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Channel: 松岡正剛の千夜千冊

アーリア人

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別番 いよいよ今夜から「連環篇」に戻るんですね。久しぶり。

半東 『遊牧民から見た世界史』(1402夜)以来。

校長 うん、あの3・11以降、やっぱりこれは〈現在〉につながる本を書くべきだと思って「番外録」を走らせることにしたわけだから、約3カ月半ぶりの再開かな。

半東 でも校長の「千夜千冊」はいつも〈現在〉につながっているんじゃないんですか。とくに〈歴史的現在〉に。

校長 うーん、そうは言ってもマグニチュード9・0と大津波と原発事故の連打はとんでもない〈現実〉だったからね。日本への挑戦だった。頬っかむりはできないと思ったね。いまでもそうだよ。

右筆 「番外録」で用意されている本がけっこうあるんですね。

校長 そうだねえ。東北論もまだまだあるんだけど、とくに原発論や日本再生論をね。

右筆 原発論ではいい本は出てるんですか。

校長 このところひとしきり見てみたけれど、やっぱり亡くなった高木仁三郎の『原子力神話からの解放』(講談社α文庫)や『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)は必須だろうね。でもそのほか西山明『原発症候群』(批評社)、堀江邦男『原発ジプシー』(現代書館)、森永晴彦『原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ』(草思社)なども紹介してあげたいね。

半東 有名すぎるけど、広瀬隆の『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社)や新著の『福島原発メルトダウン』(朝日新書)などもありますよね。

校長 あれはスジモンだ。『危険な話』(八月書館)このかた、終始一貫しているね。1996年の『腐食の連鎖』(光文社)など、地震と原発の連動性を早くから指摘していたしね。そのほか、かつてから話題になっていた木原省治『原発スキャンダル』(七つ森書館)、坂昇二・前田栄作『日本を滅ぼす原発大災害』(風媒社)とか、恩田勝亘『東京電力・帝国の暗黒』(七つ森書館)なども見逃せない。こういう本は先駆者だからね。ぼくはたとえ少数でも先駆者には敬意を表したい。そのうちとりあげるかな。

 

右筆 日本再生論のほうはちょっと見てみましたが、強烈なスマッシュはないみたいですけど‥‥。

別当 でもまあ、佐藤優の『3・11クライシス!』(マガジンハウス)を筆頭に、緊急出版ものもいろいろ出てきましたよね。大前研一の『日本復興計画』(文藝春秋)とか佐野眞一(769夜)の『津波と原発』(講談社)とか、

校長 いま日本の知識人たちが何を発言しているのか、何を考えようとしているのか、これはやはり要チェックだね。たとえば中沢新一(979夜)が「すばる」で3回連載して第八次エネルギー論を提言していて力作だったけど、さあ、あれでいいのかどうかとかね。それから野口悠紀雄はかつての『「超」整理法』なんかは大嫌いなんだが(笑)、今度の『大震災後の日本経済』(ダイヤモンド社)はよく書けていた。でも、やはり合理詰め。なんだか釈然としなかったなあ。いまは、小田実が阪神大震災のあとに書いた『被災の思想・難死の思想』(朝日新聞社)のような重みがないんだね。

半東 うーん、そうか。第八次エネルギー論っていうのは何ですか。

校長 エネルゴロジーの用語で、第七次が原発だね。第八次エネルギー時代は太陽エネルギーの媒介的変換の時代。中沢君はそこに贈与互酬性の社会とキアスム構造の社会の実現があるというふうに言っているんです。

半東 野口悠紀雄の提言っていうのはどういうものですか。

校長 自分で読みなさい。

方師 そうそう、そういう話ばかりしていたら「連環篇」にはいつまでたっても戻れない。校長は「番外録」を続けたいんですか。

校長 いったんは戻るんです(笑)。とはいえ大震災の余波と福島原発の危機的状況はあいかわらず予断を許さないだろうから、それに中東情勢もわが政権の動向も当分は目を離せないだろうから、ときおり「番外録」も交差させていきたい。

別当 ま、そこが校長のいいところなんですが、でも気分を変えて、再開「連環篇」の第1弾は何ですか。

校長 さすが方師や別当は仕切るね。すでに予告していた通りの青木健の『アーリア人』にしたい。

半東 『遊牧民から見た世界史』(1402夜)でスキタイ人などのユーラシア遊牧民の動向を書かれていましたが、そのつづきですね。

校長 つづきなんだけど、実はいろいろな暗合や符牒も感じていてね。「番外録」を書いているあいだ、とりわけ古代東北「陸奥」の負荷の歴史をふりかえった『蝦夷』(1413夜)を書いてからというもの、ぼくの〈歴史的現在〉のいくつもの目盛を示す針は「東北とユーラシア遊牧民のあいだ」をせわしなく揺動しつづけていたわけです。アザマロやアテルイや悪路王の伝承はあきらかにユーラシアのステップロードや東北アジアとつながっているように思えたし、擦文文化やオホーツク文化と交わっていた津軽安藤氏や中世アイヌの動向は北方ユーラシアや海のアジアそのものなのなんだよね。

別当 前夜の『義経の東アジア』(1420夜)がまさにそうですね。

半東 あれって、清盛から頼朝にいたる中世日本の「開国性と鎖国性」が実は東アジアの金や宋の王朝の動向と密接につながっていることを示していました。

別番 もっと義経の話を詳しく書いてもほしかった。ぼく、義経フリークなんです(笑)。

方師 俺も(笑)。義経ってロックンロールですよ(笑)。

半東 パンクかもしれない。

別当 まあまあ。あまり雑談に走らないように。「東北とユーラシア遊牧民のあいだ」のことを聞きましょう。

校長 連休中に東北の被災地に向かい、最初に釜石に降り立ってかつての「鉄の街」(新日鉄釜石の街)を見たときも、そこにパストラル・ノマドの影がひそんでいるように感じたんだね。釜石名物の「呑ん兵衛横町」はぐちゃぐちゃの瓦礫と化してはいたんだけれど、それはユーラシア遊牧民が無数につまりあげた小さなオアシスの崩壊とつながっていた。東北を北方ユーラシアから切り離してはいけないんです。

方師 そういえば校長は3月の別当会議で「東北復興は沖縄問題と一緒に考えるべきだ」とも言っておられましたね。

校長 うん、そう思っている。

 

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登場キャラクター

 

別当 では、そろそろ今夜の本題を(笑)。

校長 これはねえ、一言でいえば「いったいアーリア人とは何か」という問題です。問題はそれだけなんだけど、そのアーリア人がとても多岐に分かれているため、これがなかなか出入りが複雑きわまりないんだな。

半東 アーリア人って、紀元前3000年から1500年くらいの出現ですよね。ユーラシアのカスピ海や黒海のあいだの一角にあらわれた。

別番 遊牧民の元祖。

校長 元祖かどうかはべつとして、いろいろ移動した。それが多様で、広域にわたった。だからどこからどこまでがパストラル・ノマドのアーリア人なのか、その本流と分派の関係が掴みにくい。

半東 インド・ヨーロッパ語族の母体ですよね。

校長 言語学からいうと、そうなるね。そもそも大きくアーリア人を分けるとね、(A)ヨーロッパに入っていったグループと(B)イラン・インドに入っていったグループがいたわけです。それぞれが古代ユーラシアの特色をつくっていったので、これをさかのぼって(A)+(B)という母体があったというふうにみると、その母体がのちに言語学的にはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)と名付けられたマザーだったということになる。

別当 インド・ヨーロッパ語族って言ったって、その系譜はかなり広いですよね。

校長 そう、それについては今夜の本では紹介できなくて、できればコリン・レンフルーの『ことばの考古学』(青土社)という古典的名著から、それを発展させたピーター・ベルウッドの『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会)あたりをとりあげて論じたいこところだね。でも、今夜はムリだ。

半東 農耕起源? 農耕と語族とが関係あるんですか。

校長 あるね。ベルウッドが言ったことは、西アジアに発生しただろう農耕が地球上に広まっていったのは、語族の広がりと重なっていたんではないかという仮説だね。農耕の発散と語族の系譜はつながっているんじゃないかということです。でも、その話はまたにしよう。それに「千夜千冊」ではまだセム語族の問題とかアルファベットの起源とかをちゃんと扱っていないから、そのうちまとめて紹介するよ。

別当 はい、たのしみにします。で、話を戻して、さっきの(A)と(B)はどうなっていったんですか。

校長 ヨーロッパに入っていった(A)のグループはやがてゲルマン人の起源だとみなされるんです。そしてヨーロッパ3000年の歴史に白色人種の誉れを伝える“アーリア神話”をつくりだしていった。一方、(B)のグループのほうは、一方では火と水の誓いを生んだイラン民族系となり、他方はインダス文明崩壊のあとのインド的な“ヴェーダの民”となった。(B)のグループはイラン系とインド系に分かれるんだね。

別番 その話はうんと前の『空海の夢』(春秋社)でもふれられていましたね。アフラとアスラの分化。

別当 イラン系のアフラ(アフラ・マズダ)とインド系のアスラ(阿修羅)。あれは衝撃的だった。

校長 でも、あのときの見方はごくごく大づかみでね、そこには実にめまぐるしい草原と砂礫の民の交代がおこっていたんだね。

 

半東 校長、アーリア人とは何かという問題って、ヒトラーのアーリア信奉と結びつくんでしょう?

校長 それが“アーリア神話”だね。

別番 俗説ですよね。

校長 そうね、かなりあやしい。白色人種の祖先がアーリア人である。それは金髪・碧眼・長身・細面というすばらしい特長をもっている。世界で最も優秀な民族であり、したがってヨーロッパン・アーリアンはヘレンラッセ(支配種族)なのであるというものだね。ようするに「白いアーリア人が人類最古の血を引いた最優秀人種だ」ということをヒトラー・ナチスは強力に鼓吹した。
これは人類学的にも遺伝学的にもむろんデタラメもいいところなんだけど、実はこの手のアーリア神話はナチスだけではなく、欧米の長きにわたる民族イデオロギー史のなかで稠密に用意されてきたものでもあったんです。たとえばヤーコプ・グリム(1174夜)の『ドイツ人の歴史』は骨の髄まで政治的な著作なんだけど、そこで主張されているのは「ヨーロッパの大半の民族や部族は親族関係にある」ということだった。こういうふうに、ヨーロッパ人のルーツとしてアーリア人が想定されてきたわけです。

別当 純血主義と優生学。

校長 そう、それだね。ただ、そのアーリア人がはたしてその後のどの民族や国民に“純血”をつないできたかということについては、ヨーロッパの中では決して一致を見なかったわけだ。こういう論争がヨーロッパの歴史ではしょっちゅうおこっていた。

別番 ふーん、ナチス以前から?

校長 そう、ずっと以前から。たとえばドイツ人のことを例にすると、イギリス人は「ジャーマン」と呼び、スカンディナビア人は「サクソン人」と呼び、ロシア人は「ニェームツィ」と呼ぶよね。それからイタリア人は「テデスキ」と呼ぶ。ドイツ人自身は「ドイッチェ」を好んできたけれどね。そういうふうに、それぞれ勝手な各国事情が民族ルーツを競いあって、互いの呼び名を争ってきたんです。
どの国のどの民族をどうみなすかということは、ヨーロッパにおいてはアイデンティティの競争であり、それってアーリア権の争奪なのです。そのへんのことはレオン・ポリアコフに『アーリア神話』(法政大学出版局)という熱意と検証に満ちた一冊があるので、近々紹介したい。これはかなりおもしろい。

 

方師 いま思い出したんですが、白色人種が黄色人種を蔑んだけれど、そこにもアーリア神話が入っていましたよね。

半東 19世紀末から「イエロー・ペリル」(黄禍論)の汚名を強引にかぶせられましたからね。

校長 そうだね。その黄禍論もいつか千夜千冊したいね。ともかく、そういうことも手伝って、アーリア人とは何かという問題については長期にわたっての捏造学説が多いんです。だからこの手の本は、これまで日本人の研究者のほうにはほとんどなかったといっていい。俗説にまみれていた。本書が初めての本格的な一般書のお目見えだったかもしれない。

右筆 へえ、そうなんですか。青木健ってどういう著者ですか。

校長 ぼくは会ったことはないけれど、この人は1972年生まれの東大イスラム学科出身の気鋭の研究者だね。けっこう若い。すでに『ゾロアスター教』(講談社選書メチエ)、『ゾロアスター教の興亡』(刀水書房)といった著書があるように、もともとはゾロアスター教の専門家です。
ぼくもゾロアスター教については「千夜千冊」でメアリー・ボイス(376夜)を紹介したおりに、著者の先生筋にあたる伊藤義教さんの研究成果などにふれてきたけれど、そもそもゾロアスター教を見るということは、その背後のイラン系アーリアの歴史と民族と文化のすべてを引き取って見るということでね、青木さんはそれをみごとにやってのけたわけです。
ただし、本書では(A)(B)のすべてを扱っているんではなくて、(B)のイラン・インド系グループの、とくにイラン系アーリアを中心にとりあげています。それでもかなり複雑だけどね。

 

別当 では、そろそろ本論に(笑)。

校長 そうだねえ、どう説明するかな。えーと、まずおおざっぱなことで言うと、「ウクライナ平原でスキタイ人が動いた」ということだね。これでいろんなことが始まったということです。スキタイが黒海の北あたりから東に動いて、サルマタイ人を押して「塞」の民とした。そこへ中央アジアに匈奴があらわれて広大なユーラシアを席巻していった。
で、その一部は西に向かってフン族としてヴォルガとドンとドニエプル川を渡り、いわゆる「ゲルマン諸民族の大移動」となったわけだ。別の一部は匈奴のままに春秋戦国期の中国に向かい、中国側からは脅威の異民族として東夷・南蛮・西戎・北狄などと呼ばれた。とりあえずは、そういう大きな図を思い浮かべてほしい。

右筆 スキタイが最初ですか。

校長 いや、先行者がいた。イラン系アーリア遊牧民で最初に確認できているのは、前9世紀のころにウクライナ平原から西アジアに移動したキンメリア人だね。続いてそのウクライナ平原にスキタイ人が登場して、天幕に移動式の幌車をつけ、馬を駆って前後左右に移動するようになった。さらに前6世紀になると中央アジアでサカ人が出没した。サカ人は鹿(サカー)をトーテムとした部族です。

右筆 キンメリア、スキタイ、サカ‥‥。何が違うんですか。

校長 みんなパストラル・ノマドだけれど、これらがまったく別々の民族や部族かどうかは、実はまだはっきりしない。似たような民族の部族ちがいが戦ったのかもしれません。というのも、キンメリア人やスキタイ人を観察したのがギリシア人で、サカ人を観察したのがペルシア人であるからです。お互いに表現がちがうんでね。でもキンメリア人はホメロスの『オデッセイ』にも言及されている。その後のギリシア語文献でも「冥界(ハデス)の入口を守護する民」とみなされた。ギリシア人にはかなり怖がられていたんでしょう。ひょっとするとアッシリア帝国の周辺にいたのかもしれません。

右筆 スキタイって遊牧騎馬民族ですよね。黄金のバックルなんかで有名な一族ですね。

校長 そうだね。キンメリア人を撃破したのがスキタイ王のマドイェスであるということはわかっています。馬を駆り、竈の女神タビディを信奉し、柳の枝を束ねて占う占術師を連れ、エナレエスと呼ばれる生殖能力のない司祭たちを伴っていた。宦官かもしれないし、オカマだったのかもしれない。変わってるよね。
このような特徴は東アジアの遊牧騎馬民族にも大きな影響を与えている。白川静さんが『詩経』と『万葉』に柳の枝が川上から流れてくる呪能を書いているのは、ずっとさかのぼればスキタイからの共鳴だったわけですよ。

半東 ステップロードを東アジアに向かって疾駆する姿が彷彿としてきます。

別当 新薬師寺の十二神将?

半東 決してロックンローラーじゃない(笑)。

方師 でもステップローラーだった(笑)。それにしても校長は遊民学がお好きだからスキタイは気になったでしょうね。

校長 そうだね。40年前に雑誌名に「遊」を冠したぼくとしては、パストラル・ノマドの本家ともいうべきスキタイの遊牧歴史的な実態をなんとか掴みたかったのだけれど、なかなか結像しないままにきましたね。いまでもわからないことが多すぎる。それでも最近になって雪嶋宏一の『スキタイ:騎馬遊牧国家の歴史と考古』(雄山閣 2008)という大きな一冊に出会えたので、もう少し詳しいことを見ている最中です。

 

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イラン系アーリア人遊牧民の活動の舞台
(キンメリア人、スキタイ人、サカ人)

 

別番 キンメリア、スキタイ、サカのあとはどうなりますか。

校長 舞台はやっぱりウクライナ平原なんだけれど、前3世紀ころ、ここに東方のサルマタイ人が出現して覇権をとるんです。この交代が大きくて、中央アジアのサカ人の一派がイラン高原のほうへ動いていったんだね。これがパルティア人です。で、中央アジアに残ったサカ人のほうは中国から塞族と呼ばれていたのだが、そこへ大月氏が入って勢力を奪っていった。そしてインド亜大陸に動いていった。

右筆 そのころ中国はどうなっているんですか。

校長 さっき匈奴の一部が春秋戦国期の中国に向かって、中国側からは東夷・南蛮・西戎・北狄などと呼ばれたと言ったよね。そういう時代です。

右筆 そういう時代っていうと?

校長 想像するに、おそらく夷は夏王朝となり、これを狄の湯王らの殷王朝が襲い、そこへ戎に押された一群が周王朝を立てて、そこから秦が出現していったんだろうね。

右筆 南蛮は?

校長 楚が南蛮だろうね。でもこのあと匈奴は分裂する。分裂して、そのうちの東匈奴から南匈奴と北匈奴が派生した。中国は後漢の時代にこれを手なづけようとしてしきりに西域経営をするんだけれど、そんなことくらいでユーラシア遊牧民の力が衰えるわけではないよね。結局は八王の乱をおこし、中国は五胡十六国となっていくんです。遊牧民系も羯・羌・鮮卑・拓跋などの組み合わせによる連合軍をつくっていった。そのなかには匈奴王の單宇たちもいたのだから、かなりぐちゃぐちゃ。

別番 鮮卑、拓跋はその後の東ユーラシアの動向を握りますよね。

校長 そうね。鮮卑や拓跋は馬を駆って強力な軍事力をもって東アジアを縦横無尽に動き、ついには朝鮮半島にまで入っていったからね。そのうちの一部がさらに日本列島の北や南に紛れていくわけですよ。いわゆる天津神(あまつかみ)の一族。江上波夫さんが「遊牧騎馬民族が天皇の一族になった」と言った、あれです。はっきりそうかどうかは証明されていないけれど、おおざっぱにはその後にヤマト朝廷を形成の一族がかつてこういうふうにやってきたんだろうことは、当たらずとも遠からずだろうね。
でも、ヤマトの一族ばかりがやってきたわけじゃない。その一方で古代日本の蝦夷や隼人の伝承にも、そういう面影がある。

別番 鮮卑や拓跋の面影?

校長 うん、それは当然にありうるね。

半東 蝦夷やアイヌもですか?

校長 そのへんは別の議論が必要だ。オホーツク文化と擦文文化の関係とか、スキト・シベリア文化の影響とか。
でも、本書の主題はこの匈奴から鮮卑への流れの話ではないんです。匈奴は言語的にはアルタイ系の言語民族でね、のちの「テュルク・モンゴル系」(トルコ・突厥・モンゴル系)につながっていく。それに対して本書の主人公であるスキタイやサルマタイやサカを生んだアーリア人というのは、さっきも言ったように別の系譜に属するんです。それが(B)のイラン・インド系のアーリアなんです。

 

別当 校長、かなりややこしいです。何か一覧できる歴史マップや民族表はないんですか。

校長 地図も図表も何枚かに分かれるから、ぴったりしたものはないけれど、イラン系アーリアをざっとまとめれば、次のようになるかな。ひとつは遊牧民系で、もうひとつは定住民となったグループだね。

 

  ◎遊牧民系
    ウクライナ平原‥‥‥キンメリア人、スキタイ人、
              サルマタイ人、アラン人
    コーカサス山脈‥‥‥オセット人
    イラン高原‥‥‥‥‥パルティア人
    中央アジア地域‥‥‥サカ人、大月氏、エフタル
    インド亜大陸‥‥‥‥インド・サカ人、インド・パルティア人

  ◎定住民系
    イラン高原西北‥‥‥メディア人
    イラン高原西南‥‥‥ペルシア人
    イラン高原東北‥‥‥バクトリア人、マルギアナ人
    中央アジアA‥‥‥‥ソグト人
    中央アジアB‥‥‥‥ホラズム人
    中央アジアC‥‥‥‥(タリム盆地)ホータン・サカ人

 

右筆 ずいぶんいろいろな民族がいる。イラン系アーリアっていっても多様なんだ。

半東 どういうふうに見るといいんですか。

校長 上から順に見てください。このうち一番古いのがウクライナ高原で動いていたキンメリア人とスキタイ人で、スキタイによってキンメリアは史上から姿を消すわけです。でも、あまりにも忽然と消えたみたいなので、キンメリアはその後のヨーロッパ人に多くの想像力をはたらかせることになるんだね。キンメリア人こそが「白色人種の高貴な遊牧民の祖」で、それがのちに「黄色人種で野蛮な遊牧民の祖」であるフン族や匈奴と対比されることになっていった。

右筆 ああ、そういうふうな対比になるんですか。だからイエロー・ペリルもおこったんだ。

半東 消えたキンメリア人のあとは、スキタイが残りますよね。

校長 スキタイは、おそらく前7世紀ころにマッサゲタイ族に押されて中央アジアから西に向かい、最初はコーカサス山脈付近を拠点にしたと言われているけれど、そこにキンメリア人が“消失”したので、そこへもぐりこむかたちで黒海北岸のステップ地帯を牛耳ることになったんじゃないかと考えられてますね。本書はそういう説明になっていた。

半東 次のアラン人というのは?

校長 その前に、スキタイがイラン高原の西北部に南下を始めたとき、そこにいたのはメディア人だったんです。ただしここでは激突はおこらずに相互の混交がおこった。前672年にメディア王国がアッシリア帝国から自立したのは、メディア系とスキタイ系の混交力によっていたと言われるからね。

別番 メディア人って、メディア王国の?

校長 そうだね。メディア王国ってイラン系アーリア人が遊牧から定住になった最初の国家です。アッシリアを壊滅させたのもメディア人でしたからね。それならメディア王国は拡大し発展していったのかというと、そうはならなかった。次の西アジアの覇権はイラン高原の西南部を本拠とするペルシア人の掌中に落ちます。で、これ以降、7世紀にイスラムを掲げたアラブ人が登場するまで、セム語族がオリエントの政治的覇権を握ることはない。以降、なんと約1200年にわたって、イラン系アーリア人が西アジアを主導するわけです。

方師 そうか、ペルシア帝国がいったん入って、それを古代ギリシア人たちが観察するんだ。スキタイはヘロドトスの『歴史』に詳しいですよね。

校長 そうだね。古代ペルシア帝国の発展はすさまじい。先住のエラム人の力を組みこんで、前675年にパサルガタエ族の族長チシュピシュが政権を奪取は、アンシャンの町を首都としてとりあえずのペルシア王国を建国した。ついで前559年にキュロス大王が就任すると中央アジアに進出して、これがカンビュセス王に継承され、さらにそのいっさいの力がダレイオス大王に集約されていった。
このヘルシア王国がウクライナのスキタイを叩いたわけですね。それから巨大なペルシア帝国になっていった。

 

右筆 スキタイの影響は西のギリシアにも及ぶだけでなく、ユーラシアの東にも及びますよね。みんなスキタイ化していったんじゃないですか。

校長 それはいい質問で、ふつうならセンターに巨大な力が結集されると、それに似た周辺部が広がっていくんだけれど、この時期はまだユーラシアの勢力分布なんでスカスカだから、影響を受けないでさっさと動いていく連中がけっこういたんです。

右筆 スキタイから外れていった連中がいた。

校長 サルマタイがそうですね。サルマタイはこのスキタイの動きに追従しなかった。コーカサスを越えて西アジアに行くのではなく、東欧のハンガリー方面に侵攻してローマ帝国の北側を脅かしたんです。けれどもそのサルマタイも長くは君臨できなかった。版図も広げていませんね。

別当 どうしてですか。

校長 それがさっきのアラン人の動向と関係していた。

半東 アラン人って気になりますよね。

校長 1世紀前後にウクライナを動いていたアラン人たちがいて、それがサルマタイを駆逐したようだね。そのアラン人の動向は中国の『魏略』にも「阿蘭」としてのこっているんです。で、サルマタイがオリエントに関心を示さなかったのにくらべ、このアラン人は頻繁にコーカサスを越えていったんですね。

半東 アランって「アーリア」っぽい言葉ですよね。

校長 おそらくアーリアが転訛してアランになったんだろうね。

別番 アラン人とヨーロッパ文化の関係って、のちのちまで続くでしょう。アラン・レネやアラン・ドロンみたいに、ヨーロッパにアランの名が多いのはこの連中に肖ってのことだよね。

校長 さすがフランス文学の教授だね。そうです。ヨーロッパにはアラン君が多い。アラン・ロブグリエもアラン・ジュフロワも。そうなった経緯は、初期のアランの覇権が4世紀まで続いて、これを破ったのはいままでのようなイラン系アーリアたちではなくてフン族だったことが時代の転換点なんだね。テュルク系のフン族によってアランは四散した。
フン族はそれまでのアーリア系とは見かけもかなり異なっている。クレルモンの僧正シドニウスが「短躯で細い目と偏平の鼻をもち、ぞっとするような姿をしている」と書きのこしているんだけれど、それはアラン人が「長身で美形の金髪」と記録されてきたのとは、まるっきり正反対なんです。

右筆 フン族と匈奴は同じ系ですか。

校長 それがまだまだわからないことが多いんだけれど、モンゴル高原の匈奴の一派が西走してフン族を励起させたのだろうという説が有力だよね。ただ、それならそれで、ではその匈奴はどうやって出現してきたかというと、そこがまたわからない。内田吟風の有名な匈奴論や、それを批判的に継承した沢田勲の『匈奴』(東方書店)を読んだくらいでは、ぼくにもそのルーツはいっこうに見えてはきていません。

 

半東 四散したアラン人はどうなったんですか。例の4世紀半ばのゲルマン民族大移動のころの話ですよね。

校長 そうね。フン族によって蹴散らされたアラン人は、一派はヨーロッパに逃避し、他派はコーカサス方面に活路を求めたようです。ヨーロッパに行ったアラン人たちは、みんなも高校で習ったように、次々にトコロテン式に押されたゲルマン諸民族とともに一緒にまじって黄昏のローマ帝国領のあとに入っていった。ゴート族やヴァンダル族とともにライン河を渡ってフランスへ、さらにはピレネー山脈を越えてスペインに入り、一部はジブラルタル海峡を越えて北アフリカにまで達していったんですね。

右筆 みんなアラン君ですか。

校長 いやゲルマン諸族とまじってのことだ。そういえば「カタロニア」ってあるよね。あれもゴート系とアラン系がまじって合成された言葉です。

別当 コーカサスのほうに行ったアラン人のほうはどうなっていくんですか。

校長 あんまり移動しなかったみたい。山岳地帯に入って牧畜や農耕をするようになり、しだいにキリスト教に改宗していったようだね。現在のロシアに北オセティア共和国があったり、グルジア共和国があるね。そこに住んでいるのはオセット人というんだけれど、これがコーカサスを越えたアランの末裔だとみなされてます。オセットには「ナルト叙事詩」という独特の口承神話があってね、これが泣かせる。

別番 大相撲で賭博疑惑がもたれて各界を追放された露鵬、白露山、若ノ鵬とか、あれはみんなオセット人ですよね。

校長 ふーん、別番はそういうこと、詳しいね。

 

別当 ユーラシアの真ん中のほうはどうなっていきますか。中央アジアのイラン系アーリア。

校長 うん、ここにはパルニ族がいて、ずいぶん以前から遊牧ポリスのようなものを形成していたようだ。
パルニ族は前3世紀半ばにカスピ海の南岸一帯のパルサワで、新たな支配権をとっていてね、それがパルティア人です。パルティアの族長にアルシャクという男が出てきて、アルシャク王朝を建てます。で、重装騎馬隊を組織してまたたくまにイラン高原北部を蹂躙していった。さらにメソポタミア平原を領有し、ここにパルティア国家という巨大な遊牧王朝をつくりあげていく。パルティアは西アジアに勢力を伸ばしていったんです。

半東 クテシフォンですよね。

校長 最初の首都は今日のトルクメニスタンのニサーだけれど、6代目のミフルダート1世のときに力量がついて、8代ミフルダート2世のときにクテシフォンを造都した。これは盤石だった。その後のアルシャク家の支配はほぼ500年近く続くからね。

右筆 信仰は何ですか。

校長 コインを見るとわかります。アルシャク朝のコインは最初こそギリシア文字が刻まれていたけれど、のちにはパルティア語の刻印となり、それにともなってミトラ(ミスラ)神の像を彫りこんだ。ということは拝火壇をもつ信仰がさかんだったということだよね。これがゾロアスター教のヴァージョンとも取り沙汰されると、青木さんは書いていた。

別当 あのー、中国ではパルティアを「安息」と呼んでますね。

校長 そうですね。パルティアはのちのセルジューク・トルコの王朝の先駆体ともなっていく重要な集合体です。

別当 のちにササン朝になっていくのも、その集合体の変化でしたよね。

校長 アルシャク朝のパルティア人に代わって西アジアを支配する王朝は、なかなかあらわれなかったんだけれど、それが3世紀の始めにササーン家に率いられたペルシア人たちが勢力を伸ばして、アルダフシール1世のときにアルシャク朝を破ってクテシフォンに入場した。これがササン朝ペルシアです。西アジアが久々に統一された。

半東 そうか、ここでやっとササン朝ペルシアが出てくるんだ。

校長 ササン朝は統一言語によって王朝の公用語を発展させたという点と、ゾロアスター教を国教にしたという点で、かなり独特だよね。公用語はパフラヴィー語で、のちに中世ペルシア語として定着していきました。
しかし本書の著者はそれ以上に、ササン朝の皇帝たちが自身を「シャーハーン・シャー・エーラン」と自称していたことに注目しているんです。かれらは自分たちのことを「エーラーンの皇帝」つまり「アーリアの皇帝」と名のったし、その王朝についても「パールス・シャフル」(ペルシア帝国)ではなく、好んで「エーラーン・シャフル」すなわち「アーリア帝国」と呼ぶようになっていたんです。

別当 そうか、ササン朝がアーリア帝国なんだ。それにしても長い栄華でしたよね。

校長 それが破れるのはムハンマドのイスラムが席巻してからだからね。そしてウマイア朝やアッバース朝になっていく。

 

右筆 さっきの表では、イラン高原の東北にバクトリア人とかマルギアナ人が出てきて、さらに中央アジアにソグト人やホラズム人が登場したということになっていますね。

校長 バクトリア・マルギアナ複合文化っていうやつだね。この定住イラン系アーリアの歴史はなかなか複雑でね。でもそもそも「アーリア語」っていう呼び名は実はバクトリアから出てきた呼称なんです。

