やがてスルタンは食中毒で病没、長子ファラジュが10歳で即位したものの、これでは政権がおさまるはずはなく、まずはダマスクス太守が反乱をおこした。1400年、この鎮圧のために組まれた軍隊には、60歳半ばにさしかかっていたイブン・ハルドゥーンも同行させられた。
 行きたくもなかったダマスクスであったけれど、エルサレム、ベツレヘム、ヘプロンを訪れて、かえって「聖なる歴史」を遠望できた。
 それだけではなかった。歴史は何を結び目にするかははかりしれない。モンゴル軍の猛将ティムールがダマスクスに馬を蹴立てて進軍してきたのだ。これはマムルーク朝としても迎撃しなければならない。またしてもイブン・ハルドゥーンは同行させられた。

 ティムールはあっというまにダマスクスを落とした。ところがここで意外にも、ティムールがイブン・ハルドゥーンの消息を尋ねたのだ。それほどその名声が知られていたか、側近が耳打ちをしたのであろう。
 この男のほうもティムールが「世界の征服者」と呼ばれつつあったことに興味をもった。かくて、ここに64歳のティムールと68歳のイブン・ハルドゥーンとが陣中で会見する。まことに歴史的な会見だ。
 ティムールはこの老人の出身やカイロにに来た理由やマグリブの地理や情勢を聞いた。対してイブン・ハルドゥーンはネブカドネザル、ホスロー、アレクサンダー、カエサル(365夜)などの古今東西の英雄を持ち出して、持論の王権論を滔々と話したらしい。感心したティムールはさっそく著作を依頼、それが『マグリブ事情』となった。
 このイブン・ハルドゥーン最晩年におけるティムールとの出会いは、この希有な人物の生涯の最後をさらに劇的に染め上げている。もしもさらに寿命が10年のびていれば、きっとティムール帝国にそひむ王権や国家や経済の秘密を書き上げたことだろう。
 しかし、ようやくカイロに戻ったイブン・ハルドゥーンは都合6度目のマーリク派の大法官に任命されたのち、1406年3月16日に波瀾に満ちた生涯を了えたのである。73歳だった。

 

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ティムールの像

 

 どうだったろうか。これでイブン・ハルドゥーンについての御案内はおしまいだ。以上のことを現代に引っ張ってくるのは、またべつの機会にしてみたい。ひょっとして、ぼくが未見の欧米のイブン・ハルドゥーン論があるのかもしれないし、もしそうだとしたら、それらを読んでからのことになる。
 ともかくも、これで1394夜のフランク『リオリエント』に始めて、イスラームの歴史やその社会の変遷を見て、『クルアーン』とイブン・ハルドゥーンの紹介までを済ませたことになる。できれば井筒さんのイスラーム哲学史をまぜておきたかったが、井筒さんについては大乗起信論のほうをとりあげたかったので、割愛した。
 というところで、ちょうど次の夜が「千夜千冊」1400夜目にあたる。何を選ぶかはおたのしみにしてほしい。明日の夜半はぼくの67歳でもある。なんだか符牒があいすぎるみたいだが、イスラームとアラブに因んだ67歳の砂時計をひっくりかえした一夜に、多少はふさわしくしてみたいと思っている。老将ティムールとは出会えないだろうけれど……。
 

アラビアン・ナイト

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 今夜が1400夜目の千夜千冊だ。56歳のころにちょいちょいと書き出して、ここまでざっと10年ちょっとかかった。だから、いまや67歳だ。多少ながら感慨もある。長く続いたからではなく、やっとのこと1400冊目にしてアラビアン・ナイトとしての『千夜一夜物語』をなんとか組み込めたからだ。
 このウェブサイトを「松岡正剛の千夜千冊」と名付けたことについては、夙(つと)にアラビアン・ナイトの物語として知られてきたガラン版やバートン版の『千一夜物語』、あるいはわが知的青春期に決定的な影響をもたらした稲垣足穂(879夜)のショートコント集『一千一秒物語』を、当初から念頭のどこかにおいていた。それはずっとゆらめく海市のごとくにぼくのアタマを去来していた。
 そのため、最初の最初から「千夜千冊」とタイトリングしたにもかかわらず、松岡さんの今度始められた「千夜一夜」はおもしろいですねえとか、「本の千夜一夜」なんてえらいことを始めましたね、とよく言われたものだ。多くの人が「千夜千冊」ではなくて「千夜一夜」だと思ったようだ。
 なるほど「本の千夜一夜」でもよかったかもしれないが、これでは物語ばかりを扱うように思われてしまいかねない。また、これを「千一冊の本」というふうに思ってもほしくなかった。
 それならこれをちょっと捻って「千夜一冊」とするのもアリだったのだが、今度はそれではあまりにもアラビアン・ナイトやイナガキ・タルホに準じすぎる。それであえて「千夜千冊」としてみたのだった。
 それにぼくは、『千夜一夜物語』が1001の数に達した物語群ということではなくて、一夜が千夜におよび、その千夜が一夜にひそんでいるという意味だと理解したかったので、だからかっきり1001夜というのではなくて、夜に夜が継がれ、夜が夜に次々に織りたたまれていくような意味で、「千一夜」というより「一冊千夜」とか「千夜千冊」とかと、いささかナイトメアなイメージで呼びたかったのである。

 まあ、ぼくの話はそのくらいにして、そもそもアラビアン・ナイトの物語がなぜに「千一夜物語」とか「千夜一夜物語」と呼ばれるようになったかというに、原題が「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」と言った。これがもともと「千の夜と一つの夜」という意味だった。「アルフ・ライラ(千の夜)・ワ・ライラ(一つの夜)」である。
 これはアラビア語だ。「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」なんて、口でこのシラブルをころがしてみるだけで、アラビアンな感じがしてぞくぞくしてしまうけれど、しかし、この「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」はイスラーム文化圏の各地で伝承されてきた物語の断片的な群れのことをさしていただけで、たとえば『イソップ物語』や『ミリンダ王の問い』や『今昔物語』のように、何冊かの物語集成として編集を了えていたものではなかった。
 「アルフ・ライラ」という枠組は、たとえば日本の「百物語」がそうであるように、アラビア語で「たくさんの物語を話す」という様式のことだったのだ。

 すでにこの数夜続いた千夜千冊のなかでも書いてきたことだが、今日のアラビア語はもともとは北アラビア語で、その最もピュアなものはアラビア半島の中部からシリア砂漠地方で話されていた。
 イェーメンなどの南アラビアでも昔は別の言葉があったけれど(南アラビア語)、これはいまでは死語になっている。
 当時の北アラビア語はジャバル・シャンマルなどで発達したどちらかというと都市型の言語であって、もっといきいきしたアラビア語は遊牧民バタウィが使っていて、そのほうのアラビア語が7世紀以降のムハンマド(マホメット)のクライシュ族らによって「イスラームの言葉」つまりは「アラビア語」として世界に広まったのである。
 だから「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」に入っていった物語の言葉たちも、きっとこのような遊牧性に富んだものだったとおぼしい。
 けれども、このような物語のためのアラビア語がユーラシアを動きはじめたとき、すでに拡張しつつあったイスラーム社会の版図の各地に伝承されていたのは、古代ペルシアの説話や古代インドの昔話や、ときには小アジアや古代ギリシアの話たちでもあって、これらがかなり混交して流れ動いていたわけである。それゆえ「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」は、そうした各種の伝承物語をアラビア語にくみなおしていった物語の枠組(フレームあるいはメタフレーム)のことだったということになる。
 ちなみに諸姉諸兄は先刻承知だろうけれど、アラビア語を生み育てたトポスとしてのアラビア半島のことは、アル・ジャジーラあるいはアル・ジャジーラ・アル・アラビヤという。念のため。

 というわけで、このような枠組としての「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」が「千の夜と一つの夜の物語」からしだいに『千一夜物語』になっていったということになるのだが、そうなるにあたっても、そこにはいくたの変遷があったはずである。
 実際にも、10世紀から11世紀のはじめあたりにまとまった『アル・フィフリスト』という書籍目録には、ササン朝ペルシア期の『ハザール・アフサーナ』という書物が入っていて、これは「1000の物語」と伝えられていたようだし、マスウーディー(956年没)の著名な百科全書的著作『黄金の牧場』にも中世ペルシア語(パフラヴィー)の『ハザール・アフサーナ』がアラビア語に移されるうちにアラビアン・ナイトになったと記述されている。
 しかしながら、この10世紀や11世紀のアラビアン・ナイトがどういうものであったかは、まったくもってわかっていない。
 今日のわれわれがなんとかわかるのは、15世紀になってからのことで、ファティーマ朝のカイロで「アルフ・ライラ」が物語としてまとまって流行したということなのだ。このことはエジプト人アル・マクリージーの『アル・ヒタト』という地誌も伝えている。
 こうして、現在確認されている最古の『アラビアン・ナイト』手写本はパリの国立図書館にあり、それが15世紀半ばのものなのである。ということは、15世紀あたりで、やっとアラビアン・ナイトの原型がかたまってきたということだった。なんともアルフ・ライラで、ワ・ライラな話であることか。

 ということで、アラビアン・ナイトの正体には、おおざっぱにいって、次の3つの流れがあったということになる。

 (A)10世紀以前のペルシア系の物語とインド系の物語群

 (B)10世紀から12世紀くらいにバグダードでアラビア語で
    書かれた物語群

 (C)11世紀以降にカイロやアレクサンドリアでまとめられた
    物語群

 現行アラビアン・ナイトには、これらの(A)(B)(C)3つの流れがまざっていた。
 では、これでアラビアン・ナイトのルーツ探しが一件落着したのかというと、そうはいかない。今日知られるアラビアン・ナイト『千一夜物語』が必ずしも「アルフ・ライラ」の原型そのままではないということについては、もっと決定的なことがあきらかになってしまったのだ。
 それはなんと、われわれが子供のころから親しんできた、あの「アリ・ババと四十人の盗賊」や「アラジンの不思議なランプ」や「シンドバードの冒険」などが、もとの「アルフ・ライラ」には入っていなかった、さらには8世紀のものにも15世紀のものにも入っていなかったということだ。
 そんなことがアリなのかと思うけれど、アリだった。このことについては、すでにはっきりした証拠があがって、歴史的にバレている。フランス人のアントワーヌ・ガラン(1646~1715)がアラビアン・ナイトをアラビア語の写本からフランス語に移したそのとき、1660年代に入手した『シンドバード航海記』の写本をその3巻目にまぜたことがわかっているからだ。

 シンドバード(シンドバッド)の話は、ハルーン・アル・ラシードがバグダードを治めていた御代に、その日暮らしの荷物担ぎをしていた青年シンドバードが、ある日に出会った老人シンドバードからこんな話を聞いたというふうに構成されている。
 それが第1の航海から第7回の航海の冒険の物語になっていて、その物語の舞台となっているのがハルーン・アル・ラシードが8世紀にイスラーム文化を最も栄えさせたアッバース朝の社会だということになっている。ハルーン・アル・ラシードの御代のことは、ほかのアラビアン・ナイトの物語のなかにもいろいろ語られている。
 王様ハルーン・アル・ラシード自身も、いつも幼ななじみの宰相ジャハールと警視総監の太刀持ち役マスルールとを連れて、そこかしこで水戸黄門さながらの活躍をして、アラビアン・ナイトのいろいろな挿話の中に登場する(第299夜・第306夜・第307夜など)。
 それたけでなく、若いころのシンドバードが出航したバスラ(現在はイラク)は当時の有名な港で、そこでは実際にも貴金属・象牙・珊瑚・天然真珠・香料などが交易されていた。これはシンドバードが持ち帰った宝物とほぼ重なっている。
 こういう符牒がいくつもあったので、シンドバードの物語はてっきり昔からの「アルフ・ライラ」のひとつだと思われてきたわけだった。
 ところが、そうではなかったのだ。アントワーヌ・ガランがシリア人あたりから仕入れた話か、当時の写本から転用したものだったのである。シンドバードだけでなく、その後に「アリババ」も「アラジンのランプ」も後代の混入によるものだったということがあきらかになった。
 

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紙に書かれたアラビアンナイトの断片。
物語の冒頭部分が記されている(9世紀)


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「シンドバード航海記」の最初の印刷本
(ルイ・マシュ・ラングレーによる校訂と翻訳、1814年、パリ)

 これは、アラビアン・ナイトの歴史の汚点であり、失望すべきことなだろうか。まったくそうではない。
 今後、新たな原型の写本が見つかって、やっぱりアラビアン・ナイトのまとまりは昔からあったということになるかもしれないし、そうでなかったとしても、それはそれでかえって、この物語の構造がこのように幾つもの説話や挿話が入りこめるようになっていて、そのこと自体のすばらしさが強調されるだけなのである。それほどにアラビアン・ナイトは物語の乗り物としてすぐれた装置をもっていたということなのだ。
 それについては、この“物語OS”ともいうべきがどのようにできているかを多少は知らなければならない。
 ふつうは「枠物語」と呼ばれてきたアラビアン・ナイトの物語OSのフレーム・ストーリーは、いまさら書くまでもないことかもしれないが、次のようなお話になっている。

 今は昔、インドからシナまで治めていたササン朝のシャフリヤール王には、サマルカンドを治めるシャー・ザーマンという弟がいた。二人は長く離れて暮らしていたので弟王は兄王に会いたくなって旅に出たのだが、途中で忘れものに気がついて宮殿に引き返すと、妃(きさき)が奴隷と臥所(ふしど)をともにするところを見てしまった。
 すぐさま弟王は二人を成敗して兄王の宮殿に到着したものの、どうも心が鬱々として晴れない。兄王はそんな弟を案じて狩りへの同行を勧めてくれたけれど、弟は気分が乗らず宮殿にとどまる。ところが兄王が狩りに出掛けると、宮殿の庭園では何人かの妃が奴隷の愛人たちと乱行のかぎりをつくしはじめた。
 物陰からこれを見ていた弟王は、なんだ、自分だけが不運ではなかったのだと、なんとも奇妙にホッとする。狩りから帰ってきた兄が弟が元気をとりもどしているので、理由を尋ねると、かくかくしかじか。兄も覗き見をして事態の深刻であることを知る。その妃たちと奴隷はただちに殺された。
 呆れた二人は、世界はかくも理不尽になっているのかと、身をやつして旅に出る。とある泉のそばで憩っていると、湖水から頭に櫃(ひつ)をのせた巨きなジン(魔人)があらわれた。二人が身をひそめていると、ジンは立ち木の根元で櫃から乙女をとりだし、その膝枕でうとうとと眠りはじめた。
 乙女は二人を見つけて、私を抱きなさいと言う。抱かなければジンを起こす、私は、ほれ、このように570個の数珠を持っているが、これはいままでに寝た男の記念なのだと言う。二人はやむなく数珠をあげ、乙女とかわるがわる交わった。

 それで乙女が打ち明けるには、自分は婚礼の夜にさらわれて七重に鍵がかかる箱に閉じ込められたのだけれど、やろうと思えば、どんなことでもやれるものだと言う。
 兄弟王は巨人のジンさえ女に裏切られるのだから、われわれがそうなってもしょうがないのだと慰めて兄王の宮殿に帰り、シャフリヤール王はただちに妃たちの首を刎ねた。けれどもこうなると、どんな女も信用できなくなった。そして、それからというもの、一夜かぎりの処女を迎えては、その翌朝にその首を刎ねることにした。
 やがて宮殿に処女がいなくなったので、王は大臣にどこかで処女をさがしてくるように命じた。すぐに殺される処女が見つかるわけもなく、大臣が思い悩んでいると、父の様子に気がついた娘姉妹がわたしたちが王のもとに行くと言い出した。姉がシャハラザード、妹がドゥンヤーザードといった。

 姉妹は連れ立ってシャフリヤール王のもとに赴き、一計を案じて毎晩おもしろい話をすることにした。姉が物語り、妹が話を促した。
 さっそく『商人と魔王の物語』を話してみると、妹がまず熱中して、続きをねだる。姉のシャハラザードは王さまの許しがあれば、話そうと言う。王も十分にその続きが聞きたくなっていて、新妻を殺すことを一日延期することにした。
 次の夜もシャハラザードは話の続きをするが、夜明けが近くなると、話を中断してしまう。王は話が聞きたいので、また一夜を殺さないでおく。こうして一夜また一夜と物語は次から次へと続いて、千一夜を重ねるにおよんだ。そのあいだに、シャフリヤールとシャハラザードには何人かの子宝が恵まれた。
 王はいつしか賢明で優しく、しかも美しいシャハラザードを心から愛するようになって、それとともに世の女たちへの激しい怒りも失せ、王も王妃も幸福な人生をおくることになったとさ‥‥。

 これがアラビアン・ナイトの“物語OS”としてのフレーム・ストーリーである。たいへんよくできている。ただし、そのよくできているという理由には、さまざまな意味がある。
 ぼくがアラビアン・ナイトを最初に読んだのは、むろん子供のころの絵本か子供用のものだった。まさに「アラジンと魔法のランプ」や「シンドバッドの冒険」である。正確にそのときの印象を思い出せるわけではないが、そこにはたいそうエキゾチックな高ぶりと、もうひとつは「一休頓知咄し」や「三匹のこぶた」などの、ときどき子供用の童話や絵本でもおなじみの「知恵のくらべあい」のようなものを感じたことを、うっすらおぼえている。
 ただ、そこにはシャフリヤール王とシャハラザードの発端の話は入っていなかった。うまく子供用に翻案しにくかったのであろう(念のため確かめてみたところ、いまの岩波少年文庫のディクソン版中野好夫訳にも、福音館書店版にも入っていなかった)。

 

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欧米で出版されたアラビアンナイトとしては
最初期の挿絵

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シャフリヤールに物語を語り始めるシャハラザード。
そばにいるのはドゥンヤーザード(レオン・カレ画)

 

 青年をすぎてから走り読んだのは、今度はバートン版だった。稲垣足穂がしきりに引用していたからだったのだが、探検家で東洋学者であったリチャード・バートンが1885年から3年ほどかけて英語翻訳を手掛けたもので、その描写や言い回しははなはだ官能的である。初版のレッチフォードの挿絵も、シャハラザードにしてかなりエロティックだった。
 バートン版は大宅壮一が東大学生時代にチームを組んで日本語訳にとりくんだほか、大場正史が一人で完訳して、『千夜一夜物語』として角川文庫からは全21冊で、河出書房からは1967年に全10巻で刊行された(いまはちくま文庫)。やはり古沢岩美のエロティックな挿絵が入っている。むろんすべては英訳本からの翻訳である。
 バートン版がそういうものだったため、ぼくのアラビアン・ナイト読みはかなり偏向したものだった。フレーム・ストーリーにおいて、すでにこの物語の骨格が「猟奇者と語り部の関係」にあると思えたからである。
 しかし、そのうち、本来のアラビアン・ナイトはそういうところばかりに狙いがあるわけではないということが知れてきた。けれどもそのことは、この、今夜とりあげている東洋文庫のシリーズで、アラビア語から前嶋信次が訳出した中身と解説に出会うまでは、ほとんどわからなかったことだった。
 本書の長きにわたった訳者であり、アラビアン・ナイト研究の日本の泰斗で、その博識をもって斯界に大きな影響を与えつづけた前嶋信次こそが、各巻の巻末にまことに詳細な解説と解読のポイントをあげていて、それがぼくをして大きく軌道転回させたのだった。

 こうして、事情に疎かったぼくにもじょじょにアラビアン・ナイトの全貌が立ち上がってきたわけだが、そもそものフレーム・ストーリーについてはずっとあとからその構造の歴史を知ることになった。
 最初に納得させられたのは、フランスの民話学者エマニュエル・コスカンが20世紀の初頭に発表した仮説で、このフレーム・ストーリーには3つの別々の説話の型がまじりあっているというものだった。

 (イ)妻に裏切られた男が、自分よりもすぐれた地位にある人物も
    似たような不幸な目にあっていると知って元気を回復すると
    いう話。

 (ロ)超人間的な威力をもつものがいくら目を光らせて監視して
    いても、女はこれをまんまと出し抜いてしまうという話。

 (ハ)物語が上手な女が汲めども尽きぬ話術を駆使しまくって、
    自分の父親や家族が遭遇している危難をのりこえていくと
    いう話。

 こういう仮説だ。なるほど、そういうふうにも見える。では、これらはそれぞれいったいどこからきたフレーム・ストーリーなのかとなると、ここからは時間がかかった。
 これについては、とくに前嶋信次の『千夜一夜物語と中東文化』(平凡社東洋文庫)や『アラビアン・ナイトの世界』(平凡社ライブラリー)などを読むまで、その背景をつかめなかった。
 いまは詳しいことを紹介するのを省くけれど、前嶋によると、(イ)の妻に浮気された二人の男の話というフレーム・ストーリーについては、『百一夜物語』というわずか18話のアラビア語の説話集にも似たフレームがあるらしい(これにはベルベル語になったモロッコ版もある)。しかもそれは、なんとサンスクリット説話集『鸚鵡七十話』にも、漢訳大蔵経の『旧雑譬喩経』にも、どこか共通する物語としてすでに使われていたのだという。
 (ロ)の魔物を裏切るフレーム・ストーリーについては、11世紀のカシミールの詩人ソーマデーヴァの『カター・サリット・サーガラ』という説話集に近い話があって、それがまたまた『鸚鵡七十話』にも収録されていた。そこでこれをさらに追っていくと、『ジャータカ』の第436話にヒマラヤの洞窟で阿修羅が身分の高い美女をさらって箱に入れていたところ、それでも裏切られてしまったという話があることがわかった。
 次の(ハ)の女性の巧みな話で身内が危難をまぬがれるというパターンは、まずはマハーラーシュト語で書かれたジャイナ教の説話にあるらしい。それは12世紀のデヴェンドラ・ガニが著した聖典『ウッタラーディヤナ・スートラ』というもので、それがタイの“牛物語”として知られる17世紀の『ナンドゥカ・パカラナム』や、ジャワの『タントリカ・カマンダカ』にもリンキングしているということが知れてきた。

 

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山のような荷物を運び込むと、お屋敷には三人の美しい娘がいた
〈荷担ぎ屋と三人の娘の物語〉(レオン・カレ画)

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市場で楽しげなせむしの男に出会い、家に招くことにした
〈せむしの物語〉(ロバート・スマーク画)


 おおまかにはそういったぐあいで、総じては、インドに発した物語がいろいろのところでヴァージョンをふやし、そのいずれかがまわりまわって、アラビアン・ナイトのフレーム・ストーリーに終結したということなのだ。
 つまりは「アルフ・ライラ」とは南アジアとマグリブに特有の物語母型なのである。物語マザーなのだ。その物語マザーが次々に「ワ・ライラ」を取りこんだ。そういうことだった。
 それではこのフレームに盛られていった物語の数々はどうだったかというに、いまのところは、スコットランド生まれでのちにアメリカでセム系文化の研究の第一人者になったダンカン・マクドナルドの次のような段階的な見方が有力になっている。

 (第1段階)中世ペルシア語による『ハザール・アフサーナ』が
       ササン朝のホスロー・アヌーシルワーン帝
       (在位531~578)のころにできた。 

 (第2段階)その『ハザール・アフサーナ』がアラビア語化され、
       アッバース朝のアル・マンスール(在位754~775)
       のころに『アルフ・フラーファ』となって写本されて
       いった。フラーファは物語という意味。

 (第3段階)そこに「枠物語」の候補が各種ついて、それがやがて
       シャハリヤール王とシャハラザードのメインフレーム・
       ストーリーとしてまとまっていった。
       きっとそのころから『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』
       (千一夜物語)と呼ばれていたのであろう。

 (第4段階)この「枠物語」付きの『アルフ・ライラ』にさらに
       昔話と説話が加わって、ファティーマ朝
       (969~1171)の末期にカイロでおおいに人気を
       博して流行した。

 (第5段階)これらがシリア地方に広がり、さまざまに流布し、
       ついに17世紀末になってガランによってフランス語に
       訳された。このときシンドバード、アラジン、アリババ
       などの物語が加わった。

 (第6段階)一方、1814年にアフマド・ビン・ムハンマド
       (シルワーニー)がカルカッタでアラビアン・ナイト本
       の印刷を始めた。カルカッタ第一とかカルカッタ第二と
       呼ばれる。前嶋信次が東洋文庫に訳しつづけたのは
                カルカッタ第二である。

 ようするにアラビアン・ナイトの「話の種子」は南アジア、東南アジア、中東、北アフリカのいずれにも及んでいて、それらが初期にはバグダードに、ついでは中東に、さらにはカイロに集まって幾つかのプロトタイプをかためる編集が進捗したということなのである。
 それが異国人たちにものめずらしくて、シリアやアナトリアなど東西に運ばれてアンダルスを越え、結局はヨーロッパ人の手で新たな物語が加えられた異国情緒たっぷりな『アラビアン・ナイト』として世界中に知られていったわけである。そうなった経緯については、バートン版がまさにそうなのだが、さまざまなオリエンタリズムが加飾されてもいった。
 しかし、最も早くアラビアン・ナイトをヨーロッパで組み立てたアンワーヌ・ガランには(これがガラン版)、オリエンタリズムよりもアラビックなイスラーム文化を正当に評価しようという応援団としての気分も濃厚だったようで、ガランの1697年の『ビブリオテーク・オリエンタル』という東方百科全書的な著作では、「ヨーロッパがイスラーム世界に関心を寄せるのはそこに豊かな文明があるからであり、イスラームがわれわれの文化にほとんど関心を示さないのは、その文明があまりにすぐれていて自前のものでまにあっているからだろう」と書いたものだった。
 ところがその後、1826年のチャールズ・ラム版まではそうでもなかったのだが、1840年代のイギリスのレイン版、その次のペイン版、1880年代のバートン版あたりから、これらの翻訳時期が列強の植民地競争時代に重なって、中東やインドやアジアや(アヘン戦争が1840年だ)、はてはアフリカ分割に関心が向かったため、アラビアン・ナイトを後進国理解のツールとして読むという風潮にもなっていったのである。
 これを多少とも一掃しようとしたのがフランスのジョセフ・マルドリュスによる自由翻訳ともいえるフランス語全訳で、これはほとんど翻案ともいうべきものではあったものの、「文学」としてのアラビアン・ナイトを鼓舞させるという意味では気を吐いた。一言でいうなら、マルドリュスはアラビアン・ナイトをアラブ文学ではなく“フランス文学”にしてみせたのだ。
 けれどもそれはそれで各国に勝手なアラビアン・ナイト翻案をはびこらせたともいうべきで、その余波は明治日本にも及んで、永峰秀樹訳や井上勤訳の『暴夜物語』『全世界一大奇書』『烈女之名誉』などとなり、さらには日夏耿之介・森田草平・谷崎潤一郎のアラビアン・ナイト取り込みをへて、蕗谷虹児(569夜)の「月の砂漠」などに変じていったのだ。日本においては、この「暴夜」というのがアラビアのことだった。 

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世界名作童話『アラビヤンナイト』挿絵
蕗谷虹児 画 1941年

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世界名作童話『アラビヤンナイト』扉絵
蕗谷虹児 画 1941年


 こうしたアラビアン・ナイトの枠組と変遷については、すでにホルヘ・ルイス・ボルヘス(552夜)が「バベルの図書館」に『千夜一夜物語』のガラン版とバートン版を入れていて、その序文に次のように端的なオマージュを捧げている。
 ‥‥私はことあるごとに、東洋が西洋の伝統であることを思い知らされる。すぐに思い浮かぶのはヘロドトス、聖書、マルコ・ポーロ、キプリングといった名前だが、それらのどれにもまして眩しいのが『千夜一夜物語』なのである。そこにはどうやら東洋の概念が集約されているようだ。
 ‥‥古来、量の概念と質の概念は対立するものと考えられてきた。われわれは任意の書物について、長いことがまるで犯罪的なことでもあるかのような言い方をするが、ある種の書物の場合、長大であることがすなわち質に、それも本質的な質に転化することだってあるものなのだ。たとえば『怒れるオルランドー』『ドン・キホーテ』『千夜一夜物語』である。
 ‥‥インド人は一体の神、伝説上の一人物、同じ作品の同じ時代の一登場人物に、膨大な叙事詩をふりあてているが、『千夜一夜物語』の世界の構築には、幾多の世紀、歴代の王たちの協同があった。その連鎖する物語そのものの核はインドに端を発するとしても、それがインドからペルシア、ペルシアからアラビア、アラビアからエジプトへと伝播していくにつれてしだいに勢いを増し、増殖していったのである。
 ‥‥一見したところ『千夜一夜物語』は、ひたすら幻想を紡ぎだすばかりのようだが、その迷路を探検したあとでは、それがただの無責任な渾沌とはわけのちがう、思いっきり解き放たれた想像力の乱舞であることにわれわれは気づくのである。
 ‥‥われわれは誇張なしに、二つの時間の中にいる。ひとつはわれわれの運命がそこで進行中の歴史的時間であり、もうひとつが『千夜一夜物語』の中の時間なのである。それはシャハラザードとともにわれわれの手助けを永久に待っているものである。

 さて、前嶋信次訳の東洋文庫『アラビアン・ナイト』全18巻の壮観には、みごとに1001夜の話がシャハラザードの語りのままに収録されている。
 ぼくは以前、ここにはきっと1001夜もないのだろうとタカをくくっていたのだが、そうではなかった。シャハラザードの語り出しと妹が姉にせがむ調子こそ、どの夜でもまったく紋切り型ではあるものの、話のほうは手を替え品を変えてえんえん続き、それがぴったり千夜プラス一夜を数えるまで続いている。最初が「商人と魔王との物語」、最後が「靴直しマアルーフとその妻ファティーマの物語」だ。
 ただし、話のほうは一夜一話とはかぎらない。数夜に及ぶものがたくさんあって、たとえば「海から来たジュルナール」や「黄銅城の話」や「七人の大臣たちの物語」などは6~7夜から10夜近く語り継がれるし、「シンドバードの冒険」はさっき数えたら第537夜から第566夜までだから、ほぼ30夜になんなんとする。

 

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空が暗くなったかと思うと巨大なルフ鳥があらわれた
〈シンドバード航海記〉(エドワード・デトモルド画)

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象の墓場を見つけて象牙を得ることができた
〈シンドバード航海記〉(エドワード・デトモルド画)

 

 なかで最大の長編といえば、なんといっても「オマル・ブヌ・アン・ヌウマーン王とその二人の御子シャルカーンとダウール・マカーン、そしてこの人たちにおこった驚異と珍奇な物語」である。
 略して「オマル王とその王子たちの物語」というのだが、支話から支話に話が次々にすべって、東洋文庫の3巻と4巻まるまるぶん、第46夜から第106夜まで及ぶ。日本語にすれば400字詰め原稿用紙で数えて1400枚くらいになろう。
 この話はウマイヤ朝時代(661~750)のイスラーム社会をみごとに反映したもので、ムスリムとビザンティン帝国のキリスト教徒との相克と激突を背景に、そこに勇士や美女や善人や呆け者や悪党をふんだんに配して、とうてい飽きさせない。
 ムスリムたちが当時のキリスト教徒たちを、フランク人、ギリシア人、ドイツ人、ラグザ人、ヴェネティア人、ジェノヴァ人などと呼んでいるのも、「ヨーロッパ人」というものがまだまだ定着していなかった時代社会を如実にあらわしていて、そこがイスラームならではでおもしろい。ようするにこの長ったらしい話は、イスラム軍がコンスタンティノープルを包囲して不首尾におわった時代の話なのである。
 しかし、それだけではない。ここにはとんでもない物語編集術が横溢している。「オマル王とその王子たちの物語」の筋立てがどういうものかを知れば、『千夜一夜物語』がボルヘスをして「もうひとつの時間」に埋没させた理由はすぐに伝わってくる。
 かなり複雑でこみいってるが、これこそがアルフ・ライラでワ・ライラな千夜一夜の物語というものなのである。付いてこられたい。憑いてきてほしい。