別当 へえ、そうなんですか。

校長 縄文から弥生後期までの日本人に似て、バクトリア人もマルギアナ人も文字をもたなかった民族なんです。だから文字資料もないので歴史変遷の中身がなかなかわからないんだけれど、それだけじゃなくバクトリア・マルギアナは政治的な自立をできないままにきた。

別番 文字がない国は政治的自立できないですよね。

校長 そう、その通り。だからバクトリア・マルギアナはいつも歴史の下敷きになって、そのOSの上にグレコ・バクトリア王国とかクシャーナ王朝とかが乗っかっていった。つまり「征服王朝」というかっこうになるんです。でもそうなってもまだ文字がないというわけにはいかないから、土着のバクトリア語をギリシア文字で表記する工夫をした。ちょうど漢字で万葉仮名をつくったようにね。それが「アーリア語」なんです。

別当 へえ、これはバクトリアに親しみがわいてきた。

右筆 クシャーナ朝って仏教を交流させた王朝ですよね。カニシカ王。それもバクトリア系なんですね。

校長 カニシカ王は2世紀になってからだけど、その前にクシャーナ族の大王(カドフィセース1世)がバクトリアのOSの上に王朝をつくったんです。クシャーナ族というのは中国流にいうと大月氏の一派だね。大月氏はグレコ・バクトリア王国を滅ぼしたのだろうと見られています。

半東 バクトリアとかソグディアナのあたりの地理は複雑ですよね。

校長 複雑だけれど、超重要だね。アム・ダリヤー河とシル・ダリヤー河の2本の河が中央アジアのオアシスやシルクロードの原点になるからね。その2本の河の真ん中にサマルカンドとブハラがあって、アム・ダリヤーの上流がバクトリア地方、アム・ダリヤーとシル・ダリヤーのあいだがソグディアナ地方です。まあオアシス都市国家群のセンターでしょう。

別当 「胡風」というのは、ここですよね。

右筆 胡座(あぐら)とか胡服とか。

校長 ソグド人にはゾロアスター教もけっこう栄えたんだよ。あとマニ教とかも。

別番 それらもいずれはイスラム文化の中に入っていくんですね。

半東 そのへんについてはすでに「連環篇」が書いていました。やっとこれでつながったんですね。

校長 半東らしくフォローしてくれた。

半東 で、次は何ですか。

別当 ま、そう急(せ)かないで。

校長 原発に急変がないかぎりは、アーリア神話にしようかな。

 

   

 


アーリア神話

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 戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱら「アーリア人かセム人か」というふうに区分されていた。おおかたの諸君が知ってのとおり、ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺された。あれって、いったい何だったのか。ファシズム思想がもたらしたものなのか、たんなるヒトラーの狂気のせいなのか。
 ヒトラーは『わが闘争』に「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし実は、ヒトラーがこのように断言できたのは長い前史があったからだった。
 キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、ヤペテ、セム、ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきた。ところがここにいつのまにか、ヤペテの子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人になっていったという俗説、あるいはまた、ハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、ヤペテは貴族の祖先だという鼻持ちならない俗説が、どんどこ加わっていった。
 これがアーリア神話だ。その後にこの俗説がどのように変遷していったかはのちに少々案内するけれど、ようするにヒトラー以前に、アーリア神話はとっくに、しかも多様に確立していたのだった。

  本書は、ぼくがこれを読んだ時点では、この手の議論に分け入った唯一の成果だった。目からウロコが2、3枚、落ちた。ただし著者のレオン・ポリアコフ一人の業績ではないようだ。
 1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、かのノーマン・コーン(897夜)の主導による「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究が開始した。ポリアコフはその恩恵に広く浴したらしい。コーンが提示した研究対象は、魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダヤ人虐殺にまでおよぶもので、本書はその討議と研究の成果の最大の結実だった。
 それまで、どのようにアーリア主義が謳歌され、いつどこでアーリア神話がでっちあげられ、それがヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか。そこにはどれほど多様な前史があったのか、誰も全容を掴めないでいた。そこに本書が登場した。ポリアコフの記述と解説は残念ながらかなりまわりくどく、やや文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめていて、この難題に大きな方向性を与えた。
 ぼくはこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。ヨーロッパにおける民族主義と人種主義が入り組みすぎていて、なかなかその核心が掴めなかったからだ。
 だからうまく案内できるかどうかはわからないが、本書の記述にあらかたしたがって、まずはスペイン、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロシアの順にその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように超シナリオになり、それがヒトラーの言説にまでなっていったのか、その概略をマッピングしてみたい。
 これまでヨーロッパや「セカイ」について諸君が抱いてきたイメージや知識が、かなり粉砕されるのではないかと思う。

 スペインの歴史は711年のイスラム侵入とその後のレコンキスタによってその前の歴史が忘れられがちであるが、もともとはローマ帝国が土着文化を消し去ろうとし、そこへ西ゴート族とヴァンダル族が侵入したことによって変質していたと見たほうがいい。つまりスペインはもとから積極的に“ゲルマン化”していった国土だったのだ。
 カロリング朝以前のヨーロッパで最も学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的な理論家でもあったから、スペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化した。すると、ここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。
 スペインのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」のことだとみなしている。そもそもルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽいとは)、自由であって、かつ野蛮でもありある両義性をもっていた。それゆえセルバンテス(1181夜)は『ドン・キホーテ』の冒頭に「高名で光輝あるゴート人ドン・キホーテ」と示したものだった。
 こうしたゴート認識を媒介にして、18世紀には古代スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイスラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「レコンキスタ的なイデオロギー」も関与した。

 フランスにとって「ゴート」に匹敵するのは「フランク」である。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味をもった。
 そもそもフランスからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフランク人になったのである。それがカロリング朝以降はフランク人の王が大陸の主人公となり、それにつれてオットー・フォン・フライジングの有名な『年代記』のなかで、ドイツ人はフランク人の分枝とみなされた。なんともフランスらしい矜持だった。
 これでシャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たることを自信をもって公称できた。吹聴できた。シャルルマーニュは親しい近臣には自分のことをダビデと称ばせていた。
 しかしドイツ人からすれば、ゲルマンの魂、すなわちアーリアの血をみんなフランク人がもっていくのは許せない。ドイツ人はタキトゥスの『ゲルマーニア』を論拠に、シャルルマーニュをフランス化したことを詰(なじ)り、ライン河のこちらにこそアーリアの起源があることを主張した。
 こうしてルネサンス期にはフランスとドイツ両者の言い分が早くも大いに食い違ってくるのだが、ここにフランソワ・ド・ベルフォレの『わが祖先ガリア人』(1580年代?)が刊行されるにおよんで、そもそもガリア人こそがフレンチ・アーリアの起源であるとの評判がたち、ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリア人の優越を強調するようになっていった。
 が、そうした論争を尻目に、太陽王ルイ14世が登場すると、フランスはゲルマンの系統樹もフランクの系統樹もなべて配下にしてしまったのである。かくて17世紀のジャン・ラブール神父以降は、「元来、フランス人は完全に自由で、完全に平等なのである」というふうになり、これがサン・シモンにもモンテスキューにも伝染していった。モンテスキューは古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいる。

 この手放しのガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家ヴォルテール(251夜)だった。ヴォルテールはフランスにはフランクの家系を引くものなどひとつもないと言ってのけた。
 一方、同じ啓蒙派でもディドロ(180夜)のほうはこれを緩め、あえて語源を持ち出して、「フランク、フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であることを仄めかした。
 しかしフランス革命は、これらの議論をいったんご破算にした。フランス革命は「抑圧者ローマ人、被抑圧者ガリア人、解放者ゲルマン人」という三つ巴の構図を現出させ、これをさかんにふりまいたのである。民族の歴史から見たフランス革命とは、そういうものだった。フランソワ・ギゾーはこれを集約して、「フランス革命は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それが領主と農民の、貴族と平民の対立で、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。
 フランスのアーリア神話はかなり混乱していたわけだ。フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジュール・ミシュレ(78夜)さえ(ぼくが好きなあのミシュレさえ)、「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ人(古代ベルギー人)、イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が肥沃になっていって、ケルト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人がそこへ最期にやってきたのだ」と書いた。

 イギリスとは何か。
 ぼくは『世界と日本のまちがい』(春秋社)に、イギリスのいくつかの過誤を示しておいたけれど、もともとイギリスにはそのような過誤を演出せざるをえない事情がひそんでいたともいえた。
 11世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、そして最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんなイギリス島に来ていたのだ。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったろう「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境い目が曖昧になっていった。諸君が後生大事にしている「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語なのである。それゆえOED後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正」(フェアネス)や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があった。

 ところで、それにあたってイギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。こんなちゃっかりした民族はない。
 ちなみにもっとちゃっかりしているのは、このイギリスから派生したアメリカ人で、そのことはトマス・ジェファーソンがアメリカ合衆国をつくりあげた起源神話として、ひとつはサクソン人の首領ヘンジストとホーサによる海洋横断をあげ、もうひとつにユダヤ人による砂漠横断をあげたことにあらわれている。
 しかし実際には、ブリトン人は自分たちの「最初の横断」のことなどすっかり忘れていた連中だったのである。そこでやむなく、セビリアのイシドルスの記述に従って(またもや!)、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」という名を選び出し、これをせっせとヤペテの系譜につなげたのだ。
 かくて8世紀のベーダがそのようなイングランド史を書くことになったのだが、そのテキストのおかげでベーダは“イギリス史学の父”と呼ばれた。ベーダは「ジュート、アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」とも書き加えた。
 もっとも、この系譜はのちに書き換えられていった。それはアルフレッド征服王の“史実”を正統化するための変更だった。そしていつのまにか、あらゆるゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン族のみが(つまりはアングロ・サクソンのみが)、最高神オーディンにまでさかのぼりうる系譜をもっているとともに、セムの系譜に直結しているというふうになったのである。

 こうしてイギリス人はヤペテの系譜ではなく、ノアの長子のセムの系譜のほうに位置づけられたのだ。アーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその線でかたまり、その後のイングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」であることを誇るようになっていった。

 ヘンリー8世も、クロムウェルやジョン・ミルトンのようなピューリタン派も、さらにはウィリアム・ブレイク(742夜)でさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意を抱いたことには驚かざるをえない。
 さっそく、イギリス人とユダヤ人を積極的に結びつける理屈がいろいろ試みられた。ジョン・トーランドの『大ブリテン島およびアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由』(1714)は、そういう一冊だった。逆に、そんな安易な選択に反対するウィリアム・プリンの『イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論』なども出回った。
 しかし近代に向かってイギリス人の血を沸き立たせたのは、なんといってもウォルター・スコットの『アイヴァンホー』と『ウェイヴァリー』だ。『アイヴァンホー』は12世紀のイングランドを舞台にした熱血小説で、『ウェイヴァリー』は1745年のジャコバイトの反乱を素材に若い草莽の血を描いたもので、それぞれ英国浪漫を滾(たぎ)らせた。
 ここにおいて、イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙し、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまったのである。

 イタリアを、フランスやイギリスやスペインと同断の視点でみるのはやめたほうがいい。そのことはファビオ・ランベッリの『イタリア的』(1158夜)でもある程度の見当がつくだろう。
 むろんイタリアの地でも多くの部族や民族が通過していった。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人などだ。
 しかしイタリアは、フランスやイギリスとちがって、これらの民を決して自分たちの歴史の中心に組みこんではこなかった。イタリアはつねにウェルギリウスが描いた「アエネーアスの物語伝統」と、そこから国が築かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなるイタリア性も別の国々から援用してはこなかった。

 イタリアにはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえば“ロンバルディア神話”といったものは一度も現出しなかった。どだいロンバルディアは「ロング・バルブ」(長い髭)という以上の意味をもってはいなかったのだろう。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何の装飾も加えなかった。
 こうした純血イタリア主義ともいうべきをルネサンスに向かって派手に確立させたのは、イタリア起源神話の流れに最も貢献したダンテ(913夜)であろう。そのことは『神曲』がウェルギリウスの案内による世界巡りになっているということにも、シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第9獄に配下されていることでも、よくわかる。
 いいかえれば、ダンテはイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さなかったということだ。ダンテだけではない。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオ(1189夜)も、その代表作『著名男子列伝』や『異教神系譜』に一人の古代ギリシア人すらとりあげなかった。
 以来、イタリアはマッツィーニが「第3のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。

 では、ドイツである。
 ふつう、イタリアが「個人主義と懐疑主義」に片寄るのなら、ドイツは「群衆心理と熱狂」に加担してきたと言われてきた。しかしニーチェ(1023夜)が言ってのけたように、「ドイツ人を定義することなど不可能なのである」。
 そもそもドイツ人には「ゲルマンの初期」と「大ドイツの初期」とのあいだに断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのかというのなら、ドイツ(Deutsche)という語そのものの語源が示しているように、ドイツは多様な部族間の言語的共同体あいだの中から生まれてきたものなのだ。
 この部族間の言語的共同体のあいだこそは、ドイツのナショナリズムの起原となる原郷なのである。これを真っ先に称揚したのは、誰あろうマルティン・ルターだった。ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う一書』に明白だ。
 こうして1780年、プロシアの政治家フリードリッヒ・フォン・ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルクであって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってのけるにいたる。これが何を意味するかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルがそれをドラスティックに示唆したのだが、「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」ということなのである。
 もうひとつドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたということで、それはオットー大帝が即位した962年にすでに、大帝の信頼を一身に浴びたクレモナのリゥトプラント神父が次のように断言したことにあらわれていた。「われわれ、ロンバルディア人、サクソン人、フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、ローマ人にたいしてきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現しようとするとき、われわれは敵を罵るのに、ローマ人という言葉を使うのである」。

 ドイツはその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」をかこってきた。そう、言える。
 しかしながら、こんな「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものがそうそう現実にあるわけがない。それはたえず“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるをえないものだった。しかもその程度の共同幻想は、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであったように、ふつうならどこかで歪むはずである。
 ところがドイツにあっては、それが宿敵フランスとの対立対比が歴史上たくみに作動して(三十年戦争など)、ついに崩れることが避けられてきた。その最も顕著な例がナポレオン戦争によって、クラウゼヴィッツ(273夜)のドイツ・ストラテジー(戦争論)が確立し、フィヒテ(390夜)の『ドイツ国民に告ぐ』が熱狂的に受け入れられていったことなどにあらわれた。
 「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という勝手な共同幻想も、大ドイツ主義の形成にあずかった。のみならず、このことは「ドイツ人の世界精神」という観念をいつのまにか肥大させ、疾風怒濤のシラーがまさにそうであったけれど、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想にまでふくらませていったのである。

 これらがやがてワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていくのだが、そのことについてはのちにふれる。

 ロシアには長らく5つの伝承が組み合わさってきた。ロシアという名称の起原となった「ルーシ」の伝承、スラブ族としての伝承、キエーフの年代記がもたらすネストルの伝承、各種の民俗習慣やロシア正教の伝承、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承である。
 これらの伝承はしばしば「ウラジミール公たちの伝説」というふうに束ねられていたけれど、実際にこれらのいくつもの伝承が一つに向かっていく結節点となったのは、1472年にイヴァン3世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚したことだった。こうして国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、それにふさわしいモノマクの王冠(白い三重宝冠)が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされた。
 そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝)による、「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった」という宣言だ。雷帝はここにロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもつようになった。
 この路線を拡大したのはピョートル大帝である。大帝は、1700年前後の北方戦争で領土を著しく広域化すると、西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア絶対主義を築いた。しかしいくらピョートル大帝が夜郎自大なことをヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人とはアジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入したフン一族の末裔にしか見えなかったのである。
 が、こんなひどい侮辱は吹き飛ばさなければならない。それに着手したのはピョートル3世に嫁いでこの愚鈍な夫を放逐したうえ殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していったエカテリーナ女帝だった。3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り、フランス革命を憎んだ稀代の女帝は、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にはスラヴォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほどになっていた。池田理代子の傑作マンガ『女帝エカテリーナ』(中公文庫コミック版)などを読まれるといい。
 こうして、さしもの不毛の地を多くかかえるロシアにも、カラムジの『ロシア国家の歴史』や国民詩人プーシキン(353夜)の歴史観などが出回るようになっていく。
 しかし実際には、プーシキンの友人だったチャダーエフが『哲学書簡』に述べたように、ロシアの唯一の特異性は「無」の中にひそんでいたのかもしれない。ロシア革命前のナロード・ニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャダーエフの暗示は当たっていたようにも思われる。

 以上が、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“前提”のためのプレ言説たちである。
 これらは各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説ではあるが、それが奇っ怪にも、しだいに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていったのだ。なぜそんな驚くべき超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッパ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていったからだった。
 人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義がもたらされていた。10世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が先行していたことを主張した。
 以来、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案されていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことで、それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で、立案された。
 たとえばパラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、アダムという3つの祖先をもっていた」と説いたのだ。イギリスでは詩人のクリストファー・マーローや数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。
 こうした言説がアーリーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関する神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったんご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると強調した。
 これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動かし、パスカル(762夜)は一笑に付した。

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということができる。人類複数起原説である。
 お歴々の思想家たちにも人気があった。異説が好きなホッブス(944夜)、スピノザ(842夜)はむろん、後期ヴォルテール(251夜)も後期ゲーテ(970夜)も加担した。
 しかし、いざこの仮説を現実社会にあてはめようとすると、難題が待ちかまえていた。その難題に最初に出会ったのがスペイン人だった。南米を侵略したスペインがここで原住民を布教することになったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見るかで布教方法が論争になったからだ。
 ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カサスはインディオをアダムの末裔とみなし、その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2世も同意した。ということは、ここでは「複数創生説」は破れたのだ。
 ところが他方、スペインから奴隷労働力として南米に連れていくことになったアフリカの黒人たちについては、かれらはぬけぬけと複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」(黒いアビシニア)を区別した。インディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いインディオと対比させることには、あきらかに矛盾があったにもかかわらず。

 そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献した一人のシナリオライターが『ノアの方舟あるいは諸王国の歴史』(1666)を書いたドイツ人のゲオルギウス・ホルニウスである。
 ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になったとしたのだ。歴史学も神話学も取り乱しはじめたのだ。
 やがてスペインの時代がオランダに移り、それがイギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”をからめることが流行した。ラ・フォンテーヌはそうしたイギリス人の趣味を、「いたるところで科学の王国を広げているイギリスのキツネ」と呼んだ。アーリア人種は「科学の王国の住民」にもなったのだ。

 近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲学論が、人種についてはそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたことについては、もっと知っておいたほうがいい。
 ジョン・ロックは「猫とネズミをかけあわせた動物」がいるだろうように世界の人種を見ていたし、レオミュールは「ニワトリとウサギのかけあわせに類する実験」のあれこれに成功したとフランスでは信じられていた。「最小作用の原理」を確立した数学者で、ベルリンアカデミーの会長だったモーペルテュイは、皮膚の白さと黒さを比較することがきっと人種の優劣を決める科学になりうると考えていた。
 なかで最も有名な過誤を犯したのは、かの分類学の泰斗のカール・リンネだったろう。その『自然の体系』にこっそり“人間”の項目を入れたリンネは、大胆にも次のように人種分類をしてみせたのだ。
 

   エウロパエウス・アルブス(白いヨーロッパ人)=白くて多血質。創意性に富み、発明力をもつ。法律にもとづいて統治される。

   アフリカヌス・ルベスケウス(赤いアメリカ人)=赤道色、短気。自己の運命に満足し、自由を愛する。習慣に従って自身を統治する。

   アジアティクス・ルリドゥス(蒼いアジア人)=黄色っぽい、憂鬱質。高慢、貪欲。世論によって統治されている。

   アフェル・ニゲル(黒いアフリカ人)=黒くて、無気力質。狡猾、なまけもの、ぞんざい。主人の恣意にもとづいて統治されている。


 リンネの“理論”はビュフォンの「退化の理論」に受け継がれ、やがてはルソー(663夜)の『人間不平等起原論』の中で想定された“自然人”のカテゴリーにまで突っ込んでいく。
 こうして事態は18世紀末のクリストファー・マイナースの「人種理論」の創成に向かっていったのだ。マイナースはのちにナチスが評価した”早すぎた人類学の父”となった過誤の先駆者だった。

 近代思想の流れのなかで、ダーウィンの進化論ほどに誕生したその日から勝手に歪曲されていったものはなかった。なかにはすぐれた社会進化論に適用されたものもあったけれど、おおかたは度しがたい進歩思想と優生思想がさまざまに組み立てられ、捏造され、流布していった。
 その頂点にいたのがフランスの外交官で歴史家で、また東洋史の研究者であって、かつ人種的社会学の創始者ともなった、かのジョセフ・ゴビノー(1816~1882)なのである。悪名高い『人種の不平等性について』を書いた。
 ゴビノーは聖書の読み直しから出発し、創世記が「美と知と力をひとりじめ」にしている白い人類を強調していることに着目すると、その白い人類が北方アジアから出てきたであろうと推理した。まさにウクライナ平原を遊牧していたキンメリア人やスキタイ人を含む「アーリア人」(1421夜)に、白い人類の源流を見いだしたのだ。
 ただし、このアーリア人はそれまでの聖書学の慣習に従って「ヤペテの民」と呼ばれた。ゴビノーは、ヤペテとハムとセムが最初の白人となりながらも、それが分岐していったとみなしたのだ。
 そもそもゴビノーは人種には「人種の本能」というものがあり、そこに吸引の法則と反発の法則がはたらくと考えて、これは宿命的な“歴史科学”なんだと思いこんでいた歴史家だった。吸引の法則というのは人種の混交を受容していく傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。
 この“歴史科学”が白い人類にあてはめられた。二つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度ではあるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時代あたりまでかなりの純粋を保ってきた。ゴビノーは、そう、みなしたのだ。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきたとみなされた。
 ゴビノーは、こんなどうにも理屈の整合性の説明がつかないような構図を自信をもって提示したのである。もっとも、アーリア人もキリスト紀元以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したため、しだいに堕落していったと見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えはしなかった。

 ゴビノーのトンデモ仮説は、当初はまったく評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。そのためオーギュスト・コント、ド・トクヴィル、エルネスト・ルナンらはゴビノーを慰め、君の主張はきっとゲルマン諸国で受け入れられていくだろうと激励したほどだった。
 この慰めの予言はヒトラーの時代になって当たったということになったのだが、実際にはゴビノーとはべつに次のような思想家たちが似たような言説を強調していったことにより、このトンデモ仮説はまことしやかな恰好でしだいに広まっていった。
 たとえば、“自然哲学の父”と称ばれたシェリングは白人には最も重要な高貴があると考えて、『神話の哲学』では人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けた。そのうえで「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこむことができる唯一の人間だった」と、暗にアーリア人を称揚した。
 ドイツの自然主義哲学のパイオニアになったローレンツ・オイケンも、モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人などに言及し、結果的にゴビノーの歴史科学に似た言説を披露した。そこには「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がないからである」などという噴飯ものの強烈な差別発言もまじっていた。
 しかしヘーゲルだって、同じような人種論を展開したのだ。有色人種や黒人に対して劣等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してしまった。それどころかヘーゲルの世界史は、①ゲルマン民族の発端からシャルルマーニュまで、②シャルルマーニュから宗教改革まで、③宗教改革からヘーゲル自身の思索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされていた。
 無神論者のフォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアではないが、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対比させたのだ。昭和初期の日本で大流行した『唯一者とその所有』のマックス・シュティルナーはやや積極的に、「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服していくことになるだろう」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュティルナーはヒトラーの先駆者だったということになる。 

 マルクス(789夜)やエンゲルスはどうだったかといえば、残念ながらこの件についての例外になりえていない。エンゲルスの『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書いた。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。
 ショーペンハウアー(1164夜)はどうかというと、さすがに人種主義には陥ってはいなかったろうとぼくは思っていたが、しかしそれでもなお本書の著者は、ショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させるにあたって、最も影響力と洗脳力を発揮した最初の人物だったと見ている。
 もしそうだとするのなら、この「意志と表象の哲人」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はからずも貢献してしまっていたのだということになる。それならビスマルクも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たいていスラプ人とケルト人を引き合いに出したのだ。

 歌と社会の革命詩人ハインリッヒ・ハイネ(268夜)となると、もう遠慮もしていない。「われわれドイツ人は最も強く最も知的な民族である」と歌って、さらに次のように高揚させた。「われわれの王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と印刷術を発明したのである!」。
 ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰だって“早すぎるヒトラー”だったのである。
 通俗科学者たちもドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・グスタフ・カールスはジネコロジー(婦人科学)を標榜して、無意識にひそむゲルマン魂を“説明”してドイツ人のプシュケーを見えるように仕立て、カール・グスタフ・ユング(830夜)の先駆者の役割をはたしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることを訴えた。
 もはやニーチェ(1023夜)は間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的本質とセム的本質に結びつけ、決してアーリアン・スピリットばかりを強調したわけではなかったのだけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これを読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはずだった。
 こうして世紀末に向かって、ゴビノーのアーリア主義は数々の思想の意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに一人の音楽家によって絶頂にまで高められたのだ。それがワグナーのオペラのファンファーレというものだ。もう、どうにもとまらない。


 ダーウィンがうっかり『人間の由来』を書いたのはよけいなことだったかもしれない。すでにパリに発足していた人類学会にとって、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらすかたちになっていったからだ。
 フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカーは「アーリア人種という用語は完全に科学的である」と確信し、ヘブライ人の原型である“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ。こうなっては誰もが黙っていない。
 マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イポリット・テーヌは「言語と宗教と文学と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種をごちゃまぜにすることにあれほど警戒をしていた文化人類学の創始者であるエドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれることになる。

 もっとも、ここで新たな問題も浮上していた。
 それは言語と人種についての関連が濃くなってきたぶん、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリアの区別がつきにくくなっていったということだ。
 そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アーリア語族」という等式がいったん浮上したのだが、しかし、ヨーロッパ人たちにとってはこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨーロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。
 かくていっそうに、20世紀はアーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリアのための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要にも迫られたのである。
 ここにいよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られていくことになる。

 アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与えた。
 ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家独特の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆するような青年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこからひそかに人類の遺伝形質の分類をするようになった。
 やがて家系や血統によって才能が不平等に分布していることに気が付くと、『遺伝的天才』を発表、「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろうと思い始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことに警戒するべきだと考えた。
 こうして1910年前後、最も優秀な民族や人種こそが未来の人類文明を築くために断乎として残ることの重要性を訴えるべきだと確信すると、ゴルトンはそこから「優生学」という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのである。その優生学の目的は「不適応者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。どうすればいいか。「断種」をこそ実施するべきだという結論が出た。
 ゴルトンの優生学はイギリスからアメリカに飛び火し、たちまち燎原の火のごとくに広がった。インディアナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨励されることになり、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは1925年までに全土で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。
 この優生学的断種運動がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーによる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。
 これでわかるように、先進列強のなかでヒトラー・ドイツはこの運動の最も遅い後発部隊だったのである。すべてはイギリスとアメリカが用意していたものだったのだ。
 ただしドイツはその2年後に「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を禁止した。

 優生学が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結びつけた。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を拠出した。
 もはやアーリア神話は忌まわしいアーリア問題以外ではなくなっていた。ドイツでこの忌まわしい問題をふたたび神話の輝きに変貌させたのは、パウル・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教すなわちアリーア主義をユダヤ教に対比させることに成功してからだった。ラガルドは「ユダヤ人がユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれてのことだ」と言って、ユダヤ人虐殺の先鋒を切った。
 問題は、そうしたラガルドの言説を初期のトマス・カーライルもトーマス・マンもバーナード・ショーも称賛してしまっていたこと、そのラガルドの言説がフートン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフート・ローゼンベルクの手による『二十世紀の神話』として未来に向けての概括として、ヒトラーに献上されてしまったこと、それが『わが闘争』の一部を飾ってしまったことである。
 ポリアコフは次のように書いている。
 ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造したのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書崙のように援用したのである。むしろルネサンスの人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めることができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ。
 

 

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黄禍論とは何か

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  そろそろユーラシアにおける遊牧民帝国の誕生に向かって千夜千冊したいのだが、ここでもう少し踏みとどまって、前夜の『アーリア問題』の余韻がまだ熱いうちに、20世紀初頭の黄禍論(イエローペリル)が世界にまきちらした問題について、簡略に案内しておきたい。
 なぜなら黄禍論という前代未聞の奇っ怪な“イエローピープル大嫌いムーブメント”には、そもそもは中世のモンゴルとその亜流のすさまじい動向が、そのぶりかえしともいうべき20世紀初頭の汎モンゴル主義の運動が、さらには今後の日米同盟関係や日本と東アジアのグローバリゼーションとのぎくしゃくしていくだろう関係などについての、すこぶる重要な“予言”がいくつも含まれているからだ。
 本書はそういう黄禍論の近現代史を、めずらしくコンパクトにまとめた本である。ただし、その観察はあくまでも欧米側からのものなので、今夜はテキストとして本書のほかに、橋川文三の『黄禍物語』(岩波現代文庫)などをところどころとりまぜて案内する。

 ヨーロッパ、ロシア、アメリカで19世紀末から20世紀初頭にかけて、ほぼ同時に沸き上がった黄禍論は、中国人と日本人が白色人種に与えた脅威のことをいう。
 当時、3つの現象が欧米の脅威になっていた。①安価で忍耐強い黄色の労働力が白人の労働力を凌駕するのではないか。②日本製品の成功が欧米経済に打撃を与えるのではないか。③黄色の国々が次々に政治的独立を果たして近代兵器で身をかためるのではないか。
 まるで今日にも通じそうな話だが、黄禍論はそのころのアジアの力が急激に増大してきたことへの過剰な警戒から生まれた。それは中国や日本からすれば黄禍ではなくて「白禍」(ホワイトペリル)というものだった。
 どんなふうに黄禍論が沸き上がっていったのか、重要なのはその異常発生の背景なので、そのアタマのところを紹介しておこう。

 日清戦争が勃発した1894年、ジョージ・ナサニエル・カーソンというイギリスの政治家が『極東の諸問題』という本を世に問うた。イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている。
 カーソンは、イギリスがこれから世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を“東洋のイギリス”にして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った。
 カーソンやチロルの期待と予想は当たった。日清戦争で日本は勝ったのだ。しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか。さまざまな憶測が広まるなかでの1895年、イギリスの銀行家トーマス・ホワイトヘッドは『アジア貿易におけるイギリスの危機的状況』という講演をロンドンでぶちあげ、中国の銀本位制にイギリスの金本位制がたじたじになっていることをこそ解決すべきだと訴えた。

 一方、こうした極東状況を横目で見ていた二人の皇帝が、まことに勝手なことに、突然にあることを示し合わせた。
 有名な話だが、“カイゼル”ことドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシア皇帝ニコライ2世に手紙を書いて、そこで「黄禍」という言葉を使い、ポンチ絵で黄色人種を揶揄ってみせたのだ。「黄色い連中を二人で叩きのめそうよ」というポンチ絵だった。
 これが「黄禍」という言葉の誕生の現場だが、むろん言葉だけが一人歩きしたのではなかった。実際にも、まずは日本にちょっかいを出して、牽制することにした。ドイツとロシアがフランスを誘って三国干渉に乗り出したのである。
 翌年、ベルリンの雑誌「クリティーク」は「黄色人種の脅威におびえる白色人種」という特集を組んだ。2年後には東アジアの経済事情を調査するドイツ委員会が結成され、むしろ伸長する日本の経済力をうまく巻き込んで利用すべきだという報告がなされた。

 

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 義和団の乱に出征するドイツの東アジア遠征軍に演説する
ヴィルヘルム2世(1900)
ヴィルヘルム2世の中国侵略への野望は、
日清戦争後の三国干渉、日露戦争後の黄禍論となってあらわれる。

 

  ここで事態はアメリカに飛び火する。イギリスに始まった優生学がアメリカに飛び火して断種政策の拡張になっていったのと同様に、アメリカはしばしばこのように、最後尾から登場してまずは自国の情勢をまとめあげ、ついではあっというまに事態を全世界化してみせるのだ。
 すでにアメリカは移民問題に悩んでいた。アメリカがサラダボウルの国で、どんな移民も受け入れる“自由の国ユナイテッドステート・オブ・アメリカ”だというのは、今も昔も半分でたらめで、アメリカほど移民問題をたくみに国際情勢の天秤目盛として活用してきた国はない。この時代もすでに中国移民のコントロールが問題になっていて、カリフォルニアでは中国移民制限と中国人排斥の機運が高まっていた。
 そもそも帝国主義大好きの大統領セオドア・ルーズベルトが、中国人追放には手放しで賛成している始末だった。
 そこへジャパン・パワーの噂が次々に届いてきた。折しも多くの日本人たちがカリフォルニアに次々に移住もしていた。問題はイエロージャップらしいという声が高まってきた。とりあえずルート国務長官と高平駐米公使のあいだで日本人のアメリカ入植を自発的に縮小することになったのだが、コトはそれではおさまらない。1900年、カリフォルニア州で日本人排除法が提案された。
 加えて名門兄弟のヘンリー・アダムズとブルックス・アダムズが『文明と没落の法則』と『アメリカ経済の優位』をそれぞれ刊行して、次のようなロジックを提供した。
 ①文明化するとはすべてを集権化することだ。②集権化とはすべてを合理化することだ。③集権化と合理化を進めれば欧米の品物よりもアジアの品物のほうが安くなる。④世界は集権化と合理化に向かっている。⑤だからアジアが生き残り、これに気が付かないヨーロッパは滅びるにちがいない。⑥アメリカはここから脱出しなければならない。

 アダムズ兄弟のロジックは強力だった。すでに『海上権力史論』を世に問うて、アメリカ中で万余の喝采をもって迎えられていたアルフレッド・マハン提督は、⑥の「アメリカはここから脱出しなければならない」を達成するための、新たな方針を打ち出した。
 中国を門戸開放させ、その管理を列強が示しあわせてコントロールするべきだと言い、今後のパワーポリティックスは「北緯30度から40度のあいだ」に集中するだろうから、トルコ・ペルシア・アフガニスタン・チベット・揚子江流域の中国・朝鮮半島・日本、および南米のとくにアマゾン河流域のブラジルに注意しなければならないと力説したのだ。けっこう当たっている。
 ところが、そこへおこったのが、世界中を驚かせた日本による日露戦争勝利だったのである。イギリスがちゃっかり日英同盟を結んでいたことが、アメリカには癪のタネだった。
 1905年にカリフォルニアに反日暴動がおこり、アメリカはロシアに勝った日本と反日の対象となった日本とをどうあつかうかという二面工作を迫られた。その工作がポーツマス条約に対するアメリカの斡旋というかっこうをとらせた。
 しかしむろんのこと、アメリカはこのまま日本をほうっておくつもりはない。血気さかんな将軍ホーマー・リーはさっそく悪名高い『日米必戦論』と『アングロサクソンの時代』を書き、これからはロシアはきっと中国と手を結ぶだろうから、アングロサクソン連合としては中国と同盟を結び、将来における日米決戦に備えておかなくてはならないと“予言”した。
 当時、京都大学で比較宗教学を講していた親日派のシドニー・ギューリクはさすがにこの“予言”に呆れて、急遽『極東における白禍』を執筆したが、もう焼け石に水だった。このあとアメリカの排日主義はますます強固に、ますます拡大のほうに向かっていった。

 

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 風刺画「Japonは悪魔」
日露戦争に勝利した日本がヨーロッパのキリスト教社会を守る天使に
手傷を負わせた悪魔として表現されている。

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 "The Yellow Terror In All His Glory", (1899)
中国人が西洋の婦人を犯して殺すというイメージを吹聴している。

 

  日露戦争に破れたロシアでは、かなり複雑な反応がおこっている。この国はもともと徳川日本に関心をもっていて、プチャーチンをはじめ何度も日本沿岸に出没し、折りあらば交易や開港を迫るつもりだったのだが、それをペリーとハリスのアメリカに先を越されたわけだった。
 つまりロシアには「ロシアのアジア主義」ともいうべきものがあったのである。けれども、その外交政策がなかなか軌道にのってこない(今はなお北方領土問題がくすぶっている)。
 そういうロシアにとって、それを邪魔するのは仮想敵国のイギリスだった。それゆえ19世紀末、ブルンホーファーやウフトムスキーといった言論派は、たえず「ロシア・アジアの統合」というお題を掲げ、ときにはなんと、「仏教世界制覇の計画が日中韓の連合によって進むことがありうるかもしれないから、ロシアはそれに遅れをとってはならない」というような、やや誇大妄想なアジア対策を練ったりもしていた。
 それがニコライ2世のころから黄禍に走り、そうこうしているうちに日露戦争で辛酸を嘗めた。ほれほれ、だからロシアン・アジアを早く確立すべきだったじゃないかと言ったのは、ウラジミール・ソロヴィヨフの『汎モンゴル主義』だった。

 ドイツはどうか。アーリア神話や優生学や断種政策でもそうだったように、おっちょこちょいのカイゼル(ヴィルヘルム2世)こそ黄禍のお囃子の先頭を切ったものの、国全体としてはあいかわらず微妙な立場にいた。
 三国干渉、膠州湾占領、義和団事件への出兵までは、まだ日本をからかっていればよかった。だからドイツ財界の重鎮で社会進化論者でもあったアレクサンダー・ティレは1901年の『黄禍』では、黄色人種によって「ドイツの労働市場が水びたしになることはないだろう」とタカをくくっていた。しかし日露戦争以降、どうも雲行きがあやしくなっていく。
 アウグスト・ベーベルは中国に莫大な地下資源が眠っている以上、ドイツはこれを取りに行く列強との競争で遅れをとってはならないと警告し、フランツ・メーリングは中国や日本の脅威を防ぐには、もはやかれらの資本主義の力を社会主義に転じさせるしかないだろうと弱音を吐いた。
 しかしドイツの黄禍論が他の列強と異なっていたのは、やはりそこに反ユダヤ主義がまじっていったことだった。ドイツの黄禍論はしだいに民族マキャベリズムの様相を強くしていった。

 

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 「ル・ガトゥ・チノイス」(中国の分割)(1899)
左よりドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、フランス大統領ルーベ、
ロシア皇帝ニコライ2世、日本の明治天皇、アメリカ大統領T=ルーズヴェルト、
イギリス国王エドワード7世。

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T・ビアンコ「黄禍論―ヨーロッパの悪夢」


  ざっとは、こんなふうに列強世界を黄禍論が走ったのだ。
 では、ここまであれこれのイジメを受けた日本はどうだったのかというと、黄禍論は当然、明治の日本にも衝撃を与えた。ただし、当時の日本人は黙っているわけではなかった。たとえば象徴的には鴎外(758夜)、天心(75夜)、漱石(583夜)が反論していた。
 鴎外については、明治36年11月の早稲田大学課外講義『黄禍論梗概』の記録がのこっている。そのなかで鴎外は、黄禍論は「西洋人が道徳の根幹を誤って社会問題を生じて、商業・工業の上で競争ができないようになりそうだと、不安がっているにすぎない」と断じ、「西洋人は日本と角力を取りながら、大きな支那人の影法師を横目で睨んで恐れて居るのでございます」「所詮黄禍論というものはひとつの臆病論なのです」と言った。鴎外はジョセフ・ゴビノーの人種差別論にもかなりの批判を展開した。
 天心は『日本の目覚め』の第5章を「白禍」とし、「東洋民族が全面的に西洋を受け入れたのは問題だった。帝国主義の餌食になった」と述べ、「かれらの渇望の犠牲になってはならない」と強く訴えた。
 漱石が『それから』の代助に言わせたセリフは、まさに黄禍と白禍の問題の本質をついていた。こういうものだ。最近のニートやフリーターにも聞かせたい。
 「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。日本対西洋の関係がダメだから働かないんだ。第一、日本ほど借金をかかえて貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。そりゃ外債くらいは返せるだろう。そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底たちいかない国なんだ。それでいて一等国を以て任じている。無理にでも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なんだ」。

 

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 ニュージーランドの風刺画「黄禍論」(1907)
アヘン吸引、貪欲、不道徳などの悪徳をふりまく蛸の姿のアジア人が
ニュージーランドの女性を襲っている。

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パラマウント社制作「The Return of Dr. Fu-Manchu
Part Six – “The Silver Buddha”」(1929)
英国の作家サックス・ローマーが義和団の乱の影響を受けて、
西欧による支配体制の破壊と、東洋人による世界征服を目指す
怪人ドクター・フーマンチュー(傅満洲博士)を主人公とする
スパイ小説『怪人フーマンチュー』(1916)を発表。
これは“黄禍”を警告する意図で1920年代から1930年代に連続して
トーキー映画化された。

 

  田口卯吉のように黄禍に対抗するあまり、敵のロジックをむりに日本にあてはめた例もある。田口は『日本人種論』『破黄禍論』において、なんと「日本人=アーリア人」説を説いたのだ。
 これが『日本開化小史』を書いて、福沢諭吉や天野為之と並び称された自由主義経済学の導入者とは、とうてい思えない。そこには「史海」の発行者であって、『国史大系』『群書類従』の編纂に当たった田口のほうの顔が強く出ていた。
 もっとも、このように日本人を優秀化するためにアーリア人やユダヤ人をその流れに牽強付会させようというめちゃくちゃな論陣は、この時期は田口だけでなく、黒岩涙香(431夜)、竹越与三郎、木村鷹太郎、小谷部全一郎などにも共通していて、かつて長山靖生の『偽史冒険世界』(511夜)を紹介したときにもふれておいたように、それ自体が黄禍に対する過剰防衛になっていた。小谷部は、例の「義経=ジンギスカン」説の発案者である。
 いずれにしても、当時の日本人にもたらした黄禍論の影響は、かなり面倒なものとも、危険なものともなっていったと言わざるをえない。
 橋川文三は、日本に「国体」論が浮上し、天皇唯一主義が受け入れやすくなったのも、また孫文に代表される大アジア主義が流行して日本の国粋主義者がこれに大同団結しようとしたのも、どこかで黄禍論に対する反発がはたらいていたと見た。この見方、いまこそ肝に銘じておくべき見方であろう。

 黄禍論。まことに厄介な代物だった。それは今日のアメリカのWASP主義、中国や韓国の反日感情、インドとパキスタンの憎悪劇などの厄介さを思えば、想定がつくだろう。
 しかし、ほんとうに厄介なのは、アーリア神話、ゲルマン主義、優生学、断種政策、黄禍論が、すべて一緒くたに20世紀の劈頭を荒らしまわっていたということだ。
 ぼくはこのあと、ユーラシアにおける民族の交代劇をその制覇と没落を通して案内していくつもりだが、そしてそこにイスラム主義やモンゴル主義やトルコ主義がどのような光と影をもたらしていったかを、できるだけわかりやすく、できれば順よく案内し、そこから東アジアの盟主となった中国という国がどんな民族ネクサスを演じてきたかを書くつもりだが、それにあたって、スキタイから派生したアーリアン・コメディの長期にわたった脚色劇が20世紀にまで続行していたことを、あらかじめ伝えておきたかったのである。

 

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「千夜千冊1423夜」松岡の赤字修正

 

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明

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 シベリアの真ん中を大河イェニセイが南から北に流れている。その源流近くにトゥバという共和国がある。首都のクズルの街中には「アジアの中心」という碑が立っている。
 トゥバの言葉はテュルグ語(トルコ系)に属するが、文化的にはモンゴルに近く、信仰もチベット仏教(ラマ教)である。100年ほど前には清朝に組みこまれていたが、1911年に辛亥革命がおこるとロシアがこの地に触手をのばして、ロシア革命後にソ連の領土となった。
 そのトゥバにアルジャンという村がある。ソ連が国営工場ソホーズを建てたので、周囲から石材が必要となり、積石塚(ヘレクスル)が次々に壊された。そこに古代そのままの直径110メートルの「草原の王墓」があらわれた。木槨墓室には王と王妃の人骨が埋葬されていた。周囲には13カ所にわたって馬の遺骸が発掘された。
 古代騎馬遊牧民の王墓だったのである。調査が進むと、副葬品の馬具や武器が先スキタイ時代のものに近いことが判明した。となると、紀元前800年代である。発掘が始まった1971年、アルジャン古墳と名付けられた。
 倍音を次々に響かせるホーミーの歌唱法はモンゴルやチベット起源とされていきたが、実はモンゴルよりもトゥバのほうが古いのではないかと言われている。それはそうかもしれない。なにしろ前9世紀からのパストラル・ノマドの村なのである。

 歴史を読むとは、ひとまずヘロドトスと司馬遷をどう読むかということである。なにもかもがそこから始まる。
 ヘロドトスの『歴史』全9巻と司馬遷の『史記』全130巻はユーラシアの西端と東端の古代を、当時としては驚くべき詳細な視点で、きわめて鮮明に綴った。
 ヘロドトスはギリシア本土ではなく、エーゲ海を挟んだ対岸のカリア地方のハリカルナッソス(今日のトルコ西南部)に生まれた。紀元前480年頃の生まれだったから、いまだアケメネス朝ペルシアが唯一の超大国として君臨していた。のちにアテネに行ってペリクレスやソフォクレスと交流し、歴史が物語であることに気が付き、伝承や見聞を徹底して集めた。ヒストリアはストーリーそのものだったのだ。
 ヘロドトスは自分の故郷であったペルシア帝国の絶頂期を築いたダレイオス大王の事績を調べていくうちに、大王をもってしてもついに征服することができなかったスキタイの存在と活動にのめりこんでいった。われわれがスキタイのことを知れるのは、ほとんどヘロドトスの執着のおかげなのである。そのヘロドトスは前443年に南イタリアのトゥリオイ建設にかかわり、何かを夢見て、そこで死んだ。
 司馬遷の生まれは紀元前145年頃で、前漢の太史令だった司馬談の子として生まれた。根っからのフヒト(史人)だったが、ヘロドトスに劣らず長距離の旅をして、調査や資料収集をやってのけた。漢の王室に仕官したのちは、武帝の随員として四川・雲南・湖南・浙江・山東に赴いた。やがて匈奴に使節として旅だった張騫たちから匈奴の事情をヒアリングできるようになり、この破天荒な連中のことを知った。
 前98年に匈奴にくだった李陵を擁護して武帝の怒りにふれ、宮刑(去勢)に処せられたが、その屈辱をかみしめつつも、以降十数年を費やして『史記』を仕上げた。紀伝体である。

 本書はヘロドトスの『歴史』第4巻を通してスキタイを浮上させ、司馬遷の『史記』匈奴列伝を通して匈奴を浮上させる。
 スキタイと匈奴に共通するのは、2つの集族がユーラシアを代表する古代騎馬遊牧民だったということである。両者は、①農耕をおこなわない純粋の遊牧民である、②家畜とともに移動して定住する町や集落や都市をつくらない、③男子は全員が弓矢にすぐれた騎馬戦士になっている、④戦術は機動性に富み、不利なときはあっさり退却する、という著しい特色をもっていた。
 その動向範囲はユーラシアのほぼ全域で、西はカルパティア山脈の麓の黒海の北のウクライナから東はウランバートルをこえた大興安嶺山脈の山麓にまで及ぶ。そこにはカフカス山脈、カスピ海、アラル海、カザフスタン、ウラル山脈、アルタイ山脈、モンゴル草原、天山山脈、ウルムチ、ウィグルを含む(地図参照)。
 しかし、ヘロドトスと司馬遷の記述がどこまで正しいものかどうかは、いまや『歴史』と『史記』の熟読だけでは立証できない。今日では、そこにふんだんな考古学のエビデンスが加わる必要がある。本書は考古学に裏付けられたヘロドトスと司馬遷を通したスキタイと匈奴の実像を詳しく提供する。たいへん興奮させられた。


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世界史上最初に登場した遊牧国家
東はモンゴル高原から西は東欧のカルパティア山脈まで、
ユーラシア大陸を疾駆した騎馬遊牧民スキタイと匈奴は、
古代ペルシア帝国や漢など、隣接する
定住農耕社会にとって常に最大の脅威だった。

  文明(civilization)についての定義は曖昧である。メソポタミア・エジプト・インダス・古代中国に共通する特色は、一応は「都市の発生」「王権の誕生」「巨大構築物の建設」「官僚制度の確立」「裁判の実施」「文字の発明」などになっている。
 では、パストラル・ノマド(pastral nomads)の歴史に文明的なるものがなかったかといえば、そんなことはない。騎馬遊牧民(mounted nomads)の社会にはすでに「王」がいた。騎馬遊牧民の歴史に王が登場したのは紀元前9世紀の、ユーラシア草原地帯の東部でのことだった。そのころ、ユーラシアの西にはアッシリア帝国があり、東には西周の王朝が広がりつつあった。
 騎馬遊牧民の王は「王墓」を造り、その権力の大きさを誇示した。最初は地上に墓所をおいてそれを墳丘で覆ったが、やがて地下に墓室を設けた。かれらは動物文様、馬具、武器を独特の様式で意匠した。こうしてわれわれの前にスキタイがあらわれた。
 ヘロドトスが驚いたスキタイにもすでに王がいた。『歴史』ではプロトテュエスという王名になっている。メディア王のキャクサレスがアッシリアの都ニネヴェを包囲したとき、プロトテュエス王の息子のマデュエスが率いるスキタイの大軍かあらわれて、メディア軍を蹴散らしたとある。そのアッシリア帝国は、その後の前612年にメディアと新バビロニアの連合軍によってあっけなく滅ぼされた。

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スキタイ文化の東漸

 このようにスキタイは王を戴き、ウクライナから中東までを荒らし回っていたのである。どうもいまのパレスチナあたりまで進出していたと思われる。「旧約聖書」エゼキエル書に、イスラエルの北方を騎馬軍団が襲ったという記述があるのは、スキタイあるいはキンメリアのことだとされている。
 ちなみに、いま日本の高校教科書ではスキタイの出現を前6世紀としているが、実際には前7世紀には動きまわっていた。このスキタイ時代はいわば「草原の古墳時代」なのである。
 スキタイの黄金装飾品はべらぼうに美しく、完成度が高い。180度体をひねった動物表現から合成獣グリフィンのような造形まで、目を奪う。これだけの造形をくみあげる集団に文明がなかったとは言えない。それなら縄文人にも文明があったということになるが、縄文人には戦闘力がなく、おそらく王権がなかった。

 

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前8〜4世紀のユーラシア西部
各地で独特な文化が生まれた。

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キンメリオイとスキタイの西アジア侵入ルート
クルプノフの推定による。


  一方、前3世紀後半にユーラシアの東に匈奴が出現した。
 匈奴の社会は十進法からできたヒエラルキー構造をもっていて、それを軍事組織にもいかしていた。リーダーを単宇(ぜんう)といい、その下に4王がいて、さらに左右2人ずつの大将、大当戸(だいとうこ)、骨都侯(こっとこう)が配備され、「二十四長」を形成していた。
 二十四長には裨小王、相、都尉、当戸、且渠(しょきょ)らの属官がいて、総じて左の王将軍は東方に、右の王将軍は西方にいた。むろん祭祀・刑罰・葬儀も発達していた。
 ただし匈奴は古墳を造らなかった。墓所は平原ではなく森林を選び、墓室は地下の深さ20メートルくらいのところに設えた。しかしだからといって、匈奴に文明がなかったとは言えない。

 スキタイについては『遊牧民から見た世界史』(1404夜)にも『アーリア人』(1421夜)にもふれたので、ここでは匈奴のことをいささか紹介することけれど、知れば知るほど匈奴はどぎまぎさせる。そればかりか、匈奴がわからなければ中国史は解けないというほどなのである。沢田勲の『匈奴』(東方書店)など、とくに堪能させられた。
 そもそも匈奴とは何者かというと、『史記』匈奴列伝は「匈奴の祖先は夏后(かこう)氏の末裔である」と記している。夏后は最近その実在が実証されつつある夏王朝のことだから、夏が殷に滅ぼされたのちに、夏后の一部が北方の平原に逃れていったのかもしれない。
 が、殷王朝は紀元前17世紀のことだから、そんな古い時期に匈奴の祖先が遊牧民化したというのは、あまりに早すぎる。やはり司馬遷の記述に従って、秦の始皇帝が天下を統一する前後に草原を疾駆し、その名が知られはじめていたと見るのが妥当であろう。
 秦の将軍の蒙恬(もうてん)が匈奴を黄河の北方に追いやったというあたりが、歴史記述に登場する匈奴の活動期だったのである。この時期は、秦の北方の周辺で騒いでいたのは匈奴、東胡、月氏などだった。
 蒙恬は匈奴の王が単宇といい、そのころには頭曼(とうまん)というリーダーだったことを知っていただろうか。頭曼はたえず1万人くらいの部隊を率いていた。やがて時代が秦末となり、楚の項羽と漢の劉邦が鎬を削って天下をとりあうころになると、頭曼の後継者あるいは太子として冒頓(ぼくとつ)単宇が登場してきた。
 冒頓はそうとう残忍だったようだ。妻に閼氏(えんし・あっし)という者が何人かいたが、何人もいたということは単宇は閼氏のマトリズム(母系性)に支えられていたということだろうけれど、冒頓単宇は自分の権力奪取のために鏑矢(かぶらや)でその閼氏の一人を射ってしまった。そればかりか司馬遷によると、父親も殺したようだ。ヨーロッパの王権奪取の伝統とちがわない。きっと匈奴にも『金枝篇』(1193夜)があったのである。 

 冒頓単宇の非情ぶりは、秦にも漢にも届いていた。東胡のリーダーもそれを知っていたようで、匈奴の悍馬名馬として知られる千里馬をほしがりもした。汗血馬だ。遊牧民たちはこうした贈与や交換を好んだのだろう。
 冒頓は「ほしくばくれてやろう」と馬を与えるのだが、東胡王は今度は閼氏の一人を所望した。冒頓はこれも寛大なところを見せて与えるのだが、これで東胡王は慢心して、よせばよいのに次は空いた土地がほしいと言ってきた。そのとたん、冒頓は「土地は国の基本である、なんということを言うか」と怒髪天を突き、東胡をあっというまに滅ぼしてしまった。
 冒頓はこのようなやりかたで、月氏の3分の2くらいを滅ぼすと、その勢いで楼蘭、烏孫、呼掲などの近傍26カ国くらいをなんなく平定してしまっている。月氏については冒頓を継いだ老上単宇もこれを襲い、その一部を西方に移動させている。この西方に行った連中がいわゆる大月氏で、バクトリアを支配した。その大月氏のうちの一部族がさらにクシャーン王朝になる。残った月氏のほうは甘粛方面に行き、小月氏になった。
 こういうふうに、匈奴は中国周辺のみならず、アジア各地にその足跡と派生者をのこしていったのである。

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匈奴の最大領域


 いったい単宇(ぜんう)とはどういう王位だったのだろうか。司馬遷の記述とその後の調査や研究をあわせて浮かび上がらせてみると、なかなかの権威とシンボリズムを発揮していた。残忍なだけではなかったのである。
 たとえば単宇となった者は、毎朝、宿舎のテントを出ると日の出を拝み、夕刻には月を拝んだ。重大なことを決断するときは、たえず月の満ち欠けに従ってもいた。月が満ちれば攻撃し、月が欠ければ退却した。かなりのルナティック・ノマドだったのだ。
 座するときは左を尊び、北を向いた。日本もそうであるが左大臣のほうが右大臣よりも上なのだ。今日のモンゴルではテントの南側に入口をつくり、入って左側が男性の座、右側が女性の座になっているけれど、きっと匈奴にもそうした儀礼的習慣か、そうした天地の左右を律するコスモロジーがあったのであろう。
 活動の日時を選定するにも、なんらかの信仰や暦法があったようだ、少なくとも戊(つちのえ)と己(つちのと)を重視したことがわかっている。そうだとすると十干の5番目と6番目を吉日としたということで、おそらくはそういうことを表示する暦をもっていたのであろう。
 婚姻制度にも興味がある。寡婦となった継母や兄嫁を娶る習慣をもっていたようなのだ。これは文化人類学ではレヴィレート婚(嫂婚制)というのだが、戦闘によって寡婦が生じやすい社会では、なかなか妥当なコンベンションだったのだと思われる。
 しかし、匈奴の最大の特徴はなんといっても駿馬を駆って、圧倒的な戦闘力を発揮したということにある。秦の始皇帝が万里の長城を築くことにしたのも、この匈奴の勇猛苛烈を阻みたかったからだった。どうも匈奴には幼年期から訓練を積ませる国民皆兵制のような制度があったのだと想像される。

 

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金動物闘争文牌飾(前漢時代)
内モンゴル自治区の墓より出土。匈奴の動物闘争文と言われている。  

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鷹形金冠飾り(一級文物・戦国時代)
主体は翼を広げた雄鷹。鷹は狼が羊に噛みつく場面を描いた半球体の上に立ち、大地を見下ろす。額の部分は虎と野生羊と馬が臥せた姿の浮き彫り。これまで発見された中で唯一完全な「胡冠」の実例で、匈奴の王冠の優品。

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匈奴族の腰帯装飾
1961年、西安で発見されたもので、匈奴族の腰帯装飾である。典型的な透かし彫り技法が使われており、猛獣が獲物を捕らえる場面が表現されている。横の長さは10.7cm。 


 劉邦が高祖となって漢帝国を築いたあとも、匈奴はその勇猛苛烈をもってしばしばこの大帝国を脅かした。
 高祖6年(前201)には、北方防衛の拠点であった馬邑(山西省北部)に駐屯していた韓王信が匈奴の大軍に包囲された。韓王信はしばしば匈奴に使者を出して、なんとか和解の道をさぐろうとしたが、これが匈奴に通じているとの疑心を高祖に抱かせ、高祖自身が大軍を率いて馬邑に向かった。
 この戦闘は古代中国史ではとても有名で、やがて冒頓の40万騎が高祖の20万の漢軍をたたいた「白頭山の戦い」で決着がつく。そのあと、高祖も冒頓も亡くなったから、白頭山は古代中国史の大きな区切りだったのである。高祖のあとは恵帝、文帝などをへて7代目に武帝が登場する。
 一方、匈奴のほうで冒頓を継いだのは老人単宇で、そのあと軍臣単宇というふうに続く。

 武帝の時代、ふたたび匈奴攻撃が始まった。武帝の魂胆は大月氏と示し合わせて挟撃しようというのものだった。そのため使者として若い張騫(ちょうけん)が登用された。
 張騫と武帝の西域経営計画のことは、比較的よく知られている。わざわざぼくが書くまでもないだろうが、張騫の苦心が匈奴の社会をよくあらわしているので、かいつまむ。
 張騫は甘父という者をサブリーダーにして、約100人ほどの従者とともに前139年に隴西を出発し、匈奴の領内に入ったとたんにすぐ捕まってしまった。捕虜となったのだが、なぜか張騫は好意をもって幽閉された。敵ながらあっぱれともいえるが、匈奴にはそういう胸中にとびこむ敵を優遇するところもあった。
 妻をあてがわれ、十年がたち、子も生まれた。監視の目もゆるくなってきた。そこで張騫は当初の目的を忘れず脱出し、西に走った。大宛に向かったのだ。大宛は中央アジアのフェルガナ地方に栄えていた王国である。張騫の巧みな弁舌と誠意に絆(ほだ)されたのか、大宛王は通訳をつけて張騫一行を康居に送り届けた。康居はフェルガナからシル・ダリヤ沿いに下った遊牧民王国である。ここで張騫はさらに大月氏のもとに送られた。

 

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張騫の西域遠征図

 そのうち軍臣単宇が病没し、匈奴は後継者争いで混乱した。張騫はこのときとばかりに匈奴人の妻と甘父とともに漢に逃げ帰った。
 これでは張騫は何もしなかったことになる。いたずらに時を食んだだけだ。しかし、張騫は豊富な「情報」を持ち帰ったのだ。古代において情報はときに金よりも尊い。まだ20代前半の若き武帝は張騫によって西域情報を手に入れ、あたかもベンチャー・プレジデントのごとく、いよいよ西域経営に乗り出すことになる。

 前135年に匈奴から使者が来て、和親を求めてきた。さて、どうするか。寵臣たちが議論すると、方針が割れた。
 もともとが燕の出身だった王恢(おうかい)は「匈奴は和親しても数年で約束を破るから撃つべきだ」と言い、韓安国は「匈奴は移動するから捕らえがたい。それを追えば兵士が疲弊して戦闘能力が失せるから、ここは和親に応ずるべきだ」と言った。
 武帝は作戦を練った。囮を使って匈奴の領内に入れ、そのうえで襲うというものだ。囮には馬邑にいた老人がつかわれ、うまいことに新たに単宇の位に就いた伊稚斜(いちさ)がこの老人を信用した。武帝軍は機をみはからって一気に突入しようとしたが、匈奴軍は左右に動き、前後に走ってこれを翻弄した。やむなく武帝は奸計を用いるのではなく、正面突破に切り替えた。あとはどこを好機とするか。

 前129年、匈奴の一部の編隊が上谷(じょうこく・北京の西)に侵入して、役人と民衆を屠っていった。
 こういう時を待っていた武帝は4人の将軍に1万騎を与えて攻撃させた。車騎将軍の衛青は龍城にいたって匈奴の首級・捕虜700を得た。軽車将軍の公孫賀は戦果を得られず、騎将軍の公孫敖(こうそんごう)は破れて7000人の兵士を失い、驍騎将軍の李広は捕虜になった。
 どうもうまくいかない。匈奴のほうでは捕虜とした李広に関心をもった。この男を手なづけて匈奴の将軍に仕立てようというのだが、李広はとっさにこれを振り切った。
 翌年、匈奴は2万騎をもって遼西を襲い、太守を殺して200人を攫っていった。ぼくは思うのだが、このような匈奴のやりくちを見ていると、どうも「拉致」という言葉が浮かぶ。いま「拉致」といえば北朝鮮のやりくちで有名になっているが、この手段は近代国家のなかではおよそ考えつかない。しかし、ここには遊牧的なもの、あるいは遊撃的なものの本質があるようにも思われる。相手の人材や才能の芽を摘んで、これを内部でインキュベートしようというやりくちなのだ。
 まあ、それはともかく、武帝の怒りはしだいに頂点に達してきた。前127年に戦果著しかった衛青を今度は隴西に向かわせ、黄河の南にいた匈奴を撃たせ、白羊王と楼煩王を破り、捕虜4000人を確保すると、かつて蒙恬が築いた長城を修復させた。以降、衛青は大将軍となり、6将軍10万騎をもってたびたび匈奴征伐を敢行する。
 なかで弱冠20歳の霍去病(かくきょへい)は隴西から焉支山をへて匈奴の領内を食い破り、18000人を捕らえた。渾邪(こんや)王を屈服させたのも驃騎将軍となった霍去病だった。義仲や義経を思わせる。霍去病はその後の数年間も匈奴退治で大活躍をするのだが、わずか24歳で死んだ。武帝の皇后の血縁で、衛青の姉の子であった。