 (01)まだ寒村にすぎなかったウマイヤ朝のバグダードに、その名をオマル・ヌウマーンという王がいた。スルタンである。正后とのあいだにはシャルカーンという男児だけが生まれ、ほかに子宝はいなかった。そこへ小アジアの東部カイサリーヤのキリスト教徒の王から、ギリシア系のソフィアという美しい女奴隷が送られてきた。オマル王とソフィアは男女二人の双生児を産んだ。女の子はザマーン、男の子はマカーンと名付けられた。
 太子シャルカーンは、このソフィアが産んだ異母妹弟を知らないままだった。オマル王が別々に育てたからである。
 (02)あるとき、コンスタンティノープルのアフリードゥーン皇帝の使節がバグダードにあらわれて、オマル王に「カイサリーヤを討伐するから協力してくれ」と頼んできた。オマル王は大臣ダンダーンの進言をとりいれて、太子シャルカーンに1万の軍兵を授け、ダンダーンを補助につけた。行軍20日のすえ、ようやくギリシア人の地域に着いた。まだギリシア人がアナトリアを支配していたころのことだ。
 (03)シャルカーンはダンダーンに無断でただ一騎、敵の偵察に出掛け、水辺のほとりで格闘に興ずる美女たちを見た。なかにひときわ強靭な美少女がいて次々に投げとばしている。年長者の老婦も敵ではなかった。太子は思わず進み出て、この美少女と相撲をとってみたが、3度とも投げつけられた。
 美少女はカイサリーヤ王の娘のアブリーザである。稀代の勇猛果敢の持ち主だった。太子はしばらく客人として桃源郷のような日々を過ごしていたが、そこへ100人ほどのビザンツの兵士たちが襲ってきた。老婦が密告したらしい。なぜ老婦がこんなことをするかというに、彼女はカイサリーヤ王の母であり、アブリーザの祖母なのだが、この少女の清純と果敢に嫉妬していた「まがつび」だったのである。
 (04)太子シャルカーンはビザンツの兵士100人と決闘、80人を屠って残りを敗走させた。しかしそこでアブリーザがこんな話を打ち明けた。
  実はあなたをここまでおびき寄せたのは、コンスタンティノープルの皇帝と自分の父たるカイサリーヤ王との相談づくのことだから、これは危険な策略なのだ。だから早く帰国したほうがいい。私も故郷を捨ててバグダードに亡命したい。
 ついては、もうひとつ秘密があって、あなたのところへ送られたソフィアは実はコンスタンティノープル皇帝の娘の一人であって、海賊に捕らえられたのち転々としていた人なのである。それを私が救ったのだという。

 (05)シャルカーンとアブリーザはバグダードに戻り、アブリーザがもっていた宝玉がオマル王に贈られ、オマル王はこれらを3人の子にそれぞれ分け与えることにした。シャルカーンは貰った宝玉をアブリーザに返した。
 ここであろうことに(いや、この時代はしょっちゅうのことだが)、オマル王がアブリーザの容色にむらむらとした。けれどもそんな手にはこの美少女は靡かない。そこで王は一夜の酒に麻薬を入れて昏睡させ、犯してしまった。アブリーザは懐妊し、世をはかなみ、故郷を懐かしんで、ついに侍女マルジャーナのはからいで黒人の手でカイサリーヤに戻っていった。
 (06)アブリーザは帰途、陣痛が始まったところを黒人に言い寄られ、激しく罵倒はしたものの惨殺された。その最期の直前、アブリーザが産み落とした子はルームザーンといって、この長大な物語のラストをしめくくっていく。
 (07)一方、アブリーザの父ハルドゥーブは失踪した娘の行方を尋ねて軍を率いて国境近くにさしかかり、遠方から娘が黒人に惨殺されるのを見た。ハルドゥーブは深くオマル王を恨み、母なる「まがつび」に頼んで美女を集めさせ、彼女らにイスラームの学者をしてアラブの教養を身につけさせ、イスラームの風習を教えこみ、これをバグダードに送りこむことにした。

 (08)バグダードの王宮では、シャルカーンがアブリーザの失踪を憂い、オマル王が自分よりも、まだ見ぬ異母弟妹のマカーンやザマーンを偏愛しているらしいことに心を傷め、ダマスクスの太守の任を得ると都を去った。
 そのマカーンとザマーンも14歳になったので、メッカ巡礼をしたく父に申し出るのだが、許しが出ない。そこで二人は手を携えて王宮を脱出してアル・ジャジーラ(アラビア)に旅立ち、メッカとメディナの巡礼を果たした。さらにエルサレムに及んだところで、マカーンが病いに罹った。
 (09)ザマーンはマカーンの病気を治す手立てをさがしに外出したところ、その途中で粗暴な牧人にさらわれ(遊牧民であろう)、ダマスクスに連れていかれたうえ商人に大金で売られてしまった。当時は略奪・凌辱は日常茶飯事なのである。
 その商人は取引の特許状をもらうため、太守シャルカーンにこの娘を献上した。シャルカーンはここではからずも妹と対面することになるのだが、自分の異母妹とは知ってはいないため、つい交わって女児クディヤ・ファカーンをもうけた。うら若い母となったザマーンがオマル王にもらった宝玉をみどり子の首にかけてやったところ、ここでシャルカーンは驚き、初めて新妻が自分のたった一人の妹であることに気づき、その運命におののいた。ともかく二人はバグダードに帰る。
 (10)オマル王の宮廷では「まがつび」の奸計による偽装イスラーム美女によって、王が途方もなくめろめろになり、ひどい失政が続いていた。
 ザマーンはシャルカーンの侍従長であった男のもとに嫁がされ、ファカーンは母と別れてシャルカーンのもとで養育されることになった。侍従長はマカーンとザマーンが兄妹であることを利用して、自身の立身に役立てることを思いつく。そんなときオマル王が横死をとげた。侍従長はここをせんどとマカーンを王の後継ぎに仕立て、マカーンがスルタンになった。
 (11)本来は王になるはずだったシャルカーンは、この新王の誕生を訝ったが、なんとか弟のために応援することにする。新王マカーンもこの兄の義侠の愛を感じ、ここにイスラーム独特の兄弟の睦みがうたわれる。
 こうした二人の力によって、いよいよイスラーム軍によるビザンティン帝国への本格的遠征が計画される。この遠征の物語には、ウマイヤ朝からアッバース朝にかけての数回におよぶイスラーム軍のコンスタンティノープル攻略戦が歴史的事実として反映するとともに、その後の十字軍との戦いなどもいりまじっている。

 

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オマル王によって不倫を見破られた王冠太子とドニヤ姫。
〈オマル王とその王子たちの物語〉
(『千一夜物語』岩波文庫版の挿絵 作者不詳)

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30日の断食の後、密室で殺害されたオマル王。
〈オマル王とその王子たちの物語〉
(『千一夜物語』岩波文庫版の挿絵 作者不詳)

 (12)シャルカーン&マカーン軍とビザンツ軍との戦闘は、なかなかの軍記物語になっている。奇襲・敗走・絶体絶命そのほか満載で、そのくせ最大の危機を切り抜けるのはいつもシャルカーンの超人的戦闘力なのである。
 他方、コンスタンティノープルが陥落寸前になるとこれを逆転させるのは、いつも「まがつび」の計略なのである。この老婦は物語の変容を一手に引き受けているかのようで、ここではスーフィーの魔術を使ってシャルカーン&マカーンの陣営に入りこみ、相手をやすやすと手玉にとっていく。
 これを怪しむのは一人ダンダーンのみなのだが、いまだ老婦の正体は見破れない。こうして寄せ手は峡谷の街道で前後を断たれ、ほとんど全滅となり、シャルカーンもマカーンも捕虜となった。
 (13)イスラーム軍万事休すと見えたとき、ふたたび勇力をふるって事態を打開したのはシャルカーンである。イスラーム軍は陣容をたてなおし、いよいよコンスタンティノープルに迫る。
 ビザンツ軍の総帥はギリシア人アフリドゥーン皇帝だった。剛勇で鳴り、シャルカーンに決闘を挑むのだが勝ち目がないと見ると、一転、狡猾な戦法に出て部下たちを使ってシャルカーンを槍攻めにし、閉じ込めてしまう。悲憤の若武者マカーンはカイサリーヤの王ハルドゥーブと相見えてこれを討ち取るものの、シャルカーンは首を掻き落とされてしまった。
 (14)シャルカーンを失ったイスラームの将士たちは落胆し、哀歌を詠じてその悲しみにふける。ひたすら家郷を偲んで、心もたのしまない。そこで一夜、大臣ダンダーンがマカーンや将士たちを慰めるために、物語をする。
 ここで「オマル王とその王子の物語」、すなわち「オマル・ブヌ・アン・ヌウマーン王とその二人の御子シャルカーンとダウール・マカーン、そしてこの人たちにおこった驚異と珍奇な物語」の前段が終わり、ここから一見、別の二つの恋物語がはさまれるのだが、これがまためっぽう長い。
 それも第1の「タージル・ムクールとドゥンヤー姫の物語」の途中に、第2の「アジーズとアジーザの物語」が入りこむというふうになっている。
 (15)ここでは、これらを省くことにするが、「タージル・ムクールとドゥンヤー姫の物語」はよく知られているようにインド起源のペルシア育ちで、アラビア仕上げになっている。しかも『アラビアン・ナイト』にはかなり似た「アルダシールとハヤート・アン・ヌフースの物語」も収録されていて、シャハラザードは似たような話を二度にわたって語ったことになるわけである。
 「アジーズとアジーザの物語」には研究者たちによってバグダード系とカイロ系の物語系列があることがわかっていて、バグダード系では恋に純粋な情熱を注ぐ若い男女の物語が、カイロ系では恋を享楽の火遊びにまで高める物語が語られた。

 (16)さて、ダンダーンの長い長い話が終わっても、イスラーム軍はまだコンスタンティノープル近くの陣中にいるままなのである。結局、金角湾頭の天下の要害はとうとう攻め切れず、一行はバグダードに帰還した。
 マカーンはここで善政をおこない、民心はしばらく安寧するのだが、ところがそういうときこそ不幸はおこるもの、マカーン王は重病に罹って惜しまれるままに没し、その王位も大侍従たちに横領される。マカーンの妃も遺児カーン・マー・カーンも冷遇される。
 (17)こうして物語は、カーン・マー・カーンをめぐる新たな波瀾万丈へと変化していく。その発端は大侍従が国王サーサーンとなり、そこへシャルカーンの娘のファカーンが姫君として迎えられるという強引である。
 カーン・マー・カーンはダンダーンらと小さくまとまり、祖父オマルと伯父シャルカーンの恨みを晴らすべく、事態の打開に心を砕くのだが、なかなか守備が整わない。そこで小アジアに遠征してハルドゥーブのあとを継いだルームザーン王と戦って展望を見いだそうとするものの、これに敗北。一行はことごとく捕らえられてしまう。
 いよいよ全員が斬首されようとしたそのとき、ここにルームザーン王を諌めたのが、王の乳母であったマルジャーナだった。おぼえておられるだろうか、彼女は実はかつてアブリーザを守ってその最期をともにした忠実な侍女その人であったのだ。
 (18)かくしてここに、さまざまな者たちの運命がふたたび手繰り寄せられ、ルームザーン王の父親がオマル王であったこと、サセマーンは王の異母姉であること、カーン・マー・カーンがその甥であることが告げられて、八犬伝よろしく各自の首に巻かれた宝玉がその証拠となって輝いていく。
 (19)このあと物語はセレンディップな奇遇によって一気に展開を早め、一同がバグダードに戻って、オマル王の一族の不幸と不運が次々に回復されていく。
 たとえばダマスクスで若き日のザマーンにかかわった商人が優遇され、ザマーンをかどわかした牧人は一刀のもとに首を刎ねられる。このあたりイスラーム社会のシャリーアそのものなのである。
 問題は「まがつび」の媼であるが、これもルームザーンが一書を送っておびき寄せ、引っ捕らえて城門の前で打ち首になった。
 (20)では、これでさしものバグダード王家3代にわたる騎士物語もようやく大団円を迎えたかというと、それがそうでもなくて、ここにまるで正反対のエピローグのような、「ハシーシュ食いの話」と「牧人ハンマードの話」が入ってくる。
 前者はカーン・マー・カーンが暗殺の危機にさらされながらも危難をくぐり抜けるという話で、後者はこれまで牧人が首を刎ねられたということになっていたが、実はその前にこの男によってあることないことの混乱がおこっていたということが打ち明けられるという話である。
 こうして、さあ、みなさんは以上のすべての物語をどのように評定しますかというばかりの趣向で二つのエピソードが差し出され、それぞれにカーン・マー・カーンの瞬劇のような決断が加わって、それで永きにわたったシャハラザードの語りが終わるのである。
 (21)シャハラザードは、こう語り終える。「これにて、オマル・ブヌ・アン・ヌウマーン王と、その子シャルカーン、同じくその子ダウール・マカーン、さらにその孫カーン・マー・カーン、また王の娘ヌズハトッ・ザマーンと、その娘クディヤ・ファカーンたちの数奇をきわめた生涯について、わたくしどもに語りつがれたことどもは終わりをつげましてございます」。

 ざっとは、こんなぐあいにアラビアン・ナイトはさらにさらに次々に、ポリフォニックにもポリローグにも、そしてインターテクストにもインタースコアにも、物語編集されていくわけなのである。
 あとの『千夜一夜物語』の話については想像にまかせるが、ともかくは一度は手にとってみるのがいい。ぼくとしては何としてでも東洋文庫版を勧めるけれど、これが少々妖しく転びたいというならバートン版(ちくま文庫)でもよろしいし、いわゆるヨーロッパ的な定番となったガラン版(岩波文庫)で軽く拾い読みしながら読み耽っていくというのも、むろん悪くない。
 いや、このたびは1400夜なのだから、ぼくもこのさい徹底してアラビアン・ナイトしてみようというので、岩波少年文庫や福音館書店の子供用にも目を通してみたのだが、これはこれでどのように大人がイスラームを消して、アラビア調子だけを盛り上げるのかがわかって、それなりに興味深かった。
 まあ、何を手にしてみても、読んでいけば話の中身はそのつど千変万化することに驚くこと、うけあいなのである。それを上から分類すれば、ごくごくおおまかには、恋愛もの、犯罪もの、旅仕立てもの、神仙魔界もの、教訓説諭もの、美談報恩もの、滑稽もの、失敗もの、金言もの、逸話ものなどというふうになるのだろうが、これをそのつど去来するキャラクターで見ると実に多様多彩で、しばしば登場する魔物や魔人や妖鬼のたぐいだけでも、ジン、ジンニーヤ、イフリート、マーリドなどなどで、これはこれでジン魔族の御一党とでもいいたいほど、読んでいると親しくなりたくなってくる連中なのである。

 それから、もうひとつ、アラビアン・ナイトにはこれまで夥しい挿絵がついてきた。これがペルシャン・ミニアチュールからビアズリーまで、レオン・カレからウィリアム・ハーヴェイまで、ジョン・バッテンからエドワード・デトモルドまで、なんとも凄い。
 今夜はそこをまったく紹介できなかったので、そのへんをとりあえずは西尾哲夫の『図説アラビアン・ナイト』(河出書房新社)などでたのしまれるのが、これはこれで極上なのである。
 たとえば、「アラジンのランプ」のアーサー・ラッカムとウォルター・クレインとヴァージニア・ステレットの絵の異国情緒の扱いかたのみごとな相違を知るだけでも、今後の日本のジャパネスクやオリエンタリズムにいま一度のセンス・オブ・ワンダーな変換をもたらすにちがいない。
 ではでは、これでいったん1400夜の千夜で一冊、一夜で千冊の夜はおひらきだ。アルフ・ライラはライラ・ライラ‥、アラビック・ナラティヴィティこそワ・ライラ・ライラ‥、アルフ・ライラ・ワ・ライラは待てばカイロの日和かな。

 

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ランプを手にするアラジン。
(ウォルター・クレイン画)

 

 

完訳 東方見聞録(1・2)

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 わが愛するイタロ・カルヴィーノ(923夜)の『見えない都市』(河出書房新社)は、旅を了えた中年のマルコ・ポーロが大旅行の思い出を記しているのではなく、若いマルコがフビライ・ハーンの求めに応じて、いましがたの数年数カ月にわたって見聞してきたばかりの“ユーラシアン・アジアもどき”に点在していた都市を、ほやほやの口吻で次から次へと語っていくというスタイルになっている。
 だから、この作品の舞台はフビライ・ハーン(クビライ・カーン)の大都(いまの北京)の宮廷の謁見の間で、マルコがフビライの前で親しく話しあっている最中であるという設定なのだ。いかにもカルヴィーノである。
 ところが、その話というのがまことにとんでもないもので、たとえば、これといった特徴がないのに記憶に残る都市ツォーラ、理想的な金属とガラスでできた都市フェードラ、波打つ高原に無数に集落をちりばめている都市エウトロピア、峨々たる峡谷の懸崖にあたかもクモの巣のように張り渡された都市オッタヴィア、竹馬のように雲の上に飛び出た都市エウドッシア、消滅を恐れるあまり同じ都市模型を地下につくった都市エウサピア‥‥といった55もの幻想都市が、まるでそのサワリだけを歌うカンツォーネのように語られるのだ。しかもこの都市の名前、みんな女性の名前になっている。
 カルヴィーノがなぜこんなデタラメな見聞記をマルコ・ポーロに語らせたかというに(それがカルヴィーノのいつもの趣味とはいえ)、この天才作家は、「どんな想像力も都市か書物になるために結像を求めるものだ」と言いたかったからなのである。それゆえ、そこにそういう物語がありさえすれば、英傑フビライ・ハーンその人ですらその世界の物語を聞いて、それで世界を征服したかと思える世界書物の点景になりうるわけなのだ。

 なぜカルヴィーノが嘘八百の幻想都市の見聞を、わざわざマルコ・ポーロに語らせたかについては、それなりの歴史的な理由もある。
 実は、マルコ・ポーロが24年に及んだ大旅行から帰って人々にその土産話を吹聴したときも、獄中で『東方見聞録』を口述してそれがヴェネツィアで刊行されたときも、世間はその大半をとんでもないホラ話として受け取り、互いに笑いあったものだった。
 気の毒にもそのころのマルコは、仲間たちから「イル・ミリオーネ」と徒名されていた。これはイタリア語で「百万」という意味で、いつも百万もの嘘っぱちを言っているという徒名だった。植木等ではないが、百万男の嘘っぱちの無責任男、それがマルコ・ポーロに下された当時の容赦ない判定だったのである。
 しかし、いったい誰がその物語を判定できるのか。それも世界物語を世界書物にしたという、その物語を判定しうるのか? 
 そこでカルヴィーノは、「ときに物語というものは、そのようにすべてが嘘八百になる。まして世界物語というものはね」と言ってみせたのだ。そして「だったらみなさん、私が語る見聞録はどんなふうに思うのかね」と書いてみせたのが、マルコに代わってのカルヴィーノ得意の20世紀社会の噂にしか生きられない読者への挑戦で、それが『見えない都市』というとんでもない作品になったわけである。
 この挑戦の意図をカルヴィーノに代わって弁論すれば、(1)そもそも「都市と書物とは同じものだった」、(2)「マルコ・ポーロの体験と想像こそ未来に向かって重なっている」ということだろう。付け加えれば、(3)「ヒストリーはストーリーでしか生まれない」である。

 さて、実際の『東方見聞録』のほうは、当時のヨーロッパ人の誰もがなしえなかった13世紀のアジア(およびユーラシアの一部)を記した気宇壮大な旅行記である。読めばすぐわかるように、そうとうに驚くべきものだ。
 内容はマルコが口述したから原題では「マルコ・ポーロの旅行記」となっているが、大旅行は“ポーロ一族の旅行”というべきもので、序章には、父ニコロとその弟の叔父マテオとがすでにシルクロード越えをしてフビライ・ハーンの宮廷にまで至った出来事のあらましが述べられている。
 そのうえで、本文紀行の記述に入っていくのだが、その書きっぷりは、ときに地理的、ときに詳細、ときに印象のみ、ときに何かを引用したかのように、ときに冗長、どきに経済核心的、ときにイスラーム賛歌というふうに、刻々と続いている。

 

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ポーロ一族の行程図
(クリックで拡大)

 

 大旅行は、1度目がヴェネツィアの交易商人だったニコロ(ニッコロ・ポーロ)とマテオ(マッフェオ・ポーロ)の兄弟が、1253年にコンスタンティノープルに旅立ったところから始まる。
 この1253年という年は、ちょうど第7回十字軍が敢行されていた時期で、ヴェネツィアが十字軍に武器と食糧を供給して富をきずきはじめていた時期になる。
 13世紀のヴェネツィアがどういう海洋貿易型の都市国家だったかということは、世界経済史を語るうえでも、ライバルのジェノヴァとの比較をしておくうえでも、きわめて重要なことなのだが、いまはとりあえず、「フラテルナ」とよばれた家族商会が活躍し、「コンメンダ」あるいは「コッレンガツァ」というパートナー投資組合のような協業性が発達しつつあったということだけを、強調しておくことにする。

 もうひとつ、ポーロ家にとって重要で、したがってヨーロッパとアジアの交流史としてもはなはだ重要なことは、二人が旅立ったこの年の1年後の1254年におこった。ニコロの子のマルコ・ポーロがヴェネツィアで生まれ、まもなく母が病没したことである。すなわちマルコは、父ニコロがコンスタンティノープルに出発したのちに生まれ、その父が待てど暮らせど帰ってこなかったということなのだ。
 それというのも、ニコロとマテオはコンスタンティノープルで商売がうまくいったのか、そこで約6年間も滞在し、あげくにそのままモンゴル人の支配する土地へと向かっていったのだ。これが1260年前後のことで、その1260年前後が実は大モンゴル帝国の歴史にとっても結節点になっていることも、あれこれ説明したいのだが、それをするのはちょっとやそっとですまないので、のちの千夜千冊にまわすことにする。
 ともかくもこうして、ニコロとマルコの父と子は、世界家族史上でもきわめて稀なことに、ユーラシアをまたいで“異様な隔離”を受けたわけである。一説には、ポーロ家はクリミア半島のソルダイアの海港に屋敷をもっていて、そこを拠点に動いていたともいう。
 それでも6年もいたのだから、きっとそろそろヴェネツィアに戻る気もあったのだろうが、コンスタンティノープル国境付近でイスラーム勢力とのあいだの争いがおこった。ベルケ・ハーンの黄金軍団とペルシアのイル・ハーンの宮廷を拠点とするフレグとのあいだの争いである(これが1260年前後の大モンゴル帝国の歴史にとっての結節点を示すひとつの事件なのだが、その説明は省略する)。そこで兄弟は、やむなく東へ、東へと動いていったようなのだ。
 ヴェネツィアの交易商人にとっては、戦争は儲けるか、避けるか、その二つにひとつだったのだ。当時の戦争といえば、コンスタンティノープルのビザンティン帝国とイスラーム諸国との、そして十字軍とムスリム勢力との戦争をいう。そこで、ポーロたちはこれを東に向って避けることにした。
 しかし、その「東へ、東へ」がついにはポーロ一族の未曾有の大旅行のセレンディピティになったのである。そしてヴェネツィアに残されて育った少年マルコの夢を幼児のころより、東方の果てに募らせたのだ。

 ニコロとマテオの東方旅行はむろん商売の旅である。当時の交易商人は街道で塩や毛皮や奴隷を主要商品として交換することにしていたはずだが、ポーロ家は村落やイスラーム都市に入り込み、金や宝石や香辛料を交易するのが得意だったようだ。
 そのほうが陸地を動きまわる商人にとって軽くて捌きやすかったからだろうが、ポーロ兄弟が金や宝石や香辛料を交易していたこととイスラーム経済と肌で接したことには、その後のヨーロッパ人がこの旅行記が語る“東方”の異国を訪れたくなるキラキラとした要素がはらんでいた。
 かくてポーロ兄弟は東へ向ってベルケ・ハーンが支配するモンゴル帝国の一隅に入っていく。現在のアストラハンのあたりだ。領民たちが夏のあいだに放牧をさせていた。さらにヴォルガ川に近いキャラバン・サライに進むと、そこではモンゴル人の遊牧テントがいくつも見られた。ベルケ・ハーンは兄弟をもてなしたため、二人は仕入れた宝石を2倍以上で売ることができた。

 1年後、兄弟は現在のウズベキスタンにあたる都のブハラに行っている。ブハラの市場では陶磁器・象牙・絨毯・絹・貴金属・香辛料があふれかえっていた。兄弟はここでなんと3年にわたって商売をする。まったくムスリムを恐れていない。
 ブハラで知られる商人になっていた兄弟は、あるときベルケ・ハーンの族長の一人から「偉大なるフビライ・ハーンに会いにいかないか」と誘われた。フビライ・ハーンは1260年に大ハーンに選ばれていたのだが、すでにさしもの大モンゴル帝国もこのころは翳りが見えていて、大ハーンはフビライ一人になっていた。
 その大ハーンがまだ“ラテン人”を一度も見ていないのでぜひとも会いたいと言っているという。聞けば聞くほど、フビライの国には富が唸っていそうだった。二人はよろこび勇んでアジアの果てに挑むことにした。
 こうして1264年、ポーロ兄弟が中国は元のシャンドゥ(上都)の宮殿でフビライ・ハーンに謁見することになったのである。ヴェネツィア出発からざっと11年がたっていた。

 

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ポーロ兄弟がはじめてフビライ・ハーンに謁見するところ。

 

 一方、父には会ったこともなく、母もいないマルコのほうは、ヴェネツィアで活発な少年に育っていたようだ。
 『東方見聞録』にもその他の史料にも、意図的なのかやむをえなくそうなったのかはわからないが、少年時代のマルコのことはほとんど書いていないので、その実情はまったく知られていない。けれどもおそらくは、少年マルコは元気にカナル・グランデ(大運河)で船を漕ぎ、読み書きや計算の技能を身につけ、祝日にはギルドの行列に加わり、キリスト教会で祈りを捧げ、統治者ドージェ(総督)が赤い船で金の指輪を海に投げてヴェネツィアの栄光を誓っていた儀式に見とれていただろうことなどが、憶測できる。

 上都に入ったニコロとマテオはフビライ・ハーンにかなり気にいられたようだ。ハンバリク(大都)の新しい宮殿にも招じ入られ、結局、2年の日々をおくる。
 ようやくヴェネツィアに戻ることになったとき、フビライは二人に特別のパイザ(牌符)を与え、兄弟が立ち寄る先での安全と食糧を約束した。かなりの厚遇だ。パイザは通行証で、モンゴル独自のジャムチ(駅伝)のパスポートになる。二人が貰ったパイザは特別の金の牌符だったようで、フビライ・ハーンの紋章が刻まれていた。フビライはまた二人にローマ教皇宛の親書をあずけていた。
 こうしてやっと二人の帰路が始まるのだが、これがまた山越え、谷越え、砂漠と嵐を越えてのこと、ゆうに3年を要した。二人は地中海近くの港町アッコンに着いたところで、教皇クレメンス4世が亡くなったことを知り、これでは親書も渡せないと判断して、そのままローマには行かずにヴェネツィアに戻ることにした。これが1269年のことである。マルコは早くも15歳になっていたことになる。
 この1269年は日本の事情でいえば、その前年にフビライ・ハーンの使者が太宰府に来着して、国書を北条時宗に渡した年にあたる。時宗はこれを突き返し、それから5年後に文永の蒙古襲来が、その7年後に弘安の蒙古襲来がおこる、というふうになっていく。ということは、わがポーロ一族はそのちょうど十数年のあいだ、アジア・アフラジアを横断し、中国を縦断しつづけていたことになる。黄金のジパングは遠かったのだ。

 

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フビライ・ハーンの臣下がポーロ兄弟に金の牌符を渡すところ。

 

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シベリアで発見されたパイザ。

 

 ところで、フビライ・ハーンはニコロとマテオにとんでもない要求もしていた。親書を渡したら、ついては教皇その人をハンバリク(大都)まで連れてこい、それがダメならキリスト教の聖職者たち100人を連れてこい、待っているぞよというのだ。そのほか、エルサレムで燃えつづけているランプの聖油もほしいと言った。
 実はフビライの母がネストリウス派のキリスト教徒だった。フビライ自身は仏教徒でもあるのだが、イスラームのシャリーア・コンプライアンスが社会に適用されるのを許容するような、そういう宗教的寛容の持ち主だったので、ことのほか西洋キリスト教社会がどういうものかを、知りたがっていたらしい。
 そういうフビライからの要求を無視するわけにはいかない。商人は約束を守ってこそ富に近づける。ところが教皇クレメンス4世は亡くなり、次の教皇もなかなか決まらない。
 ニコロたちは近しいピアチェンツァのテオバルト様が教皇になってくれれば、ひょっとするとフビライ・ハーンの難題に何かいい手を思いついてくれるのではないかと予想したのだが、2年をすぎてもはっきりしないので、ついにニコロたちはテオバルトその他の手紙などを携えて、ふたたび大都に向けて旅立つことにした。

 1271年、かくしてニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、そして17歳のマルコ・ポーロの3人はヴェネツィアを出航する。この年はフビライが「元朝」を宣言した年にあたる。いよいよマルコ・ポーロの世界物語の開幕である。
 まずは、アッコンからエルサレムに赴き、聖墳墓教会の聖油を手に入れることにした。次に、ふたたびアッコンに到着したところで、テオバルトがやっと教皇に選出され新たにグレゴリウス10世になったことが知らされた。幸先のいいスタートだった。そこで新教皇の親書をもらい、さらに修道士2人を付けてもらい、一行は胸ときめかせて、一路バグダードをめざした。
 『東方見聞録』はここからがやっと第1章である。それまでは序章になっている。ちなみに教皇が同行させた修道士はこの段階でぶるぶる脅えて、帰ってしまったとある。都市国家の商人は宗教者よりずっと勇敢だったのである。

 このあとポーロ一行が通ったルートはだいたいは前半が中東ルート、後半はシルクロードに近い。
 ざっと紹介すると、最初はヴェネツィア出航に始まって、アドリア海と地中海をわたり、エルサレム→アッコン→小アルメニア→バグダードに入る。ここまでで、マルコはテュルコマニア(今のアルメニア)の絨毯に目を見張り、カフカス山脈の付近でキリスト教・ユダヤ教・イスラーム・仏教などが混在しているのを感じて、びっくりしている。フビライの宗教的寛容がこんなところまで及んでいるのに驚いているのだ。
 ついで、進路を南にとってクルディスタンからアララト山あたりを過ぎる。ここはノアの洪水伝説があったところで、マルコもそのことに触れているのだが、「方舟を探しには行かなかった」などと訳知りに語っている。「黒い油」の噂もこのへんで聞いた。バクーの油井のことであろう。
 ここからいまのイラクのモスルをへてバグダード(バウダック)に入った。マルコはここをローマと較べ、その最大にして最美な宮殿都市に感嘆し、学芸・技術から絨毯・宝石にいたる繁栄に感心している。
 バグダードからは古代ペルシアの領域をななめに下って、バスラ→サヴァ→ケルマン→ホルムズと来て、これでペルシア湾の付け根の港に着く。ケルマンはイル・ハーンの国である。ホルムズには鉄の釘を一本も使っていないダウ船というアラブの船が停泊していた。

 

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ポーロ兄弟が教皇に選ばれたばかりのグレゴリウス10世から
フビライ・ハーンあての親書を受け取るところ。

 

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ポーロ兄弟が教皇グレゴリウス10世からたくされた聖書を
フビライ・ハーンに渡すところ。

 