 漢と匈奴の“動く闘争”ははてしないものだった。西域経営もなかなかままならない。
 武帝もこんな遊動的な連中を叩ききれないと覚悟し、それよりも匈奴の周辺でつながっているだろう羌(きょう)や烏孫(うそん)を匈奴から引き離す作戦をとり、いわゆる河西回廊(いまの甘粛省)に大規模な植民を投じるようになった。当初の令居を足がかりに、武威郡・酒泉郡・張掖郡・敦煌郡を分置して、とりあえず西域ルートを確保し、そこへ使節団や商人を送りこむことにした。これは朝鮮半島に楽浪郡など4郡を置いたことと同じ外交策である。
 それでも西域では匈奴を恐れて漢の施設を軽んじていた。武帝は自分が寵愛していた李夫人の兄の李広利を頼んで、この統制にあたらせた。こうして楼蘭が前108年に落ちた。
 匈奴のほうも黙っていない。狐鹿姑単宇と左賢王だった息子の日遂王は、独自の西域経営に着手して、僮僕(とうぼく)政治を実行していった。僮僕とは召使いや下僕の意味だが、捕虜・人質・奴隷を仕立てたのであろう。このあたりも北朝鮮を思わせる。
 楼蘭を落とした武帝は、次は車師に狙いをつけ、匈奴からの投降者の介和王をリーダーとさせた。かくて漢と匈奴は西域を舞台に一進一退を何度もくりかえす。
 そこに登場してくるのが中島敦の小説で有名な李陵である。李広の孫にあたる。騎兵ではなく歩兵5000を率いて作戦に出るのだが、捕虜になってしまった。李陵は降伏するふりをして単宇と刺し違える覚悟だった。その覚悟を見た単宇は李陵を気にいり、娘を娶わせ、右校王という名を与えた。このときの李陵の心の葛藤が中島敦の『李陵』の主題になっている。

 

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紀元前1世紀前半の匈奴と漢

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紀元前1世紀のユーラシア大陸


  武帝は前87年に没した。匈奴は勢いを得てしばしば侵入と殺戮を試みたが、漢が各地に置いた狼煙台が機能して、防衛線がなんとか守れた。匈奴は一転、烏孫を攻撃、車延や悪師の地を取って、相変わらず人民連行策を継続していった。このへんのこと、もはや司馬遷は書いていない。『漢書』や『後漢書』の記述を借りることになる。
 単宇は壷衍鞜単宇から虚閭権渠単宇、握衍枸鞜に代わり、さらに呼韓邪(こかんや)単宇の時代になっていた。
 このころから匈奴に親子兄弟の内紛が絶えなくなっていったのである。単宇並立時代だった。内紛は対立から決戦に及び、呼韓邪とその兄の呼屠吾斯(ことごし)が勝ち、さらに頂上決戦となって、呼屠吾斯が統一単宇につき、致支単宇を名のった(致の真字はコザト)。
 致支単宇は烏孫の地の赤谷城に侵入し、人民数百を都頼水に投げこんだ。都頼水とはタラス河であり、ここに新たに城をつくって周辺諸国に貢がせた。そこには大宛、奄蔡が含まれていたのだが、そうだとするとこれは1421夜にのべたアランとも関係してくることになる。
 しかし、こういう内紛はその後に何が統一されても、敗残の一味がそのまま屈することは少ない。ここについに匈奴は初めて分裂をおこすのである。
 呼韓邪は南方に走り、呼屠吾斯は西方と北方を収めた。呼韓邪のほうは後漢には柔順で、漢の帝室の娘婿になりたいとさえ申し出た。匈奴の一部が組みこめるなら、これはことのほかだということで、このとき漢室から呼韓邪に嫁いでいったのが、かの王昭君だった。前33年のことだ。
 王昭君は元帝の後宮にいた美女で、呼韓邪に嫁いでからは寧胡閼氏(ねいこえんし)と称され、呼韓邪が没してからは復株累単宇と再婚し、計1男2女を生んだ。その数奇な生涯はさまざまな詩文に謳われた。晋の石崇の詩曲『王明君辞』、元の馬致遠の戯曲『漢宮秋』などもそのひとつだった。

 こうして南匈奴と北匈奴が分立していった。北匈奴は呼衍(こえん)王のときに西域に進出し、亀茲(クチャ)を攻略し、天山山脈の北側の草原地帯を占めた。現在の新彊ウイグル地区からカザフスタンのあたりを本拠とした。
 だが、敦煌の太守が北匈奴を攻撃したいと後漢に上表したように、その勢力はしだいに衰えていった。
 南匈奴のほうは後漢にくだり、それが逆に内外の出入りを激しく加速したため、中国を四分五裂させ、五胡十六国になっていった。中国は騎馬遊牧民の匈奴によってその性質を変えていったのである。

 いったい北匈奴がその後どうなっていったのか、いまのところ歴史学も考古学もあきらかにしていない。呼衍王が西域の北に拠点を定めていたのが西暦123年くらいのころだったことは、わかっている。
 後漢も敦煌らと北匈奴を挟撃しようとしていたが、151年に後漢軍が向かったところ、呼衍王はどこかに消え去っていったとしか『後漢書』には書いていない。さあ、そこで北匈奴の行方が問題になってくるのである。ひとつは鮮卑とまじっていったという説、ひとつはカスピ海まで及んでアランとまじっていったという説、そしてフン族になっていったという説である。
 とくに「匈奴≒フン族」説はなかなか捨て難い。ただし中国の記録から北匈奴の姿が消えてから約200年をへた376年に西ゴート族が動くのだから、これをフン族が追い、そのフン族と匈奴がつながっているとすると、2世紀前後のエビデンスが必要になる。
 いずれにしても北方遊牧民族たちがユーラシアを駆けめぐっていたことが、その後のアジアはむろん、ヨーロッパをも変貌させていったのである。

 本書は次の見方を示しておわっている。
 いま、遊牧性が見直されているのではないか。遊牧民は家畜に配合飼料などは与えない。自然には生える草を食べさせる。だから肉も乳製品も完全自然食品なのである。一カ所にとどまることはないから、草が食べ尽くされることもない。
 いまや21世紀の草原遊牧民も、一族が必要なぶんを提供する小さな一畳程度の太陽電池パネルと、それに風見鶏をかねたプロペラの風力発電装置があれば、十分に暮らしていける。遊牧民だってパラボナアンテナわもって衛星放送を見まくり、携帯電話でカシミヤの毛の相場を遊んだっていいのだ、というふうに。
 そういう21世紀ノマドな生き方や暮らし方は、原発事故に悩む日本列島に何かをもたらすだろうか。東北や沖縄なら、まだ遊民化は可能であろう。

 

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【参考情報】

(1)本書は「興亡の世界史」シリーズの第02巻にあたる。このシリーズは講談社が創業100周年を記念して企画出版した全21巻もので、まったく新しい世界史解読のための視点と視野を提供する。03『通商国家カルタゴ』、05『シルクロードと唐帝国』、06『イスラム帝国とジハード』、07『ケルトの水脈』、08『イタリア海洋都市の精神』、09『モンゴル帝国と長いその後』、10『オスマン帝国500年の平和』、11『東南アジア 多文明世界の発見』、15『東インド会社とアジアの海』といった、ユニークな巻立てが並ぶ。これらのタイトルを見てすぐに見当がつくだろうが、いわゆる西洋中心史観からの大きな脱却をめざした。これからもときどき千夜千冊したい。

(2)本書の著者の林俊雄は1949年生まれで東大大学院人文科学研究科で東洋史を専攻し、古代オリエント博物館の研究員をへたのち、創価大学の教授になった。『ユーラシアの石人』『グリフィンの飛翔』(雄山閣)の著書、『中央ユーラシアの考古学』(同成社)、『中央ユーラシア史』(山川出版社)の共著がある。ぼくは考古学的に詳細をきわめる著述は苦手のほうなのだが、本書は実に好奇心を絶えさせることなくこれを刺激し、叙述をうまくはこんでいた。
 なおスキタイについては、以前にも紹介したが雪島宏一『スキタイ』(雄山楼)が考古学満載で詳しく、ほかには各種のスキタイ美術の美術展図録が親しめる。匈奴については沢田勲『匈奴』(東方書店)、加藤謙一『匈奴「帝国」』(第一書房)などが読みやすい。

(3)今夜の千夜千冊を書いているあいだ、「なでしこジャパン」が女子ワールドカップで奇跡のような優勝を遂げた。ついつい本を読んだりキーボードを打ちながら、見入った。まるでノマディックな戦法だった。僅かな裾野しかない日本の女子サッカー界で、並み居る世界の強豪に屈服することなく、一戦一戦を勝ち上がっていくチームを見ていると、誰しもがそれを感じただろうけれど、日本はこのジャパン・メソッドでいいのだという気がしてこよう。
 そうなのである。日本は30人から50人くらいのチームが適当に分かれて技能や芸能を徹底稽古して、これをあるときグローバル・ピッチを恐れることなく世界に持ち込めばいいのだ。しかも能や歌舞伎がそうであったように、それらはたいてい少数の遊民たちにのみ決起してきた成果なのである。

 

大月氏

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 14世紀の稀代の歴史哲学者で、のちのちに“アラビアのモンテスキュー”とも“イスラームのヘーゲル”とも褒めそやされ、ぼくはひょっとするとそれ以上の歴史哲学の持ち主だったと思っているイブン・ハルドゥーン(1399夜)は、大著『歴史序説』のなかで「バトウ」(田舎)と「ハダル」(都会)に分けて文明と歴史をみごとに分析してみせた。このことは今年1月24日の千夜千冊にも書いた。
 イブン・ハルドゥーンがバトウ(バダウ)の砂漠的生活の特色としてとりだしたものは、本書では、そのまま草原の遊牧民にもあてはまるとみなされている。砂漠と草原を同一視しているのではなく、パストラル・ノマドの生活と観念と連帯力を近似視してのことだ。次のような特色である。

  ①砂漠と草原の生活形態は都会に先行する。砂漠と草原は文明の
   根源で、都会はその副次物である。
  ②砂漠と草原の人間は都会の人間よりも善良で、かつ勇敢である。
   都会人が法治国家に対してもっている依頼心は、勇気や抵抗力
   を失わさせる。
  ③砂漠や草原に住めるのは連帯意識をもつ部族だけである。その
   連帯意識は血縁集団もしくはそれに類した集団にのみ見られる。
  ④指導権は連帯意識を分かちあう集団の中でひき継がれるが、野
   蛮な民族や部族ほど支配権を核とする可能性が高い。
  ⑤連帯意識の目標は王権である。王権の障害になるのは奢侈と富
   裕への耽溺である。

 いまふうにいえば、砂漠の文化は中世ヨーロッパの都市文明に先行し、草原の文化は多くのアジアの都市文明の原型になっているだけでなく、その後の都市文明が堕落していったものを超えていた、遊牧民にはそういう独自の力がある、というのだ。
 定住のハダルはすべて遊牧のバトウから派生した。そう、言っているわけだ。すこぶる鋭い観察であり、イブン・ハルドゥーンならではの分析だった。
 本書はその都市文明の繁栄に先立つ草原アジアの遊牧民のなかから、のちに大月氏(だいげっし)と呼ばれた民族の消長を詳しく扱っている。日本の本では、レグルス文庫のために書きおこされた前田耕作の『バクトリア王国の興亡』(第三文明社)というユニークな本をのぞいて、類書はない。

 

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中央ユーラシア
『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社 2005)より

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中央ユーラシア主要部
『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社 2005)より


 大月氏はもともとは月氏から派生した。だから広い意味での月氏には二つの顔がある。
 ひとつは秦漢時代に中国の西北辺境に出現して匈奴と勢力争いをした月氏の顔で、これは北匈奴がそうであったように、どこかで歴史の記録から姿を消した。わかりやすく「小月氏」と呼ばれる。もうひとつが、その匈奴に追われてアム・ダリア流域に退却したのち、その西方に動いた勢力の中から勃興したクシャン(=クシャーン=クシャーナ)王朝を形成した大月氏である。本書のサブタイトルに「中央アジアに謎の民族を尋ねて」とあるのは、こちらのほうの大月氏のことだ。
 前夜の林俊雄の本(1424夜)のところでも案内したように、この西遷した大月氏たちの国に、張騫(ちょうけん)と甘父という漢の武人が苦難の末に辿り着いて、長期にわたって捕虜同然となりながらもその実態をつぶさに観察したあげく、長安に帰ってきた。張騫はその「情報」を武帝やその側近に報告した。インテリジェンスとしての情報だ。そのエッセンスは主として司馬遷の『史記』大宛伝に綴られた。張騫と司馬遷は同時代人だったのである。
 『史記』に報告されている張騫の説明は次のような文章になっている。以下にごく一部を掲げるが、これを読むと当時の紀元前後のユーラシアに遊牧国家がもたらしていた「情報=インテリジェンス」がどういうものだったのか、その感じがよくわかる。大宛はフェルガナ盆地のことをいう。

  大宛は匈奴の西南にありまして、漢の真西にあたります。漢から
 の距離はおよそ1万里で、中心は城壁をめぐらして定住生活をして
 います。周辺では70あまりの村落があって、コメとムギを農耕し、
 ブトウ酒を醸造し、優れた馬がたくさんいます。人口数十万という
 あたりでしょうか。大宛の北は行国(遊牧国家)の康居(キルギス
 ・カザフスタン)で、その西北に奄蔡という行国があります。西は
 大夏(バクトリア)で定住民が住み、確たる王がいませんが、ざっと
 100万人ほどの人口がいます。
  大宛の東北は烏孫(うそん)という行国で、生活習慣が匈奴と似
 ています。東は干覃(ホータン)です。ホータンから西は川はみん
 な西に向かって流れ、西海(アラル海)に注ぎ、ホータンから東で
 は川は東に向かって流れ、塩沢(ロプノール)に注ぎます。このロ
 プノールの水が地下を潜行して南の果てで、わが黄河の水源となる
 のです。
  楼蘭と姑師は城壁をもって、ロプノール(塩沢)に臨んでいます。
 ロプノールは長安から5000里ほどでしょうか。匈奴の右方勢力
 はこのロプノールの東の地域を支配し、隴西の長城にいたって南の
 羌族と接しているので、われらが漢への交通経路を遮断しているの
 です‥‥。

 こういうものを読むのは愉しい。まさにインテリジェンスであって、地政学である。張騫も司馬遷も、佐藤優のかたまりのような人物だったのだろう。司馬遷のヒアリングが巧みであったのか(きっとインタヴューの超名人だったろう)、いま引用しただけでも当時としてはかなり詳しい情報だが、実際の張騫はもっといろいろ語っている。まさにイブン・ハルドゥーンの観察と分析につながるものもある。
 大宛はともかく、本書の主題になっている大月氏はどういう民族で、どんなところにいたのかというと、そのことも張騫はいろいろ報告していた。

   大月氏の国は大宛の西2~3000里のところにある行国で、そ
  こはオクサス(アム・ダリア河)の北にあたっていて、南に大夏
  (バクトリア)、西に安息(パルティア)、北に康居が控えていた
  ところです。すでに王がいました。
   大月氏はもともと月氏と言いまして、そのころは家畜とともに移
  動する騎馬遊牧民の部族集団でした。その生活習慣は匈奴に近かっ
  たと思われます。それゆえ馬に乗って弓を射る戦士が20万ほどい
  て(騎射戦士)、かつてはそうとう強い部族集団の緩やかな連合体
  でした。
   ところが強大なリーダーの冒頓単宇(ぼつとつぜんう)が匈奴を
  率いるようになって、大月氏はしばしば領土から追い散らされてい
  ったのです。次のリーダーの老上単宇はもっと過激で、大月氏の王
  を殺害すると、その頭骨で酒杯をつくったほどでした。そのくらい
  大月氏は匈奴によって蹂躙されたのです。
   そんなことがあって、月氏は新たに大月氏という名称の大集団と
  して西のほうへ流れていきました。いまはアム・ダリア河の流域の
  肥沃な土地に安住しています。そこはかつては大夏(バクトリア)
  と呼ばれていた地域だったのです‥‥。

 ざっとこんなふうなのだ。
 大月氏のだいたいのアウトラインが手にとるようにわかる。もしわからないとすれば、日本人がアム・ダリア河と言われてもピンとこないだけで、中央アジアを知るには、それではいけない。アラル海に注ぎこむシル・ダリア河とアム・ダリア河(オクサス)は、中央アジアの“命の河”なのである。
 この2本の河に挟まれた地域は、いまはカザフスタンの南で、ウズベキスタンを挟んでトルクメニスタンにまたがり、東はキルギス・タジキスタンをへてタリム盆地やタクラマカン砂漠におよぶ中央アジアのキーエリアなのだが、かつてそこにはタシケントやサマルカンドが栄えていた。つまりは張騫も、武帝たちにこの二つの河を目印に、大月氏が中央アジアのキーエリアに赴いて定着した顛末を伝えたのだった。実はソグド人によるソグディアナ文化もここに発祥した。二つの河のこと、地図で確かめていただきたい。
 で、本書は、このような張騫の見聞を足掛かりとしながら、そこにその後の班固による『漢書』西域伝や張騫伝、および『後漢書』西域伝の大月氏条などの記述をつなぎ、さらにその後の調査研究の成果を加えつつ、大月氏がどのような“国づくり”をしつつ、ついにクシャン王朝の構築にいたったかということを、たいへんうまくまとめた。
 イブン・ハルドゥーンのバトウとハドルをめぐる比較についての検討も、本書のなかでの重要な視点になっている。

 

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前三世紀頃の北アジア遊牧諸民族の分布


 著者の小谷仲男(おだに・なかお)は京大東洋史を修了後、ガンダーラ仏教美術の研究を足場にユーラシアにおける東西文化交流史を渉猟してきた研究者で、アフガニスタンやパキスタンの調査隊などにも参加してきた。
 ついでに案内しておくが、本書を刊行している東方書店は、その名の通りのアジアに強い版元で、なかなかユニークな出版社だ。本書を含むその名も「東方選書」というシリーズは、ぼくもしばしば参考にしてきた。“学術エンターテイメント”と帯に謳われているシリーズだが、編集者がきっと上々のリードをしているのだと思われる。どの本もよく書けている。沢田勲『匈奴』や三崎良章『五胡十六国』はこのシリーズに入っている。

 話を張騫の報告から離れて大月氏のほうに進めるが、大月氏が西遷してアム・ダリア河の流域に落ち着く前、そこにはかつてバクトリア王国があった。中国では大夏と称ばれた。
 バクトリア王国はアレキサンダーの東征以降で、ギリシア人が最も遠くの東方で植民地経営をしていた国だった。首都のバトクラは今日のアフガニスタン北部のバルフにあたる。ヘレニズム文化が届いた最東方の王国で、イラン系の部族たちがいた。古くは「千の都市に満ちていた」と噂されたほどに繁栄していたのだが、やがてセレウコス朝(現在のシリア)の領土となり、ついで前250年頃には現在のイランにアルケサス朝パルティア(安息)が独立して勢力を広げたたため、これをきっかけにギリシア人のディオドトスがバクトリア太守となって、ここを植民経営したのだった。
 それでもそれから100年ほど、バクトリアはなんとか栄えていたらしいけれど、結局は前2世紀頃にスキタイもしくはサカ(塞)によって滅亡させられた。その滅亡の事情の一端はストラボンの『地理誌』にも記録されている。
 というわけで、バクトリアについてはいまはアイ・ハヌムという中央アジア考古学者にとっては垂涎の遺跡が、往時のドラマをさまざまに伝えるだけなのである。
 本書はアイ・ハヌム遺跡のことを数十ページにわたって解読する。この遺跡からは116本の列柱に守られた宮殿とアクロポリスに通じる道路と広場ポルティコが発掘され、周囲のギムナシオンや円形劇場があったことも発見された。宮殿の「列柱の間」や「謁見の間」の跡も別の調査隊が発掘して、王キネアスの栄華を偲ばせているという。
 近くに古代世界で唯一のラビスラズリの鉱山があったせいもあって、宮殿のそこかしこにラビスラズリによる装飾があったらしい。ちなみにアイ・ハヌムとは「月の姫」という意味だった。一度は行ってみたい遺跡だ。

 

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張騫の遠征と前二世紀頃の中央アジア

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前三世紀頃のバクトリア王国と周辺諸国


 古代バクトリアの地に入ってきた大月氏のことは、『漢書』西域伝、『後漢書』西域伝、『魏書』三国志が少しずつ書いている。
 それらによると、大月氏がここを支配すると、そこにいた5つの部族が次々に服属してきた。休密、双靡、貴霜、朕頓、高附だった。これを「五翕侯」というふうに中国人は報告している。「翕侯」(ヤブグ)とは城邑ごとに仕切っていた小君長(部族長)のことで、大月氏はこの連中をそのつど統合していったか、もしくはこの連中の中の中核部と交ざっていった。
 このとき統合の機関となったのが貴霜(クシャン)翕侯で、これこそがのちのクシャン王朝の担い手となっていった。クシャン王朝(貴霜王国)には王がいて、『後漢書』は初代クジュラ・カドフィセスと2代ヴィマ・カドフィセスをあげている。
 が、クシャン王朝で最も有名になったのは、誰であろうカニシカ王(在位143~160)である。その名は、かのインド最初の統一国家マウリヤ王朝でダールマ(法)に全面帰依したアショーカ王(在位前268~前232)ほどではないが、漢訳仏典の中には仏教の偉大な擁護者として登場し、玄奘の『大唐西域記』にも伝説的なエピソードが綴られている。
 カニシカ王は自身の即位を紀元とする「カニシカ紀元」を創始した。そういうところは“絶対王”だった。後継者のフヴィシュカ王、ヴァースデーヴァ王もそれに倣っている。考古学と歴史学では、ひとつにはカニシカ王が発行した金貨が重要で、ローマのアウレウス金貨と同じ重さになっている。もうひとつは「ラバタク碑文」で、土着バクトリア語で刻まれていた。碑文には、カニシカ王がギリシア語で書かれた詔勅を“聖なるアーリア語”に改めさせたとある。ここでは“聖なるアーリア語”が土着バクトリア語だったのである。まことにアーリア神話(1422夜)なるもの、奥が深すぎる。

 

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土着バクトリア語で刻まれた
ラバタク碑文模写(Sims-Williams,1998による)



 クシャン王朝がガンダーラ仏教美術に大きく寄与していたことも、知られていよう。
 大月氏=クシャン人は、中国産の絹の交易者としても大いに活躍したのだが、自分たちの死後の保証のため、その富の一部を仏教教団に喜捨し、その喜捨の富が新たな仏像製作にまわされて、そこに誕生していったのがガンダーラ仏像だったのである。そのうち、そうしたユーラシアを動きまわった仏教思想と仏像のことも、千夜千冊してみたい。
 それはそれ、今夜は大月氏について軽くノマディック・ドリームしてみた。このドリーム、もう少し続けたいと思っている。次は五胡十六国あたりか、ソグド人あたりだろうか。いよいよシルクロードを東に向かって辿ることになりそうだ。


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融合する文明

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 先だって東アジア・サマースクール「NARASIA未来塾」第1回で、42人の中国・韓国・日本の現役社会人を相手に「東アジアと日本の文化関係」について話してきた。話題はいろいろ持ち出してみたが、とりわけては漢字文化の意義や背景を熱く語るようにした。
 この未来塾は奈良県の募集に応じて中国から18人、韓国から13人が来日し、そこに日本各地の11人の参加も加わって3週間ほど奈良に滞在するというもので、カリキュラムはぼくの話を含めて20テーマにおよぶ日中韓のゲスト講師の講義を奈良県立大学の大教室で受け、そのあとディスカッションをしてレポートを書き、最後にみんなで十津川村で体験合宿をして“卒論”も提出するという、そういうものだった。十津川村合宿には編集工学研究所から広本旅人が参加した。
 ゲスト講師は、李御寧、原丈人、王敏(法政大学教授)、渡辺賢治(慶應大学教授)、雀官(高麗大学教授)、上垣外憲一、松本紘(京都大学総長)……等々。
 初めての試みで、「日本語がある程度理解できること」という参加条件だったけれど、グループ・ディスカッションを聞いていて、少しホッとした。平均32~35歳くらいの全員が「母国」についても「日本」についても強い関心をもっていた。とくに参加した中国人や韓国人は自国史をもっと深く知りたいと思っているようで、そのことを日本の歴史における政治・社会・文化の変化を知ったうえでちゃんと比較したがっていたのである。日中韓の交流と共通基盤の構築に貢献できそうなメンバーも何人も見えた。


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東アジアサマースクール「NARASIA未来塾」での講義の様子。
「和」と「漢」を並存させる「日本という方法」を東アジア的な観点から語った。

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受講生とのディスカッションの様子。
講義後は日中韓の受講生たちが各テーブルに分かれて、
三カ国の歴史や文化について熱心な議論を繰り広げた。


 歴史教育がぞんざいになっているのは、日本だけのことではない。中国や韓国でも日本同様である。中国では都合の悪い歴史はほとんど教えないし(中国新幹線の事故の対応にもあらわれているが)、韓国では古代の自国史が文字史料になっていないというコンプレックスがあり、日本には日本近代史の欠落や東アジアについての知識の損傷が甚だしく目立つ。
 中・韓・日ともにそれぞれが歪んだ歴史的現在にいるのだが、今回の「NARASIA未来塾」の参加者たちはこれらの是正を本気でしたがっていた。なかでもかれらが気になっていたのは「漢字文化」と「仏教文化」のことだった。
 漢字のほうは中国ではすでに簡体字ばかり氾濫しているし(だんだん繁体字が読めない世代が広まっている)、韓国ではとっくにハングル全盛で新聞も教科書も漢字をほとんど使わない。それにくらべると日本は東アジア随一の漢字王国なのに(それなのに漢字検定ばかりにウツツを抜かして)、東アジアについてはまったく考慮も配慮もゆきとどいていないままである。
 仏教についても似たような事情がはびこっている。すでに日中韓ともに仏教とは“観光のお寺”のことであって、仏教思想をもって歴史観を鍛えるとか、欧米やイスラムの宗教意識と仏教哲学をくらべてみるなどということは、さっぱりエクササイズされていない。参加者たちはそこをどう考えていけばいいかということも、多少は真剣に考えようとしていた。
 東アジアにおいて仏教をどのように共通未来の問題にしていけるかという問題は、なかなかごっつい問題だ。しかしこの問題を融通しあうには、よほどに深く漢字文化圏や仏教文化圏が共通OSとして東アジアの歴史文化を動かしてきたことを、互いに学ぶ必要がある。「ひと夏の体験」だけではまだまだ十分にはなりえまい。
 とくにこの問題に投企していないのは若者・おやじ・オバサンの日本人のほうである。さすがのぼくも、もっと応えてあげたいという気持ちと、それにしても日本の若者・おやじ・オバサンがどれほど熱心になっていってくれるのだろうかという心配とが、二つながらやってきた。

  というような事情もあって、さて今夜は、前々夜(1424夜)のスキタイと匈奴の関係や前夜(1415夜)の大月氏の消長に続いて、きっと日中韓も中韓日もともに苦手であろう「魏晋南北朝」と「五胡十六国」のことをざっくり紹介することにした。
 テキストにはあえて中国が最近刊行した本を選んだ。全10巻シリーズ「図説中国文明史」のうちの第5巻『融合する文明・魏晋南北朝』だ。最近の中国で出版された「中華文明傳真」という全集の翻訳で、著者は南京博物院の研究教授、全巻を中国文物学会理事の劉偉(偉は火ヘン)が構成した。日本版の監修には早稲田の中国古代学の稲畑耕一郎が当たっている。
 かなり一般向けになっているが、著しい特色がある。魏晋南北朝や五胡十六国というのは、北方の遊牧民や異族が頻繁に出入りして複雑な政治事情が展開された時代なのだが、そのため夥しい殺戮と陰謀が連続しているにもかかわらず、そうしたことはかなり柔らかく捉えられていて(巧みに省かれていて)、むしろ北魏によって諸民族が「融合」していったことのほうに、つまりはその後の隋や唐による「中華帝国統一」がなされていった中華的偉大性のほうに、説明の流れをつくっているということだ。そのためついつい「周辺諸民族の文化の多様性を中国が手に入れたこと」を強調する。
 中国は魏晋南北朝によって胡風の習俗や西域仏教や均田制を受け入れるようになったのだから、たしかにこの時代にこそ中国史は「周辺諸民族の文化の多様性を手に入れた」わけだ。しかし、これを日本の歴史学者が記述すると、たとえば三崎良章の『五胡十六国』(東方書店)や川本芳昭の『中華の崩壊と拡大:魏晋南北朝』(講談社「中国の歴史」第5巻)がそうなのだが、匈奴以降の周辺民族の権謀術策の経緯をことこまかにちゃんと描写する。とくに徒民(しみん)政策がどのように発揮されていったか、その説明に手を抜かない。徒民というのは“異民族とりこみ政策”で、ヤマト朝廷が東北の蝦夷(えみし)に施した政策に近いものをいう。中国のほうではこのへんを省くのだ。
 そういうきらいはあるのだが、しかし、これが現在中国の一般的な歴史書のスガタなのであろう。さはありながら、図版が豊富な手に入りやすい中国側の中国史案内シリーズとして、日本人としては手元においておくと便利な10冊でもある。

 それにしても日本人には、五胡十六国を含む魏晋南北朝にはそうとうに無縁であるらしい。アウトラインだけをいえば、次のような時代なのである。
 西暦前後を挟んだ200年ずつにわたって前漢と後漢の君臨が続いた。これによって都合400年におよんだ漢帝国が、2世紀後半に入って「黄巾の乱」などがおこり、屋台骨がぐらぐらし、220年には名実ともに滅亡したわけである。
 これで中国は曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の鼎立による、いわゆる「三国志」の時代となった。中原の中国が割れたのだ。日本ではだいたい卑弥呼の時代にあたる。それでも三国鼎立は265年にいったん司馬氏の西晋によって仮の統一をみるのだが、そこから遊牧民族や異民族の出入りが甚だ激しくなって「八王の乱」などがおこると、中国全体が大きく北朝型と南朝型に分かれ、ここから魏晋南北朝時代と総称される時代に突入していった。
 このあと中国がふたたび統一されて随になるまで、およそ370年ほどが大乱世となった。370年間といえば平安時代や徳川時代より長い。中国史にとっても、春秋戦国期以来、最もめまぐるしく多民族並立がおこった政治分裂時代だった。
 なかで3世紀末から5世紀中期までの中国北部では、匈奴をはじめとして、怒涛のようにダイナミックな部族や民族の入れ替わりがおこっていった。これが「五胡十六国」なのである。五胡は「匈奴・羯(けつ)・鮮卑・邸(コザトなし)・羌(きょう)」をさすのが一般的であるけれど、実際にはこれらに丁零・烏桓(うがん)・扶余(ふよ)・高句麗などが複雑に交じっていた。しかし中華の見方では、これらはいずれも「胡族」と一括総称された。
 それら「五胡」の胡族の離合集散が、やがて「十六国」になった。十六国もふつうは「前趙・後趙・前燕・前涼・前秦・後秦・西秦・後燕・南燕・北燕・成漢・夏・後涼・南涼・北涼・西涼」とされるけれど、前趙/後趙、前燕/後燕、前秦/後秦/西秦というふうに、華北においては4世紀から6世紀の前期と後期でいろいろ建国メンバーの組み合わせが替っていったので、民族部族名でいえば十六国といっても主要国は趙・燕・涼・秦・夏などになる。
 これらは華北の「北朝」にあたっている。ほとんどがノマドな異民族の国々だが、前涼・後涼・南涼・北涼・西涼の五涼を数える涼のみは、張氏をリーダーとする漢民族の国だった。いずれにせよ、華北を北魏が統一するまでの北朝の総称が五胡十六国なのである。なかで北魏のことは、初期の中国仏教と漢化政策を語るうえでは欠かせない。
 一方、これに対して長江に近い地に広がった「南朝」が北朝とは別種の、さまざまな離合集散をおこしていた。このうちの6つの王朝を「六朝」ともいう。

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魏晋南北朝時代の王朝交替図

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五胡十六国王朝興亡図


  ぼくは長らく六朝文化に憧れてきた(いまも憧れがある)。そうさせたのは、講談社の「アート・ジャパネスク」(日本美術文化全集)全18巻の顧問だった長尾敏雄センセー(当時すでに京都大学名誉教授・中国美術史専門)のせいで、長尾センセーはぼくに六朝文化の薫りを徹底的に植え付けた。
 六朝には、書聖と謳われた王羲之の親子も、ケイ康・阮籍・王戎・阮咸らの「竹林の七賢」も、山水画をおこした顧鎧(リッシンベン)之(こがいし)も、田園詩や山水詩を始めた陶淵明(872夜)や謝霊運も、また暦法・算法に長けた祖冲之(そちゅうし)たちもいた。『老子』『荘子』『易経』の“三玄”を研鑽する「玄学」も六朝独特の流行である。ぼくの俳号「玄月」もここから採った。
 六朝は呉(222〜280)、東晋(317~420)、宋(420~479)、斉(479~502)、梁(502~557)、陳(557~589)の六王朝をいう。このうちの宋・斉・梁・陳が「南朝」になる。また、三国時代の呉から数えて東晋・宋・斉・梁・陳のいずれもが南の建康(南京)を都にしたので、この名称がある。
 いろいろな特色があるが、一言でいえば江南の貴族文化のロマンと隠逸の気風が渦巻いた。そのひとつが玄学やタオイズム(道教)で、もうひとつがそのころ広まりつつあった仏教である。北朝の北魏では西域から伝わってきた最初の仏教が栄えて大同や雲崗に巨大石仏を築きながらも、他方では道武帝の排仏が何度かおこったのだが、南朝では梁の武帝がかなり深く仏教に傾倒したので、独自の仏教文化が稔った。
 ボーディ・ダルマ(菩提達磨)が南インドあたりから訪れて長江(揚子江)に入り、洛陽の永寧寺の威容に涙したのも梁の武帝の時代のことだった。『洛陽伽藍記』にも詳しい。
 ぼくはかつて、この時代を舞台にダルマを主人公にした『西から来た男』という映画のシノプシスを書いたことがあった。マーロン・ブランドにダルマに扮してもらいたかったのだ。アメリカで活躍していた石岡瑛子(1159夜)さんがおもしろがって、ぜひフランシス・コッポラに監督を頼もうということになったのだが、すでにマーロン・ブランドは太りすぎていた。

 

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「アート・ジャパネスク」(日本美術文化全集)全18巻 講談社


  南朝のおこりは4世紀初頭あたりにさかのぼる。306年、晋(西晋)の王室が匈奴の乱入などによってことごとく滅ぼされたとき、ただ一人この難を免れた者がいた。琅邪王(ろうやおう)に封ぜられて山東の地に赴いていた司馬睿(しばえい)である。
 琅邪には王氏という屈指の豪族がいて、孤立した司馬睿を扶けた。王氏と司馬睿は「八王の乱」のさなかに江南に移って、建康を本拠にした。この動きに多くの中原の貴族や豪族たちが呼応し、南に移住をくりかえしながら「僑姓士族」(外来貴族)としてネットワークされていった。六朝文化はこのような僑姓士族のもとに花開いたものである。
 ちなみに、このうちの宋の時代(420年建国)に、日本は使節を派遣して「讚・珍・済・興・武」という安東将軍の称号、いわゆる「倭の五王」の称号をもらっている。『宋書』夷蛮伝倭国条にのこされた出来事だ。武が雄略天皇にあたる。『日本書紀』にはこの安東将軍についての記述はない。

 もう少し大きなアウトラインに進む。
 以上の魏晋南北朝の時代のことをグローバルに見ると、こうなっている。五胡十六国が激しい出入りをくりかえしていた時期、ヨーロッパにおいてはアーリア民族が動いてゲルマン諸族として次々に部族国家が乱立していた。スキタイからフン族へ、フン族からゲルマン諸族へ、とてつもなく大規模な民族トコロテンがおこっていた。
 ユーラシアはほぼ同時期に、西のゲルマン、中の遊牧民族、東の五胡十六国という、民族大移動期になっていたのだ。ゲルマン民族の移動と五胡十六国の動向はまったく同時期なのだ。
 それでもヨーロッパでは、このあとフランク王国が誕生してゲルマン諸族の統合がおこって、いわゆる「西ヨーロッパ世界」(西欧)が形成された。また、フランク王国から零れた部族たちの動向はスペインをはじめ、多様なヨーロッパの形成になだれこんでいった。そのため、こうした変貌の歴史について、ヨーロッパ人は初等教育でも中等教育でもけっこうな歴史学習をする。
 これに対して東アジアでは、魏晋南北朝のあとに隋唐帝国が生まれたのだから、事情は似ているところもあったのだが、隋唐帝国の前史でどのような混乱と自立の交代があったのか、あまり国民的な学習をしてこなかった。中国人は朝鮮半島や日本や東南アジアの歴史を自国史と同時に語るということもしていない。そればかりか、魏晋南北朝や五胡十六国を濃厚に評価する歴史研究者は、日中韓、中韓日いずれでも少ないままだったのである。中国では長らく「蛮族どもが中華を乱した」と説明されてきただけだったのだ。
 こういうところは、今日の中国が“失態”を隠すという歴史観や現在観を固守している態度にもあらわれている。

 さて、では、いったい五胡十六国のようなノン・チャイニーズの多民族複数部族が、なぜ互いに入れ替わり立ち代わってチャイニーズとしての中国史を彩るようになったのか。大事なところは、そこである。かれら五胡のノン・チャイニーズはその後の漢人中国の正史に混じっていったのだ。
 発端をよくよく知っておくべきだろう。
 後漢末、黄巾の乱(184)のあとの軍閥連中の争乱が全土に群雄割拠をもたらした。これが三国志の争乱につながり、この争乱を開口部として中国に次々に諸族が介入するようになった。これを治める力があったのはただ一人、魏の曹操だったろうが、その曹操ものちに五胡十六国と呼ばれることになる諸族を傘下に引き入れているうちに、呉や蜀との中原の内戦に巻きこまれ、「赤壁の戦い」(208)で三国鼎立を余儀なくされた。
 曹操はそれなりに諸族による混乱を収拾するつもりだった。たとえば、南匈奴は2世紀の半ばをすぎると約50万人まで膨れあがっていたのだが、188年に内紛がおこって二つに分裂した。曹操はそのうちの山西の単宇(ぜんう)を抑留して匈奴の力が再発するのを抑えた。幽州にいた烏桓(うがん)は2世紀末に袁紹(えんしょう)に支配されたものの、遼東などに勢力をのばしていたところを曹操が袁紹を撃って、烏桓20万人を配下に入れた。鮮卑(せんぴ)では2世紀中頃に檀石槐(だんせきかい)という君長のもとに全盛期を迎えたのだが、その死とともに分裂したため、曹操がかれらのリーダーたちを懐柔して役職に付けた。
 羌(きょう)は古くから甘粛や四川北部で匈奴などとも連携していた強力な部族だが、前漢の武帝も後漢の光武帝も武力介入したため、いったんは後漢に服属していた。後漢政府は羌族を移住させ、さらに分散させようと狙ったけれど、華北に点住することになった羌族は2世紀になるとしばしば蜂起反乱をおこして、しだいにその勢力を再成長させた。そこで曹操はこれを軍事力として利用するという方策をとった。

 こういうぐあいに、曹操は諸族異族の懐柔と利用が巧みであったのだが、途中、呉および蜀と決定的な対立をすることになって、その統合力にブレーキがかかってしまったのである。それを象徴するのが、派手なCGと戦闘場面で話題になった映画『レッド・クリフ』の「赤壁の戦い」だったのだ。
 水上戦に不慣れな曹操の魏は、ここで呉の孫権・周愈と蜀の劉備・諸葛亮の連合軍の作戦に破れた。これが黄河流域の中原を3分割させ、漢民族を3つに割ったのである。
 三国時代は、かなり活劇化されているとはいえ羅漢中の『三国志演義』(明代の創作)に詳しいし、映画やドラマや横山光輝のよくできた長編劇画でも日本人には大いに馴染みがある。けれども、では、あの三国志のドラマのあと中国がどうなったのかというと、日本人はさっぱり注目してこなかった。
 が、話はここからなのだ。

 三国鼎立は司馬懿(しばい)、司馬昭などの司馬氏の台頭でじょじょに解消され、西晋の武帝・司馬炎によっていったん統一された。
 曹操がつくりあげた魏をコアに司馬氏の西晋が中原を制したのだ。ところが司馬炎が死ぬと、たちまち帝位継承争いがおこって大反乱状態になった。これが「八王の乱」(290)で、八王と言うほどにトップを狙う者たちがあれこれ競いあったため(成都王の司馬潁など)、混乱がずるずる十数年に及び、あげくに西晋は滅亡した。
 これがきっかけに北方騎馬遊牧民の国々が乱立していったのだ。その引き金をひいたのは匈奴のリーダー大単宇の劉淵で、跡目争いのうえ「永嘉の乱」(311)をおこして漢を自称して国を立てた。ついで劉聡・劉曜が国号を「趙」(前趙)とするや、劉聡のもとにいた石勒(せきろく=羯の一族)が反旗をひるがえして新たに「後趙」を立て、ここから関中による勢力と関東による勢力とが華北を二分しながら乱立していったのである。
 遼西では鮮卑が丸都を攻略して扶余や遼東を確保し、関中ではチベット系の邸(コザトなし)や羌が力を増し、4世紀半ばになると華北は鮮卑の「前燕」と邸の「前秦」とが鎬を削った。こうしてこれ以降、華北はつねに胡族と漢族とがその背景でヘゲモニーを取り合う綱引きをしつづけたのである。
 このヘゲモニー争いをさらに激化したのは、「前秦」の苻堅(ふけん)が江南に拠点を移した「東晋」を潰そうとして大敗してしまった「肥水の戦い」(383・肥はサンズイがつく)だった。これで、それまで前秦を形成していた鮮卑・羌・邸(コザトなし)などが連合性を失って、それぞれが緩い縄を解かれたごとくに急速に自立していくようになったのである。
 以上であらかたの見当がつくように、「赤壁の戦い」「八王の乱」「永嘉の乱」「肥水の戦い」などの戦いが北方の五胡十六国を中国になだれこませたわけだった。

 

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十六国の民族と建国年代

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分裂時代の南北の境界線


   このような華北をやっと統一してみせたのは、鮮卑拓跋部がふくれあがって連合国家に達した北魏である。すでに述べてきたように、北魏の出現によって、以降の中国は「北の中国文化」(北朝)と「南の中国文化」(南朝)が両立していくという構造をとる。

 北魏は鮮卑拓跋部がつくりあげた国だった。鮮卑族には長らく慕容部(ぼようぶ)と拓跋部(たくばつぶ)という有力部族がいて、慕容部は河北に入って前燕・後燕などの国を立てていた。一方の拓跋部はもともと匈奴がいた東北の大興安嶺の北あたりに集住して、天下の動きに満を持していた。
 やがて3世紀、拓跋部のほうが周辺部族を集めて内モンゴルを制し(匈奴を散らして)、部族連合体としての大規模勢力となると、4世紀には山西省北部の大同(当時は平城といった)に降りてきて、ここを中心に北方および中原の王者になっていった。
 その拓跋部が「北魏」として統一されるのは、リーダーの拓跋珪が皇帝号を用いた道武帝になったときである(386)。ついで3代の太武帝のときに華北全域の統一がなしとげられた(439)。
 道武帝も太武帝も、それまでの五胡政権とはかなり異なる政策を打ち出している。鮮卑の一族を中心に、東西南北の方位にもとづいて8つの「部」を形成し八部とし、皇帝たちは従来の胡族の君主であることから中華の皇帝であることをめざした。これを「内朝」といった。
 最近、ぼくは気になって東アジアにおける「部」のことを調べているのだが、高句麗・百済・新羅・倭国にはどうもその国制の初期に「部」が動いている。高句麗では消奴部・絶奴部・順奴部・漢奴部・桂婁部という五部がある。百済には上部・前部・中部・下部・後部が、新羅には梁部・沙梁部・牟梁部・本彼部・漢岐部・習比部があった。倭国には部民制があった。
 この「部」のルーツに、どうやら北魏の八部制の影響がありそうなのである。それが北魏の独創だったかどうかはまだわからないのだが、おそらくは前燕などもこの「部」を活用していただろう。そうだとすると古代の東アジアの国づくり、すなわちNARASIAの共通OSに、かなり「部」のダイナミック・オーガニゼーションが動いていただろうと思われるのだ。

 

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敦煌莫高窟第二八五窟の壁画にあらわれた騎馬民族の戦闘図


  北魏の歴史はいくら注目してもしすぎるということはない。このあとの隋唐帝国のアーキタイプをいくつももっていた。
 わかりやすくいえば、官僚の登用とその制度化のつくりかた、国家祭祀のまとめかた、姓族の分定の広めかた、均田制などの生産システムの確立、封爵制度の改革、王朝としてのレジティマシーの整備といったことが、北魏によって準備されていた。
 こうした改変が着手されたのであるが、しかし、最も流動的だったのは儒教・仏教・道教が相並んできたことによって、国教をなかなか定め難かったことだった。漢の武帝の時代にいったん儒教が国教になったけれど、これはその後の三国時代・五胡十六国時代に道教の興りや仏教の導入が広まったため、ずるずる後退していた。六朝においても「竹林の七賢」などに象徴されるような隠逸の流行のほうが強かった。
 そういうなか北魏初代の太武帝は、こういうことはよくあることだけれど、道士の寇謙之(こうけんし)を信頼して自ら“太平真君”を称し、新興の道教を国教にしてしまったのである。すでに仏教が入って、これに呼応する者たちも少なくなかったのに、太武帝は道教を選び、廃仏毀釈に走ったのだ。
 ところが北魏がしたたかなのは、こうした動向は文成帝をへたのちの6代孝文帝の決断によって、大きく切り替わる。
  孝文帝は均田制を発案し(484)、三長制をしいた。均田制は15歳以上の成年男子に穀物を作らせるために田畑(露田・桑田)の土地を与える制度で、のちの唐の口分田や日本の班田収授のモデルとなったものである。三長制は戸籍システムで、五家を一つの「隣」とし、五隣を一つの「里」に、五里を一つの「党」に仕立てる中国流の隣組制度のモデルとなった。
 孝文帝がこのような新たな土地政策や人民政策を導入したのは、鮮卑に対する漢人たちの抵抗をできるだけ緩和するためでもあった。孝文帝はまた洛陽に遷都して、これをきっかけに北魏は「漢化」を進めるようになった。これがいよいよ始まったノン・チャイニーズ(胡族)とチャイニーズ(漢人)の混交だ。
 一方、太武帝の排仏政策にもかかわらず、文成帝や孝文帝以降の北魏には仏教が栄えたのである。これは、この時期までにインド仏教が西域をへて北方中国に次々に入ってきていたことと大いに関係がある。

 いずれ千夜千冊するけれど、この時代の仏教を知ることは、その後の中・韓・日の仏教思想と仏教文化の要訣をカバーすることの原点になる。なにより、西域から熱砂の砂漠やシルクロードをへて、次々に仏経僧が“五胡入り”をはたしていた。
 たとえばこの時期、すでに西晋では敦煌に生まれた笠法護(じくほうご ?~308)を登用していたのだし、後趙の石勒や石虎はクチャ(亀茲)の仏図澄(ぶっとちょう 233~348)を篤信して、その高弟の道安による西域仏教の中国化を図っていた。東晋では道安の門下だった慧遠(えおん 334~417)が登場して廬山に入り、中国初の念仏結社ともいうべき白蓮社をおこしていた。後秦の王だった姚興(ようこう)が鳩摩羅什(クマーラジーヴァ 344~413)を国師として招いて、74部384巻の経典の漢訳を任せたことはことに有名だ。
 北魏仏教はこうした下地の上に花開いたもので、五胡における仏教前史を巧みにとりこんだのである。とりわけ文成帝によって雲崗や龍門の石窟寺院の開削が始まると、巨大仏のオンパレードの威容を示した。その塑像たちは初期こそインド風のものが目立ったが、孝文帝が漢化政策に転じてからは、長身で首が細くて面長の「秀骨清像」や士大夫階層の衣服を模した「褒衣博帯」を特色とした。雲崗は大同の西13キロに、龍門は洛陽の南14キロのところにある。
 ついでながら強調しておきたいのは、これらを初めて世界に紹介したり調査研究したのは先駆的な明治の日本人たちだったということだ。伊東忠太(730夜)や関野貞が先駆し、昭和11年に京大の水野清一と長廣センセーが初めて本格調査した。またちなみに、今夜は詳しいことは述べないが、雲崗・龍門の石窟ブームは敦煌の莫高窟を頂点とする西域仏教のダイレクトな流入でもあったのだが、そうした西域仏教の調査研究も明治大正期の西本願寺の大谷光瑞を隊長とするいわゆる大谷探検隊や、狩野直喜・内藤湖南(1245夜)・小川琢治らが早々と手掛けていた。当時の日本人は東アジアにめっぽう強く、また東アジアが大好きだったのである。

 北魏は中国史上では異例な性格をもっていた。前王朝の禅譲を受けることなく成立した王朝だったのだ。そのことについて、ちょっとふれておく。
 中国では古来より五行によって国家の特性をみなす習慣をもってきた。五行は周知の通りの木・火・土・金・水で、世界はこの五行をもって構成されているとされた。そこで、どの王朝も五行のいずれかを担って、木・火・土・金・水の順に興亡すると考えられてきた。これを「五行の行次(ぎょうじ)」といった。たとえば漢は火徳を受け、曹操の魏は土徳を受けたとみなされた。
 この行次からすると、北魏は先行した前秦の火徳を受けて土徳になるはずだった。ところが孝文帝は北魏の行次を土徳から水徳に変えてしまったのだ。これは北魏が西晋の金徳を受けたということで、ということは中国正史を継承しようとした北魏からすると、趙や燕や秦などはしょせん“僭偽の国々”だということになる。孝文帝は、鮮卑拓跋は五胡ではないというロジックの表明をしたということになる。
 こういうことも北魏はなしとげたのだ。それを物語るさらにいくつかの“操作”もおこっていた。

 中国の皇帝には、古来、死後には廟号と諡号の二つが与えられてきた。北魏をおこした拓跋珪の廟号は太祖、諡号(おくりごう)は道武帝。拓跋宏の廟号は高祖で、諡号は孝文帝なのである。
 が、実は拓跋珪太祖の廟号は孝文帝のときにあとからつくられたのだった。これは孝文帝の“操作”なのだ。
 国家祭祀も「祀天(してん)」の統一が図られている。鮮卑拓跋にはもともと7体の木主(ぼくしゅ)をもってその祭祀を飾るという風習があった。7つの主要部族を象徴してのことだ。が、やがて北魏を拓跋部が支配すると、その中華化がめざされたのだった。孝文帝は7つの木主を一本化して国家祭祀をまとめあげたのである。

 カジュアルな生活習慣にも思い切った変革がなされた。とくに劇的なのは胡服や胡語の使用禁止だ。学校の服装規定からタリバンの髭まで、こういう見かけの問題は、実は生活者・思想者・表現者の意識と行動に大きな縛りと緩みをもたらすのだが、それをあえて断行してしまったのである。当然、こうした北朝の制度が気にくわない者たちが南朝に流れていったのも、当然なのである。
 北魏孝文帝の「漢化方針」こそおそるべし。かくして五胡のノン・チャイニーズの動向の大半が、形式的にも生活的にも意識的にも、チャイニーズのレジティマシーを獲得していったわけである。

 

 

 

王羲之◎六朝貴族の世界

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 しばしば「六朝の書、唐の詩、宋の画」という。六朝が書の時代といわれるのは、六朝最初の東晋に書家の王羲之・王献之の親子やその書をとりかこむ文人たちが出現したからだ。親子は同時代に「二王」とよばれ、なかでも王羲之はその後ずっと「書聖」と称賛されてきた。
 しかし六朝を書や王羲之たちだけで語る前に、そもそも六朝文化がなぜ芽生えたのか、そこを知っておく必要がある。「二王」をめぐる歴史だってけっこう波瀾に富んでいた。
 王羲之の一族は「琅邪臨沂の王氏」という名門である。琅邪(ろうや)の臨沂(りんぜき=現在の山東省)という土地に発した一族だった。その王氏の一族が名門家系に名をつらねることになったのは後漢末の王祥からのことで、王祥は当時の二十四孝の一人に数えられるほどの清貧の士であった。王祥のことはわが国でも御伽草子などにも採録されているが、中国では『世説新語』にその行状が語られてきた。

 王祥には異母兄弟がいた。王覧である。王羲之の曾祖父にあたる。琅邪出身の当時のトップ貴族だった。
 王祥も王覧もそれなりに出世して、王祥は西晋の司馬炎のもとで高い役職の太保に、王覧は光禄大夫になった。しかし西晋は潰え、五胡十六国が乱れて八王の乱がおこり、中国は370年にわたる魏晋南北朝に揺れていった。
 このなかで華北を統合できたのは前夜(1426夜)でも述べたとおり、道武帝や孝文帝の北魏であるが、中国全土を統一できたのは西晋だけだった。しかしながらその西晋も胡族たちの激しい出入りのなか、江南に逃れて東晋にならざるをえなかった。
 が、それが六朝分化を花開かせることになる。

 江南に移動する計画を律したのは、八王の一人だった司馬迪の直系にあたる琅邪王の司馬睿である。その懐刀として、王覧の孫にあたる王導や王敦、および王羲之の父の王曠がいた。
 司馬睿は都督揚州諸軍事という役職をもって江南一帯の軍事権を掌握すると、王導らを引き連れて建康(南京)に移り、ここに東晋を建国して元帝となった。
 このとき地元の貴族のリーダー顧栄にとともに建国事業に携わったのが、王導・王敦・王曠らの王氏一族なのである。そのめざましい活躍の様子は「王馬、天下を共治する」と言われた。王氏と司馬氏が江南の天下を治め、貴族による門閥政治を確立したというのだ。ただ王曠は壮年に達することなく病いに倒れ、その家督を王羲之が継ぐことになった。

 東晋は、王馬(王氏と司馬氏)のような外来の「僑姓士族(外来貴族)」と土地の豪族・貴族との結託で劇的に躍進した。たちまち江南が開発されて、クリークが網の目のように張りめぐらされ、低湿地は美田に変貌し、この地に移住してくる者が絶えなくなった。
 その中心のひとつに会稽があった。現在の紹興である。あの紹興酒で有名な紹興だ。魯迅(716夜)の故郷でもある。山水がこよなく美しい。東山に居をかまえて、さっそく大通人ぶりを発揮したのは謝安(謝安石)である。いつも清談や詩作をものしながら、山水に遊ぶときは数人の伎女を連れていた。謝安は東晋きっての名門の出身で、東晋を救った政治家でもあった。
 東晋が江南に新たな政治文化を広めつつあったころ、長江の上流地域で桓温が登場して、かつての荊州と蜀とをあわせもつほどの一大勢力になっていた。桓温は東晋にも関心をもったが、そこには征服欲が見え隠れしていた。これを阻止して東晋に六朝文化の礎えを確保したのが謝安だったのだ。ちなみに謝安の弟の謝万(しゃばん)も清談が好きだった。談論風発の清談には詩人の許詢(きょじゅん)や孫綽(そんしゃく)も加わった。
 351年のこと、そうした会稽の地に王羲之が右軍将軍・内史(長官)として赴任した。
 王羲之はすぐに会稽の風水が大いに気にいって、ここを終焉の地に決めた。そればかりか、永和9年(353)の上巳(じょうし=3月3日)の節句の日、会稽山陰県の西南20里(7キロほど)の蘭亭に時の名士たちを招集し、世に名高い「蘭亭の盟」を結び、祓禊(ふっけい)の儀式をおこなって、流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴を催した。
 集まった名士は謝安、謝万、許詢、孫綽、支遁、王献之をはじめとした名だたる42人。春うららかな宴であった。そのうちの26人が詩作を寄せた。その詩作集『蘭亭集』の前序が王羲之の筆による、かの歴史上最も著名な書作品となった「蘭亭叙」なのである。すでに真蹟は失われているものの、古来、天下の名筆とよばれてきた。後序は孫綽がものした。
 「蘭亭叙」は次の言葉で結ばれている。3・11以降の日本にこそ、この意味が響きわたる。まず綴る、「後の今を視るは、またなお今の昔を視るがごとし」というふうに。そして締めくくる、「世、殊(こと)なり、事、異なるといえども、懐(おもい)を興すゆえんは、その致(むね)一つなり。後の覧(み)る者は、亦まさに斯の文に感ずるあらんとす」というふうに。

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「流觴亭」
王羲之たちが「蘭亭の盟」を催し、風流を楽しんだ場所。
(紹興市内「蘭亭」)

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 清流が流れる「流觴曲水」の跡
順番に杯をまわしながら、歌を即興で詠む宴を催した。
(紹興市内「蘭亭」)

 
 王羲之という男の心情、なかなか掴めない。
 なにより、とびきりの官吏だった。琅邪臨沂の名門貴族に生まれ、いずれも江南文化の誕生に寄与した王氏の血を承けて、かつ多忙きわまりない官吏の仕事をこなした。秘書郎から身を立てて、寧遠将軍、江州刺史、護軍将軍、右軍将軍、会稽内史という順に難職要職をまっとうしてきた。これらが王羲之が生涯でもった肩書なのである。ここまで、どこを見てもピカピカだ。
 しかし、このような多忙きわまりない官吏であったにもかかわらず、王羲之は「逸民」たらんことをめざした。逸民については、ぼくも親しく『山水思想』(ちくま学芸文庫)や千夜千冊「陶淵明」(872夜)に説明しておいたけれど、逸民概念は中国文化における隠逸思想や狂草思想を解くうえでのキーコンセプトになっている。
 逸民は、時や場面や思想者によって、隠者・処士・遺民・幽人・高士・隠君子・逸士・隠士などと示されてきた。そこには遁世・隠遁・棲遁・幽静・高踏、そしてときに清貧と高潔が、ときに狂乱と逸脱が、ともなった。
 その出自において逸民があるのではない。「乱世」とともに逸民の志が出たのだ。その起源はすでに孔子の『論語』の伯夷・叔斉の兄弟のエピソードにある。殷末の孤竹君の二子とはいかにも昔すぎるけれど、いそれでも、孔子だけでなく荘子(726夜)も孟子も、逸民にはただならない関心を寄せていた。そこには体制に対する根本批判があったからだ。
 以来、竹林の七賢まで数多くの逸民がさまざまな噂をふりまいたのだが、王羲之はそうした逸民の行状に必ずしも賛同したのではなかった。謝万に送った尺牘(せきとく=書簡)には、こんなふうに書いている。「古来の隠逸者は紙を振り乱して狂人を装うか、あるいは故意に汚れた行為に出るかして、とかく容易ならざることでありました。しかし私はいま、坐したままで隠逸者となりおおせ、かねてからの志を実現することができたのです」。
 どうも王羲之は「新たな逸民」の理想を探求したようなのだ。それを「タオ回帰」とでも言えばいいのか、それとも「山水合一」と言えばいいのか、ぼくはまだ迷っている。

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王羲之の尺牘「喪乱帖」
(唐の内府で搨摸した摸本 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)


  王羲之には7男1女がいた。長男の王玄之が早逝したのをのぞくと、王凝之・王粛之・王渙之・王徽之・王操之・王献之がいずれも成長して、献之の書がそうであったように、のちのち文人としての気質をあらわした。
 よほど父親としての配慮があったにちがいない。本書にあれこれ案内されている数々の尺牘を見ると、王羲之は家族にはかなり優しく、しかも家長としての細かい気配りをしている。とくに「目前」ということを大切にしていたらしく、「少しでもおいしいものがあれば、みんなで分かちあい、目前をたのしんだ」といった表現が少なくない。
 しかしよくよく考えてみると、この父親像と逸民への愛着は、本来なら同居しがたいものなのである。「目前」のアクチュアリティと山水に埋没する気質も、うまく重ならない。逸民の本質は逸脱を弄ばないにしても、「拙」あるいは「訥」ないしは「朴」(あらき)に、その精神と行為の根拠があったはずなのだ。
 もうひとつ気になるのは、「仕」と「隠」とはそもそも別々の方向をむいている生き方であるはずなのに、これが王羲之においては連続できていたということ、またはデュアル・スタンダードになりえていたということである。

 中国の官僚制度は、漢代の九品中正法このかたきわめて厳格で、上下をひどく決めたがるものとして機能した。
 地方の仕官においても九品に品第(ランク)を分け、これを郷品(きょうひん)と名付けて、高位を「清官」と呼び、低位を「濁官」と呼んだほどなのだ。おまけに「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われたように、高位高官には低い家柄がなく、低位の者には有力家族はいないというのが定番だった。これがいわゆる「譜牒」(家系書)として巷間にまで知れわたったのである。
 王羲之の一族は、こうした高位高官の門閥貴族の家柄をほしいままにし、王羲之その人もそこそこの高位高官の日々をまっとうした。ただ、王氏が司馬氏とともに江南の建康に逃れてきたということ、そこが漢民族が初めて長江を渡った別天地であったということ、このことが従来の歴史にはまったくなかったことだった。
 そうだとすれば、王羲之は「仕」と「隠」の同時成立を、この六朝建国の一大事において早々に果たしていたとも言えるのである。