 ホルムズから今のアフガニスタンを通り抜け、いよいよ西域シルクロードに向かう。途中、パミール高原のあたりでマルコは病気にかかり、ぐずぐずと1年近くを静養している。「谷で病気になったら山に入って治すのだ」という、その地の習慣に従ったらしい。マルコは元気になって、この土地の女が世界で一番美しいと言えるほどになった。


 西域シルクロードの旅は、ヒンドゥークシュ山脈からカシミールへ、途中にサマルカンドを遠望しつつカシュガル→ホータン→ロプノールからゴビ砂漠に挑むという未曾有のコースである。
 ホータンに着いたのが1274年、そこで翡翠が完売できたと言っている。この年はリヨンの公会議で教皇選出の基準が決まり、トマス・アクィナスが没している。ロプは「動く砂漠」の都として(また「沈んだ楼蘭」の都として)著名だが、マルコの一行はこれから渡るゴビ砂漠を前に、ここで気持ちを整えるかのようにしばらく休息をしている。
 ついでは意を決しての騎行一カ月、ようやくゴビを渡りきったところで、ヴェネツィアを発ってすでに3年が過ぎていた。それでもそこにフビライ・ハーンの命令によって護衛と迎えの兵士が待ちかまえ、一行を丁重に扱ってくれたことに感動して、一行の意気は倍加する。国境の兵士が宮廷にマルコ一行が砂漠をわたっていることを知らせておいたらしいのである。
 かくて1275年3月、ニコロ、マテオ、マルコはフビライの上都の宮殿に初の“ラテン人”として入ったのだ。

 当時のモンゴル帝国は、4つのハン国になっている。ロシア地方のキプチャク・ハン国、ペルシア地域のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、そして東方のフビライ・ハーンによる元である。元は正式には大元国(大元大モンゴル・ウルス)という。
 これらの4国でフビライ(忽必烈)が唯一の大ハーンで、そのフビライの領土といったら東は朝鮮半島、北はバイカル湖、西はチベット、南はビルマに及んでいた。宮都は以前の金の都であった中都から大都(トルコ語読みでハンバリク)に移し、ちょうど大建設の真っ最中である。国字としてのパスパ文字も開発されていた。
 中国史上、新たに国都をつくるのはほとんど非漢民族の王朝であるが、めったに一から造都するのではなく、以前の都市の改造改築にとどまっていた。それがフビライでは、冬の都である大都を古代の理想にもとづいて造営しつつあった。郭守敬らの設計だった。それに夏の都の上都(シャンドゥ)を加え、これを3本の幹線と1本のバイパスで結んだ。
 上都は広大な庭園に包まれていて、宮殿は巨大なゲル(テント)でできていた。詳しくは陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)などを読まれたい。

 

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フビライ時代の大都概略図。
主要な建築群は始めからプランニングされて造られた計画都市。
現在の北京はこの都の後身。 (クリックで拡大)

 

 マルコたちが上都に迎えられたとき、フビライは60歳になっていた。巨大なゲルのまわりには300羽のハヤブサと数えきれない猟犬が飼われていた。12月になると冬の大都に宰相の座が移った。
 『東方見聞録』には宮殿がおびただしい彫刻や絵画で飾られ、皇后や私妾たちの部屋が用意されていて、4人の皇后にそれぞれ1万人ほどの召使と300人の侍女がいたなどと書かれている。
 マルコは、大都の人の多さ、町並みの豪勢、金銀職人から仕立て屋や陶磁器職人たちの多さにも目をまるくしている。ヨーロッパ人が初めて見た大モンゴル帝国の元の中枢部であった。
 しかし、ポーロ一族はこの異郷の首脳たちにすこぶる好意をもたれたようだ。若いマルコはたちまちこの国の習慣と言葉を習熟したらしく、すぐにフビライのお気にいりになっている。
 そこでフビライはマルコに領内の情報収集活動をさせることにした。よく「マルコ・ポーロはスパイに仕立てられた」という説明があるのだが、『東方見聞録』を読むかぎりはスパイというより、一種の情報文化人類学的な調査活動だったように思われる。
 マルコが北方中国に出掛けた折りは、その土地で死者が火葬されないうちは、家族や親戚の者たちが遺体の前にテーブルを置き、食べ物や飲み物を山のように積んでときに6カ月ものあいだこれを見守り、腐敗をふせぐために棺には樟脳や香辛料をたっぷり入れているといった報告をしている。宿曜占星術がどのように使われているかという報告もある。

 1280年前後には中国の南方や、さらにはチャンパ(ヴェトナム)やビルマ地方に調査に行っている。
 とくに天上の都市キンサイ(杭州)についてのマルコの驚嘆は、いささか紋切り型ではあるけれど、大いに賛辞を惜しまないものになっている。水都ヴェネツィアと比較しても美しく、いやそれ以上に周囲が160キロもあって石橋が1万を越えているにもかかわらず、その下を大きな船が行き交っていること、職人が1万2000戸の家に住んでいて、一戸あたりに少なくとも12人が働いていること、すべての道路が石畳になっていて下水溝が完備していること、共同浴場が3000カ所にあって住民が月に3回は沐浴していることなど、あれこれ書いている。
 マルコは1285年にはザイトゥン港からジャンク船に乗りこんで、ジャワからスマトラのバスマ王国に入った。そこで一角獣(ユニコーン)を見たというのだが、これはどうやらアジア・サイだったと考えられている。またスマトラからはさらに船で時をかけて大きな島に行ったとなっているのは、おそらくセイロン(スリランカ)だろうと想定されている。ここでは巨大な神像や、島の王族たちが持っていたこぶしほどもあるルビーを見聞している。
 フビライからの御用命だったとはいえ、マルコはさらにインドにまで渡って平気の平座なのである。なんという世界病であることか。

 こうしてマルコたちは17年間をフビライのもとで仕え、情報活動や交易活動をするにいたったのだ。
 さすがにそろそろヴェネツィアに帰りたくなっていたが、いっこうにフビライは許可しなかった。しかしもしもフビライが急に亡くなってその恩寵が切れれば、マルコたちを妬む連中からたちまち殺されるかもしれないことも予想できた。そういう時代だ。
 なんとか帰還のきっかけをつかもうとしていたところへ、フビライの従兄弟の息子で、イル・ハン国を治めていたアルグンの妻のボルガナが病没し、そのあとをフビライに頼んでくるという知らせが入った。フビライはそれなら自分の王女の17歳のコカチン姫をアルグンに嫁がせようと決めるのだが、その道中があまりに危険なので、そこでマルコたちにその助っ人を頼むことにした。
 そのままヴェネツィアへの帰還を許したのではなく、また大都に戻ってくることを約束させ、金のパイザ(牌符)を与え、おそらく2年はかかるだろう旅程にふさわしい船団も用意して、コカチン姫と3人を送り出したのである。
 この計画はマルコたちが画策して下準備をしたことでもあったので、一行は意気揚々、4本マストの13隻の船とともにザイトゥン港を出た。船員も250人がいた。2カ月にわたって南シナ海を航海し、ヴェトナム、ジャワを越え、さらにアンダマン諸島を北西に進み、ベンガル湾を横切ってスリランカを経ると、今度はインド沿岸をまわってインド洋を航行してホルムズに到着した。やはり2年がかかった。
 ほんとうだかどうかはわからないが、すでに船員のほとんどが嵐や事故や病気や海賊襲来で死んでいた。それでもマルコたちと姫とはイル・ハン国に向かえたのだが、そこではすでにアルグン王が亡くなっていたことを知らされる。
 あまりに多くの予定が狂ってきたため、一行がさてこの先をどうしたものかととまどっているところへ、フビライ・ハーンの死が伝わってきた。79歳である。ここでマルコたちはふっ切れる。ついにヴェネツィアへの帰途につくことになる。
 数カ月の旅ののち、ヴェネツィアには24年ぶりに戻った。1295年だった。マルコ・ポーロは39歳になっていた。

 

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嵐や海賊に襲われ難航する。
(フランス語版『東方見聞録』挿絵)

 

 その後のマルコのことは、またまたよくわからない。しかし1298年のこと、ジェノヴァとヴェネツィアが地中海の交易路をめぐって激越な交戦に入ることになったとき、マルコがヴェネツィアのガレー船を指揮したことでジェノヴァ軍に捕縛され、投獄されたのである。
 このジェノヴァの獄中に、ピサのルスティケッロという男が同房していた。ルスティケッロ(イタリア語読みならルスカティーノ)の正体はまだ歴史学が十分に証してはいないのだが、どうもアーサー王伝説の簡略版の『メリアドゥス』の著者だったようで、マルコはこの男にポーロ家の大旅行の物語を語り始めることにしたのだった。
 いったいどのくらいの月日の獄中語りがあったのはわかっていないけれど、こうしてマルコとルスティケッロによって『東方見聞録』が“共同執筆”されたのである。
 バーバラ・ヴェーアの推理では、マルコ・ポーロがヴェネティア方言あるいはフランコ・ヴェネティアンで下書きをしたテキストを、ルスティケッロがフランス語ないしはフランコ・イタリアンの騎士道物語ふうに仕立てていったのではないかということになっている。
 いや、マルコは口述だけだったという説もあるし、もっと根本的な疑問を提出している研究者たちもいる。それは意外にも「マルコ・ポーロは中国に行っていなかった」というものだ。元朝の側の記録に、まったくマルコたちの記録が残っていないというのが最大の理由だ。ハーバート・フランクは「それにしても、どうもいまだ結論が出ない」と告白し、中国学者のフランシス・ウッドはマルコ・ポーロのモンゴル情報と中国情報は別の情報源のものからにちがいないと断言した。
 ぼくには、そのあたりのことはさっぱり見当がつかないが、獄中から釈放されたマルコがその後、『東方見聞録』を公開したところ、そこへ「嘘八百だろう」という噂が巻きおこったというのは、ほんとうのようだ。
 それでもマルコはひるまず交易商人を続け、ドナータ・バドエールという裕福な女性と結婚して3人の娘をもうけると、1324年で70歳で亡くなった。臨終のとき、友人たちが「あの本の内容は事実ではないと白状したほうがいい」と進言したのだが、マルコは次のように答えたとも伝わっている、「私はこの目で見たことの半分も語っていないんだよ」。
 そう、この言葉こそがイタロ・カルヴィーノをして『見えない都市』を書かせたのである。

 

 

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カタルーニャ地図
『見聞録』から強い影響を受けた、現存する最古の地図。
1380年頃

 

 はたして『東方見聞録』がどこまでホンモノの旅行記であるのか、まだまだ結論は出ていない。ぼくも念のためフランシス・ウッドの話題本『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』(草思社)を読んでみたけれど、その否定性にも、あまり説得力を感じなかった。
 むしろ中世史研究者のジョン・ラーナーの『マルコ・ポーロと世界の発見』(法政大学出版局)の精緻な検討が、マルコ・ポーロ以前と以降のアジア旅行に関する比較をして、しょせん当時の旅行記というものを歴史の証言かどうかに目くじらをたてて議論することに限界があるのではないかという見解を披露していることに、好感がもてた。
 どうやら多くの研究者たちは、イタロ・カルヴィーノが退(しりぞ)けた「世界書物への反発」に終始していると言わざるをえないのだ。

 ともかくも、ぼくはニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、およびマルコ・ポーロの2度にわたる旅程のルート、および帰還のルートをおおむね信用することにした。途中、いささか曖昧な記述があったり、誰かからの見聞をまぜこんでいたとしても、目をつぶる。いや、あのような世界旅行の物語を編集しえたことこそが、そのまま快挙なのである。
 なにしろ話は13世紀の世界旅行であって、こんな「世界」をヨーロッパ人はまったく知らなかったのだ。エンリケ航海王子の兄弟やクリストファー・コロンブスたちが、フラ・マロウやトスカネリの地図と『東方見聞録』に夢中になって、当時は漠然と「インド」とよばれていたアジアという「世界」に150年以上もたって探検に出掛けたのは、まさに『東方見聞録』が「ヨーロッパが来たるべき世界が最もほしくなった世界」をみごとに叙述し、いっさいの想像力をかきたてていたという正真正銘の証しなのである。
 それは黄金のジパングの記述がでたらめであっても、やはり世界にジパングの夢をもたらしたことに変わりないことと同断だ。
 そして、それよりなにより、このあとの千夜千冊でもあきらかにしていくつもりだが、13・14世紀における世界の経済社会文化はその大半をイスラームが仕切り、先頭を切っていたにもかかわらず、それをフェルナン・ブローデル(1363夜)とエマニュエル・ウォーラスティーン(1364夜)の研究以降は、世界経済システムは15世紀に確立し、それが資本主義の大いなる原型となり、そのまま世界経済はその世界システムにもとづいて肥大していったというふうに解釈してきたこと、そのことをこの『東方見聞録』が逆襲しうることのほうに、ぼくは加担したいのだ。
 世界の経済社会が15世紀や16世紀ではなくて、マルコ・ポーロが訪れた国々の13世紀にすでに確立されていたということ、このことは、何がどうであれ、できるだけ早くに納得されなければならないことなのである。

 

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フラ・ムール、中国詳細図
1459年にヴェネツィア人地図制作者によって作られた中国の地図。
『東方見聞録』にあるモンゴル帝国の描写にもとづいている。

 

 

【参考情報】

 (1)今夜とりあげたのは平凡社ライブラリーの『東方見聞録』だが、これはもともとは東洋文庫で1970年に初版が出ていたもので、両者はまったく訂正も加筆もされていない。平凡社ライブラリーになって、新たな解説すら付いていないのは平凡社にしては手抜きである。
 というよりも、もともと愛宕松男の訳業が、たとえば同じ東洋文庫の『アラビアン・ナイト』(1400夜)をめぐっての前嶋信次のすばらしい自己検証にくらべて、あまりにも質素すぎたのである。これはマルコ・ポーロのファンの一人として、今後の改善や充実を望みたい。

 (2)とはいえ、『東方見聞録』については日本の研究者たちは全般にみんな腰が引けてきた。たとえば岩村忍の『マルコ・ポーロ』(岩波新書)は、ぼくなども最初に読んだマルコ・ポーロ入門書であって、きっと誰もがそのように読んだだろうと思えるのだが、この一冊をあとに日本では陳舜臣の『小説マルコ・ポーロ』(文春文庫)をのぞいて、ほとんど“マルコ・ポーロもの”が出ていないのだ。これはどうしたことだろう。たとえばオリエンタリズムの詳細を日本で初めて解読してみせた名著『幻想の東洋』(青土社・ちくま学芸文庫)の彌永信美ほどの人が、いつかマルコ・ポーロにとりくんでほしいものなのだ。
 ちなみに翻訳ものもめっぽう少なくて、ジョン・ラーナーやフランシス・ウッドのもののほか、ヘンリー・ハート『ヴェネツィアの冒険家 マルコ・ポーロ伝』(新評論)があるばかり。ごくごくやさしい入門書には、マイケル・ヤマシタ他の『再見マルコ・ポーロ「東方見聞録」』(日経ナショナルジオグラフッィク社)、ニック・マカーティの『マルコ・ポーロ』(BL出版)がある程度だろうか。

(3) イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』(河出書房新社)は、ほかに池澤夏樹の「個人編集・世界文学全集」(河出書房新社)に、キシュの『庭、灰』とともにやはり米川良夫訳が入っている。
 なおフビライ・ハーンの元や大都については、直接には上記にも示したように陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)が参考になるが、これはモンゴル大帝国史を俯瞰するなかで読んだほうがいいので、いずれそちらの読書案内をしたいと思う。とりあえずは杉山正明の『モンゴル帝国の興亡』上下(講談社現代新書)などを参考にするといいだろう。

(4) ところで、13世紀のマルコ・ポーロ以前の“ラテン人”で、ユーラシアを渡ってアジアに到達した者がいなかったのかというと、そうでもない。実は13世紀以前のヨーロッパには「プレスター・ジョン」の噂が吹き荒れていて、これが“タルタル王”だともくされ、大モンゴル一族とその強大な王たちの情報をなんとか入手しようというもくろみが、何度が試みられていた。
 そこでベネディクト会の修道士マシュー・パリスはタルタル族(タタール)についての『大年代記』を著わし、ドミニコ会の修道士ロンジュモー・アンドレはアルメニアのタブリーズまで行って、そこからペルシア語の書状を中央アジアのカラコルムにいたチンギス・ハーンのもとに届けようとしたりした。フランチェスコ会の修道士ジョヴァンニ・カルピネはスラブの方へ赴いてヴォルガ河畔のバトゥ・カーンの黄金軍団駐屯地にまで行っている。
 もう一人、フランチェスコ会の修道士のギョーム・ド・ルブルークもバトゥ・カーンの黄金軍団を訪ね、「プレスター・ジョン」の正体を見きわめ、“サラセン人”や“タタール人”の猛威の実情を報告もした。
 とういうわけで、それなりに「東方」に向った者たちはいるにはいたのだが、これらはとうていニコロ・マテオ・マルコのポーロ一族の大旅行には及ぶべくもなく、とくに東アジアと東南アジアを同時に見聞したとなると、これはやっぱり空前の勇敢というべきなのである。






 

ヨーロッパ覇権以前(上・下)

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 この数週間で、チュニジア、エジプト、リビア、イエーメン、バーレーンなどのアラブ中東イスラーム社会が、次々に火を噴きはじめました。執拗で強引で小心だった大統領ムバラクも、僅か数週間の民衆暴動の波及によって、ついに退陣を余儀なくされましたね。

 フェイスブックのせいだなどと言っているのは日本のジャーナリズムと電子オタクだけで、そこには21世紀に入ってますます怪獣リヴァイアサン化しつつあるグローバリズムのなかで、アラブ・イスラーム社会に沈殿してきた世界史的なマグマがゆっくり噴き出てきたわけなのです。

 このマグマのこと、本当はかなり大事です。オイルマネーやイスラーム原理主義や9・11以降のイスラーム・テロばかりに目を奪われて、われわれは「中東」の現代史がどんな世界史のマグマを孕んできたのかを、すっかり忘れていたにすぎません。

 事態はまことに明白きわまりない。ここにきて、西洋中心主義の歴史観と欧米型資本主義の経済観が「世界の解明」には必ずしも役に立たないことが、あられもなく露呈しているわけなのですからね。けれども、そのことを身をもって知るには、ひとつには、なるほど中東や南米や東アジアの劇的な変化の意想外の現実に次々に出会ってみることが必須でしょうけれど、もうひとつには、そもそもこのような現代史のマグマが“本来の世界史”のどこから対流をしてきたのか、それがどんな裂け目で吹き上がってきたのかを知ることも重要だったのです。

 しかしながら、その“本来の世界史”というものが、われわれには見えなくなってしまいすぎるようです。

 

 思いおこせばですね、わが読書歴のなかでも、すでにして岡田英弘(1011夜)が話題作『世界史の誕生』(筑摩書房)で、果敢にも第1章を「1206年の革命」と名付けて、テムジンがモンゴル高原でチンギス・ハーンになった13世紀初頭にこそ「新たな世界史が誕生した」ということを訴えていたはずでした。

 あるいはまた、宮崎正勝が満を持して放った意欲作『世界史の誕生とイスラーム』(原書房)においては、大航海時代にかなり先駆けて、ユーラシア大乾燥地帯をラクダと馬と帆船をネットワークしたイスラーム社会が「新たな世界史」を用意したことを強調していたものでした。いやいや、もっと以前のことですが、“ヨーロッパ中心史観への挑戦”と銘打った謝世輝の『新しい世界史の見方』(講談社現代新書)や『世界史の変革』(吉川弘文館)などの、とても先駆的な試論もありました。ぼくはこれらを忘れられません。

 そうなんです。われわれはこの13世紀初頭から始まった“本来の世界史”の総体を、こびりついた西洋史観をいったんアタマからすっかり外して、せめて1990年代くらいには(つまりインターネットが広がりはじめたころには)、いよいよ直視しなければならないところにきていたはずなのです。

 ところが、ところがですね、この“本来の世界史”は、欧米人にとっても、日本人にとっても、なかなかアタマに入らないものになっていた。このこと、まったくもって困ったことで、欧米グローバリゼーションが希薄になっているにもかかわらず拡張を進めている現在、ますます困った歴史認識の落差になっているのです。けれども、困ったことだといって、ここで諦めてはいけないほどの重大問題なのです。

 つまりは、中世イスラームの網の目のようなネットワークと、モンゴルの大帝国の驀進とが、13世紀から14世紀にかけていったい何をおこしたかということは、いまやどうしてもアタマに入れなければならない現代人の現代史のための、世界史的必需品なのです。でも、歴史の授業といえば世界史と日本史を選択させられてきたわれわれは、このあたりのこと、どうにも苦手なのでした。

 

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『ヨーロッパ覇権以前(上)』の表紙を飾る帆船の「ダウ」。
イスラーム固有の縫合船。

 

 たとえば、では、では、モンゴルの疾風怒濤の歴史とはどういうものだったのか。それはどんなふうに13世紀の世界史を誕生させたのか。おおざっぱなことくらいは、ほかならぬ東洋人である日本のわれわれは、それを血液感覚としてもそこそこ見えていてよさそうなはずなんですが、はたしてそうなっているのかといえば、かなり心もとないのです。

 残念ながら、見えているとは言いがたい。だからこのことについては、いずれ別の機会に千夜千冊したいのですが、いまはとりあえずその前代未聞のモンゴル軍によるユーラシア制覇の10大ステップとでもいうべきを参考までにまとめておきますと、ざっと次のようになっているわけなのです。以下のこと、びっくりしないでいただきたい。

 

 ①13世紀初頭の1205年にチンギス・ハーンはゴビ砂漠の南の西夏王国に侵入しはじめて、1227年に西夏を滅ぼし、翌年には、モンゴル帝国の第一歩が踏み出されます。②1209年に天山のウィグル王国がチンギス・ハーンに投降し、ついで西遼(カラ・キタイ)が帰順して、ここにモンゴル帝国の激越な第一弾が発射されることになりました。

 ③チンギス・ハーンは1210年に金と断交して、翌年からは内モンゴルと華北に侵入を開始、1234年にはこれをオゴタイ・ハーンが受け継いで金を支配してしまいます。④ついで1211年、ナイマン王の息子クチュルクがカラ・キタイに亡命すると、1218年、モンゴル軍はクチュルクとともにカラ・キタイ王国を撃破し、その最前線はカザフスタン東部にまで進出します。

 ⑤一方、セルジューク・トルコが1157年に断絶すると、ここに新たにホラズム・シャー朝がおこったのですが、これを1219年にチンギス・ハーンが全軍を指揮してシル河を渡り、7年の遠征によって掌握してしまいました。これが1220年代後半のことでした。⑥そのころ、チンギス・ハーンの長男のジョチはカザフスタンを任されています。そこでオゴタイ・ハーンは1234年にジョチの次男のバトゥを総司令官としてウラル以西の諸国の征服に乗り出し、キプチャクの草原とコーカサスの諸種族をまたたくまに制覇すると、ついでは1241年にはポーランド王国に入ってポーランド軍とドイツ騎士団を粉砕していくのです。その勢いはハンガリー王国やアドリア海にまで達します。

 ⑦そのオゴタイ・ハーンが1241年に死去すると、モンゴルの大遠征軍は東経16度線で突如としてヨーロッパ進軍を中止して引き上げてしまいます。そこで総司令官バトゥは方向を転じてヴォルガ河畔、北コーカサス、ウクライナ、ルーシなどを支配して「黄金のオルド」を築きあげます。

 ⑧他方、1253年、チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは弟のフレグを西アジアに派遣して、バグダードを攻略させ、1258年にアッバース朝を滅ぼします。⑨フレグはさらにシリアに侵入、そのままエジプトに進軍して1260年にマムルーク朝を襲うのですが失敗、フレグはタブリーズを拠点として南アゼルバイジャン、西トルキスタン、アナトリア、コーカサスに及ぶ広大な領域を支配することにします。これがイル・ハーン国ことフレグ・ウルスです。

 ⑩かくて1276年、フビライ・ハーンが派遣したモンゴル軍は杭州を占領、ここに南宋が滅亡します。フビライは1253年に雲南のタイ人の大理王国を、1259年には韓半島の高麗王国を降伏させ、それらの中核たる中国全土をモンゴル支配による元朝に染め上げていくのです。

 

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モンゴル帝国の拡大

 

 まあ、こうしたわけで、こんなにも凄まじいことが13世紀前半にあっというまにおこっていったのでした。

 かくして、東は日本海・東シナ海から、西は黒海・ユーフラテス河・ペルシア湾にいたる東アジア・西アジア・東ヨーロッパに及ぶほぼ全域が、大モンゴル帝国の版図となったわけなのです。これをしばしば「パクス・モンゴリカ」とも言いました。

 しかしとはいえ、「パクス・モンゴリカ」のこんな粗筋だけをもって、それで13世紀のすべてが説明できるわけではありません。ここにはウマイヤ朝とアッバース朝以来のイスラーム諸国の大胆緻密な動向と、『クルアーン』と『ハーディス』にもとづいたウンマ・ネットワークの網の目とが、まことにダイナミックな多発多様なエンジンとなって形成されてもいたわけです。

 これ、まさに13世紀は、「アラビアン・ナイトの人々」と「シンドバードの海」と「チンギス・ハーンの国々」と「マルコ・ポーロの道」とで相互複合的にできあがり、そこへヴェネツィアやジェノヴァが繰り出す「地中海の交易商人」とがさまざまに交じりあっていたという、そんな構図です。

 それは甚だアラブ・イスラームで、かつモンゴリアン・アジアでモンゴリアン・チャイナな世界システムの巨大な確立だったのですね。

 

 というわけで、ぼくとしてはこの「世界史の誕生」の議論にできるだけ早く入るべく焦っていたのですが、そのためには、それなりの手順があります。それは、ずっと気になっていたアラブ・イスラームの歴史社会の内外を飾ってきた極め付けの古典たち、すなわち『クルアーン(コーラン)』(1398夜)、『アラビアン・ナイト』(1400夜)、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』(1399夜)、そしてマルコ・ポーロ『東方見聞録』(1401夜)を、なんとかその前に案内しておきたかったということです。

 これがこの数夜にわたった千夜千冊の人知れぬ格闘で(笑)、それもこれらはいずれ劣らぬ“大物”ばかりなので、すっかりぼくの年末年始が吹っ飛んだものでした。手間取りもしましたね。このアラブ・イスラームな著作群を再読するには、ぼくの速読をもってして、ゆうに1、2カ月がかかることになったのです。

 ともかくも、これでなんとか先へ進めることになったのですが、さて、それでは今夜は何を言いたいかというと、これはもはやはっきりしています。「世界は地中海資本主義と大航海時代とヨーロッパの市場でつくられたのではない。すでにマルコ・ポーロが動いた13世紀に確立していた」ということです。今夜のメッセージはこの一文に尽きています。

 

 以上のような理由で、今夜は7、8年前から気になっていた本書『ヨーロッパ覇権以前』を選びました。それほどの大著とはいえない程度の、けれども中味がけっこう濃い2冊組です。

 本書の内容はきわめて明快です。表題通りの『ヨーロッパ覇権以前』の、その“世界”とはどういうものだったのかということにほかなりません。

 ここで覇権とは「ヘゲモニー」の訳語なのですが、これはつまりは13世紀(正確には13世紀半ば)には、世界のヘゲモニーはアラブ・イスラームで、かつモンゴリアン・アジアで、かつ中東的で東洋的なしくみが、その大半を握っていたということをあらわします。

 念のためもうひとつ言っておくと、ぼくにとっての本書はアンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)とぴったり一対につながっていて、そこに岡田英弘と宮崎正勝の2冊の『世界史の誕生』ものがくっついているというふうになっている。ぼくは、そういうふうに読んできたのです。

 本書とフランクの関係については、アブールゴド(アブー=ルゴドと表記されているがアブールゴドにさせてもらいます)の先駆的な本書が先に刊行されて、これを受けてフランクが大著『リオリエント』を著したという順になります。だから、本書を先に読んでそのあとフランクに入っていけば、さらには岡田さんと宮崎さんの本を続けて読んで、そこに望むべくはたとえば杉山正明さんたちによるモンゴル興亡史の著作群などを加えれば、もっと「新しい世界史の誕生」の舞台の全貌がよくわかるということになるでしょう。

 この全貌とはね、世界の経済社会システムはいつ、どこで、どのような準備があったのか、それがどのようにヨーロッパにおいて“盗作”ないしは“転換”されていったのかという、その全貌のことをいいます。

 

 それにしても、この点についての本書におけるジャネット・アブールゴドの主張はアジア・ラディカルでした。

 ブローデル(1363夜)やウォーラーステイン(1364夜)が近代資本主義の基本となる「世界システム」は15世紀のヨーロッパでほぼすべて成立していたという見解に立ったのに対して、いやいや、それ以前の13世紀後半にはすべての準備がほとんど用意されていたじゃないかというものです。

 これはヨーロッパ中心主義の文明史観に強くクレームをつけたもので、まことに激しい主張です。彼女は、1250年から1350年のあいだに東地中海とインド洋を結ぶ中東に世界交易システムの新たな心臓部が確立していたということ、すなわちイスラームの経済社会の拡大期こそがその後の世界大のシステムの基本を確立していたということを、一貫して主張するのです。

 

 すぐに合点がいくことでしょうが、この「1250年から1350年のあいだ」のまさに開幕にあたる1253年にこそは、マルコ・ポーロの父ニコロと叔父マテロがコンスタンティノープルから旅立って、広大なアジア・イスラームの土地に踏み入り、ついにフビライ・ハーンの国に入ったのでした。

 さきほどもモンゴル軍の進軍として10個のステップを列挙しておきましたけれど、このマルコ・ポーロ一族の旅の前後には、そのような大変化が、ユーラシア全域においてきわめて重大な出来事として連続しておこっていたのです。いえ、同時期にヨーロッパ側の出来事でも看過できないことがおこっていたのです。

 たとえば、1250年のルイ聖王による十字軍の手痛い失敗、1258年のモンゴル帝国のフラグによるバクダードの征服とイル・ハーン国の成立、1261年のコンスタンティノープルのラテン帝国の陥落、エジプトに1250年から60年のあいだのマムルーク朝の樹立などなどで、これらが続けざまにおこっていたのです。こういうこと、それぞれ世界史的にゼッタイに見逃せないことですね。

 それでふと思うのは、日本の高校の世界史で「1215年、マグナ・カルタ制定」「1241年、ハンザ同盟成立」「1309年、教皇のバビロン捕囚」などをおぼえさせるなら、チンギス・ハーンの即位やイル・ハーン国の成立やマムルーク朝の樹立を学習させたほうが、もっというならマルコ・ポーロとフビライ・ハーンの話をしたほうが、ずっといいということです。

 歴史の目を中東や東方に移すのは、いまや焦眉の課題であるはずで、それでなくともムバラク大統領が退陣したエジプトを筆頭に、アラブ世界は時々刻々と現代世界史を変えつつあるわけなのですからね。

 

 では、本書のアウトラインを少々ながら眺めておきたいと思いますが、あらためてアブールゴドが一番言いたかったことは何かといえば、世界交易システムの新たな心臓部は「東地中海とインド洋を結ぶ中東にこそあった」「それはイスラーム社会とモンゴル社会と地中海社会のあいだにあった」ということです。

 これは、たんなるユーラシアの勢力地図がそうなっていたということではありません。経済社会が世界システムのレベルに達していたということなのです。つまり13世紀後半に、あらかた次のようなことがおこっていたということなのです。

 ①貨幣と信用取引のしくみがだいたい発明されていた、②資本蓄積とリスク分散のメカニズムがほぼ確立していた、③富についての大半の集積方法がおおむね用意されていた。

 もしもこの通りなら、これは世界の経済史を総覧しようと思う者にとってけっこう驚くべきことでしょう。しかし、その驚くべきことが実際の歴史の中でおこっていた。アブールゴトはこのことが決して誇張や贔屓目ではないことを、これまでのヨーロッパ史観では見えていなかったことを通して執拗に立証しています。