 さて、いまさらながらの話であるが、王羲之は天下の能書家であった。中国書道の議論は王羲之から始まると言っていい。
 その書は「蘭亭叙」「十七帖」「楽毅論」「黄庭経」「東方朔畫賛」「孝女曹娥碑」「集字聖教序」などとしてのこされているが、どれもこれもが後世に集字されたか模刻されたかで、決定的にこれが真筆だと言えるものがない。ぼくが好きな「十七帖」にして、豬遂良(豬はシメスへん)、王知敬、王行真らによって整理表装されたうえ、解天畏による双鈎填墨(そうこうてんぼく)がされていた。
 もっとも双鈎填墨とはいえ、その技能はまことに驚くべきもので、蝋紙を原本の上に重ねて籠字をとるか、遊糸筆で丹念に輪郭をとるという手法を、当代の最もすぐれた書芸者がとりくむのだから、ほとんど真蹟と見まごう出来栄えになるのである。それで王羲之鑑賞はほぼ十全でもあった。
 それゆえ、かつて中村不折は「十七帖」について、草書は初めて王羲之によって完成された。「十七帖」の独草はその標本である。後代の草書の先祖である。連綿草も狂草も、みなこの独草から派生したと述べたものだった。
 それはそれとして、王羲之がなぜこれほどの名筆に達したのかといえば、ひたすら一途に研鑽を重ねたのだろうとしか言いようがない。「蘭亭叙」は鼠髭筆(そしょひつ)をもって蚕繭紙(ざんけんし)に書きあげたことがわかっているのだが、こんな筆紙の組み合わせで柔らかく書き上げるのは至難の技である。王羲之自身、このときの書をその後も何度か浄書したにもかかわらず、ついに最初の書に及ばなかったと告白している。
 しかし、今日伝えられてきた王羲之の書は、真行草いずれも完璧なのだ。それは逸民の書ではない。芸術家の書というべきである。それでもそういう王羲之をして「自論書」では、自分の書はまだ鐘徭(しょうよう・「よう」のフォントがない)と張之(ちょうし)には及ばないとしている。
 この男、どうにもその心底をなかなか見せない深さに遊んだようである。それが六朝文化の到達点でもあったのだろう。

 ところで六朝は東晋のあと、宋・斉・梁・陳と続いた。420年に劉裕が東晋の最後の皇帝である恭帝を禅(ゆず)りうけ、武帝となって開いたのが宋朝である。
 文帝のときに「元嘉の治」を栄えさせ、人口517万人を擁したものの、あとがひどかった。北魏の討伐を計画してもののみごとに失敗した。文帝は皇太子に殺され、その皇太子も弟に殺され、孝武帝は子供16人が殺害されて、宋朝は滅んでいった。
 宋については、やはり陶淵明(872夜)が「仕」から「隠」に転じて桃源郷を謳ったこと、『宋書』倭国伝に「倭の五王」のことが克明に綴られていることが、欠かせない。
 次の南斉は蕭道成が建国するが、さしたる成果もなく、梁がこれを継承して蕭衍(しょうえん)が武帝として50年ほどにわたって君臨した。ここでまた六朝独特の文化が開いた。とくに仏教と漢詩である。六朝は、のちに「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」とうたわれるのだが、それらの多くを武帝が建てたか、支援した。
 前夜(1426夜)にも書いたけれど、このとき南インドあたりから碧眼巨怪のボーディ・ダルマがゆらゆらと揚子江(長江)を渡って梁に入ったのである。貧相な赤衣のダルマの異様な噂を聞いた梁の武帝は宮廷に呼び、どのようにしたら仏教的安寧が得られるのかと尋ねると、ダルマがそこで答えたのが有名な「安心立命」の問答である。禅林では「安心問答」(あんじんもんどう)と呼ばれてきた。ぼくがけっこう気にいっている問答だ。
 梁の六朝文化の武帝の長男の昭明太子蕭統が編集した『文選』(もんぜん)も、すばらしい。随唐の文芸も、わが聖徳太子の十七条憲法も、この『文選』のまともな影響の中にある。
 しかし、こうした梁もやがては潰え、六朝は陳をもって終わる。それは魏晋南北朝の終焉でもあった。時代はいよいよ隋唐に向かう。では、いったい南北朝文化とは何だったのだろうか。ぼくとしては顔之推(531~602)をもってその真骨頂を訴えたいと思う。

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『文選』(六家文選)
蕭統とその文臣らにより編纂された現存する最古の詩文集。
東周から南朝の梁までの文学者130余人の700作品余りを収録している。
図は「六家(六臣注)」の注釈本
(国立故宮博物院所蔵)


 顔之推は『顔氏家訓』の著者として有名であるが、それよりも梁・北周・北斉・隋という4つの王朝に使えて波瀾万丈の生涯を送った者として象徴的なのである。
 顔之推は軍政下の北周で命を賭して妻子とともに大洪水中の黄河に小舟で船出していった者として、建康や江陵や北周の都を見続けてきた者として、また、河南省霊宝の陝(せん)より孟津の河陰にいたる700里を一夜にして下って北斉に亡命した果敢の人物として、いまなお南北朝史の最期を飾っている。
 その生涯は顔之推自身によって、「予(われ)は一生にして三たび化し、茶苦(とく)を備(な)めて蓼辛(りょうしん)たり」と述べられている。けれども顔之推を顔之推たらしめたのは、どんな危難のときも“読書者”たることを捨てなかったということである。
 そこで言っておきたい。“読書者”とは、本ばかり読んでいて、何らの行為にも及ばなかった者という意味ではない。読書の持続が、突如としての危難(リスク)に対する勇気を育んでいたということなのだ。顔之推は“読書者”というリスクテイカーだったのである。

 

 

シルクロードの宗教

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  何度か書いてきたことだが、ぼくは昭和38年(1963)入学の早稲田大学で、互いに関連がなさそうな3つのサークルに属した。早稲田大学新聞会、劇団素描座、そしてアジア学会である。
 新聞会では学生左翼活動にまみれ、素描座ではゼラチン番号をおぼえる照明屋たらんとし、アジア学会では松田壽男さんのアジア観を学ぶつもりだった。どれも中途半端だったけれど、それなりの体験をした。少なくともつまらない授業よりはずっと刺戟的だった。
 当時のアジア学会の仲間たちのあいだでは、ぼくが関心をもったアジア仏教史やタオイズムや古代朱問題やモンゴル帝国の秘密などは人気がさっぱりで、もっぱらシルクロードが脚光を浴びていた。例の喜多郎のシンセサイザー音楽に乗せたNHKスペシャル『シルクロード第1集』が始まるのが昭和55年(1980)で、日本人にシルクロード・ブームがおこるのはそれからだから、これはけっこう先駆的なことだったのだろう。
 先駆する理由があった。そのころの早稲田にはなんといっても長沢和俊センセーがいて、当時のシルクロード研究を一手に引き受けている台風の目だったからだ。アジア学会もその勢いに乗っていた。ぼくものちのちには『シルクロード史研究』(国書刊行会)や『楼蘭王国』(徳間文庫)や『張騫とシルクロード』(清水新書)などのお世話になったけれど、そのころは松田センセー一辺倒だったのだ。

 古代シルクロードは「絹の道」とはかぎらない。絹馬の道であり、民族の交差路であり、大乗仏教の道であり、ソグド人やウイグル人の道でもある。
 シルクロードは1本でもない。何本もの道の平行と交錯がシルクロードであった。北方ユーラシアのステップ地帯を北緯50度あたりで横断する「草原の道から」、中央アジアのオアシス・ルートを北緯40度あたりで点綴(てんてつ)する「熱砂の道」まで、シルクロードはかなりの幅と複合的な支線とをもって、時代ごとに躍動してきた。紅海・ペルシア湾かららインド洋・東南アジアをへて華南に達するルートも「海のシルクロード」だった。
 シルクロードがこんなに話題になったのは、ベルリン大学の地質学者で地理学者でもあったフェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(1833~1905)が、ユーラシアにまたがる東西交渉路を「ザイデンシュトラーセ」(Seidenserassen)と名付けてからである。リヒトホーフェンは7度にわたって中国各地や中央アジアや西域各地を踏査して、その成果を1877年から続けざまに『支那(ヒナ)』全5巻として発表した。
 それがオーレル・スタインによってただちに英訳されて「シルクロード」になり、スウェン・ヘディンが『シルクロード』(西域冒険記)を書いたのが、アルベルト・フォン・ルコック、大谷光瑞、ポール・ペリオ、ラングドン・ウォーナー、ジェリー・ベントレイらの研究欲や探検欲を駆り立てた。
 ちなみにこのなかのウォーナーというのは、映画『インディ・ジョーンズ』のモデルになったハーバード大学の教授である。日本もこういう冒険的な学者や研究者を映画にしてみるくらいの茶目っ気がほしいけれど(たとえば狩野亨吉・杉山茂丸・権藤成卿・本田宗一郎・大森荘蔵などをモデルにして)、どうもそういう映画は少ない。だからマンガ家たちががんばれるのだが‥‥。
 ともかくも、リヒトホーフェンのこの「ザイデンシュトラーセ」という創発的なネーミングがなければ、「シルクロードの遊牧文化」も「シルクロード・ロマン」も「シルクロードから平城京へ」もなかっただろう。ペルシアと敦煌と正倉院をつなぐ楽器の道もなかったろう。

 とはいえ、シルクロードはたんなる「絹の道」ではないと、やっぱり言うべきなのである。
 匈奴が跋扈し、張騫(ちょうけん)が大月氏に向かい、マニ教が動き、隊商宿キャラバン・サライ(ペルシア語のカールバーン・サラーユ)が点々と連なり、ホータンやクチャに西域文化が花開き、仏教が東漸して敦煌に千仏洞をつくらせ、数々の貨幣が飛び交った文明路なのである。
 最近(2011年2月)になってやっと東洋文庫に入った『トルキスタン文化史』(平凡社)をものしたロシアの最も偉大な東洋学者ヴァシリー・バルトリドは、「シルクロードは草原と播種の共生文明路だった」「遊牧民と定住民のあいだにはたらいた民間の文明の力学だった」と喝破した。
 本書もそのような立場で書かれている。ただし著者のフォルツはハーバード出身で、いまはフロリダ州立大学にいる気鋭の東洋宗教学者なので、本書ではシルクロードを東西南北に移動しつづけた諸宗教だけを扱った。ゾロアスター教、東アジア型ユダヤ教、大乗から密教や禅にまで及んだ仏教諸派、東方ネストリウス派、マニ教、そしてイスラーム各派である。
 訳者の紹介によると、フォルツという研究者もおもしろそうな人物だ。イラン宗教とイスラームの専門家であるが、かつプロの音楽家としてCDを制作したり、未発表ながら小説も書くような異能研究者であるらしい。ネットで写真を見ると、うーん、なるほどオタクっぽい(笑)。アフロディテ・デゼネ・ネバブという夫人も写真家で、夫のフォルツが2000年から勤務しているフロリダ州立大学の芸術学部の助教授をしている。日本のドキュメンタリー・テレビ屋たちは、こういう夫妻をこそ取材するといい。
 ついでながら、本書の訳者も若い。1973年生まれで、東大の人文社会系研究科を修めたのち、真宗大谷派の親鸞仏教センター(ここはたいへん精力的な研究とメディア発信をしているところ)や、東大の博士課程をへて、主に中国における外来宗教思想を研究しているようだ。

 では、本書が扱っているシルクロードの諸宗教を、ごくかんたんに集約して見ておきたい。
 かんたんに紹介するけれど、ユーラシア宗教史の中の内容はけっこう複雑である。多神多仏と一神教が交じりあっているのだし、諸言語が入り乱れつつ、仏教でいうならその諸言語と諸信仰がしだいに漢訳され、シノワズリーな様相に覆われて、そのまま儒教や道教をともなって日本にやってきたわけである。
 そのようなシルクロード諸宗教を欧米人が扱うには、ちょっとした覚悟がいる。西欧史観を脱いでかからないといけない。そういう意味では、本書は西欧史観の転倒を試みたアンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)などの主旨を受け継ぎ、それを古代に展開しているものでもあった。今後は少しずつかもしれないけれど、きっと注目を浴びていくにちがいない方向を示している。ただし、残念ながら仏教にはあまり詳しくない。

 で、まずゾロアスター教である。
 シルクロードを越えて南北朝の周や斉で王族・貴族に広がり、唐ではケン教(示ヘンに天)とも拝火教ともよばれ、いくつもの拝火殿堂の営みさえあった、あのゾロアスター教だ。松本清張(289夜)が『火の回路』(火の道)で幾多の謎を追いかけた、あのゾロアスター教である。
 宗祖ゾロアスター、すなわちザラトゥシュトラ=ツァラトゥストラは、世界の天啓宗教の創唱者のなかでもかなり古く、紀元前1200年ころのイラン東北の、現在はカザフスタンにあたる地方に生まれた(メアリー・ボイス『ゾロアスター教』376夜参照)。その教えはおそらく自分たちのことを好んで「アイルヤ」(アーリア人)と呼称していただろう部族(民族)のあいだに広まったと思われる(青木健『アーリア人』1421夜参照)。
 それゆえ一般的には、ゾロアスター教は「大イラン」に広まっただろうと思われているだろうけれど、最初のイラン人の王国メディアやアケメネス朝ペルシアにおいても、“ゾロアスター化”とはいまだ“イコール=イラン化”ということでもあって、宗教として確立していたのではなかった。ゾロアスター教が確立するのは、実質的にはやっと紀元前後が活動集約期になってからのことなのだ。経典『アヴェスター』や『ガーサー』によるその体系化も、3世紀にササン朝ペルシアが国教にしてからだった。マギ(ゾロアスター教の司祭)たちの位置付けもやっとこのころに確定した。
 しかしゾロアスターっぽいものがまじったイラン的宗教性となると、たとえば「アフラ・マズダ」はアッシリア語では「アサラー・マザズ」に、サカ語では「ウルマイスデ」となっていて、急に広がりをもつ。紀元以前からそういう裾野の広がりがあった。シルクロードを東漸できたのも、その柔らかさのせいだった。
 それでもアケメネス朝ペルシアのダレイオス大王がサカ族やエラム族の信仰を、「かれらはアフラ・マズダをちゃんと崇拝していない」と文句をつけたように、アフラ・マズダのことは知られていた。ただしそれらは、まだゾロアスター教ではなかったのだ。

 

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ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ
翼のある半獣身の姿で表される


 次にユダヤ教。ユダヤ教がシルクロードに浸透していなかったかといえば、やっぱり染み出していた。
 すでに『列王記』に、イスラエルの10支族が「ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に追放された」とあるけれど、これはアッシリア帝国が紀元前722年に北イスラエル王国を破壊して、居住者たちをアッシリアの各地に移住させたことにあたる出来事だろうから、ホラサーンあたりの中央アジアにはイスラエルの民がいろいろ散っていたはずなのだ。
 そのあとの南ユダ王国だって150年ほどはもちこたえたが、やがて前587年に新興のバビロニアによってエルサレムの神殿が破壊されたのだから、このとき以来、ユダヤの民がメソポタミア方面に散ったのである。しかもこのディアスポラ(離散)のあと、ペルシアのキュロス大王はバビロニアを征服してユダヤ人や奴隷を解放すると、さらにバクトリアやソグディアナにまで攻め込んだのだから、ここでまたブハラやサマルカンドのユダヤ人共同体の前身が残っていったと想像もできるはずなのである。
 のみならず、本書は古代ペルシアに始まってヘレニズムとパルティア王国時代をへたイラン的信仰は、かなりユダヤ的信仰と共振をおこしていっただろうとしている。それどころか、ユダヤ教に終末論やメシアの概念や最期の審判の観念が確立にするにあたっては、イラン的なるものの影響が大きかったのではないかと推測もする。
 さらに、これにはぼくも驚いたのだけれど、『ヨブ記』(487夜)に登場する天使と悪魔の概念や「告発する者」(ha-satan)という言葉も、イラン信仰におけるアングラ・マインユ(悪霊)やアーリーマン(闇の支配者)の影響だろうというのだ。
 いまはチェンマイにいて、ネパールやモロッコを飛び歩いている、イシス編集学校「6離」の花形だった花岡安佐枝は、少女のころに『ヨブ記』を読んで“世界”にめざめたようだけれど、この話を知ったらびっくりするだろう。

 キリスト教はシルクロードに関係したのだろうか。むろん大いに関係した。その代表が東方教会であり、ネストリウス派だ。
 西アジアでのリンガ・フランカ(共通語)であったシリア語は、実は東方教会の典礼言語になっていた。そのシリアでの428年、シリア人の司祭ネストリウスがコンスタンティノープルの総司教に任命された。就任まもなくネストリウスはアンティオキア派の立場に立って、「神を小さな少年であるかのように扱ってはならない」と主張した。総主教のムキュリロスがこれに猛烈に反対した。
 初期キリスト教というもの、勢力を増すにしたがって、しだいに二つの立場が対立するようになっていた。対立した二説は、キリストは二つの異なったペルソナ(位格)をもつという「キリスト両性説」(アンティオキア派)と、いや、キリストは永遠の神聖なロゴスであるとする「キリスト単性説」(アレクサンドリア派)だ。
 アンティオキア派は「キリストには神としてのキリストと人としてのキリストがあるのだ」と言い、アレクサンドリア派は「キリストは人であって神である」とした。マリアの性格を決めるにあたっても、アンティオキア派は「キリストを生んだもの」(クリストトコス)としてのストレート・マリアを、アレクサンドリア派は「神の母たるもの」(テオトコス)としてのジェネラル・マリアを重視した(シュライナー『マリア』359夜参照)。
 ビザンティン帝国の皇帝テシオドスは、アンティオキア派のネストリウスに少なからぬ好意をもっていたようだが、実力者の姉のプルケリアはあからさまな反感をもっていた。そこでキュリロスはプルケリアを立ててネストリウス批判に乗り出した。431年、皇帝はエフェソスで公会議を開くように指示し、マリアの意義の確定を求めた。
 議長となったキュリロスがアンティオキア派をまんまと異端としたのは驚くにあたらない。いつの世でも、こんな近親者や取り巻きの進言くらいのことで未来の方針が決まっていくものなのだ(毛沢東の四人組問題もブッシュの戦争も原発問題の次代決定なども‥‥)。
 こうしてアンティオキア派、別名「ネストリウス派」はローマ教会の支配を離れ、ササン朝ペルシアの首都であったクテシフォン(現在のバクダード付近)に主座をおくことになる。これが「東方教会」の始まりである。

 ネストリウス派はすぐさまソグド人のあいだに広まった。ソグド人はシルクロードの実際的な“動く主人公”で、ソグド語はシルクロードのリンガ・フランカ(共通語)であったから、ネストリウス派キリスト教はたちまち拡張し、いくつもの拠点をもつようになった。
 ソグディアナの中心都市サマルカンドに総主教座ができ、カシュガルにもその出店ができた。シル河(オクサス)の東側だけでも20ものネストリウス派の司教区があったという。
 パウル・ペリオによれば、こうして8世紀末までに少なくとも30点のネストリウス派の文献が敦煌で中国語訳されて、そのままその教えが中国センター部に流れこんだのである。これが「景教」だった。781年に唐の長安に建立された「大秦景教流行中国碑」が、以上のすべてを物語っている。

 マニ教はペルシア系・イラン系の宗教である。
 創唱者のマニ(マーニー)は216年にバビロニアで生まれ育ち(パルティアの王家の血を引くとも言われる)、ササン朝のシャープール1世が即位した前後に決定的な精霊の啓示を受けて、伝導を開始した。
 早々にシャープール1世の弟が帰依したため、その推薦でクテシフォンの王宮に招かれたマニは、教義書『シャープラカーン』を綴り、その後はアラム語による教義書を執筆した。弟の勧めもあってシャープール1世もマニを寵愛し、しばしば遠征に同行させたが、これはマニに医術の心得があったからだとされている。絵の技量もあったようだ。
 244年、マニは高弟のアッダーとパテーグを東方シリアに送り、伝導を広げさせたのだが、やがてゾロアスター教のマギたちの反発を招き、迫害や弾圧を受けた。やむなくシャープール1世のあとの皇帝ワフラーム1世に迫害の中止を訴えたのだが、かえって捕らえられて投獄されると、ほどなくして獄死した(あるいは処刑された)。
 それでもすでにマニ教の勢いは広がっていて、西はシリアからエジプト、北アフリカに(4世紀以降はさらにアンダルス、スペイン、南フランス、イタリアに)、東は西トルキスタンからシルクロードを進んで、7世紀末には唐に達した。
 とくにウイグル人はマニ教を好み、突厥第二帝国のあとのウイグル帝国(740年代から840年代まで)では国教にされた。マニ教を国教にしたのは世界史上ウイグルだけである。
  マニ教の特徴はそのヘレニズムっぽいグノーシス的な折衷力にあるが、マニが啓示を受けて最初に向かったのがクシャーン(クシャーナ)朝であったことを考えると、マニの教義には多分に仏教の影響がまじっただろうと推測できる。マニは知識や言葉を尊んだので、クシャーン朝(カニシカ王時代)に勢いをもっていた仏教の魅力にも寛容であったのだと思われる。
 こうして、ソグド人とウイグル人と仏教徒によって、マニ教はシルクロードをなんなく東漸していったのである。中国では「明教」(光の宗教)と名付けられ、その教団の拠点を築いていった。ずっとあとのことにはなるが、マルコ・ポーロ(1401夜)もシルクロード旅行中にマニ教の教団に出会っている。ちなみに、あのアウグスティヌス(733夜)も、最初はマニ教信者だったのである。
 

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予言者マニ(?)とマニ教聖職者。
ホジョ壁画10世紀(インド美術博物館)


  以上のようにシルクロードには、さまざまな宗教が人種や文物とともに混交しながら動いていた。しかし、シルクロードを東に進んだ宗教のなかで最も大きな流れとなったのは、なんといっても仏教だった。ふつう、まとめて「シルクロード仏教」と言われる。
 シルクロード仏教といっても、一筋縄ではない。ガンダーラの仏教、アショーカ王の仏教、カニシカ王の仏教、マトゥラーの仏像、コータンなどの西域南道の仏教、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を生んだクチャの西域北道の仏教、トルファンの仏教、浄土思想にめざめた敦煌の仏教、ウイグルの仏教、五胡十六国の仏教、北魏に流入していった仏教、イスラームと交じった仏教‥‥いろいろなのである。
 ただし本書はさきほども指摘しておいたように、仏教についてはあまり詳しくはない。それでシルクロード仏教については改めて千夜千冊しようと思うのだが、それでは今夜の愛想がないだろうし、本書の著者もいくつかのユニークな視点を加えているので、とりあえずそのサワリだけ紹介しておくことにする。ざっとは次のようになっている。

 仏教がインド全域に広まる原動力をもつのは、マウリヤ朝の第3代アショーカ王の在位の頃からである。紀元前3世紀のことだ。
 これは前252年に、アショーカ王がパートリプトラに僧侶1000人を集めて、仏典結集をおこなったことが機縁になっている。ブッダ入滅後から数えると第3回の結集になる。大編集時代だった。サンチーの大塔をはじめ、舎利塔(仏塔)も各地につくられた。
 けれどもアショーカ王が亡くなると、新たな仏教勢力の勃興を快く思っていなかった旧バラモン勢力(ヒンドゥー教徒)が仏教的活動の抑圧に乗り出して、紀元前180年前後にマウリヤ朝に代わってシュンガ朝が王権を握ったのちは、その後の歴代の王たちはバラモン教にばかり熱をあげた。
 これでいったん仏教は四散するのだが、それがかえって仏教を根太いものにも、信仰しやすいものにも変えていった。とくにシュンガ朝を逃れた仏教徒たちが、すでにアレキサンダー大王のインダス流域進出の影響を受けてヘレニックな造像感覚が定着しつつあったガンダーラ地方やタキシラ地方に入ったことが大きかった。ここで「アショーカ時代の仏塔仏教」に「ガンダーラの仏像仏教」が加わったのだ。
 ぼくは学生時代に、ギリシア的な知性の持ち主のミリンダ王が仏教的な長老ナーガセーナと論戦をしている『ミリンダ王の問い』という説話のようなものに熱中したことがあるのだが、このミリンダ王が漢訳仏典『那先比丘経(なせんびくきょう)』にいう弥蘭のことで、実名はメナンドロス王だと知ったのは、ずっとあとになってのことだった。メナンドロス王こそカーブルやガンダーラを治めた王であり、『ミリンダ王の問い』ではギリシア知性が仏教に兜を脱ぐということになっていたのは、のちに仏教徒がヘレニズムの仏教化を試みたせいだったと知ったのも、だいぶんたってからのことだった。
 つまりは、ガンダーラには「ギリシアと仏教のヘレニズム」が生まれただけではなく、「グレコ・ローマンの仏教化」がおこっていたということなのである。が、これだけで仏教がシルクロードを上っていったのではない。事情はもう少し複雑だった。

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サーンチーの仏教遺跡
(インド:マディヤ・プラデーシュ州)
アショーカ王によって建立された、
ストゥーパ(仏塔)や僧院跡などが遺される。

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サーンチーの仏教遺跡
トーラナ(仏塔)に施された彫刻
ブッダの生涯が象徴的に描かれている。


 そもそもガンジス流域の農耕社会に生まれ育った初期の仏教は、端的にいうのなら、思索・瞑想・持戒などによって「欲望を断ち切る」あるいは「苦悩から脱出する」という方針で確立していったものである。
 しかしとはいえ、煩悩と苦悩からの脱出(解脱)を完遂しようとするのはあくまでプロの出家修行者であって、その出家集団を支えるのはそんな修行に至らないアマチュアの一般在家信者たちだった。ということは、初期仏教というもの、いってみれば信仰と修行の専門家たちと、専門的な訓練など必要のない布施や礼拝で信仰支える大衆という、互いに異なる二つの組み合わせによってスタートを切ったものなのである。
 このためアショーカ王登場以前、すでに仏教教派は信仰的存在のすべてを賭ける立場の「説一切有部」と、信仰のきっかけはもっているものの存在のすべてを賭けるにはいたらない「大衆部」とに分かれていたのだった。
 そこへアショーカ王とガンダーラ造像感覚が登場して、誰もが親しめる「大衆部」めいた“広がりの可能性”を準備した。これを逆にいえば、このとき「説一切有部」的なる考え方のほうがはじかれて、それがまずシルクロード方面に上がっていったということになるのだが、それとともに「大衆部」的なるものはシルクロードを動く商人にとっても仏教ポータビリティが高いものになったわけでもあって、ここにシルクロードを「理論的なもの」(悟り)と「救済的なもの」(救い)という二つの仏教性が動くことになったのである。

 

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アショーカ王柱
紀元前250年頃に建立
(インド:ヴァイシャリー)

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アショーカ王柱の碑文
(サールナート博物館)

 

 そこに加えて重なってきたのが、バクトリアを支配することになった大月氏の動向だった(1425夜)。大月氏は紀元後の127年前後にガンダーラを含む北インドにクシャーン(クシャーナ)朝を興し、その4代のカニシカ王のとき、改めて仏教充実を図っていった。仏伝が意識され、ブッダの誕生・出家・成道・初説法・涅槃といった重大場面が編集されて、仏弟子たちのアヴァダーナ(因縁譚)も揃ってきた。総じて、ここに大乗仏教が芽生えていったのだ。
 参考までに言っておくと、それまでガンダーリー・プラクリット(ガンダーラ地方で習合したインド語)で書かれていた経典が正典用のサンスクリット語に書き替えられたのも、中インドのマトゥラーでブッダ(釈尊)が人間の姿で描かれるようになったのも、弥勒(マイトレーヤ)が未来仏として浮上していったのも、いずれもクシャーン朝でのことである。
 ちなみに本書の著者フォルツは、マニ教では弥勒はミトラ神ともキリスト教のイエスとも習合していたという。

 クシャーン朝は3世紀後半に衰退した。デカンを支配していたサータヴァーハナ朝も3世紀にイクシュヴァーク朝に滅ぼされ、そのイクシュヴァーク朝も4世紀に衰微した。
 代わってこれらの混乱を統一したのがチャンドラグプタ1世が開いたグプタ朝である。パータリプトラが都になった。とくにチャンドラグプタ2世(在位375~414)の時代には、これは5世紀の初めにパータリプトラに入った法顕(ほっけん)が報告していることなのだが、都には大乗の寺と小乗の寺とが並んで栄えていて、僧侶も700人くらいが修行していたという。グプタ仏教は僧侶が大いに寄進を受けていた時代だったのだ。
 ま、ざっとはこんなふうにして各時期の仏教のさまざまな側面が、多面・多様・多彩・多時間をもってシルクロードに流れこんでいったのである。
 これをむりやり整理すれば、ごく一般的には、第1期が2~5世紀のガンダーラの影響を強く受けた流れ、第2期が5世紀以降のシルクロード・オアシスの各都市で独自になっていく流れ、第3期がそれらが西域から中国につながって敦煌の莫高窟などが栄える6世紀以降の浄土的な仏教の流れ、というふうになる。
 これらが、シルクロードのオアシス都市上にホータン仏教、クチャ仏教、敦煌仏教などとして連続的に起爆していったのだ。
 そこにはすでに中国からの訪問者や旅行者たちもいたので(そうしたなかに張騫などもいた)、また西域から中国に招かれていった仏教僧も少なくなかったので(そうしたなかに安世高や支謙や鳩摩羅什がいた)、やがて西域全体のシルクロード仏教が中国仏教へと結実していったのである。
 これを仏教史学ではまとめて「仏教東伝」という。いわば、みんな中国化していったのだ。
 では、東に流れこんでいった仏教のあとには、シルクロードに何がのこったのであろうか。本書は後半の4分の1でそのことを書いているのだが、仏教が中国に吸い寄せられていったあとのシルクロードは、ほとんどイスラームによって埋められたのだ。そのことについては、しばらくあとのモンゴル時代のユーラシアを千夜千冊するときに、あらためて案内したい。
 また、シルクロード仏教が中国化していったのとはべつに、インドからスリランカをへて東南アジアに定着したテラヴァーダ仏教のことや、チベットに入って“ラマ教”化した仏教、いまでもブータンに純粋にのこる本格的なチベット仏教のすばらしさについても、そのうち書いてみたいと思う。

 

 


羅什

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【ノート01】かつてぼくは横超慧日・諏訪義純の共著による大蔵出版の『羅什』という本を読んだことがある。80年代の前半のこと、10年続いた工作舎を離れて4、5人で松岡正剛事務所を自立させたころだ。
 ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥ、クマーラジーヴァの3人が気になっていた時期だった。ナーガルジュナ(竜樹)は中論を知りたかったからだが、ヴァスバンドゥ(世親)とクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)については、二人が小乗から大乗に転向あるいは転換した理由や経緯、それとともに周辺の状況が知りたかった。
 ブッダの教えは第二結集のころに出家教団サンガの対立によって、厳格な長老をコアメンバーとした「上座部」と柔らかい信仰をつくりたい「大衆部」とに分かれた。インド仏教史にいう“根本分裂”である。その後、マウリヤ朝のアショーカ王の時代をへて仏教が西域(もうひとつはスリランカから東南アジアに)に広まっていくまで、上座部は正量部や教量部や、とりわけ「説一切有部」によって理論的な深まりを見せていった。「小乗の力」だ。
 シルクロード仏教はその「小乗の力」に席巻されていた。そういうときにクチャにクマーラジーヴァが登場した。そして中国(後秦)に招かれる前後に大乗化し、中国仏教の基礎を築いた。
 本書は『高僧伝』の焼き直しではなかった。詳しい分析がなされていたというほどではなかったが(とくに後半はつまらなかったが)、それでもクマーラジーヴァの「言語編集力」に驚嘆した。この本を読んでしばらくして、ぼくは春秋社の『空海の夢』に執りかかった。