 このことを理解するには、いろいろ方法はありますが、まずは、大きく13世紀のユーラシア全域がどのようになっていたかということを俯瞰しておく必要があるかもしれません。いや、それがわかれば大半が了解できると思います。

 

 当時の「世界」は、(A)西ヨーロッパ、(B)中東、(C)東方アジアという3システムに大別できるものになっていました。それらに2つか3つのサブシステムがそれぞれダイナミックに内属して、独特の外向けの回路を形成しつつありました。

 (A)の西ヨーロッパには、3つのサブシステム回路があります。①東フランス・中央フランス、②フランドル地方の織物生産地帯、③ジェノヴァとヴェネツィア、です。

 ①のフランス回路では、トロワ、プロヴァンス、バール、ラニイなどがシャンパーニュの大市などを形成していきました。②のフランドル回路の中心になったのは、商業面と金融面でのブリュージュと、工業面でのヘントです。③のジェノヴァとヴェネツィアの回路では、ジェノヴァがコンパーニャなどの商業的自治組織でムスリム諸国と争って西洋的な動力源になっていたのに対して、ヴェネツィアはコンスタンティノープルの庇護をいかした東洋寄りの商業都市国家になっていて、だからこそここからマルコ・ポーロ一族が東への旅を意図できたのでした。

 (B)の中東には3つのサブシステム回路が動いています。①黒海沿岸では、コンスタンティノープルがセンター機能をもちました。②パレスティナ海岸地帯では、ここに十字軍活動が加わって、内陸路によるバクダード回路と北東に進む中央アジアの隊商を包みこむ回路が発動します。③ペルシア湾とインド洋を媒介にした回路では、ここにはホルムズやシーラーフなどの交易拠点が含まれて、大量の商人が入り乱れます。

 (C)東方アジアにも3つのサブシステム回路が躍動しています。①アラブ世界と西インドを結びつける回路、②南東インドとマラッカ海峡を結ぶ回路、③マラッカ海峡と中国の東端を結ぶ回路、です。

 これらのうち、最近のぼくにとって重要なのは(C)の東方アジア・システムなのですが、マルコ・ポーロ的にいうならこれは、(A)の③回路のヴェネツィアを発して、(B)の①コンスタンティノープルを介し、さらに②バクダード回路、③インド洋のホルムズ回路をへて、すべての流れが(C)に至ったというふうになるわけです。

 

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13世紀世界システムの8つのサブシステムのおおまかな「形」
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 そこで、以上の俯瞰された(A)(B)(C)の13世紀世界システムを、今度はマルコ・ポーロふうに西から東へ向かうルートで表示してみると、そこには、(a)北方ルート(コンスタンティノープルから中央アジアの陸路を横切るルート)、(b)中央ルート(地中海とインド洋をバクダード・バスラ・ペルシア湾を経由して結ぶルート)、(c)南方ルート(アレクサンドリア・カイロ・紅海をアラビア海とインド洋のほうに結ぶルート)、という3つのルートが浮かび上がってくるのです。

 これが当時の「東方幻想」を満喫させるルートでした。修道士カルピニやマルコの一族たちも、まさにこの「東方幻想」ルートにかきたてられていたわけですね。そしてここにこそ“本来の世界史”が13世紀に誕生していった背骨が如実に見えてくるのです。

 

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オリエントへの3つのルート。
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 13世紀の(a)北方ルートを仕切っているのはモンゴル帝国ですが、そこには前史もありました。

 すでにアッティラ麾下のフン族がローマ帝国崩壊直後に内陸ルートをドイツ地域にまで進出していたのですし、ついでは、トルコ系の民族であるセルジューク族が西に向かい、12世紀までにはイラク全土と肥沃な三日月地帯とエジプトにいくつものルートをつくっていたわけです。また、別のトルコ系のホラズム・シャー朝はトランスオクシアナ(中央アジアのオクサス川以東のオアシス地帯)を押さえていました。

 このような前史に対して、さきほど10のモンゴリアン・ステップに紹介したような、モンゴル軍の未曾有のユーラシア撃破が連打されたわけなのです。とくに1225年までに、チンギス・ハーンのモンゴル軍先鋒隊がホラズム・シャー朝を破り、ハンガリーにまで進攻していったことが大きかったことは、さきほども案内した通りです。

 しかし、ここでチンギス・ハーンはなぜかくるりとヨーロッパに背を向けたのですね。これは世界史上のグランドシナリオにとってきわめて大きな“方針変更”なのですが、ここではその点には立ち入らないことにします。チンギス・ハーンにとって、ヨーロッパは魅力のある征服対象ではなかったということだけを強調しておきます。

 ともかくもこうしてモンゴル帝国はヨーロッパを捨てて、戦線を東に大きく切り返し、今度は中国に向かったのです。その1227年に、チンギス・ハーンはその途次で病没しました。けれども、このことがまわりまわって、13世紀ユーラシアにモンゴル型の(a)北方ルートを確立させたということ、いくら強調しても強調しすぎることにはなりません。

 ついでに言っておきますと、チンギス・ハーンの死後、世界制覇の野望は4人の息子たちに委ねられました。ジョチとバトゥはロシアと東ヨーロッパを、チャガタイはペルシアとイラクの全イスラーム地域を、トルイにはモンゴルの本土が任せられ、それらすべてをオゴタイ・ハーンが統率しました。

 その後、そのオゴタイが死に、モンケが継いだのち、モンケの兄弟であるフレグが1258年にバクダードを征服して、そこにフレグ・ウルス(イル・ハーン国)を創設し、もう一人のモンケの兄弟のフビライが中国北部を任されて元朝(大元ウルス)を確立したのですが、このバクダードと元の上都・大都こそは、マルコの一族が東へ東へ向かったルートと目的地になったわけです。

 

 さて、(b)の中央ルートのほうは、シリア・パレスティナの地中海沿岸部に始まり、メソポタミア平野を通ってバクダードに入り、そこで陸路と海路に分かれます。

 陸路というのはペルシアからタブリーズに至り、そこから二つに分岐して、南東へは北インドに向かい、東にはサマルカンドから西域をへて中国に進路をとるというふうになるルートです。海路のほうはティグリス川に沿ってペルシア湾に下り、バスラの港からオマーン・シーラーフ・ホルムズ・キーシュというふうに進んだ。大量の商品が運ばれたのはこの海路のルートです。

 (c)の南方ルートは、カイロと紅海とインド洋を結ぶルートのことですが、これは1250~60年のエジプトに出現したマムルーク朝の影響がすこぶる大きいといえます。

 もともとこのエジプト地域はイスラーム史としてはファティーマ朝(909~1171)がいたところで、そこが十字軍に攻められると、それを12世紀のクルド軍がサラディンのもとで撃退したことによってアイユーブ朝(1169~1250)となるのですが、そのアイユーブ朝がさらにエジプトの国土を実質的に守ってきた奴隷軍人たちによってマムルーク朝(奴隷王朝)に切り替わったことで、新たな世界史の躍り場になった地域なのです。

 それゆえこの南方ルートは、その中心のカイロが「世界の母」とよばれてカリフ制を再興したこと、ついでは初代のスルタンになったバイギルスが1260年にシリア・パレスティナを制圧したこと、さらには後続の十字軍を撃退しつづけたこと、これらの流れの出現がつくりだした新規ルートなのです。いわば十字軍とモンゴル帝国の挟撃によって出現したルートです。

 

 以上、13世紀世界は3つの(A)(B)(C)システムと、8つか9つのサブシステムをもつ回路の相互複合的な組み合わせによって説明できると、アブールゴドは見たわけです。

 ここでは省略しますが、彼女は交易品や宿駅での光景などの具体的なエビデンスもいろいろ挿入して、詳しい説明をしています。

 こうして本書も後半にさしかかって、「シンドバードの海」と「モンゴルの道」に分け入り、いよいよ「インドと中国が呼応しながらつくりあげた13世紀東方世界」の牙城に向かっていくのです。

 「シンドバードの海」とは、いうまでもなくまさにアラビアン・ナイトな広大な領域のことです。ここでは、かつての古代ペルシアの商圏がどのようにアラブ化され、イスラーム化されていったかということが証かされます。「モンゴルの道」のほうは13世紀においては、それこそぴったりマルコ・ポーロの東方への旅に重なっているので、もはや説明することもないでしょう。

 

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インド洋交易の3つの回路

 

 こうして最後に注目されるのが、紅海・ペルシア湾・アラビア海・ベンガル湾・南シナ海をまたいで形成された「インド洋交易圏」と、フビライ・ハーンの中国支配によって頂点に達した「モンゴリアン・チャイナ交易圏」です。

 「インド洋交易圏」を制したのはアラブ・イスラーム商人です。かれらは西側の海路では紅海・アラビア半島・ペルシア湾岸・インド西南を交易し、中央の海路ではインド東南・マラッカ海峡・ジャワを動きまわり、東端の海路ではそのマラッカ海峡からスンダ海峡・東インド諸島をへて、ついには中国華南をめざしました。

 こうした実情をアブールゴドは、15世紀に書かれたイブン・マジードの航海記などを克明に調べて再生させています。

 ちなみに、この商人たちは単独者たちなどではありません。それぞれが独自の商人組織をつくりあげていた。かれらは必ずしも共通の言語や共通の通貨で取引していたわけではないのですが、それでもアラビア語はギリシア語や口語ラテン語と同様にかなり広い地域で用いられていたし、北京語はすでに東方アジア諸国の共通語になっていました。通貨はヨーロッパでは銀が価値をもち、中東では金がそれにあたり、中国ではそのころは銅貨が好まれていたけれど、そういうことはこのアラブ・イスラーム商人たちの何の支障にもなりません。どんどん両替をすればすむからです。ようするに、かれらは資本主義の先駆者で、かつ非ヨーロッパ的な主役たちだったのです。

 ちなみにアラブ・イスラーム商人の前身の、そのまた前身はなんとシュメール人です。知っていましたか。そこには商業民族の歴史がありました。それがササン朝ペルシア期で「銀行・小切手・為替手形」の原型を生み、これをイスラーム商人がコンメンダによる契約商業に発展させていったのです。

 この契約商業はシャリカ・アルミルク(所有権上の協業)とシャリカ・アルアクド(契約による商業上の協業)によって発展したもので、労働すら投資行為とみなされます。このあたりのことは、いずれ櫻井秀子さんの『イスラム金融』(新評論)という本をとりあげて説明するつもりですが、つまりは、こういうところにもヨーロッパ的な契約とはまったく異なる“世界史”が登場していたということ、念を押しておきます。

 

 ヨーロッパとアジアを結びつけた地理中心は、中東と中央アジアとインド洋でした。なかでもインド亜大陸が、すべてのユーラシアの動きの波動力となりました。

 南インドは大半の航海者が出会うところです。西海岸にはアフリカやメソポタミアから来た船が着岸し、東海岸には中国・インドネシア・マレーシア・タイなどの船が西に向かうために寄港するところです。西側がマラバール、東側がコロマンデルですね。

 マラバールの中心はカリカットやゴアですが、その背後に発達したのがグジャラートやシンド(今のパキスタン)でした。コロマンデルのインド商人はもっぱら東に向かって活動します。

 インド亜大陸に次ぐのは東南アジアと、その海です。そもそも東南アジアは10世紀と11世紀に、南インドのチョーラ朝、クメールのアンコール朝、ビルマのパガン朝、北ベトナムの黎朝、中国本土の宋朝などの新たな動向によって勃興していったところで、海に向かってはいわゆる「都市の多島海」を形成します。

 そこからしだいに中核的な“海のブリッジ”となっていったのがマラッカでした。今のマレーシアにあたりますが、1511年にポルトガルの征服者カブラル艦長の一行がイスラーム商人の船舶を襲撃して捕縛するまで、ずっと東西の要衝をつなぐ“海のブリッジ”としてのマラッカ海峡を守護しつづけました。スンダ海峡とともに、ここに最も広域の東西のルートをつなぐ最も狭い海峡が位置していたのです。

 

 さて、どんじりの中国ですが、もともと中国の人口分布の重心は6世紀までは内陸部にあって、外国交易もシルクロードを中心とする内陸交易中心でした。

 それがローマ帝国の没落とともに、人口重心が南方に移動して、それにともない海洋交易が活発化します。それとともに12世紀末には人口が一気に7300万人に達します。それから1世紀後の、つまりフビライ・ハーンの時代には、全人口の80パーセントが中国南方に居住したのです。

 これは今日の北京型の中国からは想像がつかないことですが、この南がかった中国こそ、13世紀世界システムに大きく寄与したのでした。マルコ・ポーロは北の中国を「カタイ」と呼び、南の中国を「マンジ」と呼んでいます。

 その南のマンジの蠢動を体現したのは、広東・泉州・杭州です。マルコ・ポーロの時代でいうと、広東はカントン、泉州はザイトゥン、杭州はキンサイですね。とてもエキゾチックです。これらの港町の繁栄は1368年の元の滅亡後も続きます。

 もっともアブールゴドは、どうも中国についてはあまり冴えた分析をしていません。のちに『リオリエント』のアンドレ・フランクからそこを批判されたものでした。

 

 ごくごくおおまかな紹介をしたにすぎませんが、それでもざっとは、13世紀の世界システムは以上のような地理と勢力とネットワークをもって形成されたこと、伝わっただろうと思います。

 ともかくもここまでのこと、“新たな世界史の誕生”としてそのアウトラインだけでも十分に理解する必要があります。

 ところが、ところがそれらの大半が、15世紀にはヨーロッパによってしだいに分捕られていったわけなのです。そこでは、東方寄りのヴェネツィアよりも大西洋寄りのジェノヴァが活躍し、そのジェノヴァにコロンブスが登場しました。またポルトガルが「旧世界」を乗っ取り、スペインが「新世界」を合併したことが、13世紀世界システムに変容を生じさせのでした。

 いったいなぜそのようになったのか。このことについては、本書には述べられていません。この問題に入るには、いったんアラブ・イスラーム社会の歴史を離れ、ヨーロッパとイスラームの相克の歴史を、とりわけてはオスマン・トルコ帝国の動向などを通して検討する必要があります。でも、それまだ先のこと、ぼくはまだしばらくアラブ・イスラームにこだわっていきたいと思っています。

 

世界史の誕生とイスラーム

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 こういう日本人の本を紹介できるのは、ちょっと嬉しい。宮崎正勝は『イスラム・ネットワーク』(講談社選書メチエ)の中で、アッバース朝がユーラシア商業圏というネットワークを形成したところに「世界史の誕生」があるという提案をした。1994年のことだ。
 この一冊は、おそらく1992年の岡田英弘(1011夜)の『世界史の誕生』(ちくまライブラリー)に触発され(岡田はもっぱらモンゴル・ネットワークを主役に据えた)、それを受けたかっこうで、イスラーム世界の確立をもって世界史のシナリオを書き書き換える試みだったと思うのだが、一読して、その試みが注目すべきものになっていると見えた。
 宮崎は長らく三田高校、九段高校(ぼくの母校である!)、筑波大付属高校などの世界史の先生をして、その後は北海道教育大学教授やNHKの高校世界史講座なども担っていた歴史研究者だが、ぼくにはその炯眼がときに眩いものを発しているように感じられていた。『鄭和の南海大遠征』『ジパング伝説』(中公新書)などの著作もある。
 その宮崎が『イスラム・ネットワーク』で、アッバース朝こそは世界史上初めて「ネットワーク帝国」に達したという見方を詳細にあかした。もう16年ほど前の本になるが、いろいろ興味深く読んだものだ。今夜とりあげた『世界史の誕生とイスラーム』はこの延長になる。

  750年に成立したアッバース朝は、ムハンマド(マホメット)によって開教されたイスラームが、ウンマ(イスラーム共同体)として社会を構成しうることを証した622年から数えて、120余年後に出現したイスラーム王朝である。1258年にモンゴル帝国のフラグが首都バグダードを侵略するまで、約500年近く続いた。
 その前の最初のイスラーム王朝だったダマスクス(現シリア)を首都としたウマイ ヤ朝にくらべて、すぐれてネットワーク的な広がりをもった。ウマイヤ朝が“アラブ帝国”のスタートだったとすれば、アッバース朝は“イスラーム帝国”の誕生だった。
 周辺の動向を歴史スケッチしておく。
 当時、ヨーロッパの中央部はクローヴィスのメロヴィング朝からカール大帝のカロリング朝を生み出し、ヴェルダン条約をへてフランク王国がカペー朝のフランス、イタリア王国、神聖ローマ帝国に分かれていく時代だった。
 それよりちょっと東方のビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、建国から200年がたっていた。帝国は初期こそ、ユスティニアヌス帝がササン朝ペルシアと結んだ和平協定によって地中海周辺のゲルマン諸国を抑え、その効果で帝都コンスタンティノープルは輝かしい都市文化を誇っていたのだが、8世紀になるとその勢いが停滞してきた。
 イスラーム勢力によって穀倉地帯のエジプトと商業地帯のシリアを奪われ、そこへバルカン半島でのロシアの南下が加わって領土内のスラブ化が進み、やがては帝国を7つの軍管区にわけざるをえなくなり、さしものビザンツ帝国も総じて「西のキリスト教世界の防波堤」の役割を担うだけになりつつあったのだ。

 そうしたなか、ひとりアッバース朝だけは新たに造営した円城都市バグダードを首都として、そこから地方都市を結ぶ道路網を4方向にわたってネットワークして、しだいにその勢いを増していた。
 ユーフラテス河口に向かうバスラ道、イラン北東部の銀産地のホラーサンやニシャプールや南部のイスファハーンに向かうホラーサン道、メッカ巡礼のためのクーファ道、ダマスクスに向かうシリア道の4方面である。
 それらをバリード(駅逓)と多くの民族と部族からなる商人たちがつなぎあい、ヨーロッパ諸国ともビザンツ帝国とも異なる独特の「交易を媒介にした大ネットワーク経済圏」を広げていった。こういうネットワーク型のイスラーム帝国を、アッバース朝は第2代カリフのマンスール、第3代のマフディー、第5代ハルーン・アル・ラシードでその全容をほぼ完成させている。


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アッバース朝の幹線道路とネットワーク


 アッバース朝とは、こんなネットワーク帝国だったのである。バグダードの近くには穀倉地帯サワードが栄え、東アフリカのバンツー系の黒人たちがザンジ(ザンジュ≒奴隷)として潅漑農業にかかわった。
 各都市を行き交う商人たちは、羊毛・木綿・亜麻・絹の加工にとりくんで、ガラス製品・タイル製品・石鹸・用紙などとともに多様な商品経済を支えた。
 かれらはハッザーン(屯積商人)、ラッカード(行旅商人)、ムジャッヒズ(輸出商人)などとして活躍し、なかにはタージル(大商人)となって大きな富を得る者も少なくなかったが、そこにはいわゆる「ワクフ」(喜捨・寄進)が必ず生きていて、商人の多くがその利益の一部をモスク・病院・孤児院・水飲み場などの費用にあてた。政治的な変動はあっても、その経済力は衰えない。
 通貨は、金を主要通貨としたビザンツ・地中海系、銀を主要通貨としたペルシア・イラク・イラン系の両方をたくみに踏襲して、ウマイヤ朝同様に一種の「金銀複本位制」をとった。イスラーム・ネットワークの東では銀貨、西では金貨が流通したのである。そのためヨーロッパ社会ではアッバース朝のディナール金貨やディルハム銀貨が「マンスク」と呼ばれて評判になった。
 それ以上に西側社会をおどろかせたのは為替手形(スフタジャ)や持参人払い手形(チャク)だった。商取引上における「信用」という概念は、イスラーム社会こそが西側に広めたものだといえる。
 商業と交易と信仰とが広げたアッバース朝のネットワークの発展は、国家が周縁の地方都市と微妙に組み合わさっていたせいである。周縁都市は、西トルキスタンからイラク・シリア・アラビア半島をへたマグリブ(エジプト)・アンダルス(イベリア半島)に至るまで、それぞれ固有の歴史文化をもっていて、その固有文化が新たなイスラーム社会と融合していった。
 この融合力は、イスラームのもつ文化寛容性と商業重視主義が大いにあずかった。そのことは9世紀後半のイブン・フルダーズベの『諸道路と諸国の書』にもたっぷり活写されている。

 宮崎がアッバース朝による「ネットワーク帝国」の出現をもって「世界史の誕生」だと考えた世界史観は、むろん独創でもなく、孤立した見解でもなかった。
 こうした見方は、ジャネット・アブールゴドの『ヨーロッパ覇権以前』(1402夜)、アンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)、あるいは加藤博(1395夜)の『文明としてのイスラム』(東京大学出版会)などによって、強化され、補完されていった。
 また別の視点からは、アンリ・ピレンヌの『ヨーロッパ世界の誕生』(創文社)、ウィリアム・マクニールの『ヴェネツィア:東西ヨーロッパのかなめ』(岩波書店)や『疫病の世界史』(新潮社)、ジャレド・ダイアモンド(1361夜)の『銃・病原菌・鉄』(草思社)などが応援団を繰り出していた。マーシャル・ホジソンがヨーロッパ・中東・インド・極東をまたぐアフロユーラシアを「地域関連史」によって読み解くことを提案したのも、この部類に入る。

 これまで人類の歴史は、主として「文明」「民族」「国家」というカテゴリーを枠組みにして記述されてきた。ここに「宗教」「文化」「政治」「経済」が加わることも多いけれど、これらすべてを統合的に組み合わせて語ろうとすると、さまざまな限界が露呈した。
 たとえば「文明」で歴史を語ろうとすると、その底辺にどうしても文明遺産としての共通認識をはめこむことになる。これでは世界遺産にとらわれた歴史観になる。「民族」はそもそもが古代ギリシアのエトノスに由来する概念で、都市国家の内部のデモスと対比されたものなのだから、民族の対比や対立を機軸にした比較ばかりをしかねない。
 「国家」はきわめてわかりやすい枠組みではあるが、歴史的には19世紀半ば以降の国民国家(ネーション・ステート)を単位にせざるをえないため、歴史の全般にはおよばないことが多い。
 これらに対して「宗教」「文化」「政治」「経済」はもう少し個別の歴史の適用には有効なようだけれど、今度はここに、民族や言語の相互のちがい、神話・伝説・伝承の地域をまたいだ広がり、政権のめまぐるしい変化、生産・流通・消費の広域におよぶ出入り、貨幣や通貨の相対関係などが絡んできて、歴史が進むにつれてその様相が一挙に複雑になっていくため、叙述がどんどんと入り乱れる。
 そこで、これらの枠組みを生かしつつも、そこにそれなりの「束」と「網」をもって歴史の総覧を掴むには、「ネットワーク論」のようなものを使ってみるといいのではないかというふうになってきた。一定時期の社会経済ネットワークが「世界」という大きさに達したところを研究していこうというのだ。
 この場合、ネットワークとしての世界の結節点(ノード)になるのは、その地域やその歴史を代表する「都市」である。
 都市はそもそもが政治・宗教・文化・交易・消費活動などの多様なネットワーク集積の上に成立しているものだから、都市の相互のつながりがある程度の規模に達したところに「世界というシステム」と「ネットワークという世界」との関係ができあがると見ればいい。こういう見方だ。
 この見方をとれば、そもそも世界史において何が最初の「ネットワークという世界」の出現で、それが「世界というシステム」にあたったのかということが見えてくるはずなのだ。

 これまでの西洋史観にもとづく古代中世の世界としては、アッシリア帝国、アレクサンドロスの帝国、ローマ帝国、漢帝国、ササン朝ペルシア帝国、ビザンツ帝国、隋唐帝国、神聖ローマ帝国などが世界史の軸をつくってきたと考えられてきた。
 しかし、ブローデル(1363夜)らのアナール派の歴史学が、これに「地中海のネットワーク世界」の重要性を対峙させることで、このような単独の帝国で歴史を見ることを覆した。
 ウォーラーステイン(1364夜)はそこをさらに突っ込んで、人類が生み出した社会システムは2種類しかない。それは、他の領域から自立して互酬性と文化的同質性で結ばれる「ミニシステム」と、それを超えていく「世界システム」である。その世界システムは二つに分かれ、複数の文化集団が再分配の経済と統一権力のもとで束ねられる「世界帝国」と、交換経済が支配する「世界経済」になるのだが、後者の世界経済はつねに不安定なため、解体するか、前者の世界帝国に含まれていくか転換されていく。そういうふうに見るべきだという提案をした。
 ブローデルやウォーラーステインはこのモデルにもとづき、15世紀のヨーロッパにおいて「分業」と「世界帝国」と「資本主義の原型」が同時に成立したとみなして、ここに最初の世界システム(資本主義世界システム)が誕生しただろうと結論づけたのである。
 けれども、ここには大きな欠落もあった。いや、決定的な欠落だった。先行するイスラーム世界とその活発な交易経済圏がすっぽり抜け落ちていたのだ。どうもブローデル=ウォーラーステインのモデルは世界史の全体にあてはまっていないのではないか。西洋中心史観にとどまっているのではないか。そういう声が上がってきた。

 ここで俄然浮上してきたのが、ウマイヤ朝に始まってアッバース朝で完成をみた「イスラーム・ネットワーク」とその世界的帝国性というもので、加えていえばその後に連続した「モンゴル・ネットワーク」とモンゴル帝国の世界性だったのである。
 とくにイスラーム・ネットワークはその後のティムール帝国、ムガール帝国、オスマン・トルコ帝国にまでその社会的OSが及んでいったことで、いっそう歴史における世界ネットワーク性の「束」と「網」の大きなモデルだということになった。
 こうしてアッバース朝こそが「世界史の誕生」を告示していたという見方が新たな脚光を浴びたのである。
 しかしながら、8世紀に誕生したアッバース朝が「イスラム・ネットワーク」の開示だったとしても、はたしてそれがそのまま「世界史の誕生」だったかということは、その後の研究や議論のなかでやや早すぎるのではないかとも思われるようになった。ぼくもこれでは早すぎると感じていた。
 かくていまでは、そこに「モンゴル・ネットワーク」の高速性と重畳化を加え、アブールゴドやフランクによって提唱された「13世紀半ばに世界史が誕生した」という見方のほうが認められるに至っている。前夜に案内した通りだ。
 宮崎もそのように感じたのだろうか、アッバース朝にこだわらない見方で新たにペンを執ったのが、今夜の本書『世界史の誕生とイスラーム』なのである。


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アッバース朝ネットワークの主要都市


 さて、以下はぼくの正直な感想になるのだが、『イスラム・ネットワーク』と『世界史の誕生とイスラーム』が一冊の本として興味深いところは、実はアッバース経済圏の基本的な特色に大きな意義を強調したということよりも、むしろアッバース朝の外側諸国や諸民族の経済文化圏のダイナミックな動きを、宮崎流のわかりやすさで活写したところにあった。
 きっと宮崎も、そういう「イスラームの内と外」をこそ書きたかったのではないかと思われる。
 そこでぼくも、ここはいささか奮発して、その「イスラームの内と外」がどうなっていたのかを、ざっと要約編集しておくことにする。ユーラシアの東西南北に電気火花が走ったような、10角形くらいの出入りを案内することになる。

 第1には、ムスリム商人が西域に張り出していったことである。
 747年、唐の玄宗の指令によって高句麗出身の高仙芝が西域に遠征した。高仙芝は吐蕃を討ち、その進軍は西トルキスタンに及んだが、ここでズイヤード・サーリ率いるアラブ・イスラーム軍が諸国の遊軍をまきこんで唐の3万の軍隊と戦い、勝利した。
 これが有名なタラス河畔の戦い(751)で、このとき中国の製紙術が中央アジアに伝わり、サマルカンドに最初の製紙工場がつくられることはよく知られていようが、これはイスラーム・ネットワークの中に西トルキスタンが組み込まれたことで、内陸アジアの交易ルートの中継点ができたという意味のほうが大きかった。
 ちなみに唐のほうは、タラスの戦いの4年後に安禄山が長安を占領し、8年にわたる安史の乱ののち、混乱期が始まることになった。
 ここまでは誰も知っている話であろうが、ついで第2に、西トルキスタンのイスラーム化はソグディアナを繁栄させた。
 そのソグディアナは、10世紀のアラブ人地理学者ムカッダシーをして「神がつくった最も美しい国」とか「世界の四大楽園」と言わしめたのだけれど、そのソグディアナのソグド人たちが中世シルクロード交易の中心的な担い手となって、さらにはサマルカンドから中国沿岸地方への交易ルート、ペルシア湾からインド洋・南シナ海への交易ルートを活性化させたことが、世界史上の出来事としては大きかった。
 アブー・ザイドが851年に書いた『シナ・インド物語』には、内陸アジアに隣接するホラーサン地方の商人がイラク地方で大量の商品を購入してカンフー(広州)に赴いたのだが、あまりに安く宦官たちに買い上げられたので、皇帝に抗議を申し入れたという記事が載っている。この『シナ・インド物語』という本、なんだかおもしろそうなのでさっそく取り寄せた。関西大学出版部の刊行だった。

 

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広大な領域にまたがるオアシス・ルート

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アッバース期の海のネットワークと中心港市


 西域がイスラーム化したことは、この程度の影響でおわったわけではない。
 第3に、シルクロード交易がそれなりの取引閾値に達してしまうと、ムスリム商人たちはシル・ダリア(シル川)を越えた草原地帯に入りこみ、そこでカザフスタンの広大な領域の遊牧トルコ系の集団との交易関係を交わらせたということがある。これが1397夜にも紹介したマムルーク貿易となり、アッバース朝に軍事奴隷マムルークをふやすことになった。
 第4に、そのトルコ系遊牧民のなかには、西突厥から自立してハザールの王国(ハザル・ハン国)をつくっていた勢力があった。ハザールは7世紀以降、アラブ軍との抗争関係にあったにもかかわらず、9世紀にはイスラームとの共存に切り替わり、アッバース朝とビザンツ帝国との緩衝地帯になった。このことも重要だ。
 なるほど、なるほど、ここに、ムスリム商人、ユダヤ商人、アルメニア商人、ルス人たちが交じったのである。ハザールの首都イティルには10世紀には約1万人以上のムスリムが居住し、モスクも建てられたらしい。
 が、話はそれにとどまらない。
 第5には、ハザールは10世紀をすぎるとブルガール人が自立して、ルス人とトルコ系遊牧民ペチュネグ人が侵攻するようになり、965年にはキエフ公国のスヴァトスラフ大公によって拠点攻撃されてすっかり瓦解してしまい、そこにヴォルガ川河畔の新たなブルガール・ハン国が確立されるのだ。
 ところが、ムスリム商人たちはこうした変転をものともせず、するするとブルガール・ハンとの交易に乗り換えたため、ついにはそれが引き金になって、ブルガール王アルムシュをしてイスラームに改宗させた。
 そこで第6に、バグダードのカリフはブルガールの首都ブルガール(現在のカザン南方)に使節団を派遣して、ブルガールがヴォルガ水系の交易を牛耳ることに手を貸した。これこそ、なるほど、なるほどで、こういうふうにイスラーム・ネットワークは相手国がどんな変転を見せようとも、平気の平座で質的な拡張をしていくのである。
 ついでながら、ブルガール人はその後二つに勢力を割って、そのひとつがブルガール・ハンに残り、もうひとつが西に動いて、現在のブルガリアに移住した。それとともにマジャール人が伴動して、これがドナウ川からハンガリー平原に定住していったのだった。
 これこそがのちのちに「ジプシー」とか「ジンガロ」と呼ばれる流浪の民の淵源であり(224夜)、また「アシュケナージ」と呼ばれるユダヤ流浪民の淵源だったのである(946夜)。このあたりのこと、ぼくの勝手なおもしろがりようではあるが、とてもスリリングだ。