 ◎横超慧日=明治39年生。東大印哲、『中国仏教の研究』法蔵館、『北魏仏教の研究』平楽寺書店。◎諏訪義純=『中国中世仏教史研究』大東出版社、『中国南朝仏教史の研究』法蔵館。大谷大学。

 

【ノート02】羅什はむろん鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)のことだ。この略称はよくない。マクドナルドがマクドで切れるみたいだ(笑)。ときに「什」とも綴る。これは池袋をブクロと言うみたいだ(笑)。マクドやブクロはいいけれど、この男についてはちゃんと鳩摩羅什かクマーラジーヴァと言ったほうがいい。
 父の鳩摩炎はインド出身である。シルクロードをクチャ(亀茲)に上って国師として迎えられた。やがてクチャ王の妹の耆婆(ジーヴァ)を娶って、あるいは娶らされて(?)、多言語の可能性にとりくんだ。
 鳩摩炎の母国語はインド語、文字はグプタ・ブラフミーである。クチャではクチャ語がつかわれていた。同じインド・ヨーロッパ語族だが、ケンツム語群系(ギリシア語・ヒッタイト語・ラテン語系)とサテム語群系(インド語・イラン語・トカラ語系)のちがいがあって、互いにさっぱりわからない。鳩摩炎はそこを突破していった。聡明な妻のジーヴァの助けがあったのだろう。この両親の異文化交流能力は、息子のクマーラジーヴァにも乗り移る。
 言語と仏教、文字と仏教の関係は密接だ。インド仏教・シルクロード仏教・東アジア仏教におけるオラリティとリテラシーの変化と変容と変格を、看過してはならない。ヘブライ語やアラブ語が文明史を大きく変革していったように、アジアにおいては仏教言語が文明の歯車をつくっていった。これはもっともっと強調されるべきだ。
 ふりかえればブッダの時代はおそらく文字がなく、仏典編集に文字が本格的に使われるのはアショーカ王の治世になってからである。それらがシルクロードでは多種多様な言語として花開いた。しかし、その多様多彩はいずれ「漢訳」という一大言語編集機能に集約されたのである。これをなしとげた連中に敬意と驚異を表したい。

 ◎紀元前4世紀頃に、文法学者パーニニが北西インドの言語習慣を整理して「サンスクリット語」を成立させた。サンスクリットは比較言語学では古代インド・アーリア語に属する。やがて口語の表記ができる「プラクリット語」が成立した。中期インド・アーリア語に属する。
 ◎アショーカ王の碑文には、アラム文字の影響を受けたカロシュティー文字(向かって右から左に読む)と、インド固有のブラフミー文字(左から右に読む)が使われている。◎グプタ文字・クシャーナ文字・デーヴァナガーリ文字といった呼称はブラフミー文字の中のフォントの種類だった。
 ◎インドの仏典写本に使われたのは椰子の一種のターラ(ターラ椰子)の葉だった。それを短冊状に切って書写に用いた。これを「貝葉」(ばいよう)という。貝多羅葉(パットラ)の略だ。というわけで、インドやシルクロードの“本”は横長短冊形だったのである。

 

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陸の交通路(8世紀ごろ)

(帝国書院『明解世界史図説エスカリエ』より)

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【ノート03】クチャの340年(or350)、クマーラジーヴァが生まれた。母は比丘尼となり、そのとき7歳の少年クマーラジーヴァも出家した。稽古始めや修行見習いというならまだしも、出家というにはやや早すぎるようだが、『太子瑞応本起経』(→調べること)には悉達太子が7歳のときに仏門学習に入ったというし、当時のクチャでは『十誦律』が広まっていて、そこに「仏曰く、今より能く烏を駆うなれば沙弥となるを聴(ゆる)すも、最下は七歳なり」とあるので、鳩摩羅什伝もこれに倣ったのだろう。
 当時のクチャは寺院や僧院が500ケ寺を越えていた。止住する僧侶や僧徒たちも百人程度はザラで、なかには数千人がいた大寺院もあった。そうだとすると、のちの中国寺院に見られるような「三綱」(寺主・上座・繊那)や「僧官」(僧正・悦衆・僧録)といった役割が機能していたとも想定される。のちに玄奘が『大唐西域記』に綴ったところでは、クチャ仏教はまことにすばらしく、僧徒たちは持戒をちゃんと守り、全員が清らかで、寺院の中の仏像も人工のものとは思えないほど精緻だったらしい。
 クチャの仏教界では仏図舌弥(ぶっとぜつや 生没未詳)が有力僧として知られていた。いくつもの寺院を統括していたようで、中国からやってきた僧純・曇充という学僧がこの仏図舌弥の名声について触れている。

 ◎クチャの殷賑は『北史』西域伝や『晋書』四夷伝に詳しい。硫黄・石炭・細氈・饒銅・鉄・鉛・毛皮・饒沙・塩緑・雌黄・胡粉・安息香・良馬・牛・孔雀などに恵まれていたという。松田寿男センセーの『古代天山の歴史地理学的研究』(早稲田大学出版部)では硫黄と石炭と鉄を重視している。◎風俗はイラン風の断髪が流行していたようだ。
 ◎いっときクマーラジーヴァ一家はクチャ王の帛純が新たに建立した伽藍に住していたという説がある。その寺には90人近い僧侶がいた。古くに建てられた雀離大寺にもいたとか(このことについては未詳)。

 

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クチャ(亀茲)のキルジ千仏洞と鳩摩羅什の銅像

 

【ノート04】358年前後のこと、母は息子を国外で修行させようと思い、西トルキスタンのカシュミールに留学させた(首都スリナガル)。クチャにいても充分な修行もできるだろうに、またそのころはすでにグプタ朝下で新たな仏教が隆盛していたのだから本格的な留学ならこちらだろうに、カシュミールを選んだ。なぜか。
 4~5世紀のカシュミールはクチャ同様の小乗仏教活況期で、なかんずく説一切有部のアビダルマが支配的だった。母はわざわざそこへ息子を行かせた。凄いお母さんだ。これはあくまで推測にすぎないが、クマーラジーヴァと同じクチャ生まれの仏図澄(232~348)がやはりカシュミールに留学しているから、これに準じたのだろうか(これは白鳥庫吉説)。
 カシュミールで師事したのは槃頭達多(ばんずだった)という高僧だった。説一切有部に属し、のちに薩婆多部第48祖に数えられた。カシュミール王の従兄弟にあたる。母のジーヴァが王族出身だったから同じ王族出身という誼みで息子を預けたのかもしれない。大きなお母さんだ。
 槃頭達多は午前写経一千偈、午後読誦一千偈を日課としていた。少年クマーラジーヴァもただちに暗誦を日課とさせられた。『雑蔵』と『阿含経』を読んでいる。クマーラジーヴァの人生はまさにブックウェアそのものだったのだが、それはこのときから始まっていた。
 ついで『六足発智論』のような阿毘曇(アビダルマ)を学んだ。ともかくも、少年あるいは青年クマーラジーヴァの瑞々しい知性は、当初は全面的に「小乗の力」に満ちたアビダルマ仏教で覆われたのだ。

 ◎どうもカニシカ王時代のクシャーン仏教あるいはチャンドラグプタ時代のグプタ仏教とシルクロード仏教との関係が、イマイチはっきりしない(→要点検)。◎当時のクチャは小乗仏教。クチャのみならずシルクロード仏教の初期はだいたい小乗的な説一切有部だった。みんなアビダルマに強かったのだ。
 ◎仏図澄が五胡十六国期を代表する。後趙から晋の洛陽に入ったのは80歳の頃だ。仏図澄は一本の経典も訳さなかったけれど、後趙の石勒・石虎に「国の大宝」「大和尚」と称えられた。日本における鑑真和上のような存在だったと見ればいいか。

 

【ノート05】クマーラジーヴァ以前、すでに西域には何人もの訳僧が出身し、中国に入っていた。シルクロード仏教の中国化はすでに始まっていた。
 かれらは中国読みで「安」「支」「笠」「康」といったカンムリ呼称をもって呼ばれていた。安世高や安玄は安息(パルティア)の出身、支簍迦讖(簍はタケカンムリなし)や支謙や支曇龠(龠はタケカンムリ付き)は月氏あるいは大月氏(クシャーン)の出身、笠法護や笠仏朔や笠法蘭は天竺(インド)の出身、康僧淵や康僧鎧は康居(サマルカンド)の出身である。
 もっとも260年代から次々に経典の漢訳を手掛けた笠法護(じくほうご)は、月氏の血を継いだ敦煌の生まれだった。
 これらの訳出僧を受け入れた側の、中国の同時代僧も重要だ。なかで最も注目されるのは、なんといっても、クマーラジーヴァより40歳ほど年上の道安(釈道安 312~385)である。永嘉の乱の渦中に衛氏として生まれ、早くに両親を亡くして12歳で出家、修学の途次に後趙の都で仏図澄に師事して一番の弟子となった。その後は華北を転々としながら安世高が訳出した経典の注釈をしつつも、しだいに禅定の研鑽に励むようになった。
 道安は40歳をこえて太行恒山に移り住んで、もっぱら門下の指導にあたった。このとき、それまではタオイズムに走っていた21歳の慧遠(えおん 334~416)が道安の『般若経』の講義を聴いて画然として出家を決意するのである。
 道安については、いわゆる「五失本三不易」といわれる翻訳編集術の極意の提案がめざましく、のちのクマーラジーヴァの傑出した訳僧としてのみごとな活躍も、この道安の「五失本三不易」のガイドラインに導かれるところが大きかった(→後述)。
 道安とクマーラジーヴァと慧遠。この組み合わせがすべての東アジア仏教の起爆装置をつくったといっていい。

 ◎パルティアの太子でもあった安世高(あんせいこう= 2世紀半ば)は阿毘曇と三昧経典に精通して、後漢の建和2年(148)に洛陽に入った。『安般守意経』『陰持入経』『人本欲生経』などを漢訳。数息観や禅定についての言及がある。◎大月氏出身の支簍迦讖(しるかせん=ローカクシェーマ)は後漢の桓帝(在位146~167)の時期に洛陽に入り、『道行般若経』や『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)や『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)などを訳出。ここに「般若」や「空」の思想の中国化がちょっぴり始まった。『首楞厳経』はその後クマーラジーヴァによっても新訳された。
 ◎支謙(3世紀)=叔父が大月氏の出身。支簍迦讖の弟子の支亮に師事し、後漢末の混乱を避けて呉に入った。黄武・建興年間(252前後)に『大明度無極経』『法句経』などの多くの経典を漢訳した。やはり般若思想の初期導入になる。ぼくとしては支謙が三国時代の清談に関心や憧憬をもったことに関心がある。『無量寿経』の異訳も試みた。◎笠法護(じくほうご 239~316)=月氏の両親、敦煌出身。笠高座に師事。『光讚般若経』『正法華経』『無量寿経』などの大乗経典を漢訳した。笠法護が『無量寿経』の訳出後に記録から消えたあと、仏図澄が洛陽に来た。

 

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後漢から唐までの東西トルキスタン諸国出身の僧侶の来朝
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【ノート06】クマーラジーヴァはカシュミールに3年ほどいて、その後はギルギット、フンザ、タシュクルガン、カシュガルなどを遊学ののち、クチャに戻っていった。この間、もって生まれた才能もあったのだろうが、急速に、かつ有能に多言語に慣れていく。その経緯は本書では詳しくは触れられていないけれど、察するにあまりある。
 とくに疏勒(カシュガル)での刺激のことが気になる。カシュガルに仏教が伝来したのはおそらく紀元前70年頃だろうし、クシャーン朝の仏教ともかなり深い交流をもっていただろから、ここでの体験は大きいはずだ。他のシルクロード・オアシス同様に小乗の説一切有部のアビダルマが強かったカシュガルではあるが、それともここにはインドのヒンドゥー哲学もかなり入りこんでいて、クマーラジーヴァはその外典にも目を見張ったはずだ。このあたりのことは宮元啓一の研究が参考になる。
 『出三蔵記集』鳩摩羅什伝には、かの「仏鉢の話」を伝える。クマーラジーヴァが仏鉢を頂戴したとき、ふーんずいぶん大きいものだが軽そうだと思い、それで仏鉢を手にとったところうまりに重くて上げられなかった。これは自分の心に軽重の分別がありすぎるからだと感じたという話だ。
 カシュガルでのクマーラジーヴァは博学をもって名声を上げた。僧の喜見が時のカシュガル王にクマーラジーヴァに会うことを勧めている。そこで『転法輪経』を講じた(『転法輪経』は小乗阿含部の経典)。カシュガルでは仏陀耶舎とも面受した。

 ◎トルキスタン(西域)の言語はトカラ語、コータン語、ソグド語など(いずれもインド・ヨーロパ語)の混交である。羽田亨『西域文明史概論』(弘文堂書房)。◎クチャ語はトカラ語のケンツム語群に属する。トカラ語Bなどとも言われる。
 ◎仏鉢信仰はクマーラジーヴァのエピソード以来、シルクロードをへて中国にまで至っている。法顕の『仏国記』にはペシャワールでも仏鉢説話がゆきわたっていたとある。法顕がペシャワールに行ったのは400年前後のこと。◎セイロン経由の南伝仏教では仏鉢説話は弥勒信仰につながった。
 ◎宮元啓一『仏教誕生』(筑摩書房)、『インドはびっくり箱』(花伝社)、『わかる仏教史』(春秋社)など。

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亀茲語(Tokharian B)

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キジル石窟の亀茲人像(トカラ人の風俗)

 

【ノート07】カシュガルには須利耶跋陀(すりやばっだ)・須利耶蘇摩(すりやそま)という兄弟がいて、このうちの弟の須利耶蘇摩が早くも大乗の教学に通じていたらしく、クマーラジーヴァはこの弟のほうから『阿達耨経』(あのくだつきょう)を講読してもらっている。すでに308年に笠法護が『弘道広顕三昧経』として訳出したものにあたる。
 これはクマーラジーヴァにとっての初めての大乗との出会いだ。どんな主観も客観も空であると説く「陰界諸入・皆空無相」の教義を須利耶蘇摩の講読で聞かされて、これまで「三世実有・法体恒有」(過去・現在・未来に及んですべての諸法も本体も実在している)を説く説一切有部ばかりを学んできたクマーラジーヴァはかなりびっくりしただろう。
 しかしクマーラジーヴァは早くも何かがピンときたようだ。本書にはこの直後からクマーラジーヴァが『中論』を読み耽ったとある。どこまで深まったのかはわからないが、ついにナーガルジュナ(竜樹)の「空」や「中」に接したのだ。『十二門論』『百論』も読誦した。『十二門論』は『中論』入門書、『百論』はナーガルジュナの弟の聖提婆の著述作。いずれもテキストはクチャ語を含むトカラ語系だった(→リチャード・ガード『印度学仏教学研究』)。ともかくも、ここに「空」がシルクロードを東漸して、東アジアから中国へ驀進していったのである。
 こうしてクマーラジーヴァはクチャに帰ってくる。すでに英明が聞こえていたから、クチャ王が温宿まで迎えに出た。鳴り物入りだった。すぐさまクマーラジーヴァを迎えてのシンポジウムやディベート会議が開かれた。

 ◎ナーガルジュナについてはここではメモしないけれど、一言でいえばシルクロード仏教を大乗に切り替えていく原動力になっていったのが『般若経』の理解とナーガルジュナの「空」の論法だった。だからこそ、このあと大乗が漢訳されていったとき、「空」が「無」とも訳された。
 ◎クチャに帰ってきたクマーラジーヴァの講義を聞いて、阿喝耶末帝(あかつやまてい)という尼僧が感激したという話がのこっている。一説にはこの女性こそ母親のジーヴァだったとも言われる。

 

【ノート08】370年、20歳のナーガルジュナはクチャの王宮で三師七証のもとで受戒した。戒和上は卑摩羅叉(びまらしゃ 337~413)だった。カシュミールの人である。卑摩羅叉はのちにクマーラジーヴァが長安に招致されたとき、その地で活躍する弟子の噂をよろこんではるばる長安に赴き、師弟の交わりを温めた。
 クチャでのクマーラジーヴァは、カシュガルでの須利耶蘇摩による大乗般若の一撃にもとづき、一心不乱に大乗教学に向かう。王新寺での大乗経典の読書、なかんずく『放光般若経』を読んだ体験がことに大きかったようで、大いに開眼した。世に「鳩摩羅什の開眼」とみなされる。
 ここからのクマーラジーヴァは強靭だ。カシュミールでクマーラジーヴァを教えた槃頭達多が噂を聞いてやってきて、「一切皆空」という大乗思想はちょっとおかしいのではないかと難癖をつけた師弟問答をしたときも、クマーラジーヴァは臆せず応酬し、その論議の往復は1カ月に及んだ。槃頭達多はそれなりにクマーラジーヴァの大乗開眼を認め、「和上は是れ我が大乗の師にして、我は是れ和上の小乗の師なり」と言った。この噂は中国から来ていた僧純・曇充によって中国にも伝わっていった。
 しかしこのあとまもなく、五胡十六国の激しい出入りのなか、これを華北に統合しつつあった前秦の苻堅(ふけん 338~385)が派遣した将軍呂光によって、クチャは384年に陥落してしまう。
 このとき、苻堅は自身が統括するべき国の命運を占った。「星が外国の分野に現わる。まさに大徳、智人、秦に入りて輔(たす)くべし」と出た。苻堅はただちにこの“情報”を調査させ、大徳が西域のクマーラジーヴァであること、智人が襄陽の道安であることを確信した。
 こうしてクマーラジーヴァは苻堅の差配によって、そして道安の進言によっていよいよ長安に招致されたのである。が、その直前に苻堅も呂光も没し、前秦は姚興(366~416)によって後秦になっていた。

 ◎三師七証=戒和上・教授師・羯摩(かつま)師の三師と、受戒を照明する七人の僧侶のこと(→平川彰『原始仏教の研究』、佐藤密雄『仏教教団の成立と展開』)。
 ◎僧純・曇充が中国に伝えたクマーラジーヴァの評価は、「年少の沙門あり、字は鳩摩羅なり。才大にして高明、大乗の学にして仏図舌弥とは師と徒なり。而れども舌弥は阿含の学者なり」とあった。

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内陸アジア世界
鳩摩羅什はクチャに生まれ、カシュミールから長安へ東西をまたいだ
(『世界史図録ヒストリカ』山川出版社より)

 

【ノート09】クマーラジーヴァが、新たなリーダー姚興の治める後秦の長安に入ったのは401年12月20日。52歳になっていた。
 姚興は儒教にも奉じていたが、仏教にも熱心だった。クマーラジーヴァが長安に入ったとき、姚興は即位して8年目、36歳だ。沙門5千人を集め、仏塔(浮図)を起造し、波若台を立ててその中に須弥山を造容した。すでに父の代から弘覚大師を迎えて笠法護の『正法華経』の講義に聞きほれたり、僧略という師に帰依して、後秦の仏教教団の統括を任せて国内僧主を託したりしていた一族だった。
 クマーラジーヴァのお迎えには長安から僧肇(そうじょう 384・414)が出向いた。のちに有能な愛弟子になる。長安に入ったクマーラジーヴァのことは、これまたのちに愛弟子になる僧叡(352~436)が「ついに歳(ほし)は星紀に次(もと)る。豈に徒らに即ち悦ぶのみならんや」と書いている。招致を待ち望んでいた道安はもとより、遥かに廬山にいた慧遠もこの入閣をよろこんで、親書を送った。この慧遠とのその後の質疑応答記録こそ『大乗大義章』として知られる有名な3巻18章になる。
 かくてクマーラジーヴァは、姚興が用意した国立仏典翻訳研究所ともいうべき訳場を「逍遥園」(もしくは西明閣)の所長に迎えられた。すぐさま漢訳団が結成され、僅か5年で次の仏典群が訳出された。

  大品般若経24巻。小品般若経7巻。
  妙法蓮華経7巻。
  賢劫経7巻。華首経10巻。
  維摩詰経3巻。
  首楞厳経2巻。
  阿弥陀経12巻。
  十住経5巻。思益義経4巻。持世4巻。自在王経2巻。
  仏蔵経3巻。菩薩蔵経3巻。称揚諸仏功徳経3巻。
  弥勒下生経1巻。弥勒成仏経1巻。
  金剛般若経1巻。
  諸法無行経1巻。菩提経1巻。遺教経1巻。
  十二因縁観経1巻。菩薩呵色欲1巻。
  禅法要3巻。禅法要解2巻。禅経3巻。
  雑譬喩経1巻。
  大智度論100巻。
  成実論16巻。十住論10巻。
  中論4巻。十二門論1巻。百論2巻。
  十誦律61巻。十誦比丘戒本1巻。

 なんと35部294巻にのぼる。これは西晋の笠法護の154部309巻や、のちの玄奘の76部1347巻より劣るものの、その内実において遜色がない。それよりなにより、その流麗な翻訳力や言語編集力こそ画期的だった。中国仏教はここに開闢したと言ってよい。

 ◎慧遠がクマーラジーヴァに送った親書には、クマーラジーヴァの評判がすでに十全に伝わってきていたこと、自分は貴兄が宝をもって長安に来たことをたいへん楽しみにしていたこと、早く親しく会いたいことなどがていねいに述べられている(京大人文科学研究所『慧遠研究・遺文篇』)。
 ◎逍遥園は終南山の北麓の草堂寺にあった、いまはここにはクマーラジーヴァの舎利を収めた舎利塔がある。
 

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鳩摩羅什像(西安 草堂寺)

 

【ノート10】クマーラジーヴァの言語編集力はたんなる漢訳力・翻訳力にとどまっていなかった。今日では漢訳仏典の歴史をクマーラジーヴァ以前を「古訳」、クマーラジーヴァ以降を「旧訳」、玄奘以降を「新訳」と区分けする慣わしになっているが、それほどにクマーラジーヴァの翻訳編集は時代を画期した。自在きわまりなかった。
 すでに笠法護が『正法華経』でどんなふうに訳経をしたのか、その手順がわかっている。本人が「経記」としてのこしている。たいへん興味深い。それによると当時の訳業は、①執本、②宣出、③筆受、④勧助、⑤参校、⑥重覆、⑦写素、の7段階を分けられていた。
 まずは①胡本を執り、②口述によって『法華経』を宣出し、これを③数人の優婆塞(うばそく)たちに授けて共に筆受させ、さらに④数人の目を通して勧助勧喜させて、ここから⑤文字に強い者たちの参校が加わって、⑥いよいよこれらを重覆(トレース)して、最後に⑦素(きぬ)に写して解(おわ)る、という手順だ。
 いったいクマーラジーヴァがどんな手順をとったのかはぴったりした記録がないのだが、ほぼこれに近かったろう。またどんな役割がどんなチームに割り振られたかは、玄奘の『大般若波羅蜜多経』のときの後記から推しはかると、中心のクマーラジーヴァのほかに、筆受4名、綴文3名、証義4名、専当写経判官1名、検校写経使1名などがいたと思われる。これを宋時代の翻経院のシステムで見ると、次のようになる。

  1・訳主(正面に座して梵文経典を読み上げる)
  2・証義(訳主の左に座して訳主の朗唱の正確さを確認する)
  3・証文(その右に座して訳主の音読と梵文とを照合する)
  4・書字(梵文を漢字によって音写していく)
  5・筆受(音写した漢字の単語を適切な漢語に翻訳する)
  6・綴文(翻訳漢語の並びを中国語としての漢文とする→伝語・度語)
  7・参訳(原文と翻訳した漢文を対比して原意との対応を点検する)
  8・刊定(訳文をしかるべく添削する→校勘)
  9・潤文(教義に照らしてふさわしい漢文に仕上げる)

 うーん、すばらしい。これは編集学校だ。小池純代や中村紀子や小西明子に伝えたい。しかしクマーラジーヴァはこれらの分業手順をもっと集約して一人で何役も担当していただろう。本書では、胡本(原典)を手にするとクマーラジーヴァ自らが漢語でただちに口訳し、これをすぐに弟子たちが筆録していただろうと推測している。ぼくもそんなふうだったろうと思う。
 が、それだけでもなかっただろう。クマーラジーヴァはきっと試訳した漢文を原文対比するときに「講経」や「対論」をしたにちがいない。なんども伝習座を開いたはずなのだ。そこから主旨にあったリズムのよい訳経を編集していったはずなのだ。

 ◎『大品般若経』の場合では約1ケ年を要したようだ。それでもクマーラジーヴァは納得せず、いろいろ推敲を重ねて書写を許さなかった。この徹底ぶりには弟子たちが痺れを切らせて、こっそり筆写を始めたという話がのこっている。
 ◎クマーラジーヴァが逍遥園あるいは西明閣で大翻訳編集に従事しているとき、姚興は国内に僧官をつくり、仏教教団の監督制度を用意した。これは北魏が396年に導入した「道人統」の応用だった。姚興はときに筆受を担当していたらしい。

 

【ノート11】仏典・経典の漢訳はすこぶる編集的だ。それはコンパイルではなくエディットである。クマーラジーヴァはその言語編集力をいっぱいに生かした。そこには先行者たちの努力、とくに【ノート05】にあげた道安の「五失本三不易」のガイドラインが生きていた。
 「五失本」とはインドに発した原典の漢訳にあたっては、当然言語的な変形がともなうことになるのだが、とくに次の5点は変えてもいい(=失本)と判断できる指針をいう。以下のように判断された。
 ①語順がインドの原典と漢文では逆になる。②原典は質を好むが漢語は文を好むから、経文は美しい表現になる、③原典は人を何度も称賛するが、それは省いてよい。④同じ意義を長い語句の装飾で繰り返している場合は、これを削ってもいいだろう。⑤原典が次に進むときに前の語句を再掲するが、これも略せる。
 次の「三不易」は安易に変えてはいけない方針のことをいう。①経文の原意を変えてはいけない、②時代背景による表現を変えてはいけない、③難解を捨て安直を採ってはいけない。なかなかのガイドラインだ。

 ◎道安の「五失本三不易」は『出三蔵記集』の「摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序」に説明されている。
 ◎例。たとえば『般若心経』の「照見五蘊皆空」は、それにあたるサンスクリット文を訳主が読み、まず音による漢字があてられ、それを筆受がチャイニーズに語訳して「照見五蘊彼自性空見」などとする。これでは中国語としての意味が通じないので、これを参訳や綴文が「照見五蘊見彼自性空」→「照見五蘊見皆空」→「照見五蘊皆空」などとし、最後に潤文がこれでもまだ漢文のすわりがないと判断して、締めの語句を加えて「照見五蘊皆空、度一切苦厄」などと決めるのである。

 

【ノート12】クマーラジーヴァは409年に亡くなった。いまから1600年前の8月20日である。その生涯はまさに「エディトリアリティ」に富んでいた。長安に入ってまもなく女人と交わって「破戒」するのだが、そういうことにもほとんどこだわっていない。
 上座部の説一切有部から大乗へ。シルクロード仏教から中国仏教の確立へ。逐語訳から意訳の世界の編集へ。インド思想律の中国律動化へ。のちの玄奘の翻訳編集力のアーキタイプもプロトタイプもステレオタイプも、みんなクマーラジーヴァが用意したようなものだ。よくもこれだけのことを成就したと思うけれど、そこには中国側の学衆たちの受容力と編集的呼応力を発揮したことが大きかった。
 もともと道安がいた。クマーラジーヴァの招致の提案者でもある。廬山の慧遠との交流交信も厚かった。訳場でクマーラジーヴァを扶けた僧たちもすぐれていた。惜しくも夭折した僧肇は天才的な才能を発揮した。その僧肇と僧叡を別当格とする門下の一群は3000人に及んだという。
 なかで道生(笠道生 ?~434)が格別にすばらしい。廬山の慧遠のところで7年ほどアビダルマの研鑽を積み、長安に来てクマーラジーヴァに師事して、クマーラジーヴァ没後は建康に帰って実に自由な経義の研究をした。一闡提(いっせんだい)の成仏、すなわち法然(1239夜)や親鸞(397夜)の悪人正機説の母型ともいうべきイッチャンテカの信仰可能性を切り拓いた。とくに道生の『涅槃経』注解が見せる独創的な仏教論は、ぼくとしてはクマーラジーヴァの飛躍的継承だと思いたい。

 ◎道安→仏図澄→慧遠→クマーラジーヴァ→道生という流れを、あらためて強調すること。
 ◎それにしても、ここまで中国が仏教の漢訳に徹底したのに対して、なぜ日本は仏典の和訳にとりくまなかったのだろうか。日本人には漢訳仏典を読誦することが、かえってアタマの中の吹き出しをジャパナイゼーションさせたのだろうか。この難問、いずれ解かなくてはならない。
 ◎いま、ぼくの信頼すべき仲間たちが「纏組」(まといぐみ)として「目次録」の新構成と解説編集にあたってくれている。ネット上の「逍遥園」もしくは「西明閣」である。ぼくもそろそろクマーラジーヴァしなくては。

 

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仏教の東伝と受容

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 本書は「新アジア仏教史」という全15巻シリーズの一冊だが、このシリーズはごく最近に完結したばかりである。この刊行完結をぼくはいささかの感慨をもって迎えた。
 というのも、本シリーズ名に「新」がついているように、これはもともとは「アジア仏教史」全20巻を1972年に同じ佼成出版社が刊行していて、ぼくはその各巻各章を頼りに、アジア仏教のあれこれをずっと啄んできたからだ。やはり「インド篇」「中国篇」「日本篇」などと構成されていた。佼成出版社というのは立正佼成会の出版部門のことをいう。
 わが仏教史学習時代としてはまことにたどたどしい時期だったけれど、しかしそのころは、アジアまるごとの仏教史を思想研究や経典研究ではなく、地域別通史的に総なめしてくれているものはほかになかったのだ。多くは仏教思想のとびとびの解明に傾斜していた。やむなく宇井伯寿や木村泰賢(96夜)まで戻ったこともあったほどで、が、それではとうていまにあわなかった。

 今回のシリーズ「新アジア仏教史」はそこそこ斬新な組み立てになっている。
 インド篇が「仏教出現の背景」「仏教の形成と展開」「仏典からみた仏教世界」で、スリランカ・東南アジア篇が「静と動の仏教」、中央アジア篇が「文明・文化の交差点」となり、これに中国篇の3巻の「仏教の東伝と受容」「交流・発展する仏教」「中国文化としての仏教」が続く。
 さらにチベット篇の「須弥山の仏教世界」、朝鮮半島・ベトナム篇の「漢字文化圏への広がり」が各1巻あって(これがユニークだ)、そして日本篇の5巻が別格として控えるというふうなのだ。編集委員は奈良康明・沖本克己・末木文美古・石井公成・下田正弘だが、この顔触れ同様、執筆陣もかなり若返った。そのぶん全巻構成とともに、1巻ずつの視点も刷新された。
 ただし各章を分担執筆にしてあるので、なかには重複が煩わしいところ、ややありきたりな展開になってしまったところもある。