 さあ、こうなると第7にイスラーム商圏はもっと世界大に広がって、ハザンやブルガールを経由する商品には、いよいよ北欧やロシアからもたらされる商品も加わっていくことになった。
 そしてそこに、ついにはヴァイキングの交易路が重なって、10世紀の地理学者イブ・ハウカルが書きのこしたように、ヨーロッパが地中海貿易で北欧と結んだ交易力よりも、イスラーム的な北欧から西域におよぶ交易力が断然に勝ることになっていったのである。
 ちなみに第8に、ヴァイキングというのはノルウェー人、デーン人、スウェーデン人のそれぞれがいたのだが、なかで経済的に抜きん出ていたのはバルト海の奥にいたスウェーデン・ヴァイキング(ルス人・ルーシー人)で、しかしかれらはその力を西欧に向けるよりも、9世紀から10世紀にかけてのビザンツやイスラームに向けたということが、おもしろい。かれらはその後はキエフ公国の担い手にもなっていく。
 それに対して中世西欧社会に出没したヴァイキングは、質素で勇敢なノルウェー・ヴァイキングのほうだったのである。
 しかしながら第9に、このような北欧ネットワークとイスラーム・ネットワークの相関関係はまことに複雑で、またさまざまな切り返しもおこっていて、予断ならないものになっていった。
 とくにキエフ公国のウラジミール1世がキリスト教に改宗し、ビザンツ皇帝の妹を娶ったことは、このネットワークの一部がビザンツ帝国寄りに引きつけられることになって、ここで銀貨の補給を断たれた北欧経済力がドイツのハルツ山地の銀と結びつくことになったのだけれど、それがやがてはドイツ人がバルト海南岸に進出することと相俟って、ここに「中世ヨーロッパ商圏」が北欧ネットワークを下敷きとしたハンザ同盟へと切り替わることで、ついにはヨーロッパ経済圏の自立を促したのである。
 これまた、たいへんスリリングなヨーロッバ経済の、やっとの自立のお話だった。

 

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ヴァイキングのネットワーク

 さて一方、第10には、アッバース・ネットワークの伸長が最もいちじるしかったのは、インド洋をめぐる海域だったということである。
 インド洋で古代ローマのずっと昔から季節風貿易がおこなわれていたことは、1世紀ころのエジプトで書かれた『エリュトゥラー航海記』にもあきらかで、そこには、胡椒の産地マラバール海岸がリミュケーとして、セイロン島がパライシンドゥとして、マレー半島がクリュセー島として、記載されている。
 そこへ、バスラ、ウブッラ、シーラーフ、スハールが加わって「海のイスラーム」が広がっていった。それらはつまりは「シンドバードの海」だったのである。イブン・アル・ファーキンが902年に著した『各国史』には、アブダラー・イブン・アミルの言葉として、次のようにある。
 「世界は鳥の頭、両翼、胸、尾っぽに準(なぞな)えられる。頭の部分が中国で、その背後にワクワク(倭国・日本?)があり、右翼はインドで大海に臨み、左翼はハザール、胸部はメッカ、シリア、イラク、エジプトで、尾っぽがマグリブ(北アフリカ)なのである」。
 この表現、たいへんおもしろい。イスラーム世界鳥がばかでかい。このなかでバスラやシーラーフが中国向けの航路の中心都市になっていったのである。こうしてアッバース・ネットワークはインド洋と広州を結んで、南アジアと東アジアにカウリと呼ばれた子安貝を、貨幣の代用品としてばらまいていったのだ。

 次に第11に、インド洋と広州が結ばれたということは、途中の「海のイスラーム」が「イスラームの多島海」となり、そこにセイロン島(セレンディップ王国)、モルジブ諸島、マラッカ海峡、カラ島、カリマンタン、ジャワ、スマトラなどがそれぞれ一大交易ターミナルとなって、世界中に香辛料のブームをもたらすことになっていったということだ。
 バグダード生まれの地理学者で大旅行家でもあったマスウーディー(896~956)の『黄金の牧場』は、そうしたことを得意げに、生き生きと描写する。イスラームにとっては海も牧場だったのである。
 かくて第12に、「海のイスラーム」は東南アジアと中国を港湾都市ネットワーク状に変容させていった。
 サンフー(ベトナム南部のチャンパ)、ルーキーン(現在のハノイ)、広州は、それぞれ海の浮橋のようにつながり、それがそのまま洪州(現在の南昌)や揚州に伸びていったのである。それは逆からいえば中国の賈人たちが東南アジアを媒介にイスラーム・ネットワークを果敢に活用していったということだった。
 さらに興味深いのは、このネットワークに新羅僧や日本僧までもが乗っかっていったということだ。本書は新羅の慧超の『往天竺国伝』や淡海三船の『唐大和上東征伝』や円仁の『入唐求法巡礼行記』を駆使して、そうした極東における「世界史の誕生」にまでふれている。

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アッバース朝期のイスラーム大商圏

 

  ざっとこんなぐあいに、宮崎はユーラシア全域をイスラーム・カーソルで縦横無尽に辿っていったのである。それを追っかけてみることは、ぼくにはけっこう痛快な読中感だった。そのころ湾岸戦争に腹をたてていたぼくは、このイスラーム・カーソルでユーラシアの時間をさかのぼれたことが溜飲を下げる効果をもっていたのでもあったろう。
 ことほどさように、宮崎の本は、読みようによってはいろいろ見のがせないものだったのだ。ということで、読者諸君にはできるだけ早くに宮崎本を読むことを勧めたいのだが、でも「イスラームではまだなじめない」というのなら、それでは以下に、ちょっとだけ“おまけ”をつけておく。

 実は宮崎正勝には、『早わかり世界史』『早わかり東洋史』『早わかり世界近現代史』(日本実業出版社)といった、一般向けの図解式歴史入門書が何冊かある。
 いずれもダブルページ(見開き)で歴史の大項目を手際よく解説して、そこに図式・模式のたぐいを添付するというものなので、作り方・書き方によってはかなり杜撰になるきらいがあるはずなのだが、宮崎のものはそうではない。この手のものではなかなか秀逸なのだ。
 たとえば『早わかり世界史』の構成は次のようになっている。これなら世界史の有効なスキームとなって、きっと諸君のアタマを刺戟してくれることだろう。

 序章‥‥世界の歴史の始まり

  (0)農業革命と都市革命(アフリカと人類、気温上昇と農業、治安・信仰・交易と都市の出現)

 第1章‥最初に生まれた四つの世界

  (1)西アジア世界の誕生(創世記の物語、古代バビロニアと古代エジプト、ユダヤ教、ペルシア帝国、パルティア)

  (2)地中海世界の誕生(アテネとスパルタ、ペルシア戦争、ヘレニズム、ローマ帝国、キリスト教の変遷)

  (3)インド世界と東南アジア(インダス文明、ヒンドゥ教、仏教成立、インド諸王朝、海の道と東南アジア)

  (4)東アジア世界の誕生(黄河文明、春秋戦国と諸子百家、秦帝国、漢帝国、シルクロード、朝鮮と日本、ユーラシアの民族)

 第2章‥一体化するユーラシア世界

  (5)変動する東アジア(三国志から五湖十六国へ、南北朝と隋、中国仏教と道教、唐帝国とネットワーク、宋と北方民族)

  (6)西ヨーロッパの誕生(ゲルマン民族の移動、ローマ分裂、フランク王国、ヴァイキング、ビザンツ帝国、十字軍、百年戦争)

  (7)遊牧民が活躍する時代(イスラムの成立、コーラン、アッバース朝、イスラム商業圏、トルコ人の台頭、モンゴル帝国の登場)

  (8)再編されるユーラシア世界(モンゴル・ネットワーク、明帝国、清帝国、東南アジアのイスラム化、ムガール、オスマン帝国)

 第3章‥大航海時代と膨張するヨーロッパ

  (9)変わっていくヨーロッパ(ルネサンス、大航海時代、アメリカ大陸の変容、宗教革命、オランダ商業、ピューリタン革命、イギリスの台頭、国家システムの変質、プロイセン・ロシア・ポーランド、西欧諸国の植民地活動)

 第4章‥ヨーロッパによる世界制覇の時代

  (10)国民国家の出現(産業革命、フランス革命、ナポレオン時代、ウィーン体制、七月革命・二月革命、チャーティスト運動と選挙法、ヴィクトリア時代、ロシアの南下、イタリアとドイツの統一)

  (11)アメリカの自立(植民地から独立へ、合衆国と西部開発、南北戦争、ラテンアルリカ諸国の独立)

  (12)広がっていくヨーロッパ(オスマン帝国と列強、インドを土台にするイギリス、アヘン戦争、太平天国とアロー戦争、尊王と攘夷、洋務運動と明治維新、日清戦争、帝国主義とアフリカ分割、アメリカの太平洋進出、日露戦争、清朝滅亡)

 第5章‥二つの世界大戦で没落する西欧

  (13)第一次世界大戦とヨーロッパ(第一次世界大戦、ロシア革命とソ連の成立、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制、トルコとインドの民族運動、中国とアジアの民族運動)

  (14)第二次世界大戦と世界の変貌(世界恐慌、ヴェルサイユ体制の崩壊、ナチス、日中戦争、第二次世界大戦、国際連合、IMF体制とドル、冷戦の展開、朝鮮戦争、中東戦争)

 第6章‥地球化革命の時代

  (15)急変する人類社会(アジア・アフリカと第三世界、中華人民共和国、南北問題と格差、石油危機とグローバル経済、冷戦の終結、エスニシティと国際紛争、地域統合と広域経済圏、環境危機)


 こんなぐあいだ。この構成でいえば、第2章の(7)(8)が「ネッワーク帝国≒世界史の誕生」にあたる。従来の西洋中心史観では第3章の(9)のところに今日にいたる資本主義世界の基盤があって、その視点ですべての世界史が説明されていたわけだった。
 なお本書では、以上の流れを思い切って集約をして、次のような7段階の世界史にする可能性も示唆していた。これまた、今後の何かの参考としてほしい。では、諸君、一人一人がマルコ・ポーロになりなさい。みんなで円仁になりなさい。

  1・農業革命(約1万年前)

  2・都市革命と河川文明の誕生(約5000年前)

  3・世界帝国の形成(2500年前から2000年前)

  4・ユーラシア規模の帝国の形成(8世紀から14世紀)

     第一次 アッバース帝国

     第二次 モンゴル帝国

  5・大航海時代(大西洋世界における資本主義の誕生)

  6・産業革命・交通革命(国民国家体制への移行)

  7・情報革命・ハイテク革命(グローバリゼーションの進行)

 

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遊牧民から見た世界史

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学衆 校長は1971年に「遊」という雑誌名を考えたとき、すでにノーマッドで遊牧的なことを考えていたんですか。

校長 まあ、そうだね。遊星・遊撃・遊牧民・遊園地・遊覧船・遊郭・遊女・遊民‥‥とか、いろいろ「遊」のつく文字を紙に書いてね、それを眺めていた。「遊」という文字がそもそも出遊的なので、遊のつく言葉はどれもどこかノーマッドなんだよね。のちに白川静(987夜)さんに教わるほどは詳しくなかったけれど。

学衆 遊牧的な文化や歴史に関心をもったのはいつごろですか。

校長 早稲田の「アジア学会」というサークルに入って、松田寿男さんの影響を受けたころかな。松田さんはすでに『中央アジア史』(弘文堂アテネ文庫)や『砂漠の文化』(中公新書)を書いておられて、それを読んでいろいろ私淑した。

学衆 私淑というのは?

校長 勝手に一人の先生や親方にテッテー的に薫陶を受けようとすることだね。ぼくは文学部の仏文で、松田さんの授業は受けられなかった。だから私淑することにした。白川さんが内藤湖南(1245夜)に私淑したようにね。ぼくのベンキョーはつねに読書と私淑によっているんです。

学衆 遊牧的な世界観もそうやって身につけていったんですか。

校長 身についたかどうかはわからないけれど、「遊」を一緒にやった高橋君が東洋史学に強かったのも大きいね。

学衆 バジラ高橋秀元さん?

校長 うん、高橋君は中国史とウィグルや突厥などの周辺民族の事情に詳しかったから、いつもそんな話をしてきた。

 

 

 ヨーロッパとアジアを併せてユーラシア、これにアフリカを加えてアフロユーラシア(アフロージア)、ついでに奈良を加えればNARASIAナレーシア(ナラジア)だ。中央は森と草原と砂漠と山地が横たわり、その両端にブリテン諸島の極西と日本列島の極東がある。
 西洋史観はユーラシアを西の世界(ヨーロッパ)と中東(ミドルイースト)と東方世界(オリエント)に分けたがるけれど、実際には南北ベルトで切れば、北から南へ向かって森林・森林草原・草原・半砂漠・砂漠の気候が連なっていて、その中心地帯の大きな部分を「乾燥」が占めて、そのところどころをオアンス都市がつないできた。
 ユーラシアは西洋・中洋・東洋などには決して分けられない。たとえそのうちの「陸のアジア」といっても、北アジア・中央アジア・南アジア・西アジアがあって、それとはべつに乾燥アジアとか内陸アジアとか高原アジアとか草原アジアといった呼び方があり、そこをさまざまな部族や種族が遊牧的に交差し、入り乱れてきたわけだ。
 そもそもユーラシアの大きな地域には、古代より狩猟と農耕と牧畜が組み合わさり、そこを「草原の民」と「オアシスの民」が動きまわって、総じて「面」としての遊牧世界と「点」としての都市社会を構成するようになっている。その主たる活動者はパストラル・ノマドたちである。牧畜農耕的的移動民、すなわち遊牧民たちだ。
 パストラル・ノマドはたえず動きながらサマー・クォータース(夏営地)とウィンター・クォータース(冬営地)を切り替えつつ、東西南北に自在に移動して、それぞれの地に群居性や集団居住地や、また都市や王国や帝国をつくってきた。そのルーツのひとつにスキタイがいた。

 紀元前18世紀から1000年ほどにわたり、中央アジアの草原地帯にはアンドロノヴォ文化という青銅器文化が続いていた。アンドロノヴォ文化はふつう4期に区分されるのだが、その第3期に羊の飼育と乗用の馬をもつ遊牧民の活動がおこり、つづく第4期の紀元前9世紀くらいからいくつかの遊牧社会が成立した。
 この中央アジアの遊牧民は、やがて西にも動いて古代オリエントから青銅器文化や鉄器文化を吸収し、黒海北岸に強力な遊牧国家を形成した。これがスキタイ(スキュタイ)だ。スキト・シベリア文化とも言われる。
 スキタイについて最初に記録をのこしたのは、古代ギリシアのヘロドトスの『歴史』である。まだ千夜千冊していないけれど、ヘロドトスはペルシア戦争を“現在史”として綴ろうと決意して、それをやってのけた。その視点と視野はギリシアとペルシアの背景史にも及び、各地の伝説時代にまでさかのぼる著述をするほどの熱の入りようだった。驚くべき才能だ。キケロが「歴史の父」と賛嘆したのも当然のこと、実に浩瀚な歴史記述になっている。松平千秋の名訳によって読める。
 そのヘロドトスが、「アケネメス朝ペルシアの大王ダレイオスが紀元前514年に大がかりな北進を敢行して、スキタイなる者たちを討った」と書いた。
 そのころのギリシア人の地理観念では、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の北側に広がる土地が「世界」(ヨーロッパ)というもので、その南側の東方が「アシア」(アジア)、西方が「リュビア」になっていて、スキタイは「世界」の北側に攻めこんでいたのだ。そこでダレイオスは70万の軍勢をもって、その子のクセルクセスは100万の軍勢をもって黒海沿岸を北上し、ドナウ川も渡ってスキタイに進攻していった。
 しかし、遠征は失敗した。スキタイの軍勢が嵐の中の蜂のように襲ってきて、ペルシア帝国はユーラシアの北にも東にも帝国を広げるチャンスを逃した。もし成功していたら、とてつもない古代ペルシア帝国がユーラシアに広がっていただろう。けれどそうはならなかった。ペルシアはおまけにギリシアにも負けた。
 かくてアケメネス朝は次のササン朝ペルシアに移っていくのだが、このスキタイこそはその後の中央アジアを席巻する遊牧国家群の母型のひとつだったのである。アンドロノヴォ文化とスキト・シベリア文化の再来とでも言ったらいいだろうか。

 

 

学衆 今夜の『遊牧民から見た世界史』は、そのスキタイに始まるユーラシアの歴史ですか。

校長 うん、この本は今日のモンゴル研究や大元ウルス(=モンゴル元朝)研究のトップを走る杉山正明さんが、『大モンゴルの世界』(角川選書)や『モンゴル帝国の興亡』2冊組(講談社現代新書)を書いたあとに発表したもので、発売当初からたいへん話題になった本だよね。

学衆 いまネットで引いたら、日経ビジネス人文庫になったそうです。

校長 ああ、そうなんだ。じゃ、みんなが読みやすくなったね。

学衆 いい本なんですか。

校長 そりゃ愚問だ。ぼくが千夜千冊をして、いい本ではないというのはないよ(笑)。いろいろ読みなさい。

学衆 はあ、そうですね。

校長 この本は「あとがき」によると、遊牧民のユーラシア史を構想して3年ほどかけて書いたらしい。で、ぼくがそのころ一読してたちまち伝わってきたことはね、遊牧的ユーラシアの世界を語るには、既存の国や王朝や民族の枠組みにとらわれない見方によって、かれらの結束や連合の要諦が強くなったり弱くなったりするその“具合”を観察することが、きわめて重要になるということだった。その“具合”のルーツがスキタイにあったんだんね。

学衆 具合というのは何ですか。

校長 “しくみ”だね。

学衆 スキタイって騎馬民族ですよね。

校長 遊牧民はみんな馬かラクダに乗って移動するからね。ただ騎馬民族というふうに言うのはどうかな。なんだか攻めてばっかりのイメージだよね。そうではなくて、杉山さんはスキタイについて考えるべきことは、今日の国家や民族でしか歴史を見ない現代人に対して、きわめて重要な反証になっているということじゃないかと書いている。つまり、スキタイは国家にも民族にも融通無碍で(むろん国境にも)、たとえばギリシア系スキタイにもペルシア系スキタイにもなりうるのであって、それでいて国家や民族をこえた大型で広域の政治連合体のようなものを形成しえたわけですよ。そこを杉山さんは「かぎりなくコンフェデレーションでありうること」というふうに言っている。

学衆 連結的で、連合的なんですね。

校長 古代ペルシア帝国だってそうした遊牧性をもっていただろうね。

 

 

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黒海周辺のスキタイ遺跡分布図

 

 

 スキタイは紀元前8世紀ころに、サルマタイ(サルマート)とよばれる遊牧民と争って黒海北岸のほうに移動してきたと見られる。
 サルマタイもスキタイものちのイラン語を話す遊牧民として知られるのだが、その場合はまとめてイラン系遊牧民と呼ばれる。ペルシア人たちはこれを「サカ」と汎称した。サカは中国文献では「塞」になる。
 こうして紀元前4世紀くらいまで、ユーラシアの西半では「北のスキタイ」と「南のペルシア」がカフカス・黒海・カスピ海をへだてて南北に並び立っていたというふうになる。古代ギリシアはその付け根にくっついていた小屋のようなものだった。しかしスキタイの正体はまだよくわかっていない。
 スキタイは民族名とも人種名とも王国名とも語族名ともいえない。広くいえば種族名だろうけれど、そこには西から順にいえば、農耕スキタイ(穀物を転売して通商する)、農民スキタイ(土地を決めて生産に従事する)、遊牧スキタイ(草原を遊牧する)、王領スキタイ(スキタイたちのリーダーをとる)などがいて、おそらくは地域・生業・居住の区別をこえた“かたまりとしてのスキタイ”や“しくみとしてのスキタイ”が多様にいたのだと思われる。
 そうしたスキタイに代わって勢力をのばしたのがサルマタイだった。黒海北岸から南ロシア平原をしばらく制圧したようだ。ときにはローマ帝国領内にも姿をあらわした。サルマタイもまたスキタイ型の遊牧国家のようなものだったのである。
 そのサルマタイもやがて瓦解した。なぜそうなったのか。紀元前3世紀末ごろに、中央アジアの草原の東に突如としてあらわれた「匈奴」が勢力を増して、これがどこかで「フン」となって、サルマタイの緩やかな組織的な要諦を吸収してしまったからだった。

 匈奴とフンとの関係はよくわかっていない。フンが南ロシアからヴォルガとドン川を渡り、ドニエプル川を越えてドナウ川を沿うようにヨーロッパに侵入していったこと、それに玉突き的に巻き込まれるかのごとくスラブ諸族やバルト諸族が南下して、いわゆるゲルマン系諸族の大移動になっていったことなどは、わかっている。
 そのリーダーとなった大王アッティラのこともよく知られている。けれどもそれらは4世紀から5世紀にかけてのことで、匈奴がユーラシアを東から西へ動き出したのはもっとずっとずっと前の、数百年前の、紀元前3世紀前後のことなのだ。
 だから、この時期のことは西から見ていたのでは何も見えてはこない。匈奴の動向が記録にのこるのは、中国でいえば春秋戦国期であって、その匈奴を迎撃あるいは追撃しようとしたのは秦や漢なのである。

 よく知られるように、古代中国では周辺の東西南北に屯するノンチャイニーズたちのことを「夷」「蛮」「戎」「狄」と言っていた。「東夷・南蛮・西戎・北狄」だ。
 岡田英弘の説によると、東夷は黄河・淮河下流域の大デルタ地帯の連中、南蛮は河南省西部・陝西省南部・四川省東部・湖北省西部・湖南省西部の山地の焼畑農耕民の連中、西戎は陝西省や甘粛省南部の草原遊牧民の連中を、そして北狄は山西高原・南モンゴル平原・大興安嶺あたりの遊牧狩猟民の連中をさしていただろうという。
 のみならず岡田は、「夷」とは尭・鯀・禹の三帝を輩出した「夏」王朝であり、これを「狄」の出身の湯王らの「殷」が襲い、そこへ「犬戎」に押された者たちの一群が陝西省西部の渭河の上流の岐山あたりに「周」を立て、その中から「秦」が勢いを増してきたのではないか。また、そのほかの戦国七雄(燕・趙・斉・魏・秦・韓・楚)のうちの「楚」は「南蛮」の蛮族にあたるのだろうなどとみなした。ぼくはこれが当たっているのかどうかはわからない。
 しかしたしかに、たとえば春秋時代の覇者となった重耳は、43歳のときに刺客の手を逃れて「狄」に出奔していたのである。狄は重耳の母親が出身していたところで、重耳はそこに12年を過ごし、そこから斉、楚をへて秦に赴き、そこで帰国をはたしたわけである。

 東夷・南蛮・西戎・北狄のすべてを遊牧民と言えるわけではない。そこにはたとえば羌(きょう)族のように、谷ごとに分散して小集団をいとなむ種族たちもまじっていた。
 けれどもそうした差異はともかくとして(差異があるのはあたりまえだ)、こうして春秋戦国の周辺を押さえたはずの秦にとって、それでもなお外辺の脅威となっていったのが匈奴だったのである。匈奴は東夷・南蛮・西戎・北狄を超える動きを見せたのだ。
 そこで紀元前221年、秦の始皇帝は蒙恬に大軍をまかせてオルドス地方の匈奴集団を討ちに行かせた。これで匈奴はゴビの北のほうへ動いた。ユーラシア・ノマドが東からゆっくり動きだしたのである。

 匈奴についての詳しい記事を書いたのは、ほかならぬ司馬遷の『史記』匈奴伝だった。ヘロドトスに匹敵するとも、それを上回る瞠目すべきアジア的歴史記述ともいえるが、その司馬遷によると、当時、匈奴のリーダーを單干(ぜんう)と言った。匈奴王のことだ。
 その匈奴王が頭曼のとき、その子に冒頓(ぼくとつ)がいた。ところが後添いが末の子を生んだので、頭曼は冒頓を廃嫡してこの末子を後釜にしようとして、冒頓を月氏のもとに行かせたのだが、冒頓は月氏の善馬を奪って逃げ帰り、万騎を率いて鳴鏑(めいてき=音を発して飛ぶ鏑矢)を用いて父の頭曼とその即金を誅戮した。
 有名な「鳴鏑」の話だ。かくて冒頓が匈奴王單干の地位についたのが紀元前209年のこと、始皇帝が没した前後のことになる。
 時あたかも漢の劉邦が楚の項羽と互いに鎬を削りあっていたときで、その後は劉邦が高祖となって漢帝国(前漢)をつくるのだが(202)、これを東方ユーラシアの構図で見ると、項羽と劉邦と冒頓が草原と中華をまたいで互いに相い並んでいたことになる。
 それというのも冒頓が匈奴王となったとき、周辺では東湖が勢いをつけていた。冒頓はこれを平定し、さらに月氏を討った。秦の蒙恬が奪取した匈奴の地はことごとく回復され、漢帝国としては匈奴との和平をはからずには帝国を安定させることができないところにきていたからだった。
 その和平を余儀なくされたのが「白登山の戦い」で、杉山さんはこの白登山での一件を「なによりも統一遊牧国家と統一農耕国家との、創業者どうしによる世界史上まれにみる戦い」と説明した。秦漢中華帝国の誕生は、ヒットエンドランをくりかえす匈奴の遊牧国家の誕生によって引き金を引かれていたいたのである。

 

 

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匈奴国家のモンゴル高原を中央部として扇状に展開する壮大なかまえは印象ぶかい

 

 

学衆 ふーん、匈奴ってそんなにすごいんですか。

校長 うん、このあと陸続と出現してくる東方ユーラシアの遊牧国家群の実践的なプロトタイプをつくったね。まず組織のすべてが左右対称的で、左右に賢王、大将、大都尉、大当戸なんてのがおかれるんだけれど、それぞれが分地をもって、千長・百長・什長・当戸というふうに十進法で軍備システムをつくっている。それがところが南面して進攻するときは、きれいに左・中・右という三大分割体勢になる。まるでサッカーやラグビーの動的フォーメーションだよね。

学衆 コンフェデレーション!

校長 そう、そう。

学衆 匈奴の動的なしくみがプロトタイプになったというのは、その後の遊牧国家や遊牧帝国もそのシステムを踏襲したということですか。

校長 匈奴の勢力は2世紀の後半に衰えていくんだけれど、そのシステムを継いだのは鮮卑です。それが鮮卑の拓跋部に移行し、やがてはモンゴル帝国に受け継がれていく。

学衆 漢はそうした匈奴のシステムの前に敗退するんですか。

校長 反撃に出たのは、やっと第7代の武帝のときだよね(武帝は紀元前141年即位)。それが北東アジア史上屈指の50年におよんだ「匈奴・漢戦争」というものです。

学衆 へえーっ、漢と匈奴の闘いは史上屈指の戦争ですか。

校長 匈奴は冒頓のあと天山の南のタリム盆地のほうへ勢力をのばすんだけれど、ここは小規模のオアシス都市があったところで、漢からするとここを抑えられるとシルクロード交易ができなくなる。漢からすれば「西域経営」ができなくなるわけです。だったらこれはまさしく天下分け目だよね。そこで武帝は張騫(ちょうけん)を大月氏に派遣して西域情勢を調査させ、それから衛青と霍去病(かっきょへい)に匈奴を討たせることにした。こうして約半世紀におよぶ戦いが継続されたんですが、結局は痛み分けでおわった。そのうち前漢が滅んで王奔の新がおこるんだけれど、この王奔が20万の大軍で匈奴と戦争をして、これまた失敗します。

学衆 かなか中華帝国が遊牧民を牛耳れない。

校長 そうとも言えるし、匈奴のほうが一枚も二枚も上で、漢と同盟関係を保とうという連中と、中国なんてほっといてさらに西のほうへ進もうという連中とに軍団を分けてしまうんです。これを杓子定規でいえばいわゆる「匈奴の東西分裂」というふうになる。

学衆 日本も北方領土や竹島や尖閣諸島の問題に対して、匈奴システムでいけばいいんじゃないですか(笑)。

校長 自民党と民主党が前後して? そりゃまあ、ムリだな(笑)。

 

 

 匈奴が東西に分裂したというのはあくまで漢の歴史観によるものだが、ともかく匈奴はまずは東西に分かれ、ついで東匈奴のほうが南北に分かれた。南匈奴と北匈奴だった。
 これを機会に、後漢はやっと「西域経営」をコントロールできた。班超によるパミール以東のオアシス地域を掌握できたのである。南匈奴もいったんは後漢に臣属することにした。一方の北匈奴のほうはのこってモンゴル平原から西へ移動した。2世紀にはシル河を渡り、カザフの草原を動いているうちに、歴史文献からその姿を消している。
 しかし、そこにあらわれたのがフン族だったのである。フンがこのあと南ロシアからヴォルガ・ドン・ドニエプル川を渡っていったことは、さっきも書いた。5世紀になるとフーナと呼ばれる軍事集団が北インドのほうにもあらわれた。これはその後にエフタルと呼ばれた。
 はたして北匈奴とフンとフーナとエフタルが同一系の種族たちなのかどうかは、いまのところはわかっていない。そこはわからないのだが、すべてがユーラシア・サイズでおこっていることははっきりしていた。それだけでなく、後漢のあとの中国はその後に魏・蜀・呉のいわゆる「三国志の時代」をへて「八王の乱」(290~306)に突入するのだが、ここに浮上したのがかつての南匈奴の後裔の劉淵だったのである。
 劉淵はくだんの冒頓の末裔で、單干王家の流れの者、その劉淵こそが晋の司馬炎や司馬哀を山西匈奴集団を操って助けていたのだった。このあたりのこと、古くは『晋書』劉淵伝に、新しくは福原啓郎の『西晋の武帝』(白帝社)に詳しい。
 さらに4世紀には「五胡十六国」が乱れあうのだけれど、ここに登場する羯(けつ)や羌(きょう)や鮮卑たちもいずれも遊牧種族たちで、どこかに匈奴の名残りを感じさせていていた。
 こうしてこの混乱期に、するすると力強く頭角をあらわしてきたのが鮮卑の拓跋部だったのである。このあと東ユーラシアの主権を握るのは、この鮮卑拓跋であり、その連合体だった。

 スキタイやサルマタイやサカ(塞)は、イラン系の言語を話す遊牧民の一群である。古代ペルシア語に発する言葉を話した。おそらく月氏もこの遊牧言語系に近い。
 これに対して匈奴はアルタイ系の言語で、のちのモンゴル語やトルコ語を形成した。まとめて「テュルク・モンゴル系」という。テュルクとはトルコ系である。鮮卑はこのテュルク・モンゴル系だった。五胡の多くがここに属し(「胡」はノーマッド・クラスターのこと)、その鮮卑拓跋の連合体の一部が北中国に入って北魏を建国した。
 北魏はそのあと東魏・西魏になり、さらに北斉・北周と名前をかえて魏晋南北朝時代をつくり、ついではその一部が隋と唐というふうにすりかわっていった。これらは言ってみれば、いずれも鮮卑拓跋連合体の“替り身”なのである。
 このテュルク・モンゴル系の鮮卑拓跋連合体こそが隋唐帝国の本来の特質であって、唐朝がそのことを薄め、また半ば隠して『晋書』などの正史を巧みに粉飾したというあたりは、本書の最もドラスティックな指摘になっている。

 さて、鮮卑諸族が南下して北魏などをつくったことでガラ空きになったのがモンゴル高原だった。ここにテュルク・モンゴル系の柔然(蠕蠕)という遊牧集団が登場し、5世紀の初頭にそのリーダーの一人の社崙(しゃろん)という族長がゴビを北へ渡って外モンゴリアに進出して、そこの高車の一族を侵して草原統一をはたした。
 社崙は匈奴以来の十進法の組織システムを踏襲し、自身で中国読みで「丘豆伐可汗」を名のった。現地語読みではキュテレブリ・カガンという。これがカンあるいはカーンあるいはハーンの初出だった。
 柔然が草原を統一したころの5世紀から6世紀半ばに、アフガン・トルキスタンを本拠とするエフタルが中央アジアでも勢力を強め、ヒンドゥークシュの南側のほうにも進出した。これはイラン系の言葉を話した。エフタルはパンジャーブ地方のインド領まで統括して、このときガンダーラの諸仏が壊された。いわゆる「エフタルの破仏」だ。

 

 

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東西民族移動の図『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍
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北アジア諸民族の勃興地『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍

 

 
 これらの複合的な動向のスケッチでわかるように、「隋唐と東西ローマの時代」とはいえ、ユーラシアの中央部には東からテュルク・モンゴル系の柔然、高車、イラン系のエフタルが並び立っていたのだった。なんとしてでも、そう見るべきなのである。
 もっともここまで広域になった三者鼎立となると、その外周勢力との綱引きが頻繁になる。ちょっとしたことで均衡も連結も変化する。案の定、東では拓跋連合体系の北魏が、西ではイラン高原のササン朝ペルシアが、この三者をゆさぶった。
 この不安定に乗じて新たに出現したのが突厥(とっけつ)だった。突厥とはテュルク(トルコ)の漢字読みである。突厥は柔然や高車を治め、西に進んでササン朝と結んでウフタルを撃退すると、たちまちシル河とアム河の大オアシス地帯とヒンドゥークシュにおよぶ領域を影響下におき、さらに西北ユーラシアに入ってカスピ海の北側からかつてのスキタイの領域にいたアヴァールを駆逐した。
 ちなみに、このアヴァールが押されて東欧に入ったのが、ハンガリー草原に本拠をとったマジャールである。

 突厥はわずか20年あまりで、東は満州地方から西はビザンツ帝国の北側まで、南はヒンドゥークシュにいたる大版図を形成し、世界史上初めてユーラシアの東西と南北をまたいだ。
 これに北魏・北斉・北周などの拓跋連合体を加えれば、ここにテュルク・モンゴル系の「拓跋世界帝国」が萌芽したということになる。
 が、その突厥も6世紀末には東西に分裂し(583)、東突厥はモンゴル高原を本拠として最初は唐と緊張関係を保つのだが、やがて唐の北アジア製作の中にまみれていった。西突厥は天山山地を根拠地にして中央アジアと西北ユーラシアをおさえたが、7世紀半をすぎると折からのイスラーム・ネットワークの中にとりこまれていった。

 

 

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アラブ帝国の東西への拡大『ビジュアルワイド図説世界史』東京書籍
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 この両突厥の消長に代わったのは、744年に東突厥の所領に侵入したウイグルである。そのもとは鉄勒(てつろく)と言われた部族たちの連合だったようで、この勢力はトクズ・オグズ(九姓鉄勒)とも呼ばれた。突厥もテュルクの漢字読みだったが、鉄勒もテュルクの漢字読みである。
 ウイグル連合国家群にはひょっとするとユーラシアを統一する可能性があった。唐朝とも「絹馬交易」(馬を運んで絹を持ち帰る)などを通してうまい関係を保っていたのだが、いかにも時期が悪かった。前夜にのべたアッバース朝のイスラーム・ネットワークがしだいに中央アジアに及びはじめていたし、ウイグルには強力なリーダーがいなかった。西北モンゴリアのキルギス連合が動いてくると、もろくも瓦解していったのである。

 

 

学衆 うーん、ずいぶんめまぐるしいですね。

校長 そう見えるかもしれないけれど、これはユーラシア一帯にテュルク・モンゴル系の大きなうねりが、さっきの拓跋連合体を含めて、次々に続いているとも言えるんだね。それが隋唐帝国との力関係でフラクチュエートしているだけなんです。

学衆 中国史は遊牧帝国群によって動かされてきたということですか。

校長 あえて言うと、そうなるね。

学衆 でも突厥もウイグルも大きなコンフェデレーションのエンジンをもっていたようですが、中央アジアの統一はムリだったんですね。

校長 それはモンゴル帝国の登場までおあずけだね。それでも突厥とウイグルは突厥文字とウイグル文字をつくって、けっこう新しい時代を告げていたと思うけどね。だからこのあとは、ウイグル瓦解をきっかけに、ユーラシア中央は次の大変化に備えての新たな胎動期に入ります。

学衆 新たな胎動というと?

校長 一言でいえば「テュルク・イスラーム時代の開幕」と「大モンゴル帝国時代の準備」ということでしょう。

 

 

 9世紀にアム川の南北に、ブハラを首都としたサーマーン朝ができる。アッバース朝の承認を得たイスラーム王朝である。続いてその隣りにカラ・ハン朝ができてイスラームに改宗し、サーマーン朝を呑みこんだ。
 サマーンとカラ・ハンはイスラーム化したテュルク族(トルコ系)の動向として、しだいに広まっていく。ヒンドゥークシュ南方の司令官となったセブュク・テギンが立ち上げたガズナ朝も、アフガニスタン・北西インド・西インドにその支配権を広げていった。テュルク・イスラーム時代が始まっていったのである。
 こうしてシル河の東におこったテュルク系のセルジューク朝がこれらを傘下におさめるように南下し、1055年にアッバース朝のバクダードに入って西アジアを支配すると、ここに匈奴以来の組織体制がついに中東イスラーム社会と交じり合うに至ったのだった。このあたり、前夜の『世界史の誕生とイスラーム』(1403夜)と併せ鏡にしながら理解するといい。
 似たようなことは北東アジアのほうにもおこっていた。モンゴル系のキタイ族とテュルク系の沙陀(サダ)族が二つの勢力となって、黄巣の乱で不安定になっていた唐をゆるがし、後梁・後唐・後晋・後漢といったトルコ系の王朝を華北につくってしまったのだ。これが五代十国である。
 キタイ族には強力なリーダーがいた。907年に契丹国を建てた耶律阿保機である。耶律阿保機についてはいろいろ興味深いことが多いのだが、ここではキタイが契丹国となり、その契丹が遼や西遼になっていったということ、そのうちの一部がツングース系の女真族と組み合わさって、結局は金から宋への中国史の舵を切ったということ、これらのことに注目しておきたい。
 女真の完顔部族の族長だった阿骨打(アグダ)が1114年に契丹と戦って金の太祖となり、契丹の皇族の耶律大石が北モンゴルに入ってモンゴル高原の7州の契丹人と18部族の遊牧民を代表して王となり、つづく1124年にサマルカンドにを占領して西遼の徳宗となったのである。いよいよ複数のリーダーたちが並び立つ。
 かくて12世紀、東には女真の金帝国、中央アジアにキタイの西遼国、その中間に西夏、江南に南宋、西アジアにはセルジューク朝の諸国家が並ぶということになったのだが、それはそれで「統一を欠いたユーラシア複合体」でもあったのである。
 これをまとめていえば、9世紀を境いとして、ユーラシア中央にトルコ化とイスラーム化がおこっていったということだ。その端緒はウイグル人のタリム盆地オアシス帯への移住にあったのだが、その完成は、次の13世紀のチンギス・ハーンの登場を待つことになる。
 すべてはチンギス・ハーンとその4人の息子たちによる大モンゴル・ネットワークに委ねられていく……。

 

 

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大元ウルスを中心に東西が呼応する「ユーラシア大交易圏」

 

 

校長 ということで、はい、今夜はここまでです。

学衆 あれっ、モンゴルの登場は話してくれないんですか。

校長 杉山さんの本書にはもちろんそのことが続けて書いてあるんだけど、これは次夜以降にまわそうよ。別の本をとりあげてね。なにしろチンギス・ハーンの登場は13世紀ユーラシア世界システムの最大の大事件だから、できればじっくり話したい。

学衆 それにしてもぼくたちは、フン族とゲルマン民族の大移動からローマ帝国が東西に分裂して、そのあとフランク王国の分割から「国王と教会のヨーロッパ史」がおこっていったというふうに習ってしまったので、フンの前のスキタイとか東の匈奴軍団のことなんて、まったく視野に入ってこなかったですよね。これって、高校歴史の大犯罪なんじゃないですか。

校長 日本の歴史もヨーロッパ中心史観に埋没しきっているということだろうね。東洋史なんてほとんど教えないからね。でもその西洋史だって、ギリシアとアケメネス朝ペルシアのペルシア戦争の背後にスキタイがいたことが抜けているよね。

学衆 ダレイオス大王とかのことも習ったんですが、その背景の広大なユーラシアのことは誰も教えてくれなかった。

校長 背景じゃなくて、そっちが主要な舞台です。

学衆 あっ、そうか。ま、ともかく世界史はやりなおし。

校長 イスラーム・ネットワークの歴史もね。ほんとうはイスラームと十字軍の関係の歴史をやらないと、ヨーロッパ史も見えてこないんだけれどね。とくにイスラームとヨーロッパの両方から見たアンダルス(イベリア半島)の歴史がわからないと、そのあとのコロンブスたちによる大航海時代の問題がわからないよね。なにしろ西洋中心史観というのは大航海時代で世界をヨーロッパが握ったということばかりを根拠にしているんだから、そこを崩さないとダメなんですよ。

 

学衆 それから、匈奴や鮮卑拓跋や突厥の連結型の連合体が中国史の大半のシナリオを握っていたというのは、ショックですね。どっちが主人公かわからないですよね。

校長 中国史で純粋なチャイニーズの王朝なんて、漢と宋と明くらいだよ。あとはみんな異民族とのフュージョン。それもたいてい遊牧帝国の一群のどこかが噛んでいます。

学衆 これまで、どうして遊牧民から見た世界史がなかったんですか。

校長 それはね、中国がそういう書き方を許容してこなかったからだよ。西洋中心史観があるように、中国は中国で、華夷秩序による中華中心史観で歴史をつくってきたからね。それが中国の正史なんですね。これも壊さないと、何も見えてこないでしょう。

学衆 なるほど、そういうことですか。そこに加えてイスラーム史とモンゴル史ですか。

校長 近現代の世界を見るには、そこにさらにオスマントルコ史が必要だよね。そのへんは、いつ千夜千冊できるかなあ。

 

 

 

【参考情報】

 

(1)杉山正明さんは静岡生まれで、京都大学文学部出身。現在は京都大学大学院文学研究科の教授。主な著書には『大モンゴルの世界』(角川書店)、『クビライの挑戦』(朝日新聞社・講談社学術文庫)、『モンゴル帝国の興亡』上下(講談社現代新書)、興亡の世界史09『モンゴル帝国と長いその後』(講談社)、中国の歴史09『疾駆する草原の征服者』(講談社)、『耶律楚材とその時代』(白帝社)などがある。

 

(2)遊牧民についての議論を素材にした本はけっこうあるのだが、その3分の2以上はそれこそゲルマン民族の大移動型のもので、残りもジプシーやオスマントルコものが多い。しかし、最近になってモンゴル時代を取り扱うものがふえてきた。日本では岡田英弘や杉山正明の影響も大きいのだと思われる。

 ぼくがユーラシア遊牧帝国の歴史に最初に入っていったのは、山川出版社の各国史や松田寿男『中央アジア史』(弘文堂)・『砂漠の文化』(中公新書)、護雅夫『古代遊牧帝国』(中公新書)などの初期遊覧期をべつにすると、1970年の『東西文明の交流』(平凡社)のシリーズに出会ったのが大きく、ついで1970年代後半の全11冊の「新書東洋史」シリーズ(講談社現代新書)で、間野英二『中央アジアの歴史』や小玉新次郎『西アジアの歴史』にわくわくしたのが忘れられないものとなった。

 

(3)匈奴やフン族のことについては、まだ読みこめていないけれど、昔のものではルイ・アンビスの『アッチラとフン族』(文庫クセジュ)や、最近のものでは沢田勲の『匈奴:古代遊牧国家の興亡』(東方書店)などがヒントになろう。

  なお、ユーラシア全域の遊牧民族群の入れ替り立ち替りする変転は、かなり複雑でわかりにくいだろうから、たいへんよくできた歴史地図を『ビジュアルワイド 図説世界史』(東京書籍)から借りて入れておくことにした。参考に供されたい。

 

 

新版 活動期に入った地震列島

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 3月11日の午後2時半すぎ、青山表参道裏のギャラリーで薈田純一さんが松丸本舗の本棚を全面写真にした「BOOK SHELF」展を、和泉佳奈子ともども見終わって、さてそろそろ事務所に戻ろうと青山通りに向かう途中の和物屋に立ち寄っていたとき、東京の地面がぐらりと大きく揺れ始めた。すぐに店の外に出たが、揺れはそのまま止まらない。
 その不気味な揺動に、「ああ、東京はこういうふうに直下の宿命を迎えるのか」と一瞬のうちに感じた。強烈なファースト・ストライクは「とても長い数分」で収まったものの、その後も何度かの余震が追い打ちをかけてきた。体が芯のほうでぐらぐらしたままだ。なぜか、空を見た。気のせいか鳥たちが乱れ飛んでいる。
 青山界隈はあっというまの混乱である。通行客、店の客、従業員がほとんど外に出てきて、たちまち道路に溢れた。ほぼ全員がケータイで連絡をとりあっているが、誰もどこにもつながらない。地下鉄は止まり、タクシーはなく、誰彼なく歩き始め、誰彼なく立ち止まって呆然としている。東京で初めて見る昼下がりの異様な光景だ。
 情報はない。全員が頼りにしていたはずのケータイが機能しないのだ。何が起きたのか、どこが震源地なのか、これから何が進行するのか、すべてわからない。途絶された情報都市の腋の下が露呈した。その場のほぼ全員が「無知な当事者」としてひたすらその場に突き放されているばかりなのである。
 やむなく渋谷に向かう人波とは逆に赤坂の事務所まで歩いて戻ったが、ぼくの部屋ではだいぶん本が飛び出していたようで、それをスタッフが早くも元の状態に戻してくれていた。編集工学研究所のスタッフというのは、こういうときに強い。なぜか本棚たちは倒れなかった。

 

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津波に襲われる宮城県名取市
(ロイター)

 

 あらためてテレビ・ニュースを見て愕然とした。震源は宮城県沖。マグニチュード8・8(その後9・0に訂正)のとんでもない巨大地震の規模だ。しかしそれだけではなかった。津波が宮城沖・福島沖から宮城・福島・茨城の海岸線を容赦なく襲っていた。海が狂ったのである。
 こんな大変異は見たことがない。スマトラ沖の津波とも違う。和泉は仙台生まれなので、実家や親戚がいるあたりの町がほとんど撃破されているかもしれない。「ダメかもしれません」と言った。おばあちゃんが南三陸町に住んでいるらしい。けれども、連絡はまったく途絶されたまま、地元との交信はすべて不能なのである。
 その後にテレビに次々に映し出された惨状は、さらに息を呑む凄まじさだった。これはポセイドンや竜神が暴れたなんてものじゃない。「ソリトンの悪魔」はいったい何を企んだのか。事態の全容はいくらニュース画面を見ていてもさっぱりわからない。政府の発表も曖昧である。多くの者たちが、何かの決断を突然に迫られているのだということだけが、ひしひし伝わってくるだけだ。
 とりあえず栃尾瞳のラパンで西麻布の家に戻って混乱を収拾し、必要な用品をわずかに整え、また赤坂の仕事場にトンボ返りして、13日の「感門之盟」のための自分の分担ぶんの仕事を了えた。さて、今夜をどうするか。
 太田香保の実家は潮来の田園地帯にあるのだが、ライフラインが停止したようだ。停電にもなっているという(のちに液状化がおこっていることが判明した)。東京も交通機関がそうとう麻痺しているらしい。結局、このところ徹夜続きの櫛田や中澤や塩川たちは泊まり込み、小森は映像制作をしつづけ(家ではタンスが3棹倒れていた)、帰れる者は駅に向かい、木村や大武は1時間半をかけて三宿のほうへ歩いて帰っていった。

 

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東京新聞(2011.3.15)

 

 ほとんどニュースを見っぱなしだった夜が明けての翌日は、土曜日。
 空は妙に明るく晴れていた。道路は拍子抜けのようにガラガラで、タクシーにも乗れた。ぼくは赤坂の明治薬科大学の剛堂会館に出掛けた。この日はイシス編集学校24破の「伝習座」なのである。
 きっと欠席が多かろうと思っていたが、1人を除いて全員が駆け付けてくれていた。関西からも師範の福嶋君や大原さんが新幹線などを乗り継いで、時間通りにやってきた。みんな、顔を合わすとなんともいえない笑みが零れる。佐々木学林局長、田中花伝所長も嬉しそうだ。けれども佐々木の娘さんの詩歩ちゃんは、「私もお母さんと一緒にいたい」と言って、伝習座までついてくることを希ったそうだ。それをなだめて佐々木は一人で局長として剛堂会館にやってきた。ぼくはぼくで、こういうときに諸君と出会えたことをかけがえなく思うと冒頭で話した。
 実はこの翌日の日曜日には恵比寿の会場を借りて「感門之盟」を予定していた。スタッフたちはすでに数週間前から着々と準備をしてくれていて、土曜日は搬入と仕込みとリハーサルをする日になっていた。
 「伝習座」の途中、大村厳と太田剛が剛堂会館に駆けつけてきた。ケータイはあいかわらずつながらないからだ。ロビーで話を聞くと、恵比寿の会場の壁に断裂が走ったという。きのうの激震のせいらしい。だからこのまま「感門之盟」を決行するのは危ないというのである。黙って事情を聞いたぼくは、中止と延期を決定せざるをえなかった。まだぼくは知らなかったのだが、大村君の話では福島原発1号機の矩体が爆発したらしい。放射能が漏れたという噂もとびかっているのだという。
 10年間27回に及んできた「感門之盟」を中止したり延期するのは初めてだ。まことに残念至極だが、これは出直しを図るしかなかった。
 ぼくはふたたび木村が学匠として進行する伝習座のプログラムに戻って、いろんなことをアタマをめぐるままにしていた。最後の90分では「負の日本史」について触れた。終わって全員が赤坂の編集工学研究所に来て、弁当を食べ、なんともいえない懇談を深めた。明日の予定はぽっかり空いてしまったが、不思議な、名状しがたい充実のようなものがその場を去来していた。

 

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津波によって建物の上に取り残された船
(読売新聞)

 

 日本はきわめて特異な地震列島である。地球を覆っている十数枚のプレートのうちの4枚もが日本列島で接したままになっている。北に北米プレート、東に太平洋プレート、南にフィリピン海プレート、西にユーラシアプレートが踵を接している。
 東北日本は北アメリカ大陸から続く北米プレートと南太平洋とつながる太平洋プレートとの両方の接合部の上に乗っている。今度の大震災の震源にあたる宮城県沖は太平洋プレートが北米プレートの下に斜めに沈みこんでいるところで、東北日本の下は太平洋プレートの先っぽが100キロから150キロの深さに沈みこむ危険をつねにともなっている。これが少しでもズレたり動けば、その下にあるマグマが地表に吹き出してきて、地球が喚(わめ)く。
 そもそも太平洋プレートは東北地方や関東地方を西のほうに押している。一方、フィリピン海プレートは西南日本を北西に押している。それらのプレートが互いに動いているのだから、ここにはいつもストレス(応力)がたまる。ストレスがたまれば、これを地盤が解消しようとする物理がはたらくから、岩盤のそこかしこに破壊面ができて、このズレが地震をおこす。
 地震の主因はプレート間地震とプレート内地震で、日本列島の地震の多くはプレート内地震でおこってきた。しかし大規模な地震はプレート境界地域、陸プレートの浅い場所、沈みこんだ海プレートの内部でおこる。なかで最も巨大な地震をひきおこすのがプレート境界地域で、ここでは日本海溝に沿って,マグニチュード8クラスの巨大地震が起動される。
 それだけではない。海プレートと陸プレートの境界は日本周辺では主に海底にあるので、ストレスが破裂すれば海底で岩盤が跳ね上がる。この跳ね上がりが大津波をおこす。地震が発生して数分後に津波が沿岸を押し寄せるのはこのためである。このたびは、なんと南北500キロ、東西100キロの「幅」が喚いた。
 津波は地震の振動で海面が波立っておこるのではない。海底の一部が上昇したり沈下したりして、その上の海水が急激な上下運動を強いられ、この高度差を戻そうとして海水が一挙に動き出すことでおこる。
 津波の規模は主に水深に関係する。太平洋中央部の深さに発した津波は時速800キロの猛スピードになる。南米チリ沖に発生した津波は22時間で日本に達した。
 「番外篇」とはいえ千夜千冊だから、何かの本をとりあげることになるが、とりあえず、以上のようなことが書いてある本書にした。とくにこれ以上の感想はない。著者は京都大学総長も務めた地震学者で、俳句も詠む人だ。

 

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ブロック塀の上を進む自衛隊
(共同通信)

 

 3月11日午後2時42分。すべてはそこに発端したのだが、この巨大地震と大津波は町と人を呑み込んだだけではなく、福島第1原発に予想もつかない惨事を忍び寄らせることになった。
 原発(原子力発電所)の命綱は、核分裂反応をすぐさま停止させる制御棒、事故に対応して緊急に炉心を冷却する装置、非常用のディーゼル発電機の3つにある。この3つが正常に機能していないかぎり、安全は保証できない。それがまず非常用ディーゼルが麻痺した。
 福島第1原発は原子炉の建屋の地下1階に2台並列の非常用ディーゼル発電機が用意されていて、それが非常時に起動しない確率は100万分の1だと想定されていた。つまり万が一でも安全だとされてきた。実際にも近くの女川原発・福島第2原発では今回はいずれも発電機が機能して、完全停止が確保されたのだ。2007年の中越沖地震でも柏崎刈羽原発が耐震設計をはるかに越えた揺れをかぶったにもかかわらず、大きな障害には及ばなかった(と、思われている)。
 それが福島第1では1号機・3号機ともに発電機が動かず、2号機では冷却機能さえも失った。いまでは放射能の流出が問題になっている。すでに東北はむろん、関東からの転出が続出しているとも聞く。京都のT君は「松岡さん、京都にいったん身を移してください」と電話をかけてきた。ぼくの答えは決まっている。「ありがとう、でも、なるようにしかならないよ」。
 なぜこんな最悪の事態になったのか、まだ解明も推測もできてはいないだろうが、おそらく大津波がそうさせたのだ。女川は震源地に近く揺れも大きかったのに、やや高い場所に設置されていたため津波の影響を免れた。それが福島原発では津波に洗われ、余震に連打された(そのニュースがなさすぎる)。
 今後、どんな巨大地震対策や大津波対策を考えればいいのか、たちどころに難問山積の課題が迫ってくるだろう。いま、中国で建設中のアメリカ製原発のように、原子炉の上に冷却装置を設置して、危険が生じると自動的に水が落ちる受動的安全システムを採用する必要もあるだろう。
 ともかく何であれ、災害と原発の信じがたいほど恐ろしい関係は、このところ再ブームになりかけた「地球温暖化対策としての原子力発電」というクリーンエネルギー構想に巨魁の疑問符を投げ付けたのである。

 

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煙をあげる福島第一原子力発電所(AFP/DigitalGlobe)と
放射線量の検査をうける子供(ロイター)

 

 ところでぼくは、この1年ほどにわたって「千夜千冊」連環篇として「人間と社会にとってのリスクとは何か」ということを問うてきた。
 現在の社会に生きているかぎり、リスクとオプションの問題こそが最大の難問になると思えたからである。ことは金融リスクを飯の種にしたマッドマネー主義の問題から端を発し、それが「合理的な愚か者」(1344夜)として産業社会・環境社会・地域社会に露呈してきたのだったけれど、その奥に近代国家(ネーション・ステート)の波及後に始まった確率重視思考(1340夜)や統計官僚主義が蠢いてきたはずなのだ。
 こういうときは、「リスクの経済学」(1347夜)を正当化するうちに「リスクの社会学」が歪曲され、そうでなくともリスクをめぐる考え方がとんでもなく複雑になってきて(1348夜)、そうしたなかで、いったい「リスクの正体」(1346夜)をどのように見るべきかがわからなくなっていく。そのため「リスクのモノサシ」(1345夜)もわけがわからないリストの羅列になり、たとえば東京電力の計画節電にもすぐさま露呈したように、何をリスクとオプションに割り当てるのかが、決断できなくなっている。
 このようなリスクをめぐる矛盾が、海底プレートのゆるやかな振動のごとくに水面下で複雑多岐に進行していていったのである。このことを看過してはならなかった。

 すでに書いてきたように、ブラック・スワン(1331夜)はどこにでもいるのである。どんなリスクも、すべての“制御”の裏側にこそ蟠踞しているのだ(1333夜)。
 ところがいまでは、すべての「危険」が「リスク」に変換され、それが保険計算しやすい能動リスクや受動リスクに置き換えられてきた。これでいいわけがない。そんなことをしているうちに、確率と統計がだんだんえらそうなことを言うようになり、その数値でしか危険とリスクを語れなくなっていく。そんなことをしていれば、いずれ従業員手当を確保するリスクと交通機関が麻痺するリスクと原発の放射能漏れのリスクとを、まことしやかにつなげる管理者たちばかりが世にはびこることになる。
 これって、本来の危険をリスク転移とリスク分散に巧妙にすり替えただけなのだ。人間が自然と社会の中に生きているということ、そのことが危険の本質であることは、棚に上げられる。そして確率統計で予測できなかったことは、すべて「想定外の事故」としてむにゃむにゃするしかなくなっていくだけなのだ。
 異才イアン・ハッキングの『偶然を飼いならす』(1334夜)の紹介のときに書いておいたように、世の中が確率統計で「危険の度合いを割りふる」ようになったとたん、人間社会は何もかもを「正常値」(normal)と「社会病理」(pathological)に分けたがるようになるか、そうでなければ「成長」と「停滞」、あるいは「勝ち組」と「負け組」に分けて、かえって自分たちの首を締めるようになったのだ。
 また、そんなことをしているうちに、木田元の『偶然性と運命』(1335夜)であらかた書いたように、ついに本来の「自然と人間と社会のあいだ」に君臨していただろう「偶然」をなんであれ排除できるはずだという傲慢に達してしまったのだった。
 ニーチェ(1023夜)やジンメル(1369夜)が指摘したように、実は「悲劇」というものも「自由」というものも、偶然的なるものを徹底した必然だとみなすところにしか生じないものなのだ。この悲劇と自由の二つは、もともと互いに裏腹の関係にあるものなのである。それは一瞬の大津波の襲来のとき、その町のどこにいたかという僅かの差にも如実にあらわれる。
 それなのに、その本来の偶然から「危険と安全」を分類し、これをリスク管理にまわしてタライ回しにしようとしてきたときから、われわれはいつしかおかしくなってしまっていたわけだった。

 リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』(1350夜)を、ちょっとだけ振り返ってみていただきたい。ここで偶然性と訳されているのは「コンティンジェンシー」である。
 ローティは「トロツキー」と「野生の蘭」のどちらを選ぶかという人生の出発をした。そしてすべての不確定なことと不確実なものは、それが発生するもともとのコンティンジェンシーにあらかじめ含まれていることを洞察した。
 偶然の本質も危険の本質も、「事態にひそむ生起の本質」を含んだコンティンジェンシーのことなのである。そのことをローティは、マルセル・プルースト(935夜)、ウラジミール・ナボコフ(161夜)、ミラン・クンデラ(360夜)の作品にも再発見した。
 しかしコンティンジェンシーは、すでにして地球にも海底にも気候にもひそんでいたわけである。そうも、言わなければならない。それらは環境事態の生起の本質たちとして内在している。そればかりか、それらを観察し、制御しようとする社会の管理者の側にも、科学者や技術者の側にも内在してしまったわけである。そうだとしたら、この自然と人為の双方にまたがるコンティンジェンシーを、やはりのこと、ダブル・コンティンジェンシーとして取り出しておかなければならないということになる。
 清沢満之はこれを「二項同体」で掴まえると言い、ドナルド・デヴィッドソンは「パッシング・セオリー」で見ると言った。「その見えない本質」が「そこ」にさしかかったきに見えてくることこそが、すべてのダブル・コンティンジェントな「あらわれ」の局面なのだから、そこに新たな「欠けたモデル」を見いだすのが、これからの真の創造性であり、本気の想像力だと、ローティは言うのである。
 と、ここまで書いてきたとろで、赤坂の事務所が大揺れした。「松岡さん、外に出てください」という声が聞こえる。ラジオは静岡県東部で震度6強の地震が発生したのだと言っている。いま、3月15日夜の10時35分。

 


原発と地震

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 3月16日、水曜日。午前中、国立がんセンターでの定期検診に行く直前に、猫ションシートを片付け、出掛ける用意をしながら立ったままテレビ・ニュースを見ていた。
 東電(東京電力)が、一枚のA3判程度のカラープリント写真を記者たちに配ったらしい。それを女性レポーターが記者会見場の外に出てきてテレビカメラに向けながら、「見えますか」と言いながら差し出した。プリントが小さくて見えにくかったけれども、愕然とした。あまりにもひどい。ボロボロだ。みんなでこれを守っているのかと、悲しくなった。悲しい? いや、不憫? いやいや、この感情を言いあらわす言葉が、すぐに浮かばない。
 この数日間の巨大地震、大津波、原発事故の連打と、そのあいだに挟まる各地の地震と余震とで、日本人の多くがすっかり参っている。何かが積み上らず、どこかの底が抜けた思いをしていることだろう。その一方で、コンビニやスーパーからは乾電池、水、おにぎり、パン、トイレットペーパーが消え、電力とガソリンが悲鳴をあげ、為替が急変し、株価が乱高下を始めた。
 海外ジャーナリストは某経済番組のなかで、日本人が決して暴動をおこさないことを褒めて、これならきっと日本は復活する、投資家たちもそういう日本をいずれ評価するから株価も円高も収まっていくと言っていたが、話はそういうことなのか。
 どこかが麻痺していたのではないか。やっぱり底が抜けたのではないか。ただし、この麻痺や底抜けはいまに始まったことではないだろう。

 

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東京電力が公開した
福島第一原発3、4号機
  

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福島第1原発の爆発前後
朝日新聞
2011.3.15 朝刊

 

 そんななか、福島第1原発の1号機から4号機までの「事故と不如意と想定外」では、いったい何がおこっているのかが、どうにもわからない。この悪夢のような異常の連打がいったい何を告げているのか、どうにも事態の核心が掴めない。
 主な異常だけでも、水素爆発による建屋(たてや)の炎上と決壊、冷却装置の不調、水蒸気の発生と漏洩、燃料棒の露出、圧力抑制室(サプレッション・プール)の変形、放射線の流出、使用済み燃料への影響、被爆者の出現、住民の避難半径の拡張などが、次から次へとおこっている。5号機、6号機もだんだんおかしくなってきた。
  もはや原子炉格納容器や原子炉圧力容器の“鉄壁”の頑丈さなど、誰も信用できなくなっている。だぶだぶの防災事務服を着た官房長官の枝野君も、実は内心では何かが引き裂かれているだろう。
 ともかくも、この原発事故が、おそらくは何かの「臨界」に向かって狂ったように突き進んでいるのは確実だ。そこには地震や津波の襲来だけではなく、さまざまな“想定外”が待っている。

 

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朝日新聞
2011.3.15 夕刊

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朝日新聞
2011.3.17 朝刊

 