 今夜とりあげることにした本書は、タイトルに「仏教の東伝と受容」とあるように、東伝仏教としてどのように仏教は“中国化されたのか”ということ、すなわち中国仏教史の“発現”のところを扱う重要な1巻になっている。これまでこの手のものを詳細に構成しているものはあまりなかった。
 ぼくの例など引き合いにも出せないが、かつてはせいぜい塚本善隆の『中国仏教通史』(春秋社)や鎌田茂雄の『中国仏教史』(東京大学出版会・岩波書店)のたぐいを、何度も首っぴきしなければならなかったのだ。それも、すでに中国に定着した中国仏教の内実が主軸になっていて、インド仏教やシルクロード仏教がどのようにアウトサイドステップやインサイドステップをおこしながら“中国化”という劇的な変容の出来事をなしとげていったのか、その多言語型異文化インターフェース上の苦労にはふれていなかった。
 とくに南北朝時代に安世高からクマーラジーヴァ(1429夜)に及んだ訳経僧がインド・シルクロードをへた仏典や経典をどんなふうに扱ったのか、それがどんな経過で集合的な訳業や分業的に訳場にいたったのか。こうした問題は、われわれ日本人が読んできた仏典が漢訳仏典であったことからすると、最も大事な仏教思想上の編集的要訣を「謎」のように握っているところであり、かつまた、それは小乗仏教が大乗化するユーラシア的なスケールにおける宗教戦略的転換にもあたっていたはずなのだ。
 ところが、その両方が重畳的にはなかなか見えてこなかった。「新」シリーズはそのような視野を比較的柔軟に開いて構成されていた。

 本書の中のぼくなりの注目点に話を進める前に、インドに始まった仏教がシルクロードをへて中国に入ってくるにあたって何が眼目になったのか、ちょっとだけ大きな流れを俯瞰しておきたい。本シリーズでいえば第1巻・第2巻にあたるところだ。
 仏教はむろん北インドのゴータマ・ブッダの覚醒に“創発”したものである。しかしそこをユーラシアという大きな視野で見ると、そもそも「アーリア人が先住インドの業と輪廻の考え方を継承した」という大きな流れがかかわっていた。生きとし生けるものは「業」(ごう)によって生と死と再生をくりかえすという輪廻観は、やがて東アジアを根底で貫く因果応報観となり、また自業自得観になっていった。このことは、今日の日本人の諦念(あきらめ)観にまで及んでいる。
 しかし日本人とちがって、もともとインド・アーリア人は言葉においても思考においても論理的だった。そこで輪廻の正体にも切りこんだ。輪廻の原動力は善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、「おこない」にもとづいているのだろうから、その「おこない」の基層にある真の問題を考えるべきだと推理して、そこに欲求と渇愛が蠢いているということを突き止め、真理を邪魔しているのはそういう欲求や渇愛がからんで捩れた「煩悩」(ぼんのう)や「無明」(むみょう)だろうと考えたのだ。
 そして、そこからの脱却が必要だと考えた。仏教が解脱(げだつ)をめざした宗教だということが、ここにあらわれる。仏教は、それには「智慧」(プラジーナ=般若)が必要だとみなした。これらが一言でいえばブッダの仏教(=ブッディズム)が生まれてくる背景思想の流れだった。

 ふりかえって、そもそもインドでは2000年ほど続いたインダス文明のあと、中央アジアからやってきた遊牧アーリア人の集団がひとつにはイラン地域へ(1421夜)、もうひとつにはヒンドゥークシュ山脈を越えてインドのパンジャーブ地方に入ってきた。紀元前1500年くらいのことだ。
 インド・アーリア人は父系的な氏族社会を営みながら、先住ドラヴィダ人の習俗をとりこみつつ新たな言葉の文明を築いていった。これがいわゆる「ヴェーダの文明」である。膨大な讚歌群として「サンヒータ」(本集)、「ブラフマーナ」(祭儀書)、「アーラニヤカ」(森林書)、「ウパニシャッド」(奥義書)などのヴェーダ文献がのこされた。なかで「サンヒータ」の最古の中心を占めるのが『リグ・ヴェーダ』だった。
 ヴェーダの宗教は33神とも3339神とも数えられる多神教だったが、この多神教は、たまたま讚歌の主題になった神がその讚歌の中で最大級の賛辞で称賛されるという多神教だったので、たんなる多神教ではなかった。19世紀の宗教学者のマックス・ミューラーは「交替多神教」と名付けた。なかなかうまいネーミングだった。
 とはいえ、その多神教を管理する階層がいた。ヴェーダは「知る」という語根から派生して「知識」を意味しているのだが、その知識を牛耳るのはもっぱら祭官階級のバラモン(ブラーフマナ)ばかりになったのだ。これがだいたい紀元前8世紀ころのことで、このバラモン層を中心に「業」や「輪廻」を知識として処理管理するという思想が芽生えていったのである。それとともにカースト(種姓=ヴァルナ)が組み立てられていった。

 アーリア人の祭官階級のバラモンたちが律していった思想は「ウパニシャッド」(「近くに坐る」という意味)として構築されていった。紀元前5世紀までを「古ウパニシャッド」期あるいは「ヴェーダンタ」期とよんでいる。
 ウパニシャッド哲学は「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を主張した。ブラフマン(梵)とアートマン(我)は究極的に同一(一如)であるというもので、この原理によって世界と人間と知識のあいだを詰めていったのである。
 マクロコスモス(梵)とミクロコスモス(我)を一体化するという意味では、「梵我一如」にはすばらしいロジックが芽生えたのであるが、しかながら、父系制とカースト制と知識管理を律するバラモンたちの社会は広がりを欠いていた。
 それにパンジャーブ(ドーアーブ)地方は小麦以外に収穫物が少なく、大きな王権国家を築けず、やむなく部族連合国家のような体裁をとるしかなかった。

 一方、これに対してガンジス中流域は米を中心に安定的な収穫物に富んでいた。そのためこちらには国家や富裕階層が誕生する余地があった。そこにバラモン支配やカーストに対する不満が立ち上がっていき、ガンジス型の新興勢力層となっていった。
 かれらは、バラモンだけに富が集中するブラフマニズムよりも新たな宗教文化を求めて出家して、いわゆるサマナ(シュラマナ=沙門=努め励む人)となることを好んだ。
 やがてそうした一群からいくつもの自由思想者が登場し、ジャイナ教の開祖マハーヴィラ(=ニガンタ・ナータプッタ)に代表されるような、独自の修行と思想を展開する活動が目立ちはじめた。人間は「おこない」が原因で、外部から「業」が魂に付着し、魂の自由を束縛して輪廻に陥らせるという見方は、マハーヴィラが最初に説いたものだ。
 このジャイナ教にみるように、かれらのグループはいずれも特色のある一派を築き、しだいに多様になっていく。のちの仏典では62もの流派が、ジャイナ典籍では363もの流派がつくられたという。まとめて「六師外道」などといわれる。
 そうしたサマナの中のひとつからゴータマ・シッダルタ、すなわちブッダが登場したわけである。

 今夜はブッダについてはごくごく簡潔にすませるが、カピラヴァストゥの王家に生まれてすぐに両親を亡くし16歳で結婚した王子シッダールタは、しだいに人生の無常を感じて29歳で出家すると、従来型のアートマン(我)が常住不変の自己の本体だという見方に疑問をもった。
 バラモンの教えに反発したのだ。そのため「非我」や「無我」を考えるようになり、世間や社会というものは「苦」で成り立っているという「一切皆苦」の見方をとった。これを仏教史に広げると「苦諦・集諦・滅諦・道諦」という四諦になる。ベナレス郊外の鹿野苑でブッダが最初に説いた説法(初転法輪)の中身も、このことだったといわれる。わかりやすくいえば「生のニヒリズム」を説いたのだ。
 やがてすべての現象の根源は「縁起」(相互関係)で成り立っているとみなしたブッダのもとに、だんだんブッダの人格を慕う者、その教えに帰依する者、その活動に寄進する者があらわれ、ここに原始仏教が芽生えた。仏教はサマナ(沙門)のような出家者によって唱導され、ガンジス型の富裕層の在家信者からのパトロネージュを受けつつ独特の集団を形成していったのである。
 たとえば、ブッダの教えに早くに帰依したカッサパ3兄弟、マガダ国王ビンビサーラ、祇園精舎を提供したスダッタ(須達長者)などは、いずれも大富豪か権力者だった。ブッダ自身はきわめて禁欲的であり、深い思索にも瞑想にも集中できた異能者ではあったけれど、その活動を支えたのはもっぱら富裕層や商工業者だったのだ。

 諸説はあるが、ブッダはおそらく80歳前後で亡くなった。敬して入滅(にゅうめつ)という。
 けれどもこの偉大なリーダーを失っても弟子(仏弟子)たちは弱体化しなかった。「サンガ」(僧迦=教団)を組んで、その教えを伝えることを誓った。ふつう、原始仏教教団とよばれる。このように仏教は、その最初からあくまで出家至上主義の教団によって進められていったのである。
 こうして王舎城に篤実な仏弟子たちが集まって、まずは第一結集(けつじゅう)が試みられた。合言葉に「一切皆苦」と「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の三宝印をおきつつ、ブッダが得意にしていた対機説法や応病与薬の成果と、それにまつわる言葉の数々が編集されたのだ。
 編集にあたっては晩年のブッダの説法をしょっちゅう聞いていた多聞第一のアーナンダ(阿難陀)や智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)がコアメンバーになった。これが“初期仏典”である。そのためこの時期の経典の多くが「如是我聞」(私はブッダからこのように聞いた)の言葉で始まっている。

 しかしブッダ入滅から百年もたってくると、さすがに教団内部に対立と論争が絶えなくなり、争点もあれこれ十指をこえるようになる。その争点を「十事」という。
 長老派は十事審査をしたうえで第二結集に踏み切るのだが、改革派はこれに満足せず分派することを選んだため、ここで守旧派(長老派)の「上座(じょうざ)部」と改革派の「大衆(だいしゅ)部」が大きく対立した。これがのちのちまで続く「根本分裂」である。
 これ以降、仏教は長いなが~い「部派仏教」時代に突入する。この部派仏教のストリームはのちに大乗派(大乗仏教)の連中から蔑称され、「小乗仏教」ともよばれた。
 部派仏教はマウリヤ朝のアショーカ王時代をあいだにはさみ、さらに「枝末分裂」していった。上座部は説一切有部(せついっさいうぶ)が主流となりながら、犢子(とくし)部・正量部・経量部・法蔵部などへ分化し、またセイロン(スリランカ)から東南アジアへの伝播とにおよんだ(テラヴァーダ仏教)。大衆部のほうは一説部・説出世部・説化部などの9部派などへ小さく割れていった。 

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初期訳経関係地図


  これらのなかでもっとも大きな潮流となったのは上座部系の「説一切有部」のエコールである。
 たいへん理論的なエコールなので多くの言説(エクリチュール)をもたらしているのだが、あえて一言でいえば「三世実有」「法体恒有」を主唱した。主観的な我は空であるが、客体的な事物や現象は過去・現在・未来の三世にわたって実在するという考え方で、それが人間存在においては「五蘊」(ごうん=色・受・想・行・識の5つの意識の集まり方)が瞬間瞬時に変化しながら持続されいく。そう、みなしたのだ。我空法有・人空法有、五蘊相続説などという。
 これに対して経量部や大衆部は「現在有体」「過未無体」を主張して、あくまで現在に重きをおいていった。この考え方はやがて大乗仏教のうねりとともにその中に組みこまれていく。
 けれども全体のストリームからみると、当面の流れは説一切有部の勢いがはるかに強く、また大きく、それゆえこの上座部系の小乗仏教的な理論や知識こそが五胡十六国やシルクロードの仏教思想を占めていくことになっていったのである。
 他方、東漸する仏教に対して、インドでは六派哲学に代表されるインド哲学が深まり、民衆にはバラモン教に代わって、その衣裳替えともいうべきヒンドゥー教が広まっていた。
 かくて、ここからはやや複相的になるのだが、1世紀前後におこる大乗ムーブメントが「般若経」「維摩経」「法華経」「華厳経」などの新たな“大乗仏典”のかたちをとるにつれ、またそこにナーガルジュナ(龍樹)の中論や「空の思想」の論述著作が加わっていくにつれ、そうした大乗経典や研究書が上座部系より遅れながらも西域や五胡に入って、相互に交じることになった。
 そして、その大乗著作群の西域流入期とちょうど相俟って、ここに安世高からクマーラジーヴァに及ぶ「仏教の中国化」(漢訳の試み)がさまざまなルートでおこっていったわけだった。
 本書にいう「仏教東伝」とは、ごくごくおおざっぱにいえば、まさに以上のことをさしている。

 さて、ここからはやっと本書の内容案内になるのだが、仏教が中国に伝わった事情は、金人伝説あるいは白馬寺説話と呼ばれてきた物語の裡にある。
 ある夜、後漢の明帝(在位57~75)が金人が空から宮殿に飛来する夢をみて、これはかねてから伝えられている西方の聖者が漢に来る前兆だろうと思い、使者を西域に遣わせた。使者一行は大月氏にいたって迦葉摩騰(かしょうまとう)と笠法蘭(じくほうらん)という二人の僧に出会ったので、使者たちは二人を伴って永平10年(67)に漢に戻った、明帝はこれをよろこび、洛陽に白馬寺を建て、経典の漢訳を要請した。このとき完成したのが『四十二章経』である云々‥‥という物語だ。
 伝承ではあるが、この話は中国仏教が独自の漢訳作業から始まったということをよく伝える。大月氏がクローズアップされているのも注目される。
 では、これらは伝承だけかというと、そうでもない。実際にも『三国志』魏志の注に『魏略』西戎伝の一節が引用されていて、そこには前漢の哀帝のとき(紀元前2年)、大月氏の使者の伊存が漢の朝廷で仏教経典の口授をしたという記述があり、この時期になんらかのかっこうで仏教初伝があったろうと思われるのだ。大月氏とは、漢の武帝の指示ではるばる西域に及んだ張騫(ちょうけん)が入ったクシャーン朝のことをいう(1425夜参照)。念のため。

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後漢明帝が夢に金人の姿を見(右)、西域に仏教を求めたという
「感夢求法」は、後世に至るまで仏教初伝の説話として流布した(『釈氏源流』)

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「白馬寺説話」に基づき、洛陽に建立された白馬寺


  中国はそもそも「文の国」であって「文字の国」である。いったん伝わってきた“文章としての経典”には異常なほどの関心をもった。
 加えて中国人にとっては、未知なるものはなにがなんでも既知なるものにならなければならなかった。
 ゾロアスター教は拝火教に、ネストリウス派のキリスト教は景教に、イスラームは回教に。いやいや、核実験もIBMもマイクロソフトも新幹線も‥‥まして仏教においてをや、なのだ。だからこそ、ここに訳僧や渡来僧の大活躍がおこったのである。
 かくして前夜(1429夜)にもあらかた紹介したように、初期のパルティア(安息)出身の安世高が後漢の148年に洛陽に入って『安般守意経』『陰持入経』などの説一切有部系の経典を訳出して以来、シルクロード経由の部派仏教(小乗)と大乗仏教の経典はほぼ同時に入り乱れつつ、中国化することになったわけである。
 とはいえ、この中国化は時まさに漢帝国が解体し、三国時代や五胡十六国時代などの、ようするに魏晋南北朝時代になっていた乱世中国での中国化だったため、初期中国仏教はおおいに混乱することにもなっていく。“いろんな中国化”が併存していったのだ。
 このように混乱しつつあった南北朝時代の初期中国仏教のことを、仏教史ではちょっと気取って「格義仏教」とよぶ。中国的な古典文化にもとづいた教理解釈法あるいは教義理解法による仏教といった意味だ。
 「教理」はギリシア哲学でいえばドグマのことで、明治時代の仏教学者がつくった日本版用語だが、インド仏教ではこれをもともと「教義」といって重視した。「教」が教えの方法で、「義」がその内容になる。また「教」は衆生(しゅじょう)のための具体的な教説だから「事」に属していろいろ変化するのに対して、「義」は普遍的な「理」(真理)そのものだともみなされた。
 ちなみにのちの華厳ではこの「事と理」をことのほか多用して、「教義理事」とか「理事無礙」とか「事事無礙法界」などと言った。
 こうした教義を仏教東伝の過程で、初期の中国仏教側が中国なりの教説に即して解釈しようとしたわけだ。それが格義仏教であった。

 中国に入った仏教はむろん漢訳された。「漢字の仏教」になった。仏教はついにインド・アーリア語から離れたのだ。それゆえ中国人は仏教の言葉を当初は儒教や老荘思想で受けとめた。当然だろう。
 そこで、たとえば「空」という概念を「本無義」「即色義」「心無義」などとしてみたり、たんに「無」としてみたりしていたのだが、そもそも中国は皇帝を最高権力者とする中央集権的専制国家であって、それゆえ儒教は国の現状や将来に資するか憂うかのものだった。儒学儒教のみならず、諸子百家のいずれもが、そういうものだった。これは、出家集団が担う仏教が政治を超えているという特色をもっていることとは、まったくちがう。
 そのため当初の漢訳経典を解釈していくうちに、たとえば「仁」や「礼敬」(らいきょう)や「気」をどのように仏教が扱っているかということが問題になってきた。そこでこれを調整しようとしたのである。それが「格義」というものだったのだ。

 そこへ、もうひとつの動向が重なった。
 魏晋南北朝時代の東晋に知識人が多く出て、かれらがもっぱら玄学に興じていたため、仏教教義が老荘に引っ張られていったこと(1427夜参照)、その余波でそのころ隆盛中だった道教の影響を受けたということだ。そのため仏教の教説と道教とが混淆したり、対立したりした。
 たとえば、安世高(あんせいこう)が訳した『安般守意経』には数息観や導引術めいた用語や「存思」「坐忘」といった荘子(726夜)の用語が多く使われていたし、仏図澄(ぶっとちょう)や曇無讖(どんむしん)は周囲からは仏教僧というよりもオカルティックな神異僧と見られがちだった。曇鸞が曇無讖の『大集経』の注をつくろうとして自分の病身を恐れ、長寿法を求めて道教の大家であった陶弘景のもとを訪れたことも、よく知られている。
 もっと極端なのは西晋の王浮が書いた『老子化胡経』で、これはなんと老子が夷狄の胡の地に行ってそこで胡の人々を教化するために説いたのが実は仏教だったというものだ。『老子化胡経』はいくつものヴァージョンも出回って、道教的仏教論を広げた。その逆に、北周ではそういう道教を非難する『笑道論』なども取り沙汰された。他方、仏教を弾圧したり排仏したりする動きも少なくなかった。
 いずれにしても、仏教の中国化には難産がつきまとったのだ。生みの苦しみでもあるが、それは仏教の歴史にとって必要なことだった。ここで大きな異文化トランスファーの問題と言語編集力の可能性が試されたのだ。
 とはいえしかし、こうした格義仏教ばかりが俎上にのぼっていたのでは仏教本来の独自性が損ないかねなかったので、ここについに道安(1429夜)が登場して大鉈をふるったのである。

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「導引坐功図」(名古屋市蓬左文庫蔵)
中国に古くからある道教的・神仙術的な養生術「導引術」に関する図
仏教の禅定との類似が顕著である。


  道安(釈道安)がふるった大鉈のことを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)という。
 道安以降もずっと続けられていく作業なのだが、何をしたかというと、おおむね以下のようなことにとりくんだ。
 第1には、中国に入ってきた経典があまりに前後無関係、軽重無頓着であったので、これをちゃんと並べ替える。第2にその場合、ブッダが成道(じょうどう)して涅槃に入るまでの45年間にどんな順で説法したかということを枠組みとする。そしてそこに中国的な仏伝解釈を加えていく。第3に、その仏伝の順にそって教時と教相をあきらかにできていければ、その原則から派生していったヴァージョンの教説をていねいに分類する。第4に、それらを通して中国語による仏教の根本真理と修行目的を明示していく。第5に、今後の漢訳にあたっては、以上のことが見えやすくなるような手立てを講じた翻訳作業に徹する。こういうものだった。
 第5点については、すでに道安が「五本失三不易」というルールをつくったことを、『羅什』(1429夜)のところで説明しておいたのでここでは省くけれど、そのほかの第1点から第4点までの教判(教相判釈)の作業は、まとめていうとこのようになっていった。

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西域の主な交易ルート


  これらの作業は道安、クマーラジーヴァ、その弟子の僧肇(そうじょう)、道安の弟子の慧遠とその弟子の慧観らによって組み立てられた。道安教団がだいたいのお膳立てをしたとみればいい。

 お膳立てをかんたんにいうと、ブッダの説法を5つの段階で分け、それを「頓教」(とんぎょう)と「漸教」(ぜんぎょう)に振り分けたのだ。
 その場合、頓教を華厳経としておいて、そのほかを漸教とした。そして漸教に阿含経などの三乗別教、般若経などの三乗通教、維摩経などの抑揚教、法華経などの同帰教、涅槃経などの常住教をあてはめた。
 もっともこれは5世紀に慧観がまとめたプランAのほうで、その後のプランBでは、漸教を人天教(提謂経など)、有相経(阿含経など)、無相教(般若経など)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の5つに分かれている。
 ようするにブッダがどのような順に教えを説いたかと決めることが、経典のテクスト解釈を浮き立たせることになるという、そういう教判なのである。
 この作業はさらに隋唐に向かって、天台宗によって「五時」説と「八教」説というものに組み上げられ、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時と、化儀の四教(頓教・漸教・秘密教・不定教)および化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)の八教(教え方の分類)として定式化されていった。まとめて「五時八教」という。
 そのほかまだいろいろの教判があるが、その多くは唐仏教界でのことになるので、これまた今夜は省く。

 ではここからは、本書の白眉ともいうべき菅野博史(創価大学教授)の第3章「東晋・南北朝の仏教との思想と実践」と、沖本克己(花園大学名誉教授)の第6章「経録と疑経」を、少々かいつまんで案内したい。
 道安については前夜を含めて何度か書いてきたのでいいだろうが、あらためて強調しておきたいのは、中国仏教がクマーラジーヴァ(1429夜)期の一連の漢訳経典によって面目を一新したのは、道安の力によるところが大きかったということである。
 そういう道安に影響をうけたのはシルクロード僧だけではなく、当然ながら中国僧も多かった。その一人に慧遠(えおん)がいた。道安の教相判釈を継いだ一人は慧遠だったのである。
 道安が43歳のときに弟の慧持とともにその門に学んだ学僧だった。しかし前秦の苻堅が道安を長安に連れていったので、そこで独り立ちをして廬山に入り、修禅道場(仏影窟)と念仏道場(白蓮社)をつくった。これはのちの中国禅や中国浄土教の原型になる。
 慧遠は最初はアビダルマ(阿毘曇)に熱中したのだが、やがて格義仏教の限界をおぼえて、そもそもブッダが挑んだ輪廻と因果応報の問題とはどんなものだったのかという問題にとりくんだ。これは慧遠なりの教相判釈だったし、古代インドがアーリア人の思想になって以来の根本問題でもあった。そのことについてクマーラジーヴァとの詳しい問答も交わした。

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クマーラジーヴァと弟子たちによる訳業の様子(『釈氏源流』)


  ところで実は、中国人が仏教に関心をもったのは、中国人が長らく徳と福の矛盾や過去・現在・未来(三世)にまたがる報恩がありうるのかという問題に悩んできたからだった。
 現世において積んだ徳は死後の福につながるのかという悩み、また、因果応報は三世(さんぜ)をまたぎうるのかという悩みだ。これは、すでに述べてきたように、インド古来の業と輪廻の問題だった。
 中国人は業と輪廻を考えるなどということをしてこなかった。かれらにとって大事なのはあくまで「仁」や「孝」や「気」や「義」であった。まとめていえば五常であった。ただし、そこには徳や福や報恩をもたらせるのかどうか、個人がマスターした五常を生死をこえて伝えられるのかどうかという解答はなかったのだ。
 しかし、いよいよ中国人が本気で仏教を受け入れようとするなら、この問題は避けられない。避けられないどころか、このことがわかれば中国人の思考の矛盾の悩みを仏教で解決できるかもしれない。こうして慧遠は、かつてブッダがそこを正面から考え抜いて解脱したのだとしたら、その問題にこそ自分も向き合おうと決断したのである。
 慧遠は仏教経典を調べ、『三報論』を著した。インド人であれ中国人であれ、人間にとって業(ごう)は必ずついてまわる。けれども現世で報を受ける現報、来世に報恩がやっくる生報、その両方をつなぐ後報というふうに、業というものを三種に分けて考えてみれば(これを三報といった)、これらの業に心が感応するはたらきにズレがあるのだから、報においても軽重がおこると見たほうがいい。ということは、中国の仏教解釈では、因果応報が三世(過去・現在・未来)にまたがるとしても、そのズレをいかせば対応できる。
 ざっとはこういう教判をしてみせたのだ。これらは「三世輪廻論」の問題として本書では扱われて、これに慧遠だけではなく孫綽(そんしゃく)や慧遠の弟子の宗炳(そうへい)などもかかわっていたことが説明されている。
 なお慧遠については念仏道場の白蓮社を拠点に、阿弥陀仏を本尊とする念仏三昧と浄土往生が特筆されるのだが、これはのちの唐時代の善導(613~681)がそこに「他力」を加えていった発展系とは異なっていることを付け加えておきたい。法然(1239夜)、親鸞(397夜)による日本浄土宗は善導のほうの系譜にあたる。

 道安、慧遠とともにもう一人フィーチャーをしておきたい僧がいる。廬山の西林に7年間を過ごした道生(?~434)である。
 道生は慧厳、慧観とともに長安に入ってクマーラジーヴァの薫陶もうけた。その後、建康に行き、20年ほど龍光寺に住した。『五分律』を翻訳したり、法顕(ほっけん)がもたらした梵本を『泥浬経』(ないおんきょう:浬のツクリは亘)6巻として訳出したり、『法身無色論』を書いたりした。
 その道生を特色づけるのは、第1には「一闡提(いっせんだい)は成仏できる」と主張したことにある。一闡提というのはサンスクリット語のイッチャンティカを音訳した言葉で、漢語の意訳では「断善根」「信不具足」などとなっているが、この字面でも憶測できるように、仏縁から見放されている者や善根をもっていない者をいう。つまりは成仏の機根がない者のことをいう。にもかかわらず道生はそんなことはないと主張した。
 たとえば『涅槃経』には一闡提は不成仏者と規定されているのだが、よく読むと最終的には仏性(ぶっしょう)をもつと書いてある。それなら一闡提も成仏できるのではないかと道生は考えたのだ。
 イッチャンティカの問題は仏教史においては難問である。のちの唐仏教界で天台宗と法相宗と華厳宗との意見が分かれたのも、この問題だった。だから道生がこの時期に早くも一闡提成仏説を唱えていたということはまことに驚くべきことで、それが道生が建康の仏教教団から排斥されてしまったことを含め、きわめて独創的であり、また判釈においてそうとうに勇敢であったというべきである。
 ちなみに、ぼくにイッチャンティカの問題を教えてくれたのは西田長男センセーだった。西田センセーは日本で唯一の神道学を切り拓いた方であるが、仏教におけるイッチャンティカの問題は日本神道における「よさし」と同じ問題に属するということを指摘されていた。その後、このことは何度も鎌田茂雄センセーにも教えられた。いずれ千夜千冊したい。

 第2に、道生には「理」と「悟り」をめぐる推察の独創性もあった。これは『涅槃経』の注解を通して披露した思想で、「理」は作為されたものではなく真そのものとなりうること、および、そのような「真なる理」には変化しない本体が宿るということを説いていた。ここには古代ギリシア以来の西欧哲学に匹敵する“理法”が芽生えている。
 第3に、道生は他に先んじて「頓悟論」も説いた。悟りはくねくねと得られるものなどではなく、どこかで一挙に加速して得られるものだという説だ。漸悟を退けて頓悟を示した。
 これはのちの禅宗が重視した“禅機”のようなものを早々に提案しているもので、同時代の謝霊運はおおいに賛同して『弁宗論』を著したほどだったのが、やはり早すぎて周囲からの理解は得られなかったようだ。しかしぼくは、のちのち中国がインド仏教には見られなかった禅思想を展開できたのは、道生のような思想が魏晋南北朝期に先行できたからだと思っている。つまり中国人にひそむ“感応思想”は、道生によってこそ刺激されたと見たいのだ。

 ざっとこんなところが道安、慧遠、道生が先駆した中国仏教の特色であるのだが、もうひとつ、中国仏教に顕著なことが魏晋南北朝時代に始まっていた。それは「疑経」(偽経・擬経)がつくられていったということだ。
 仏教の典籍は「三蔵」によって分類される。経典・律典・論典である。ブッダの説法は結集(けつじゅう)のたびに、三蔵として編集されていったとみるわけだ。
 しかし中国では、さまざまな時期にさまざまな地域で作成された仏教典籍がランダムな順に漢訳された。そこで教相判釈とともに「経録」(きょうろく)が試みられ、目録の整備とアーカイブの整理が必須になった。ところが、あろうことか、そこにかなりの疑経が交じったのだ。
 疑経には、①仏教を儒教と道教と比較したもの、②権威のために書かれたもの、③俗信を仏教のレベルに引き上げるために著述されたもの、④インド思想を脱するために書かれた中国独自のもの、がある。かくて代表的な疑経だけでも、『金剛三昧経』『首楞厳経』『仁王般若経』『法王経』『十王経』『父母恩重経』などが執筆された。
 ぼくはこれらが疑経だと知ったときはびっくりした。よくぞこれらを著作したとも思った。中国というのはけっこう勝手なことが許されるのだとも感じた。もっとも実際には、疑経はのちの中国仏教界では厳しく点検され、排斥されて、それゆえ「一切経」(大蔵経典集)の整頓がすすむにつれ、すべて葬り去られていくことになる。
 しかし、いちいちホンモノとニセモノを区別していくことが、中国仏教にとって時間をかけるべきことだったのかどうかというと、いささか気になる。よくよく考えてみると、こうした疑経をつくりだしたことこそ中国仏教の面目躍如だったともいえたからだ。
 ぼくがこんなことを感じるのは、そもそも仏典にして、すでにオラリティの中にあったブッダの言葉を独自にリテラルに編集したものだったという思いがあるからだ。これはパウロやペテロによって新約聖書が編集されことにも言えることで、とくに仏典や経典だけに言いうることではないけれど、つねづねぼくの念頭から離れないことなのである。

 と、まあ、こんなところが本書から抽出しておきたかったことだ。これまでインド仏教からシルクロードをへて中国仏教に至った流れを説明してこなかったので、やや煩雑な案内になったけれど、これでインド哲学、東南アジア仏教を除けば、なんとかつながった。
 ちなみにいま、ぼくはNHK出版の『法然の編集力』(仮題)という一冊を準備しているのだが、中国仏教のこのあとの流れが朝鮮半島をへて奈良・平安の仏教になっていく転変を想うと、実は前途遼遠という気にもなってくる。まして、それを“天台の陸奥(みちのく)化”にまでつなげるには、十日十夜のぶっつづけの話が必要になる。

 

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セイゴオ・マーキング(本書の目次)

 

 





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