 そもそも原発は放射性物質(核分裂生成物)が勝手に出てこないために、基本的には3つのバリアーで守っているはずだった。
 第1のバリアーはペレットで、核分裂生成物を0・2ミクロンほどの酸化ウランの粉末に圧縮し、ペレット状に固めてある。これが破れたばあいも、第2のバリアーの燃料被覆管という金属管がペレットを密封している。金属管はペレットを詰めている燃料棒で、ジルコニウム合金でできている。しかしペレットそのものが熱伝導が悪いため、この金属管は外側が500度でも中心部は1500度になり、わずか5ミリの差で法外な温度差が生じる、そのため異常がおこるとまずペレットが縮み、核分裂生成物ができてこれが膨れ、ひび割れになることがある。これらのバリアーが破れると、放射性物質は原子炉の中を通る冷却水の中に出てきてしまう。
 そこで第3のバリアーとしてこの冷却水を封じこめる圧力装置が用意されている。しかしこれも破損すれば、冷却力が失われ空焚き状態になる(今回はこれを補うために海水が導入されている)。
 ともかくも、外側からいえば、コンクリート建屋、分厚い原子炉格納容器、頑丈なはずの圧力装置、燃料棒、ペレットという安全弁があるというふうになる。これらすべてが破砕か損傷すれば、いわゆるメルトダウンがおこる。
 ところが、これらのバリアーのいずれもが危うくなってきたわけだ(と、おぼしい)。報道されないこともある。
 そもそもバリアーが壊れるだけが原発事故なのではなかったのだ。地震などがおこって原子炉内部の運転を止めるには、制御棒が突っ込まれるようになっていて、それをスクラムと呼んでいるのだが、そして今回も早々にそのスクラムによって制御棒は作動したのだが、チェルノブイリの原発大惨事では、あろうことにその制御棒によるスクラムがかえって核反応を進めてしまったのである。ポジティブ・スクラムと言われる。石川迪夫の『原子炉の暴走』(日刊工業新聞社)に詳しい。
 こんなふうなのだから、何がおこっても、何が待っていてもおかしくはない。われわれが、この数時間で見聞しているのは、こういう不可視の荷重なのである。そうだとすれば、明日、大事故が待っているのかもしれないし、明後日、癒えがたい放射能汚染が待っているのかもしれない。あるいは第3、第4の自然災害や人為災害が待っているやもしれず、政府・地方自治体・民間企業におよぶであろう泥沼のような責任問題も待っているだろうことも、覚悟しておいたほうがいい。
 しかし何であれ、それは紛れもない「日本の症状」なのである。ぼくはこの症状をさかのぼればキリはないものの、遅くとも1980年代の半ばからの発病だと思っている。
 発病は農業問題からエネルギー問題まで、日米同盟からグローバリズム問題におよび、さらには日本人の意識の問題にまでかかわっている。そのひとつに原発問題と地震問題が入っていた。

 

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日本経済新聞
2011.3.16 夕刊

 

 原発(原子力発電システム)は、第二次世界大戦直後にアメリカが研究開発にとりくみ、1951年にプルトニウムを作りながら運転するという高速増殖炉を発表した。これはウラン濃縮施設が必要な原発だった。
 その後、ソ連とイギリスが核兵器製造用の原子炉をもとに、天然ウラン燃料によって熱中性子を核分裂させる黒鉛炉を開発し、カナダは重水炉を開発した。ついで1953年のアイゼンハウアー提案(「平和のための原子力」演説)で濃縮ウランの商業化がおおっぴらになると、濃縮ウランを使う軽水炉が主流になった。
 日本の原発はアイゼンハウアー提案の翌年、突然に原子炉に関する基礎研究調査費が提案され、衆議院で予算が通過したときから始まった。これを強引に進めたのが中曽根康弘である。あとは日米原子力協定で濃縮ウラン受け入れが決定し、総理府内に原子力局がおかれ、科学技術庁が発足すると同時に、読売・日テレのドン・正力松太郎が原子力委員長に就任して、イギリスから黒鉛減速炭酸ガス冷却炉を導入した。このとき湯川秀樹(828夜)はその強引ぶりに嫌気がさして原子力委員を辞任した。
 あとは市町村合併法を背景に出現した東海村に第1号原子炉が誕生すると、これを皮切りに、日本の原発は現状16の原子力発電所に55基の原子炉を全国各地で動かすまでになっていた。田中角栄が発案した電源3法にもとづいて、地元に原発建設の見返りの交付金がもたらされることが、この推進力になったのだ。
 かくていまでは、国内発電の3分の1が原発による電力供給に頼っている。ちなみにアジアでは、90年代に韓国9基、中国8基、日本6基、インド2基、パキスタン1基の、21世紀に入ってインド6基、韓国4基、日本1基の原子炉が建設された。
 しかし日本は名にし負う地震列島だったのである。その危険の予告は東京電力が福島第一と福島第二とともに担当した柏崎刈羽原発で、2007年7月に中越沖地震のときに発せられていた。

 

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中越沖地震で大きな被害を受けた柏崎市の中心部。
後方に東京電力柏崎刈羽原発が見える。(2008年2月19日撮影)

 

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柏崎刈羽原発建設予定地近くの浜辺で開催された反対派の大集会。
原発敷地周辺の活断層の存在をめぐり、
東電と国を相手にした激しい地盤論争が繰り広げられた。
(1974年7月、柏崎市荒浜)

 

 本書は、原発と地震の関係を最も深く抉(えぐ)ったドキュメントである。ぼくはこの手の本をいろいろさがしてみたが、類書はなかった。国立がんセンターの定期検診のあと、そのまま丸の内丸善に行き、本書を関連本とともに松丸本舗に入れることにした。
 事件はまだ3年半前のことである。中越沖地震とともに柏崎刈羽原発の7基すべての原子炉が緊急停止し、3号機の変圧器が火災をおこし、7号機からは放射性物質が漏れたのだ。制御棒も脱落事故をおこしていた。「想定外」の震度7の激震だった。
 やがて、この原発が活断層の上に立地していたことが判明するのだが、それまでこのことがいっさい隠されてきたことがわかってきた。なぜそんなふうになっていたのか。新潟日報の特別取材チームはこの謎を追いかけ、事件後すぐの8月16日から1年間にわたる特別連載「揺らぐ安全神話・柏崎刈羽原発」を組み上げていった。
 取材先はかなり多岐におよぶ。東京電力の現場担当者や管理者はむろん、そもそもこの原発を誘致し、立地し、作動させていった関係者の多くにヒアリングし、その背後関係を洗い、ついには角栄時代の柏崎市長(小林治助)をとりまく取引にまでメスを入れていった。
 この連載は日本ジャーナリスト会議JCJ賞と日本新聞協会編集部門賞をみごとに受賞した。しかしながら、わが本となり、2009年1月の刊行となった『原発と地震』が読まれてきた気配は、新潟北陸地方はいざ知らず、少なくとも関東や東北では、ないように思う。東京の書店員たちに聞いてみても、この本のこと、ほとんど知らないままだった。

 原発のメカニズムそのものは熱源に原子力をもってきただけで、その原理は火力発電とほとんど変わらない。ボイラーを原子炉におきかえ、そこにペレットを詰めた燃料棒を「燃やして」、水を蒸発させ、その蒸気でタービンを回して発電する。
 ただし、その原子炉の中ではウラン235やプルトニウム239が「燃えている」のではなく、「核分裂の連鎖反応」をおこしている。そこが決定的にちがっている。そのため炉内には大量の核分裂生成物がたまる。これが放射性物質で、以前からの一般用語でいえば「死の灰」である。原子炉に異常が発生すると、この「死の灰」がまきちらされる危険性がある。ヨウ素131、セシウム137、ストロンチウム90などだ。
 これらの一連の出来事は、ずばり核分裂反応である。ウランやプルトニウムの原子核に中性子をぶつけると核分裂が次々におこるのだが、原発ではこれを小さなペレットの寄せ集めに閉じこめておこす。そういうペレットを詰めた燃料棒が、原発の燃料なのである。これだけのことをおこすには、むろんのこと、原子炉内での出来事が外に洩れないようにしなければならない。
 けれども、日本はフラジャイルきわまりない地震列島なのだ。もとは中国大陸の一部だったが、2500万年ほど前に地殻の下部にプルーム(マントル最深部から立ち上がる熱柱流)が上昇して、地殻が引き裂かれて日本列島になった。その引き裂かれて陥没したところに日本海が生じた。
 大陸から独立した列島に、今度は600万年前から南のほうから100万年をかけてフィリピン海プレートの上に乗った火山島が次々に付け加わって、丹沢や伊豆半島になり、太平洋プレートとのプレート境界上にいくつものトラフ(舟状海盆)を生じさせた。有名なのが相模トラフや南海トラフである。
 こうして一方では、大陸プレートと海洋プレートの境界が東北日本の太平洋側につくられ、他方では、このような劇的な列島の成り立ち自体が2000以上もの活断層を列島全体にのこしていった。
 その活断層の上に柏崎刈羽原発が建設されたのだった。何がおこっても当然だったのだ。

 

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プレートの潜り込みによる火山前線

 

 高村薫の小説に『神の火』(上下・新潮文庫)がある。
 冒頭、海岸の岸壁に建設中の原子力発電所の南北200メートル・東西50メートルの建屋が出てきて、これを主人公の島田浩二が眺めている場面から始まる。すでに南北の両端に二つの巨大ドームと中央制御室ができあがっていて、原子炉格納容器がゆっくりと稼働を待っている。
 島田は原発の技術者で、極秘情報をソ連に流していたスパイでもあった。詳しい筋書きは伏せておくが、島田はさまざまな国と人物の関係に巻きこまれ、某国の原発襲撃計画を知るのだが、そのうち自分が原発を破壊していくという宿命に向かう‥‥という物語になっている。1991年の作品だが、文庫化にあたって全面的な改稿がなされている。
 それから6年、高村薫は大作『新リア王』(新潮社)を発表した。今度は下北半島のむつ小川原開発に取材して、その背後に蠢いている国家と産業とのあいだの呻くような人間関係を描いた。そのうち千夜千冊したいので、ここでは中身はふれないが、物語は代議士の父親と禅僧の息子を主軸に、当時の通産省による原発政策を浮上させている。
 その高村さんが柏崎刈羽原発事故のとき、電力会社や制御棒の脱落について新聞に疑問点を寄稿した。それを知った新潟日報の記者がインタヴューした。高村さんは本書『原発と地震』のなかで、おおむね次のように「日本の症状」についての感想を語っている。今夜の番外篇の言葉としたい。
 「国と電力会社と重電メーカーとの長年の関係があまりに固定化し、安全性を公的に評価する仕組みがないままに、すべてが既成事実化してきた。けれども日本には地震国だという特殊な条件があります」。
 「使用済み核燃料の最終処理まで含めたコスト問題とともに、原子力による電力供給が妥当なのかを問わなければいけません。(中略)原発政策が推進された70年代とちがって、今は地震の活動機に入っているのです」。
 「(阪神大震災などを体験して)人間の一生は、震災や戦争のような不条理に耐えることだなと思いました。不条理は癒されたり、片付いたりすることはありえないのです」。

 

 

新リア王(上・下)

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◆椀コ、南昌、東根の、氷霧あえかのまひるかな。

(宮沢賢治「岩頚列」)


 東北。みちのく。アラハバキの国。
 古称は陸前・陸中・陸奥・磐城・岩代である。そのうちの陸前・陸中・陸奥が三陸になる。ときに奥羽地方とも呼ばれてきた。かつて奥羽は陸奥と出羽をさしたが、いまでは東北同様に、青森・岩手・宮城・福島・秋田・山形の6県をさす。
 赤坂憲雄君がここを広域の拠点にして「東北学」を立てた。東北自体の風土と記憶と民俗によって東北を語る。東北自身はたんなる“北の大地”ではなくて、日本の「南北の種族と文化とが最も劇的に交差する境域」だという見方だ。すばらしい見方であり、すでにいくつもの充実したフィールドワークや研究が発表されている。「東北学」という学術誌も生まれた。ときどきその成果を読ませてもらっている。
 赤坂君に初めて会ったのは、五木寛之(801夜)さんらと下北半島の恐山に行ったときだった。NHKシリーズ番組の収録のためだったが、とても静かに東北学の深層を語る姿に共感した。恐山のオソレはもとはアイヌ語のウソリだ。この言葉は火山に関係する。アソ・ウス・アサマ・アタミなどのアソ・ウソ・オソはアイヌ語で「火」を意味した。
 その恐山の近くに六ヶ所村があって、ぎょっとする。六ヶ所村は、日本列島がバブルに酔っていく渦中に、大きな決断をさせられた。ウラン燃料から発生した使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し精製する核燃料サイクル施設が誘致されたのだ。1995年4月に稼働した。そこもまたウソリなのである。

 そういう「東北」へマグニチュード9の地震と大津波が襲ってきた。津波を伴う大地震なら1960年のチリ沖地震、1978年の宮城県沖地震、1994年の三陸はるか沖地震があったけれど、そのいずれともちがう巨大地震であり、破壊的な大津波だった。
 むしろ日本人の記憶から消されかかっている明治29年(1896)の三陸沖地震が近い。
 この115年前の地震津波は、岩手宮城沖200キロの太平洋海底がマグニチュード8・5前後の震動をおこし、その震度が2~3であったにもかかわらず、不幸にも満潮とも重なって怒涛のような大津波が押し寄せ、わずか数分間で2万2000人の死者を出した。「明治三陸地震津波」と呼ばれる。
 しかし、このたびの2011年3月11日午後2時46分の地震と津波は、「東北」だけを襲ったのではなかった。「北関東」にもおよんで、未曾有の災害となった。福島・栃木・群馬・茨城‥‥さらに千葉。

 

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明治三陸地震津波による被害

 

 関東という名称は時代によって変化してきた。もともとは伊勢の鈴鹿の関、美濃の不破の関、越前の愛発(あらち)の関の三関(さんげん)よりも東の国々のことを言った。
 ついで三関が廃れ、近江の逢坂の関より以東が関東となり、東日本28カ国をさした。ここまでの時代はキャピタルが京都であったが、徳川幕府によって江戸にキャピタル移転がおこると、箱根の関所以東が「関八州」(かんはっしゅう)となり、常陸・下総・上総・安房・上野・下野・武蔵・相模を「関東」と呼んだ。関東大震災の関東はこれを受けている。
 北関東という呼び方は任意のものだ。高校野球では栃木と群馬だけが北関東になる。地名はときにわれわれの記憶を狂わせる。10日前の大震災津波も、あまりの広域災害のため東北太平洋地震、東北関東震災、東日本大地震などと確定しきれない。
 

 

◆明確に物理学の法則にしたがふ
 これら実在の現象のなかから
 あたらしくまつすぐ起て

(宮沢賢治「春と修羅」パート九)
 

 この数日間、被災地のドキュメントを何度も見た。見ざるをえなかった。大半の町が粉砕瓦礫となり、文字どおりの木端微塵になっているのに、九頭龍ともいうべき津波に呑み込まれた大半の光景は、恐ろしいほどの静寂のままにある。
 ソドムとゴモラの殺戮と惨劇の跡には見えない。あえて失礼を顧みずにいえばニコラス・ローグやアンドレイ・タルコフスキーの映像のようで、デヴィッド・ボウイやベルリン天使が落ちた月面のようなのだ。
 しかし、これは月面なのではない。直前まで日々の暮らしが生き生きと躍如していた日本の東北であり、北関東なのである。その瓦解なのである。
 直撃後の数日は、防災服の救援隊たちの姿も多くなかった。どこの救援隊か忘れたが、ドイツかフランスの海外派遣チームはあまりになすすべがなく、早々に母国に帰っていった。福島原発事故のニュースがかれらを早々に母国に戻らせたとも聞いた。
 被災者がたった一人で荒涼たる「わが町」「わが村」を肉親の遺体や形見を探している光景も、しばしば映し出されていた。それはまるで「デイ・アフター・デイ」の地を彷徨する絶体孤高の作業のようで、痛ましい。報道記者たちも声のかけようがない。かの「救済のアクチュアリティ」を最後まで志向しつづけて自害したヴァルター・ベンヤミン(908夜)に「アインゲデンケン」(哀悼的想起)という言葉があるけれど、そんな言葉が高速に去来した。
 けれども、たとえ「アインゲデンケン」をもってしても、粉砕されてしまった「わが町」「わが村」を歩く存命家族者のその姿を見ていると、ぼくはただただ呻くしかなかった。

 画面が切り替わると、各地の避難センターの被災者たちの日々が映し出される。被災者の言葉は誰であれ、その訥々たる片言隻句を聞いているだけで胸が詰まる。どんな言葉もそれだけでドストエフスキー(950夜)なのだ。
 南三陸町だったか、役場の女性職員が「絶対に逃げません」と言い放ったときは、心底、泣けてきた。被災者たちが無力なのではなく、われわれが無力なのである。

 

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災害状況 朝日新聞 2011.3.19
(クリックで拡大)

 

 ずっと以前から「奥の細道」を歩かなければならないと思っていた。けれども、ずるずると機会を逸してきた。
 この60年、機会を逸したことなんてそのほかいくらでもあるが、そのなかにはやはり幾つかやっておくべきだったと悔やまれることがある。いまさらながら、そういう悔恨がきつい。怠惰だったと憶うしかない。
 この数日間、こんな仕事をしていなければ、嗚呼、こういうときこそぼくは平成23年の深川から平泉までの「被災俳諧」に出向くべきだと思えた。どうやって行くかはわからないし、何が詠めるかもわからない。しかし、なんだか行かなければならないと思えたのである。すでに友人の藤原新也君(160夜)は自動車で千葉から茨城に入ったらしく、その惨状を刻々とブログに報告している。
 ただし、ぼくの「奥の細道」があるとすれば、それは芭蕉(991夜)とはちがって、津軽や下北半島にまで向かうものとなるのだろう。それは恐山の近傍、高村薫の『新リア王』が題材にした核燃料サイクル施設の六ヶ所村にまで及ぶことになるだろう。

◆幾列の清冽な電燈は
 青じろい風や川をわたり
 まっ黒な工場の夜の屋根から
 赤い傘、火花の雲を噴き上げる

(宮沢賢治「発電所」)


 ぼくは必ずしも高村薫の良い読者ではない。ちゃんと読んではいない。それでも『マークスの山』と『レディ・ジョーカー』で、山崎豊子を追う新たな本格派社会推理小説の女性作家が登場したと思えた。
 『レディ・ジョーカー』(上下・新潮社)はグリコ・森永事件を題材にはしているが、1兆円企業の日之出ビールの社長誘拐に絡んで、表向きは6億円の身代金要求でありながら、犯人たちは実は20億円の裏取引を画策しているというもので、その手口に捜査が手間取っていると日之出ビールに異物が混入され、またたくまに「350万キロリットルのビールを“人質”にした事件」に発展してしまったという推移になっている。
 いっこうに正体がわからない犯人「レディ・ジョーカー」をめぐって、話はさらに闇の深部に入っていく。秦野孝之という東大卒の青年が日之出ビールの入社試験に落ち、そのあと自殺のような交通事故にあっていた。その父親が、あるとき息子の悲劇に何かの決定的矛盾を感じて、「部落解放同盟」の名で脅迫状を送っていた。
 そういうことを通して、戦後の日本社会と企業社会の忌まわしい裏側が浮き上がってきた。書きっぷりはそうでもないのだが、そうとうに複雑な社会の問題を扱っていた。

 その高村に『神の火』(上下・新潮文庫)という異様な原発テロを扱った1991年の作品があることは、前夜に書いた。
 この作品の後半、主人公のテロリストであり原発技術者の島田と、その相棒となる日野が会話をかわす、こんな場面がある。たいへん暗示的なやりとりなので、紹介しておく。
 「なあ、あの発電所の白いドームな‥。あの中はいったいどないなってんねん?」「上半分は空いている。天井近くにクレーンのレールが一本走ってる。下半分は4段くらいに分かれていて、原子炉の圧力容器と蒸気発生器4基と、一次冷却材ポンプ4基と、加圧機1基が、それぞれ遮蔽コンクリートで囲まれて収まっている」。
 「原子炉はどの辺に入っとるんや」「底の方だ」「蓋してあるんか」「ああ、圧力容器には蓋がある。ドームの中も、ミサイルシールドという頑丈な蓋が中間段の床にあって、圧力容器の入っている部分は閉じている」「それ、開けられるんか?」「ミサイルシールドは開けられる。圧力容器の蓋も、原子炉を冷やしてからなら開けられる。でも蓋を開けたり、中の作業をするのはロボットだ」。
 「開けたら、何が見えるんや。燃料棒か」「硼酸(ほうさん)水だな。原子炉の核反応を止めるために容器いっぱいに注水した水だ」「水か‥。へえ‥。ほな蓋開けて、金魚入れたろか」。
 こういう場面だが、このとき日野が「水か、金魚入れたろか」と言ったことが、圧力容器の蓋を開けその中の水に着目して、原発に侵入する前代未聞の原発テロをおこなう伏線になっている。あまりに早い原発問題に対しての果敢な挑戦だった。

 

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『新リア王』の舞台である青森
(クリックで拡大)

 

 山本周五郎賞を受賞したこの『神の火』から十数年をへて、高村は今度は日本経済新聞に『新リア王』を連載した。
 青森に基盤をもつ一族の長であって、通産大臣などの大臣経験のある田中派の古老の政治家=福澤栄が、自身の息子の禅僧=彰久と延々と対話をしつづけるなか、そこから六ヶ所村の核燃料サイクル施設をめぐる政治と自治体と産業界の内幕が渦巻いていくという仕立てになっている。
 舞台のピークは1987年だ。この年号は、ぼくがこのへんに「世界と日本のまちがい」があからさまに発した、過誤になったと見定めている時期に当たっている。
 小説は福澤栄を東北のリア王に見立てた大対話篇でありながら、60年代から80年代におよぶ自民党のかなり重大な政策のやりとりや青森県の年々変化する苦渋の実情を描きこんでいるので、残念ながらアウトラインを説明するのはちょっと難しい。おまけにこの作品は、その前の青森物語である『晴子情歌』(上下・新潮社)をも継承しているので、ますます紹介が難しい。
 だからぜひ読んでもらうしかないのだが、『新リア王』には『神の火』に続いて原子力利用をめぐる政治舞台が扱われていること、そこに日本の政治の根幹が強引と裏切りをもって左右されていること、しかしなからそこには地震や事故が絡む絶対的な危険性があること、それを仏教との対比で描くことになったことなどについて、作家本人が次のようにインタヴューに答えているところのエッセンシャルな発言だけは、やっぱり紹介しておきたい。

 インタヴュアーが、『新リア王』で主人公の政治家の息子を禅僧にしたことについて、問う。高村は「阪神淡路大震災を経験したのち、次は仏教だと思っていた」と言うのだ。
 高村は大阪人なのである。阪神の惨状を体で体験した作家なのだ。では、なぜ仏教なのか。こう、説明する。
 「これは経験しないとわからないことですが、突然、世界がひっくりかえるんですよ。足元が抜けるみたいに、いままで立っていた地上がなくなってしまう。それくらい地震というのは怖い。そういう揺れを経験すると、それまで何十年と信じてきたものや価値観が一切合財なくなります。はっと我にかえって聞こえてきたのは救急車のサイレンの音でしたからね。死体を運ぶ音ですよ。それが何日間も続く。神戸市内だけでは受け入れきれないですから、淀川をわたって大阪にくる。24時間、救急車のサイレンが鳴っている。そのなかで6000人以上の人が亡くなっているわけですから、それは、いままで信じていたものがなくなりますよ」。
 
◆融銅はまだ眩(くら)めかず 白いハロウも燃えたたず
 地平線ばかり明るくなつたり陰つたり

(宮沢賢治「真空溶媒」)


 原子炉で燃やす核燃料は、その燃焼によってさまざまな放射性物質を出す。これをどう後始末していくかということが、いわゆる「核燃料サイクル」と呼ばれる原発のプロセスの全容になる。
 このサイクルはウラン鉱石を掘り出して精錬し、ウラン(八酸化ウラン=俗称イエローケーキ)を取り出すことから、始まる。精錬ウランには、原子炉で燃えやすいウラン235は1パーセント以下しか含まれていない。残りの99パーセントはウラン238になる。そこで、世界の主流となった軽水炉原発ではウラン235を3~5パーセントに濃縮して燃料にする。
 ウラン濃縮ができれば、これを二酸化ウランに変え(再転換という)、それを小さなペレットに焼き固めて燃料棒に詰める。この燃料棒を束ねたものが核燃料の本体である。いま、核燃料や燃料棒という用語はニュースのなかでしょっちゅう使われている。
 が、ここまではサイクルの“上流”で、このあと原子炉で燃やされた使用燃料の後始末が“下流”のサイクルになる。“下流”では、使用燃料をゴミにして放射性廃棄物とするか、再処理をするかの二つの選択がある。使用燃料にはウランの燃え残りと新しく生まれたプルトニウムが含まれているので、これを放射性廃棄物と分別して取り出す。これが再処理になる。この再処理のことは、まだニュースやニュース解説にはあらわれない。
 しかし、福島原発事故が勇気ある現場担当者たちの必死の努力や決死の覚悟によって、仮にいったん収まったとしても、実は“下流”のすべてはこれからの問題なのだ。

 

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核燃料サイクル図(再処理ケース)

 

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六ヶ所核燃サイクル施設図

 

 青森県六ヶ所村に核燃料サイクル施設をつくろうということになったのは、1969年の新全総(新全国総合開発計画)で「むつ小川原開発構想」が採択されたときからだった。
 もともとここには、他の鹿島工業地帯や各地の産業団地同様に、大石油コンピナート建設が予定されていたのだが、1973年と75年のオイルショックで計画が破綻すると、そこへ電事連(電気事業連合会)が乗り込んだのだった。すったもんだのすえ、青森県と六ヶ所村が短期利用ならという条件付きで、核燃料サイクル施設の建設を受け入れた。こうして六ヶ所村に、まずはウラン濃縮工場が出現した。そのときすでに六ヶ所村に再処理工場を建設することも決まっていた。
 『新リア王』はこのような原発をめぐるサイクルの大半を、自民党政治、東京電力などをふくむ電事連の動き、青森県の事情と決断、そのほか考えられるかぎりの関係者を次々に登場させて、主人公の古老政治家が政治スキャンダルにはめられていく過程をもって、活写する。
 実際には息子がなぜ禅僧になったのか、途中でどうして永平寺を抜け出してきたのか、何のきっかけで福澤栄の金庫番が自殺したのかといった複合的な事情も次々にあかされるのだが、今夜は申し訳ないけれど、そのへんは省略しておきたい。
 ともかくも、東北関東巨大地震津波災害に襲われ、いまなお福島原発の度重なる水素爆発・火災・白煙・放射線漏れ・野菜汚染などを目の当たりにしている現在、この『新リア王』が『神の火』とともに、あらためて日本人に、東北に関東に、のしかかってくるわけなのだ。
 加えておかなければならないことがある。『新リア王』が単行本となって3年後の2008年5月、六ヶ所再処理工場の直下に、なんと「活断層」があることが“発見”されたのである。
 
◆雲量計の横線を
 ひるの十四の星も截(き)り
 アンドロメダの連星も
 しづかに過ぎるとおもはれる

(宮沢賢治「晴天恣意」)


 どうも「番外録」から、元の「連環篇」にもどれないままにある。あの日の前には、ぼくは『遊牧民から見た世界史』(1404夜)のあと、青木健のイラン・アーリア系についてのめったにない好著『アーリア人』(講談社選書メチエ)を書くつもりだった。
 そのうえでヨーロッパ中を狂わせてナチスに及んだアーリア主義の驚くべき捏造イデオロギーを取り上げ、それからふたたびユーラシア全域を動かした遊牧民たちの動向と唐帝国に戻り、そこからやっとモンゴル帝国の猛然たる風雲を案内するつもりだった。
 それがなかなかその気持ちになりきれない。そろそろ『アーリア人』を紹介できるとは思うけれど、なんだかそこへの心の切り替えが、まだおこらないままなのだ。かくいう今夜も『神の火』か『新リア王』か、あるいは一気に広瀬隆の『原子炉次元爆弾』(ダイヤモンド社)に突入するかを迷い、いやいや、それとも誰かの静かな鎮魂詩集か現代歌人の歌集のほうがいいとも思い、結局は『新リア王』にしたのだった。
 が、書き出して、たちまち見当を失った。
 なんということか。自分の文章に介入できなくなっている。介入をしようとすると、事態から直撃されたフラジリティが遠のいてしまうのだ。それをなんとか文章の光景にとどめるのに、あまりこんな仕組みをつくらないほうがいいようにも思うけれど、あえて宮沢賢治(900夜)の一節を引くことにしたのだった。
 こんなこと、長らく経験してこなかった。困ったことである。マグニチュードと津波は、ぼくの裂け目にも波及していたということなのだ。『新リア王』ではこういうときを、息子の禅僧の次の言葉に託していた。「尽大地是真実人体」「心々如木石」。

 

鎮魂詩四〇四人集

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 3月29日、午前2時50分。
 さきほど仕事先に送るレポート9枚を深夜送信し、自宅に戻って着替えながらCSの24時間ニュースを見ていたら、東電のリーダー格が記者会見場で「福島第一原発敷地の土壌数ケ所からプルトニウム検出をした」と喋っていた。燃料棒から漏れたのだという。地下坑道の水位がいつのまにか上がり、そこにも1000ミリシーベルトを超える放射線が検出されたとも言っていた。
 かなりまずい事態が続いている。このままいけば最悪のシナリオだ。原子力資料調査室がまとめた『破綻したプルトニウム利用』(緑風出版)を紹介しようか。それとも小出裕章監修の『日本を滅ぼす原発大災害』(風媒社)や、やはり最もラディカルな広瀬隆の『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社)がいいか。いや、こういう疲れた夜は久米三四郎の『科学としての反原発』(七つ森書館)のほうだろうかと、それぞれあらためて手にとってみたが、今夜はダメだ。サマライズする気力がぼくのほうで萎えている。
 味噌汁を温めて一杯。煙草を二本。
 ソファの足元に堆(うずたか)く積み上げている別の本たちを、次々見回しながら左見右見(とみこうみ)、そのうち、森永晴彦の『原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ』(草思社)が目についた。パラパラめくっているうちに、ああ、今夜はぼくの気持ちは詩魂のほうにシフトしているかもしれない、それならここだろうかと思ったのは、去年の8月15日に出版された分厚いアンソロジーの一冊で、3年前の『原爆詩一八一人集』、2年前の『大空襲三一〇人集』についで刊行された、コールサック社の『鎮魂詩四〇四人集』である。
 すでにマーキングがある。そのページを何度か開いているうち、404人の詩のなかからこの数日の日本が漂うところのフレーズを選び出し、ぼくなりに数行ずつを並べてみることにした。数行ではなくて、作品をまるごとを読まれたい方々は、本書を松丸本舗などで手にしてほしい。

 

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朝日新聞(2011.3.29)
(クリックで拡大)

 

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日本経済新聞(2011.3.29)

 

 

友ありき河をへだてて住みにきけふは

ほろろともなかぬ

君あしたに去(い)ぬゆふべのこころ千々に

何ぞはるかなる           (蕪村「北寿老仙を悼む」より)

 

また来ん春と人は云ふ

しかし私は辛いのだ

春が来たつて何になろ

あの子が返つて来るぢやない     (中原中也「また来ん春」より)

 

薄くれないのひとひらの花びらが

濁った川面にしずかに舞い落ちる

「く」を描き 「る」に渦巻き

「し」に伸びて 「い」によどみ

ゆっくり川下に流されていく          (有馬敲「惜別」より)     

 

二度目の波が恐ろしいちからで退いていくとき

おもわず妻の手を離してしまいました

手を離さなければ 

腕にからめて掴んでいた草の根もろとも

ふたりとも引きずられてこれ以上耐えられないっと

思うよりさきに自分は踏みとどまっていて

妻の姿がずずずずーっと黒い波の闇のなかに

声もあげずに ずずずずーっと

あの夜の津波の出来事を

問われるままに確かにそのようにいいましたが

そのころはまだ妻はわたしの首のまわりや肩にとまって

たましいのようなまろやかさで

わたしの離しにうなずいていたのです

(中略)

あの夜 妻の手を離して津波に呑みこまれたのは

ほんとうはわたしなんだ     (麻生直子「手を離したひと」より)

 

太陽が沈む前に

わたしに語りかけるような

ひそやかな風が頬をなでる

正夫さん と呼びかけてみる

海底で

骨がさみしげにゆれていることでしょう 

(吉田博子「この広い海のなかから」より)

 

地べたはぴかぴか光つてゐる、

草はするどくとがつてゐる、

すべてがらじうむのやうに光つてゐる。 (萩原朔太郎「月に吠える」より)

 

われらの死を無駄にするなと

びゅうびゅうびゅうびゅう

山全体が吼えている        (朝倉宏哉「吼えている山」より)

 

どうして現世の人々は

石灰岩の一万年を否定し

わずか十年の過日に

渚を売り飛ばすのか           (図子英雄「海岸浸食」より)

 

破裂しないか

いびつになった地球から

海水が滝のように流れ出ないか      (白河左江子「地球に」より)

 

どうしたらいいだろう

また九月が来て 鳳仙花が咲き

隣国から来た あなたたちの 名も怨みも

地に滲み 河底に張りついたまま 

私たちは

その上をどかどかと歩いて        (石川逸子「あなたに」より)

 

死者たちのいる場所は

丘のようになっているが

そんなところでも

地下に水脈があるらしいのだ

水が絶えず 行ったり来たり

ときには凍ったり

涸れたりしている            (井上嘉明「午後の丘にて」より)

 

のびあがり

身をよじり

ひるがえり

うねり

くねり

ねじれ

まがり

波だち

たぎり

湧きたち

炎えつづけて青く炎えやまない母だから

焦げつづけて赤く焦げやまないわたしのなかの母だから

サヨウナラはいいえないサヨウナラはない

うめき

うなり

さけび

泡をふき

くいちぎり

くるめき

歯がみし

あえぎ

もだえ

波だち

見えている炎の海はたちさったけれど

見えない炎の海があふれかえっているのだから

サヨウナラはないサヨウナラはいいえない

(宗左近「サヨウナラよサヨウナラ」より)


湾から海へと

太平洋の深い海底で

今は白い骨になって

慟哭しているのだ         (北村愛子「わすれないで」より)

 

トウカイムラデ リンカイガ ハジマッタ

インターネットで世界に発信された

韜晦 村

倒壊 村

青い光りに切り裂かれた村

トウカイ リンカイ

問う 核 村

(中略)

見えないものを見ることが出来るか

中性子線が身体を貫通していった人

その人はバケツで液体を運び注いだだけだ

リンカイ

青い光を見た人は

戻ってこなかった         (鈴木比佐雄「日のゆらぎ」より)

 

命がけで魚とってたもんにとっちゃあ、

原発さまさまだった。

百姓だっておんなじよ。

なんにも知らねで、

ゴムのカッパ着て、長グツはいて、

宇宙人みてなマスクつけて、

マスクは苦しいからはずして仕事した、

いつだったか、

炉の床にこぼれた水ふきとってたら、

胸に下げたアラーム・メーターが、

ビービー鳴ってうるせえのなんの、

そんなの無視して作業やったけんどな。

(鈴木文子「原発ジプシー逝く」より) 


獅子は刻々殺さうとしてゐた

犀は永遠に死なうとしてゐた        (丸山薫「犀と獅子」より)

 

三十万の全市をしめた

あの静寂が忘れえようか

そのしずけさの中で

帰らなかった妻や子のしろい眼窩が

俺たちの心魂(しんこん)をたち割って

込めたねがいを

忘れえようか!              (峠三吉「八月六日」より)

 

 

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『鎮魂詩四〇四人集』詩人リスト
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〈弱さ〉のちから

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 3・11以来、日本列島の弱い部分についの議論が、いまだぽつぽつとではあるけれど、少しずつ深まってくるようになった。
 この数十年間、日本はやたらに「強さ」を求め、どんなグラフも右肩上がりであるのがいいと言い合い、世界のどこでも自慢できるような規準値に追いつき、企業はつねに勝者であろうとすることを誇ろうとしてきた。それがばかばかしいほどのグローバリゼーションの美名とともに広まった。
 しかし、そんな規準値に向かう途中には、実のところはとんでもない欠陥や弱点やカオスが、国家にも企業にも地域にも、町にも学校にも家族にも個人にも、ひそんでいたはずなのである。それをみんなで隠蔽しすぎたようだ。それが3・11で起爆すると、とたんに「少ない物資でもがんばろう」ということになった。
 本書は「強さ」を求めない。「弱い場所」から発せられた言葉と出会うことによって書かれたエッセイである。ここには、傷を負った言葉、挫けそうな心、ひりひりした気持ちが、丹念に拾われている。講談社の「本」に連載されていたエッセイで、後半に、ぼくの『フラジャイル』(現在はちくま学芸文庫)もとりあげられている。
 著者の鷲田清一さんはいまは大阪大学の学長であるが、ずっと以前から哲学者としてもモード研究者としても、関西随一の柔らかい思索力の持ち主として知られてきた。ヨウジ・ヤマモトの絶大な擁護者でもあって、自身、授業中も外出時も、たいていヨウジを着ている。けっこう似合う。
 メルロ=ポンティに、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」という有名な定義ある。鷲田さんはこの「言いよう」をずっと大事にしてきた。一方、哲学の言葉が自分の実感の確かさになかなか合致しないことについての苛立ちも隠してこなかった。
 そしてあるときから、「自身の端緒が更新されていく哲学」は、ひょっとすると自分自身の中の強い規準にあるのではなく、むしろそれを崩すもの、自分から見えない「弱い方」からやってくるのではないかと思うようになっていった。本書にも、その丹念な模索がしたためられている。

 ケース1。飯島恵道さんは長野県松本の東昌寺の、ピアスをした尼さんである。鎌田實さんの諏訪中央病院で緩和ケアに従事し、地域医療とケアをどのように組み合わせていけばいいのか、いろいろ学んだ。「必要な世話」と「余計な世話」のちがいをどのように感じ取れるかということだ。
 いま、3・11後の東北・北関東では、たとえ復旧が首尾よく進んだとしても、そこにはきわめて困難な医療問題やケア問題が待ちかまえる。仕事の再開の難しさ、暮らしの歪み、老人医療の停滞、メンタルケア不足、放射能に対する不安。難問はいくらでもある。とくに近親者を突如として奪われた家族がたいへん多く、町の大半がその悲痛と痛哭に突き落とされているケースが少なくない。
 今回の大震災では、一人ひとりの苦悩と不安だけではなく、集団苦悩や地域不安こそが地域を襲ったのである。
 これまで家族や近親者を亡くした遺族については、グリーフケアがおこなわれてきた。しかしこれを医療者だけが担当しているのではとうていまにあわない。たとえば地元のお寺などにもグリーフケアがなくてはならない。日本の寺院ネットワークはこれらに十分には対応してこなかった。日本仏教の低迷だ。飯島さんはそんなふうに思って、ずいぶん前からお寺に入り、尼となり、そのうえで病院勤務もするという二足の草鞋をはくことにした。
 鷲田さんは、エッセイのなかで人類が死者と生者をどのように扱ってきたかということに思いをめぐらす。「死があるのに遺体が見えない社会」というものを考える。ぼくはぼくでそこを読んで、数学者ヘルマン・ワイル(670夜)の「この世界で最も重要なのは生者と死者が同居していることである」を思い出していた。

 ケース2。福島泰樹さんはサスペンダーをしたお坊さんだ。東京下谷法昌寺の住職であって、著名な歌人だ。ぼくもまだ一度だが、吉祥寺の「短歌絶叫コンサート」に行ったことがある。
 歌集はときどき読んできた。その短歌はバリケードの中から始まって、「学生の貴様にあなどられたるは酒樽の上立てるおもいよ」などと気迫を吐いた。ついで「死ぬるなら炎上の首都さもなくば暴飲暴食暴走の果て」といったアナーキーでデモーニッシュな彷徨をへて、「渓谷はかなしかりけりこれからを流れるようなひとりとなろう」「さくらばなちるちるみちるみずながれさらば風追う言葉とならん」というような極北の哀歓のほうへ進んでいった。挽歌も多い。『やがて暗澹』(国文社)では、他者の歌を深く抉って批評した。
 その後の福島泰樹の短歌については「福島は自分を歌っていない。他の悲嘆を歌っている」と言われた。安永蕗子は「世を去った身近な才能に捧げられている」とも言っている。
 鷲田さんは、そういう福島さんを訪ねていろいろ話した。僧侶としての福島さんが何を日頃感じているかを知りたかったようなのだ。そして、遺体が自宅に戻ることなく病院からそのまま斎場に行ってしまうことを懸念していることに、注目する。そこには、死に水、湯潅、死化粧、死装束、枕経、添い寝、夜伽がなくなっている。いったい、それでいいのか。

 ケース3。横浜に住む建築家の山本理顕さんが、あるとき新聞に「家族というものは寂しいものだ」と書いた。
 今日の日本の家族という単位は、社会的な単位としてあまりにも小さすぎるものになった。現在の社会システムはその小さな単位の家族に負担がかかるように、できあがっている。当該システムに問題があるときは、システム全体の見直しではなくて、家族の単位のところで調整しようとしてきた。だから家族が喘いでいる。そう、書いていた。
 山本理顕はこれまで一貫して、個人住宅や集合住宅ばかりを設計してきた建築家である。夫婦・両親・姉弟の家族が同居する実験的な「HAMLET」を設計したりもした。その山本さんがこういう感想を訴えていることに、鷲田清一が何かを感じた。
 すでに芹沢俊介は、現代の家族生活が多世代同居性を解体し、かつての農村風景に見られる日本はどんどん崩壊していくだろうと予告していた。3・11以降の東北に“再建”される町もそうなっていくだろう。若林幹夫は日本の生活形態が一方では都市寄生型に、他方ではホームレス型になっていくだろうと予告した。
 スーパーやコンビニやホームセンターが近所にあるか、自動車で行けるロードサイドにありさえすれば、家族が住みあい語りあう「家」はそうした外部利便性に依存したストック・ユニットにすぎなくたってかまわない。そういう住まい方が列島全土を覆っているわけだ。けれども、3・11はそのスーパーとコンビニと自動車をずたずたにした。
 鷲田さんは考える。いまや家族は“family”ではなくなっている。そこには“significant person”がいるばかりだ、と。

 ケース4。稲葉真弓さんは『声の娼婦』や『水の中のザクロ』で評判をとった作家であるが、いっとき健康スポーツランドに通う日々をおくっていた。そこに「近さ」と「匿名性」が一緒になっていたからだ。
 ホスピタリティとは何か。ケアとは何か。快感とは何か、カウンセリングとは何か。この問題にひとしく答えるのはきわめて難しい。
 そもそも人間というものは、それぞれが独自の多形倒錯めいたものを秘めているのだから、一様なホスピタリティ、万人のためのケア、市民のための一般的な快感、汎用的カウンセリングなどというものなんて、ありえない。そこには必ずや「幽(くら)い淵」があると、鷲田さんは見る。東北復興でもここを一般化すると、とんでもないまちがいがおこる。
 むしろ他人の体験や感情や不安を受けとめ、それを「通していく」ことが重要なのではないか。あるいは「感情を預かる」ことが大事なのではないか。では、そこをどうしていけばいいのか。
 鷲田さんは、渋谷の道玄坂のマンションの一室でセックスワーカーをしている南智子さんに会ってみることにした。南さんは代々木忠監督の『性感Xテクニック』シリーズにも出演したことがある。
 その南さんの指摘で興味深かったのは、男たちが女性におっかぶせることでしか自分の性を語れなくなっているということだった。南さんは言った、「男が自分自身に呪縛をかけてまで隠さなければならなかったファンタジーや性って、何なのか。わたしはそれが見たくて娼婦になったようなもんです」。
 性というもの、少年少女時代の体験の歪みとそこから噴き出てくる諸幻想によって編集されている。そこには度しがたいほどの多様性がある。それなのに、その多様性が鬱屈してきた。そこを一時預かりし、「通して」いくにはどうするか。これは家族のあいだにひそむ官能や快感をどうしていくかという問題にもつながっていく。

 ケース5。佐伯晴子さんはSPを通してケアや医療かかわっている。SPというのは“Simulated Patient”の略。みずからが模擬患者になるということだ。すでに大阪に「ささえあい医療人権センターCOML」や東京SP研究会ができている。
 SPは医療が医師と患者のあいだにあって、患者や不安者たちの体験や感情をミラーリングする。通気する。SPは共同の営みの中に自身を投じるということなのである。
 京都出身の高安マリ子さんはダンス・セラピストだ。患者たちは靴を脱いでダンスシアターに入り、高安さんと本気のセッションをする。叩きあい、撫であい、踊りあう。上半身と下半身の境い目が大事らしい。そこがぐちゃぐちゃしていると、アタマとカラダが分離する。そのズレをダンス・セラピストは引き受け、身体のはたらきで何かを実感してもらう。
 北海道の襟裳岬の近くの浦河町に「ぺてるの家」がある。そこにはたらく川村敏明さんはあえて「治せない医者」を自称する。そのかわり「油断ができる関係」をどうつくっていくかということに、ソーシャルワーカーとしての活動を集中させている。
 沖縄アクターズスクールの分校、大阪のマキノ・ワールドポップスでは、牧野アンナさんがチーフインストラクターをしている。かつては安室奈美恵のスーパー・モンキーズの一員だった。そこから一転して父親が経営するスクールの指導を15歳から23歳くらいまでの若手で指導することを決意した。以来、「生徒が生徒を指導できるしくみ」を心掛けている。
 これらの人々との接触と会話を通して、鷲田さんは「世話」(サービス)と「隷従」(サーヴィチュード)とのちがいを、「提供」と「交感」のちがいを実感しようとしていったようだ。
 こうした作業をなんどもトレースさせ、自分の思想をほぐしつつ、そこから少しずつ「かけがえのない言葉」を掬(すく)っていくというのは、かねてから鷲田さんが得意とする手法であるのだが、本書でもその手法が着々と積み重なり、読者に何かを実感させていく。その何かというのは「弱さのちから」というものの可能性のことだった。

 最後のほうになって、中川幸夫、田口ランディ、映画監督の伊勢真一の『えんとこ』の言葉、それにぼくや鶴見俊輔(919夜)や中井英夫の言葉が出てくる。
 中川さんや鶴見さんは「存在の他者性」や「その他の関係性」に可能性を見いだすことを、田口さんや遠藤さんの言葉からは「力をもらう」ということが導き出される。
 ぼくについては『フラジャイル』が引用されていて、弱さ、脆さ、傷つきやすさに共有されるものの重要性にふれ、「弱さは強さの欠如ではない」ということ、「おほつかなさ」の重要性などが引き出されていた。すでにパスカル(762夜)が言っていたことであるが、フラジャイルな哲学では、強さを求めることは自由よりも束縛をもたらすことが多く、むしろ弱いものに従うことが自由なのである。
 自由はつねに現在を伴っている。それを哲学では「現前性」などという。けれども精神医学の臨床医である中井さんは、本来の“presence”は「現前」というよりも、「そこいてくれること」であって、ケアやホスピタリティは“on presence”(互いにかたわらに居合わせること)のほうへ向かうべきではないかと言った。鷲田さんはそこに共感する。
 かくて本書は、まとめていえば「存在を贈りあう関係」についての本だったのである。それにはまずは人々が何に関心を示すかということを、もっともっと重視しなければならない。3・11後の日本に求められることも、そのことだ。
  ふりかえって、そもそも“interest"(関心)とは、ラテン語では“enter-esse”ということ、すなわち「人々のあいだにいる」ということだったのである。

 

 

 

【参考情報】

 

(1)いつか書こうと思ってはいたが、鷲田清一さんの本をモード論ではなくて、この本で「番外録」でとりあげるとは予想していなかった。御本人は1949年生まれで、ぼくより5つほどの年下の同じ京都人である。いつ会っても、柔軟な思考と対応がすばらしく、とくに話しこむことなく互いに共通の理解をもってきたように思えてきた。

 京都大学大学院の文学研究科で哲学を修め、関西大学や大阪大学をへて現在は大阪大学学長になっている。著書は哲学・現象学・美学・心理・ファッション・モード論・文化論など、広い範囲におよぶ。以下の通り。

 『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)、『分散する理性』(勁草書房・講談社学術文庫)、『ちぐはぐな身体』(ちくまプリマーブックス)、『モードの迷宮』(中央公論社)、『夢のもつれ』(北宋社)、『ファッションという装置』(河合文化教育研究所)、『「哲学」と「てつがく」のあいだ』(みすず書房)、『トランスモダンの作法』(リブロポート)、『最後のモード』(人文書院)、『ことばの顔』(中央公論新社)、『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ)、「ひとはなぜ服を着るか』(NHK出版)、『てつがくを着て、まちを歩こう』(ちくま学芸文庫)、『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書)、『たかが服、されど服』(集英社)、『噛みきれない思い』(角川学芸出版)など、かなり広い。
 3・11以降にも読みたい本が少なくないが、とくに『死なないでいる理由』(角川ソフィア文庫)など薦めたい。

 

(2)鷲田さんのエッセイは、一貫して「答え」のない「問い」を模索するというものになっている。これは、ぼくが自分の思索においても、イシス編集学校においても重視していることでもあって、たいへん共感できる。「他者の他者になること」が自分でありつづける唯一の存在学であるというのも、大賛成だ。

 もうひとつ共感していることがある。鷲田さんは20歳のときにタバコをやめた。3日間で復帰して(笑)、その後はヘビースモーカーを誇ったが、40歳を前にドクターストップがかかり、40歳の誕生日にひそかに断煙に踏み切った。それから10年、タバコから離れ、50歳でまた復帰した。たった3日間で元の本数に達したのだ。ひとえに共感するところだ。

 

(3)今日は4月4日である。被災地の想像を絶する危機的状況から3週間がたった。原発の修復の遅れと、これからおこるかもしれない放射能事故が最も予断を許さないけれど、その一方で、ようやくいくつもの復興プランが提案されつつあり、また国の内外から多くの義捐金が集まっている。内外での「がんばれ日本」の掛け声も高い。

 けれども、復興予算をどのように組み、何に投下するのか、どんなプランをもって当たるのか、何をがんばるのか、いずれもほとんど決まっていない。

 東北復興計画は、被災地のインフラを“復旧”するべきことから、被災者とその周辺の日々の生活が“復活”していくまで、そうとう多岐にわたらざるをえない。それは、この数十年間で歪んでしまった日本そのものの再生計画や変更計画に裏打ちされていなければならない。これは「母国再生」ともいうべきものなのだ。

 だとすれば、復興計画だけではまちがいなのである。この際は「母国」というもののマザープログラムに着手することこそ要請されるのだ。しかしそのプログラムは、実に数百年をさかのぼっての取り組みにならなければならないはずである。ぼくも多少は寄与する覚悟をもっている。

 

 

東日本大震災・日本人の再出発

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 4月7日(木)。夜11時半をこえたころ、東京がまたもやぐらぐらぐらと揺れた。十数人の内外のスタッフと松丸本舗「本集」のための選本ミーティングをしていたときだ。テレビをつけると、宮城沖でマグニチュード7・4の地震がおきたと報じていた。
 震度は6強だから、3・11以降の余震震度では最大級である。東京赤坂の揺れでも身体に残曳する。仙台が実家の和泉佳奈子がさっそく家にケータイしたところ、お母さんが「せっかく家の中を整理できたところだったのに、またぐちゃぐちゃになった」と気の毒なほど無念な声を出していたという。
 その後のニュースでは、女川(おながわ)原発の3系統の外部電源のうちの2回路が切れ、下北の六ヶ所村の核燃料リサイクル再処理工場の外部電源も止まり、非常用電源の給電に切り替わったと言っていた。火力発電所も次々に発電送電が中断し、青森・岩手・宮城の広い地域で停電が続いたようだ。
 事態は『新リア王』(1407夜)の六ヶ所村にまで波及したわけである。やっぱりこういうことがおきるのだ。このあと何がどこでどのように勃発するかはわからないが、まだまだ似たようなことが続発するだろう。これは日本のためのヨブ記なのか。そうだとすれば、ずいぶん苛酷な試練だが、少なからずそんなことを誰もが感じているか、さもなくば「だからね、みんなで大いに元気で頑張ろう」と言おうとしているわけである。
 午前2時をまわった。このところよくあるのだが、この刻限になると、何かが手につかない。その手のつかなさが、これまでのぼくにはとても稀少なものなので、ほっとけない。目の前の白昼の海市のように手が届かずに、おぼつかないのだが、そのおぼつかなさが手に絡みつき、体に染みついていることを軽視するわけにはいかないからだ。
 ただし、これでは仕事にならない。そこで、ようやく加速してくれつつある「7離」(第7季「離」)の応答に目を通し、太田眞千代・太田香保とともにWオータの講評に少し手を入れた。離学衆の諸君の「ひたむき」を実感して、やっと何かの血がめぐってきた。これなら帰って眠れる。

 4月8日(金)。午後はテレビマンユニオンのNHK「世界遺産・1万年の叙事詩」第7集の収録のための予習につぶした。夜は“世界遺産の旅人”の華恵ちゃんを相手に、メキシコのクリオーリョ(メキシコ生まれのスペイン人)が「近代」に向かって矛盾と葛藤に満ちた苦闘を強いられた話を振り返る、という収録だった。ディレクターは若くて優秀な鈴木伸治君だ。
 途中、「絶対王政の行き詰まり→プロテスタント移住→アメリカ独立戦争→フランス革命→ナポレオン→国民国家の成立→スペインの変質」を高速で辿った。うまく話せたかどうかは、わからない。『奥の細道』を訳したオクタビオ・パス(957夜)の話で締めてみた。
 日本人にはメキシコの歴史も南米の近代史も難しいが、メキシコは地震と噴火の国であるし、日本人にはクレオールとしての歴史が宿る。安部公房(534夜)や篠田正浩が、それぞれ晩年に日本のクレオールを研究していたことを思い出した。あれはいったい誰が継承しているのだろうか。
 収録が終わったのは、午前1時過ぎ。すぐに櫛田君と4月17日にZESTで予定している「感門之盟」のプログラムの進行を打ち合わせ、そのまま小森君が用意してくれていた2本のISISメモリアルな映像をチェックして、ここで一息ついた。
 郵便物を整理し(ぼくは郵便物をたいてい夜中にまとめて見る)、さて、どうしょうかと思いながらケータイを確認すると(ぼくはケータイは黒のポシェットに入れたままで、めったにポケットに入れていないし、持ち歩かない)、チェンマイの花岡安佐江からの着電がそのままになっていた。名にし負う6離出身者。電話をしてみると、たちまち話がいろいろ飛んで、彼女が数日前に扁桃腺にかかって生まれて初めて抗生物質をのんだことに始まり、タイの気候風土から日本の中にスモールサイズの暮しをつくる工夫まで、あれこれの長話になった。
 帰宅後、夜中の3時半頃から西尾漠の一連の『なぜ脱原発なのか?』『どうする? 放射能ごみ』『むだで危険な再処理』(緑風出版)などを拾い読んでみたが、うーん、今夜も落ち着かない。「7離」の文巻に手を入れることにした。どんどん書きこみたくなった。

 4月9日(土)。夕方に起き出して、ぼうっとしながら何かを憶い出そうとしていた。何を記憶の奥から引っ張り出そうとしているのか、それすらわからなかったので、ひとまず新聞を読んでいるうちに、突然、ああ、あれかなと遠くのほうからカーソルが近づいてきて、カチッと鍵穴をあけた。そうだ、『方丈記』(42夜)と『断腸亭日乗』(450夜)だった。
 うろおぼえだったので、確かめたくなって書棚から取り出した。『方丈記』はこうだった。長明はここまで書きこんでいる。
 「おびただしく大地震(おおない)のふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋(うず)み、海は傾きて陸地を浸せり。土裂けて、水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどころをまどはす。都の返(ほとり)には在々所々堂舎塔廟ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ちのぼりて盛なる煙の如し。地の動き、家の破るる音、雷(いかずち)に異ならず。家の内におれば、忽ちにひしげんなんとす。走り出づれば、地割れ裂く」。
 そう、そう、これである。
 文治元年(1185)の地震大災害の見聞と感想だ。この年は平家の一門が壇ノ浦で海中に没していった象徴的な年であるが、都にも大地震が襲い、藤原氏の栄華のシンボルでもあった法勝寺の九重塔が崩落し、法成寺の回廊がすべて倒壊した。琵琶湖の湖水が都に逆流して北白川に溢れ、そうとうの決壊がおこった。マグニチュード7ほどの大地震だったようだ(詳しくは寒川旭『地震の日本史』中公新書など)。余震も3カ月続いた。長明は「恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震なりけりと覚え侍りしか」とも書いている。では、われらはいま、何を覚え侍りしか。
 荷風の『断腸亭日乗』のほうは、いかにも世捨人の荷風らしい。関東大震災の直後、次のように辛辣なことを書いている。「近年、世間一般、奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし」。
 分相応に生きればいいんだという託宣だ。「無常迅速でいいじゃないか」という達観だ。しばらく『方丈記』と『断腸亭日乗』をつらつらぱらぱらと読み、遅い夕飯をきのうと同じ豚汁でかきこむと、BBCのアジア・ニュースを1時間ほど見て、今度はほったらかしにしていた放射線医学総合研究所の『放射線と地球環境』(研成社)を拾い読んだ。
 夜半はなぜか、ジョニー・ウィルキンソンのドロップゴールが鮮やかだった前回のラグビー・ワールドカップのDVD記録をずっと見続けた。日本に必要なのも、一進一退の停滞と膠着を破るドロップゴールなのだろうか。

 4月10日(日)。全国知事選は民主党の惨敗だったが、NHK以外は速報もしていなかった。自民党が勝ったわけでも無所属が勝ったわけでもなく、どこも「勝ち」はしなかったのだ。
 いまさら「勝ち負け」ではあるまいに、民主主義というのは「勝ち」が「負け」の面倒を見る義務があるというルールになっていて、そのくせ多数の「勝ち」が体制を握ることになっている。これ、別名を代理民主主義という。困ったもんだ。では「負け」が少数かといえば、そうではない。大半の「負け」の中にこそ、大多数の世界の歴史の動向が潜んでいる。
 何はともあれ、3・11によって、日本の大多数の動向をどうすべきかということが、やっと課題になってきた。「国破れても、山河あり」なのか、「山河破れて、国はあり」なのか、そこを問わなければならなくもなっている。それなら、国とは何か、山河とは何か、「うみやまのあひだ」(折口信夫)とは何か。
 日本でクニといえば、長らく「お宅のおクニはどこですか」のことで、つまりは生まれ故郷のことだった。若山牧水(589夜)はそういう国を詠みつづけた。「山ねむる山のふもとに海ねむる かなしき春の国を旅ゆく」。
 3・11は東北と北関東の国々に壊滅的な打撃をもたらし、いま凄惨な春の国を迎えつつあるけれど、日本人はその春の国々の惨状にやっと「クニ」を思い出したのだ。ということは? そうなのである、どうも現在日本にはクニが欠乏しすぎていたわけなのだ。
 夕方、目の焦点が合いにくくなっているので、目薬を買いに出て、ついでにコンビニで「文芸春秋」5月特別号を入手、近くの珈琲屋で目を通した。「東日本大震災・日本人の再出発」の特集だ。41人の“叡知”が「われらは何をなすべきか」という提言を寄せている。
 たとえば佐野眞一・佐藤優・辺見庸・岸田秀など、なかには本質の一部を鋭く衝いたものもあるにはあったが、最初に川島裕侍従長が綴った「天皇皇后両陛下の祈り・厄災からの一週間」を慈雨のように読んだためか(いささか涙ぐんでしまった)、その次に麻生幾の「無名戦士たちの記録」や陸前高田の戸羽太市長の「波こそわが墓標」を読んだせいか、これらのあとに目を通した提言集からは、残念ながら「クニの将来」は浮上してこなかった。
 それにしても「月刊文春」の編集力はあいかわらず凄い。特集だけじゃない。柳田邦男の「問われる日本人の想像力」、福島県三春に住む玄侑宗久が「なぜ安定ヨウ素剤を飲んだか」という話、石川正純・岡本浩一の「本当は一年かかる原発処理」、さらには立石泰則の「さよなら!僕らのソニー」や池上彰が何人もの専門家たちとの対話を通して案内している特別企画「試練を乗り越える信仰入門」など、若い世代がぜひとも読むといい。
 ということで、喫茶店から戻ってやっとその気になって、この「千夜千冊」を書くことにしたわけだ。初めて雑誌をとりあげることにした。ま、番外録だからいいだろう。

 

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「天皇 皇后両陛下の祈り・厄災からの一週間」
(文芸春秋 五月特別号)

 

 ところで、文春の「われらは何をなすべきか」で、川勝平太(225夜)静岡県知事が『方丈記』の同じ箇所にふれていた。もっとも川勝さんは、『方丈記』の地震のあと、東国に新勢力があらわれて首都機能が鎌倉に移ったということを強調していた。
 川勝さんは阪神大震災のときに、神戸の県庁を“丹波の森”に移すことを提案した人だ。それが機縁で1995年から国土審議会委員に呼ばれた数年間では、今度は「21世紀の国土グランドデザイン」を提唱した。そのときすでに日本を4圏に分け、首都移転機能を含めた「多自然居住地域群」を構想していた。
 というようなことを書いていたら、テレビが石原慎太郎都知事のインタヴューを見せていた。「東京は日本のダイナモで、これがおかしくなれば日本は吹っ飛ぶんだから、ちゃんと防災してみせるよ」「その前にパチンコ屋と自動販売機の電気を消せばいいんだよ」という豪語だ。川勝さんの“ポスト東京”とは正反対な東京主義である。
 その東京の“話ついで”になるが、矢部史郎に『原子力都市』(以文社)があって、これがなかなか意味深長だったので、一言、紹介する。
 エッセイ集で、中越沖地震が震度6強で柏崎刈羽原発を襲ったあとの柏崎を訪れた話から始まっている。柏崎が10万人に満たない小さな都市であるのに、大学が2つ、地方紙が3つ、そのほか農業も漁業も工業も娯楽も観光業もすべて揃っているにもかかわらず、柏崎の住民たちですら自嘲気味に「ここには何もない」と言うことの意味を観察し、そこが「見えない東京」になっていること、日本中にそのような「原子力都市」がはびこっていることを描いていく構成になっている。
 矢部はそうなった理由を「過剰と欠落がない」とも、「difference(差異)が蒸発し、indifference(無関心)が覆っている」とも書いていた。
 なるほど、柏崎刈羽原発や福島原発は、東京の電力の一部を原子力発電都市として担っているのだから、東京なのである。そこは首都圏の電力エネルギーのバックヤードであり、政界と東京電力のシナリオに乗った「擬似トーキョー都市」なのだ。それにもかかわらず柏崎が住民に「何かの見えなさ」をもたらしているのは、この都市が地域都市から原子力都市に変貌してしまい、それゆえその原子力都市の情報管理が「嘘と秘密を全域的にも恒常的にも利用する」ようになってしまったからだった。
 矢部によると、このような「嘘と秘密の大規模な利用」は人間と世界との関係そのものを変え、「感受性の衰弱と無関心の蔓延」を促進するという。なぜそんなふうになるかといえば、巨大な“indifference”が都市の新たな規則そのものとなっていくからである。
 そのほか、本書は上九一色村、呉、むつ、硫黄島、厚木、広島などを登場させている。ほかに、タクシーが荒む京都、巨大ベッドタウンとなった川口、臨海都市開発の先兵になりつつあるのに大相撲を失っていく両国、ハイテクポリスの先頭を切るための圏央道の筑波ジャンクション、などもとりあげていた。いずれも矢部が本来の都市を失っていると見なした日本だが、気になるようならば読まれるといい。けっこうヤバイ本だった。

 

 

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東日本大震災から一ヶ月たった仙台市若林区荒浜地区の様子。
がれきが少しずつ整理され、遠くには市中心部の明かりが見える
(朝日新聞 2011.4.11)

 

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